野の花 |
N.Y 二〇一一年秋の無教会全国集会(十一月五,六日)の参加には、開催要項が届いてから一ヶ月以上、参加するかどうか迷っていました。しかし松山市の富永尚さんの発行する「よろこび通信」に小笠原さんが、森ノ宮通信の終刊について文を寄せており、それを目にしたときに、物事の「終わり」というものをはっきりとした形で知らされました。 私は定期的な読者というわけではありませんでしたが、特に、無教会キリスト者の交わりとしての印刷物でしたので、その「終わり」はことさらに心に残りました。全国集会へ参加することに決めたのはその知らせを知ったからです。参加しなければならないように感じました。 讃美歌21の五七五番「球根の中には」の三節に、つぎのような歌詞があります。 命の終わりは 命のはじめ おそれは信仰に 死は復活に ついにかえられる 永遠の朝 その日 その時 ただ 神が知る この歌詞の冒頭を思い出したのです。終わりがくるということを知って、はじめがくる。死を知って、命を知る。罪深い者であることを心底知ってそこからの救いを与えられる。何か通底しているものがあると感じました。私の内で神さまが語り、働かれたのだと思います。 (高校教員) 大阪府高槻市 |
F.S 私の信仰心は母から受け継いだものだと思う。 全てを見とおしてくださる神様がいらっしゃるという信仰心で真心をこめて生き抜いた人だと思う。 誰に対しても優しく、その様子は子ども心に嬉しかった。私に信仰心をもちなさいと言ってくれた。 その母がガンで入院し、闘病生活も三年を過ぎた頃、私は当時東京で住んでいてあるとき少し様子が変だ帰ってきてはどうか、という胸騒ぎを感じた。前の日家族からの電話で母は「あの子は勉強をしている身なのだから呼ぶな」と言っていたと聞いたが東京からその日の夜行バスで帰郷し次の日の朝十時には大学病院に着き半日母と語り合った。母のベッドの下に簡易ベッドを置くと疲れからか九時には寝てしまった。母の苦しむ物音に目が覚めた。何時間経ったのか私は母の手を握ったまま心音はしだいに弱く消えていった。最後の言葉は「死にたい。」だった。かわいそうな母、彼女の人生を賭けた信仰は救ってはくれなかった。 初めて死が自分のこととして迫ってきた、はっきり言って怖かった。その恐怖に対抗するため母に対する罪悪感のため、そして人の世の不公平さに対して私は身を滅ぼすほどに怒った。しかし半年も気晴らしの生活を送ればこの気持ちも忘れてしまうだろう、人の一生はあっという間に過ぎる、またとない機会を与えられた、これを逃してはいけない。 私は母の病室で神を探そうと命を賭けて誓った。その時信仰を促された聖句「求めよ、そうすれば与えられるであろう、あなたがたのうちで自分の子がパンを求めるのに石を与える者があるだろうか。」神がいるならこの聖句は実現すると思った。 そしてやはり神はおられた。もうこれ以上は望みませんというぐらい、ある時はっきりと判らされた。そのためには全てを 棄てることになったが神は導いて下さった。私は命を賭けてでもと言っていたが、その命も神の創られたもの、私は万物全てが本質において等しく被造物だということ、自分が目の前の机と同じ被造物ということをはっきり感じ、創られた目には見えない神こそが実在する、私は今まさに神に創られ生かされている、全ては恵みの中にある、なんと私一人が尊ばれ全てが私のためにあるというこの充実感は永遠という時間をもってしても色あせることはないと直感させられた。順番に言葉を並べると一瞬の充実の中に永遠がありそして全ての被造物木の葉の一枚の葉っぱまでも父なる神を褒め称え賛美していた。そして天上天下唯我独尊の状態とともに自分の身を砕いても捧げたいという衝動、献身の霊にあふれ世の中の問題は全て解決する時が必ず来ると確信させられた。イザヤ書に「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」とあるように、全ての谷は埋められ、全ての山と丘は平らにされ、曲がった道は真っすぐに、デコボコした地面は滑らかにされ、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。しかしまた他人より高い所に上りそのため少しの雨で谷底に削り流されていく他人を冷たく見つめる生まれたままの肉の自分も逆にはっきりと判る。なんとそれは今も心の王座を神の御霊と争っている。 これは私の内的体験でしかないのだが、大切なのはどんな体験をしたかではなく、キリストの霊、すなわち(ここは私は具体的に言える)父なる神を褒め称える賛美の霊と、自らを打ち砕き、低きところに身を捧げる献身の霊がその人の心の中心に、心の王座にいるかどうか。そして恵みを受けているかであり、「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテア二・20)とあるように私を愛し、私の為に身を捧げられた神、世に我が子のために命を捧げる親も居るけれどもその原型は神と私達の関係あるのだと思う。神こそいくら敬慕してもやまない私の真の親である。私は信仰という手を無心に伸ばす赤子のような者になりたい。親がその手を握ってくれることを切に願う、そうすれば安心な赤子のような唯一の望みのように。 私は今、徳島聖書キリスト集会に参加させて頂いているが、そこでのリーダー吉村孝雄兄は賛美と献身の霊が、キリストの霊が王座にしっかり座った真のキリスト者であると思う。その薫陶を受けることの出来る人は幸いだ。日々賛美と伝道に情熱を傾け、原発に関しても、止めるべきとの明確な考えを持っておられる。 私の内的な体験を真摯な態度で受けとめてくれた初めての人だ。 揶揄翻弄されるのは客観的視線で考えれば仕方ないこととも思う。でも励まされついでに大上段を言わせて頂くと、超自然のことは私達の世界と重なり合うように別の次元に現実として存在しその感情は客観的科学的方法ではなくただ飛び込んでみることだと思う。闇雲ではなく聖書はしっかり受けとめてくれるものが必ずある真実の書物だから。 最後に、お母さんの古株から新芽がでたよ、ありがとう。 |
N.K 「宣べ伝えること」をテーマに今日もローマ書十章14~15節から学んだ。 イエス様を信じることの喜びを宣べ伝えること、それは多くの人に伝えることや結果を求めることではない。それは神様が為さることでたった一人でも福音を信じる人が起こされることを祈って伝えること。公に言い表すことがなかなかできなくても、立派なふるまいができなくても少しでも聖書の御言葉をもって伝えていくことの大切さを学んだ。 私自身、中学生の頃、国語の教師であった信仰の恩師の家庭集会に参加するようになり聖書との出会いが始まった。そのころ集会に参加していた学生は十人近くいたかと思う。それから数十年という長い年月がたち、当時集まっていた友人は早いうちに皆去っていった。高校を卒業し、故郷を離れた後も集会は続いていた。当時、参加していた生徒たちの中に信仰を持ち続けている方がどれほどおられるかはわからない。 若い頃は仕事の多忙と子育てもあり京阪神での集会にきちんと参加できず、恩師にテープを送ってもらい一人で礼拝を続けていた。たった一人のためにずっと種を蒔き続けてくれた恩師に心から感謝している。 それから徳島聖書集会の吉村孝雄さんと全国集会で再会、以後「いのちの水」(以前は「はこ舟」)、毎月の講話CDを送っていただき、家庭にて礼拝を持つことができるようになった。インターネットの案内を見て来られるようになった方や集会員の方の誘いから来られるようになった方もおられる。一時間近くバスや電車に乗り継ぎ、バイクであるいは車で、方々から主イエス様の名によって熱心に集まってくださる。本当に何という幸いなことか。自分自身の信仰が深まって立派になったのでも何でもない。ただイエス様が集めてくださっている。 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。 (詩編一九・4~5) 全地のすべての被造物を神様はご計画の内に造られ、私たち人間も一人ひとりが意味を持って造られたことを知り、どのようなささやかな伝道であってもイエス様に促されつつ伝えていける者でありたい。 「憐れみの器」 高く青い澄み切った空、清冽な川の流れ、黄金色に輝く田畑、彼岸花の紅、とりどりの色で可憐に咲くコスモス、水ひき草、・・・さわやかな風を受け、イエス様の霊をひとしお感じる季節になってきた。 この間主日礼拝においてローマ書より神様のメッセージを豊かに受けている。秋の霊風を受けて歩いていると、ローマ書から学んだみ言葉が心に思い起こされる。 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。 天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」 (イザヤ書五五・8~9) ローマ書九章はむずかしい箇所だったがパウロの深い信仰を感じることとなった。 私はこの時、若いころ触れたカール=バルトの言葉を思い出した。バルトは語る。 『神が、人間の崇める神と合致しないということを人に示すとすれば、そしてその時、人間が神の啓示を受けるとすれば、人間は神の怒りの器以外のものではあり得ない。我々人間は、時間の中では皆エサウだ。けれども人は永遠の中ではヤコブであり神の憐れみの器だ。』 人間が崇める神・・・神とはこういうものだ、こうあってほしいと、自分の都合のよいように神様を崇めた時、私たちは神の「怒りの器」の中にあり、時間の中ではいつまでたってもエサウではないか。神とはこういうものだと人間が造ってしまう。 私たちはこの世では多くの理不尽と不公平のなかに生きている。能力、健康、職業、試練、人によって様々でありそのことによって差別も受けることもある。なぜこんな目にあうのかと神様をのろいたくなる事もあるだろう。しかし神様の愛は人間の意志や努力を超えたご計画の中にあることを只々信じること。自分のような何も良いものを持っていない、神様から差別されても仕方のない罪深い者だ、このような罪人を神様は選んでくださった。主イエス様がその罪を担って赦してくださったというその恵み、福音を心から信じ受け入れたとき、わたしたちはこの世ではなく「永遠」の中で「憐れみの器」の中に入れるのだと思う。いや既にその中におり、示され方がそれぞれに違うだけであり、神様からみたら平等に愛の器の中にいるのではないだろうか。 パウロは九章3節で 「・・・わたしには深い悲しみがあり、絶え間ない痛みがある。・・・同胞のためならばキリストから離され、神様から見捨てられてもよいとさえ思っている。」と言っている。私たちはこれほどまでに他者のために祈っているのだろうか。パウロは確かなキリストの霊を受けているからこそ言えることではないか。私たちが自分の事ばかり祈っているときにはどうしても自分の崇める神になってしまい、いつまでたっても「怒りの器」から出られないかもしれない。 「・・・高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです・」 これほどまでにパウロを通して示されるイエス様からの平安。 今夏、近畿集会である姉妹の方から得た「万事相はたらきて益となる。」のみ言葉も、このパウロの語る主にある平安につながる。「あなたがたはこの世では苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝利している。」このイエス様のみ言葉を信じていきたいと心から祈りたい。多くの証し人をわたしたちの周りにイエス様は示されている。秋の美しい陽の光の中に神様からの強いメッセージを感じている。 高槻市塚原 |
