休憩室 2002年12月 第503号
○再び、明けの明星、木星、火星などについて
前号で、今、明けの明星として夜明けの空に強く輝く金星のことを述べましたが、それ以来、何人かの人は金星を初めて見たとか、あんなに強い光の星だとは知らなかったと言われています。
ついでに、明け方まだ暗いうちに、金星よりも、高い北寄りの空に赤い火星が見えますから、それもぜひ見てほしいものです。それから、同じ夜明け前の南西の高いところには、やはりとても強い輝きの木星が見えます。ですから、天気のよい夜明け前の夜空には、東からは金星と火星、目を南西の高い空に転じれば、木星が競うように輝き、私たちの心を引き寄せてくれます。これらの星は、星座のことをまったく知らなくとも、その輝きの強さですぐにわかります。またこの三つを同時に見たことのある人はとても少ないと思いますので、神の創造された宇宙への関心を深め、天からの光の贈り物を受け取るためにも一度早起きして見て頂きたいと思います。
勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。…
わたしはまた、彼に明けの明星を与える。(黙示録二・26~28より)
このように、金星はキリストの象徴として、信仰を堅く持ち続けるものに与えられると書かれてあります。明けの明星のつよい輝きを見つめていると、いまから二〇〇〇年前の黙示録の著者がやはりこの星を見つめていて、キリストご自身をこの強い光と重ね合わせていたのだと思われ、私たちの心を時間と空間を越えて運んでくれます。
休憩室 2002年11月 第502号
○秋の夜空
最近、夜明けには「明けの明星」として知られる、金星が夜明け頃に輝いています。明け方の静まった大気のなか、多くの人たちがまだ目覚めていないときに、夜空の闇にひときわめだって輝いているのが、金星です。明け方に戸外に出て、星をしずかに眺めるということはほとんどの人にとっては、経験していないことと思います。
しかし、明けの明星をまだ見たことのない人は、ぜひ夜明け前の五時半ころに起き出して、東の空を見ることをお勧めします。星座にはまったく分からないという人でも、必ずただちに見付かる強い輝きです。古代からそれは見る人に特別な感慨を起こさせてきた星であり、人間のちいさな小さな世界から翼を与えられるような、人間世界とは別の国からの輝きのような気がするほどです。それはじっとまばたくことなく、私たち人間を見つめるかのようです。
聖書の最後の書である黙示録には、つぎのように記されています。
…わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16)
なお、まだ夜明け前の暗いうちなら、その金星のすぐ上に、金星ほどではないけれども赤く輝く星が見えます。それが火星です。
また、土星は、夜中に見えてくるオリオン座のすぐ上に見えます。木星は、ややはなれて、東から登ってきます。
休憩室 2002年9月 第500号
子供の詩から
きせつのプレゼント
神様は、
きせつごとにプレゼントをくれる
春は、
少し寒いから温かい風と花をくれる
夏は、
暑いだけじゃさみしいから、
せみの鳴き声をくれる
秋は、冬ごもりする動物のために
果物をくれる
冬はしんとして、さみしいから
雪をくれる
神様は、
きせつごとに、プレゼントをくれる
これは小学五年の女生徒が作った詩です。朝日新聞に掲載されていたものです。
一般の新聞や雑誌に、天地創造の神のことが出てくるのはほとんど見たことがありません。「読者の声」の欄においても、そうした内容のものは除いているようです。
そうした中では、このような詩は、珍しいことです。
なお、この詩の評者はつぎのようにコメントしています。
「…神の視点で愛の心を歌うのです。創造主(神)の愛を季節(自然)に重ねて歌ったところが光ります。しみじみとした感動のこみ上げてくる詩です。」
休憩室 「真白き富士の根」と讃美歌 2002年8月 第499号
○「真白き富士の根」といえば、今から九〇年ほど昔、鎌倉の七里ヶ浜で逗子開成中学生の乗ったボートが遭難し、十二人の生徒の命が失われたことを記念して歌われたものだと知られています。
真白き冨士の根 緑の江ノ島 仰ぎ見るも今は涙
帰らぬ十二の 雄々しき御霊に 捧げまつる 胸と心
この事件は、一九三五年に映画化もされ、この曲はその主題歌として広く知られるようになったとのことです。私も子供のときに七里ヶ浜のことを母から聞いたり読んだことを覚えています。
