休憩室 2006年12月 550号 第551号
○滝廉太郎
「荒城の月」は昔から特に有名な曲ですが、これを作曲した、滝廉太郎とキリスト教との関係は、最近までほとんど知られていないことでした。
滝廉太郎は、二十一歳の時、すなわち一九〇〇年十月七日に、東京の麹町下二番町にあった博愛教会で洗礼を受けています。津田塾大学の創設者として有名な津田梅子は、この教会員でした。
「荒城の月」は、滝廉太郎が受洗した年に作曲されたということで、この曲は彼のキリスト信仰の心を反映しているのではないかと考えられています。
キリスト者となった翌年、日本人の音楽家として二人目で、ドイツのライプチヒ王立音楽院に留学しましたが、二ヶ月後に肺結核を発病し、帰国。一九〇三年、二十三歳で死去しています。
カール・ヒルティを日本に初めて紹介した、ケーベル博士は、キリスト者で、東京帝国大学で哲学を教えるとともに、音楽家(ピアニスト)で、東京音楽学校(現在の東京芸術大学の前身)でも教え、そこで、滝廉太郎にもピアノを教えました。
なお、荒城の月の作詩者である、土井晩翆自身はキリスト者でなかったけれども、彼の妻と長女は熱心なキリスト者であったということが分かっています。そのために、荒城の月の歌詞にも、この世が移り変わるのに反して、天の光の永遠を歌っているのはそのようなキリスト教的な影響があったのではないかとも考えられます。
(土井晩翆は、東京帝国大学英文科卒業後、詩集「天地有情」を発表。仙台の第二高等学校教授。文化勲章受章。)
三)いま荒城の夜半の月
かわらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛
松に歌うはただ嵐
四)天上影はかわらねど(*)
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
ああ荒城の夜半の月
(*)ここでの「影」とは、古語としての意味で「光」という意味で、天にある光は変ることがないが、この世はたえず栄えまた衰える、ということである。なお、広辞苑にも、「影」の説明の第一に、「日・月・灯火などの光。」と記して、その本来の意味をあげている。星影とか、月影などという言葉は、古くから使われているがこれらも、星の光、月の光
という意味。
この荒城の月は、キリスト教とは関係のない歌と思われてきましたが、最近になって、すでに述べたように滝廉太郎自身がキリスト者であったこと、さらに、この曲が、日本人のある神父の紹介からベルギーの修道院の聖歌隊の指揮者の心に残り、そこでの聖歌として祈りの歌となって用いられていることが判明しています。その聖歌を含むCDも日本で販売されており、私はその一部を聞いてたしかに静かな祈りをうながす曲として用いられているのを感じました。
(この記事は、「讃美歌・唱歌とゴスペル」二〇〇六年十一月 創元社発行 などによる紹介です。)
全く日本的な作曲家だと思われていた滝廉太郎にキリスト教の命が流れていること、また作詞者の土井晩翆にもその家族にキリストの光が射していたことなどを知ると、いかにキリストのいのちの水が、多方面に深く浸透しているかを改めて知らされる思いです。
休憩室 2006年11月 550号
○レクイエム
クラシック音楽とくに、キリスト教音楽を愛好する人たちによく聴かれているのは、レクイエムという音楽で、特にモーツァルトやフォーレ、ヴェルディのものが有名です。レクイエムという言葉は、「鎮魂曲(ちんこんきょく)」と訳されています。しかし、鎮魂とは、「魂を鎮める」
ということで、これは、死者の魂がそのままにしておくと、祟りや自然災害などを起こすというように信じられていました。そのために、遺族たちがいろいろな供え物を捧げるなど儀式を続けて、それを鎮めるということが行なわれていたのです。これは現在でも、死者に食物を供えるのはそうした意味があります。とくに、災害や戦争、事故など突然の死においては、肉体と魂が突然切り離されるので、魂が不安定で落ち着き場を求めて、他人を苦しめたり、天地異変とか疫病の流行となったり、作物の害虫がはびこったりすると考えられていました。そうした、落ち着き場のない魂を、中世では、御霊(ごりょう)、怨霊(おんりょう)、物の怪(け)などと言い、近世では、無縁仏(むえんぼとけ)、幽霊などといいます。