N.H 命とは何だろう 生きているとはどういうことか 死ぬとはどういうことだろう 死ぬとどうなるのだろう 私はものごころついた時には 命と死について考えていた気がする そして当然のように 生命科学研究を志した 現在の生物学の定義では 生物とは自己複製の 能力をもつものだと言われる 自分と似た子孫を残すものだ ロマ書では語られている 被造物がうめいている 山も岩も新しい生を求めて うめきつつ待っている そうだ! 命とは、生きているとは 外界と隔てる膜の内で 調和と秩序が 保たれている状態なのだ そして死ぬとは その膜が破れ 調和と秩序が崩れて 混沌へと戻ることなのだろう 初めに、神は天地を創造された 地は混沌、カオスであった 命がなかった 生きるものがなかった 神が光あれと言われた時 命が宿った 生きるものができた 光は命であった 神は命あれと言われた 神は命を創造された そして神は生きるものの内に 調和と秩序を保っておられる 死とは生きるものから 霊の光が飛び去ることだ 光を失った生きるものは混沌へと帰る そして霊の光は神の元へ帰る イエス様はガリラヤ湖で 弟子たちと舟に乗られて 風と荒波をお叱りになった 風と波も生きているのだろうか あらゆる被造物は生きている 霊の光を与えられたものは生きている 太陽も月も星も 山も岩も植物も動物も 生きている 私たちは与えられた生を通して 自由意志によって 生きる意味を見つける 親しい人の死を通して 大切なものを失うことによって 私たちは自分の生き方を発見する 私たちは人生のなかで 父なる神とキリストから 受けた恵みを知らされ 感謝し賛美するようになる でも、私たちはいまだに 簡単な生命体の中の 調和と秩序の実体をさえ ほんの一部しか知ることができていない 大阪府高槻市 |
N.M 九月の土曜日の午後、実に数年ぶりに妻と一緒に清水区内で最も賑わいのある「エスパルス・ドリームプラザ」へ買い物に出かけた。さすが県下にもその名の知れた大手会社が創設しただけのことがあり、家族連れ、友達同士の客で活気に溢れていた。 用事も済み、駐車場に近い一階出口近くの子供向け菓子店前を通りかかると、店内あちこちに「閉店につき全商品30%引、50%引」の紙が貼られてあるのが目についた。かなり前から割引セールを始めていた様で、店内の品は大方片付き、客もまばらであった。そんな気軽な雰囲気に誘われ店内に入ると、若い女性店員が広い店内をたった一人で、笑顔で客に対応していた。施設内外で同年代の若者が浮かれ気分でデートする姿と、閉店直前の客に笑顔で優しく接するわたしの目の前の若い女性の姿は、対照的である。「この後、このお店はどうなるの?」と聞いてみると、区南部にオープンした「ベイ・ドリームに出店します」との返事。本当かな? オープンして数カ月経つのにこれから出店があり得るのだろうか‥‥店主がそう言わせているのでは‥、などと思ってしまった。因みに、この「ベイ・ドリーム」も「ドリームプラザ」と同じ創設者である。「ドリームプラザ」はテナント料が高く、店舗が定着しないことでも話題となる。収益の上がらず人気のない店は撤退を余儀なくされる厳しい現実が垣間見える。 数年前まで普段着姿の主婦で賑わった町内小売専門店は、年を重ねるごとに一軒また一軒と姿を消し、今では数えるほどになった。名前の通り「ベイ・ドリーム」は海近くにあって、清水区南部に広がる大手合板会社所有の貯木場跡地を再開発し、途方もなく広大な場所にオープンした。店の開業により客の自動車が、三保松原に通じる国道にまで溢れ出て、慢性的渋滞を起こしている。隣の区民をも巻き込み区南部の住民を根こそぎかき集める、そんな勢いが漂う。また数か月後清水区北部に、これまた広い土地にショッピングセンターがオープンに向けた建設を急いでいる。清水区のように、今や国内各地は、郊外に広い駐車場を備えた大型店建設が加速化している。これは経営の合理化であり、究極的には他店・他社に打ち勝つための金儲け追及の姿である。以前は売場面積の規制が布かれ、大型店舗建設に歯止めをかけたが、何時からかその規制もなくなったと聞く。国内・国外を問わず、経済は今、自由競争を推進する市場原理に全てを委ね、規制緩和の道を邁進している。市場原理経済の姿を例えるなら、階級制なし、防具なしのボクサーがリングに上がり、みんなで殴り合いのケンカをして勝敗を決しているようなものである。いずれ喧嘩に勝ち残ったごく少数の大資本・大企業に淘汰されてしまうであろう。 経済競争の末端で働く人の姿が、私の目の前の若い女性である。この店はほんの数か月間の営業であったと聞いた。この一人の女性を通し現在の若者の雇用情勢の厳しさを考えてみたい。 一時期、若者の非正規雇用が注目され正規社員として採用すべきだ、との声がよく聞かれたが、今はその声もあまり聞かれなくなった。半ば諦めてしまっただろうか。十代から二十代前半の若者の雇用形態は、3人に1人が非正規社員であり、また失業率も国内全体失業率5.4%に対し9%台と約2倍である。私の隣の席で仕事をする就労支援員が「県内の最低賃金時給単価が728円と3円アップした」と喜んでいた。これはアルバイト職の最低賃金保障で、8時間勤務で日額5,824円、22日勤務で月額12万8千円となる。税や医療費払の心配のない生活保護と比べても、この単価では生活保護世帯の水準以下である。契約社員、派遣社員はアルバイト職より多少多い収入を手にするが、当地清水区は10万円代半ばの収入である。若者を取り巻く現在の労働環境で、果たして若者は希望をもって生活していけるのであろうか? 国は借金を膨らませ、その返済を何とか自分の生活費を確保しようと必死になって働く若者達に負わせる考えである。 こんなに厳しい社会を迎え、若者の多くが自身の生活設計も描けずにいるのに、どうしてこんなに優しくいられるのだろうか、と時々思う。閉店セールで悲しいはずの女性が笑顔を忘れず接客していた姿に、私の心は痛んだ。 「人は悲しみの多いほど人には優しくできるのだから」武田鉄也が歌う「送る言葉」のワンフレーズである。あの女性の心境ではないだろうか。笑顔の裏に、実は悲しい本当の心を沈めていたように思えてならない。 また、星野富弘の「風の詩画集」には、「強い者が集まったよりも、弱い者が集まった方が真実に近いような気がする」という詩の一節がある。全身性障害により電動車いす利用を強いられ、常に神様と向き合う生活の中で神様から研ぎ澄まされた心の瞳で人を見る力を与えられた星野氏ならではの率直な思いである。この詩に私自身心からアーメンである。 イエスの地上の生涯は、弱い者、病気、苦しみ、不安を抱えた人々に寄り添い、共に歩まれた。イエスが言われた「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」と。私たちの周りには、悲しみの心を抱えた人が多くいるが、この人たちにこの言葉が届くことを願わずにいられない。 静岡県 |
N.M 今年五月二日から八月九日まで、我が家を建て替えている間、青梅の母の所に、家族四人で居候させてもらった。どんどん運びこんでしまった大量の荷物で、家の中はあふれかえった。しかし母は、「こんなの戦争の事を思えば大したことない。みんなで雑魚寝すればいい」と、すんなり私たちを引き受けてくれた。そして母の家で(甥を入れて)六人の生活が始まった。 大量の洗濯物、六人分の食事、もともと早起きの母と私で頑張った。姉もたまに泊まると七人だ。お皿を出してても、途中でわからなくなった。 しかし、なんと楽しかったことか。私は母を思いやり、母は私を気遣ってくれた。「お母さんはすごいね、八〇歳で大したものだね、これだけの家事をこなせるなんて。」「あんただっていろいろ頑張っているじゃない」と、お互いに褒めあった。 朝起きて夜寝るまで、母と共に居られることの、なんと幸せな事か。この歳で、また母と三か月も一緒に暮らせるなんて、神様からの最高のプレゼントだった。 母からいろいろ学んだ。まず受け入れること、受け入れてしまえば何とかなってしまうこと、むしろ大変さが喜びだったりする。みんなで協力出来たことも、とても良かった。 八月には、日野に帰ってきたが、母の家で過ごせたことは、忘れない。二〇一一年夏、主が与えて下さった恵みの時だった。 (介護福祉士) 東京都 |
H.Y 「聞きなさい、私は、あなた方に奥義を告げましょう。私たちはみなが眠るのでなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちない者によみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず、朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず、不死を着なければならないからです。」 (Ⅰコリント51~53) 私たちは、どんなに守っていたとしても、病気になったり、事故にあったり、地震で逃げ切れなかったりして、人間の力ではどうにもならない出来事に遭遇することがあります。 少し前、ごく身近な者が、余命を宣告され、いよいよ死が近づきホスピス病棟へと移り、家族の者は、限られた時を、少しでも心安らぐときを過ごさせたいと願い、心をつかいながら過ごしていました。私も真理を知らされた者として、以前から福音は語ってはいたのですが、キリスト教の福音を語る私は、あまりよく思われていなかったようです。ですから、充分には語ることはできませんでしたが、亡くなる数日前、手をとって祈る時が与えられたことは、ほんとうに不思議なことでした。 人の親切や好意も大切ですが、死に逝く者にとったら、医者も、心理学も、趣味も、みんな何の解決にもなりません。死に逝く者にとって、唯一の解決の鍵は、「命」の創造者ご自身が奥義を啓示された「聖書」に他ありません。 キリストを信じている者は、人生を終末の視点からみることができますし、真の希望が知らされています。とは言うものの、現実のお別れのときは悲しみはあります。しかし、 「あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招きいれて下さった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者として下さいます。」(Ⅰペテロ五・10)と示されていることを感謝です。(鳥取市) |
H.M 三月十一日の東日本大震災から七ケ月余が過ぎました。私たちは、石巻と山形県の叶水を度々行き来していますが、日々神様の御働きに驚きと感動を受けています。私たちの居住していた宮城県石巻市は、死者三、二七四人、行方不明者七〇六人(十月十九日現在:石巻市ホームページより)と被災地の中で最も死者・行方不明者の多い地域でした。自宅は、二階まで津波の浸水があり、全壊と認定されました。近隣住民もたくさんの方が亡くなられました。現地は、規制がかかり新築は不可の地域となりました。 私たち夫婦は、それぞれの場所で地震・津波に遭遇しました。大きな力が働いて助けていただきました。災害当日から、今日に至るまでの経過をまとめてみました。 ○災害当日から救助されるまで 地震のあった当日私は自宅の二階にいました。昨年十月定年退職(石巻市河南地域包括支援センターに社会福祉士として勤務)し、実家(気仙沼)の九六歳の母を一時石巻市の自宅に連れてきて介護をしていました。三年前に兄夫婦(七十代)共に、癌を患っていましたので、退職後は母の介護を手伝いたいと思っていたからです。たまたまハローワークを通して、パソコン教室を申し込んでいたところ、二月半ばから三ケ月間のコースに入校できました。故に一旦母を気仙沼に連れて帰りました。三月十一日当日は、パソコン教室は休校で、十五日検定試験が予定されていたので子供部屋の二階で検定試験に取り組んでいました。 十四時四十六分、大きな激しい揺れは今まで経験したことのない大地震でした。家が倒壊すると感じ、外に避難しようと思いましたが、揺れがひどくすぐには足を運べませんでした。 玄関を目指してようやくたどり着いたもの、引き戸は強い揺れで開きませんでした。揺れは激しく続いていましたので、玄関の近くにあるトイレに避難しました。(トイレは、比較的安全と聞いていたことと、リフォームしていた場所なので選択しました)揺れは強くおさまらず、このまま家が潰れると思いました。 ひたすら「神様助けてください!」と祈り続けました。揺れがおさまった時、玄関の引き戸を開けて戸外に脱出しましたが、頭の中は真っ白でパニック状態でした。自宅から避難することに決め一旦家に戻りました。台所は、足の踏みどころが無いほど食器等が散乱。居間も、本箱等が倒れ本・CD等が散乱。ピアノ・大型テレビも傾いていました。どうにかバックに懐中電灯・携帯ラジオ・財布等と車のキーを入れ、非常用のリュックサックを手にして車庫に向かいました。しかし車庫の電動シャッターが開かず車での避難は諦めました。 