休憩室 2000年12月第479号
○クリスマスという意味
十二月になるとあちこちでクリスマスという文字を見ます。また X'mas という表記も見ます。しかしこれが何を意味するのか、とくに後の記述の意味についてはたいていの人には不可解なものです。
クリスマスとは、英語の Christmas であって、これはクリスト(Christ) のマス(mass)という意味です。クリストはキリストのことで、マスとは、ミサのことです。ミサというのは私たちの使っている言葉で言い直すと、「礼拝」ということです。ですから、クリスマスという言葉の意味は、「キリストを礼拝すること」なのです。
これは、新約聖書のマタイ福音書にキリスト誕生のときの記事がありますが、そのとき生まれたばかりの乳飲み子であったキリストを礼拝した、東方の博士たちのことが記されています。
X'mas と書くのは、ギリシャ語ではキリストのことを と書きます。それを省略しているので、X' と書いています。それと英語の mass (マス)という語を結び付けた語なのです。ですから最初の文字は英語のエックスではなく、ギリシャ語の キー( )という文字であり、キリストを現すギリシャ語の頭文字なのです。
○静岡での植物のこと 静岡の石川昌治兄宅に泊めていただいたので、翌朝はやく、周囲の自然とのふれ合いのために付近を歩き、その時に見た植物にはつぎのようなものがありました。
ヤブミョウガは濃い青色の実をつけていました。徳島では、ヤブミョウガは平地では見たことがなく、一部の里山で見ただけでした。
また、徳島では、私は見たことないシロノセンダングサが川沿いに、暖かい冬のゆえかまだ白い可憐な花を咲かせていました。これは以前に沖縄の全国集会に参加したとき、会場近くの道に咲いていたのを見て以来のものでした。センダングサとは、センダンという木の葉に似ているのでそのような名前が付いています。その実は先に小さな逆向きのトゲがあり、それが衣服にくっつくのです。
また、野菊があちこちに見られましたが、ヨメナではなく、ノコンギクでした。私たちの地方では、平地で見られる野菊はたいていヨメナなのです。この二つは外見はほとんど見分けがつかないほどですが、花の中央部にある一つ一つの管状花を取り出すと、その違いははっきりとわかります。ヨメナには、冠毛がほとんどないのに、ノコンギクは長い冠毛があるからです。葉もざらつきも違います。こんな小さな違いを見るにつけても神のわざの不思議を思います。
その他、アカネという植物の実が黒く熟していたのも目にとまりました。アカネとは、「赤い根」の意味であって、古代から赤色の優れた染料として使われてきました。私は小学校低学年の頃からよく昆虫をつかまえては図鑑で調べていました。その時から知っているのがアキアカネという赤とんぼです。それがアカネという言葉を知った最初です。それから茜色(あかねいろ)の空とかいう言葉もよく使われます。
それがじつは植物の名前であって「赤根」の意味であるということはずっと後に知ったことです。
きわめて多数の植物があるにも関わらず、赤い優れた染料になるのは、ごくわずかであるし、青色の優秀な染料としては藍が断然有名です。藍も道ばたにたくさん見られるイヌタデとよく似ているタデ科植物で、それがあの美しい藍色の染料になるとは予想できないことです。
人間は石油化学の発達でじつに多様な色素を作り出してきましたが、そのほとんどは有毒であるのに対して、千差万別の花の色、植物の緑色などはほとんどが無害なものです。人間がきれいなものを人工的に作り出すと有毒なものになるということは、不思議なことです。
このことは、昔の住居にくらべて現在の家はじつにスマートに美しくなっています。しかし、その背後には、そうしたきれいな内装や、外観を作っている物質を製造するためにたくさんの有毒物質を使い、また新たな有害物質が生じているという事実があります。人間の作りだした物はほとんどつねに有害なものを同時に生み出していくものであり、神の創造した自然との大きな差を感じさせられます。
○県南の集会の近くにある池(周囲四キロ)では多くの鳥がいます。先ごろも集会の帰途に立ち寄ったところ、水中に立ててある数本の杭にカワウ(川の鵜という意味)がなかよくとまっていました。鵜(う)とは、黒っぽいやや大きい水鳥です。「鵜呑みにする」という言葉にあるように魚をたくさん捕らえて食べる習性があります。鵜といえば、岐阜県の鵜飼いで有名ですが、それはウミウ(海の鵜)です。
