今月の聖句 暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。 (マタイ福音書四・16) ライトをつける 1999/12 |
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今月の聖句 わが魂は黙してただ神を待つ。わが救いは神から来る。 神こそわが岩、わが救い、砦の塔。私は動かされることはない。 (詩編六十二・1〜2) 打ち壊そうとするもの 1999/11 この世には、よきことを妨げようとする力が働いている。私たちがなにか善いことを継続して実行しようとしたり、真理に向かって歩もうとすると、それを妨げようとするあるものが動き出す。 それは、自分自身が病気や事故になったり、あるいは何らかのほかのものに心が奪われてしまったり、また計画を壊そうとする人間が現れたり、家庭の難しい問題であったり、あるいは、他者との人間関係が壊れたり、また思いがけない社会情勢が生じたり、周囲の社会や国家が圧迫を加えてきたり・・である。 最も真実な愛に生き、真理を宣べ伝えたキリストがわずか三年の働きしかできずに、最も重い犯罪人として処刑されたことはその著しい例であった。 使徒パウロはかつて自分がキリストの福音を伝えたエペソ地方の長老たちに別れの言葉を述べたことがあった。 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっている。 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れる。 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねる。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖徒(キリスト者のこと)とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのである。(使徒行伝二十・29〜32) キリスト教信仰をもって生き始めた人々を、迫害あるいは、異端といった悪の力が襲ってくるということを、パウロは神から示されていたのである。 しかし、そのような打ち壊そうとする力に打ち勝つ道もまたはっきりと示されているのであって、それは神とキリストを信じて神の言をかたく持ち続けることであった。 長い歴史においても、このようなことはずっと生じてきた。 しかし、いかに悪の力が忍び寄ってきて打ち壊そうとしても、決して打ち壊されないものが残ってきた。 それは、そのようなあらゆる悪の力に主イエス・キリストはすでに勝利されているからである。 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ福音書十六・33)と言われた通りである。 失敗と成功 失敗と成功 1999-11 失敗と成功という言葉はだれでもわかっていると考えているだろう。 大学入試に失敗したといえば、誰でもわかるし、また野球などで、盗塁に成功した、失敗したなどとよく言っているから、子供でもよくわかっている気になっている。こうした単純なことなら、たしかにだれでもよくわかる。 人生で失敗するとは、また成功するとはどんなことだろうか。 事業がうまくいって、有名になったらだれでもそれは成功したというだろう。 しかし、キリスト教の視点からよく考えてみると、そんなに単純なことではないのに気付く。 例えば、主イエスは、神の国の福音を宣べ伝えることをもって生涯の目的とされた。しかし、彼はわずか三年にして捕えられ、十字架にかけて処刑されてしまった。そのとき、わずかな弟子たちすら、裏切って逃げてしまい、民衆は、重罪人より、イエスを殺せと叫んだのであった。 これだけを見ると、イエス・キリストの生涯は完全な失敗であったということになる。たった十二人の弟子たちにすら、最後まで従うことを教えられなかったのだから。 しかし、主イエスの仕事は歴史上のいかなる人の働きよりも、どんな事業よりも、天才の研究とか発見よりも、比較にならない絶大なはたらきを、以後二千年という長い間にわたって続けることになった。そして無数の人々に神の国の福音は受け入れられ、数しれぬ人たちがキリストの弟子となり続けている。 これをみると、主イエスほどその仕事が成功している者はいない。 成功とは、永続であり、失敗とは、ある事柄が壊れ、消えていくことである。 真理に私たちが結びついているとき、私たちは決して、壊れたり、朽ち果てたりする存在ではなくなるがゆえに、自ずから成功する。たとえ生きているときに世間の人がに評価されず、見捨てられることがあろうとも。 真理に結びついているならば、そして私たちが神の国の建設のために働いているならば、神がその働きを続け、その人の死後も別の人にと受け継がせていく。そこには失敗はない。 成功か失敗であるかの鍵は、結果でなく、いかに私たちが永遠の真理に結びついているかということである。 神への讃美(詩編第百編) 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。 主こそ神であることを知れ。 われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。 われらはその民、その牧場の羊である。 