間もなく津波警報のサイレンとアナウンスがありました。指定の避難所の小学校に歩いて行く前に、リュックサックを車庫において家の前のコンビニをめざしました。右隣の家のおばさんに声をかけたところ、「この地域には、一度も津波はきたことがないから、自分はこの家からどこにも避難はしない。心配はしていない」とのことでした。「あなたが購入した荷物は、私の家の玄関でリュックに詰め替えるように」との助言がありました。 左隣の奥さんと路上で会い、避難所に行く前に当面必要な食料品を準備しようと一緒にコンビニで買い物をしました。コンビニ内は、陳列棚から物品が落ちて散乱していましたが、おじさんは次々と訪れる客の対応をしていました。補充用の乾電池や当面の食料品を調達しました。いつ津波が来るか?と不安もありました。買い物客も、「津波が来ないといいね」と言葉を交わしていました。再度おばさんの所に寄った所、「ここに買い物した物品をおいて、リュックを持って来なさい」と言われ、車庫に行ってリュックを手にしたところ、道路脇の門から真っ黒の水がドドッと庭に入ってきたので、バックを持って裏玄関に回りました。愛犬は渡り板に隠れて姿は見えませんでした。助ける間はありませんでした。「ごめんなさい」と謝りながら靴をはいたまま台所に上がったところ、津波は玄関に入ってきました。 冷蔵庫前を通る時、愛飲している豆乳(五〇〇cc)1本とボトル入りのガムを手にして階段を上りはじめましたが、後を追うように真っ黒の津波が階段を上ってきました。恐ろしい生き物が私を襲ってくるようでした。二階に上がり、厚いドアを閉めて全身で抑えました。ドアを壊して来るほどの勢いだったら、もう命はないと観念しました。 無我夢中の時間を過ごしていました。じわじわと床に黒色の水が浸水してきましたが、足首程度でストップしていました。どの位の時間がたったのか忘れましたが、ドアを開けると水は階段の三分の二位まで引いていました。二階の窓から南側をみると津波は、1階の屋根まできていました。どこからか乗用車やとてつもない大きな袋や、物置や焼却炉も家の庭に流れてきました。東側窓からは、近隣アパートの1階屋根に車が何台も流れてきていました。北側の窓からは、平屋の屋根が沈み、あたり一面が海になり、車や家が流れていました。 海の中に我が家が浮いている状態でした。二階の部屋は、ほとんどの本箱が倒れ、本・ビデオ等々散乱して足の踏み場が無い状態でした。携帯電話は無く、誰とも連絡の取りようがありませんでした。とっさにバックの中にいれたデジカメがあることに気づいて、二階と階段の地震後の散乱状態、家の周囲の状況を撮影しました。 押入れ前に、細長い本箱が倒れていたので、ボコボコになっていた背面に毛布を敷いてベットの替わりにしました。あたり一面が暗くなり、雪が降って寒い夜を迎えることになりました。 夫は、一昨年十二月定年退職し、その後造園学校を卒業して造園業に従事していました。この日も軽自動車に乗って仕事に出掛けましたが、どこにいるだろうか?津波に飲み込まれてはいないだろうか?とずっと心配していました。真っ暗な室内で、ラジオを聴くと大きな余震・津波が再度来るとの予報がありました。波の音や余震の揺れが続いていましたので、夜にまた大きな地震・津波が来たらもう終わりだなと覚悟をして、二人の子供宛てに遺書を書くことにしました。懐中電灯をつけて書きはじめるも何度も揺れが続き中断しながらも時間をかけて仕上げました。翌日の朝は残念だけど迎えられないと思いました。 夜間、東の窓から遠くに燃える火炎や煙が見えたので、市内の大火の発生か女川原発の爆発なのか、ラジオからの石巻の情報が全くない中で不安と恐怖のただなかにいました。 話す相手もなく心細い闇の時間を過ごしました。讃美歌の「神ともにいまして」を何度も繰り返し口ずさみながら闇との闘いもしました。真夜中なのか朝方なのか不明でしたが、あたたかな光を感じることができたことは幸いでした。 新しい朝を迎え、近隣の二世帯の夫妻が二階のベランダに姿を見せたので、お互いに生存を確認し喜びあいました。日中は、三方角の窓を回り救助を求める旗を振り続けていました。三日目の夕方自衛隊員に二階で孤立しているところを発見されました。「浸水がかなりあり、一階からの救助はできないので自衛隊のヘリコプターで救助します」と言われました。「このような大災害は、私たちも初めてです。近隣者が多数亡くなっていますがそれぞれの名前を教えてください」と訊かれました。近隣のおばさん、おじさんは、勢いのある突然の津波で二階まで避難できなかったようでした。夜七時まで両手で旗を振り、救助を求めましたが、ヘリは別方向の救助をしていました。近隣の平屋の屋根によじ登っていた方と声を掛け合いながら、明日に望みを託しました。 深い悲しみと不安の中で思ったことは、実に災害は、突然襲ってくるものであり、生と死は、一体であり避けることができない。今まで生かされてきたこと、定年まで無事に働けたこと、私の転職をその都度理解し、応援してくれた母親と一〇〇日余生活を共にできたこと。数えたらいっぱいよいこともありました。また昨年八月には、退職前に休暇がとれ“アマーストの旅”に参加し、敬虔なクリスチャンの方々と交わりができたことも喜びでした。心は満たされつつも、現実は空腹でこのまま餓死するのもつらいなぁと思いました。一階には、たくさんの飲み物・食糧があるけれど、悪臭の強いヘドロで埋まっているので、ビニール袋でつかんでも封を切ることはついにできませんでした。 翌朝六時前から旗振りをしていたところ、夫と一緒に避難所にいた方が遠方から私を見つけてくれ、水を持ってくるように伝えますとのこと。二時間後に夫より他者を介して水が届けられました。四日目にお互いに生きていることを確認しました。 水500CCを一気に飲んで、自衛隊の救助を待ちました。昼前にヘリコプターを誘導する方が屋根に上がってきて、窓から1階の屋根まで引き出してくれたので、一命をとりとめることができました。 上空から見た石巻は、海の中にあり、家々が点在し、車や、工場、船が流されていました。この世とは思えない悲惨な光景でした。大変なことが起きた、大惨事が発生したのだと震えながらヘリコプターの中にいました。よく助かった。助けられたと思いました。 新しい命を与えられたと実感いたしました。ヘリコプターで、市民運動場に搬送されましたが、たくさんの被災者が救助されていました。今回の震災で、自衛隊員の働きに大感謝でした。戦争に加担する、協力するのではなく、これからも国民や他国の被災者を救助する隊員であってほしいと切に思いました。 ○避難所の様子 居住地の避難所(小学校)は、一階まで津波の浸水があり、体育館は、ヘドロがたまり使用不可でした。一二〇〇人が避難しているとのことでしたが、市からの情報はほとんどなく、1日バナナ一本(近隣の被災したスーパーからの差し入れ)と水の支給がありました。敷物・掛ける物は何も無く、ダンボール・新聞紙は、自分達で探し求めました。 五日目に、長靴と携帯電話を購入するため、市内を歩いて移動しましたが、街並みが変わり果て戦禍の跡地の様でした。商店街のガラス、車を展示しているガラスは、ほとんど割れて車が何台も重なり合っていました。時間が止まり、灰色に化した状態でした。自衛隊の車が次々と救助活動で市内に入ってきたのを見た時は、とても心強く感じました。 長靴は、何時間も待ってようやく購入できました。携帯電話の販売店は、どこも閉鎖していました。(私は、地震時台所で紛失。夫は、津波で使用不可)。長靴の販売店の情報提供したところ、長靴を求める人が次々いました。避難所の学校の周囲は、ヘドロがいっぱいで、長靴での移動でした。 学校の教室内では、共同生活をしているので衛生管理に努めようと掃除当番を決め、毎回参加するようにしました。運動不足の解消を図るうえでラジオ体操の提案を行い、みんなで取組みはじめました。地震発生から六日目の朝に、山形県・埼玉県在住の息子二人が避難所(子供たちが通った小学校)に迎えにきてくれました。山形の長男からは、勤務している基督教独立学園高校の安積校長から、両親を迎えに行き、学校の旧女子寮(来客者用の宿泊室)に避難するようにとの助言があったとのこと。学校のワゴン車の使用を勧められ、車内には同僚の職員の方々が用意してくれた、おにぎり・ゆでたまご・みかん・りんご等たくさん積まれていました。同室者に差し入れしましたが、バナナ一本の生活でしたので皆さん方にたいへん喜ばれました。 ○避難所から山形へ 近隣に住む夫の姉夫婦が行方不明のなか、石巻市を離れるのは、辛い限りでしたが、子供たちから「このままでは両親の身体がもたない、石巻に置いて帰れない」と言われ、子ども達に従うことにしました。 子どもの勤務する職場の上司・同僚共に、私たちのことを案じてくれ、子らには、親を探して避難できる所まで行ってきなさい。職場のことは、心配しなくてもよい・・と力強く励ましてくれたとのことでした。子どもたちも、私たちが生存していることを確認して安堵していましたが、母校の小学校や自宅周囲を見て、震災前と震災後のあまりにおおきな変わりように深い悲しみを抱いていました。 近くのドラッグストアの駐車場には、自衛隊のトラックに、ブルーシートを覆われたタンカーが次々と搬送されていましたが、それが遺体であることを知りショックを受けていました。 私たちは、山形の息子の勤務する高校に夜中に到着しました。三月に九十歳を迎えられた子供たちの音楽の先生が、「到着時間が深夜になっても待っています」と連絡をくれました。学校に到着したのは、夜の十一時でしたが明かりがついていたのでお声をかけたところ、「生きていてくれてありがとうございます。お待ちしていました。」とひとりひとり抱擁してくださいました。 下着、パジャマ等二人分用意してくれていました。先生は、いままで水害一回、火災二回に遇ったとのことで、その都度たくさんの方々から支援があったことや、何が必要かを知っているので用意できたとのことでした。 翌朝には、子どもたちがお世話になった先生方から、食事や衣服の差し入れアンカや電気毛布などの差し入れがありました。当時、積雪が二~三メートルはありました。(最高時は、四メートルの積雪があったところです) ○京都へ避難 その後、福島原発の放射能漏れの影響が高校にも影響するかも知れないので、若い教師は、できるだけ遠くに避難したほうがよいと校長先生から指示がありました。息子の同僚の教師から、是非京都の実家に来てくださいと何度も勧められました。息子が高校在学中、先生の実家にお世話になった経緯もあり三人で京都に避難することになりました。 京都に避難中は、先生のお母様がとてもご親切で、お友達もたくさんいる方で二十日間の滞在中二十人余の方の訪問がありました。初対面の私たちに、「被災している方を受け入れたいと思っていました。よく京都まで来てくださいました。」とお声をかけていただき本当に驚きました。二十日間はあまりにも長いと思いましたが、「あなたたちは、大変な体験をしてきたのだから、心身をゆっくり休ませなさい。あとには、家の片付け等山積しているのですから」と何度も言ってくださいました。 京都に着いた当日より、私は全身じんましんになり、近くの医院に通院。恐怖・ストレスなども原因になるとのことで、点滴等の治療を受けました。このような事もあり、長く引きとめてくださったと思います。 ○京都から山形へ その後、山形の独立学園に戻ったところ学園卒業生の父親から、空き家があるので提供したいとの申し出があり、災害から一ケ月目の四月十一日訪問したところ、電気・水・ガスが直ぐに使用できる状態になっていましたので、この日の夜から使用させていただいています。 卒業生の娘さんからは、自分の実家を使っていただいて嬉しいと、電話や手紙があり、六月にお会いした時には、家族のみなさまからも同様にお話をいただき嬉しい限りでした。 夫は、四十六年間住んだ家を無くし、私は三十年住んだ家を失い、子どもたちも実家を失いましたが、それ以上にたくさんの方々との出会いがうまれたことに驚きでした。 自宅のヘドロの撤去には、東京からのボランティア、所属している勤労者山岳会(京都・仙台・石巻の会員)からの多大な支援がありました。 私たちと、安否確認が取れないなか、気仙沼の実家に問い合わせたり、子どもの勤務している高校に問い合わせしたり、手紙・はがきを石巻の住所に出して転送にて行方が判明するなどだいぶ時間はかかっていますが、お互いの安否確認ができるようになりました。 