休憩室 2010年12月 598号
明けの明星、土星
12月中旬ころ、夜明け6時前に東の空(東南東の空)に向かいますと、すばらしい輝きの金星が見えます。明けの明星です。黙示録において主イエスにたとえられているほど、古代から特別に信仰的にも注目されてきた星です。
その右(南寄り)には、春の代表的星座として知られる乙女座の一等星スピカが輝いており、そのさらに右上方には、土星が見えます。
スピカも土星も明るい一等星ですが、金星が特別に強い輝きであるために、それほど強い光とは見えないほどです。そしてもっと北寄りの空には、牛飼座の明るい一等星アークトゥルスも見えます。
夜明けの明星の輝きは、夕方に見える宵の明星とはことなり、まだみんな寝静まっている闇の中に、ひとり目覚めてその光をこの世界に投げかけている、そして夜明けを告げているゆえにいっそう霊的な光を感じさせてくれます。
この明けの明星は、これから三月始めのころまでは、夜明けに輝き続けるので、朝の早い人は晴れてさえいれば、毎朝この輝きを目にすることができます。
この金星、土星などは、都会のライトが多いところでも見えるので、明けの明星を見たことのない人はぜひ見てほしいと思います。そして、聖書の最後の章である、黙示録22章の16節で言われている聖句を思いだすことで、私たちも迫害という恐ろしい闇のただなかで、夜明けに輝く明星を見つめて、再来のキリストを待ち望んでいた初期のキリスト者たちと、その思いを共有したいと思います。
なお、この頃、夜9時ころには、南西の空には以前からずっと見えている木星が見えていますし、東からは、オリオンの有名な星たち(赤いベテルギウス、青白いリゲル、三つ星)や、大犬座のシリウス等々が上がってくるのが見えますので、西にも東にも明るい強い輝きの星が見えます。
こうした星たちは、目に見えるものとしてはもっとも清い輝きを持っていると言えます。いかなる人間の業によっても汚されることなく、また何千、何万年たっても変ることなく輝きを続けているからです。
しかも闇に輝いているということで、聖書の最初にあらわれる、神の大いなる力、闇と混沌のなかに、光あれ!との神の言葉によって光が生じたということをも思い起こさせるし、すでに述べたように聖書の最後の書である黙示録にもキリストにたとえられてあらわれるゆえに、重要な意味を感じさせるものです。
さらに、世界のキリスト教文学では最も大いなるものと言われるダンテの神曲では、地獄篇、煉獄篇、天国篇のそれぞれの最後に「星」stella という語が置かれていて、ダンテも星の輝きに深い信仰的、キリスト教的な意味をくみ取っていたのがうかがわれます。
夜明けにもすでに書いたように明るい星々が見えますので、星に関心のある者、星によって神とキリストへの思いを強められる者にとっては喜ばしい季節です。
クリスマスについて
クリスマスという言葉は、クリスト(キリスト)+マス(ミサ)という二つの言葉から成っています。マスとはミサのことで、プロテスタントでは礼拝という意味にあたります。
クリスマスが祝われるようになったのは、プロテスタントがまだなかった時代なので、ミサという言葉が用いられていたのです。
ですから、クリスマスとは、キリストを礼拝する日であって、サンタクロースの日では全くないのですが、日本ではキリスト不在のクリスマスという奇妙な現象が広く行われるようになっています。
この点では、日曜日が本来はキリストの復活を記念し、礼拝する日であったのに、日本に日曜日の制度が入ったときには、たんに仕事を休む日、休憩や自由な娯楽の日とされてしまったことと似たところがあります。
アドベント
クリスマスシーズンは、待降節からはじまります。待降節というのは、英語ではアドベント(advent)と言います。この語は、ラテン語がもとになっていて、「ad- (?へ)+-vent (来る)=?へ来る」という意味(到来、あるいは来臨)です。キリストが私たちのところに来てくださるときを待ち望む期間として、11月30日に近い日曜日からクリスマス前までの期間をいいます。今年なら、11月28日(日)から12月24日までとなります。
また、この言葉は、世の終わりにキリストがふたたび来られるという再臨についても用いられます。
私たちにとって、主イエスが私達のところ―この世界に、また日々の生活のただなかに、そして私たち一人一人の心の中に来てくださるということは、クリスマスや世の終わりのときだけでなく、日々の願いです。ですから、クリスマス前の期間だけでなく、毎日がキリストの到来(アドベント)を待ち望む心をもって生活したいものです。
クリスマスの日
私たちはクリスマスといえば、12月25日ですが、この日が確定していったのは、4世紀になってです。おなじキリスト教でも、東方正教会では、現在も1月6日となっています。 (東方正教会とは、ロシアや東ヨーロッパ諸国のキリスト教です。)
