大 中
天に宝を積む
私たちは、なにかに時間とエネルギーを注ぐ。小さな子供の時は、単純に次々と手当たり次第にさわったり、動かしたり、壊したり、水や泥があったらそんなものでも使っていろいろな遊びをする。
そのような幼児のときには、たくわえるということはあまり見られない。
しかし、少し成長すると、友だちとの交流が増え、勉強やスポーツ、ゲームなどさまざまの遊びなども始まる。
そうした行動には、なにかを集めること、大事にすることが増えてきて、たいていの者は自分の宝物のようなものを持つようになる。
それは、子供のときは、ちょっとした玩具や飾り、切手、小物であり、少し大きくなるとゲーム機とか遊具になり、さらに学校に入ると、友人が宝物のようになる人もいるだろう。家族、とくに母親が自分の宝だという場合もある。
また、自分の成績やスポーツの能力、絵画、音楽などの能力を宝として重視している人もいる。
そして、成人すると、周囲の人達から、あるいは職場での評価が宝となる場合も多いし、恵まれた家庭なら、その家庭が宝となる。
大多数の人にとっての第一の宝は、健康であると思われる。また相当数の人にとっては、それは、お金であるだろう。その二つがあったら、何でも自由にできると考えられているからである。そして、金があっても健康で有りうるとは限らないが、健康であったらお金も何とかなる、ということからは、健康第一ということ、言いかえると健康こそ最大の宝だということは自明のことと考えられている。
また、この世は、地上の宝、その最もはっきりしたかたちであるお金の争奪ということで、いろいろな出来事が生じている。経済問題ということは毎日のニュースで必ず言われている。株価のニュースや、日本だけでなく、アメリカ、中国やインドの経済状況といったことは、毎日のようにニュースに出てくる。これらは要するに、金の争奪ということである。携帯電話とかパソコン、自動車などは、激しいモデルチェンジがなされている。そうしなければ、競争に勝てない。売れなくなる。つまり金が入ってこなくなる。そうなると従業員も解雇、会社も倒産ということになる。
国家同士で、こうした地上の宝である金やそれと深く関わる資源、エネルギー、領土などの問題が最重要問題となることが多く、それが戦争の原因となって、おびただしい人達の命が失われ、家庭が破壊され、多くの人の体が傷つけられて生涯苦しみを負っていかねばならないようになってしまう。
また、他人の評価というものを宝とする(重要視する)ことも多い。認められなかった、ということはそうした評価が壊されたということであり、宝が失われたために打撃を受ける。
人間関係のさまざまの問題は、地上のものを宝とするところにあるのがわかる。
こうした人間のだれでもがかかえている問題の根本的解決の道を、キリストは明確に、しかも分かりやすい言葉で語られた。
…あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。(マタイ福音書六の一九〜二〇)
(*)天に宝を、という箇所を、新共同訳では、天に富を…と訳している。原語のギリシャ語では、「宝」は、セーサウロス thesauros で、大多数の英語訳などの外国語訳も、
treasure(宝) と訳している。 新共同訳でも、東の博士たちがイエスの誕生のときに持ってきたのは「宝の箱」であったが、この箇所では 宝、と訳している。
なお、この 英語の treasure という言葉自体、ギリシャ語の thesauros が語源となっている。 これがラテン語に入り thesaurus
となり、大衆のラテン語(Vulgar Latin)で、tresaurus となり、そこから フランス語に入り、さらに英語の treasure
となった。
このイエスの言葉の直前に、断食のことが書いてある。断食は当時は重要な宗教的行為であった。
例えば、モーセは四〇日も断食したと記されている。それは民の犯した罪のゆえであった。(申命記九・十八)また、ベニヤミン族の罪のために、人々は深い悲しみをもって断食した。(士師記二〇・二六)また、預言者サムエルも人々の罪のために断食をしたことが記されている。(Tサムエル七の六)
そのように、断食をしていることは、宗教的に熱心な行為であることとされていたから、くらい表情をして自分は断食をして熱心な宗教者だ、ということを評価してもらうために断食している、ということがなされていた。
このように、人の評価を宝とする考え方から断食をしても、神の前には無意味であるばかりか、かえって裁きを受けることになる。宗教的なことを、自分の評価を得るためにしているのであり、神を自分のために利用しているといえるからである。
それは地上に宝を積むということにほかならない。
それゆえに主イエスは次のように言われたのであった。
…また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。(マタイ六の十六〜十八)