こうした魂を鎮めるのが、鎮魂(たましずめ、ちんこん)ということであり、これはキリスト教とは全く無縁の日本の古代からの宗教的考えに由来するのです。
レクイエムという語は、ラテン語の requiem であり、これは、requies (静まること、休養)の対格(英語でいえば、目的格)の形です。なぜ、対格なのかと言えば、レクイエムという音楽は、「永遠の安息を彼らに与えたまえ
、主よ」という言葉から歌い始めるので、安息という語は対格となります。そしてこの歌の最初の出だしが原文では、requiem
aeternam dona eis,… となっているからです。この語は、re (繰り返しや強調を意味する接頭語)と、 quiem から成っていて、後者は、ラテン語の quiescere(クイエースケレ
休む)、 quies(クイエース 休息、安静)などの関連語で、休む、静まる という意味を持っています。これは、英語の quiet(静かな)の語源にもなっています。
このようなことから、レクイエムという言葉は、「死者に永遠の安息が与えられますように」、という祈りのなかの、「安息」と訳された原語なのです。 キリスト者は死ねば、主イエスと同様に神のもとに帰るという信仰があります。神のもとでの永遠の安息を祈り願うのがこの、レクイエムという音楽なのです。
それゆえ、魂が荒ぶって、人間に祟り、病気や天地異変などを起こすからその魂を鎮める、という意味の鎮魂とは、意味が全く違うのです。
このように、日常的にごく普通に音楽の世界で使われている語が、本来の意味と全く違う意味の言葉に訳されてそれがマスコミでも文化人の世界も使われています。
これも、こうした鎮魂といった言葉の意味について学ぶところがなく、だれかが訳せばそのまま間違った意味のままに広がっていったといえます。
○晩秋の山野
秋になると野山には、ヤマシロギク、リュウノウギク、ノコンギク等々のキク仲間や、ツリガネニンジンやリンドウなどのようなさまざまの美しい野草が花開きます。
そしてさらに秋が深まってくると、人間は、寒さによっては動きが鈍くなってしまうだけですが、植物は、晩秋になるにつれ、その寒さによってカエデのなかまやヤマハゼなどの葉は美しい赤色となり、さらにクヌギやコナラなどは黄色や褐色のさまざまの変化に富んだ色となります。
また、冬の寒さによって水粒は美しい氷の結晶となって雪を降らせ、山々は真っ白い姿となって見る人の心を清めます。春の温かさによって芽生え、花咲き、その新緑と花の美しさを繰り広げます。夏の暑さや雨によって植物たちは成長し、果実や種を成熟させます。
雨風も暑さ寒さもすべてを取り入れて、植物はその多様な姿を生み出しています。
使徒パウロは、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っている。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている。」と言っていますが、これはどんなことが降りかかってきてもそこから何かよきものを受けとっていき、実を結ばせていくことと似たところがあります。
休憩室 2006年10月 第549号
○次の記事は、定期的に送られてくる国際的なニュース記事のコラム的な記事にあったものです。
…オーストリア国で薬局名を見ると、「慈善深い兄弟の薬局」「聖母の薬局」「神のまなざしの薬局」「3位1体の薬局」など、キリスト教と密接な関係のある薬局名が多いことに気が付く。当方が以前住んでいた近くには、「神の摂理のための薬局」という名前がついた薬局があった。
オーストリア薬局会の広報担当者は「昔は医薬メーカーなどは存在しなかった。カトリック教会側が修道院で薬草を調合して、病の信者たちに与えていた。薬局は修道院内の薬草保存場所を意味した。だから、その伝統を受けて呼称する薬局が多い。オーストリアだけではなく、ドイツなどキリスト教文化圏では神の名がついた薬局名が少なくない。もちろん、現代的な薬局名もある」と説明してくれた。
同広報担当者によれば、ヨーロッパでは、病気を治療するのは薬ではなく、「神の癒し」によるものだという捉え方が依然、強いという。…
