休憩室 2007年12月 562号
○最近の夜明け前の夜空
早朝五時半頃から六時ころにかけて、東の空を見ると、すばらしい輝きを見せ続けている金星が見えます。夜明けが遅いので、六時三〇分ころになっても十分見えています。しかし、やはりまだ暗いうちにみるときにその強い光が私たちの心のうちにまで射し込んできます。
そしてその金星のすぐ右に、小さいけれども輝いている星は、乙女座の一等星スピカです。金星があまりにも光が強いので、小さな光に見えますが、すぐとなりなので見付けやすいので、乙女座のスピカを見たことがない人はすぐに見付けられます。
また、南の空の高いところには、二つの明るい星が見えます。右側がしし座の一等星レグルスで、左側の星が土星です。 なお、西の空には、強い輝きの星が沈もうとしていますが、それが恒星では最も明るいシリウスです。
火星は、夜十一時ころには、東の高い空に赤い輝きが強い星としてすぐに見付けられます。この時間には、一年中で最も多くの明るい星々を散りばめた夜空がやや東よりの南方には広がっています。南の空にはほとんど誰でもがすぐに見出すオリオン座がその端整なすがたを見せています。
このように、最近の夜空は、夜寝る前にも火星を含めて強い輝きの星たちが東から南、そして北東の空を飾っており、夜明け前には土星や金星などとともに春の星座が見られて心を引き上げてくれます。
○神の絵筆
秋が終り冬の到来となると、野山にはほとんど花も咲かなくなり、多くの木々もその葉をさまざまの色に染めて枯れ落ちていきます。
多くのカエデの仲間や、ハゼ、ヤマハゼ、ヤマウルシ等々では、その葉は赤くなり、カツラやイチョウ、イヌビワなどの葉は黄色、クヌギやコナラなどは、茶褐色などになり、山々に色彩の変化をもたらしてくれます。
あたかも神が目には見えない大きな筆で樹木の葉を塗り替えていくようです。
神は、私たち人間をも、またこの世界全体をもそのご意志に従ってさまざまの色に塗りかえていくのだと思われます。
どんなに人間が目立つ色で塗り上げようとしても、神は一筆で、そうしたものを抹消してしまうこともできるし、何の目立つはたらきもできない弱い一人の人間が、心から悔い改めるときには、美しい彩りをもったものと変えていかれるのだと思われます。
九州、中国地方のいくつかの集会を訪ねて。
十一月十六日(金)から二十一日(水)まで、四国、九州、中国地方の各地の人たち、また集会を訪れて、共にみ言葉を学び、讃美、祈りのときを与えられて感謝でした。
十六日(金)は、愛媛県の冨永 尚兄宅を訪問、交流の時が与えられました。肱川という長さ百kmほどの河の下流、海辺でもあるところで、肱川からの強い風が吹き下ろすところだとのこと、天の国からもそのようにいつも清き霊の風が吹いてくるようにと願ったことでした。
その後は、佐田岬を経て九州・大分に渡りましたが、途中佐田岬半島の手前の長浜の付近から海岸に接する山々の斜面に白い野菊があちこちで見られ、それは五十㎞ほどもある
長い佐田岬の高いところを走る道路沿いにもしばしば見られました。それはリュウノウギクという白い色の花で、野菊としては花も大きく目立ちます。
このリュウノウギクは、徳島県ではなかなか見当たらずときたま見付けてもごく少ないものですが、この佐田岬付近にだけはたくさん群生しているものです。これは、葉には独特の芳香があり、花の美しい白色とともに秋の野菊として印象的なものです。(*)
(*)リュウノウギクという名前は、その葉の香りが竜脳という薬用植物の香りに似ているから付けられた。竜脳という植物は、日本にはなく、常緑大高木でボルネオ・スマトラの原産。高さ五○メートル以上になるという。
大分市の梅木宅にての夜の集会。その後、MP3対応の機器について説明しました。新共同訳聖書の録音版CDは以前のものは、新旧約聖書全巻では、一〇八巻にも及ぶもので価格も五万円ほどもしていたのが、MP3版になって、わずか六枚、九八〇〇円になって、いろいろな意味で扱いやすくなっています。
また、私どもの徳島聖書キリスト集会では、毎月の一か月分の主日礼拝と夕拝の全内容の録音をMP3形式で録音したものを、希望者に配布していますし、ヨハネ福音書の聖書講話もMP3版にして、希望者に配布しています。(価格送料共で二千円)これは二年半ほどの期間にわたる主日礼拝での聖書講話の録音です。