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。 主に感謝し、そのみ名をほめよ。 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、その真実は永遠に続くからである。 この詩は、神への礼拝の源泉はどこにあるのかを教えてくれます。喜びの声をあげよとありますが、私たちは喜びの声など到底あげることはできないという状況にしばしば直面します。ことに自分の病気が苦しいとき、また家族に大きい問題が生じたとき、あるいは、職業上での悩み、人間関係で苦しんでいるとき、いったいどうして喜びの声などあげることができるでしょうか。 私たちが目にする喜びの叫びのようなものは、テレビとか新聞などで、プロ野球で○○が優勝したとか、人気歌手が来たときなどに、ファンが熱狂的な声をあげるとき、あるいは難関の大学入試に合格した時などのような場合が思い出されます。 こんな一時的な喜びは、ただちに冷えて後には何も残りません。その人の本質は何も変わらないわけです。 普通の人の毎日の生活において、声をあげるほどの喜びというのは、だんだん年齢がかさんでくると、病気や、将来の心配、家族の病気とか老齢のための介助などで、喜びどころか心が重く、暗くなることが多いのです。 この詩を作った人の時代は、どうだったのか考えてみます。 旧約聖書の時代には、どの時代をとっても、のんびりした、何も波乱のない時代というのは少なく、たいてい周囲の国々との戦争や、内乱が起きていて、国が責められたり、家が焼かれたり、あるいは、外国に捕囚となって連れて行かれたり・・と平和とはほどとおい状態が多くありました。そのたびに戦いにかり出され、その結果、死んだり負傷したりすると、残った家族は、喜びなどにはずっと見放されてしまうのです。 しかし、旧約聖書の多くの讃美の詩は、そうした時代のただなかで生まれ、愛されてきたのです。 このように考えると、いったい、この詩の作者は、どこにその喜びの源泉を得ていたのだろうかということが疑問として浮かび上がってきます。 それこそこの詩が言おうとしていることです。それは、神が何にもまして善きお方であり、その真実といつくしみとは、永遠に変わることがないということを知ったときに、外部の事情はどうであれ、私たちの魂の奥からある喜びが湧き出てくるということです。そうした経験を与えられた人がこの詩の作者だけでなく、無数に現れてきたのです。 人間どうしの関わりにおいても、最もいやな思いをさせられるのは、相手の不信実であり、裏切り行為です。ということは、言い換えると私たちが最も喜びを感じるのは、相手の真実さに触れたときです。しかもその真実が変わることがなく、いつくしみに満ちたものであれば、私たちにはそれ以上の喜びはありません。 人間であっても、そうなのだから、相手が宇宙を創造した神であり、そのような大きいお方が私たちに対して変わることなき真実といつくしみを示して下さったのがわかるなら、なおさら私たちには喜びが感じられるはずです。この詩の喜びに満ちた雰囲気はそのような背景を考えるとよくわかります。 この短い詩では、ことに讃美の重要性が感じられます。 ある有名なドイツの注解者が言っているように、讃美とは、たんに感情の表現だけでは決してなく、讃美によって私たちは神がすぐそばにいて下さることをありありと実感するようになるし、そこからよりはっきりと神の本質が直感的に示される機会となるのです。 適切な讃美は、讃美する人々のところに神を呼び寄せ、讃美のつばさは私たち自身を神へと近づけるものとなるのです。 旧約聖書の動乱の時代にかくも多くの喜びの讃美が書き記されてきたのは、いかにそうした人たちが自らの魂の奥深くに神を保ち、そこから喜びの深い泉を持っていたかをうかがわせるのです。 また、この詩には、私たちが神のものであり、神によって養われる羊というべき存在であることが示されています。私たちはだれかに持たれています。子供は親に持たれ、その親はまた勤務先の会社に持たれ、また夫婦は互いに持たれ、持っているとも言われます。また、国民は国家に持たれているといえます。 しかし、そのようなものに持たれていても、いつ捨てられるか、あるいは持ち主がいなくなることもあります。それだけでなく、あやしげな宗教団体に持たれてしまうと、何もかも奪われてしまうことすらあります。 しかし、神に持たれているなら、私たちは神の持ち物なのであり、どんなことがあっても捨てられることはないのです。それはその神がとこしえに真実であり、いつくしみを持ったお方であるからであり、それゆえに、私たちは安心していることができます。 神によって魂に生み出された喜びは、神へと帰っていきます。人間に向かって自分の感情を訴えたり、自分の歌を聞いてもらったりしようという思いでなく、主なる神に讃美が向かうのであり、これこそこの詩の冒頭で、 主にむかって喜ばしき声をあげよ! と言われていることです。神から与えられた喜びであるがゆえに、神に向かってその喜びを表すのです。そして神から生まれた喜びは、個人的なものではなく、それが全世界のあらゆる人々にも生まれるものだとこの詩人には、神からの啓示としてわかっていたゆえに、この詩は、まず「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」ということができたのです。 (参考)この詩は、キリスト教の讃美歌としても取り入れられ、長い間親しまれてきました。