これはかつてはたくさん日本の湖沼にいたけれどもいまは開発のために著しく減少してしまったのですが、県南の高知に近い自然の残された地帯なので、生き延びているのです。そのほか、マガモ、ヒドリガモなどのカモの仲間もたくさん見られてかつての、日本の豊かな自然を偲ばせてくれました。
○冬になると、葉の紅葉とともに、いろいろの実が見られます。わが家の裏山で、ヤブムラサキの美しい実が見られました。ムラサキシキブはよく、庭に植えられていますが、その仲間であるヤブムラサキは県内の低い山でもよく見られます。白いスズメウリ、黒いクスノキやヤブニッケイの実、赤いカラスウリとかカラタチバナなど、花だけでなく、実にもさまざまの色彩をもって私たちの世界に豊かさを加えているのがわかります。
休憩室 2000年11月 第479号
○星と盲人
前月に図で示した土星と木星、そしておうし座のアルデバランという一等星は十月にははっきりとした直角三角形に並んでいましたが、一か月経った十一月下旬には、その形がもう直角三角形ではなく、少し平たい三角形のようになって見えます。
一般の人は、全盲の人は星など関心があるはずがないと思っている人が多いのではないかと思います。
しかし、全盲の方も外に出て、目の見える人に指さしてもらって星を教えてもらうことは、宇宙の広大さに触れる思いがするし、神の天地創造のわざの一端に触れる思いがするので、私たちの集会員にも特別な関心をもって夜空の星のことを見ている方もいます。それは、心の目で星を見つめることができるからです。
○フクロウ
わが家の裏山からは、一カ月か二カ月に一度ほどフクロウの鳴き声が聞こえてきます。じっと耳をすますと夜の闇の中から、静まった山の谷間を越えて響いてくるその声は、私たちを昔の自然ゆたかな時代へと引き戻してくれるようです。
この山には子供の頃からいた、フクロウ。以前は何の声かわからなかったのですが、その声には不思議な印象が残っています。
ずっと昔に夜になると鳴いていたもう一つの鳥はヨタカです。クックックッと夕闇の迫る山の方から聞こえてくるヨタカの鳴き声も、心に特別な印象を残している声です。これは子供のときに親しかったものですが、この鳥はもうかなり以前から耳にすることはできなくなり、他の地域や山に行ったときも含め、長い年月聞いたことはありません。
しかしフクロウは今も時折、その声を響かせては、私の心に、ある波紋を広げてくれるのです。
○別の文で書きましたが、秋は少し里山に入るといろいろの野草、葉の紅葉、草や木の実などに出会います。植物、とくに野草の花は病気の人も健康な人もどこか心に安らぎを与えてくれるものがあります。
ペットをいくら愛好する人でも病院に持っていくわけにはいきません。
その点、植物は単調な入院生活をしている人にも新鮮な何かを感じさせるものがあります。都会はその点ではまことに残念なことに、自然のすがたそのままの野草には出会うことができません。人間の心の荒廃はこうした静かな自然とのふれ合いが断たれていくことにも原因があると思われます。私はそうした都会の人にもせめて、思い浮かべることによってでも、自然の姿に触れてもらいたいと願って、自然ことに野草などの植物にかかわることを書いています。
休憩室 2000年10月 第477号
○木星
十月も半ばをすぎると、だんだんと夜は寒くなってきましたが、それとともに夜更けてからの空には澄んだ大気のなかで輝く星に心が引かれます。夜十時も過ぎるころになると、東の北よりの空に周囲の星とは一段と明るく際だっている星が見えてきます。それが木星です。今年は、木星と土星、そしておうし座の一等星であるアルデバランとが直角三角形をつくっています。
木星はどんなに星のことがわからない人でもただちに見つけることができる澄んだ強い光を放っています。
一年前の今ごろは木星はおうし座からもっと遠く南の方に離れていたのですが、今年はおうし座のところまで近づいてきて、ちょうど土星、木星、アルデバランの三つの明るい星で直角三角形を形作る位置に来ています。
また、金星が宵の明星として夕方の西の空に見えるようになってきました。これから数カ月は夕空に輝いて目を楽しませてくれます。
○コスモス
この原語(kosmos)はギリシャ語では、秩序を意味します。整然としているもの、それがコスモスです。目に見えるもので最も整然とした秩序あるもの、それは宇宙の星です。そこで宇宙のこともコスモスというようになり、さらにきれいにするということにもつながり、化粧関係にも使われ、コズメティック(cosmetic)という言葉も生じたのです。Ⅰペテロ 三・3には、そのような用い方がされています。
さらに、秋に咲く美しい花でその均整のとれた花の感じからコスモスと名付けられました。