そういうわけで、私はずっとこれは日本の歌だと思っていたら、そうでなく、原曲は今から百六十年ほど昔にアメリカ南部讃美歌集に讃美歌として掲載されたものです。作曲者は、インガルス(JEREMIAH INGALLS) です。その讃美歌の歌詞は、つぎのようなものです。
「主が、その庭(garden)に入って来られる。そうすると、ユリは成長し、茂ってくる」
The Lord into His garden comes …The lilies grew and
thrive …
そのために、この曲名は、GARDEN と名付けられたのですが、これが間違って、作曲者の名だとされて、ずっとこの曲の作曲者は、「ガードン」ということになってしまいました。(讃美歌には作詞者、作曲者名と別に、讃美歌の楽譜の右上の作曲者名の上に、その曲名が記されています。)なお、作曲者は、インガルス(Jeremiah Ingalls)です。インガルスは、もとは、讃美歌とは関係のないふつうの曲であったものの一部をとって、それを編曲して現在の曲にしたということです。
現在発行されている、一般向けの歌集にもこの曲は含まれていることが多いのですが、それらも作曲者は「ガーデン」となっています。最初の頃にこの曲を紹介した人が間違って書いたことが、ずっと受け継がれてしまった例です。
このように、もともとアメリカで、讃美歌として用いられていたのが、日本では全く違った内容の歌として用いられ、しかもそれが広く日本全国にまで広がっていきました。現在五十歳以上の人は、この「真白き冨士の根」という曲は誰でも知っているはずです。
これが日本で讃美歌として収録されたのは聖歌(一九五八年発行)で、キリストが再び来られるのを待ち望む再臨の歌となっています。(聖歌六二三番)
そして去年新発売された、新聖歌にもこの讃美はおさめられています。(新聖歌四六五番)しかし、ここに書いたような事情を知らなかったようで、作曲者は、不明(Anonymous)となっています。
歌詞は次の通りです。
(一)いつかは知らねど 主イエスの再び この世に来たもう日ぞ待たるる
その時聖徒は 死よりよみがえり 我らも栄えの姿とならん
(二)悩みは終わりて 千歳の世となり あまねく世界は君に仕えん
荒野に水湧き、砂漠に花咲き み神の栄えを仰ぎ得べし
(三)されば萎えし手を強くし もとめよ 弱りし膝をも 伸ばして歩め
約束のごとく 主は世に来たりて 迎えたもうべし そのみ民を
(四)その日を望みて 互いに励まし 十字架を喜び負いて進まん
嘆きも悩みも しばしの忍びぞ たのしき讃えの歌と変わらん
このように、もとは、讃美歌としてアメリカで用いられたのが、日本にきて遭難事故の悲劇を歌う歌として広く知られ、それが再び、讃美歌として今回の新聖歌にも掲載されています。
「真白き冨士の根」としてはもう過去のものとなって歌われなくなっていますが、この讃美は今後も再臨の歌として長く歌い継がれていくと思われます。こうしたところにも人間の考えや思いを越えた不思議な神の導きを感じさせられます。(以上の内容は、「讃美歌・聖歌と日本の近代」九三~九八P 音楽之友社 一九九九年から得たものです。)
休憩室 2002年7月 第498号
○沈黙のなかで
七月から八月は平地や低山では最も野草や樹木などの花は少ない季節です。山は緑一色で、ふつうの山道にもほとんど花を咲かせる野草は見あたりません。しかしそうした季節は、その緑の葉の内で、たくさんの日光の光を受けて、デンプンが造られています。そのデンプンによって、つぎの世代のための実をつくり、幹を伸ばし、太らせて成長していくための材料も造られているのです。その沈黙のなかにも、葉の内部を見るならば、光による複雑な化学合成や分解などの化学反応が日夜活発に行われているわけです。そしてそれらの葉も秋になると多くは枯れて地上に落ち、今度は無数のバクテリアの食物となっていき、葉に含まれていたミネラルはふたたび植物の肥料ともなっていきます。
自然は片時も休むことなく、何も変化のないようなときでも、つねに働いているのがわかります。こうした働きの背後につねに今も働き、創造を続けておられる神がおられます。主イエスも「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」と言われています。(ヨハネ福音書五・17)私たちの心の内に、そのような主イエスが住んでくださるとき、私たちもたえず、神の国のために働く者と変えられていきます。それは病床にある人も共通です。ベッドで周りの人のために、祈ることも、神の国のための霊的な働きだからです。