しかし、これらを聞くにはMP3対応のプレーヤが必要なのでその説明をしたわけです。実際にその機器を数種類持参していたので、実物をもって説明できたので初めての方もわかりやすかったようで、参加していた方は購入を検討されるようでした。
十七日(土) 大分から熊本に向かう途中で、時間の余裕がないので、高速道路のICから近いところとして「祈の友」の二人の方が在住であるのが分かったので、Nさん宅とTさんを訪ね、その後熊本の集会。河津宅(ハリ治療院)での集会でした。国内最大のハンセン病療養所におられて信仰を守ってこられた二人の信徒の方々も毎年参加されていますが、主がその方々の重荷を負ってきて下さったことを感じました。
十八日(日)は、福岡市のアクロス福岡にて、福岡聖書研究会、天神聖書集会合同の主日礼拝。聖書講話は、「聖書における神の愛」と題して語らせていただきました。(その内容に加筆して今月号に掲載しました)
その後、食事と懇談会で、ここでもそのMP3機器の説明をしましたが、八名ほどの方々が購入を希望されました。 これからの録音はカセットテープでなく、このようなデジタル録音となっていくと思われますが、デジタル録音にすると、ダビング、発送、再生や頭出しなどの操作性、テープのようにカビが生えたり切れたり、磨耗したりしないといった保存性などすべての点においてカセットテープよりはるかに扱いが便利なので、次第にそのように移行しつつあります。
その後、会場に比較的近い「祈の友」会員のUさんを訪ねました。今度新たに「祈の友」の九州地区の世話人となられたというOさんに案内されて、福岡の集会に参加されていたKさんたちと共に訪問し、短い時間でしたが、み言葉と祈り、讃美のときを与えられました。Uさんは八十歳ほどになる高齢でお一人の生活ですが、主イエスが共におられての日々であるのが感じられ、若き日に主が負って下さったゆえに、白髪に至っても主が支えられるということを目の当たりにした思いでした。こうしたお名前だけ知って祈りに覚えていた方々とも主にある出会いが与えられ、そこでも「祈の友」としての祈りを共にすることができました。
十九日(月)午前にやはり九州北部の玄海地方に在住の古くからの「祈の友」会員であるHさんを訪ねました。そこで「祈の友」の昔からのことも聞くことができてより福岡の「祈の友」のことが分かってきた思いです。また、花田さんがかつての病気のときに服用した薬の副作用のため、片方の耳が聞こえなくなり、残った耳も聞こえが悪く、教会の説教も聞き取れない状態というのが分かったので、持参していた集音器を紹介して、聞こえを実験したところ、使えるのが分かりそれを使うことになりました。さらに九州地区の「祈の友」の写真集がじつによく整理されているのを見せていただきましたが時間の予定がかなり過ぎてしまっていたので、お借りして帰りました。
九州に出発する直前に届いた手紙で「いのちの水」誌に関心を持たれてその送付を希望されたN・Kさん宅が、玄海地方から高速道路のICに行く途中にあるのが分かり、初めてそのお宅を訪問し、また仕事から帰ってこられた息子さんともいろいろなお話しをすることができました。かつて全国集会のときにご夫君が突然に天に召された東京のE・Uさんの友人Kさんの友人にあたる方でした。
このように「いのちの水」誌という印刷物が仲立ちをしてくれて、新たな主にある交流が与えられることも主の導きと感謝でした。
その後、広島の施設におられる以前からの教友であるTさんを訪ね、短い交わりの時間を持つことができました。高齢となり生活も難しくなって介護の方にずっと来てもらっていますが、主によって魂は支えられているのが分かりました。
さらに夜は、広島東北部の東城町にての沖野兄宅での家庭集会が与えられ、小学生、中学生、高校生の三人の子供さんたちも加わりました。そうした幼い魂に主が働いて下さいますように。
二〇日(火)初めて鳥取市の長谷川さん宅での家庭集会を訪れました。長谷川さんはキリスト教情報誌で無教会のことを初めて知って、今井館に問い合わせて岡山の無教会集会の香西さんを紹介され、その香西さんから私にさらに連絡があったことから主にある交流が与えられるようになったのでした。