また、12月25日はじっさいにキリストが誕生した日ではなく、誕生を記念する日です。キリストがいつ生まれたかは正確には分からないのです。古代においては、キリストの誕生がいつであったかは重要視されておらず、したがってその日を特別に祝うということもなかったのです。
それよりも、はるかに重要であったのが、キリストの復活でした。それゆえに、現在の日曜日が休みであるということも、キリストの復活の記念をする礼拝の日としてはじまったのです。聖書にも「主の日」という言葉がありますから(黙示録1の10)、日曜日の礼拝のことを、主日礼拝というのです。
復活の記事は、聖書にたくさん見られます。四つの福音書のすべて、そして使徒言行録、パウロやペテロ、ヨハネの手紙など至るところにみられます。しかし、キリストの誕生のことは、マタイ福音書とルカ福音書だけに書いてあります。
しかし、キリストが神の本質を備えてこの世に実際に来てくださったこと(生まれて下さったこと)が、この世界がキリストの福音によって新しくされていく出発点にあり、そのことを感謝し、祝うようになったのです。
ヨハネ福音書の最初に記されているように、神がイエスという一人の人間の形をして来られたということは、歴史のなかで決定的に重要なことになったからです。
そして、すでに書いたように、キリストがこの世に来て下さったという過去のことを感謝し、祝うだけでなく、現在も私たちの世界や一人一人の心の中、生活の中に来て下さることを待ち望む礼拝の日ともなっています。
休憩室 2010年10月 596号
○ヒガンバナ
今年は、観測がはじまって以来最も暑い夏でした。彼岸花が十月になってようやく咲き始めたとか、五十年以上もわが家の山の斜面で群生して咲いてきたヒメヒオウギズイセンという橙赤色の花の咲く植物が、いっせいに枯れてしまったのも初めてのことです。
彼岸花は球根植物です。気温が高いうちは、球根から花芽が出るのがおさえられていたのがわかります。例年は、九月二十三日の彼岸の前後に不思議なほど正確に咲き始めるので名称も彼岸花となっています。
わが家には、近くの小川の岸辺から球根を採取してきたヒガンバナが毎年その華麗ともいうべき花を咲かせています。周囲がまだ緑一面であるのに、真っ赤な花を咲かせるのはとくに目立つもので、庭のアクセントにもなります。
あのような何の変化も感じ取らないように見える球根が、地上の温度を敏感に感じ取って花芽を出すということに、不思議な御手のはたらきを感じさせられます。
私たちは、どんなときに目に見えない花芽を出していくのだろうか。 神の愛の光を受けたとき、そのみ言葉を感じたとき、そこから霊的な花芽が育っていき、その人にふさわしい花を咲かせるのだと思ったのです。
休憩室 2010年9月 595号
○ 編集だよりにも引用しましたが、木星を見たことのない人が初めて夜中のとくに月のない晴れたときに、木星を見つけるとだれでも驚くことです。それほど強い澄んだ光です。(なお前月号で、「金星が見えなくなっていますが、」→「見えなくなっていきますが」)ということで、一字欠けていました。現在(九月十二日ころ)でも夜七時ころには、西方に雲がなくさえぎるものがなければ、金星は西の低い空に見えますが九月下旬以降になるとこの時刻では西に沈む直前となり、日没のときには見えなくなっていきます。
○以前にマムシに遭遇したことを書きましたが、あれからさらに二回、いずれも危ないところで咬まれるところでした。最近では、夜の集会から両手に重い荷物を背負って暗い山道を歩いて帰宅し、縁側にそれらの荷物を置いたところで、すぐ足元にとぐろをまいていたマムシを見つけ、一瞬の判断で、革靴で踏みつけて退治しましたが、本当に危ないところでした。
今までに何度となくこのように至近距離で遭遇したのですが、なんとか今まで守られてきました。
今年のようにすぐ近くですでに四度も、ということで何らかの意味が込められているように思われたわけです。霊的にみるとき、私たちのすぐそばにはつねにこうした危険があること、目には見えないサタンの力が私たちを襲おうとして待ち構えているということを思います。
…身を引き締め、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食べてしまおうと探し回っているからだ。(Ⅰペテロ 5の8)
主イエスも、これからみ言葉の伝道という使命がはじまるとき、サタンによって厳しい試みがなされました。
それはイエスだけにおこるのでなく、だれにでも、良きことをしようとすれば必ずそれを妨げ、その善き試みを呑み込んでしまおうとする力が働くということを示しており、そのサタンの巧みな接近を退けたのが神の言葉だったのを思い起こします。
休憩室 2010年8月 第594号
○木星の輝き
