休憩室(2001年)

st07_m2.gif休憩室   200111月 第490

○十一月中旬に、松山を経て四国の西の端、佐多岬半島を経て大分から阿蘇を通り、熊本にまで初めて車で通る機会がありました。ちょうど、秋の紅葉の季節で、山々の随所に赤く、黄色、褐色の葉が見られ、彩りゆたかな行程でした。佐多岬半島の山間では、あちこちに真っ白い花びらをもつ、リュウノウギクが見られて目を楽しませてくれました。このキクは徳島ではわずかしか見られないのに、佐多岬半島では多くの群生が見られて、大分県に渡った所でも、海岸沿いの山肌にこの白いリュウノウギクがよく見えました。地域によってある野草の分布が大きく異なる例だと感じます。

○冬が近づいて夜空は星たちの美しさが目立つ頃となっています。夜十時頃に東の空に向かって立つと、まず目に入る際だって明るい星、じっとまばたきせずに輝いている星が見えます。それが木星です。またその南(右方)にはオリオン座が見えています。そしてオリオン座の上方に雄牛座の一等星(アルデバラン)が赤く輝きそのすぐ横に並んで見えるのが土星です。土星はまはたきをしないこと、アルデバランは赤い星であることなどから、この区別はすぐにできます。一年中で最も明るい星が多く、しかも天の一部分に集まるようにして輝いているので、月のない澄んだ夜には壮観ともいうべき星の輝きを見ることができます。
 
○柿の木
 わが家にはもう五十年以上も実をつけ続けている渋柿の木があります。なにも肥料もやらず、剪定などもほとんどしないのに、毎年実をつけます。柿の実る頃は葉も色づき、実も秋の空や緑の山に映える赤い色となり、秋らしい雰囲気をたたえてきます。そのような中で、実は熟柿となり、甘く柔らかくなります。柿は葉が薬用ともなり、実は栄養豊かな食物、そして秋になると外観は秋らしさを添える木であり、日本で古来親しまれてきたのもうなづけます。また柿の学名は、Diospyros kaki(ディオスピロス カキ) と表され、その前半の Dios とは、ギリシャの神を表し、pyros とは、穀物(小麦)を意味します。それで、柿の学名は、「神の食物」という意味になります。このような学名がつけられたのはそれが栄養豊かで美味であるからだと思われます。


休憩室   20019月 第488

○シュウカイドウ(秋海棠〕

 秋になって、日本的な落ちついた感じを漂わせる花、それがシュウカイドウです。この名前は秋になって咲く「海棠(カイドウ)」に似た花という意味です。やや日陰のしめったところによく育つもので、ベゴニアの仲間です。
(学名をベゴニア・グランディス・ドリィア Begonia grandis Drya.といいます。)
 ベゴニアは丈夫で一般の家庭や花壇にもよく見られるものですが、シュウカイドウは、少ししか見られません。
 もともとは、中国からマレー半島に自生する植物。江戸初期の渡来とされています。
 半日陰で多湿の所でよく育ち、東洋的感覚の草花で古来文学・美術の材料となってきたということです。中国の最初の花の事典である『秘伝花鏡』(1688)という本において「秋色中第一となす」とたたえられているということです。わが家にも以前からあって、毎年その控えめな花の色(うすい赤色)と姿がその名前とともに、秋の到来を感じさせてくれるものとなっています。
 自然のたたずまいは、人間の世がどのような混乱や動揺、悲しみや苦しみがあろうとも、何千年もそれ以上も変わらぬ姿を私たちに示しており、人間にむかって、「静まれ、万物の創造の根源である神に立ち帰れ」と告げているようです。

○松虫と鈴虫

 現在では松虫は、チンチロリンと澄んだ声で鳴く虫のことで、鈴虫とは、リーンリーンと鳴く虫のことです。しかし、平安時代では、逆であって、リーンリーンという鳴き声は、松風の音に似ているということで、松虫と言われたといいます。たしかに、現在では松虫と言われるチンチロリンという鳴き声は鈴を振るような鳴き声でもあります。(なお、いまのキリギリスは当時ではコオロギを指していたと言われています)
 コオロギを捕らえてみた人は知っていると思いますが、あの薄い羽でどうしてあのように美しい鳴き声が出せるのか驚くべきことです。子供の時、エンマコオロギなどを飼育してその鳴く様子を観察したことがよくありましたが、捕らえてその羽をこすっても決してあのような音は出ないのに、といつも不思議に思ったのを思い出します。人間の作った楽器でも、あのように薄く単純なように見えるものでかなり大きい音を出すのはありません。神の御手によるならば、あのような薄い羽をも立派な楽器とすることができるのだとわかります。
 夜の集会の帰りには、とくに大きい川の堤防道路において虫の音は最も豊かです。さながら、一大交響楽のようにさまざまのコオロギやクツワムシなどが讃美を繰り広げています。