二一日(水)午前はかつて「祈の友」四国グループ集会の世話人をして下さっていたことのあるHさん宅を訪問し、「祈の友」のことなどしばしの時をすごし、岡山を経て四国に渡り、時間の関係で高速道路に近い愛媛県の二人の「祈の友」の方々(Tさん、Nさん)を訪ねました。Tさんは、からだの具合もよくない状況で一人で生活するのはたいへんと思われました。Nさんは施設にてご夫妻ですごしておられます。からだの痛みがいろいろとあるようでしたが、お二人とも、信仰によって主に支えられているのを思いました。
訪問というわずかな関わりしか持てないのですが、そのような少しの時間であっても、主が働いて下さって主にある結びつきを強められ、その結びつきのなかに主がとどまってくださいますようにと祈ります。二人、三人が主の名によって集まるところには主がいて下さるという約束があります。これは、実際に目の前に二人三人がいなければならない、ということでなく、たとえ距離が離れていても、主にあって祈り合う関係があるとき、その中に主イエスがいて下さるということでもあります。
たとえ遠く離れていても、祈りによって主がその当事者それぞれのうちに来て下さるということは、感謝すべきこと、喜ばしいことです。
休憩室 2007年10月 560号
○彼岸花
今年の夏の暑さのために、ヒガンバナが十月の六日ころに最も多く花開いた状態になりましたが、このようなことは私の記憶にないことです。それほどこの夏は暑かったのが分かります。植物も秋になっていないと判断したわけでしょう。
この花は野山に少し咲いているとその緑の中で見事な赤色の美しさを感じさせます。わが家でも、ずっと以前に近くの小川の川岸から採ってきた株が毎年緑の中に強いアクセントとなって咲いています。
このヒガンバナは、地下茎(球根)にリコリンという化学物質を含みそれが有毒であること、また彼岸のころに一斉に咲いたり、葉が後から出てくるということ、触れるだけでもいけないなど間違った言い伝えもあって老齢の人は好まない人が多いのですが、そのようなことにとらわれないで、見つめるとき野草としては特別に大きく美しい花の造りを味わうことができますし、畦道や山沿いに一斉に赤い花が咲き揃う様は、秋らしさをたたえています。
これと同じ仲間のナツズイセンは時折みられる美しい花で、キツネノカミソリは近年は貴重な野草となっています。さらにヒガンバナの仲間のリコリスと言われる花は花屋にもみられる園芸植物で、ピンクや黄色の美しいものがあります。そして、誰もが愛好するスイセンもヒガンバナ科の植物なのです。
☆明けの明星、土星、火星☆
この頃、早朝四時過ぎには、金星が東から目を見張るような強い輝きをもって上ってきます。先日、この欄で紹介したあと、県外の方から初めて早起きして金星のすばらしい輝きを見たと知らせてきた方もあります。その金星の左下付近に土星も見ることができます。このように、明けの明星と並んで土星がみられるということはめったにないことなので、キリストにもたとえられている明けの明星を見たことのない人はぜひ、天気予報で翌朝が晴れであることを確認して見ることをお勧めします。できたら月が出ていない頃が一層金星の美しい光を見ることができます。「
わたし、イエスは…輝く明けの明星である。(ヨハネの黙示録二二・16)」
なお、深夜十一時半頃には、東北東のあたりから、赤く強い輝きの火星が上ってきます。火星より先に、すばる(プレヤデス星団)の星の集まりが見え、その下方に雄牛座の一等星アルデバランが赤い光で輝いています。その左(北寄り)に強い輝きの御者座の一等星カペラが見えます。その二つの一等星を結ぶ線の下方に、赤く強い輝きの火星が見えてきます。
休憩室 2007年9月 559号
○鋼鉄とすみれ
先月号で紹介した、「真白き富士の根」という歌の作詞者であった、三角錫子は、常磐松女学校の創設者でしたが、彼女がその学校のことを、小さな風呂敷にたとえ、「なにとぞ小さくともその中にしっかりとした鋼鉄に、一輪のすみれの花を添えて包んでいってほしい」とその自伝に書いているということです。
(「唱歌・童謡ものがたり」岩波書店刊 九九年 二七五頁 )
この三角の言葉は、現在も彼女が創設した学校のホームページのはじめに 「鋼鉄に一輪のすみれの花を添えて」と、スミレのイラスト入りで書かれています。三角は若くして両親を失い、四人の弟を育てる義務を負ったことからはじまって若い時からの苦労に満ちた人生は、鋼鉄のような意志を持ちつつ、そこにスミレのようなうるわしさを持って生きようとしたからだと考えられます。
聖書の世界はこの鋼鉄のような強靱さと野の花のような優しさを兼ね備えていると思われます。