また、新約聖書のヨハネ福音書では、特別な意味をもって書かれています。宇宙から地球へそしてこの世という意味まで生じることになり、ヨハネ福音書ではコスモスというギリシャ語は、「神などいないとするこの世」を指して言われます。私たち自身もかつては、神を知らず、神に背を向けて生きていたのであって、神不在とする「この世」の一員であったわけです。
そうした神に背いているこの世の人々すべてをふたたび真実な神に立ち帰らせるため、そして神のいのちを与えるためにキリストはこの世に来て、そして十字架にかかって死ぬことまでされたのです。そこにキリスト教のすべてが凝縮されています。
こうしてコスモスという言葉はさまざまのところに広がっていく意味を私たちに投げかけています。
休憩室 2000年9月 第476号
○真珠
マーガレットという名は、よく知られています。少女雑誌の名前に付けられたり、西洋の女性の人名でも出てきます。さらに少し花に関心がある人ならだれでもが知っているマーガレットという花の名前としてもなじみがあります。
しかし、そのマーガレットとはどんな意味なのかになると、あまり知られていないようです。それはギリシャ語のマルガリテースから造られた言葉で「真珠」という意味なのです。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・46)
福音の真理、キリストの真理は、高価な真珠だというのです。
歳月を経ても変質することなく、その輝きを失わない本質が真珠にたとえられています。
生きるとは、この世のすべてにまさる「高価な真珠」である真理を見いだすか、それともすぐに壊れる土器のようなものだけがすべてと思って人生を終わるかのいずれかになると言えます。
○夕顔(ヨルガオ)
八月の終わり頃から、わが家では妻が種から育てた夕顔が咲き続けています。
夕顔というと、本来は、かんぴょうを作るウリ科のものが昔からあった夕顔です。それとはちがってかんぴょうなど取れないし、実も固くて小さい鑑賞用のもので、アサガオの仲間(ヒルガオ科)を、ヨルガオと言って区別していますが、この名称はあまり一般的ではないようです。
夕暮れが近づくとき、真っ白い直径十五センチにもなるような大輪の花を咲かせ、香りもよい花です。夕闇に白い花が浮かび上がるように咲くその姿は、昼の太陽のつよい日差しのもとで咲く花とはちがってどこか、静けさが漂っていて、見るものに語りかけるような味わいがあります。
キリストがつねに共にいるとき、私たちは人生の夕暮れになっても、なお純白の花を咲かせることができるのであろうと、ふと思ったことです。
休憩室 2000年8月 第475号
○雲
真夏の風物詩は積乱雲(入道雲)です。水平線に接してむくむくと盛り上がる積乱雲のすがたは、夏らしさとともにふしぎな力を感じさせるものがあります。
日本人にとっては、雲とはただ、そのような眺めの対象であり、暑さをやわらげてくれる夕立を生み出すものであり、からからに渇いた畑を潤してくれる恵みの雨をもたらすものと感じます。
しかし、雲は聖書においては、たんに雨とか日陰になるなどといった気候のことだけにとどまってはいないのです。
そして祭司が聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。そこでソロモンは言った、「主は日を天に置かれた。しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。(列王記上八章10~)
このように、主の宮に満ちるもの、そこに神が住むと言われているほどです。私たちが雲を見るとき、そこに神が住むというようなイメージは全くないはずです。ここにも、古代の聖書の民の感じ方が私たちと相当異なっているのを感じます。
また、旧約聖書の出エジプト記19章とか20章には、有名な十戒を神から与えられる状況が書いてあります。そこにも雲が神の臨在の象徴であることを示すつぎのような記述があります。
主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしがあなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。
そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。
命を支える水をもたらす雲、無限に高い空に浮かぶ雲、その限りない変化の有り様、そして神の深さを示すかのように包んでしまう雲、そこに旧約聖書の人たちは、神を思い、神の臨在を感じたのがうかがえます。