st07_m2.gif休憩室   20018月 第487

○血が固まりやすい
 私たちは心配をしたり、恐怖を持ったり、あるいは不安や怒りが、体内の血の状態と関係があるとは、ほとんど考えてもみないことです。しかし、この点について、学生の試験などを用いて実験したところ、試験中には、血液が凝固する時間が非常に短くなっていたということです。また、ある人たちに検査、採血するといっておいたところ、不安を多く持った人ほど、血が固まりやすくなっていたとのことです。*
 ようするに、緊張したストレス状態では血が固まりやすくなっている、そのほかにも、こうしたデータがあるとのことで、私たちの心の動きと無関係なように思われる、体内の血液の状態が深く関わっているということに驚かされるのです。
 血が固まりやすい状態となっていると、脳梗塞、心筋梗塞といった病気になりやすくなるし、老人性痴呆の多くは、血管性のものと言われており、血が固まりやすいという状態は、脳や心臓といったとくに重要な部分に大きな影響を及ぼすことがわかります。
 しかもそれが心の状態と深く関わっているというのです。
 こうした点を考えると、聖書で言われている、主にある平安、主にある喜びや感謝ということが心身によい影響を及ぼすことがわかります。

*)「血液の不思議」70P 講談社刊

○八月も終わりに近づき、ツクツクボウシが夏の終わりを告げています。都会でも公園などの木にはセミが多くみられて、日本ではどこにでもなじみ深い昆虫です。セミは、はかない虫の代表のように言われます。しかし、幼虫として土のなかで、数年から十七年も生きていると言われます。アブラゼミ、クマゼミなどなじみあるセミは、六~七年、アメリカの十七年ゼミといわれるものは、その名の通り十七年も地中で過ごすのです。
 このようなセミでは、地中が本当の生活で、わずか十日ほどの地上の生活はほんの仮の生活のようなものといえます。そのとき、自由に空中を飛びまわり、大きい声でなくのです。しかしそれは本当にはかない期間です。
 私たち人間のことを考えてみますと、地上の生活はせいぜい七十年~八十年ですが、神を信じて生きた者は、死後にキリストと似た姿へと変えられて天の国にて、神やキリストとともに永遠に生きると約束されています。この永遠の命に比べると、地上の生活はほんの短い一瞬で、仮の生活のようなものです。そして、この肉体という衣を脱ぎ去ったあとの、天での生活こそが、私たちの本当の生活でそこにいたるまでの準備期間が地上の生活だと言えます。天での生活はもはや終わることなく、苦しみや悲しみに悩まされることもなく、過ぎ去ることもないのです。


st07_m2.gif休憩室   20016月 第485

○ビワ 六月の果物のなかで昔から日本になじみが深いのが、ビワです。私たちの集会場の庭にあるビワも実を多くつけています。日本では、ただビワの実を食べるためだけの樹木として見られているし、その葉が大きいので嫌がられることも多いようです。
 しかし、私の手元にあるアメリカ発行のある園芸図鑑を見ますと、ビワの園芸樹としての特質を次のような一言で説明してあります。
「立派な(美しい)葉をもった、常緑の木」(an evergreen tree with handsome foliage. なお、handsome という語は、普通に知られている美しいという意味の他に、堂々とした、立派なという意味があります。)
 またその用途としても「その装飾的な葉のゆえに、ほかの木とは隔離して用いられる。または温かい地方では果樹として」用いられると説明してあります。
 このような記述からわかるのは、ビワはアメリカなどでは、その立派な(美しい)葉が主たる目的で用いられるということなのです。
 ビワの木をこうした目的で植えるなどということは日本では聞いたことがありません。ましてビワの葉を立派とか堂々として美しいというようなニュアンスでは決して見ないのです。むしろ逆にその常緑の大きい葉が日陰を造るので嫌われることが多いのです。 
 同じ一つの植物であっても、いかに異なる受け入れ方があるかを知らされます。
 一つの物事も同様で、ある人によっては全く違ったように受け取られることがあります。
 ある習慣とか伝統も他国では、まったくなされないこともよくあります。
 しかし、キリストの真理は、どんな風俗や習慣の人にも、またどんなに伝統や生活が違っている人にもそのままで全世界共通に通用するということは、驚くべきことです。人間にはじつに多様な性格や習慣があるのに、そうしたあらゆる伝統、習慣を越えて共通して伝わるものがある、それがキリスト教の真理だと思われます。

