「壊」と「創」
2011年、それは日本だけでなく、世界に強烈な印象を与えた年であった。一言で言えばそれは、「壊」である。地震による破壊、津波による破壊、そして原子力発電所の破壊という三重の重大な破壊が生じた。
原子力発電所が一度大事故を起こすなら、壊れた原子炉から燃料を取り出すだけでも、40年ほどもかかると予測されている。
ほかのどのような機械も、このようなことはあり得ない。
しかも、取り出したとしても、それを持っていくところがない。そのために、取り出せないでそこに半永久的に置いておくしかないのではないかとも考えられる。
このように、原子力発電所がほかのいかなる工場や機械類と異なるのは、その途方もない回復への道筋である。核廃棄物は100万年も管理が必要だという。半減期が長大なものが多く含まれているからである。
ウランのような大きい原子核は、人工的に中性子を照射することによって壊れる。しかし、単に壊れて破片になるということではすまない。
普通の例えばガラスや機械を壊しても、そこには単なる瓦礫が生じるだけで埋め立てたり、燃やしてしまうことで無害なものになる。しかし、原子核は、壊すとそこから永久的とも言えるような有害物質が生じてしまう。(*)
(*) ウラン238に中性子をあててウラン239となる。それがβ崩壊してネプツニウム239になり、更にそれがβ崩壊してプルトニウム239ができる(原子炉内では他のプルトニウム同位体も多数
できる)。ウラン238は天然に存在するのでネプツニウム239とプルトニウム239は極微量ながら天然にも存在する。また半減期が約8000万年とプルトニウム同位体の中では最も長いプルトニウム244もある。
自然界にあるウラン238に中性子を照射するという方法で、ウラン238の原子核を別のものに変えてしまい、本来なら存在しないプルトニウムというものを作ってしまうともうそれを元に戻すことができなくなる。
壊れたものを回復できないばかりか、それが限りなく有害なものを放出し続ける、それが原子力の問題が、ほかの事故などと全く異なる本質を持つことになっている。
一度壊れてしまったら修復ができない、ということに関連して、人間と神の関係はどうだろうか。
人間は、真実なもの、正しいものに対してどうしても背いてしまうという致命的な問題を持っている。それはどんなに努力、修養しても修復することができない。アダムとエバが神の言葉に意図的に背いたと記されているが、これは人間が創造された最初からこのような背信を犯し、そこから回復できないという本質を持っていることを示している。
このように人間は真実そのもののお方に従えないこと、すなわち人間と神様との関係が壊れてしまっているのをいかにして修復できるのか、それは聖書においてはずっと一貫して最大の問題として扱われている。
その修復は、自分の力で変えようとしてもできないが、人間の側から悔い改める、神への方向転換をするという単純なことによってなされる。
そのことを旧約聖書に現れる預言者たちは一貫して説き続けた。ときにはエレミヤのように命がけで国王やその重臣、あるいは祭司など指導的人物たちに説き続けた。しかしなお、彼らは立ち返ることなく、まちがった方向へと突き進んでいくばかりであった。
そのために、ついに人間の立ち返ることを教えてもできないということになり、イザヤ書の後半ではその人間の重い罪をになって身代わりに死ぬお方が現れるということが預言された。それは神からの明確な啓示であった。
そしてその預言に従って、その預言から500年ほど経ってから、実際にイエスが生まれた。それゆえに、イエスの誕生の最大の目的は、人間をその罪から救うことであった。
それとともに、救われた人間が新たに力を得て生きることを可能にすることである。
そのために、神の力、神そのものとも言える目に見えないもの、聖なる霊が与えられることになった。
キリストは、人間全体が壊れているので、そこに建て直すために来られたのである。壊れて死んだ状態になったことについて、使徒パウロは次のように書いている。
…私は、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか。(ローマ 7の24)
自然のものは、壊れてもまた再生する。樹木は、切っても傷つけてもすぐに再生し、新芽が出てくる。しかし、人間は、剣や弾丸の一つで壊れてしまい、再生できない。
動脈が切られたらそれだけで死んでしまう。
人間は高度に発達しているが、他方、きわめてもろい。生まれた赤ちゃんは丁寧に保護しなければ死んでしまう。
しかし、自然世界の動物、例えば山羊やキリンなどの草食動物は生まれるとすぐに自分で立ち上がれる。
さらに昆虫類では、放置されていて自然に成虫となる。植物においては、種になると、乾燥していても地中にはいってもなお生きている。20年もしてからでも発芽してくるのもある。
人間は高度に発達しているといっても、同時にもろさを一番に持っている。人間以外の動物はやはりもろさもあるが、衣服や冷暖房とかガス、電気がなくとも生きていける。
発達しているものほど、いろいろなものが必要となり、もろくなる。
さらに、人間には、動物にはない壊れやすさがある。それが心のもろさである。また、動物にはない正しいこと、あるべき姿というのがあるが、それに従えないという罪の問題がある。
真実や愛、正義ということは、変わらない。正義などない、という人がいるが、例えば、うそをついたり、他人のものを盗むとか、弱いものをいじめたり、人を理由なく殺したりすることは正義に反することはだれもが知っている。このようなことは、1000年経っても変ることがない。それだけ考えても、変ることのない正義があることはすぐにわかる。
しかし、そのようにわかっているにもかかわらず、人間はその正義を行うことができない。それは、きびしい標準で見れば、人間の精神はもともと壊れているからである。どうしても自分中心に考えたり行動したりしてしまう。車を運転していてまっすぐ進まないということは、ハンドルとか車輪の部分などが壊れているからである。同様に人間が真っ直ぐ進めないのは、正しく歩ませる部分が壊れているからである。動物にはない精神という人間たらしめるものが壊れているからである。
人間のあらゆる問題はその壊れているというところから生じている。
こうした致命的な故障というべきものを、本当の意味で修復するため、それは造りなおすということになる。
それゆえ、次にあげた聖書の言葉のように、新しい創造ということが必要になってくるのであり、そのことのためにキリストは来られたのである。
… キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Uコリント 5の17)
キリストは、壊れたものを建て直すために来られた。
いろいろな知識、経験や映像、新聞雑誌、テレビやインターネットに洪水のように見られる知識も生まれ変わらせる力は全くない。私たちが最も必要としているのは、生まれ変わることである。それをキリストは、聖なる霊によって新しく生まれると言われた。
この世に至る所に見られる「壊」に対して、「創」ということもまた身近に置かれている。破壊は最大の力でなく、創造こそが、神の力ゆえに、最終的な勝利へとつながっているし、太陽のようにだれにでもその力は注がれている。ただ神を信じるだけで「壊」の世界から、「創」の世界へと移ることができる。