最近、夜の八時ころには、東の空に強い光を放って心惹かれるような星が見えてきます。夜半の明星とも言われる木星です。天気がよいときには、一晩中見られます。深夜零時ころにはほぼ真南の空に移動していてよく見えますから、見たことのない方は、ぜひ見てほしいと思います。木星の光は、ほかの星とは群を抜いた強い透明な感じの光なので誰でもすぐに分ります。
金星は夕方の空に強い輝きを見せてきたのですが、それがもう見えなくなりつつあります。その代わりに、東の空にこの木星がバトンタッチするように見えるようになっています。
これからかなりの期間にわたって木星は夜に私たちに語りかけるように夜通し見られるのは幸いなことです。やはり星の光はいかなる地上世界の状況にもかかわらずずっと輝き続けていることもあって、見えるもののうちでは、とくに神の真理やそのまなざしを感じさせてくれるものだからです。
ダンテがその神曲において、地獄偏、煉獄篇、天国編の三つの部分の最後に 星(ステレ stelle)という言葉をおいたのも、彼が、星に深い意味を感じ取っていたのをうかがわせることです。
なお、このイタリア語のstelle は ラテン語のステールラ stellaに由来していますが、この語は、ギリシャ語の アストロン astronや
アステール aster、さらには 英語の star、ドイツ語の
シュテルン Stern などとも語源的には共通しており、古代の広範な民族において、星という言葉は、同じ語源に由来する言葉を用いてきたのがわかります。
休憩室 2010年7月 593号
○金星、火星、土星
夜七時半ころから、西の空から南西にかけて、金星、火星、土星の順に並んで輝いているのが見えます。このように、並んで見えることは、珍しいことです。現在は、この順に並んで見えますが、だんだんこの三つが近寄ってきます。
これらの内で特別に明るいのは、もちろん金星で、夕方に見えるときには、宵の明星として古くから知られています。これから、九月下旬まで見られるので、晴れたときにはその強い輝きをもって、そして火星や土星たちの光とともに、私たちに語りかけてくれると思います。
○わが家のある山は、昔からマムシが多く、毎年何匹か現れます。今年もすでに、わが家のすぐ裏で草刈りのときと、わが家への山道での二回、至近距離で出会い、危ないところでした。その二匹とも仕留めたのですが、しっかり目を開いていないと、その毒牙の被害に遭う可能性が大きいのです。
こうした恐ろしい毒蛇、しかしそれは杖一本あれば、撃退することができます。
目にみえるものと同様、目に見えない毒牙をもったもの― サタンもまた、私たちのすぐ側にまで来て、すきあらば噛みつこうとしているのです。
そのような見えない敵に対しては、私たちは、神の言葉さえしっかり持っていれば、撃退できるわけです。み言葉こそ、サタンと戦う剣であるからです。
「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エペソ 六の十七)
主イエスの警告のように、たえず目覚めていることの重要性を思いだしました。
○金星などの強く輝く星は、神の永遠の光を思いださせ、黙示録ではキリストの象徴としても現れますが、毒蛇には、闇の力をじます。
それらのほかにも、自然界のさまざまのもの、青い空、真っ赤に染まった夕空や燃えるような雲、さまざまの植物や動物たち、それらはみな、私たちに対して何らかの神の国にかかわる真理を指し示し、暗示しているのです。
休憩室 2010年 2月 588号
○冬の寒さのさなかにわが家でも梅が咲き始めています。
イスラエル地方には、アメンドウの樹というのがあって、ちょうど今頃咲き始めます。これは梅の花に似た花で、色も純白ので、私が十五年ほど前に、イスラエルに二月に行ったときには、シナイ山のふもとの修道院の庭にて、ちょうどその真っ白な花がさいていたのが印象的でした。
野生のアメンドウは、白い花ですが、現在各地で果樹として栽培されているのは、うすい紅色です。
旧約聖書の預言者エレミヤは、祖国が重なる罪のために崩壊しようとするときに神から召されたのですが、そのとき、アメンドウの白い花を示され、ほかの花がまだ咲いていない時期にひとり目覚めて咲いているこの花のように、神はその言葉を実行しようと国の動向を見張っていると言われたと記されています。このように二千五百年以上も昔に、神の姿の一端を象徴する花とされていたのです。
現代の私たちも、植物のすがたや花の色などの中に、清さや多様性、あるいは、風雨や厳しい寒さ、風雪に抗して立つ大木の力強さなど、神が私たちに向けたご意志の一端を読み取ることができます。
なお、アメンドウというのは、アーモンドのことですが、ポルトガル語のamendoa からできた言葉です。
○ビリーブ(Believe)
私たちのキリスト集会で、十二月のクリスマス特別集会で、ビリーブという歌を中学二年の福原