○六月の野草
 ・野山に咲く野草のうちでは、私にとってとくにウツボグサとオカトラノオが身近なものです。ウツボグサは、その青紫色の美しい花がその素朴な姿とともにだれにでも心に残る野草と思われます。咲けば心安らぐような美しい花ですが、それが終わって花が枯れるとその花穂(かすい)が、茶褐色となり、それ全体がその方面ではよく知られている薬草となります。それは夏に枯れる草という意味で夏枯草(かこそう)と言われます。
 薬草というと、たいてい根や葉が多いのですが、このように花の終わった後の枯れたものが用いられるというのは少ないように思われます。
 オカトラノオは純白の花が、トラノオのように美しい花穂となって次々に咲いていく花です。これも見つければ誰もが心に残る花だといえます。
 こうした花を山野で見つけると、神の国の静けさや美しさ、あるいは清さなどをしのばせてくれるものです。

○ホトトギス
 五月の終わりから六月にかけて、わが家の裏山で、ホトトギスの印象的な鳴き声(キョッキョ・キョキョキョ)がよく聞こえてきました。小さな谷を越えて朝や夕方、そして時には夜でもその強い鳴き声は響いてきたものです。鳥には多くの種類があり、さえずり、鳴き声はいろいろですが、ホトトギスはとりわけ心になにかを訴えようとしているような力を感じます。
 ホトトギスは、万葉集、古今和歌集、源氏物語、枕草子などにも取り上げられ、古くから特別な鳴き声が多くの人の心を引きつけてきたのがうかがえます。
 近代においても、徳富蘆花の有名な長編小説「不如帰」(ホトトギス)の題名にも使われ、正岡子規が援助して創刊され、高浜虚子が継承した日本の俳句誌として広く知られている「ホトトギス」にもその名が用いられています。


st07_m2.gif休憩室   20015月 第484

火星の接近
 夜中頃には、南の空に夏の代表的な星座であるさそり座が見えてきます。そのさそり座には、赤い一等星が見えますが、その左(東)の方には、赤くて強い輝きの星が見えます。それが火星です。火星は二年二カ月ごとに地球に近づきます。今年の六月二二日が最も近づく日なのです。さそり座の一等星はアンタレスという名です。これは、アンチ+アレス という言葉であり、いずれもギリシャ語でアンチとは「反対、対抗」、アレスとは、火星のことです。それで、アンタレスとは、「火星に対抗するもの」という意味になります。火星に対抗するように赤く、明るい星ということから名付けられています。

○明けの明星
 去年の秋から今年の二月頃までは宵の明星として、夕方に目だった輝きを見せていた金星は、現在では朝に東の空で明けの明星として輝いています。夜明け前に東の空を見れば、だれでもただちにわかるすばらしい輝きの星です。
 金星のあの強い輝きは、何によってあのように光っているのかといえば、それは太陽の光を反射して輝いているわけです。金星には、とくに濃硫酸の厚い雲が被っていることが分かっており、太陽の光は直接に金星の大地から反射しているのでなく、雲からの反射の光です。
 金星の強い輝きは聖書の時代から注目されていました。昔は、電気もなく、夜の闇は現代とは比較にならないほどであり、その闇のただなかに目立つ大きな星は、聖書を書いた人たちにもことに印象的であったのがうかがえます。


st07_m2.gif休憩室   20014月 第483

○スミレ

 春の代表的な野草として、スミレがあります。わが家は低い山の斜面にあるために、こどもの時からスミレにはなじみがあります。また大学時代には京都北山から福井、滋賀県にかけての山々のかなり広い領域をよく歩いたので、その折にもスミレをあちこちで見かけたものです。

 山を歩いていて、一番多いのは、タチツボスミレです。山道に群生しているのはほとんどこの種です。スミレはこれとは違って多く群生はしないのが普通です。わが家のすぐ裏にもタチツボスミレの自生が見られます。