六月頃から、訪問者(独立学園のご父母の方、教職員等)があり、七月には、独立学園の生徒さん、八月には、京都で知り合った方、長男の教え子、長男・次男の同期生等訪問者が絶えません。宿泊される方もいます。石巻市の我が家の被災した写真や大津波襲来・石巻地方の記録の写真集・東北大震災の写真集数冊を見ていただき、震災の恐ろしさ、震災後の福島原発の状況等語り合い、今を大切に生きることを大事にしたいと共通の思いを確認しています。九月には、京都で長らくお世話になった藤坂様と叶水で再会できました。「原グループと名前をつけて新たな交流会ができました。来年は、みなで山形に会いに行きます。また京都においでください。」とのことでした。藤坂様の孫さん四人との交流もできうれしい限りでした。十月には息子の同級生のご両親も訪ねて下さりよき交流がもてました。 京都から我が家に滞在された方は、「大自然の中での住まいや、家庭菜園の様子、山奥の小さな高校―基督教独立学園―の存在、家を提供してくれている家族との交流等を見て、皆つながっていることを確認しました。皆に報告します。」と写真をたくさん撮っていました。 夫は、以前から退職後は、叶水に住みたいと話していましたが、災害を通して、この望みが実現できていることに驚いています。 行方不明だった夫の姉夫婦は、二人とも遺体で確認され、7月末法要が済みました。親戚・知人等家を流されたり、火災で失ったり、我が家のように、二階まで海水が上がり、全壊になっている方がいます。皆さん方の生活が落ち着いたら、叶水の我が家にて再会しましょうと声をかけあっています。 ○今後のこと 生きるか、死ぬかの間際を体験して、今このように生かされています。 全ては、神様の御心とご計画のもとで生かされております。神様の御心に従って生きていきたいと思っています。 二〇一一年十月十九日 (山形県) |
津波による被災の経験から 被災した日から今日までの私たちが避難先として小国町叶水に住んでいる状況を述べたいと思います。 私たちが互いに生存していることが知ったのは四日目で、私は、石巻市街の北上川に架かっている内海橋を渡った岸辺で車とともに流され、車から脱出した時、自分の体が水の中に沈んでいき二、三杯水を飲み、これで死ぬのかと思い「神様、助けてください」と叫びました。すると近くの民家の庭木が見えこれに捕まって助かりました。水が引くまで庭木に捕まりこの家の二階に避難し、その日は、私と同じように津波に遇った六人と共にその民家の二階に泊まりました。携帯電話も濡れてしまい誰とも連絡が取れませんでした。二階から見えた第二波が押し寄せた光景は、黒い波が押し寄せ内海橋の欄干にぶつかる船、岸辺の家々を押し流しながらさかのぼる津波は、まるで映画でも見ているようですさまじいものでした。一晩中津波が押し寄せ、欄干にぶつかる船の音や寒さ、また余震など、船が内海橋を壊して避難先の民家にぶつかったらと思うと恐怖で寝られませんでした。 次の朝、水が引いたことを確認し外に出ましたが、内海橋は渋滞していた車や船がごみのように折り重なり、橋の上の車の運転手はどうしたのだろう、どこかに避難したのだろうか、無事でいてほしいと願いました。街中はヘドロやがれきでいっぱいで、車、船が道路をふさぎ、どこの商店街(一階部分)も津波で破壊されていました。私の地区の避難所である大街道小学校を目指し歩いて行くと、普段通る道も、がれきや車でいっぱいで通れない状況でやっとのことで着きましたが、大街道地区も被災していて校舎の一階まで津波が来ていました。二階に近所の方が避難していたので同じ教室に入りました。その日の二日目は、市からの食糧はなく、自分で近くのスーパーから調達してほしい旨説明があり、七時間もかけて調達しましたが、ジュースやお菓子ぐらいでした。毎日、一教室に一、八リットル一本が配給され、毛布もなく板目に段ボールを敷いて寝ていました。夜中は寒さやいびきで眠れませんでした。 妻が生きていたという情報を知ったのは、四日目の朝でした。それまでは、我が家付近はヘドロが深く行けないとのことでした。早速、水を持って我が家に向かいましたが、どこの道路もがれきと車と工場の原料(製紙会社)で道路をふさぎ、南側(海側)の門からは入れずやっとのことで我が家の北側にたどり着きましたが、ヘドロが深くて近づけませんでした。二階の窓から体を出していた妻と再会し水を渡そうとしましたができず、そこへ通りかかった若い人たちにお願いして、何とか妻にボトルを投げてもらって水を渡すことができました。 この後に、妻は自衛隊のヘリコプターに救助され、大街道小学校で無事再会することができました。 (山形県) |
S.Y ―チェルノブイリとフクシマに思う― 「チェルノブイリを風化させてはならない」「チェルノブイリは決して終わりではなく未来への警告」だと私たちが発信してきたことは間違ってはいませんでしたが、残念ながらその声を届けるべき所へ十分伝える力が足りませんでした。 一九九一年WCC(世界教会協議会)から日本の被爆体験をチェルノブイリ被災者治療のために役立てるよう依頼を受け、NCC(日本キリスト教協議会)では「チェルノブイリ災害問題プロジェクトチーム」を立ち上げ、ベラルーシ共和国のロシア正教会が運営する「サマリアニン診療所」を交流・支援の窓口としました。私自身は九五年に委員に加わり〇八年までに三度被災地を訪ねました。 ベラルーシという国は森と湖の美しい自然に恵まれた国です。面積は日本の半分、元来人々は自然と共に生き、森でキノコや木の実を採ったり湖や川の魚を捕って生活していました。隣国ウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故後の風向きでその美しい国土の三分の一が放射能で汚染されてしまいました。事故から三年も経ってから二百キロも離れたところに高汚染地域(セシウムが飛び地のようにあることが分かって、住民十一万人を新たに移住させました。 しかしウクライナでもベラルーシでも移住先になじめず故郷に戻ってきている高齢者がいます。いつも彼(女)らに偶然にですが逢うと喜んで家の中に迎えられ、堰を切ったように話されます。「すぐ隣では耕作を許可しているのに、なぜ政府は私たちの土地には住んじゃいけないと言うのだ。そんなことを決めなければ皆帰って来られるのに」と不満気です。 点在する家々ではヤギや犬や猫などの小動物を飼い、ジャガイモ、ウリなどを作って自給自足の生活を送っています。埋め立てから残された空家は泥棒などで荒らされてロシア正教会の会堂も中は空っぽですが、日曜日だけ司祭さんが燭台を持参し、たった一人のためにでもミサを捧げてくれるという話も聞きました。よそ目にはまことに平安です。 政府は彼らを「サマショール」(わがままな人たちという意味)と呼んでいますが、生活必需品を週1度か2度トラックで巡回販売しています。放射能は臭いも形もないので、木々の間で小鳥のさえずりの聞こえるその辺りを高濃度汚染地区とは思えないのですが、二十数年経っても舗装道路脇の草むらでは放射線測定器をかざすと針が振り切れそうに警告音が鳴ります。 幼稚園の先生は子どもたちに外で走らないように、野イチゴやベリーやキノコを食べたりしてはダメよと言い続けているけど、貧しい家庭では汚染食物も食べるせいか、授業中に鼻血を出したり具合が悪くなって救急車を呼ぶことが月に何度かあり、子どもの健康のためには家庭との連携が大切と言われました。 小学校でも健康審査で問題の無い子はいないし、無気力な子が目立つようです。事故処理に携わった(リクビダートルと呼ばれる)四十歳代の方からも話を聞きましたが、事故の直後友人を含め急性放射線障害で亡くなった人は約六十名。多くが二十代の兵士や消防士たちで、結婚したばかりの人、子どもを授かったばかりの青年もいたけれど、中には家族との面会すら許されないまま亡くなって、遺体は「危険」ということでコンクリートで固めて埋められた。 白血病やガン等で今も苦しんでいる友人も多い、と自身も健康への不安を抱え暗い表情でした。上記の「サマリア人診療所」では大人たちの体と心のケアのため毎月集会を開き食事指導(玄米や自然食)をしていました。 参加者たちは差別を受けるので他では被曝者であることさえ隠しているけれど、ここでの数時間だけは解放されると言います。子育て中の女性が放射能恐怖症から陥ったアルコール中毒を、なんとか努力して克服したいと、このプログラムに参加している理由を教えてくれました。 日本でも今後PTSDに対する配慮が大切でしょう。また甲状腺ガンの治療後の子どもたちのための「希望21」という施設がドイツや日本(創立者広河隆一氏)らで支援運営されていて、委員会が連携をもってきたので訪ねました。 汚染地域に住む子どもたちがクラス単位で一~二週間の保養にきます。短期間でも空気のきれいな自然の中で過ごすだけで弱ったり傷ついた体の機能が回復し、明るく元気な子どもになって帰って行くと聞きました。私たちの委員会が文具や運動具、カメラ・楽器などを全国から寄せられた献金をもとに届けていますが、喜んでくださり素晴らしい手芸などの作品を見せて頂きました。 日本の福島でも、南会津地方など汚染されていない地域がありますので、廃校を利用してでも短期保養施設が出来ると良いなと思います。 病院では著名な研究者であるラジュク博士からお話を聞きました。博士は甲状腺ガン以外にも子どもの間で脳腫瘍、目のガン、内分泌異常などの他多くの障害があらわれているし、健康な胎児より異常のある胎児の方が多い状態の中で「堕胎は倫理に反する」などとても言えない、と苦悩を抱えておられました。そして、今後も数万人単位で病死者が増えるのでは、と資料を示しながら懸念されていた様子が忘れられません。最近海外で「日本では今後数十万人のガン患者が出るだろう」と予測しているという報道も目にしました。 チェルノブイリ事故から教訓を得ようとはしない日本の電力会社・政府・御用学者たちのほとんどが「日本の優れた技術では、チェルノブイリのような事故は決して起こらない」としてきました。そして今なお「安全神話」を「必要神話」に変え、原子力利用推進・維持派の意見がアメーバ―の如く生き残っている状況を見るとき、旧約のイザヤ書などにある「頑化預言」を思わずにはおられません。 チェルノブイリと違って、福島では四つの原子炉で放射能漏れが長く続いたので「ただちに健康に影響はない」かどうかでなく、未来を担う子どもたちの将来に最大限の配慮がなされてほしいです。賠償金の負担を考慮してか今日本で、例えば野菜・米の汚染許容量は五百ベクレル/kgです。チェルノブイリ事故の後、輸入制限は三五〇ベクレルだったのに、です。そして日本の法律では平常時の一般住民の一ミリSv/年が許容量だったのを、突然二〇ミリSvまでに引き上げました。時に応じて数値を動かしたり法律で決めたりして上辺だけの「安心」を示しても何も根本的な問題解決にならないでしょう。 原子力の利用は人間が神の高みにまで上れるとのおごりの結果だと私は思います。今こそ経済優先・金権崇拝をよしとする強者の論理に疑問をもち、自然といのちを冒涜しない、だれにも犠牲を強いない、皆が共に生きあう社会へと転換することを一人一人が心がけていく、それだけが滅亡からの逃れの道だと神さまはお示しになっているのでは、との思いがしきりです。 |