休憩室 2000年6月 第474号
○六月の自然
六月となるとわが家のまわりの自然には、いくつかの心を引くものがあります。それは、ホトトギスの声、ホタルのともしび、そして裏山に自生するクチナシ、そしてウツボグサといった植物たちです。
ホトトギスの声は、夕方からときには夜にも、そして朝にもあの独特の強い響きのある声でないているのが聞こえてきます。昔から特別に注目されてきた鳥であるのもうなづけるような気がします。
ホタルは何年か前に、小さい谷川なのに残念なことにコンクリートで固めてしまってからは、もうわずかになってしまいましたが、それでも家のすぐ近くまで一つ二つと飛んでくる日があります。闇のなかに音もなく点滅するその光は、私たちの心をなんとなくしずめるはたらきを持っています。
また野生のクチナシの香りはほかにはかえることのできないものです。その花のすがたも純白の花びらと黄色のめしべの配色にはどこか気品があります。園芸品種のクチナシももちろん香りはあるのですが、野生の素朴な心をひく香りには及ばないようです。
○今月号で触れた星野富弘さんが描いた絵はがきは、あちこちの書店でいつも見かけるほど広く知られています。彼は、体育の教師になってわずか二カ月で事故を起こして、寝たきりになったので、絵の勉強を専門的にしたわけでもなく、詩の勉強もしたことがないにもかかわらず、このように専門的な画家や詩人をはるかにしのぐように広く知られるようになったのは実に不思議なことです。
これは、やはり今月の文で触れたように、神があらかじめ彼を特別な器として用いるためになされた神のわざであったのではないかと思われます。
彼がこのように知られるに至ったのは、まず耐えがたいような重荷を軽くして下さるキリストのもとに行ったこと、そしてそこから生まれた、植物への愛であったと言えます。
植物は山や林に行かなくとも、都会のただなかであっても街路樹とか公園、軒先の鉢植え、また病院の部屋にすらあります。どこにでもあり、しかも沈黙を守り、押しつけがましくなく、またペットのように手間がかからず、心を注ぐものにはだれにでも何かを与えてくれます。
そして、野草の小さいたった一枚の葉にも種類によっていろいろの変化があり、花も実に多様です。
そのかぎりない変化に富んだ姿は単調な生活を強いられる病院生活の人や、自宅療養の人にはとくに心の友になると言えます。
休憩室 2000年5月 第472号
○五月の植物
初夏となり、なにより五月は初々しい新緑が毎日心にうるおいを与えてくれる季節です。その新緑のなかで、さまざまの植物が花を咲かせています。
香りのよい五月の花と言えば、すぐに思い出す花があります。フジです。このフジの花はとくに有名なので知らない人はいないのですが、その香りが素晴らしいということはあまり知られていないようです。
五月の山間を通るときに、あちこちに美しいフジの花が見られます。柔らかな色調といい、その姿、そして香りもともに優れていて、神の芸術品のような気がします。
徳島でよく山間に見かけるのは、たいていは単にフジ(ノダフジ)といわれるもので、花の房が長く、つるは右巻きですが、徳島から香川にかけての阿讃の山では、つるが左巻きで花の房が短いヤマフジを多く見かけました。
同じフジでも、このようにいろいろの変異があるのは興味深いことです。
同じマメ科の樹木に咲く花で、やはりよい香りのする五月の花といえば、ハリエンジュです。これはニセアカシアとか単にアカシアとも言われ、何十年か昔によく歌われた歌に出てきたこともあって、広く知られていますが、本当のアカシアというのは、これとは別の木です。ハリエンジュは枝に鋭いハリがあるのでそう呼ばれています。
ミカンの花は、その香りがよいことを知らない人も多いようです。ミカンといえばまずビタミンCの豊富な果物としてのみ思い浮かべるからです。
しかし、その純白の花と心を引きつけるような香りもまた忘れられないものです。
○私の住んでいる徳島県小松島市の周辺では、シラサギといわれるコサギが多く見られます。また、黒みがかったゴイサギやうすい灰色がかったアオサギという種類も時には見かけます。このような比較的大きな鳥がのどかにすんでいることは心をなごませることです。
野草や樹木、そして小鳥や昆虫など、それらの自然の生物たちは人間の造ったものにはない、深みと味わいがあります。自然のなかでこうしたものに常に接している心には荒々しいものは生じないはずだと思われます。
最近の少年たちの悲しむべき事件の背後には、こうした自然とのふれ合いがあまりにも少ないということが一つの原因としてあるようです。
