リストボタン理想と現実

私たちの生活のなかで、理想と現実とは違うとか、理想的な人、理想的な状態…とよく使われる。そして実現はできない、ということと理想ということとがよく結びつけられる。
このように、理想という言葉は、よく耳にしたり、見かけたりするなじみの深い言葉である。
しかし、意外なことに、聖書においては「理想」という訳語は一度も使われていない。これは、日本で最も広く用いられている、新共同訳、新改訳、口語訳の三種の日本語訳聖書においても共通して、一度も使われていないのである。
心や精神的な問題にかかわるとき、または思想的問題を議論するときなど、理想と現実といったことは古くからしばしば議論になった。理想という言葉は、そのように重要な言葉であるのに、なぜ、聖書は精神や思想にかかわる最も重要な書物であるのに、理想という言葉が一度も現れないのだろうか。
それは、聖書、キリスト教においては、完全な理想とは神であり、キリストだからである。そして、現実とは、この世であり、罪である。
このように、使われている用語が異なるだけで、理想(神、キリスト)と現実(罪)はきわめてしばしば現れるのである。
このことから、一般的な考え方から大きく異なってくる。
普通の日本人の考え方は、理想と現実とは違う。完全な理想など現実にないし、実現不可能なことだ、と思っている。
しかし、聖書においては、完全な理想はないどころか、永遠の昔からずっと存在しつづけ、現在も存在しているのである。
そこから、理想は現実のただなかにおいて働くと言えるのである。神ははるか昔から、完全な正義と真実、そして慈しみの満ちた存在であり、それこそは人間の究極的理想である。その神が二千年前に人間の姿をしたキリストにすべての力を与えて地上へと現れさせた。、完全な神性を受けているお方が、人間の姿をもって現れた。それは罪深く、弱くてもろい人間の現実のなかに、理想が溶け込んだ歴史上で初めての例となった。
私たちの心が汚れのない清い状態であること、愛に満ちた、真実なものであることは理想である。しかし、現実はそれとはほど遠いものでしかないことは、だれでもわかる。
そして現実の心の状態がいつまで年齢を重ねても理想とははるかに遠いのがわかってくる。それは、理想というものは、私たちの精神が少しでもよくなると、一層より高いあり方が見えてくるからであって、ちょうど、山を登っているとき、登るほどより高い嶺が見えてくるのと似ている。山の場合は三千メートルの山であっても、何時間も登っているとそのうちに頂上が見えてくるし、そこに達することができる。
しかし、精神的な世界においては、地上の人間が、高く登ったといってもその向こうにはどこまでも高い世界が存在している。
例えば、完全な愛とは、無差別的に、だれにも広がるものであるから、それはキリスト者の集まりに加わっている人たちからその家族、さらに職場や近所の人、そして道路や通勤で出会う人たちもすべて含むことになる。それで終わることなく、その地域全体の目に入る建物にいる人々、ほかの府県、さらには日本以外の人たちへの愛…とはてしなく広がっていく。そのような無数の人たちへの愛というようなことは、人間には事実上不可能なことである。言いかえると愛の世界は無限に高く広い。
それゆえに、愛を完全に持っているという理想の状態は有り得ないことになる。
人が心に思ったり考えたりすることを、他人の前では出せないようなことがたくさんあるだろう。人間の心には、さまざまの不純な考え、不正な思いなどが生じてくるものだからである。他人への憎しみ、敵対心、ねたみ、自分中心の思い、欺き、物への執着等々…そうした現実を思うとき、あまりにも理想のあるべき姿とはかけ離れている。
けれども、その無限の隔たりがあるところに橋をかけて、理想と現実の罪深い本質を結びつけて下さったのが、キリストであった。汚れた罪深いものであるにもかかわらず、その罪や汚れを清めて下さるなら、それは理想のあるべき姿になったことになる。それは自分の考えや努力といったことではどうにもならないことはだれもが思い知らされていることである。
そこに無限に隔たりのあるはずの理想のあるべき姿に達することができるという、思いもよらない道がある。それが、キリストが十字架によって私たちの罪を身代わりに背負って死んで下さった、ということである。
永久に達することのできない理想が、ただ信じるだけで、与えられて実現する、ということは、驚くべきことである。
新約聖書には、「キリストを信じる信仰によって義とされる」という表現になっている。これは、旧約聖書における表現をそのまま用いている。旧約聖書に、「アブラハムは主(神)を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五の六)とある。そのことから、パウロは「キリストを信じる信仰によって義とされる」ということを強調している。(新約聖書 ローマの信徒への手紙三〜五章)
