リストボタン賛美の大いなるひろがり

聖書は神の愛を記した書であり、また神への賛美の書である。 書店に置かれている一般の書は、大多数の小説や週刊誌、雑誌などのように人間の罪深い現実を書いていたり、学術書のように学的真理に関したことを書いているのもある。
私たちが自分のまわりをみているだけ、また目で見える範囲で地上をみている限り、到底 地球が丸いとか、宇宙のこともわからず、宇宙に浮かんでいるといった状態であることも分からない。狭い視野であるほど、真理は見えない。
新聞やテレビ、インターネットなどのニュースでの報道も、結局は人間の目で見えること、という狭い視野で見たことを書いている。
しかし、地球を少しだけ離れてもー地上から100キロほど離れるだけで、地球は宇宙に浮かぶ球体でしかないことが分かり、さらに遠く離れていくと、月のように小さな丸い物体となり、より遠くに離れると、次第に金星や木星のような一つの星となり、ついには見えなくなる。
このように、私たちの視点をいかに離れてものを見るかで、全く異なるものが見えてくる。
聖書の記した世界、それはこの世界を肉眼の目で見える世界とは全く違った霊的な目で見えることを記したものであり、ふつうの音声ではない、霊的な声を聞いたひとたちの記録である。
そのとき、この世においては、悪と混乱、空虚なものが満ちていても、そこを離れた霊的な目を与えられたときには、まったく異なるものが見えてくるし、聞こえてくる。
ちょうど、狭い地球のさらに著しく小さい自分がいま居るところだけを見つめてわかることと、地球を離れて見たときの光景が全くことなるのと同様である。
この現実の地上の世界は、真理にそむき、真実に生きている人や弱い立場にある人たちを迫害し、権力や武力を用いての戦いが随所に生じている。
しかし、聖書の世界では、そうした状況においても見えてきたものが記されている。
その一つが 大いなる声、賛美であった。

…また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。
その数は万の数万倍、千の数千倍であった。
天使たちは大声でこう言った。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」
また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。
「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」
(黙示録5の11〜13)

黙示録の著者が見た霊的な光景は、驚くべきものであった。それは神とキリスト、さらにそのまわりにいる霊的な存在である生き物や長老たちの周囲に、無数の天使たちを見た。それは万の数万倍ということであり、数億ということになる。日本人を全部集めても一億三千万ほどだから、これは無数ということの別の表現にほかならない。
私たちのからだの目は、数億の天使など見ることはできないが、霊的な目は そうした肉体の目にある限界を持たないゆえに、そうした無数の天使たちを見ることができたのである。
地上の混乱と悪の荒涼たる支配のただなかにあって、いかにヨハネは異なる大いなる世界を示されたかがわかる。
この広大無辺の天使たちの賛美、大いなる声を聞いたという記述のすぐあとから、この世界がいかに混乱と闇にあるかが次々と開かれていく。(黙示録6章)
ここに大いなる対比が置かれている。
こうした地上世界の闇と天の世界との輝きに満ちた状態とは、聖書ではしばしば繰り返し記されている。
この最初のはっきりとした記述は、ヤコブの見た天からの階段である。
兄エサウに殺されそうになって一人荒野を遠く北方へと逃げていくヤコブに、きわめて重要な夢が現れた。
それは、地上では兄弟を殺そうというような憎しみを受けているただなかで、天の世界が開かれ、そこから天使たちがその階段を上り下りする、すなわち天にあるものを地上にもたらし、地上のものを天に引き上げている状況なのである。
言い換えれば、天と地との交流がまのあたりにされたのである。
人間の迷いや苦しみはすべて、この天と地との交流がないから、あるいはあまりにも小さいから生じる。地上的なもの、汚れや悪、混乱が天に引き上げられて浄化されること、地上の祈りが天に届いて聞き届けられること、そして天の清い水、その力、平和、愛といったものが御使いとともに地上に注がれる、それらのことが与えられているならば、あらゆる問題は解決していくと言える。
罪の赦し、それも地上の悪しきものが天に引き上げられて消滅することであり、代わりに赦しに込められた神の愛が地上の人間に与えられることなのである。
また、復活ということは死の力が引き上げられ、神のいのちが降ってくることだと言えよう。
こうした天地の交流ということは、詩篇においては大いなる表現で記されている。
詩篇第3篇にあるような人間の苦しみや叫び、あるいは悲しみは、それらを訴える祈りとともに天に引き上げられる。そしてそこから神の力が注がれるのである。そしてそうして与えられた大いなる神の力や愛に触れたものたちは、この混乱と不正な地上世界のただなかにあって、神への大いなる感謝と賛美をあふれるばかりに注ぎだすことができる。
それが、詩篇の最後の部分にあるハレルヤ詩篇なのである。

ハレルヤ(*)。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって 主を賛美せよ。 日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。
主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
雹よ、雪よ、霧よ
御言葉を成し遂げる嵐よ
山々よ、すべての丘よ
実を結ぶ木よ、杉の林よ
野の獣よ、すべての家畜よ
地を這うものよ、翼ある鳥よ
地上の王よ、諸国の民よ
君主よ、地上の支配者よ
若者よ、若き女よ
老人よ、幼子よ。
主の御名を賛美せよ。
主の御名はひとり高く
威光は天地に満ちている。(詩篇148篇より)

(*)ハレルヤとは、ヘブル語で ハレルー(ハーラル 賛美するという動詞の二人称複数命令形) とヤーハ(ヤハウエの短縮された形)であり、複数の人たち(会衆)に向かって 「ヤハウエ(神)を賛美せよ」と命じる、というのが原義である。現在では、ハレルヤとして、一つの言葉のように用いられる。ラテン語訳で アレルヤ(alleluia)という表現が用いられたため、現代でも賛美のなかで、アレルヤ と発音する場合もある。
そして、「主を賛美せよ」と訳された原文は、ハレルー
ヤハウエ である。 日本語文で、ハレルヤ、という語と、主を賛美せよ、というのではニュアンスがかなり違ってくるが、ヤハウエとそのままの神の名を使うか、ヤーハ という短縮形を用いるかの違いであって、本来はまったく同じ意味である。
ハレルヤ!という表現は、もともとこのように、会衆への賛美をうながす命令形であったが、次第に意味が広くなり、賛美しよう、という勧誘、勧めの意味、あるいは、「神はすばらしい!」 という神への感嘆や賛美そのものをも意味するようになった。(現在では、この用法が主になっている。)
これは、ホサナ という語が、もともとは、「今、私たちを救って下さい!」という願いの意味であったのが、すでに主イエスの時代には、万歳!といった歓迎の意味を持つようになっていったということと似ている。

これは、壮大な賛美の言葉である。単に人間だけでなく、宇宙万物のもの−天にあるもの、地にあるもののすべてに向かって、主を賛美せよ! と呼びかけている。
このような賛美の世界が存在すること、それは詩の作者が、宇宙のすべてが神を賛美する存在であることを啓示によって知らされたのだとわかる。本質的に賛美できないようなものに向かって、呼びかけることはあり得ないからである。
このハレルヤ!(主を賛美せよ!)という言葉を私たちが聞き取るとき、この地上のあらゆる問題、また宇宙のものすべては、神への賛美こそが最終的目標なのだと知らされる。
賛美できるということは、すなわちあらゆるこの世の混乱や問題にもかかわらず、それらのただなかに働く神の愛を深く知らされたゆえである。そうしたこの世の問題が最終的には克服され、万物が神の愛と力、その栄光をたたえる…それこそが、被造物の最終的な姿なのである。


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