敵意の間を通って
真理は人々を生かし、受けいれられる。他方、真理は人々の憎しみを受ける。このような両面のことが生じていく。
イエスが、初めて真理の言葉を人々に語ったとき、それはユダヤ人の会堂であり、そこで開かれた聖書には、次のように記されていた。
…主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。(イザヤ書61の1)
このような預言が今、成就したと言われ、それにもかかわらず、ユダヤ人がそのメシアを受けいれないことを厳しく指摘された。その指摘を聞いて、ユダヤ人はその直前までイエスをたたえていた人が多かったのに、たちまち激しい敵意を燃やした。
そして、会堂内にいた人々は、みな怒り始め、総立ちになってイエスを町の外へと追いだし、近くの崖まで連れて行き、そこから突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ福音書4章より)
多くの人たちが寄ってたかってイエスを崖から突き落とそうとしたのに、なぜイエスは突き落とされなかったのか、どうしてそのような敵意のただなかを通り抜けていくことができたのだろうか。
ここには、主イエスの驚くべき力が示されている。イエスは必要ならば、このように敵意のうずまく中であっても、道を開いて行かれる。
イエスが生まれたときも同様であった。へロデという悪名高い王のもとで生まれ、生まれたらすぐ殺されそうになった。そして御使いの知らせによってエジプトへと逃れていくことができた。
ステファノも、周囲の人たちが敵意に満ちて大声で叫びながら、ステファノを石で撃ち殺そうとしていた。そのような殺気だった状況のなかで、ステファノにとって人生で最大の啓示がなされたのであった。天が開けてイエスが神の右に座しておられるのを見るという賜物が与えられたのである。
ここにも、神の力、キリストの力は、危険な道のただなかを不思議と通っていかせるということが示されている。
キリスト教自体、ローマ帝国の300年ちかくにもわたる長期の迫害、世界の各地でなされた数々のきびしい迫害―日本のキリシタンも激しく弾圧された―それらすべてを通ってキリストは、今日の人間にも到達することができている。
私たちは、必ずさまざまの悪意や敵意、あるいは闇の力に出会っていく。ときにはそれらが取り巻き、そのようなまちがったことをばかりいろいろ広めることがある。
そのようなとき、私たちが主イエスにしっかりと結びついているとき、不思議な方法で道が作られ、そこを通って逃れていくことを示すものである。
最大の力である、死というものをも、神の力はすべてを呑み込む死の群れのなかを通って、私たちのところへと来てくださった。主イエスのうちにあるならば、私たちはどのような妨げや困難をも、そのなかを通って広いところへと導かれていくという希望を持つことができる。