今使われている讃美歌にも収められています。(讃美歌第四番) 一 よろずの国びと、わが主に向かいて こころの限りに 喜びたたえよ 二 主こそは神なれ 主はわが飼い主 われらはその民 み牧の羊ぞ 三 もろ声合わせて 大御名ほめつつ みかどに入りゆき、み前に近づかん 四 めぐみ豊かに 憐れみ尽きせず こよなきまことは ときわにかわらじ ・この讃美歌は、OLD HUNDREDTH (オールド・ハンドレッドス)という曲名が付けられています。 この意味は、「古い訳(オールド・バージョン)の詩編歌集」に含まれている第百編(ハンドレッドス・HUNDREDTH)の曲という意味です。これは、宗教改革者カルヴァンの協力者であったルイ・ブルジョワという人が一五五一年に作曲したものです。讃美歌の作曲者名は、楽譜の右上の曲名の下に書かれてあります。 曲名といっても我々日本人にはわかりにくいのですが、讃美歌そのものには名前がなく、讃美歌三一二番といったように番号で呼ぶのに、曲には名前があるのです。それは、ある曲を別の歌詞につけて歌うことがあるから曲にも名前がある方が便利なのです。(例えば、讃美歌三一二番の曲名は、WHAT A FRIEND です) それぞれの讃美歌の楽譜の右上の英語大文字で書いてあるのが曲名です。 この讃美歌は、日本で讃美歌が明治の初めに入ってきたとき、最初に作られた讃美歌集である「教えのうた」(一八七四年出版)の第一番目に掲載されていました。そして一般の教会では、讃美歌五三九の頌栄(しょうえい)として、礼拝のたびに歌われる重要な讃美にも用いられています。 ある讃美歌学者がこの讃美歌をつぎのように言っています。 「讃美歌のうちで、優秀な作品として、今日に至るまで、重んぜられて来ている。・・第百編の歌詞にふさわしい単純な旋律の進行のうちに、力強さと明るさとを感じせしめる立派な歌曲である。」 このように、数千年も昔に作られた詩がすでに旧約聖書時代に曲をつけて歌われ、それがキリスト教にも入ってこの讃美歌四番のように、世界中ですでに四百年以上も歌われ、日本でも、百三十年近くもの間歌われ続けてきたのがわかります。 このように寿命が長く、かつ世界的にも歌い続けられている歌は、キリスト教の讃美以外では、ありえないことです。 こうした永遠的に続くのは、この詩がたたえている真理のゆえであるのです。真理こそは、とこしえに続くものだからです。 狭い門より 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ福音書七・13〜14) 狭き門というのは、フランスの作家ジイドの小説の題にも用いられたり、大学入試は狭き門であるなどというマスコミでの用語とともに、広く知られています。しかし、それが聖書の言葉であるということ、そしてその意味についてはほとんどの人がはっきりとは知らないようです。 私たちが生きていく過程で、二つの門があり、二つの道があると言えます。一つは狭い門であって、そこから続く道は細い、しかし、他方の広い門とそこからの道は広くそれは多くの人が通っているというのです。 狭き門とはどんな門であるかについては、聖書ではそれが有名大学入試が狭き門であるといわれるような意味では全く言われていないのです。それは、その狭い門が「命」へと通じていると言われていることからわかります。ここで「命」というのは、生物としての命でないことは、わかります。犬や猫などの動物が持っている命はなにも狭い門から入って達する必要などありません。生まれたときから持っているものです。 ですから、ここでいう命は、別の箇所で言われている「永遠の命」であり、神が持っているような命のことです。それは目には見えないものでありますが、肉体が死んでも残るような命なのです。そのような命があるからこそ、主イエスは、つぎのように言われたのです。 「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ十・28) ですから、狭き門とそこから続く細い道とは、この聖句の少し前に出てくる「まず、神の国と神の義を求めよ。」という言葉と深いつながりがあるのがわかります。神の国と神の義を求めるとは、人間の自分勝手な欲望とか自分中心的な考えで物事を追求していくのでなく、宇宙の創造主であり、完全な真実と正しさ、そして愛を持っておられる神の御支配や、そのような神が求められるものを第一に求めていくことです。 まわりの人々の考え、テレビ、新聞、雑誌などにあふれている考え方にそってものごとを考えていくのでなく、それら全てを越えたところの神の御意志に照らしてものごとを考えていく姿勢を言っているのです。 みんなが目に見えない神などいない、真実と愛に満ちた神などいないといっているただなかで、そのような神を信じていくこと自体が、狭き門から入ることであり、そのような神を信じて生きることが、その門から続く細い道を歩くことにほかならないといえます。 逆に広い門から入るということは、神などいない、だから金とか富、地位、あるいは世間の評価などが第一に重要だといった考え方、嘘をついても見つからなかったらよいのだ、まず自分中心に考えて行動することだ、などといった考え方を持って生きようとすることは、みな広い門から入ろうとすることであり、広い道を歩くことになります。 しかし、そうした考え方で生きるとき、滅びに至ると言われています。