○夏には花などは少なくなるけれども、そのかわりに日本ではセミがたくさん鳴き始めます。ヨーロッパの国々では雨量も少なく、昆虫類は日本よりはるかに少なく、セミもあまり見られないところが多く、日本に来てセミのコーラスを耳にすると何という鳥が鳴いているのかと不思議がるといいます。
樹木の沈黙あり、セミのコーラスあり、緑の海あり、また涼しげな渓谷の流れの音あり、夏の山道もまた、神のはたらきを知らされる場となっています。
○夏の夜空を眺める機会は多くあります。夏は夜の涼しさを求めて野外に出ることが多いからです。そして夏の夜空といえば、天の川と、それにまつわる織女星(しょくじょせい・こと座の一等星ベガ)、牽牛星(けんぎゅうせい・わし座の一等星アルタイル)が知られています。
しかし、最近ではその天の川を見たことがないという人が多数を占めるようになっています。都会に住む「はこ舟」のある読者が、天の川を見たいと書いておられました。夏の星座を知っている人なら、さきほどあげたこと座のベガや白鳥座のデネブという一等星や鷲座のアルタイルという星を見つけて、さらに南の空に見えるさそり座の一等星であるアンタレスをつなぐあたりに、白く見えるのですぐに見付かります。
都会でなければ、これらの一等星はすぐに見付かりますからそれらの背後にある天の川もわかります。この天の川を見ていて思うのは、つまらないたなばた伝説などでなく、大空の広大さです。光の速さはよく知られているように、一秒間に三〇万キロ、一年では、九兆四六〇〇億キロメートルも進みます。しかし、天の川として見ることができる私たちの銀河系宇宙は、その直径がその速い光でも十万年もかかるほどの距離です。
そして最も銀河系に近いとなりのよく似た星雲であるアンドロメダ星雲は、地球から光が二百三十万年もかかって到達できるほどの距離なのです。そしてこのような星雲が宇宙には数知れずあるというのですから、その広大さは私たちの想像をはるかに越えています。天の川を見つめていると、そのような宇宙の広大無辺の一端に触れているのを感じて、神の創造の無限の大きさに驚嘆します。そしてそのような大いなる神が、宇宙の広大さに比べるとゼロに等しいような小さな一人一人の悩みや苦しみをもわかって導いて下さるということに、さらに驚かされるのです。
休憩室 2002年5月 第496号
○ウグイス
我が家では、毎日ウグイスの美しいさえずりが聞こえてきます。ウメにウグイスという言葉もありますが、ウメの咲く頃にはほとんどさえずっていなかったのですが、新緑の美しい現在では間近にその歌が聞こえてきます。ちいさな体からあのような澄んだ声、しかも大きな声が出されるのには驚かされます。自然の中からの音は水の音、風にそよぐ木々の音などとともに小鳥のさえずりは心に神の国からの水を注いでくれるものです。
○ウツギ(ウノハナ)
五月になると、低い山地ではあちこちにウツギとそのなかまが見られます。谷間の木々の緑があふれているようなところに純白のウツギが咲いているととりわけ美しく感じるものです。ウツギ(空木)とはこの木の幹が中空なのでこの名があり、ウノハナというのは、卯月(陰暦四月)に咲くからとも言われますが、卯の花が咲くから卯月というのだとも言われます。古来、ホトトギスなどとともに、初夏の代表的風物の一つとされ、白く咲き乱れるさまは、雪、月、波、雲などにたとえられたということです。水晶花、夏雪草(なつゆきぐさ)、垣見草(かきみぐさ)その他いろいろな名前があります。
多くの人が、ウツギという花で思い出すのは、つぎの歌ですが、現在では様々の庭木があるためか、ウツギを庭に植えているのはほとんど見かけたことがありません。
うの花の 匂う垣根に
ホトトギス 早も来鳴きて
しのびねもらす 夏は来ぬ
これは佐々木信綱作の「夏は来ぬ」の一節です。しかし、ウノハナには香りはなく、この歌で言われている、うの花が匂うというのは、「色が映える」とか、「生き生きとした美しさなどが溢れる」意味だと考えられます。なお、こうした意味では、讃美歌にも「星のみ匂いて」(讃美歌一一五番一節)のようにあります。
この歌でもホトトギスとともに歌われていますが、この季節には確かに現在もホトトギスが飛来してきて、その印象的な強いさえずりを聞くことができます。
休憩室 2002年4月 第495号
○なぜ、バラ科なのですか?