H.K ○わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。……」(ヨハネの黙示録二一の三~四・新共同訳)と言う。即ち完全なる社会ありて神の恩恵完全に現れすべての涙が拭わるるというのである。 人は己ひとり救わるるともその救いは殆ど無価値である。すべての兄弟と共に救われてこそ救いは初めて来たるのである。神は聖められし霊魂をもって最後に全く聖き社会を作り給い、もって個人並びに人類に対して最大最終の恩恵を施したまう。これ真正の救いである。これを離れては個人の救いもないのである。再臨は万物完成の時である。喜ぶべきこと、讃美すべきこと、感謝すべきことである。(内村鑑三) * 幼いころからの親しい友人A君が癌に罹ってしまいました。複数の転移もあり、抗癌剤の副作用もあってみるみる健康状態が悪化しています。眠れないのがつらいと言いますので良く聴いてみると、死の恐怖があるのです。人一倍健康に恵まれ、仕事にも充実した歩みを続けてきました。死のことなど考えたこともなかったのです。 私がクリスチャンであることを良く知っていますから、心に平安が欲しい、キリスト教の話を聴きたい、仏教では駄目なようだ、と言います。そこで福音の要点を話し、聖書を読むようにとプレゼントしました。教会・集会の類に行くのは嫌だと言っていましたが、親しくしている医者で牧師の小さな集会に同行しました。「こんなところに来るのは俺らしくないなぁ…」がその感想でした。中高年になっての俄か勉強では福音を受け入れることは容易ではありません。不可能と言う文字の無い神様が奇跡を起こして彼を救って下さることを祈っています。 そんな時出会ったのが右の文章です。内村鑑三が「キリスト再臨の二方面」という講演の要点を文章化したものです。わたし一人救われてもその救いは無価値である、とあります。その通りです、A君が救われずしてわたしの救いは完成しないのです。そしてキリスト再臨の暁にはそれが完成し、すべての涙が拭われるのです。 A君に話して全く分からない、と言われたのが「十字架の贖い」でした。贖いの思想は旧約律法の延長線上におくときには非常に分かり易いものでしょうが、一般的な日本人には難しいことだと思わされました。イエス様の福音は十字架が分からなくとも、子供にも分かる面があることは勿論ですが。 二千年前に来られた時イエス様は人類の救いのために十字架を示して下さいました。再び来たり給うときに示していただく福音はどういうものでしょうか。わたし達にそのプロセスはまだ秘密とされています。A君のことを思うにつけ、キリスト再臨こそが希望を成就してくれるものですが、全ての被造物の完成のために神様は最善を為して下さることを単純に信じたいと思います。 |
F.F わが国、未曾有の二○一一・三・一一日の東日本大震災を「いのちの水」著者、吉村孝雄氏は早速、四月号から毎月、大きく取り上げ、聖書のなかから多くのことを学ばせて頂きました。 まず、どうして大震災、大災害が、起こるのであろうか (いのちの水六月号三ページから抜粋) 「自然の大災害も、一見何の計画も目的もない、単なる偶然にみえる。しかし、それは、万物を愛を持って創造し、かつ支配すると信じるならば、いかに無目的にみえることであっても、そのようにみえるのは、人間の浅はかな考え方その狭い考えのゆえであるとみなすのである。人間の頭脳、思考力といったものもきわめて大きな限界を持っている。 そのような限界ある頭脳が、ある出来事がどうして生じたのかわからないということはごく当たり前のことである。それゆえ、災害にせよ、事故にせよ、それが人間を超えた立場から見るとどんな意味や、目的があるのかは全く分からないというのも当然といえよう。 そのように論理的に考えてもまったく分からないから意味がないのではない。そこから信じるということがはじまる。 神は善であり、愛であるのに、どうして悪事がたくさんはびこり、悪人がたくさんいるのか。こうした問題は論理的にいかに説明を受けても納得できるものではない。 しかし、だからこそ、そこから信じるのである。まず神は愛であり、万能だと信じる。そうすれば、どんな出来事も深い愛が背後に込められている。ただ人間がその浅はかな、狭い頭脳だからこそ、それが分からないということなのである。 信じるという立場に立つとき、とたんに新たな風景がみえてくる。どんなことも、神の愛があると信じるとき、私たちに不思議な力が与えられ、また希望も力を伴って近づいてくる。」 東日本大震災、原発事故による放射能被災の大災害も神を信じることから解決の道が開かれることを学ばせて頂き感謝であります。 聖書における復興と再生(いのちの水、六月号、から抜粋)について 大震災、大災害の復興には人間の内なる魂の復興と再生を聖書から明らかに教えてくれました まず創世記のイスラエル民族の苦難の四十年の旅路の経験によって、神は、イスラエル民族の真の復興と再生をのぞまれた。 詩篇からは、外からの敵、うちからの罪の力、あるいは病気などによって破壊され、あるいは崩れようとする人間から発せられる叫びと祈りであり、そしてそこからの真の復興と再生を記した書物である。 預言書、アモス、ホセア、ミカ、エゼキエル、イザヤ、エレミヤにおいて、それらすべては、現状がいかに荒廃して絶望的な状況であるかを述べ、そしてそのままいけば更なる徹底的な滅びへと至ることを厳しく指摘し、そこからの復興と再生を熱情をもって語り続けている。 人間は苦難や絶望の中から神様の導きの御手が差し伸べられていることを旧約聖書のなかから教えられ、イザヤ書では救い主イエス・キリストの誕生を預言されました。 神の御一人子として弱きものに力を与え、私たちの罪の身代わりとなり十字架にかかり死なれ、復活して聖霊として私と共に居てくださる。この方こそ私たちの罪を赦し、内なる魂に平安をくださり、天地創造の神からの力をいただける強いものにしてくださいました。 主により頼む者には、どのような、わざわい、困難にあっても共に居てくださる主が復興と再生へと導いてくれることを聖書をとうして教えていただきました。 今日的な出来事を聖書のなかから教えられると聖書が身近に感じられ感謝をしております。 東日本大震災、原発事故による放射能汚染の被災者の皆様の復興と再生が一日も早くなされますようお祈りします。 (元 徳島県職員) 徳島県吉野川市 |
F.S 私は一年ばかり前からウオーキングを日課にしている。一口約二時間ないし一時間半、距離にして平均五~七キロになるだろう。初めは生活りズムを改善し、運動不足の解消、肥満防止が目的であったが、美しい自然に癒やされ、造物主の素晴らしさを実感するにつれ、主を讃美し祈る時間にしたいとの思いが強くなった。一方で私は、退職し急に自由な時間が増えたことから、聖句の暗誦を本格的に始めようと準備しつつあった。それは、若い頃から親しんできた愛用の聖書(口語訳)が使用に堪えないほどにぼろぼろになっていたことにもあるが、何と言っても「み言葉の貯え」が足りないと実感していたからである。 私の朝は、若い二十代の頃から内村鑑三の『一日一生』で始まっている。『続一日一生』と併せて読んでいるが、何年読み続けても新鮮で、深い慰めと新たな力とを与えられる。み言葉とみ言葉(聖霊)に満たされた内村の熱筆は、これからも一生、私を支え続けるであろう。『一日一生』は、だいぶ前にその聖句を冊子にしたものの、それを使って暗誦するまでには至らなかった。ただ日毎の聖句と魂の文を精読することを努めている。 しかし、今度はまたとないチャンス。幾つかの聖句が頭をよ ぎる。『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪し き日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ』 『わたしにむかって、「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである。』「天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることがない。…その日、その時は、だれも知らない。…気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」 三月十一目に襲った東北大震災、大津波、そして今なお収束の見通しのつかない福島原発の恐るべき事故。 これまでにも増して悔い改めの実を迫られている日本、この私。み言葉の貯え(支え)、霊の油備えを本当に真剣にせねば、救いに与れない。そんな思いで、今まで自分はどんなみ言葉の光に潤ってきたかを、聖書全体に亘って振り返り、新しく蓄え直すことを決意した。 まず取り掛かったのは詩篇である。多分、その頃、一人娘(当時高三)の不登校、再出発の苦しみ、悩みの渦中にあったからであろう。詩人の神への絶対信頼に基づく深い祈り(叫び)と感謝(讃美)に教えられたいと思ったのかも知れない。 作業は赤のアンダーラインや書き込みをしている箇所をパソコンに打ち込むこと。ねらいは、わが頭と心に打ち込むこと、そのために暗誦することだ。一篇や二三篇などは篇全部であるが、一部分、数節だけが多い。それでも、とても一日では終わらなかった。数えてみたら、詩篇一五〇篇のうち五八篇にも及んだからだ。しかし、打つほどにぐんぐん引き込まれていった。 詩篇の次は新約、マタイから始めてヨハネ黙示録まで。それが済んで、最後に旧約を創世記からマラキまで。プリントしてA四版のクリアファイルに綴じたら、詩篇と新約で六十五頁、旧約が三十二頁で、ファイルは一冊では足りなかった。 大部になったが、暗誦を始めた。初めはウォーキングはウォーキング、暗誦は暗誦と別々にしていたが、しばらくしているうちそうだ、歩きながら少しずつ暗誦すれば二倍楽しくなると思い、始めた。印刷の順から言うと第一篇であるが、一等先に始めたのは第一九篇である。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、…」、一節ずつ何回も唱えながら歩くと、稲田を風が渡り、柔らかい草の波が流れるように美しいリズムで繰り返す。白鷺があちらにもこちらにもいて、じっと餌の動くのを待っている。ノアザミやオオイヌノフグリの前では見とれて立ちすくんでしまう。 スミレやタンポポもあちこちで群落を作っている。桜島に目をやると、今日も高く噴煙を上げている。原発事故に関連して、小出裕章氏が「水ほど冷却に適したものはない」と絶賛されていた「水」が、水路を間断なく流れ、手をやると真夏でもひんやりとして気持ちがいい。水田の稲も、だから元気に成長できるのだと得心が行く。天も地も、すべてのものがこの上もなく絶妙に造られている。 天にある造られたものを代表させて、詩人は太陽を讃美している。忠実に喜んで造り主の目的を果たしている太陽。「その 暖まりをこうむらないものはない」の件に来ると、私は思わず、ウッと唸ってしまった。太陽も空も風も自然の全ては、究極的には私達人間に恵みを与えてくれているのだと実感させられる。倦まずたゆまず、「まどろむことなく」注いでくださっている上なる恵みを心から感謝する。 一九篇の後は二二、二三、一、四二などと、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしていたが、その後は、順番通りに暗誦している。目下七三篇。二四節「あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。」一語一語、一節一節繰り返すほどに深く教えられる。「さとし」 「導き」「その後」「受け」「栄光」「あずからせる」本当にその通りである。悩み、挫折、罪の中から引き上げ引き上げしていただいてきた。 二十歳の頃、東京上野をさ迷っている時、ある教会の人口に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・一六)とあったが、イエス・キリストのことであると頭では解っても、少しも胸を打たなかった。 それから四十年、主の愛はこの小さき者をもとらえて下さった。二五節「わたしはあなたのほかにだれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。」、二六節「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」 しかり、アーメン。この恵みをいかに隣人と分かち合うかーこれが私の課題である。 (鹿児島県) |