・薬がなおすとか医者がなおす、あるいは自然治癒力がある、自分の努力でなおす、といった様々の表現があります。しかし、医者の能力、化学的に合成された薬や薬草の力といっても、そうした能力や力を与えたのは、神なのです。
神が万能であると信じるなら、それゆえに万物を創造し、今も支配していることは当然になります。現在支配していないような神なら、万能ではないからです。
人間の能力も化学反応を起こす物質の本性、あるいはそれらを支配している科学的法則もすべて神が創造し、いまもそれを支配しているわけです。だから、医者の技術であろうと、薬や薬草、あるいは自分の努力であろうとそうした力を与えた神がもとにあると言えますから、究極的には神の力によっていると言えます。
○地名とキリスト教
アメリカ大陸にある地名を見ると、キリスト教と関係のある地名が多いのに驚かされます。
ロス・アンジェルスという地名は、Los Angels (ロス・アンヘルス)であって、スペイン語の
「天使たち」(英語では、the angels) です。 (los は、英語の the にあたる定冠詞で、複数形の男性名詞につく。女性複数名詞には、las となる。)
同じく、カルフォルニア州の都市で有名な、サンフランシスコは、キリスト教のフランシスコ会の修道士が創設者の聖フランシスコを街の名に付けたのが地名の由来となっています。
また、チリの首都でもあり、他にも十ほどもの地名となっている、サンティアゴ( Santiago)
とは、スペイン語で聖ヤコブ(San Jacob)のことですが、発音が大きく違っているので、ヤコブとは思えないほとです。ブラジルの大都市サンパウロは、キリストの最大の弟子と言える、聖パウロのことです。
また、中央アメリカにある、エル・サルバドル(El Salvador)という国の名は、スペイン語で「救い主」を意味する語で、キリストのことなのです。(El は男性名詞単数につける定冠詞、Salvador は救い主の意で、英語には、語源的に関連した salvation 「救い」という語がある。)そして、この国の首都は、サン・サルバドルで、これは、「聖(San)救い主」という意味なのです。
また、キューバの南にある島国で、ドミニカという国があります。このドミニカという名は、後述するドミンゴと同様に、「主の日」という意味を持っています。そしてドミニカ共和国の首都は、サント・ドミンゴ(Santo Domingo)であり、Santoは、聖、 Domingo とは、「日曜日、主日」という意味ですから、この首都の名の意味は、「聖・日曜日」ということになります。この日曜日とか主日を Domingo というのは、ラテン語の「主」という言葉が、ドミヌス Dominus
であり、それから生じた言葉だからです。
以上のような例はほんの一部にすぎません。最初に町を造ろうとした人達が、どんな名前を付けるか、それは人々の理想とか期待を象徴するものです。
次々と新しい町をつくるときに、キリストと関連ある名前を付けていったのは、キリストの祝福を求める心の一つの現れであったと思います。現代に生きる私たちも、日常に出会う物事、自然の風物にも絶えず、キリストとの関連を見出し、神の祝福を願う気持ちを持っていたいものです。
休憩室 2006年9月 第548号
○九月に入って、風はそれまでの蒸し暑さが消えていき、さわやかな風を感じるようになりました。湿気の多い風と高温につけられたような日々であったから一層このさわやかな風が心地よく感じます。
温度が同様であっても、太平洋の湿度の高い風と、大陸からの湿気の少ない風とではまるで異なるものとして感じます。
ちょうど、新聞やラジオやテレビ報道に乗ってくるこの世の風は犯罪や暗い出来事が多くて気持ちを暗くするようなものが多いけれども、天を仰ぐときに感じられる霊的な風は、まったく異なるものがあります。
エアコンは、夏の蒸し暑さから一時的に解放してくれますが、その部屋だけのことです。しかし、天からのさわやかな風は、地上のどこにいても、私たちの心をまっすぐに神に向けるだけで与えられるという、他には代えがたい特質をもっています。