断食をするとしても人にわからないようにして、真剣に悔い改めの祈りを捧げ、他の人のためにも、神の国を願い続ける、病気の人のため、苦しむ人のためにも祈りを集中させるということこそ、天に宝を積むことになるのだということなのである。
ここで主イエスが言われたこと、私たちが何かよきことをするのは、「隠れたところにおられる父なる神に知っていただくため」である。隠れたところにいます神、というのは、目には見えないお方、ということであり、人の評価を考えてするのは、目に見える人間のことを考えているので、それでは祝福はない、それは地上に宝を積もうとしていることだからである。
天に宝を積むとは、神に知っていただくためにという心でものごとをなすことである。もし自分が他人からよく思われたい、という心でするなら、そのような不純な心を神はすべて見通しておられるのであって、そこには何も祝福はない。むしろそれはさばきを招くことである。
神は、私たちの魂の父であるのだから、愛と真実をもって見つめて下さっている。その父なる神に知っていただくということは、ある意味では最も簡単なことである。
人に知られて評価されるということはなかなか大変なことである。まず健康、そして時間や能力、お金なども必要になることが多い。世の中で多少とも知られている人、小さな会社や学校などの組織の長にしても、ほとんどこうしたものを与えられているからその組織のトップになって知られるようになっている。
しかし、どこにでもいて、愛をもって見つめて下さっている霊的な父である神に知っていただくためには、そうしたものは何も必要でなくなる。
主イエスが、神に向かう本当の心(礼拝)は、「霊と真実をもって」なされると言われた。 (ヨハネ四の二三〜二四)
それゆえに、人に感心されるような目立った行動である必要はまったくないのであって、真実な心で、他者のために祈るなら、それこそは天に宝を積むことになる。そのような心を神はみていて下さるからである。
とくに自分に対して不当な言動(中傷やいじめ、差別)などをしてくる人に対してうらみや憎しみを持って対するなら、それは地上に宝を積むこととは逆にみずからの魂をも害することになり、相手にも周囲にも何もよいことは生じない。憎しみは魂にとっての毒のようなものであるからだ。
もし、そのような相手に対しても、主イエスが言われたように、その人から悪の力が除かれるようにと祈るならば、それは天に宝を積むことになる。そのような心こそ父なる神が知って下さり祝福して下さるからである。
また、さまざまの出来事を主が背後で最善になしてくださっていると信じて感謝し、喜ぶこと、またそのようにできるために祈ること、それも神が望んでおられることである。(Tテサロニケ五の十六〜十八)
神が望まれることをするのは、神がすぐに知って下さる。たった一人の心が今まで自分中心であったことに気付き、神に方向転換すること、それを神の天使たちが喜ぶし、そのような方向転換をする必要がないと思っている人よりも、大きな喜びが天にある、と主は言われた。(ルカ十五の一〜十)
日々の生活で絶えずこうした神に心の方向を向け変えて、万事を神からのよき目的があるのだと信じて受け取るとき、それもまた天に宝を積むことになる。
常に喜べ、祈れ、感謝せよ、それは自然のたたずまいに触れることが容易な田舎の地方では、そうした自然の姿に心の目を開いて接するだけでも、神からのメッセージがさまざまに感じられて、感謝し喜ぶことができる。
水仙や梅の花のすがたと香りに接し、その気品あるすがたを見つめていると、それは一種の霊的な音楽だと感じる。神の創造されたものに神の力と美、万能を感じ取り、神に感謝と賛美の心を抱くとき、それもまた天に宝を積むことなのである。
満員の電車に揺られているとき、何もできないが、そうした無数の未知の人たちのために祈ることはできる。街路を通るとき、病院の建物を見て、そこにいるたくさんの苦しむ人たちへの祈りを持つこと等々、もし私たちが少しでもそのようなことができるなら、それも天に宝を積むことである。
このような毎日の生活の小さな場面で、天に宝を積むことはいくらでも可能だとわかるし、そのようにしている人はとくに晩年になってくるとその表情やまなざしにも、生まれつきの容貌とは異なる独特の清さや明るさを現すようになる。
逆に、地上の宝を追い求めていたり、それを積むことに心を注いでいる人の目からは、清らかさが失われていくことは何となく誰もが感じているであろう。
主イエスは言われた、「宝のある所に、あなたの心もあるのだから。」(マタイ六の二一)
私たちが天すなわち神のところに大切なものを置こうとするなら、つねに私たちの心は神のところにある。地上の仕事をしながらも、神のところに心を置いてなすことができるし、そうなれば日々天に宝を積みつつ生活がなされることになる。