私たちへの呼びかけ― ヨハネの福音書の特質から―
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書がある。そのなかで、ヨハネ福音書はほかの三つとは異なる特質がある。ここでは、その一つを私たちへの直接のメッセージという観点から見てみたい。
「信じる」という言葉(動詞)の新約聖書における原語(ギリシャ語)は、ピステューオー pisteuo である。この言葉は、どのように新約聖書のさまざまの書で使われているだろうか。
コンピュータでそれを調べると意外なことがわかる。
ヨハネ福音書 98回、、マルコ福音書14回、マタイ 11回、ルカ 9回。ローマ書21回。
これを見れば、ヨハネ福音書が断然多い。同じ福音書といっても、マタイ、マルコ、ルカなどよりはるかに多い。
ヨハネ福音書がほかの福音書以上に、「信じる」という動詞の形を―「信仰」という名詞形でなく(*)―特に重視しているのがこの言葉の面でもはっきりとうかがえる。
(*)「信仰」という名詞形は、パウロが圧倒的に多く用いており、ローマ、コリント、ガラテヤの三書だけで 76回も使われている。信仰によって義とされる(救われる)という、いわば 法則として多く語られているからである。
それに対して、意外なことにヨハネ福音書では、「信仰」という名詞形は、一度も使われていないのであって、パウロの使い方と際立った対照をなしている。ヨハネ福音書では、すべて「信じる」という動詞の形で用いられている。
その理由として考えられるのは、マタイ、マルコ、ルカの福音書が、イエスの教えとその行動を記すことを中心としているのに対して、ヨハネ福音書は、神(キリスト)から、この福音書を読む人々に直接に語りかける内容を主体としているからだと言えよう。
例えば、「神とキリストを信じなさい。 信じるなら永遠の命が与えられる。」という言葉について言えば、この言葉を繰り返し、当時の人たちに語りかけるだけでなく、以後のあらゆる人たち、そして現代の私たちへのメッセージとして語り続けていると受け止めることができる。
それは、マルタとの会話でもその特質がわかる。
マルタは、当時のファリサイ派の人たちのように、世の終わりのときに復活することは知っていると答えた。しかし、主イエスは、それを訂正するかのように、「私を今信じるなら、それだけで今、永遠の命を与えられ、死なない者と変えられる。死んでも生きる」と言われた。そしてその真理を語ったあと、「あなたはそれを信じるか…」と問いかけられた。
これは、単にマルタという昔の女性に問いかけた言葉でない。それは世界の国々のあらゆる人たちに語りかける生きた言葉なのである。
このように、動詞の形を多く用いることで、私たちへの呼びかけ、メッセージというニュアンスをたたえたものとなる。
他の例をあげる。
「私の内に留まっていなさい!」(*)という言葉(ヨハネ15の4〜)に用いられているのが、メノーという動詞である。これは、「留まる」という意味の言葉である。これはヨハネ福音書やヨハネの手紙に特に多く用いられていて、この二つだけで67回も用いられている。
これに対して、ローマ、コリント、ガラテヤの各書を合計でもわずかに12回しか用いられていない。ここでも、ヨハネ福音書では、キリストが、私たちに「わが内に留まれ!」という情熱的な語りかけ、メッセージを発しているのである。
(*)新共同訳では、「わたしにつながっていなさい。」と訳されている。原語は、メノー meno であり、原意は、「留まる」。英語では、 remain あるいは、 abide を用いて訳される。
そしてヨハネ福音書での中心といえる、永遠の命に関して、死んでも生きる、いつまでも生きる、という真理と通い合うものを持っているいのちの水についても、祭の最後の日にイエスは立って、大声で叫んで言われた…とある。
そこにどんな聴衆がいたのかすら定かでない。
それは、特別に強調した表現によって、キリストがそこにいた人たちに語りかけるというより、神が以後のすべての人間に熱誠を込めて語りかけていると感じられる表現となっている。
ヨハネ福音書の最初の部分にある、次の箇所も同様である。
(バプテスマの)ヨハネは、自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ 1の29)
この表現も、だれに対して言ったというのがはっきり書いてない。すでに述べた箇所と同様である。こうした言葉もやはり、全人類に向って神がヨハネを通して言われているのを感じる表現である。