休憩室 2000年4月 第471号
○オランダの自転車専用道路は二万キロにも及ぶそうです。しかし、日本はわずか二千キロ。日本は山が多いのですが、面積はオランダの十倍ちかくあります。オランダは国民一人一台以上も自転車を持っている計算になるそうです。そして、自転車の保護政策を進めていて、車道を削ってまでして自転車専用道路を増やしたり、乗り捨て自由の無料自転車貸し制度も導入しているとのことです。
また、欧米では多くのところで、鉄道への自転車乗り入れは認められているのに、日本ではほとんど聞いたことがありません。
また、オランダに住んだ体験のある人の話では、一番印象に残ったのが照明の明るさの違いだということで、首都のアムステルダムの繁華街でも、大阪・心斎橋の明るさの10分の1くらいの気がしたと言っています。 家庭の照明も軒並み抑え気味で、初めは新聞も読みづらいほどであったとのことですが、慣れると目が順応してきたということです。
このような状態なので、日本に帰ったとたん、照明の強さがまぶしくて目を覆いたくなるほどの日々が続いたと書いてあります。こんなムダな照明をせめて半分にしたら、原子力発電所の一つくらいは減らせるのではないかと思ったということです。
しかし、いくら外側の照明を明るくしても、人間の心のなかまでは決して明るくはされません。かえって、強い照明のあふれる都会に住む人たちの心は暗くなっていくのではないかと思われるほどです。
まことに 御霊は光のごとく
心の闇を 照らしたまえり
わが心静かなり 嵐は止みて
イエスきみの み声のみさやかに聞こゆ(聖歌573番より)
○家庭から出る年間の食べ残しは、340万トンもあるそうです。これはなんと655万人分の食料に相当する量になります。他方、世界で飢えている人たちは八億人もいるということです。
「人は、パンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」というキリストの言葉が思い出されます。
飽食の人たちには、神の言が宿るなら、もっと食物を大切にするだろうし、簡素な食事に満足できるようになると思われます。神の口からでる神の言葉こそ私たちが待ち望むものですし、貧しさに苦しむ人たちにも共通して力を与えるものとなると思われます。
○アオジのさえずり
暖かくなってから現在もわが家の周囲では、ホオジロのなかまであるアオジという小鳥が毎日のようにさえずっています。この鳥は、本州中部から北の方で繁殖するけれども、冬には、暖かい地方に下ってくるので、四月いっぱいはたぶんわが家でもそのさえずりを聞かせてくれるだろうと思われます。
ホオジロは比較的高い木のこずえで、明るい声でさえずりますが、このアオジはもっと小さな声ですが、変化に富んださえずりを聞かせてくれます。朝に夕に、ほぼきまったところで歌っています。
人間の場合は、心を神に向け、神を心から信じていないと、神への讃美は生まれないし、また真実な讃美ともなりません。しかし、アオジやホオジロなどはいつも透き通ったような声で、ふつうに歌っているのがそのまま、神への讃美として聞こえてきます。
休憩室 2000年3月 第469号
○北斗七星
春になると、夜空になじみ深い星は北斗七星です。「斗」というのは、「柄杓(ひしゃく)」のことで、水をくむのに使っていた用具です。だから、北斗七星とは、北に見えるひしゃくの形をした七つの星という意味になります。
これは、三月下旬の午後七時頃なら、東の空から七つのひしゃくの形をした星が立ち上がってくるようにして昇ってくるのが見られます。柄杓の先端を五倍にのばしたところに北極星があるので、中学の理科で必ずといってよいほど学習することです。
しかし、実際に星を見るのは、夜でないと見えないこと、生徒たちを夜にわざわざ学校に来させることが困難なことから、ほとんどの大多数の生徒たちは、北斗七星を実際に見たもないままで卒業してしまい、もう二度と星の配置などのことは考えなくなるという状態です。
北斗七星は大熊座の中の尾と体の一部を構成している星で、星座名ではありません。しかし、昔は水をくむのにはどこの民族でも不可欠であった柄杓の形をしている上に、よく似た明るい星が七つ並んでいることから、どこの民族からも注目されてきました。
また、地球からの距離もこれらの星たちはよく似ていて、六十年光年~百五十光年の距離にあり、比較的近いところにある星です。
聖書にもつぎのように引用されています。
(神の)御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。・・