神は詩編でしばしば岩にたとえられていますが、それは、神の真実や、正義、愛もいかなる状況によっても揺らぐことのない強固な本性を表しています。
そしてそのような神に結びつくとき人間もまたそうした強さを何らかの形で与えられるわけです。それが聖書にあらわれる人物です。
そして同時に、聖書は罪深く心身共に弱い私たちを包んで下さる愛といううるわしさを深くたたえています。
○明けの明星
最近、夜明けの東の空に明けの明星(金星)がそのすばらしい輝きを見せています。 午前四時すぎには、東から上ってきます。長い間、木星が夕方には南に見えていましたが、現在でも南西の空に低くなって見えています。恒星は分かりにくいのですが、木星や金星は、その強い輝きのためにはっきりと見えますが、学校でも金星が見えるとか木星が見えるといった紹介は私の学校時代(他の人もたいてい同様のようです)には全くなかったので、どれが木星や土星なのか分からなかったのです。
現在でも、先頃のような皆既月食などは新聞でも報道されますが、金星、火星、木星、土星など肉眼でよく見える惑星については特別なことがないかぎり知らされないので多くの人たちはこうした地球の仲間の星も見ていないのです。
恒星の科学的な正体は判明しています。それは太陽と同様なもので、水素の原子核がヘリウム原子核に変化して莫大なエネルギーを放出しているものです。
しかし、こうした物理的な正体が分かっているということと、霊的な意味とは全く別ものです。 神はそうした星の輝きに霊的な意味を与えているのです。
このことは、例えば人間の化学的組成がタンパク質や脂質、炭水化物、ミネラル、水分等々がいくら含まれているなどと解明したところで、その人間が持っている霊的本性は全くわからないのと同様です。
それは一人一人が神から与えられるものです。星を見て何を与えられるか、それは各人の神に向かう心により、さらに神からの啓示によるのです。
休憩室 2007年6月 557号
○六月の夜空
六月一〇日に阪神方面から車で帰宅途中、夜の九時四〇分に西空に金星が明るく輝いていました。
夜一〇時近い時刻になってもまだ宵の明星が見えるというのは、ちょうど日没が一年で最も遅い六月だからで、他の季節ならこのようなことはなかなかないわけです。
梅雨空になっていますが、晴れているなら、六月下旬ころの夕方八時頃には、金星がまだ西の方に見えています。そしてその金星に並んで土星が見えます。さらに眼を転じて東の空に向けると南東の空には、木星が強い澄んだ輝きを見せています。その木星のすぐ右側に赤い輝きをもって目立つのは、さそり座の一等星アンタレスです。(
ギリシャ語で火星のことをアレース、その火星に対抗して赤く輝いているということで、アンチ(対抗、反対)アレース、そこから、アンタレスという名前がついています。)
また、頭上にかなり強い光で輝く一等星は、牛飼座のアークトゥルスです。そして北の空には北斗七星が杓を逆さにした形で見えています。
星の名前を覚えると、夜空がより親しくなり、星に現れた神の栄光をより身近に感じることにつながります。
○ホタル
わが家の周辺では、六月に入ってしばらく経つと、毎年少数ですが、ホタルが現れ、その不思議な輝きを見せてくれます。谷川でなく、まっ暗な山道に現れるホタルです。ゆっくりと光りながら飛んで行ったり、近くの草むらにとまって点滅するその光は、私たちの心に静かな喜びをもたらしてくれます。
私たちは光を常に求めてやまない存在であり、闇のなかにひっそりと静かなその光は、私たちの心の願いに触れるものがあります。
休憩室 2007年4月 第555号
○カラタチとフジ
わが家には、父が数十年前に植えたカラタチの木があり、今その白い花を咲かせています。子供のときは、どうしてこんな鋭いとげのある木、しかも実も食べられない木を植えたのだろうと思っていたものです。
そしてそこにいつのころからか野生のフジの木が絡まり、カラタチとフジが同時に美しい花を咲かせるようになりました。父は九年前に召されたけれども、こうして植えた木は花を咲かせ続けています。
よき書物も、数百年前に生きた人であっても、よい書物となって今も目には見えない花を人々の心の中に咲かせ続けているわけです。私自身ふりかえると、今日までの長い年月、そうした花の美しさをくみ取り、香りによって力付けられ、蜜を取り入れて自らの栄養としてきたことを思います。とりわけ聖書は世界の至るところで、数千年にわたって無数の人の魂のなかにうるわしい花を咲かせ続けてきたのだ言えます。
