大 中
人の言葉、神の言
―詩篇 第十二編
主よ、お救いください。(*)
慈しみに生きる人は絶え(**)
人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(***)(二節)
人は友に向かって偽りを言い
滑らかな唇、二心をもって話します。
主よ、すべてを滅ぼしてください 滑らかな唇と威張って語る舌を。
彼らは言います。
「舌によって力を振るおう。
自分の唇は自分のためだ。
わたしたちに主人などはいない。」
(*)主よ、お助け下さい、この言葉は、ヘブル語では、ホーシーアー ヤハウェ である。 ホーシーアーとは、新約聖書で、イエスがエルサレムに入っていくときに、民衆が「ホサナ、ホサナ」といって歓迎したときの言葉も、これと同じで、ホーシーアー
ナー(今、救ってください!)→ホサナ となった。ホサナももともとは、このように、切実な救いを求める叫びであったが、後に意味が変化して、歓迎の叫びのようにも使われるようになった。
(**)新共同訳で「慈しみに生きる人」とあるのは、ヘブル語で ハーシィド で、これは ヘセド(慈しみ、真実な愛)と語源的に共通しているので、新共同訳では、「慈しみに生きる人」と訳されている。口語訳では「神を敬う人」、新改訳では、「聖徒」などと訳されている。英語訳では、loyal
(忠実な)とか、godly man(神を敬う人)などと訳されている。
(***)「信仰のある人」とは、 エームーン で、アーメンとか、エメス(真実)と語源的には同じ言葉。口語訳では、「忠信な者」、新改訳では「誠実な人」などと訳されている。
ここで言われているのは、人間の言葉がいかにまちがっているか、悪意や不真実に満ちているか、という深い苦しみの経験である。親しい者同士であっても、表面だけはとりつくろって聞こえのよい言葉を使うが、心の中では、深い悪意を持っている。
ここで言われているのは、「信仰のある人がなくなった」というより、注で書いた他の訳のように、真実な心をもって語る人、人と交わる人がいない、というこの世の実体についても深い悲しみである。
主イエスも、人を汚すのは口から入る食物でなく、口から出る言葉である、と言われた。不真実の心から出た言葉は、それを聞く人の心をも汚す、害悪を与えるというのである。
漢字の語源辞典によると、「信」という漢字もその意味は、 人偏に言葉 で、その語る言葉と、その人が一致している、すなわち真実な状態を指すとされている。
言葉の不真実、それはすでに人間の最初のときから始まっていた。アダムは、エバの誘惑に負けて、神から食べてはいけない、といわれていた木の実を食べてしまった。それが発覚しても、自分の罪を認めようとせず、他人のせいにしようとした。
この詩は「人の言葉と神の言葉」ということがテーマとなっている。
この二つのことの対比を言っている、そこに集中した詩である。
人間の言葉と神の言葉というものがどれだけ違うかということを、この詩人は自分の経験からこれだけの短い内容に圧縮している。
この詩は、まず「主よ、お救いください。」と苦しい叫びから始まっている。だいたい旧約聖書の詩というものは、普通の日本の和歌や短歌と非常に違うのは、普通の詩の場合は単に山の桜や風に触れて趣があるとか、好きな人がいるとかいうようなことで歌を作ることが多く、生きるか死ぬかというように追い詰められた状況からの作品というのはごく少数であろう。
金と余暇が十分にあるようような貴族的な生活をしている人たちが作ったようなものが多い。けれども聖書の詩というものは、全くそれとは違っている。敵に追いつめられ迫害されたり、人間からの憎しみや悪意による苦しみ、また病気や貧しさなど生活の苦しみのさなかにあるなどのために、いますぐに助けが欲しいという人たちによるものが大部分である。
だから、どうしようもない苦しい状況の人が詩篇を読むと、すぐに分かるということがある。苦しい経験が全くないという人にはなかなか分からない。実際のところ、本当に苦しくなったらいろんな細々したことはどうでもよくなり、とにかく助けてくださいと言うしかない。
そのような人生の危機的な状況は誰もが予想していないときに来る。今非常に元気であっても、いつ苦しくて助けてくださいという時が来るか分からない。