神は山をも移される。・・
神は大地をその立つ所で揺り動かし、地の柱は揺らぐ。・・
神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンを、すばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。(旧約聖書・ヨブ記九章より)
あなたは銀河をその時が来れば引き出すことができるか。北斗とその子星を導くことができるか。(ヨブ記三八・32)
これらの詩句を見ると、二千数百年昔にヨブ記を書いた大詩人はあの北斗の七星を見つめて神の創造の大いなるわざに思いを馳せていたのが感じられます。
○ホオジロ
小さい頃から、わが家のすぐ裏山の木の梢にとまって鳴いている小鳥をよく覚えています。澄んだ明るい声でのさえずりは、印象的であの小鳥は何という名前だろうかといつも思ったものです。
その小鳥の名前がホオジロということがわかったのはずっと後になってからでした。最近、暖かくなってあの懐かしいさえずりが、折々に聞こえるようになっています。ついこの間は、わが家の前の庭先をえさを探しながら飛び歩いていたのです。また、それから少し後には、家の前の小枝にとまってさえずっていたこともありました。わずか十メートルにも足らない近くでさえずりを目にしたのは初めてのことです。
野草や野鳥については、学校時代にほとんど習った記憶がありません。これは大多数の人にとっても同様のようです。小学校や中学の頃までに身近な野草や樹木ん、小鳥たちに親しむことは、その後ずっとそれらの身近な自然に対して親しみをもって見つめることになり、またそれらから善きメッセージを受け取ることにつながると思われます。
○梅と桜と、唯一の神への信仰
まだ寒さ厳しい頃から、梅はぼつぼつと咲き始め、それだけにいっそう心引く花だと感じられます。まだ他の草木が寒さのために眠っているようなときに、よい香りを放ち、そのうえに純白や赤い花を咲かせる姿は、私たちにもなにか清さを伴って感じられるものです。そしてかなり長いあいだ咲き続けることでいっそう寒さに耐え続ける姿を示してくれます。
桜にはそうした厳しさが感じられません。暖かくなって、卒業や入社、入学シーズンでもあり、また桜の下で花見と称する宴会なども結びつくからかも知れません。そして、いっせいに咲いたらそのあとは、たちまちいっせいに散ってしまうというはかなさがあります。桜の下の宴会の楽しさもほんのひととき、入学、入社の華やかさとか、ときめきもたちまち消えていくのとよく似ています。
このように同じバラ科で花の形や色も似ている花であっても、性格がかなり違っていて、人々に与える印象も対照的であるのは興味深いことです。
日本人は、桜の花をことに愛して、古来「花」と言えば桜を指すほどでした。このようにいっせいに咲いて、またたちまち散ってしまうはかなさが日本人の性質に合っていたからだと思われます。
このような傾向は、今月号の「初めに神は天地を創造された」の一文で述べたように、日本の古事記では初めに現れた最初の五つの神々が、まもなくいなくなったというはかなさに通じるものを感じさせます。
このように短命なもの、はかないものに引かれるということは、他方、自然の世界のうちで、最も永遠的で、その存在が確固たるものといえる星について、万葉集や古今集などはきわめてわずかの関心しか寄せていなかったことにもつながっています。
そしてこの傾向は、現在に至っても、最も永遠の存在である唯一の神への信仰を持つ人々の割合が他の国々と比べて特別に低いということも関係があると思われます。
キリスト者の割合を見ると、日本はわずかに人口の一%にも満たない状況で、百万人余りしかいません。
しかし、例えば日本に一番近い韓国は二十五%あると言われ、中国でも、キリスト者は最近では、二千万人から三千万人になっていると推測されており、これは人口の二%を越えていてますます増えているといいます。長い間、キリスト教が認められていなかった中国のような国でも、現在は日曜日に千五百人も集まる教会ができていて、座る場所がなくて立ったまま礼拝を受けるような教会もあるということです。(キリスト新聞・99年一月30日号による)
また台湾のキリスト者は人口の10%ほどで、フィリピンでは94%に及ぶのです。また、以前のソ連は38%ほどでした。(以上の統計は、「世界キリスト教百科事典」教文館刊による)
こうしたデータを見れば、同じアジアで日本を取りまく国々と日本では、実に大きい開きがあるのがわかります。
休憩室・ウメ、自然と人工、星○ウメ 2000年2月号
