だれにでも可能な対策
2011年の1月、九州の新燃岳の噴火からはじまり、この一年の日本は、3月に大地震、大津波が発生し、福島原発の爆発となり、かつてない大被害を引き起こした。
さらに、9月には、和歌山県南部では、72時間で1000ミリを超える観測史上最大の雨量を記録して多くの被害を出した。
そしてこの冬には、例年の数倍の積雪とか、観測史上でも最大級の豪雪となっている地域が多い。
こうした自然の災害は、今日のように科学技術が発達していても、いずれも予見できなかった。
それは今後も同様であろう。こうした天災の被害は、それに対する何らかの可能な対策を怠るという人災が大抵は加わってその被害を大きくすることも多い。福島原発災害はその最たるものであって、大地震やそれに伴う津波によって電源が断たれ、冷却機能が損なわれ、最悪の場合は炉心溶融という大事故になるということは、もう何年も前から指摘され、国会でも取り上げられていた。しかし、それを政府や東京電力が怠っていたのである。
ここに人間の限界がある。どんなにすべきことがわかっていても、なお自分の目先のことに目を奪われて自分の地位や欲望を満たしてしまう。そこから人災が生じる。
人災の根源にあるのは、本当に正しいことを知っていてもできない、という人間の弱さ、罪である。
また、そうした天災や人災による被害が生じたとき、今回のことや、今までの水俣病や原爆被災などでわかるようにその補償はなかなか進まず、長い歳月が費やされてしまう。
そしてようやく補償金などもらっても、すでに年老いてその補償金を生かすこともできない場合すらある。
このような悲しむべき事態が繰り返されてきた。
人災を起こさないためにも、また天災を受けたときでも、そして補償もなかなかしてもらえないときにあっても、どのような状況に置かれても重要な支えとなることがある。
それが弱いときに与えられる神の力である。
害を与えた人たちの間違った主張にも反論もできない、打ちのめされて精神的に立ち上がれない、といった時においてもなお、求めることによって与えられるものは、神の力である。
そして、自然災害や人災など自分の外から来る苦しみ以外に、自分の内からくる苦しみがある。人災を引き起こすことに関わったような人だけでない。自分の罪からくる苦しみはだれにでも襲って来る。ときには突然にまた、徐々に津波が押し寄せるようにして魂をのみこんでいく。そのために、魂のよき部分は壊され、生涯にわたる不幸を生み出すことになる場合もある。一番よいお方(神)を知らないこと、その愛の神に目を注がないところから来る不安や動揺、あるいは悲しみである。
それは、魂の深いところにあってその魂を責め、苦しめる。外から来る苦しみはだれにもよくわかるが、自分の内面から来る、罪による苦しみについては気付かない場合が多い。
どのような場合でも私たちに可能な対策、それは、罪の赦しとそこからくる神との交わり、平安を持っていることであり、弱さの中に与えられる力を受けることである。