突然の交通事故にしても、脳卒中の重症、ガンにしても、今自分は大丈夫だと思ってもいつ来るか分からない。そういうことのためにも、詩篇を学んでおくことは大事なことだと思う。
この詩人の場合は、特に人間の言葉によっていろいろと苦しめられていたことが分かる。わたしがずっと前に夜間の高等学校に勤めていたときにも、暴力をふるっていた生徒たちを、先生は黙って注意しなかったからとてもひどい状態であった。わたしはその激しい暴力や破壊行為のただなかに、赴任したとき、ほかの教師が黙認していた暴力を何とかして止めさせようとし始めたが、彼らはわたしに集中的に攻撃してくるようになった。
その後さまざまの困難なことが生じたが、神を信じてとった決断が不思議ないきさつを経て半年足らずの間に、解決に向かって言った。そのような混乱のさ中で、ある一人の生徒の言葉を今でも思い出す。「殴ったりする暴力で受けた傷はすぐに治るが、言葉の暴力があるんだ」と大声で怒鳴ったのである。
その言葉の暴力を俺らは受けてきたんやと。その生徒たちはいわゆる部落問題で差別を受けてきたのである。確かに殴ったりたたいたりすることは、割合すぐに忘れる。
ところが、ある言葉が心に突き刺さったら、それを抜こうとしても抜けないで、ずっとある種の痛みや憎しみのようなものになってずっと残ることがある。このごろのいじめ問題も単に殴る蹴る以上に、言葉でまず傷つけることも多いと思う。
わたしの知っている人も、中学の初め頃に、ある短い侮辱するような言葉を言われたがためにそれから学校に行けなくなってしまい、その後も学校を卒業していないから就職もできず、結婚もできなくなり、家で空しく過ごすというように、生涯が変わってしまったのである。
仕事で失敗しても、今の社会では周りの人がそれに対して殴ったり蹴ったりはしないが、何か冷たい言葉を投げつけられることでいたたまれなくなるということもある。
このように言葉というのは、時によっては大きい力を持って、人間が生きる希望すらなくしてしまうことがある。
いろいろな害のある言葉とともに、害のないように思われている言葉でも、たくさん良くない言葉がある。それの代表的なものがテレビの視聴率をあげるためだけのような番組からあふれている言葉であろう。
テレビは良い影響よりもはるかに悪い影響を及ぼし続けていると考えられる。
またさまざまの週刊誌、漫画雑誌などというものも、知る必要の全くない単なる好奇心をそそるような内容が多く、当然、そこには悪い言葉が多く、そういう悪い言葉で商売しているというところがある。
昔は新聞もテレビも週刊誌もなかったのであるが、そのような時代の人間の心の方がまだ素直で、他の人に優しかったというところがある。
そういう言葉の特徴は、二心、要するに真実がないということである。真実の言葉は何か心を動かすものがある。新聞も数十頁もあるし、テレビも一日中放送しているが、それらの大多数の番組は、見て心が感動受けるという番組は本当に少ないといえよう。それらは一時の楽しみや気晴らし、あるいは現代の社会を知るという点では役に立つこともあるであろうが、苦しみのただ中にある心が本当に深い慰めを受けることはごく少ないであろう。
二節にある「信仰のある人」というのは「真実」と訳されている言葉で、信仰というものは真実ということが分かる。言葉に嘘がある。
言うことが思っていることと違う、そういう状態がたくさんあるということを言っている。それからさらに五節では、その悪しき言葉の力で上に立とうと言う人もたくさんいる。
主は言われます。(六節)
「虐げに苦しむ者と
呻いている貧しい者のために
今、わたしは立ち上がり
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
主の仰せは清い。(*)(七節)
土の炉で七たび練り清めた銀。
主よ、あなたはその言葉を守り(八節)
この代からとこしえに至るまでわたしたちも見守ってくださいます。
(*)主の仰せ→主のことば 。新共同訳では、「仰せ」と訳しているが、原語は、イムラー で、アーマル(言う)という言葉の名詞形である。口語訳は、主の言葉、新改訳では、主のみことば