 また、白いスミレとして比較的多く見られるものには、ツボスミレがあり、山道に時折一つ二つと見られるのは花が赤紫で美しいシハイスミレです。また、稀なものとしては、葉が深く分かれている白いスミレであるエイザンスミレがあります。これは野生のものとしては七百メートルほどの山で一度見ただけです。

 スミレは雑草として繁ることなく、またいたるところにあるわけでなく、思いがけないところの山道や山の斜面に少し見られること、その濃い紫色がことに印象的なこと、その自然に見られる姿がひかえめで、花の咲いたあとも地味なものです。しばしば野草は、夏には背も高くなって、生い茂ったり、種が衣服にくっついたり、あまり見よいものでなくなりますが、スミレはそうした点でも万事ひかえめです。

 こうした点からも、芭蕉が「山路きて なにやらゆかし すみれ草」と歌ったのも共感できます。自然のままの山道でスミレを見つけたときには、たしかに、何となく心ひかれるし、なつかしいような気持ちにさせてくれるものです。

 この芭蕉の句は、多くの人のスミレに対する気持ちをいわば代弁して歌ったもので、日本人の心にスミレが深く刻まれていることの証しとなっています。


リストボタン休憩室   20013月 第482

北斗七星と北極星
 春になれば、北の空には有名な北斗七星が上ってきます。三月の下旬の夜七時頃に、北の空を見れば、はっきりとわかる柄杓(ひしゃく)の形をした七つの星が上ってきているのが見えます。
 こどもの頃から、北斗七星はなにか心ひかれる星の集まりでした。それは昔よく使っていた柄杓(ひしゃく)の形そっくりであり、どうしてあんな夜空にきれいな形をしてあるのだろうと思ったものです。まだほかの星座のことは知らなかったときからすでにこの七つの星たちは宇宙の無限の世界へと誘うものがありました。
 北斗七星の七つの星のうち、六つは二等星で一つだけ三等星なので、北の空が見えるところなら、だれでも見つけるのは容易です。
 その北斗七星の柄杓の先端の部分を五倍延長したところに北極星があります。これは二等星なので、北斗七星からたどっていかないと、すぐには見つけられない人が多いと思います。
 北斗七星と北極星は、世界中で、はるかな遠い昔から人々のつよい関心を集めてきました。北極星は動かないように見えるので、方角を知るためにきわめて重要であったのです。じっさいは動いているのですが、数百年といった時間ではほとんど動かないように見えます。
 北極星を見つめていると、太古の昔から、無数の人々がさまざまの思いをこめてその星を見つめてきたその歴史が感じられるようです。ことに、船で航海する人たち、砂漠を行く人たちなどにとっては、きわめて重要なものだったのです。彼らはどのような思いでその危険で長い旅をしていたでしょうか。星の正体は古代には全くわからなかったので、光輝く神秘とその清い光は、人々の心を清め、また大きく広げる役目をもしたと思われます。
 北極星はあまり明るい星ではないのですが、太陽より八十倍ほども大きく、数千倍も明るい星です。地球からの距離は、およそ八百光年ですから、今見た北極星の光は、八百年前、つまり鎌倉時代の初め頃、源頼朝のころに出た光だということになります。
 地球は少し遅くまわるようになったコマのように、首ふり運動をしています。そのために、だんだんと北極を指す星も変わっていくのです。いまの北極星は、今から一千年もすれば、北極からだいぶ離れてしまい、北極星としての意味はなくなります。
 また、今から四千年ほど経つと白鳥座のデネブが北極を指すようになり、さらにそれから四千年ほど経つと、こと座の一等星であるベガ(織女星)が北極を指すようになります。現在はこのベガは、夏の夜にはちょうど頭上に輝いているのですが、長い期間にはそのように大きく位置が変化していくのです。
 こうした現象の原因は、地球の首ふり運動なので、二万六千年ほどでふたたび、現在の北極星が北を指すようになるのです。