義とされる、という表現は、キリスト教しか使わない用語であって、一般の日本人にとってはその意味が分からないであろう。こういう表現は新聞や雑誌、テレビなどでも聞いたことがないのであって、日本語としてはまず使わないからである。
しかし、本来達成できない理想が、ただ信じるだけで与えられる、現実になる、ということなのである。
キリスト教は、理想と現実の間の限りないギャップをただ信じるだけで一挙に埋めるはたらきをしてきたと言えよう。
実際の生活では、愛もなく、正義や勇気もなく、信仰を持つ前とあまり変わらないという事実がある。だから、信仰を持っても変わらないではないか、と反論する人も多いであろう。しかし、信じる人が真実に信じているほど、その人の心の中においては、その罪深い現実のただなかに、主の御声があって、あなたは赦された、きよくしたのだ、と語りかけて下さる声のようなものを感じる。
すなわち、信じる人の魂の内において清められた状態という理想が実現したことであり、理想が現実になったことと言えるのである。これは、その赦しの実感を与えられていない人にはどうしても分からないことである。それがわかった人はキリスト者になったということになる。
こうした、理想と現実が一つになる、という不思議なこと驚くべきことは、新約聖書に多く記されている。
死なないということ、永遠の命を持つことは、究極的な理想である。いや、死んでしまうことが自分の願いだ、という人もいるかもしれない。しかし、そのように死にたいと思うのは、病気や老年のさまざまの苦しみや貧しさ、孤独、人間関係の苦しさ、いじめ等々のゆえであって、そうしたものがなかったら、だれでも死にたいとは思わない。
この究極的な、命が永遠に続くという理想は、ふつうの意味では、もちろん不可能である。しかし、この理想は、実現している、誰にでもただ信じるだけで与えられるというのが新約聖書の示すところである。
…はっきり言っておく。(*)
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ五の二四〜二五)
(*)「はっきり言っておく」という原文は、アーメン、アーメン レゴー(言う) ヒューミン(あなた方に) であって、これから言うことは真実なことだ、ということを強調して二度繰り返しているのである。それゆえ、文語訳は、「誠にまことに汝(なんじ)らに告ぐ」と訳され、新改訳も「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」、塚本訳、岩波書店の訳も「アーメン、アーメン」と原語のままにしている。
新共同訳だけが、「はっきり言っておく」という訳語を採用しているが、これは、ニュアンスが異なってくる。例えば、学校などで、生徒が、小さな声であいまいに言っていたら教師は「はっきり言いなさい」と言うであろう。これは、重要性とはかかわりないことである。(外国語訳でも、clearly I say to you のように訳しているものは皆無である。)
このアーメンという言葉は、それと語源的に共通の言葉に、旧約聖書でとくに重要な言葉の一つである、「エメス」(真実)という言葉があり、「真実」というニュアンスを持っている。それゆえ、英語訳でも、次ぎのように 真実という意味を持たせ、さらにその強調表現で訳しているのが多い。その英訳のニュアンスをとって和訳したものを付けてある。
・Very truly, I tell you, (NRS)(非常に真実なこととして、私はあなた方に言う)
・In all truth I tell you(NJB)(ゆるがぬ真実として 私はあなた方に言う)
・Truly, truly, I say to you, (NAS)(確かなこととして、真実に私はあなた方に言う)
・I tell you the solemn truth,(NET)(私は厳粛な真理をあなた方に告げる)
このように、死なないというのは単なる実現不可能な理想であったにもかかわらず、ヨハネ福音書ではとくにただ、イエスを信じるだけで死なない者、永遠の命を持った者とならせていただけること、死んでいるに等しい者が、神の子たるキリストの声を聞くだけで、命を与えられて生きるようになる、ということが強調されているのである。
この箇所には、短い二節の中に「真理(真実)を言っておく」という意味の言葉が二度も繰り返されている。これはいかに、このことが重要であるかを示すものである。
