神は私たちの避けどころ、私たちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる。
私たちは決して恐れない。

(詩篇46の2〜3より)


リストボタン祈り

今回の大規模な地震、津波、さらに原発による災害によって、家族や家、あるいは仕事などを失った方々、いまもさまざまの苦しみと不安にある方々の上に、主の慰めと支えがありますよう、そして、求めよ、そうすれば与えられる、という主の約束にしたがって、聖なる霊が与えられますようにと祈ります。


リストボタン復活の力を待ち望む

困難な事態、人間的に考えて建て直すことの不可能なように見える状況に直面するとき、私たちが一番必要なのは、死をも越える力、復活の力である。
死んだものをもよみがえらせる力があるならば、絶望をも新しき希望、壊れることのない希望に変えることができる。
物質的な復興はそのうちになされるであろう。
しかし、魂の復興のためには、復活をなさしめる神の力が不可欠である。
その復活をもなしとげる神の力こそ、深い傷を受け、孤独に悩み、絶望に立ちすくむ魂をも再生させることができる。

すべてを失った者の祈りを顧みる

大震災で、家族も、家も、持ち物もすべてを失った人たち、何を支えに生きていくことができるだろうか。
がんばって、と言われてもその力も出てこないという人もいるだろう。
そうしたあらゆる目に見えるものが失われてもなお、残っているもの、それが目に見えない神の愛であり、神の力である。
人間の長い歴史において、迫害や戦争などですべてを失った人たちが大量に生み出されてきた。
しかし、それでもなお、その無に等しいなかかから、神の助けを実感してきた人がいる。
そのような社会的な大混乱でなくとも、ハンセン病のような病気になれば、家族も、健康も、仕事や友人、将来の希望…何もかも失ってしまった。
その闇と混沌のなかから、神を知らされ、その神の愛を信じてすがっていった人たちの中には、たしかにそのような絶望的状況のただ中に、それまで全くなかった力と慰めが与えられて、精神的に立ち上がることができた人たちがいる。
殉教した人たち、それはまさにすべてを奪われ、喪失した人たちである。
しかし、最初の殉教者であるステパノの例で分るように、そのすべてを失ったところに最も大いなる神の愛が注がれ、それは自分を殺そうとする人たちの憎しみをも越えて、それらの人たちのために祈ることすら可能となった。
「ああ、幸いだ、貧しきものたちは!」との主イエスの言葉、あるいは、「ああ幸いだ、悲しむ者たちは!」という言葉は、一見不可解に見える。
しかし、これはすべてを失い、貧しきものとなった人、悲しみに沈む人たちにこそ、神の国が与えられ、神からの慰めという大いなる宝が与えられるという約束なのである。
キリストこそは、すべてを失った挙げ句、十字架に釘づけられるという極刑を課せられた。しかし、そのキリストの祈りは聞かれ、万人の救いの源となられた。たしかにすべてを喪失した人の祈りを聞かれ、主は、最も祝福されたお方となった。

…主はすべてを喪失された者の祈りを顧み、
その祈りを侮られなかった。(詩編 102の18)
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