春の植物
 春にまだほかの植物がほとんど眠っているような頃に咲き始めるのは、ウメやフキノトウです。ウメが大多数の日本人にとって親しい花であるのは、まだ雪が降るような季節からすでに咲き始めること、その姿や形、そして香りです。冬の厳しい寒さにも負けないで咲いているその姿にだれでも心ひかれるものです。
 それからトサミズキの控えめな花があります。うすいきみどり色で、葉も出ないうちに花が咲き始めるので好む人も多い花です。
 春先の花で、香りの強い花として広く親しまれているのは、ヂンチョウゲ(沈丁花)です。一枝を小さな花びんにいけてあるだけで、部屋中がその香りで満たされます。人工的なもので満ちているなかに、この自然の香りは神の国の消息をなにか告げてくれているように感じます。
 内村鑑三も、つぎのように述べています。
 神はすべての道をもって私たちを恵もうと願っておられる。心の内において福音によって恵み、目からは、美しい風景や草花や小鳥など自然の風物をもって、耳からは音楽をもって、また匂いをも用いて私たちを恵もうとされている。私たちは神からの恵みの道をどれもふさいではならない。私の机の上には聖書があり、野草の花あり、造花あり、絵画あり、また香りを出すものもある。私はこれらのすべてを喜ぶ。私はこれらのすべてによって神を知る。(「一日一生」より)


st07_m2.gif休憩室   20012月 第457

心に残っている音楽家から

 キリスト者にとって音楽といえば、讃美歌や聖歌、ゴスペルソングなどが不可欠なものです。それらは魂を養い、力付ける働きを持っています。

 また、音楽の素人にすぎない私にとっても、今から三百年ほど昔の音楽家、バッハの音楽は深いキリスト教信仰を響かせているのを感じます。

 バッハの音楽のうちで初めて耳にした時から心に残っているのは、中学のとき聞いたトッカータとフーガです。それは、子供の心にも強い印象を残したものです。そして何十年の後の現在でもやはり、ト短調小フーガや、バッハのマタイ受難曲のような作品は、目には見えない世界の扉を開いてみせてくれるようなところがあり、心に霊的な養分を与えてくれます。ベートーベンやモーツァルトなどのピアノ曲ととにも、礼拝講話の準備とか原稿を書くのに疲れた頭を少しの間聞くだけでも、しばしいのちの泉から汲むように休ませてくれる場合が多いのです。

 バッハについて、二十世紀前半を代表するドイツの音楽史家の一人と言われる人がつぎのように書いています。

 バッハは、「自分の時代を超えて立つように見えて、あらゆる人々のうちで最も偉大な、最も不可解な音楽家は、バッハである。・・バッハは一つの時期を完成した者にとどまるのでなく、数世紀わたる(音楽の)完成者であり、成し遂げた者なのである。」

 彼は、・・ロ短調ミサを書いた。この作品は決してカトリック的創造ではなく、プロテスタント的創造でもない。これは神への信仰告白であり、神を描き出した作品なのである。・・バッハは五百年後の音楽においても、たとえば五百年後、六百年後のイタリア文学におけるダンテのように、偉大で究めがたく、生き生きとして、汲みつくしがたく立っていることであろう。・・彼はいっさいの国民的限界を打ち破るほどに偉大である。彼はドイツ音楽を代表するのでなく、音楽そのものを代表するのである。(白水社「バッハ」の中のアルフレッド・アインシュタインの文より)

パソコンと聖書研究

 パソコンはますます一般的となって、パソコン販売の店には、老若男女のさまざまの人たちが見られるようになりました。十四、五年前に初めてパソコンを使い始めたころとはまったく様子が変わってきました。

 パソコンがなくても生活はもちろんできます。しかし、キリスト者の方でつぎのような目的を持っている人には、とくに役立ちます。

 キリスト者で聖書をとくに原語を学びたい、原語を参照しつつ、日々聖書を読んで行きたいという人。この場合には、書物とは比較にならないほどの有用なものです。私は、ギリシャ語研究には、以前はアメリカやイギリスで発行されている行間逐語訳(INTERLINEAR版)と、やはりアメリカで発行されている分厚いギリシャ語辞典とか、逆引き辞典を用いて四苦八苦しつつ、その変化形を知り、意味をたどっていたものです。しかし、パソコンによってそうした各種の分厚い辞典をいくつも机に広げる必要がなくなり、原語と、訳語の意味の差、どのように聖書で用いられているかなどが断然はやく、簡単にできるようになりました。聖書のそうした研究的な学びをパソコンを用いてぜひと希望している人で、近くに相談できる人がいない方は筆者までご一報下さい。