冬にはウメとスイセンがとりわけ印象的です。いずれも北風の吹くただ中にあって、美しい花を咲かせ、しかもいずれも心をひく香りをあたりに漂わせています。
ウメについては、わが家には白梅と紅梅があり、今年はことに多くの美しい花を咲かせています。
かつて旧約聖書の預言者エレミアはウメとほとんどよく似た冬に咲く花(アーモンドの花)を見るように神に導かれ、そこに神の言葉を聞き取ったことが思い出されます。他の植物はほとんど枯れたようになっているのに、一人目覚めて白い花を咲かせているあり様こそ、神の言を託されたエレミアの前途を暗示するものであったのです。
現代の私たちにもウメの清楚な姿はそれを通して何かを語りかけているようです。
○自然と人工
太陽はどんな仕組みであんなに膨大なエネルギーを放出しているのか、だれでも一度や二度は疑問に思ったことがあると思います。いくら大規模な山火事になっても、大火があっても少し離れたら熱くもなんともないのに、恐ろしく遠い太陽にあたると暖かく、日陰では寒く感じます。 それは想像もつかない仕組みであのような大量のエネルギーを出しているのだろうと思われるはずです。
それは、核融合といって水素の原子核が核融合をしてヘリウムになるときに莫大な熱エネルギーを放出するのです。
これは地上でもこの核融合を起こすことができるようになりました。それは、一九五四年にアメリカで完成された水素爆弾です。これは広島での原爆の一千倍もの破壊力を持っているものまで作られました。
広島原爆でも一瞬にして八万名が即死し、その後五年間の死者を併せると、その原爆のために二十万人もが犠牲となるほどに想像を絶する被害を与えるものでした。水爆はその広島原爆の一千倍の威力をも持つというのですから、これほど恐ろしい大量殺人兵器はありません。
原子力科学という最も時代の先端をいく科学技術の生みだしたものが、このようなおそるべき兵器であること、それは人間が物を作るという営みがいかに根本的な欠陥を伴うかを思い知らされます。
しかし、このようなおそるべき破壊力をもった核融合という現象によって、じつは人類、否すべての地球上の生物は生きているのです。それが太陽です。人間が作ると途方もない殺戮兵器となるのに、神はそれをはるか彼方に創造して地球での生活に不可欠なものとされているのです。
また、地球がどうしていつまでも熱いのか、時折噴火する火山などで私たちは不思議に思います。このことについていろいろと昔か考えられてきましたが、これもようやく百年ほどまえになって判明してきたのです。
この熱源の重要な一つに、地球内部の岩石のうちに含まれるウランやカリウム、トリウムなどの放射性元素が放射線を出しながら別の元素に変わっていくときに放出する熱があります。
例えば、カコウ岩なら、数千万年で自身を完全に溶かすのに十分な熱量を生じるということです。
このような一部の元素が壊れるときに放射線を出すという現象は、地上でも現在では原子力発電所の内部で放射性廃棄物として大量に生じています。これは何よりも取扱いの難しいものとなって、原子力発電の最大の難問の一つでもあります。例えば、プルトニウムはその放射能が半分になるまでに二万四千百年もかかるのであり、これは人間の生活する時間から言えば、事実上永久的と言ってよいほどに放射線を出し続けるのです。
自然界ではこのように太陽にしても地球にしても、莫大なエネルギーや危険な放射線を出す現象が驚くべきことですが、たくみに地球上のあらゆる生物を活かすことにつながり、そのエネルギー源ともなっているのです。
○冬は星が一年中で最も美しく、かつ清く見える時です。冬には戸外で花火とか飲み食いで遊ぶ人も少なく、静かな戸外で凍るような冬の夜空を見ると、自然のなかでは最も私たちを高みに引き上げてくれるものです。
この星の世界の深みについて哲学者カントの有名な言葉が思い出されます。それは、彼の三つの代表的な著作の一つ「実践理性批判」の結論に書かれている言葉です。
「くりかえし、じっと反省すればするほど常に新たにそして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心を満たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空と、わが内なる道徳律である。」
星の輝く大空を見つめるとき、そこに無限に広がる宇宙を創造した見えざるお方へのおそれを呼び覚まされます。