サクラやウメはバラ科なので、アンズもきっとバラ科でしょう。何でバラ科なのでしょう、と毎年思います。全然バラと似ていないから。学者達の考える事は分からないとよく思います。(大阪の読者から)
・大阪のある方からの質問です。私たちが神の創造された自然に向かうとき、深く知るほどに奥がいくらでも深いのを知らされます。サクラやウメがバラと似ていないのに、どうして同じバラ科なのか、というようなことも、実はより深く観察すると、確かに似ているのです。
バラというとき、華麗な大型の園芸のバラを思い出しますが、野生のバラが元にあります。野生のバラとして代表的なのが、ノイバラ(野イバラ)であり、ほかにテリハノイバラ(照り葉
野イバラ)もあります。ふつうに野バラといっているのはこれらを指すことが多いのです。このノイバラの花とウメやサクラの花を比べると確かに外見的にも似ていると感じるはずです。
さらに細かく見ると、バラ科では、葉が互生(*)すること、托葉(**)があること、花が両性(おしべとめしべがある)、かつ放射対照であること、さらに、がくは5枚、で花弁(花びら)も同数、つまり5枚あること、そして雄しべは多数ある。(10~20本)などといった共通点があるのです。つまり、よく似ているのです。
花の色、葉の形、大きさ、などがずいぶん違っていても、上のような共通点によって同じグループの植物だとわかるのです。
このようなより詳しい自然(植物)に関する知識も、いっそうそれらを創造された神への思いを強めてくれることにつながります。自然に関する知識も私たちが信仰なければ、自慢とか誇りにつながることが多いのですが、それらの奥深い自然の背後に、神の御手があることをつねに思うとき、神の栄光をたたえる心へとつながっていきます。
(*)ゴセイ 植物の葉が茎の各節に一葉ずつ付いている。
(**)タクヨウ 葉の付け根にある葉のようなもの。
○五つの惑星が並ぶ!
四月中旬から五月中旬頃まで、水星、金星、火星、木星、土星が並んで見えるというめずらしい状態になります。ただし、水星は太陽にごく近いので、晴れている時、注意深く西の空を見ていないと見つけることはできません。これらのうち、金星と木星は強い輝きなので、晴れてさえいれば、必ず見つけることができます。夕方の西の空の低いところに強い輝きで光っているのが金星です。それよりもっと高いところに見える強い輝きの星が木星です。この二つはまずだれでもが夕方薄暗くなろうとするころに西の空をみるとわかるはずです。
休憩室 2002年3月 第494号
○春の花
春には多くの花がいっせいに咲き始めます。ウメ、サクラなどの樹木の花をはじめ、スイセン、チューリップ、アネモネ、フリージャなどと花屋にもよく見られる花が多くあります。それらの色や形も鮮やかで目立つものももちろん美しさも姿も多くの心を惹くものです。
他方、野草には、春先に山のやや湿ったところなどで咲いているセントウソウなど、純白のその花の直径はわずかに数ミリ程度ですが、手にとって見て、さらにルーペで見ればその美しさは心に残るものです。決して花屋にも出ることなく、花瓶にもいけられることもない小さい花なので、山道でしか出会うことはありません。しかし、こうした花に山の自然の中で出会うとどこかほっとするような気持ちにさせてくれるものです。人間の商魂や収集欲などに汚されない野草だからです。
「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」(ルカ福音書九・48より)
聖書のなかにはこのように、小さき者を重んじる言葉がいろいろあります。自然のままの人間は、たえず大きいものを求めます。大きい家、よい成績、スポーツなどでは優勝、多くの金、さらに大きい国、強力な軍備などなど。しかし、キリストの心は小さいもの、取るに足らぬようなもののなかに大きい意味を発見することを教えてくれます。
聖書のなかにも小品であるけれども、心に残る内容のものも収められています。例えば、旧約聖書のルツ記です。ここには、信仰と勇気と愛が見られます。ルツという一人の異邦の女性がいかにして、キリストの祖先の一人となっていくかが描かれています。
また、新約聖書のなかでは、フィレモンへの手紙は、わずかに一ページ余りの短い手紙ですが、そこにキリスト信仰はどのように人間を変えていくかが記されており、印象深い内容となっています。
○星