愛さんのピアノ伴奏で途中を少し替え歌にしてみんなで歌いました。
この歌は、NHKの「生き物地球紀行」という番組で放送された音楽です。学校の卒業のときなどに愛唱されている曲ですが、大人の人にも愛好する人が多いようです。
私たちが歌っている歌詞を次にあげておきます。(傍点部分が替え歌にした箇所)
たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は かならず主イエスが 側にいて
ささえて下さる その肩を
世界中の 希望のせて
この地球は まわっている
いま未来の扉を開けるとき
悲しみや 苦しみが
いつの日か喜びに変るだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー
信じてる
もしも誰かが 君のそばで
泣きだしそうに なった時は
だまって腕を とりながら
いっしょに歩いて くれるよね
世界中の やさしさで
この地球を つつみたい
いま素直な 気持ちになれるなら
あこがれや いとしさが
大空に はじけてひかるだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー
信じてる…
いま未来の扉を開けるとき
アイ ビリーブ イン フューチャー
信じてる…
この歌についての感想を引用しておきます。(YOUTUBEから)
北田 康広さんのCDにも収録されており、このような感想をみると、大人になってもどこか心惹かれる歌だということがわかります。
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○当時、長男は誕生したばかりで、車いすに乗った父があやしながら この番組を見ていたことをよく覚えています。
長男が歩き始めた時、他界したのですが、今でもこの歌を聴く度、 当時を思い出してなりません。
そして9年後、長男は成長し、早や小学3年生。今でも父がこの歌 を聞きながら、可愛い孫を見守り続けているような気がします。
○これさがしてました。ありがとうございます。涙がでますよ、もっと多くのひとにいい歌を聞いてほしい。
○この番組も欠かさずに見ていましたが、その時には何となく聞いて いましたが、孫が幼稚園の発表会で歌ったときにものすごく感動を 覚えました。
この歌に込められている詩は今の時代にもっとも大事 なメッセージ込められていると思います。幼稚園の三年間この歌を 歌い続けてもらいたいとおもいます
○年長の娘が最後の幼稚園の発表会で歌うようで毎日家で口ずさんで いるので、どんな雰囲気の曲なのか知りたくてこちらで聴かせてい ただきましたが、あまりにも素敵な曲で泣けてきました。
○大人になって忘れてしまった大切な心がいっぱい詰まった歌だと思います。
○懐かしく聴かせていただきました。心が穏やかになる曲ですね。
○大人になったから忘れてしまったんじゃなくて、本当は自分が汚れてしまったから忘れてしまったんだと思います。
この歌を聴いて、子供のころの心を少し取り戻したような気がしま す。
I believe in future!
○この曲は友情やほかの生き物と共存していくことを望んでいるのか な。
みんなロック大好きだけど、自分はこういう曲が断然好き。
○今二十歳だけど、あらためて見ると自然界の命はそれぞれがしがらみなく、太陽や月に
見守られながら生まれ持った習性で生きているのが曲と重なってすごくいい!
○生きもの地球紀行、毎週見てました。歴代の曲はどれも良い曲ですが、その中でもダントツで好きな曲で 、聞く度に涙が出ます。
○子供のピアノの発表会で、生徒さんやご父兄が手話&合奏&合唱してました。幼稚園児から大人まで歌のメッセージを各々が伝えてるようで素敵でした。
休憩室 2010年 1月 第587号
冬の夜空は、一年のうちで最も空が澄んでいて、風も強い日が多いために、星空がよく見える時期です。(日本海側では雪や曇りの日々が多いですが。)
この時期は明るい星が多く見られ、星たちの賛美が、声なき声で響きわたっています。
夜の一〇時ころには、オリオン座がほぼ真南の方向に見え、ベテルギウスの赤い光、リゲルの青白い光がよく目立ちます。 それからその近くには、大犬座のシリウス、小犬座のプロキオン、雄牛座のアルデバラン、御者座のカペラ、双子座のポルックスなどが、何によっても汚されない清浄な光を放っています。
さらに、 夜の九時頃には、火星の強く赤い光が、東の空に見え始めます。まばたきをしない強い輝きなので誰でも見付けることができますので、火星を見たことのない人はぜひ、見てほしいと思います。
これらの星々を、冬の風を受けつつ見つめていると、大空は神の愛のわざであり、それゆえに私たちにも語りかけてくるのを感じます。
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