主は私を緑の野に休ませ、憩いの水際に伴い、魂を生き返らせて下さる。

(詩篇23の2)


リストボタン無から有を生じさせる神

このことは聖書が一貫して説いていることである。創世記の冒頭にある記事、それは無から有を生じさせることであった。その時は秩序もなく、まったくの闇とすべてをのみ込む真っ暗な大海があるばかりであった。そのようななかに、神の風が吹きつのり、神の光が、光あれ!とのひと言で生み出された。
このことは、私たち一人一人の心の世界を象徴しているし、この世界をも象徴している。この世界、それは闇と混沌である。そうした世界をすでにパウロは、ローマの信徒への手紙の3章の前半で述べていた。「正しい者は一人もいない。皆、迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。…」
こうした喜びも力も何もない世界に、神は光を生み出した。無から有を生み出された。
同様に、私たちにおいても、いかに混沌としていても、また絶望的な状況であってもその無のなかに、神は光を、そして愛や真実をも産み落とすことができるのである。
アブラハムは、信仰の父とされ、私たちの神に対する信仰の模範でもある。しかし彼はなぜそのように全世界の信仰の父となったのか。彼が何か特別なことをしたからか、そうではなかった。そのようなことは何も記されていない。ただ、無数の人間のなかから、神がとくに引き出され、彼に語りかけ、彼がそれを信じたということであった。神の一方的な恵みによって信仰が与えられ、神からの呼びかけを受けるものとされたのである。
このように、アブラハムの信仰そのものを無のなかに神が造られたのである。私たちの場合も同様である。私自身も、およそ信仰など、聖書とか宗教的なものそれ自体を持っていなかったし、そのような願いもなかった。そうした無のなかに、神は信仰を与えて下さったのである。
そしてこれは実はみな同様なのである。
キリストの12弟子たちも、漁師であったり、税金を集める人、あるいは反体制活動家であったり、みなおよそメシアを信じるというようなしるしはなかった。そのような無のなかに、イエスを信じる信仰が与えられたのである。そして、何の力も無かった彼らの内に悪の霊を追いだす力、病をいやす力が与えられた。
アブラハムが唯一の神を信じたその信仰は、それ自体、無から有を生み出された神のわざであったが、そうして与えられた彼の信仰もまた、無から有を生み出す神を信じる内容をもっていた。

…死者に命を与え、存在していなものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じた。
彼は希望するすべもなかったときに、希望を抱いて信じた。(ローマ信徒への手紙4の17〜18)
この信仰、それこそ私たちも共有できるものであり、今日の混乱した世界、これからもますます混沌としていくであろう世界にあって何にもまさる恵みなのである。

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