この世界で最大のこと、それは人間の根本問題である罪を取り除くことであり、そのために神の小羊となって死なれるお方こそ、万人の最も注目すべきお方だと言おうとしているのである。
そしてこの箇所に続くヨハネ福音書の1章では、「来たりて、見よ!」という表現が繰り返し用いられている。
…イエスは、「来れ、見よ」と言われた。39節。(英訳では、He said to them, Come and see. )
ただし、新共同訳では、「来なさい。そうすれば分る」となっていて、「見る」という言葉には訳されていない。see は 分るという意味にも用いられるが、この箇所では、基本的には やはり 見る、霊の目で見よ、それによって本当に分るのだという意味が暗示されている。(*)
(*)このヨハネ福音書の1章では特に、29節から終わりまででは、「見る」というさまざまのギリシャ語が用いられていて、見ることの重要性が暗示されている。ホラオー(見る、分る)、セアオマイ(見る)、ブレポー(見る)、エムブレポー(見つめる)など、4種類の動詞が、あわせて14回ほども用いられている。
…ナタナエルは、ナザレから何の良いものが出るだろうか。と言ったので、フィリポは、「来れ、そして見よ」と言った。 46節。
実際に、ナタナエルは、この言葉に従って、行って、見た。それによってはっきりとイエスがただの人ではなく、神と同じ本質を持ったお方、神の子だということが霊的に見えたのである。
このような記述もみな、当時の人たちへの言葉であるがそれ以上に、以後の無数の人間に語り掛けられた神のメッセージとなるように記されている。
私たちも、今も生きて働いておられるキリストのもとに行く、それは信じること、キリストを仰ぎ見ようとすることである。キリストの言葉を聴こうとし、そのキリストに従おうとすることである。
そうすることによって実際に神(キリスト)が生きて働いておられることが霊の目で見えるようになってくる。
来たれ、見よ!という呼びかけは、現代の私たちにも日々呼びかけられているのである。
マタイ、マルコ、ルカの福音書、そしてそれに続く使徒言行録などは、実際にイエスがなさった行動や教えを記すことによって、それが後のあらゆる人々へのメッセージとなるように書かれている。
他方ヨハネ福音書は、より直接にイエスの口から、私たちへの魂に向けて、霊的なメッセージが語られていると言うことができる。
ヨハネ福音書の実質的な最後の章となっている20章の後半部で、弟子たちは、ユダヤ人たちが自分たちも捕らえようとしてくるのではないかと恐れ、部屋の戸の鍵をかけている場面のことが記されている。
そこに入ってこられたキリストは、それから八日後の同じような場面もあわせて「あなた方に平和があるように!」という短い言葉を三度も重ねて言われた。(「平和」は、ギリシャ語では エイレーネー、ヘブル語では シャーローム という。)
これは、単なる挨拶でなく、そのまま、この世のさまざまのことの心労ゆえに魂の平和(平安)をうしなった現代の私たちへの、呼びかけなのである。
そしてその後に、なかなか信じようとしないトマスに向って、「信じない者でなく、信じる者になれ。幸いだ、見ないで信じる人は」と言われた。
これがヨハネ福音書での事実上のイエスの最後の言葉となっているて、これも、あらゆる時代の人々へのメッセージなのである。
神の存在、その神が愛の神であること、その愛によってキリストが人類に遣わされ、十字架で死んでくださり、私たちの心で犯してきた罪が赦されること、私たちは死んでも神のもとに復活すること、そしてキリストのように清められたものとなること、この世の悪は最終的に滅ぼされて、清い新しい天と地が生まれること…こうしたすべては信じるか、信じないか、だれでも選び取ることができる。
この世が神の愛に導かれている、それは信じないなら決して分からない。逆に悪や不可抗力の自然によって支配されていると思ってしまう。
だからこそ、見ないでも信じる者になれ、と言われているのである。そしてそうしたことを、その証拠がないままに信じるとき、神は聖霊を与え、その聖霊がすべてを教えてくれるようになる。さらに、生きていく過程で、実際に愛の神がおられることもわかってくる。
この世でどのようなことが起ころうとも、すべては愛の神が、人間の考えをはるかに超えた深い意図をもってなされている―これも「見ないで信じる」ことが求めれており、あなた方はそれを信じるか、という問いかけが現代の私たちに問いかけられている。