偏西風というのは常時吹いている西よりの風です。天の国からも常時地上に向かって吹いている風があります。私たちが天の国からの風を感じ取ろうとするとき、聖書、空の青さ、白い雲、夕日、夜空の星、川の流れ、そして樹木、野草といったものがそれを助けてくれます。
○セミたちの元気のよい鳴き声がいつしか聞こえなくなったこのごろですがそれに代わって、たくさんの虫たちのコーラスが野山に響くようになっています。とくに誰の耳にもなじみあるのが、エンマコオロギの澄んだ流れるような響き、マツムシのチンチロリンといった鈴をころがすような声、それからスズムシのリーン、リーンという声です。
ツヅレサセコオロギのジィッ、ジィッという地味な鳴き声も草むらや石垣などのどこからともなく聞こえてきます。
小さな柔らかい羽をこすり合わせてあのような美しい響き、しかも大きな音が出るのは奇跡のようなことです。子供のときエンマコオロギを飼育してその鳴き方を観察し、あとで羽をこすってみたが全く音も出ないので、とても不思議だったことを覚えています。
神がなそうとすれば、不可能だと思われるようなことを簡単になされるという例だと思います。
私たちもまた、小さな罪深いものに過ぎないのですが、神の御手がはたらくとき、神の証し人としてささやかながら、この世に讃美の歌を響かせるものへと変えられるといえます。
休憩室 2006年8月 第547号
○先日、裏山の小さな谷川沿いの朝に歩く道で、ハンミョウという昆虫を、数十年ぶりに見ました。これは、タマムシと並んで、特に美しい昆虫として知られています。小学校のころ、私の家のある標高二〇〇メートルほどの日峰山で時々見かけたものですが、最近はどこにおいてももう長い間見たことがなく、私の住んでいる付近では絶滅したのかと思っていたほどです。しかし、どこでどのように生き延びてきたのか、ただ一匹だけがその美しい彩りをもって私の前にいたのです。子どものとき、とらえようと思っても、近づいたらすぐにごく身軽に2メートルほど前に飛んでしまうので、素手ではとてもつかまえることが難しかったものです。
背に橙赤色の十字状の区切り模様があり、その両側は濃い紺色、そこに白い斑点の模様があり、それらが光沢をもっているので、誰しも見た人は思わず目を留めるような昆虫です。
このような見事な色彩、模様をどのような目的があって創造主は造られたのか、と思うとともに、絶滅したように思われたものが、現れることの不思議さを思います。
このような不思議は、植物にはさらに多く見られます。この付近では全くないと思われていた植物が一つだけ芽ばえているとか、それが成長しているのに出会います。たくさんの種が生じてもほとんどは芽生えないけれども、近くにまったくそのような植物がないのに、意外なものを見付けることがあります。
私たちの心のなかにも、長い間、浮かんだこともないことが、ある時突然心に浮かんでくる、ということがあります。これは、神が私たちの心のなかに投げ入れるのだと言えます。
インスピレーション(inspiration) という言葉がありますが、まさに、スピリット spirit(霊)(*)が私たちの心に入り、動かすわけです。
もうだめだ、と思われるようなことが続いても、神に期待をかけることができます。神は無から有を生じさせことができるのだから。
何十年も希望の光がなくなっているような人の心の中にも、神の力によって、光がそこに突然現れるようになって欲しいと願います。
(*)spirit という言葉は、ラテン語の、spiro (スピーロー)から来ています。この言葉は、本来は「(風が)吹く」という意味を持つ言葉であり、人間も生きているときは、一種の風(息)が出入りしているので、「息」という意味にもなり、さらに、息がなくなると、死ぬので、「生きている」という意味もあります。そこから「霊感を受ける」というようにも使われます。その名詞形が、spiritus(スピーリトゥス)で、「風」「呼吸」「命」、「霊、魂」といった意味を持つ言葉です。
休憩室 2006年6月 第545号
○六月になると野山は緑一色になります。野草や樹木などの花は少なくなりますが、そうしたなかで、ガクウツギの仲間や、ネズミモチ、クチナシなどの白い花が目立つ時でもあります。