と訳しているし、外国語訳でも、多くは、「主の言葉」The words of the LORD 、または、「主の約束」The promises
of the LORD のように訳している。「仰せ」という訳語は、現代ではほとんど使われない表現であるから、このような訳語では違和感がある人が多いであろう。
けれども六節にあるように、周りの人のさまざまな毒のある言葉、とげのある言葉によって苦しみ弱っている人には、「今、わたしは立ち上がり」とあるように、必ず神様が立ってくださる。
しかし、現実に苦しい状況に立ち至ったときには、自分はこれほど苦しいのに祈っても何も変化がない、神は眠っているのではないか、わたしが苦しめられているのに助けてくれない、という気持ちがよく起こる。
それに対して、苦しむ人に対しては、神様は必ず立ち上がってくださるという気持ちがここに込められている。これは聖書全体のさまざまの箇所に書かれていることである。
苦しみもなく、前進しようともしない人の声は、切実な訴えを持っていないから、神には届かないであろう。けれども、失敗や事故や罪、病気にしても何事であれ、本当に苦しんでいる人には、求めたら必ず神様がそばに来てくださる。
そして、この詩の作者のように、立ち上がって神は助けてくださるという実感を持つことができる。このような神の言葉を、深い祈りの中では実際に聞くことができる。聞くことができなくても、不思議なことが起こったり、不思議な人がそばに現れたりして助けられることが実際ある。神が遣わして立ち上がってくださるということである。
七、八節で主の言葉は清いということがまず書かれている。それは、製錬をしていろいろな汚れたものを取り去るということだが、だいたい金属はいろんな不純物と結びついているので、製錬をすることで、純粋なものだけを残す。「七回も精錬され練り清められた銀」と特別なたとえで言っている。それぐらい神の言葉だけは全く濁っていない、二心がない、完全な純粋なものはただ神の言葉だけだと言っていて、そんな純粋な言葉でもってあなたを助けるのだと言う言葉には、絶対嘘がないという気持ちがこもっている。
神の言葉の特徴にはさまざまのものがあるが、ここではとくに「清い」ということだけをあげている。言い換えれば人間の言葉はどこか嘘があったり、誇張があったり、二心があったりして、純粋とはなかなか言いがたい。しかし神の言葉は真実である。確かにその清さがあるから今日に至るまで続いてきたと思わされる。
「主よ、あなたはその言葉を保ち、とこしえにこの時代の人々から守ってくださる。」
たとえ神を信じない者たちが、私たちの周りから何かと攻撃や、悪しきことをしかけてきて、まちがったことがあがめられるようなことがあろうとも、そのただ中で神様はわたしたちを永遠に守ってくださる。
神の言葉が決定的な重要性を持つということは聖書の初めからずっと言われている。真っ暗な中に光あれと神の言葉が出された。それによって光が存在し始めた。聖書はそこから始まっている。
だからこのように無限に力ある言葉を知らないで、ただ人間の言葉だけで生きているということは、本当にむなしいことである。
「あなたを守ります。愛します。」と言っても、その心はすぐに変わることがあり、頼ることができない。
神の言葉だけが永遠に続くのである。実際聖書が続いてきたのがその証拠である。これが嘘の言葉であったら続かなかった。神の言葉の本質が清いゆえに、その神の言葉によって作られたものもまた清い。
そして私たちも、神の言葉を受けるときにも、清められる。
「わたしの話した言葉によってあなた方はすでに清くなっている。」(ヨハネ十五の三)
神は信じられないという人でも、自然を愛する人がたくさんいるのは、その清さにやはり惹かれたのだということができる。そしてその自然を創造されたのが神である。それゆえに、本当は誰でもそのことを知ったら、神は信じたくないとか、全能の神など嫌いだという人はいないはずである。
主イエスは、神の言葉は清いだけでなく、永遠に滅びることがないと言われている。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
(マタイ二四の三五) 人の言葉の洪水のなかにあって、ここに私たちがどこまでも信頼していくところがある。