春の星というとまず北斗七星です。北の空にちょうどひしゃくを立てたような形になってはっきりと見えてきますから、だれもがすぐに見つけることができます。これは星座でなく、大熊座という星座の一部分です。このわかりやすい形のため、また北極星を見つけるための手段としても、世界中で昔からどれほど多くの人たちの心をさそってきただろうかと思います。
昔は、電気がなかったので、夜は大多数の人々にとって、室外も室内もともに真っ暗であったわけです。油を灯火として使うということは、とても高価すぎて庶民では到底長い時間を使えなかったので、夜の長い時間は本当の闇であったと考えられます。そこで星を見つめる時間もはるかに多かったと考えられます。電灯がなくともはっきりと見えるものは、星や月だけであったからです。
日が暮れてからの長い時間は、夜空の星を見つめ、闇に輝く光のことに心を向けるための時間であったように感じられます。
星を見ながら古代の人たちは何を考えたのだろうか。聖書の神を信じた人々は、星を通して、天地を創造された大いなる神の御手を思い起こした人たちも多かったはずです。今も、あわただしく、騒音や人工的な光が満ちている中、夜空の星たちは、「静まれ、天地創造
休憩室 2002年2月 第493号
○真冬の星座
二月ももうじき終わりです。この頃は夕方から深夜にかけて一年中で最も美しい星空が見えるころです。それは、きびしい真冬の大気のなか、凍り付くような夜空のただなかに、一年中で最も多くの明るい星たちが南から頭上の空に輝いているからです。夜八時頃以降に、外に出るなら、南の方から頭上にかけての夜空には、たくさんの明るい星たちが競うようにまばたいています。現在は、本来の冬の星座のほかに、土星と木星が加わっているので、とりわけ心をひくものがあります。
土星、アルデバラン(牡牛座の一等星)、すばる、オリオン座(一等星は、青白い輝きのリゲルと赤い輝きのベテルギウスのふたつ)、大犬座、子犬座、双子座、そして御者座、そして頭上に近いところには、最も澄んだ明るい星である、木星のつよい輝きが見えます。もし、まだ見ていない人がいましたら、ぜひ天気のよい、冬空に向かってこれらの星座を探してみるとよいと思います。
冬の星空のようなものは、絵画で表現するのは困難です。神が大空いっぱいに書き上げた絵だと言えます。
また、星は単なる物理的なものでなく、一種の音楽のようなもので、無言のうちに見つめる人に語りかけるものがあり、天の国の音楽がそこから流れ出しているように感じるものです。
○讃美歌21について
最近は、讃美歌21を使う教会や集会が徐々に増えています。私たちの集会でも次第に多く用いられるように成っています。先日に大阪府南部の家庭集会で、讃美歌21の五〇八番の讃美を用いましたが、もう八〇歳にもなるような老齢の方が、この讃美は歌いやすくていいと言われたことがあります。また県外での別の集会でも、何度か讃美歌21のよさを知った方もいます。新しい心で新しい讃美を歌うためにも、讃美歌21がさらにキリスト集会で用いられるとよいと思われます。
ここには、それまでの讃美歌などには見られなかった、グローバルな讃美歌集となっています。例えば、二十一番は、インドの讃美歌で、歌詞もよく、独特の明るくてよいメロディーです。五百八番もインド北西部地方(パンジャブ地方)で歌われていたメロディーだということで、これも歌詞の内容もよく、曲ともに歌いやすく、明るいメロディーです。従来の讃美歌は圧倒的な部分が、ヨーロッパ、アメリカで歌われている讃美歌で、インドなどのものはなかったのですが、今回はこのようにいろいろの地方の歌が取り入れられています。
また、三五四番「天の神、祈ります」という曲も、作曲者がフィリピン生まれのエレナ・マキーゾという女性で、後にアメリカのハートフォード神学校やユニオン神学校で学んだということです。この讃美歌の曲はフィリピンで人々に歌われてきた曲(民謡)のスタイルが用いられていて、とくに三節は短いながらも現代社会や私たちの身近な人々への祈りをこめて歌うことができる、メロディーと歌詞がよく調和した讃美です。
(1)天の神、祈ります、憐れみと祝福を。
その民をひとつとし、愛される み神よ。
(2)救い主、み子イエスよ、十字架と復活の
み恵みに感謝して、歌います、わが主よ。
(3)来て下さい、聖霊よ、悩むもの力づけ、
傷ついた人々を いやすため、今すぐ。
「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心から讃美せよ。」(エペソ書五・19)
○キリスト者とパソコン