特に野生のクチナシの花は、周囲の緑のただなかに純白の花びらと黄色のめしべが目立つ花です。とくに咲き始めた頃の花びらは、その真っ白の花びらがとりわけ印象的で、その花の他には変えがたい香りとともに六月の野生の花としては多くの人に愛されているものです。
姿とその色彩、そして香り、さらにその実もすぐれた染料として古代から用いられ、薬用にもされてきたという植物です。このクチナシは、植物が人間に向けて、さらにその心に向けても創造されたということを感じさせてくれる植物です。
休憩室 2006年4月 第543号
○わが家への山道のかたわらにいつの頃からか、コバノタツナミという、タツナミソウの仲間が育ち、今頃になると美しい花を咲かせています。その付近にはこの花は見られないし、我が家のずっと上の山道をたどっても頂上にいたるまで見られないし、どこをどのようにたどってこのわが家の近くの道に種が落ちて、そこから育って花を咲かせるに至ったのか、不思議なことです。
しかもそこはかなり乾燥した石地なのであり、まるで美しい花を咲かせるには不適だと思われるようなところです。
種が落ちる、これは、キリスト信仰においても、福音の種が私のところに落ちて育ったのも実に不思議です。私自身も考えたこともなかったし、私の周囲の人も、私がキリスト信仰に生きるようになるとは、だれも全く想像もしなかっただろうと思います。福音の種も人間の予想を超えたところに落ちて、そこで神が育てていかれるのを思います。
休憩室 2006年3月号 第542号
○明けの明星
早朝五時前の、東の空を見れば、だれでもはっとするような強い光の星があります。それは、思わず心が引き寄せられるような輝きで、まばたきもしないで見る者をじっと見つめるような光です。
これが、明けの明星といわれて、古来有名な金星です。しかし、この明けの明星を一度も見たことのない人が相当いるようです。まだ当分は見られるので、見たことのない人は、ぜひ見ておいてほしいと思います。今ごろの金星はとても明るく、-四.四等の明るさです。恒星で最も明るいシリウスは、マイナス一・五等ですから、金星はシリウスの十五倍余りの明るさです。(等級が一違うと、二・五倍明るくなる)
明けの明星としての金星は、聖書の最後にある黙示録の終りに近い部分で次のように言われています。
…わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。(黙示録二二・16)
このように、主イエスご自身が、自分のことを明けの明星と言われたほどに、この輝きは人の心を強く惹きつけるものがあったのです。人々がまだ寝静まっている早朝、まだ暗い空にまばたくこともなく強い光で輝く星、その後に夜明けが訪れるために、この金星は夜明けを呼び覚ますメッセージをたたえているとも感じられます。
また、その頃、南の西よりの空には、これもまた透明な明るさといえる強い輝きの星がすぐに見つかります。これが木星ですが、この星は、現在では、夜中に東から登ってくるので、深夜に外に出て東方を見るならこれもだれでも直ちにわかる強い美しい星が見えます。(木星は、マイナス二・三等で、これもシリウスよりずっと明るい)
それから、朝は早く起きられないという方は、三月三十日頃であれば、夜八時頃には、真南のやや高い空に土星が見えますから、これもぜひ見ておくと惑星に対して、また夜空に対して
一層関心が深まります。(土星は〇・一等)
そして星への関心は、信仰生活の上でも、プラスになります。
聖書に、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編十九・2)と言われている通り、夜空の星は生きた神の言葉でもあり、神のお心を感じさせてくれるものだからです。
○春の植物
春、それはあらゆる植物や昆虫、小動物などが一斉にそのはたらきを始める季節です。空き地には、ほとんど注目されない野草たちが次々と小さな芽を出して伸びていきます。わが家は低い山にあるため、平地には見られない植物たちもあちこちに見られます。タチツボスミレが、いつのまにか、裏の山の斜面で広がって美しい花を見せています。
またセントウソウの、セリ科独特の小さい花火のような白い花、それは大きさは一ミリ程度のものですが、静かに春を告げています。
ミツバアケビは、つぼみを膨らませ、近いうちにその心惹く花を咲かせようと準備しています。