これは、単なる理想であり、夢であった永遠の命ということが、現実のものとなって、だれでもがそれを与えられるという革命的な新しい時代になったのだ、ということを強く神より示されたからこのように表現されているのである。
また、次の箇所も同様である。
…わたしは命のパンである。
これは、天から降って来たパンであり、これを食べるものは死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(ヨハネ福音書六の四八〜五一より)
どんな食べ物を食べてもみな、死んでいく。死ぬということは苦しみと闇を思い起こさせる上に、空しさを生み出す。死に対しては、いかなる権力者もどうすることもできないことを知らされるから、権力にしがみついていたい者は、不死を求め、仙人(高い山の上などに住んで、不老不死とされる)伝説のようなものに中国の古代の人もあこがれたことが歴史書に記されている。(*)
(*)中国古代の秦の始皇帝は、家来たちに仙人の不死の薬を求めさせた。どうしても見出せないので、家来たちは、人間は悪気が去れば天地とともに永遠になる、と言い、そのために自分がいるところを知らせないようにして、悪気を追いだせば不死の薬が得られると進言して、皇帝もそのようにして得ようとした…等々のことが記されている。(「史記・始皇本紀第六」筑摩書房版五二〜五四頁)
死ぬことなく、健康で、祝福された状態で永遠にいられるのなら、誰しもそのような状態を求めるであろう。私たちが地上で経験する最も喜ばしいとき、清い心でいられるとき、新鮮な力に満ちた状態が続くのなら、それこそが究極的な理想である。そんなことが有り得ないと思うからこそ、はじめからそれは単なる夢だとみなしてしまう。
その夢のようなことが、事実だれでもに与えられるということを、先ほどあげたヨハネ福音書の箇所は告げているのである。
キリストこそ、このような理想と現実が完全に一つになった存在であった。現実の人間世界の汚れ、悪に覆われた状態にあって、そのただなかにキリストは光として来られた。そしてご自身も現実の人間としての苦しみや悲しみを深く持っておられた。それは十字架で殺されてしまうということこそ、何よりも厳しいこの世の現実を我が身において体験されたのであった。そしてその十字架で釘付けられた恐ろしい苦しみのゆえに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という血を吐くような叫びをあげられたのもこの世の現実を全身でになわれたためであった。
しかし、他方で、そのキリストが、「すべては全うされた」と言われて息を引き取られたのである。そして、死に打ち勝ってよみがえられた。このことは、正義の力に満ちていたこと、永遠の命を持っておられたことをはっきりと証しすることになった。
このように、キリストこそ、理想と現実を一つに溶け合わせた存在であった。
私たちも、このキリストに従っていき、キリストなるぶどうの樹につながっているときには、理想と現実が一つになった状態を実感できるようにしてくださっている。
そして、私たちの周囲の自然の世界は、理想と現実がうるわしい形で一つになった姿そのものである。美しさとか清いこと―人間には到底有り得ないようなものが、現実に見られるのが自然の世界である。
自然の例えば野草の花の美しさに接するとき、それぞれが独自の繊細さ、美しさを持っているゆえに、それは理想的なものである。野草の花に接して見つめていると、それから何一つ取り除くものもなく、付け加えるものもないのに気付く。人間が描いた絵は、いくらでもあとから付け加えたり、除いたりしなければならない。
小鳥の鳴き声も同様で、コマドリやウグイスのような美しいさえずり、またホトトギスやイカル、サンコウチョウ(三光鳥)などは別な印象的な鳴き声を持っているなど、その個性的な鳴き声は比類のないもので、これもまた付け加えたりカットする必要がない。
私たちも、理想には無限に遠いような者にすぎないが、ただ神の愛を信じ、キリストが私たちのために死んで下さったと信じるだけで、本来は達成不可能な理想でしかなかった清めを受けることができる。
現実の醜さやはかなさ、また混乱した状況ばかり見ているとき、私たちの力は失せていく。そしていつのまにかそうした汚れたものが入り込んでくる。私たちが神の国への道を歩むためには、理想そのものを見つめ、さらにその理想的実体を私たちの内に取り込むことが不可欠である。
主イエスが、私を信じる者には、私は彼らの内に留まるし、彼らは私の内に留まる、と約束して下さっている。私たちは、理想である星を見つめるだけでなく、その星を私たちの内にもつねに留めていることが与えられているのである。

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