F.M この夏、久しぶりに県南方面につれて行ってもらいました。 三十三年前、急に主人が農業試験場海南分場へ転勤となり海南町にある職場に勤務することになりました。まず住まいを探すことになりましたが、見つからず困りました。幸いにして日和佐(現、美波町)にある県職員住宅が空いていることが判り、安心したことを思い出します。 驚いたことに日和佐教会が、すぐ隣にありました。教会の方達との交わりの中に吉本実子姉ご一家もおられ、ずい分、お世話になりました。徳島聖書キリスト集会へ導かれた現在、吉本実子姉のお名前を目にする事が出来、浅からぬ、ご縁を感謝します。 鴨島と日和佐を行き来する二年間でした。以前は道も悪くさびしかった道中もずい分、よくなっているのに驚きました。丁度、台風十二号が接近していた時で大浜海岸の波のすごかったこと、東日本大震災の映像が目に浮かび、どんなにか大変だっただろうと神様のご加護と復興を祈りました。 海南勤務に続いて鳴門農業改良普及所、勤務になりました。今度は自宅からの通勤です。体調を少し悪くしていた主人にとって、ここでも良き助け人が与えられました。現在も、ずっと、ご指導下さっている食養の天野愛子先生とのかかわりがある、お方の存在です。健康を保つ、最も大事なことを教わり、ここでも神様の導きを感謝しております。 私は十年前、子宮体ガンが見つかり手術を勧められましたが、それより半年も前に神様は道を拓いて下さっており「ガンは切らずに治る」との講演会に出席する機会が与えられておりました。講師は「ガン患者学研究所」代表、川竹文夫さん(徳島県出身)。香川県大川町の開業医、芳村剛さん。「治る」手当て指導の市川加代子さんでした。私はガンなど夢にも思っていませんでしたが大きな感銘をうけました。 実兄が胃、大腸ガンで手術、手術の連続、その看病によく行っておりましたので西洋医学の限界を知っておりました。医者の宣告を受けても迷うことなく東洋医学を中心にした代替療法の道を選び四年間、毎週、香川、大川町の芳村医院までつれて行ってもらい診察、瞑想、鍼、灸、漢方薬の治療を受けました。道半ばで芳村先生が病に倒れ先に逝かれてしまいました。他に代替療法をご指導くださる先生が近くにおられず現在は、あまの屋の先生のご指導の下に毎週お手当ての手技、食事療法の指導をいただき、もう十一年目に入りました。 いつまで地上での生活が許されるか判りませんが神様は私の必要をすべてご存知で、さきへ、さきへと道を備えて下さって感謝です。 徳島聖書キリスト集会へも、いろいろの問題のなか導いて下さいました。思いに勝る、すばらしい神様のお取りはからいに驚くのみです。皆様との楽しい交わりのなかに入れていただき喜んでおります。 「およそ鍛錬というものは当座は喜ばしいものではなく悲しいものと思われるのですが後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」 (ヘブライ人への手紙十二章十一節) すべてをゆだね信じて歩みをと、願っています。 吉野川市 |
F.T 二〇一一年は何といっても東日本大震災を抜きにしては語れない年となりました。今、この重要な歴史の現場に立ち会っている者として、何らかの形で記録しておきたいと思い歌に詠みました。 ○津波来て流されし町は声もなし 犠牲(にえ)のいのちに春風は吹くか まさに息をのむ光景でした。次々に写し出される映像の悲惨さに驚愕し、胸が塞がる思いでした。 ○震災のがれきの中のランドセル 春待つ子等はいずこにゆきし ○吾子(あこ)捜すがれきの中に運動靴 片方あるを抱きしめて泣く 幼稚園のバスごと流された吾が子の遺品を捜す母親。娘の名入りの運動靴の片方が見つかって「娘の形見はこれだけです」と泣き崩れていました。 ○被災地のがれきの中に立ちつくす 老人の目は何をみつめし ○津波にて家も家族も失いし 老婆のしわの深き悲しみ 流された我が家の跡を、突然消えてしまった村を、風景を、ただ呆然と見ているしかない老人のうつろな目。子供も孫も皆津波に奪われてしまい、なぜ年寄りの自分だけが一人残されたのかと嘆く老婆の姿など忘れられません。 同じように親兄弟、祖父母まで七人が流された女子高生は、「もう散々泣いたので、今日からは笑って生きていきます。そうしないと前に進めませんから」と、カメラに向かって無理に笑顔をつくっていました。インタビュアーのほうが声をつまらせて涙をこらえていました。 ○これからは笑って生きると言う乙女 家族七人失いしというに 大地震につぐ大津波、加えて原発事故による放射能汚染の問題と、次から次へと襲いかかる災難の犠牲になる子供達の姿は可哀想で見ていられませんでした。 ○避難ゆえ友との別れ繰り返す 机にうつ伏し泣く子悲しも 見知らぬ土地に避難して来て、やっと出来た友達とも又別れなければならなくなり、「もう別れるのはいやだ」と給食も食べずに机にうつ伏しておえつする男の子、慰める先生も辛そうでした。この子達の心の傷の癒える日は来るのだろうか。 ○降り続く雨に打たれし紫陽花や 心の痛み癒える日はいつ 被災地の人々の心象風景です。でも少しずつ希望の光も見え始め、明るい話題も聞こえてくるようになりました。 ○芽柳を縫ってつばめの走りゆく 被災せし軒覚えおりしか 一時帰宅が許され、久し振りの我が家に帰ってみると、軒先の古巣につばめが戻っていて雛がかえっていました。「こんな些細なことでも何だか希望が持てそうな気がしてくるんです」と微笑んで語るその人の言葉には、どこかに希望の芽はないかと捜す真剣さが、絶望しない強さがありました。 ○復旧の明かり灯りて久々の族で囲む夕餉うれしき ライフラインが止まってろうそくの明かりで過ごしていた家に電気が復旧し、「電灯の下での夕食って何か月振りでしょう。電灯の光ってこんなに明かるかったんですね」という主婦の言葉に実感がこもっていました。日常のなにげないことが、いかに幸せなことであったかということに気付かされる日々でもありました。 政府の復旧対策も遅々として進まず、まだまだ試練は続いています。この文集が出来上がる頃には、東北はもう冬の真只中、雪に覆われていることでしょう。仮設住宅の寒さ対策はどうなっているでしょうか。主に依り頼む以外にありません。 主がいつもいつも被災地の人々と共に居て下さって、人々を〝緑の野に伏させ、いこいの汀にともない給う〟日の一日も早からんことをと祈っております。 「たといわれ、死の陰の谷を歩むとも わざわいをおそれじ。汝、われと共にいませばなり。」(詩篇二三) 埼玉県所沢市 |
H.S 今から四年程前より八王子永井様宅での特別集会に参加していました。年に一度の徳島集会の吉村様を迎えての集会です。その縁で多摩集会を知ることになりました。今年七月三日に初めてその集会に参加させて頂きました。多摩集会が開かれています府中市は東京の西部郊外に有り、歴史と静かな住宅地にあります。府中駅前のメイン道路は欅並木がそびえています。その府中駅前に近くの教会の牧師さま達が慈善活動をしており「勝者は寄付を」「貧しい者には食事を」と、声を張り上げ給食をしておりました。「あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に」(詩編一八・26)正にその通りで、私も財布からわずかな寄付を致しました。その日は多摩集会も開かれ、メンバーには温かいご指導を頂き青い空が心に染みた一日となりました。 神奈川県相模原市 |
感謝の二日間ー 二〇一一年八月二七・二八日のこと M.T 「主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えて下さる」(詩篇三七・23) 始めての飛行機は雲の上時々みえる陸地は地図そのもの。大空は青く透き通る。やがて徳島空港へ。 到着後は、徳島聖書キリスト集会代表の吉村孝雄兄のご案内で、この日にいのちのさと作業所主催の、北田康広兄コンサートへ。そこでは、清らかな調べに心洗われました。 次いで、徳島大学病院の八階に入院しておられる勝浦良明兄にお会いする。兄の入力されたデータを用いて、パソコンでの伴奏で讃美歌そしてお祈り、そのあと平安につつまれる。インターネットのスカイプを用いてなされている集会に参加していることなど知らされる。 その後立ち寄り先での夕顔の花の色は白くほのかな香りがありました。 海かと思うほどの大河、吉野川は夕景、時は満潮。海からの力強い逆巻く波はすさまじく西空をみると大きな雲。そのふちは光輪のように輝く隙間から射す光は神秘の輝き、息を呑む。足元にはクローバー、二本いただく。 「あなたの慈しみは大きく天に満ちあなたのまことは大きく雲を覆います。神よ天の上に高くいまし栄光を全地に輝かせて下さい。」(詩篇五七・11~12) 夜、ローカル線で徳島市の西部にある池田方面行きの列車に乗る。牛島駅へ車窓は漆黒の暗。やがて牛島駅へ。そこには明るい中川春美姉が待っておられました。 ご夫君の運転で田園を走る。やがて山の中へ。終点は竹林の前。頑ばる蝉時雨。竹林の中から静かなせせらぎの音、安らぎをあたえられる。 朝、森の方へ歩くと椎の木の根元に二つ三つのキノコ、愛らしい。門をくぐると百日草、赤いばら、おしろい花。そのかたわらに蜂の巣箱。私が巣箱付近の一匹の蜂に逃げると、春美姉「挨拶にくるのよ」と愛の言葉、心づくしの朝食、大切な蜂蜜もいただく。忘れられない甘い味、力をいただく。 ご夫妻の車で集会場へ。玄関を入ると広い集会場。大勢の方々が静かに席に付かれる静粛の中、パソコンによる賛美伴奏は、貝出久美子姉。司会中川啓兄。そして賛美とお祈り。講話は吉村孝雄兄による「憐みの器」、西澤正文兄の「永遠の命を得るには」でした。賛美とお祈り、さいごに吉村兄の祝祷で聖霊様の満ちる中、終わりました。神様の愛と力を学びました。 祈り願っていた徳島聖書キリスト集会に参加許された事で、大河のように流れる言葉では云えない熱いものをいただけた事です。一番の喜びであり感謝です。この喜びを隣人に伝えたい。 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ四・14) 礼拝後、パンと紅茶の愛餐をいただき、奥住邦昭兄ご夫妻に空港迄送っていただきました。途中でみた吉野川は砂州をのぞかせたおだやかな姿でした。眉山はいつまでも見えていました。 徳島での二日間は吉村代表を始め集会の皆様のご愛労をいただき、又、大自然に教えられ、初めての車中で降りる駅も初めてのおちつかない私に「次が牛島駅ですよ」とそっと教えて下さった車中の青年。先に行ってふりむいて待っていてくださった。 西澤正文兄、大勢の方々を通してイエス様の愛をただきました。私の愛のたりなさも教えられました。本当に感謝の二日間でした。有難うございました。これからも共に求めつづけて行けますようにお祈り申し上げます。 「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである」(ヨハネ黙示録一・8) |
M.K 神は愛なり |
M.M 三月十一日の東北大震災から、世相が一変して了った。「原発」という恐ろしい物を人間が創り、この狭い日本、しかも地震大国なのに。五十四基も建てられていたとは、今迄明らかになっていなかった(私は知らなかった)ので驚いて了った。しかも(福島)東京電力の云いわけがましいようなテレビの放送は聴きたくもなかった。 吉村先生がわざわざCDや小冊子を持参して「原発」について伝道して下さった。熱意を直ぐには感じれないような鈍い愚か者だが、今回著書「原子力発電と平和」を拝読して、この日本の在り方を心から残念に思い、憤りを覚えている。 過去の第二次大戦の苦い経験、そして最後に原爆を投下されたあの悲劇をどうして忘れて「原発」など造ってしまったのか?知らなかったのも罪かも知れない。知らせられなかったのだ。原発反対の科学者は冷遇され、有利な側に多くの政治家、学者、有識者が一般を欺いて来たのだとは何とも情けない罪深い事だ。 世の中はほんとに矛盾に満ちている。権力者や金持ちが大きな顔をして蔓っていて正義を主張し、真理を追求している者は仲々理解されず押しやられて了うのだ。 しかし正義の味方なる万軍の主が何時も支えていて下さるから、私達キリスト者は凡てを主に依頼し平安を与えて頂ける。幸いな有り難い事である。こんな非常時こそ信仰を与えられている事が感謝である。 けれども若い者達の前途を憂う。そして日本の将来のどうなるか案じて了うが、もう老令で何の手助けも出来ない事が情けない。唯々神様の御愛によって平和な日本が来る事を信じて祈って祈っているだけである。 長野県下伊那郡 |
M.M 語ることあたわぬ深きみ救いに 預かりし幸だれに告げなむ 死ぬことも生きることなおできぬ我 立ち上がらせし十字架の主は 我がために主は十字架に架けられし この真実を霊深く知る 悔いてなお真に悟らぬ罪の身の 壊死するまでに神苛めり あさましき心の動き照らされて 主の眼差しに顔上げられず み照らしをみ救いと知る嬉しさを誰に告げなむこのうれしさを み言葉に慰められて来し方を 夜のしじまに思いやるかな あれこれと思いかなわぬこと嘆く 主を苦しめし身をぞ忘れて 憂きことの多き濁世も主とともに あると思えば光満つ海 確かなること何ひとつなき世なり 光なる主よ導きたまえ 愛媛県伊予市 |
