キリスト教の人だけが救われるのか。
この問いかけは、よくあります。キリストを信じる者だけが救われるのなら、他の宗教を信じている人はどうなるのかと。
ここで、救いとはどういうことを指しているのか、その意味をはっきりさせておかないとそれぞれが救いという意味を勝手に使っていたのでは、この問題も正しく扱うことができません。
キリスト教でいう救いとは何かを考えるまえに、人間とはどういう実態を持っているかを知る必要があります。
例えば、正しいことを常に行うことができるか、自分の生活、職業の場、友人たちとの関わりにおいて自分の利益とは関係なく正しいことをつねに行ったり、言ったりできるか、また、戦前のように、国全体がまちがった戦争に駆り立てているとき、それを見抜くことができるか、見抜いたとしてその誤りを命がけで発言したりできるか、純粋な愛をだれにでも持つことができるか、ことに病人、老人、死が近づいているような重い病人、ハンセン病とか重い皮膚病で外見でも目をそむけたくなるような人に心からの愛をもって近づけるか、また、自分の悪口を言う人、敵対する人、陥れようとする人をも愛してその人たちのために心から祈ることができるか、朝起きてから、夜床につくまで、ずっと真実なもの、他人の幸いなどを願いつつ生きていけるか、嘘を言うのはよくないとは誰でも知っているが、真実を通すことができているか、病気や苦しみのときにも、どんな苦しみがあっても、いつも堅固な希望をもって前進できるか・中ヲ。
このような事実を考えると、人間はきわめて不信実で、愛がなく、もろいもの、頼りないものだとわかります。ことに、どんなに学問や、芸術、あるいは仕事に有能、スポーツなどができる人であっても、正義は伴わないことが多いし、すでに述べたような弱い者、醜い者、敵対する者への愛などというのは、それらとは何の関係もないのです。学問や芸術、スポーツができるからといってすでに述べたような愛があるなどとはだれも考えてはいません。
こうした人間の弱く醜い本性がある限り、人間には本当の幸いは有り得ない、だからそのような人間の根本的な本質を変えることこそ、真の幸いなのだ、それを受けることが救われるということなのです。
このいわば当然のことのために聖書という本は記されているし、キリストはそのために来られたし、十字架にかけられたのです。
ですから、キリスト教以外の人でも救われるのかという問は、キリスト教以外でもそのような人間の本質を変えることができるのかという問でもあります。
たしかに仏教でもとくに、鎌倉時代の法然、親鸞、道元、日連などといった人たちの生きた姿、あるいはその書いたものなどを調べるとき、じつに真実な生き方をしているのがわかります。これらの人たちのあとに出来た宗派とか大きい教団は、人間的な権力や金の力が入り込んだりして彼らの信仰的な真実をもみ消しているところがあります。
このことを考えると、たしかにキリスト教以外でも人間を変えることができてきた宗教もあると言えます。
そしてキリスト者であると口では言っていても、変えられることなく信仰なき人と同じような状態の人もいます。
聖書はこうした問題をどのように見ているだろうか考えてみます。
まず、自分でキリスト者である、といっているからと言って、あるいはどこかのキリスト教会に属しているからとか、洗礼を受けたからといってそれで救われているとは限らないことです。それは、主イエスはつぎのように言われたからです。
「主よ、主よという者がみな、天の国に入るのではない。天の父(神)の御心を行う者だけが、入るのである。」(マタイ福音書七・21)
とすれば、天の国に入れるかどうか、すなわち救われるかどうかは単に、言葉で表面的に主よ、主よと言ったり、教会に属しているとかではわからないのです。父なる神の御意志を行っているかどうかによって、神が決めることなのです。
ですから、他の宗教でも、キリスト教を知らないままで真剣に真理に従って生きようとしている人は、それが神の御心にかなう程度に応じて神が救いを与えることでしょう。
しかし、キリストのことを知らされているにもかかわらず、それより内容の低い宗教にあえて属していようとするならば、それはなぜなのか、その理由が神によって問われるでありましょう。
宗教は決してみな同じではありえません。その内容に当然のことながら、真理が完全に含まれているもの、真理の一部が含まれているもの、真理がないものなどいろいろとあります。
例えば、オウム真理教や、集団自殺したような新興宗教などもありますし、戦前のように天皇を現人神とする宗教、統一協会のようなまちがった宗教もあります。また、文化の進んでいない国には、かつて人間を生きたまま殺して捧げる風習をもっていたような宗教もあります。そのような宗教が救いを与えるというのは考えられないことです。それは神の本質である真実や愛、正義に反するからです。
真理の度合いがどれほどか、それはやはりその永遠性と、普遍性によって客観的に知ることができます。その点では、キリスト教は、二千年の長きにわたって、全世界にあらゆる状況にある人間をその信徒としてきたのです。真理の度合いは群を抜いて高いといわざるを得ません。
キリストが「私につながっていなければ、投げ捨てられて焼かれる」と言われたので、キリストを知らなかった昔の人も、現代のキリスト者以外の人も、いかに真実に生きた人でも、クリスチャンだと自称する人以外はみんな同じように滅びるのだと主張するような人もいます。
しかし、神の愛や真実はそのような性格のものとは到底思えません。単にキリストの名を知らず、従って信じていなかったといって、悔い改めもしない人殺しや裏切り者たちとともに、闇に投げ込まれて滅びるということは考えられないことです。
このキリストの言葉の意味は、キリストによって完全に表された真理につながっていなければ、最終的には滅びるということです。ギリシャ哲学や、仏教などにも真理のある部分があるはずです。それはキリストの本質のある部分ともいうことができます。
ですから、ソクラテスやプラトンのような真理を求め続けた人、あるいは真実な仏教者などであっても、キリストを全くしらなかったという、ただそれだけで闇に捨てられて滅びるというのでなく、彼らは真理そのものであるキリストの真理のある部分を示されてその真理に忠実に生きたゆえに、神がそのことを見られて何らかの救いに入れられると思われます。
しかし、私たちは、そうした他人の救いについては、確実なことは分からないのですから神にゆだね、私たち自身の救いの確信を与えられることが必要です。そしてその確信を他に知らせることによって他の人の救いがなされるようにと心から願うものです。