最近のパソコンの普及は、十五年ほど前からパソコンに関わっている者としては、その性能の飛躍的にたかまったこと、それと老若男女の各年齢層に広がっていることは、驚くばかりです。しかし、多くはメールだけに使ったり、ゲームとかの遊び、またはワープロとか、年賀状造りに使う人が多いようです。キリスト者としては、第一に聖書の学びに書物とは断然ちがった効果的な使い方があること、キリスト者同士の通信や祈り、定期的に行われる集会のまとめや記録、さらに、キリスト者の信仰に不可欠な讃美が自由に歌えるというようなことです。聖書の学びに用いるとき、キリスト者は生涯聖書を手放すことはないはずなので、生涯にわたってパソコンが座右の必需品となるのです。
通信については、とくに県外の人、海外の人とも、すぐ近くにいるような感覚で通信ができることは、かつては考えられなかったことです。こうした重宝なものが神の言葉の学びやキリストのからだとしてのキリスト者同士のより緊密な交わりに用いられるとき、さらに祝福が与えられると思われます。
休憩室 2002年1月 第492号
○ウメと星
冬の植物といえば、必ず新聞やニュースで目に触れるのは、ウメとスイセンだと思われます。このいずれもが香りがよく、姿や花の色なども美しいものであるためにいっそう昔から人々の心を引きつけてきたのだと思われます。
また、このいずれも野性的で、温室とか花壇で肥料や温度あるいは害虫などを気にしたりせずとも、たくましく育っていくことも広く知られている理由の一つでもあろうと思います。
さらにウメはその花や香りもよいだけでなく、その果実もまた薬用として日常の常食としてまた弁当のようなものにまで昔から今に至るまで広く用いられていることもあります。
ウメと言えば、おそらく現代の多くの人たちにとっては、梅干しや梅酒のほうがずっと身近に感じていると思われます。それらは大都会のデパートやスーパーでもいつも売られているからです。しかしウメの自然の状態の花に接することができるのは、田舎や山間部の地方の人でなければ容易には触れられない人が多いはずです。また、最も寒いときに咲くウメの花を味わう心のゆとりを持っていない人が多くなっています。
聖書の世界では、花はウメとほとんど同じ白い花を冬に咲かせる樹木があります。それはアメンドウ(アーモンド)です。旧約聖書でも特に重要な預言者の一人であるエレミヤに最初に臨んだのが、このアメンドウの花を神が指し示したことでした。神は自然の風物を用いても語られるという例です。
主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「アメンドウの枝を見ます」。 (エレミヤ書一.11)
アーモンドには二種あって、野生のアーモンドは白い花をつけ,その種子は苦味を帯びています。もう一つは栽培品種で赤い花をつけ,種子はおいしく、菓子として用いられています。聖書に出てくるのはもちろん野生種の白い花を咲かせる方です。
まだ若かったエレミヤに対して、神がたえず目を見開いて民を見張っている姿をアメンドウの白い花に目を向けさせることによって象徴的に述べています。
星と詩
興味深いのは、日本の古代での代表的な歌集である万葉集には、サクラの歌は38首、ウメの歌は104首と、圧倒的にウメが多く歌われているということです。ウメよりはるかにサクラが華やかで春の暖かい頃に咲くのでよく目立つから多く歌われていると思われますがそうではないのです。
もっとも当時のサクラといえば、現代のようなソメイヨシノでなく、自然の山に多いヤマザクラが多かったと思われます。古代人の方が、現代人よりもウメの花の良さをより深く知っていたのがうかがえます。寒中に単独で花を開くウメの良さを感じ取る心は、夜の闇のなかに清い光を沈黙のうちに投げかけてくる星の良さを感じることに通じると思われますが、意外なことに万葉集では星はほとんど読まれていないのです。夕方に断然他の星の輝きを圧して光る金星は夕づつの名で詠まれていることと、天の川などをのぞくと、星の歌は万葉集の四千五百首のなかでわずかに二首しかないということです。
それに対してギリシャや中国の古代の詩には星は多く現れるし、聖書には旧約聖書では七十回近く現れ、新約聖書では三十回ほど現れることと考え合わせても、日本の万葉集に星がきわめてわずかしか現れないのは特異なことだと思われるのです。
地上の制約を超えた、遠大なものを見つめるという心が乏しかったのだろうかと思わされるのです。唯一の神を見つめる心とは、星を見つめる心と通じるものがあります。キリストも明けの明星にたとえられているほどです。
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