生と死 Y.T 生と死は、反対のものであるにもかかわらず、いつも裏表のように結びついて現れる。主イエスも、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12の24)と言われた。 主イエスご自身、死んではじめてそれ以後の世界中の人々に罪のゆるし、そして復活の命を与えることになり、この世に多くの実をもたらすことになった。 主イエスにおいて真理であることは、主イエスに結びつく者―キリスト者においても真理となる。私たちもまた古い自分に死んではじめて実を結ぶようになる。 使徒パウロも、古い自分が死んで、わが内には主が生きておられるという実感を語っている。 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ 2の20) このように、霊的な点からみると、私たちは、古き自我に死んで初めて真に生きるようになる。 また、物質的な側面からみると、体内の細胞は、次々と死んで新しいものに移り変わっていく。植物も落葉樹は、秋になると、葉を次々と落として、春には新しい葉に移り変わっていく。また常緑樹も、少しずつ古くなった葉を落としていくものや、クスノキのように、一斉に春の新芽が出るころに落とすようなものもある。 一つ一つの葉は死んで新しい葉が生まれていくし、落ちた葉は微生物によって分解され、そのなかの養分がまた新たな植物の養分となって生きるために用いられていく。 このように、生と死は深く結びついている。 そうした関係に最終的に終わりを告げるときがある。それが、キリストの再臨であり、新しい天と地となると言われていることである。 そこには、もはや死がない。永遠の命ばかりである。 生と死が不可避に結びついているこの世にあって、死から命へと転換させ(復活)、その永遠の命を実感できるようにしてくださったのが、キリストである。 …イエスは言われた、「わたしがよみがえりであり、命である。 わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネ福音書11の25~26) このような祝福された命、死ぬことのない神の命を与えられること、これこそ私たちの日々の願いである。植物が古い葉を落として新しい葉をつけていくように、私たちも日々現れてくる古い自分を枯らせ、落としていき、新たな命を日々与えられていく。 さらに、この現在の世界そのものも古びて過ぎ去っていく。いわば死んでいく。しかし、その先には、永遠に死ぬことのない世界、新しい天と地が約束されている。 そこの特質は、いのちである。 「渇いている者には、命の水をただで飲ませよう。」(黙示録21の6)と書かれているとおりである。 そして、全く新たにされた世界はどのような本質なのであろうか。 …神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。川は中央を流れ、両岸には命の木がある。… (同22の1より) このように、黙示録の最後の章、したがって聖書全体の最後に現れるのは、この聖句にあるように「命」なのである。神と小羊なるキリストからこのような完全に清められた命があふれ流れる。 こうして、生と死がいつも表裏一体のようになっていたのが、完全に命そのものの世界に変えられる。 それがこの世界の究極的な姿であり、このように歴史が進んでいくのがこの世界の法則であり、真理なのである。 そしてこのような祝福された世界へは、だれでもが招かれている。そこには全くお金や地位、健康、善行、知識、学識などは関係がない。ただ信仰によってこのような生と死の世界から、永遠の生(命)の世界へと招かれるのである。 (徳島県小松島市) |
M.K あるキリスト教作家の「老いの才覚」という本の題名にひかれて読んでみた。人生も老いに向ってきたので、現実問題としてどのように生きていくべきか興味を持った。 まず、若者であろうと、老人であろうと、あくまで自立すること、自立とは、ともかく他人に依存しないで生きること、自分に与えられた賜物、能力で生きること、少なくとも生きようと願うことである。 年をとるにつれて、この考え方に共感するようになった。まず、夫に依存してはならないと共に、今まで、いかに自分が肉親、兄弟をはじめいろいろな人に甘えて生きてきたか、恥ずかしいくらい反省している。 次に人間は、死ぬまで働かなければならない、とある。主人の母が召されるまで、現役の幼稚園長であったというお手本を見せてもらえたことは、恵みである。 母のおかげで、老人になってからの目標はそのとおりだと実感できる。 そして、最終的には老人は、孤独と絶望に耐えること、孤独と絶望こそ人生の最後に十分味わうべき境地である、と言われている。 私も50歳を超えたある時期から、一人で行動する習慣をつけたり、一人で過ごすたのしみを見つけたりするべきだと思うようになった。 しかし、一人でも平気でいられるのではない。いつも主なる神様が共にいてくださっているという確信があるから、孤独と絶望に耐えられるのであり、神さまと一対一で生きることこそ、最高の平安であると思う。 これからも、著者や母のように、老いてもなお与えられる上よりの賜物に磨きをかけ、自立したいと願っている。 最後に、著者が引用している「神、われらと共に」という詩をあげる。 夢を見た、クリスマスの夜。 浜辺を歩いていた、主と並んで。 砂の上に、二人の足跡が残されていった。 私のそれと、主のそれと。 ふと思った、夢の中でのことだ。 この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると。 立ち止まって後ろを振り返った。 足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている。 ところが、一つのことに気づいた。 ところどころ、二人の足跡でなく 一人の足跡しかないのだ。 私の生涯が走馬灯のように思いだされた。 なんという驚き、一人の足跡しかないところは、 生涯で一番暗かった日とぴったり合う。 苦悶の日、悪を望んだ日 利己主義の日、試練の日、 やりきれない日、自分にやりきれなくなった日、 そこで主のほうに向き直って あえて文句を言った。 「あなたは、日々私たちとともにいると約束されたではありませんか。 なぜ、約束を守ってくださらなかったのか。 どうして、人生の危機にあったとき私を一人で放っておかれたのか、まさにあなたの存在が必要だった時に」 ところが、主は私に答えて言われた。 「友よ、砂の上に一人の足跡しか見えない日、 それはわたしがきみをおぶって歩いた日なのだよ。」 |
Y.K 主人は、今年二月に天国に召されました。三年前の春、胃がんの全摘手術を受け、その後抗がん剤による治療を受けていましたが、一年後に再発したのです。再発してからは食事もほとんどできなくなり、きびしい点滴治療にも耐えていました。召される数ヶ月前、当時インドネシアに住んでおりました長女が帰って、病室に行った折り、主人は、自分はキリストを信じ、クリスチャンになりたいのだと申しました。 たびたび病室に来てくださって、お祈りしてくださった綱野さん、貝出さんとの出会いを通して、きっと神様からの愛をいただけるようになり、癒されたのだと思います。昨年のクリスマスイブの日、病室で讃美歌を何曲も歌ってもらって喜んでいた顔が昨日のように思い浮かびます。その後、吉村さんから、親切に何度もお話を伺うことができました。召されて一ヶ月後に、分骨していただけたので、眉山のキリスト教霊園に納骨させてくださったことを感謝しています。 その後、わたしも集会に参加させてもらいたいと思うようになり、天宝堂集会にはじめて伺いました。主日礼拝、家庭集会、どの集会に参加しても、まわりの人達はあたたかく迎えてくださいました。聖書の講話をお聞きしても、なかなか理解できず、分からないこともずいぶん多いですが、イエス様を信じ、学んでいきたいと思っています。どんなことが起っても、それは、神様のご計画なのだという考え方にもうなずけるようになり、いろいろな出来事にも感謝できるようにしたいと自分に言い聞かせています。 笠原さんのお宅での藍住集会の折、マタイ七章の学びの中で(七節から十四節)教えていただいたとき、十四節で、命に通じる門はなんと狭くその道も細いことか。それを見いだす者は少ない。とありました。吉村さんの講話の中で、求めなさい。そうすれば与えられる。死のまぎわの人でも、門が狭くても、求めると与えられるのだということを学んだとき、主人は神様から手をさしのべていただけたのだと思って涙がこぼれました。神様の憐れみと愛を感謝しています。 板野郡 |
Y.T 三月十一日の東日本大震災・津波は日を追う毎に惨状が明らかになり、ショックから私の心は萎え うつっぽくなり、神様は何と恐ろしいことをなさったのだろうとの思いで心がゆらぎ、自分の信仰は何とはかなく、神様への信頼がくずれてゆくようで怖かった時期でもあります。 悶々としながらも、徳島聖書キリスト集会の吉村先生、浦和集会の関根先生を通して、み言葉、お話をうかがううちに、日頃の自分の生き方をふと考えさせられました。健康で災いなく過ごせることに感謝し、神様に守られていると満足してしまっている自分に。習慣的に聖書を読み、自分中心の祈りをしていること等々。 切羽詰まったものがなく、生ぬるい状況で過ごしている私には、この世の様々な出来事は偶然ではなく、人間には測りしれない神様の深い愛があって、人間の魂の奥にメッセージが送られている事も、なかなかわからないことでした。 大震災をきっかけに、改めて神様へ立ち返ることに、少し気付かせていただいたように思っています。 一人で学んでいることの限界も感じ、四月より集会に参加させていただくようになり、信仰の仲間との交流を通して一歩ずつですが、導いていただけますよう願い、祈っています。 (浦和キリスト集会) 東京都 |
一本のバラの花のために―「星の王子さま」の中から Y.E 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。(イザヤ書三十五章1~4節) 火曜日の夕拝のとき、聖書講話を聴きながら、「星の王子さま」の姿が浮かんできました。王子さまの星に咲いていたのは気位の高い一本のバラの花だったのですが。 半世紀以上昔、小学六年生の時、アメリカ制作の「砂漠は生きている」という映画を学校から観にいきました。その頃、私は砂漠には雨がほとんど降らないので、生物は生きていけない不毛の地だと思っていました。ところがこの映画は、こうした思いを打ち消し、動物も植物も棲み、育っていたのです。僅かな水で生きていたのです。この映画がきっかけで砂漠に関心を持つようになりました。確かに死の世界ではなくても、それでもなお砂漠は、生きるには厳しい土地であることには変わりありません。 このような砂漠に王子さまは降り立ちました。それは王子さまが自分の星に咲いている(種は別の所から飛んできた)バラの花とのちょっとしたいさかいがもとで、ふるさとの星を去って他の星へ旅立ち、いろいろな星を訪ね、いろいろな考えをする人に出会い、七番目の星、地球にやって来たのでした。 地球に降り立った王子さまが初めて出会ったのはヘビでした。(王子さまは)「きみは、へんな動物だなぁ。指みたいにほそくって…」「でも、おれ、王さまのゆびより強いぜ」と、ヘビがいいました。また「…いつか、あんたの星が、なつかしくてたまらなくなって帰りたくなったら、おれが、あんたをなんとかたすけてやるよ。…」 次にキツネに会いました。キツネも王子さまに大事なことを言いました。「あんたが、あんたの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラのために、時間をむだにしたからだよ」「…めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花とのやくそくをね…」また「心で見なくちゃ、ものごとはよくみえないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」とも言いました。 ぼく(飛行機の操縦士で機械が故障して、砂漠に不時着してしまい、懸命に修理をしている時、王子さまが話しかけてきて友だちになりました。)が「のどがかわいて死にそうだもの…」というと、王子さまも一緒になって井戸をさがしに行きました。なん時間も黙って歩いている時、王子さまは「水は、心にもいいものかもしれないな…」「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ…」といいました。王子さまは機械のいけないところ、見つかってよかったね。…ぼくも、きょう、うちに帰るよ…」 「ぼくは、あの星のなかの一つに住むんだ。その一つの星の中で笑うんだ。…」「ぼくと知り合いになってよかったと思うよ。君は、どんな時にもぼくの友だちなんだから。」 王子さまの足首のそばには黄色い光がキラッと光っただけでした。一本の木が倒れでもするように、静かに倒れました。 今となってみると、六年前のことです。王子さまが自分の星に帰った事はよく知っています。なぜなら、夜が明けた時、どこにもあのからだが見つからなかったからです。 まるで聖書を読んでいるような気がしました。バラは高慢な人間そのものをあらわしています。でも王子さまはそのバラを守るためにヘビに咬まれて、自分の星に帰りました。 イエス様は私たち一人一人のために、ご自分が十字架にかかって死んでくださったのでした。 (徳島県小松島市) |