寒い間に誰からも注目されず、静かにその地味な花を咲かせていたビワは小さい実を膨らませています。ビワは日本ではその食用の実だけに関心が持たれていて、その花の香りはとてもよいものであることは不思議なほど、ほとんど知られていません。
冬の間ほとんど変化も見せずに過ぎてきた樹木たち、また野草たちも、時が来たら、このように何かに動かされるように、奥深いいのちのエネルギーから生れるものが見られるのです。
こうした自然の姿を注意深く見るとき、それらすべての背後にある巨大な神のいのちのエネルギーから、その一部を分かたれたものだと気付くのです。
休憩室 2006年2月 第541号
○梅、蜜蜂
二月も下旬になってようやくわが家の梅の花が咲き始めました。水仙は以前から寒さに負けずに次々に咲いていますが、梅は早い年なら十二月の終り頃から咲き始めるのに今年は二月に入っても花が見えないという異例の状態でした。ようやく咲き始めた梅の花には、待ちかねていたように毎日メジロがやってきて蜜をすっています。
わが家の近くにある栗の木の根元のところに、日本ミツバチが数年前から住み着いて巣を作り、そこから二月というのによく出入りして足に花粉をつけたミツバチが活動しています。まだ他の昆虫たちは全くといってよいほどみられないのに、特別に寒さに強いようです。この寒気のなかで飛び立ち、冷気をついて飛び続けるなら、体が冷えきって飛べなくなるのではないかと思われますが、不思議な力を与えられているようで次々と飛び立ち、また帰って来ています。
ミツバチが目的の花のあるところに飛んでいくのは神秘的な行動です。仲間の行動で教えられて花のあるところまでの距離、方向、蜜の量などを知るというのですから驚かされます。蜜を吸いすぎても重くて帰れなくなるし、どこが自分の巣か分からなくなるかも知れない、風や雨が強かったら途中で疲れて落ちてしまうかも知れないのです。家にいくつもの巣箱があったため、子どものときから私は蜜蜂をよく観察していましたが、巣箱のそばでじっと見ていても飽きることがなかったものです。
この小さな昆虫を創造し、背後で大きな御手で支え、特異な能力を与えて生かしている神のわざを感じさせてくれます。
休憩室 2006年1月 第540号
○今年の冬は寒く、わが家に数本ある梅の木はまだすべてつぼみのままです。いつもはどれも花が見られる時期ですが、今年
の寒さの影響と思われます。しかし、水仙は次々と咲き始めています。 ほかの草花がみなその動きを止めて春のくるのを待っているのに、水仙だけは寒さをもものともせず花を開いてその香りを漂わせています。
最近、集会でもよく歌う讃美に「あめんどうの花が」というのがあります。わかりやすい歌詞で、心に残るメロディーです。これは、世界教会協議会などで用いられた世界の讃美を集めた歌集に収められているもので、ドイツとイスラエルの人によるものです。
あめんどうの花が 咲きました
痛みの中でも 希望のしるし
戦はすべてを打ち壊し
傷あと残す 地の上に
あめんどうの花を 感謝しよう
主イエスの愛のしるしです(「つかわしてください― 世界のさんび―」三四番より)
ここで歌われている「あめんどうの花」はイスラエル地方では真冬に咲く梅のような白い花で、私もかつてシナイ山のふもとの修道院の庭で二月末ころに咲いていたのを見たのが強く印象に残っています。
世界は傷だらけの様相を呈していますが、そこに静かにイエスの愛の花が咲き続けている、という内容の歌です。私たちも真冬の水仙を見て、私たちへの神の愛を感じ取ることができればと願います。
○去年の夏ころから夕方の西空にその澄んだ強い光をもって私たちに語りかけていた、宵の明星(金星)はもう、太陽より先に沈むようになって全く見えなくなっています。冬の夜空は夕方から、東南の方を見れば、オリオン座や大犬座、小犬座、牡牛座、双子座、御者座など明るい星たちが多い星座が並んでいてはるかな遠い空からの光を運んでくれています。
太陽系の仲間では、火星が夜七時ころには、頭上にその赤い光を放っているのが見られます。こうした星々の光は、万国共通語と言える言葉で語りかけています。
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