リストボタン休憩室   20011月 第465

水と酸素、植物

 植物には水がなければ育たないということはだれもが知っていることです。しかし、なぜ水がなかったら植物は生きられないのかと問われると、さて?と首をかしげる人も多いと思われます。
 水は植物が地中から取り込んだ栄養分を溶かし、それを植物体内に運びます。また細胞内でさまざまの複雑な化学反応をするためには水がなければ反応は起こらないのです。例えば、私たちが毎日不可欠のものとして食べているご飯やパンなどは植物が作ったでんぷんを利用しています。そのでんぷんは細胞内の水のなかで複雑な光合成という反応があってはじめてできるのです。
 さらに、私たちは生きていくためには酸素を取り込み、体内で生じた二酸化炭素を外に出す必要があります。しかしそうした反応もまた水がなければ生じないのです。生き
ていくには酸素が必要だ、これはだれもが知っていることです。しかし、その酸素はいったん水に溶けてから、細胞内に入るのです。水がなかったらいっさいの反応は生じないので、生きられないのです。
 水の役目はそれだけではありません。じつは、私たちが呼吸している酸素は、植物が地中から吸収する水が分解されてできた酸素なのです。水(HO)は水素と酸素とが結びついた物質ですが、その酸素が植物体内で引き離されて外に出され、それを私たちが利用しているのです。
 このように、私たちが無意識で吸って生きている酸素はじつは植物が地中の水を吸い取ったものから生じたのです。いかに、植物が重要であるかがこうした点を考えてもわかるのです。
 野や田畑、あるいは山々に無数にある植物、それらの体内において水が重要なはたらきをしたあとで、分解されて、外に出て、それが私たちの呼吸する酸素になって私たちの体内に入り、今度は私たちの体内で私たちが取り入れた食物を燃焼させて、私たちは生きるエネルギーを得ているのです。
 そしてそのような驚くべき仕組みを創造された神の無限の英知の深さを知らされます。
 今から二千五百年ほども昔の預言者がつぎのように、水がつぎつぎと自然のなかをめぐって大きい役割をはたしていることを指摘して、さらにそのように、神の言葉も着実にそのはたらきをしているのだと言っているのです。
 物質の世界もよく見てみると、精神の世界、目に見えない世界のことをしばしば象徴的に指し示しているのに気付くのです。

 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ書五十五・10

冬の星座

 今年の冬の星空は、三つの特に明るい惑星が見えるために、いっそう目を引く夜空となっています。夕暮れには、西の空に強い光で金星が宵の明星として輝き、夕方に南西の空に目を向ける人には必ず著しく明るい星として目に止まります。ことに、冬の冷たい風が吹きつのる日が暮れてまもない頃に、冷たいけれども澄み切った大気のなかに、私たちの心を引きつけてやまない星です。
 そして南から東の方に目を転じていくと、やや高いところに土星、木星の二つが並んですぐに目をとらえるような目だった明るさで輝いています。木星と土星を南西へと延長して下ろしていくと金星に届きます。
 木星と土星のすぐ近く(東側に見える)には、最も有名な星座であるオリオン座があり、それは、ベテルギウスという赤い色の巨星と青い色のリゲルという一等星を持っています。その近くには、大犬座があり、それはシリウスという恒星のうちでは最も明るい星が輝いています。オリオン座を見たことがないという人もいますが、青い星と赤い星の一等星と、二等星を五つも含むので、すべての星座のうちで、最も明るい星を多く含む星
座であり、最も見つけるのも簡単です。見たことのない人は、ぜひこの冬の間に見つけて欲しいものです。
 その他にはつぎのような明るい星を持つ星座があります。(かっこ内はその星座に含まれる一等星またはそれに準じる明るい星です。)
 大犬座の上の方には小犬座(プロキオン)、そしてその上には、双子座(カストルとポルックス)といって、二つの明るい星が並んでいるのです。オリオン座の上の真上に近いところでは、五角形をしたぎょしゃ座(カペラ)も見えます。
 このような夜空の星を見ることによって、私たちは神の創造の力の大きさと広大さを強く感じることができるからです。

神である方、天を創造し、地を形づくり、
造り上げて、固く据えられた方、
混沌として創造されたのではなく、
人の住む所として形づくられた方、主は、こう言われる。
わたしが主、ほかにはいない。(イザヤ書四五・18

 このように、旧約聖書の預言書も、しばしば神を思い起こすときに、天地を創造されたお方であるということを同時に思い起こすようにうながしています。この無限に広がる宇宙をも創造されたのが私たちの信じる神であるならば、どんなことをもなすことができるという確信を強くされるのです。