それは、私たちの内にある純真なもの、正しいもの、真実な心といったものは、確実になくなっていき、ついにはあとかたもなく消えてしまうということです。 そして最後は死んでしまったら、そのような魂は、死後になんらかの裁きを受けることになると思われます。さばきなど受けることはないという人も多いのですが、そのような人は、実は生前からすでに裁きを受けているわけです。なぜかというと、そのような考えでは、心に清い喜びとか、平安、あるいは、内から湧き出る泉のようなものを決して経験することはできないからです。そしてそのような喜びや平安こそ人生で最大の宝であり、なににも代えることのできない宝だからです。 永遠の命が与えられると、こうした内なる喜びや力などが生まれると約束されています。そうしたものは、神から来ているのであって、肉体が死んでもなくなるのでなく、かえってそのような清い喜びの満ちたところに移していただけるという確信が与えられのです。 いくら富や権力があっても、真実な神に背を向けているなら、そのような喜びや平安は決してその人の心に訪れることはありません。それが、すなわち裁きです。 大学入試での狭い門というのは、それを通っても決して、聖書で約束されているような「命」すなわち永遠の命へとは通じていません。数学や英語などの教科の成績がよかったら、また、有名会社に入りさえすれば、狭い門を通っていくことだという考え方がふつうですが、それこそ広い門から入ることであり、広い道を歩んでいくことにほかなりません。 こうした狭い門そこから続いている細い道のことは、聖書では多くの箇所で、いろいろの表現がみられます。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ福音書十五章より) 私たちは、何かに結びついているし、何かの中にいつも置かれています。例えば、周囲の流行とか、考え方、政治や伝統、習慣といったものが気付かないうちに、私たちを包み込んでいます。 そうしたものに包み込まれて、考え方も感じ方もそれらの中からなかなか出られないという状況になっています。 しかし、主イエスは、そのような大多数の人たちがつながれているものでなく、主イエスにつながっているようにと言われています。それは、ほとんどの人がかえりみない生き方であるけれど、それこそ狭い門から入ろうとすることであり、狭い道を歩むことになるというのです。 門は、狭く、道も細い。しかし、その行き着く先には、無限の広く深い世界が待っているのです。この道を歩んでその約束通りに「命」を与えられた使徒パウロは、その広く深い世界のことを次のよう述べています。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(ピリピ書三章より) 狭い門とは、言い換えると「神の意志」を求めていく生き方であると言えます。いくら信仰熱心にみえても、それが自分の人間的な欲望とか名誉心とか、他者を見下す気持ちにつながるのであれば、それは、神の御意志でなく、人間の意志でやっていることになります。 このことに関して主イエスはつぎのようなたとえを話されたことがあります。 ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でなもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。」(ルカ福音書十八・10〜14) このたとえで示されているパリサイ人とは、どん欲でも不正でも、この取税人でもないといったし、毎週二回も断食して、全収入の十分の一を捧げているというのだから、外見的には、熱心な人であったと思われます。しかし、その熱心は、神の御意志を求めるのでなく、自分が自慢したり、誇るためであったのです。そのような心は人間的な自分中心の意志に従っているということになります。 しかし、そのような立派にみえる行いはできていないが、心から「神様、罪を犯してしまう自分を赦して下さい」と心から悔い改める心を神は喜ばれるというのです。それは、そのように心砕けて神に悔い改める心は、神の御意志にかなった心です。 山上の垂訓という、聖書で最も有名な箇所のしめくくりとして、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と述べて、神の御意志を行うことの重要性が述べられています。 狭い門か広い門かを選択する機会とは、私たちが朝起きたときから始まっています。まず目覚めて私たちが最初に心に思うことは、何であるのか、神の国の方向に心を向けようとするか、それとも、自分の人間的な思いや、日常の雑事とかに心を向けていくかということです。 そのとき、まず神の国の方に心を向けるなら、すでに一日の初めに狭い門をくぐったことになります。 そして一日の初めに目を通す印刷物が新聞なのか、それとも聖書やそれに類する書物なのかによっても、一日に歩む道が決まってくるわけです。後者の聖書などをまず目に留めることや、そこからたえず神を仰ぎつつ一日を歩んでいくとき、その狭い門から続く狭い道を歩んでいくことになります。 このように考えると、私たちは、だれでもが強制されることなく、自分で狭い門と細い道を選んでいくことに気付きます。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(ヨハネ十・9) この主イエスの言葉にあるように、私たちが狭い門を選ぶということは、主イエスを信じて主イエスを仰いでいくことであり、そうすれば自ずと狭い門を通り、狭い道を歩いていくことになるというのがわかります。