○フジについて
五月に山間部を車で走っているとあちこちに、フジが青紫の美しい花を咲かせています。その野生のフジは同じでなく、花が房のようになっているのを花序といいますが、その長さが20~90cmほどもあり、つるは右巻き、また花も房の元の方から咲き始めます。これがフジ、あるいはノダフジというフジです。
しかし、それとちがって、花序が10~20cmと短く、つるも左巻きで、かつ花はほぼ一斉に咲き始めるフジがあります。これが、ヤマフジというものでどれも同じように見えますが、少し注意して見るとこの二つはすぐに区別できます。
それから、夏に咲く白いフジ、これはナツフジといって花序も花も小さめです。このように、野生のよく見られるフジにもいろいろと神は変化をもたせているのがわかります。
休憩室 2007年3月 第554号
○夕方の西空には、金星が輝いて見る者の目を惹きつけます。また南のやや高い空には、土星も見えています。冬の間、冷たい夜空に強い輝きを見せていたシリウス(大犬座の一等星)は、夕方にやや西よりの南空に見えます。
そして深夜一時ころには、木星が東から上がってくるのが見え、早朝四時~五時には南の空にひときわ明るい輝きで目をひきます。夜九時ころには、春の恒星の中では一番明るい牛飼座のアルクトゥルスという一等星が登ってきて、十一時ころには、南東の高い空で、やや黄色がかった明るい輝きを見せます。
人間同士でも、名前を知っていると親しみがわくし、植物などは特に名前を知っているかどうかで、山野を歩くときにはその喜びが全くことなるものとなります。
夜空の星の世界も同様で、明るい星たちをその星座とともに名前を知って見つめると、夜空が一層親しみやすくなり、また神ご自身の御手によって記された芸術品に触れる思いがしますし、神のご意志の一端を感じさせてくれるものとなります。
○わが家の周囲には、自然に生えたセントウソウやタチツボスミレがその可憐な花を咲かせています。私たちが植えたのでなくいつの頃からか見かけるようになったものです。小鳥などの動物、雨風によって種がこの地にも落ちたのだと思われますが、予想もしないところにこうした清楚な花を咲かせる不思議は、主の御手が背後にあると指し示すようです。
休憩室 2007年2月号 553号
○宵の明星
夕方には、一月に入ってから金星がみえるようになり、現在も夕方の西空に強い輝きを見せています。金星はその特別な光のゆえに古代から世界的に注目されてきた星です。
現在のように、夜空が町のさまざまの明かりが増えると、闇に輝く星を心を沈めて見つめることが困難になっている地方が多いのです。
それでも、金星だけは、どのような明るい都市であっても、西の方向がさえぎられていなかったら、夕暮れには見付けることができるほどの明るさです。
聖書の最後に、再び来たりたまうキリストのことが、明けの明星(金星)にたとえられているのは、古代のキリスト者がこの金星の輝きに霊的な意味をはっきりと感じていたことを示しています。
なお、今の時期に、明け方早くに南東の空に明るく輝いてみえるのは金星でなく、木星です。以前にある方が、一月に、明けの明星を見ました、と書いてありましたが、それは木星なのです。
金星も木星も、それを構成している物質そのものは地上にある物質と同じものですが、それらが太陽の光を受けて輝くときには、その光は私たちの心に特別な意味をたたえて感じられます。それは、今月号に引用した「アンクル・トムス・ケビン」にも記されているように、他の夜空の星々と同じく神の使いのようなものとなり、その光は、魂に届く光となっています。
休憩室 2007年1月号 552号
○わが家の大きなクヌギの木、そして近くの小さい谷川のそばにあるムクの大木は、いずれもその葉を落として静かにその枝を天にのばしています。朝夕の寒さも冷たい風をもすべて受けて立つその姿は、静かな力を沈黙のうちに感じさせています。
特に長い歳月を経てきた大木は、日の光も雨風も寒さ暑さにも耐え、周囲の世界の移り変わりもすべて見つめてきたためか、見ているだけで、私たちの魂に響くものが伝わってきます。
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