日本海側に住む人たちには、冬空はほとんど星を見る機会もなく、雲で覆われた夜空だと思いますが、太平洋側の徳島では、しばしば澄みきった夜空に、ほかのどの季節にもない厳しさのなかに輝く澄んだ星たちがみられます。 ことに今年は、木星が、冬の強い光を放っている星々のリーダーのように、強く透明な光を地上に注いでいて、夜半に外に出て星空を仰ぐたびに、その神の国にある清らかさそのままの光に心が惹かれます。 夜、10時ころに、南の空には、オリオン座が正面に見えます。その右上、頭上に最も強く輝いているのが木星であり、そのすぐ下にあるのが赤色の牡牛座の一等星アルデバランです。さらにその右上方にすばる(プレヤデス星団)が見えます。 中学1年のとき、かんたんな手製の望遠鏡を作ってそのすばるを見たときの感動はいまも覚えています。たくさんの星々が初めてはっきりと見えたからです。 さらに頭上の北寄りに明るく光る御者座のカペラという一等星があります。オリオン座の左、東のほうには、小犬座の一等星 プロキオンが見えて、さらにその下方南寄りには恒星では全天で一番目に明るいシリウスが輝いています。 すばる(プレヤデス星団)は、いまの季節に最もよく見ることができます。千年ほども昔、日本人の書いたもの、万葉集やそれ以降のさまざまの和歌集にもほとんど星の記述がないなかで、清少納言は、「星は、すばる。ひこぼし。ゆふづつ。」といった記述を残していて、これは中学の国語の授業で学んだとき以来知らされていることです。 しかし、その星の順序がどうも不可解であったのです。とくにすばる(プレヤデス星団)が、最もよく見えるのは冬ですが、そのときには、オリオン座の二つの一等星や大犬座のシリウスの強い光その他たくさんの明るい星々―一等星たちが1年のうちで最も多くみられます。 それなのに、星がはっきり見えないで薄雲のように見えるこのぼんやりとした星の集りをなぜ、第一においたのか、ということです。また、天の川をはさんで、こと座のベガ(織女星)と、わし座のアルタイル(牽牛星、ひこぼし )は夏にははっきりとよくめだちますが、アルタイルよりベガが明るく、まずこちらのほうが目に入ります。それにもかかわらず、わし座の彦星(ひこぼし)をあげていること、そして ゆふづつとは金星ですが、この宵の明星として いかなる星よりも強く輝く金星がそれらよりあとに置かれているということも不思議なことです。 これは単に清少納言個人の好みの問題を越えて、日本人のあいまいなことを好む感性が表れていると言えます。くっきりとした強い輝きの星よりも、雲でくすんだような星の集団に、より心惹かれたということです。 こうしたことが、いかなるものにも抜きんでて万物を支配されている神を受けいれず、人間でも動物でもまた大木や山、あるいは死んだ人まで、その正体がわからないもの、曖昧模糊としたものを神々として拝むということにもつながっていると思われます。 私たちの心の世界も、もし聖書で示されている明確な本質を持っておられる神を知らないときには、その心の中はやはり薄雲がかかったようなどんよりとした暗さが覆っていると言えます。光あれと言われる神を知らずその神を受けいれないということはその光を受けいれないからです。 主イエスも次のように言われました。 … 神の光を受けいれるための心の窓(魂の目)が濁っていたら、光は入ってこない。すると全身が暗い。魂の内なる神の光が消えたら、その暗さはどれほどであろう…(マタイ福音書6の22~23より)
善か悪かあいまいではっきりしないことを、そのまま受けいれるのでなく、善はあくまで夜空の星のように明確な本性を持っているということを示され、それを記しているのが聖書でもあります。
なお、金星は明けの明星として9月ころからずっとその輝きを見せてきましたが、1月の下旬には見えなくなります。
早朝の東空にはっとするような輝きを見せていましたので、それが見えなくなるのは名残惜しい気持ちです。
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