そんな窮屈なことはいやだという人も多くいる、というより大多数だと思います。 しかしそのような狭い門を通っていく者は、右にあげたヨハネ福音書における主イエスの言葉が示しているように、「門を出入りして、牧草を見つける」のです。広い世間の人たちがあるく道を行くときには決して与えられない牧草、すなわち目に見えない賜物を下さるということです。その命の牧草の味わいをしっかりと実感したもの、そしてその牧草によって新しい力を与えられ、喜びをも知った者は、決してその狭い道を捨てて、世間一般の広い道を歩もうとはしなくなると思われます。 生涯この道を歩き続けた人で、それを後悔した人はかつて一人もいないとある、有名なキリスト教思想家は書いていました。 狭い門から入れ、この言葉は、同じ山上の垂訓で、別の表現でも言われています。それは、「まず、神の国と神の義を求めよ。」(マタイ福音書六・33)です。 そしてこの言葉は、さらに有名なつぎの言葉、「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、開かれる。」(マタイ七・7)ともつながっていると考えられます。 求めよ、そうすれば与えられるなどといっても、与えられないではないか、私はずっと前から○○を求めているのに、全然与えられないとかいう批判をよく耳にします。たしかに、一千万円を今、下さいなどといくら求めても与えられるはずはなく、病気に苦しむ人がすぐにいやして下さいと求めても癒されず、そのまま病気が重くなって死んでいったということもいくらでもあります。 しかし、それは求めるものが間違っているからです。神の御意志と関係なく、金や病気いやし、入学とかのことを求めても、与えられないのは当然です。 ここで言われているのは、狭き門を入っていく人、そしてそこからの細い道を通って行こうとする人が、彼方の光を見つめつつ、求め、探したたくときに、その細い道を歩くために必要な力や導き、平安などを与えられ、狭い道であるのに、広く開かれた世界へと導かれるという約束なのです。 天に至る階段 (創世記二十八章) ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。 すると彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がって行くであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 ヤコブは眠りから覚めて行った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 そして、恐れおののいて言った。「ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 (創世記二八章より) これは創世記においても特によく知られた部分の一つです。天が開けて天に至る階段が見え、天使たちがそれを上り下りしていたということは、子供の聖書物語でも必ず入っている内容で、昔の牧歌的ともいえる風景だと感じます。また、昔から絵画にもよく描かれており、ウィリアム・ブレイクもこのことを主題として印象的な絵を残しています。 しかし、これは単なる昔の現実離れした童話などのたぐいでは決してありません。聖書には一見、何ら特別な信仰的意味がなさそうに見える箇所でも実は、今の私たちに深い関係のあることが多いのです。 ヤコブとは旧約聖書では最も重要な人物の一人です。ヤコブの子孫からイスラエルの十二部族が生まれ、そのうちのユダ部族が残ってユダヤ民族という名称のもとにもなっています。 そのヤコブとはどんな人であったか。それは聖書的な人物とは思えないという人もときどきいるように、私たちがふつう思い描くような聖者的人物とは違います。兄が外で猟をして空腹で帰って来たとき、長男の権利を食物を兄にやるのと引き替えに横取りしたとか、母の強いすすめで、兄から父の重要な祝福をだまし取ってしまったり、よい感じのすることではないようなことが記されています。 そのために兄から激しい憎しみを受けるようになり、兄は「ヤコブをなんとしても殺してやろう」と考えるまでになったのです。そのままにしておくと兄弟殺しが生じるのを知った母ははるか遠くの親族のところまで逃げるようにと命じて送り出したのでした。 ヤコブが夢の中で、天の階段を見たのはそうした逃避行のさなかであったのです。 この時には、背後には殺そうとまで憎んでいる兄がありました。慣れ親しんだ家庭はもはやなく、あるのはただ、荒涼とした大地のみ。前途は遠く、未知の土地であり、途中にも何がおこるかわかりません。 昔の旅とは苦しみと直接に結びついていました。 (travel(旅行)とtravailとは同語源の言葉です。travailは産みの苦しみ、苦しい労働を意味する言葉です。これらの言語からも昔の旅が苦しみと同一視されていたのがうかがえます) 何らの安全の保証もなく、将来の確たるものもなく、あるのは岩石や土の広がる荒野のみ。どこにも心を休めるようなところはありません。しかし、そうしたところに神は最も重要な啓示を与えたのです。 ヤコブ自身もまさかそのような神の直接的啓示が与えられようとは思わなかったのです。人生の荒野のただなかにおいて神はしばしばその深い姿を現してくださいます。