そして私たちの精神の奥深くに、真実なもの、正しいものを直感的に感じとり、そうした真なるものへ近づきたいという深い要求があり、「なすべき」世界があることを感じるものです。この二つによって、私たちの外なる世界と内なる世界の双方に無限なる世界があることを知らされ、神の御手をそこに感じさせるものがあります。
キリスト者の俳句から○祈ること怒涛のごとし去年今年
○一冊の聖書がいのち冬ごもり
・これはハンセン病に苦しみつつも俳句にその信仰の心を歌った、玉木愛子のものです。ここには、手足の自由もなくなり、目も見えなくなってしまった彼女は残された仕事として祈ることを心をこめて続けていたのがこの俳句でうかがわれます。 祈りに力をこめ、怒涛のごとくというほどに祈りが波のように押し寄せてきたのを感じているのです。
○一行の詩はわが祈り寒の星
・植木道子さんの俳句で、「ベテスダ奉仕女母の家」にて奉仕女性として社会福祉の働きをされている人だということです。一行の詩とは俳句のことですが、その短い俳句に祈りをこめ、冬空にきらめく星がその祈りの心に近いものとなって感じられる様子が歌われています。
休憩室 年賀状、木の実 2000年1月 第468号
○年賀状
毎年新年には、多くの方から年賀状を頂きます。私のほうは毎年「はこ舟」誌を送っているので、年賀状を出す余裕がなく、何らかの理由がある場合以外は、出していません。
年賀状を形式だから止めよう、虚礼廃止ということもずっと以前からよく言われてきました。しかし、私が頂く年賀状のなかには、年賀状に自分の今までの歩みや、家族の歩みなどを書いてその反省と新しい年への願いを書いたもの、または、聖書の言葉を書いて、受け取る人が少しでも神の言に関心を持ってもらいたいとの願いを込めて出しておられる方もいます。
日本人の平均的な人では、一年間に手紙を書くのはわずかに数通だと聞いたことがあります。
このような状態のなかで、神の言を書いて日頃連絡もしない人に送るのは、そこに祈りが込められているなら、神が用いて下さる器となると思われます。
今年頂いた年賀状に記された聖書の言葉の中からいくつかをあげてみます。
・私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。(ヨハネ福音書一・16)
・主があなたに対して抱いている計画は、平安と将来と、希望を与えようとするものである。(エレミヤ書二十九・11)
・私たちの国籍は天にある。(ピリピ書三・20)
・主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。(詩編三十七・23)
・あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(詩編一一九・105)
・主を待ち望め
雄々しかれ
汝の心を堅うせよ
必ずや主を待ち望め (詩編二七・14)
これらの聖書の言葉は、短いけれども、永遠の真理です。数千年をも越えてきた味わいがあります。そのように長い間、人の心を流れてきた真理なので、もし新年にあたってこうした一つのみ言葉が私たちの魂に深くとどまるならば、その年賀状は軽い一枚の紙ではあっも、重い意味を持ったことになります。
○冬になっても赤い実を残している植物があります。わが家の周辺で見られる野生植物のうちには、ヤブコウジ、カラタチバナ、マンリョウ、カラスウリ、ソヨゴ、サネカズラ、サルトリイバラ、シロダモなどがあり、栽培しているものには、ナンテン、ピラカンサ、オモト、フユサンゴといった植物たちです。
また、黒い実をつける植物たちには、ヒオウギ、ネズミモチ、ヤブラン、クスノキ、ヤブニッケイなどがあり、紫色の実には、ヤブムラサキ(ムラサキシキブのなかま)、そして白い実をつけるものでは、スズメウリ(カラスウリの仲間)や、街路樹や公園樹としてよく植えられているナンキンハゼなどが思い出されます。
これらのうち、市街地でも見られるものは、クスノキ、ナンキンハゼ、トウネズミモチ(公園などでは野生種のネズミモチはあまり見られない)、ムラサキシキブ、ピラカンサなどの実だと思われます。
このように、植物たちは、その木の姿や、葉、花などのの形、色、表面などみないろいろと違っていますが、実もまたさまざまの形になって直接的には、小鳥たちの冬季における貴重な食物となっていますが、私たち人間にとっても、生活に潤いを与え、花が終わったのちにまた、新たな美しさを私たちに見せてくれるものとなっています。このようにして、神が創造された自然の多様性の素晴らしさを年間を通して私たちに知らせてくれるものとなっています。
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