主イエスがもうこれから十字架にかけられて殺されるという時、血の汗を流して必死で祈られました。しかし、その時に天使が来て力づけたとされています。 天に至る階段とは、以前の訳でははしごと訳されていました。しかし、この原語は旧約聖書では一度しか現れない言葉であって、ここでは階段がよりふさわしいと考えられています。 天からの階段を天使が上り下りしていたなどといって一体今の私たちに何の関わりがあろうか、と多くの人々は思うでしょう。こんなおとぎ話のような古代の物語が今の私の苦しみや悩みを一時的に童話的内容にふれて気晴らし程度にはなっても、深い意味はなにもない、日曜学校の子供の話にはよいかも知れないが、自分には何の意味もないと多くの人は思ってしまうはずです。 しかし、それはヨハネ福音書におけるキリストの言葉をみると、そんな子供向けの話ではないのがわかってきます。 というのは、キリストを信じる者に与えられるよいことと言えば、一般の人々はどんなことを思い浮かべるでしょうか。健康、周りから好かれること、やさしい人間になる、力強い人になる、愛を持った人間に変わる、学ぶ意欲を強められる等々が思い浮かぶかもしれません。 しかし、意外なことにヨハネ福音書において主イエスはふつうに予想されるそうしたことと全く違ったことが与えられると言われているのです。 「ナタナエルは答えた。・ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。・イエスは答えて言われた。・いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。・ 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ福音書一・49ー51) 主イエスを神の子と告白することは、信仰の根本です。神の子というのは単に神が作った子供という意味ではありません。神と同じ本性を持ったお方」といった意味を持っています。このことはどうしてわかるかというと、主イエスが神の子だと言ったら、当時のユダヤ人が「おまえは自分を神と等しい者としている」と言って神を汚したと言い、イエスを殺そうとまでしたことからもうかがえるのです。 キリストが神の子であるというのは、人間みな神の子などと言われるような用法とは根本的に違った意味で言われているのです。 ナタナエルという人が主イエスの短い言葉で、直ちにイエスがそうした意味で「神の子」である、すなわち何百年と預言されてきた救い主であると直覚したのです。ヨハネ福音書では事実上の最後の章にこう記されています。 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ福音書二十・31〜51) これを見てもいかにヨハネ福音書においてイエスを「神の子」と信じることが重要なこととしてみなされているかがわかります。それほど重要なことに対して、なぜ主イエスは「それよりももっと偉大なことを見る」と言われたのでしょうか。ナタナエルはイエスを神の子と信じることができたが、なおイエスはイスラエルの王であるという信仰にとどまっていました。単に大工の息子であって何の権力も見栄えもない人を見て、イスラエルの王だと直感的に召命されたのは確かに特別に啓示を受けた故だと考えられます。しかし、主イエスは単にイスラエル民族の王であるにとどまらず、人類の王なのです。こうした不十分なナタナエルの見たイエス像に対して 「もっと偉大なことを見る」と言われたのであろうと思われます。 ヨハネ福音書において、イエスを神の子と信じる者に与えられる大いなることが、ヤコブの見た天に至る階段のを上り下りする天使たちの姿に結びつけられています。 なぜこれが主イエスを神の子と霊の目で見ること(信じること)以上の大いなることであると言えるのでしょうか。 人の子とはキリストのことです。キリストの上に天使が上り下りするのを見るとは、キリストの上に神の本質が天から注がれ、キリストを通して地上の願いが天に運ばれることを象徴していると理解することができます。 また人の子キリストに結びつく者、すなわち一人一人のキリスト者にもこのことはあてはまると考えられるのです。私たちのキリストに生じるよいことは、キリストに結びつく人間にも生じることです。キリストの上に、天使が上り下りするのと同様に、キリストを信じる私たちの上にも天使が上り下りするのを見る(霊的に体験する)ということになるのです。これには、次のような意味が象徴的にこめられています。 私たちの祈りや願いは天に運ばれて聞かれ、御心に留めて下さる、あるいは私たち人間の持っている様々の汚れたものが天に引き上げられて、処理され、清められるということも思わされます。十字架のあがないとは私たちの罪をイエスが身代わりに背負い、処理して下さったことです。それは言い換えれば、地上の罪を引き上げて取り除いて下さったということなのです。 そして天から下って私たちのところに来るのは、聖霊であり、復活した活けるキリストにほかなりません。こう考えると、ヤコブの階段の夢は十字架のあがないと聖霊を注がれること、生きたキリストが私たちのところに来て宿って下さることをも思い起こさせる豊かな内容をたたえているのがわかります。十字架のあがないと復活のキリスト、聖霊、これこそキリスト教の中心です。だからこそ、これが「大いなること」だと言われているだと思われます。 私たちの上に、この地上にたえず天使が上り下りして私たちの祈りを運んでもらい、地上の罪を運び去って頂きたいものです。 この箇所に関して、ヤコブの見た階段はそれがイエスご自身であり、ヤコブの夢によって神ははるか後に現れるキリストを預言しているのだとも言われてきました。確かに主イエスは、私たち人間と神を結ぶ架け橋ともいうべき存在だと言えます。 キリストが和解となり、隔てになっているじゃま物を取り除いて下さったことはつぎのように記されています。 「ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、 彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、 」 (エペソ書二章より) 長い人類の歴史において神と人間とはあまりにも遠く離れていました。聖書はキリスト以前の時代がいかに神と人間が遠く離れていたかを詳しく記しています。その大きいへだてを取り除いてくれたのがイエス・キリストであったのです。 神と人間との隔てを取り除かれるとき、人間同志の深い対立も解消されていきます。ユダヤ人と異邦人との根深い対立もキリストが来て下さったことによって根本から解消されるとパウロが述べているのです。 ヤコブはこの天からの階段の夢を見て次のように言いました。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 (創世記二八章より) 神など到底いるはずがないと思われるような荒涼とした砂漠のような所で、しかも孤独のただなかにいるヤコブのところに、神は現れた。神は私たちの日常生活においても、こんなひどい状態のなかに神はいるはずがないと思われるような状況においても、むしろそのような所だからこそ現れて下さる。これはなんと私たちに励ましを与えてくれる約束でありましょう。 私たちの人生の砂漠においても病気や家庭の問題、人間関係等などいろいろの状況に追い込まれます。こんなところに神などいるはずがない、そう思われる時においても神はむしろそのただなかにいて下さり、現れて下さるということはすばらしいことです。 そして「ああ、ここにも神はいて下さったのだ!」ということを知ることは私たちが知る最も深い喜びの一つであります。 そしてヤコブが「なんと畏るべきところだろう!」と叫んだように、私たちも神との出会いにより、思いがけないところで神に出会うことにより、私たちは神は畏れをもって対すべきお方であるのがわかります。 神は愛である、といってもなれなれしく対することはまちがっています。 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ福音書四・24)と主イエスが教えました。神はすべてを見抜き、必ず背くもの、悔い改めない者には裁きを与えるということを知った者にはなれなれしくはできません。また罪深い自分をも赦し、さらに見えない神の賜物をもって自分を満たしてくれるのを体験したならば、私たちはただみ前にひざまずくだけです。 こうした心はおよそなれなれしくするとかいう感情とは異質なものです。 宇宙の創造主である神に対する畏れを知らない心は、自分が大きいと思っているからでありましょう。 ヤコブはかつては兄をだまし、また父をもだますほどに厚顔な者でした。しかし、荒野の一人の苦しみにみちた旅によって初めて自分の小さいこと、神の無限と万能を思い知らされたのです。 私たちも自分がひとかどの者であるとか、自分は偉いのだといった高ぶりが潜んでいます。そうした傲慢は苦しみや痛みを通してはじめて砕かれていくのです。ヤコブの天の階段の経験はそうしたことも私たちに暗示しているのです。 ○ 休憩室 木星、土星、すばる 前回に紹介した木星が今ごろは、夕方からずっと夜通し見ることができるので、何人かの人からも空に木星を見るようになって、身近になったとか、夜に空を見上げるようになったとか、聞かされています。 現在(十一月下旬頃)、夜の九時頃に空を仰ぐと、南のやや高い空に、明るく木星が輝いています。そしてその少し東寄りには、木星よりは弱いがかなりの明るさで土星が見えます。木星は、ほかのどの星よりもはっきりとした強い明るさで輝いているので、だれでもすぐに見つかります。 木星から、土星までの間隔をやや長めに土星の方向に延長していくと、ぼんやりと白いものが見えます。目のよいに人は、六個ほどの星が白い雲のようななかに見えます。これが、昔から有名な「すばる」です。プレヤデス星団のことです。 これは、日本でも、今から千年ほども昔の清少納言がその随筆である枕草子につぎのように書いていることは広く知られています。 星はすばる。牽牛(ひこぼし)、夕づつ(宵の明星のことで、金星)。 清少納言はどうして冬のオリオン座とかその中に含まれる青く輝くリゲルとか、あるいはシリウスのような強く輝いて目立つ星をあげずに、すばるを第一にあげているのか、不思議に思われますが、これは独特の白くくもったようななかに六つほどの星が見えるその姿がことに心を引いたものと思われます。(なお、ひこぼしとは、わし座の一等星アルタイルのこと) 日本だけでなく、中国やインド、ヨーロッパなど世界的にこのすばるは古くから知られている星団なので、見たことのない人は、木星と土星をたどって見つけるとよいと思います。 聖書のなかにも、つぎのように現れます。 あなたは、プレヤデスの鎖を結び、オリオンの綱を解くことができるか。・・大熊座とその星々を導くことができるか。あなたは天の法則を知っているか、その支配を地に及ぼすことができるか。(ヨブ記三十八・31ー33) これは、ヨブという非常な苦難に突然にして陥った人が神はよい人も悪い人もみんな同じに扱うのだ、神は正しくないなどと苦しみのあまり神への不信を叫んでいたとき、神が最後に答えられたその言葉のなかにあります。ヨブ記を書いた信仰の大詩人もまた、夜空のすばるやオリオンなどに特別な関心を持ち、そこに神の大いなるわざを感じとっていたのがうかがえるのです。 また、明け方には、素晴らしく輝く明けの明星(金星)が東の空に見えています。この時間の前後には、東から西の空に至るまで、たくさんの明るい星が輝いており、これほど多くの明るい星が一度に見られるのは珍しいことです。金星以外に、南の空にはオリオン座のリゲル、ベテルギウスなどの明るい星、大犬座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、双子座のポルックスとカストル、ぎょしゃ座のカペラ、雄牛座のアルデバラン、そして西の方に低くなっていますが、土星、木星といった明るい星が見えるのです。 空の星に親しむと、私たちの心をいつもより高い方へ、また清い世界へと引き寄せられる思いがします。 |
1999/11 |
今月の聖句 秋色深し 1999/10
愛しまつる在天の父よ、 |
1999/10 |
打ち倒される時に 1999/9 私の心はおどる 虹が空にかかるを見るとき 私の生涯のはじめがそうであった 大人になった今もそうだ 老いてもそうであるように さもなくば死んだがまし 子供は大人の父だ 私のおくる一日一日が 自然に対する深い敬意の心で結ばれるように。 THE RAINBOW MY heart leaps up when I behold A rainbow in the sky: So was it when my life began ; So is it now I am a man; So be it when I shall grow old, Or let me die! The Child is father of the Man; And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety. (William Wordsworth) こうした心得は、身体の面だけでなく、そのまま心の方面でも言えると思われます。しかし、老齢になり、しかも病気になって自分き身体のことだけで精いっぱいになってくると、いったいどんな目標を持つことができるだろうかと思います。 |
1999/9 |
神は導く 1999/8 そして、その終局として、太平洋戦争が行われた。そしてこの方向がどんなに重大な結果をもたらしたかはそこで失われた人命がおびただしい数にのぼっていることでよくわかる。 なお、新約聖書でもこの言葉は百回ほど用いられていますが、日本語訳聖書では「美しい」という訳語が用いられていないために気付きにくくなっています。しかし、英語聖書では、原語のニュアンスを生かして「美しいこと」と訳してあるのもあります。例えば、アメリカの英語訳聖書として広く知られてきた改訂標準訳(RSV)、また新国際訳(NIV)、モファット訳、フィリップス現代英語訳なども、この箇所の「よいこと」をbeautiful thing(美しいこと) と訳していますし、現代英語訳聖書(TEV)では、 fine and beautiful thing(すばらしく、美しいこと)と強調して訳してあります。 皇紀二千六百年奉祝全国キリスト教信徒大会 |
1999/8 |
この石ころをも 1999/7 宗教改革者ルターにおいても、この詩は彼が最も愛した詩のうちの一つでした。 私たちもまた、そのような「物を言うまなざし」・それは小さな子供やさらに小さな動物すらも持っている・をどんな、表面的にきれいな言葉よりも愛する。(ヒルティ・眠れぬ夜のために上二月二五日) |
1999/7 |
弱き者を 1999/6 人間の重荷の根源にあるのが、罪である。罪とは、真実と愛の神に背くいっさいの心の動きや行いを言うが、そうした罪があるからこそ、人々は苦しみ、悩みが生じる。そしてその罪とは、人間の最も奥深いところにあるものだけに、ほかの人間がその罪の重荷を取り去ることは決してできない。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 (三)つぎにパンを裂くことが言われています。これは聖餐としてキリスト教会に受け継がれてきました。地上で弟子たちと共にする最後の夕食のとき、主イエスがパンとぶどう酒についての特別な意味を言われたのは、福音書の記事の方がよく知られていますが、使徒パウロも主が言われたこととして、つぎのように伝えています。 (四)最後にあげられているのは、「祈り」です。すでにあげた三つのものすべてに祈りを欠くなら、それは最後の完成がなされない不十分なものとなってしまいます。聖書の学びも祈りなくば、知的遊技となり、信徒同士の交流も祈りなくば、人間的な情の交流となり、神から引き離そうとするものにすらなってしまうでしょう。 |
1999/6 |
支えることと支えられること 1999/5 日本で最もくわしく、内容的にも今までと違った考え方で作られたもので、日本の代表的手話辞典といえるものが数年前に、発行されました。 |
1999/5 |