I.E 二〇一一年三月十一日、日本は世界中を震撼させた大震災に襲われました。しかも福島第一原発のメルトダウンという最悪の事態まで引き起こしたのです。恐らく日本人は誰一人、生涯この惨事を忘れることはないでしょう。 この頃私は、ある聖書関連の本を何度も繰り返して読んでいました。特に私を大きく揺さぶったのは、常に苦しむ人や悲しむ人の立場に立って、痛みを共有するという箇所でした。嘆き悲しんでいる人の辛い気持ちを分かち合うとありますが、罪深い私が同情は出来ても、悲しむ人の気持ちそのままになれるだろうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにして高ぶらず身分の低い人と交わりなさい。」(ローマ十二・15)このみ言葉のようになりたい。でもどうすれば?脳裏に絶えずこの思いが去来していた時に、地震のニュースが飛び込んできました。ラジオから流れる情報に誰もが身も凍る思いを持ったでしょう。ラジオであってもスタジオの慌てふためく様子から、尋常ではない規模が想像されました。 徳島にも津波警報が出ましたが私宅辺は避難指示は出されなかったので、日課にしている散歩に出ました。早足で歩く四十分は神様に向かう大切な時間です。いつもなら感謝から始まり心に浮かぶ人のことを祈り、又世界平和や飢餓の子供たちのこと等と日によって変わりますが、しかしこの日は違いました。何をどのように言えばいいのか言葉になりません。ただ「神様、神様、やっぱり日本を選ばれたのですね」を繰り返していたように思います。二十数年前、世界の難民救済に尽力されている犬養道子氏の『人間の大地』等を読んで以来、格差の広がる「南北問題」や途上国を飢餓にする日本企業、あるいは差別意識の強い政治家たちへの遣り切れない思いは今も消えていません。又国内でも、どこを見ても「勿体ない」ことだらけのていたらくです。「こんなことしてたら、何かが起こるわ」私は姪とよく話し合っていました。十六年前の阪神・淡路大震災の時も勿論仰天しましたが、原発がなかったことに二人とも胸を撫で下ろしたのでした。 歩いているうちに少し落ち着いてきました。東北に向かって今すぐ私にできることは、それはお祈りです。祈らせてもらおう。いつもいつも東北を思って祈り続けよう。日本人として、物の豊かさに甘んじてきたことの反省も込めて、祈ろう!でもどうしたら、今、恐怖のさ中にいる人たちの気持ちに寄り添えるだろうか?どうしたら、悲しみに打ちひしがれている人の心に入れるだろうか? 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ七・12) 時間が経つにつれ罹災地は方々に拡大していきます。夜も更け厳寒の中で冷え切った体を寄せ合って、余震に怯えているに違いない。目の前で人も家も、生活総てが濁流に呑まれてしまったのです。そんな極限にある人に何が言えるでしょうか。私の想像力を絞り切ってもまだまだ足りない。私の頬をどれ程涙が伝っても、東北の人たちの恐怖や絶望感には尚も遠いのです。 「こんな贅沢な物に囲まれていると、貧しい人の心が見えなくなります」マサー・テレサと修道会のシスターたちが、こんな会話を交わしながら家具や絨毯を放り出しているシーンが寝入りばなの夢に出てきました。二十年も前に見たドキュメンタリー映画の場面です。東北を思いながらも、暖かい布団にくるまって眠りに入ろうとしている私。一瞬の夢でしたが、正解が示されたような気がしました。 「物質が豊かになると感受性が鈍くなります」(岩波ブックレット「貧困」)より 翌日から医療チームや炊き出し等々のボランティアが入って行きました。現地では、自分の食事も寝る場所も責任を持たねば入って行けないと言った条件でしたが、それでも被災者を思うと居ても立っても居られない人たちが駆けつけていきました。恐らくこの人たちの内に居られる神様によって、突き動かされたのだと私は思います。人の悲しみや痛みを傍観していられない彼らに、信仰うんぬんを言うのは恥ずかしい。そんなことは問題じゃない。 南北問題を対岸の火事程にも思わなかった日本国民ですが、原発事故に関しては目が覚めたと言えるでしょう。狭い地震国に五十四基もの原発を、と非難されながらも、国民の無関心に乗じて、危険極まりないことを十分承知の上で、安全神話を打ち立てた原子力村のお歴々の面々方、映画「チェルノブイリ・ハート」のむごい現実をしっかり認識されて、もうこれ以上、罪を重ねないで下さい。福島の子供たちには、チェルノブイリの轍を踏ませることのないように、祈るばかりです。 (茶湯) |
I.M 二〇一一年は、大震災による津波、そして原発事故という絶対許されない事故が起きた。原子力の危険は他の危険と違い、取り除くことが難しい。いや、絶対出来ない、不可能である。又原発の危険は、事故が起きなくても核廃棄物処理の問題など、世界的な規模での汚染が深刻です。人類の滅亡に関わるほど大きな問題です。 しかし今まで非合理的で悪魔のエネルギー計画が堂々と国の政策で、推し進められてきました。推進してきた人々はサタンに身も心も売ったとしか思えない。 いったん事故が起こると多くの人々のいのちを奪い、苦痛を与える事になり、それがこの先いつまで続くか分からない。永遠に恐怖に陥れる可能性もある。 私達は出来る限り、原発廃止のために努力し、苦難に遭われた人々のために祈りあいたいと思います。 全ての人々が真の平安を得る道とは、全てを主に委ねることでないでしょうか。 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。」 (エレミア書二十九11・12) 徳島市 |
I.T 台風がやってきた。 もう丸二日、激しい風雨にさらされて それでも、そこに立って辛抱している木。 枝をへし折られて、痛いだろう。 逃げ出したいだろう。 でも大地に根っこを張っているから 大丈夫だよと言っている。 もう少しだよ。後数時間の辛抱だよ。 また突風が襲いかかる。 ゆらゆら大きく揺れて危ない!! でもポキンと折れはしない。 揺れながらバランスを保って戦っている。 頑張れ、もう少しだよ!! この嵐の終りは近いのだよ。 神様は、耐えられない試練には遭わせないと約束されています。苦しい試練の後には、復活、再生の喜びが待っています。また美しい緑葉を繁らせることができるのです。もうすぐ、嘘のような静けさと平安がやってきます。 信仰雑感 九月、ある小さな新聞記事が目にとまった。「砂穴に転落。夫婦死亡。…夫驚かすために妻が掘る。」(石川県) その砂穴は、二、四メートル四方で、深さは約二、五メートル。妻が夫の誕生日に夫を驚かそうとして、六人の友人と掘って、ブルーシートで覆い、砂をかけて位置がわからないように仕込んだという。夜に妻は夫を連れて散歩に砂穴のある砂浜に出かけて行って、何と誤ってこの穴に一緒に落ちて死んだという。夫婦は二十三歳だった。 何と愚かな事を!墓穴を掘るとはまさにこの事だと思い、笑って済ますことのできない象徴的な事件として、私の心に強く残り、考えさせられた。そして、私が心に描く穴とは、とてつもなく大きな穴で、その中に入ると、それが穴であるということすら分からないという穴である。それは国策のもと、国民を欺いて国家が掘った穴で、その中に入ってしまうと、かつて天皇を神として戦った戦争や今回の原発事故のように、滅びを招く恐るべき穴なのである。 それにしても、人は何と沢山の穴を掘ることか。すべては限りない人間の欲望が生み出すものである。中でもお金儲けの穴、かけごとの穴、カルト宗教の穴は落ちやすく、そして一度落ちたら抜け出すことが非常に難しい穴である。 神に選ばれて救われたキリスト者は、大きな穴の中に入って、人々と一緒に暮らしているけれど、その中で地の塩、世の光としての役割を果たしているのだと思う。キリスト者は、生ける神と直結した存在であって、神の御声に聞き従うことが第一義である。だから悪魔が誘う穴に落ちることはないと信じたい。けれど百パーセント大丈夫とは言えない。 主を畏れる人は何も欠けることがない、と詩人が告白しているように、常に祈り、主を畏れることなくしては、キリスト者といえども、滅びの穴に落ち込まないとは限らない。目を覚ましていよう。 「主を畏れることは命の源。 死の罠を避けさせる。」(箴言十四・27) (沖縄) |
I.E イエスさまの沈黙は、ピラトが不思議(驚嘆)に思うほどであった。どんなに不利な証言をされても、黙り続けるイエス。反対する人々は、唾を吐きかけ、目隠しをして殴りつけ、平手で打ち、あらんかぎりの方法であざけったと書かれている。イザヤ書の預言には「かれは口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない小羊のように彼は口を開かなかった」とある。ここを初めて読んだとき、イエスさまの沈黙の深さを思わされた。 聖書はただ昔のことを書いてあるのではない、とすれば、私たちに何を語られているのか。このことは、またこのときのイエスさまの姿は、私にも多くの何かを語り続ける。霊的に、より高い人間のあり方をイエスキリストが示してくださっている、と。このような道を示してくださっている神さまの英知に驚き、そして深く感謝する。示しがなければ、人間はただに「めつぼう」の道を行くだけだろうから。 十年前の九・一一事件のことを思い出す。「これは戦争だ」と即刻、時の米大統領が発言し、即座にその映像は全世界に流れた。そして実際に戦いが始まり、落とさなくてもよい更に多くの命が落とされた。人間は互いに相手を支配したがる生き物だと言われる。どんな人であっても例外なく、差別されたり、支配されたい人はいないはずだ。やられたらやりかえす。長い歴史をみてもその繰り返し。そんな人間が「報復」することはいとも簡単だし、収拾のつかないような大きな戦争も、始めるのはごく簡単だろう。そしてより多くの人が傷つき、罪と愚かさが増大する。 ここに示されたイエスさまの沈黙。それにピラトが驚嘆した。「わたしである」と言えば「反対者が後じさりして倒れた」ほど権威のあるかたが、屠り場に引かれていく小羊のように口を開かなかった。そのことは、狭いわたしの心にも、新たな地平を与えてくださる。聖なる沈黙…。それは普通の人間には不思議に見えるほどだった。 神に背を向ける人間は、そんな神を弱い神と思うだろうか、何もできはしない、力など無い神、と思うだろうか。思えば思うほど、人間がいかに正しい道から外れた生き物であるかを思わされてならない。「おののいて罪を離れよ」。自分自身に語りたい。示されたのがどんなに困難な道であっても「なすべきことは、そのときわたしが告げる(サムエル上十六・3)」。主のご計画しか成らない。主は、思いがけない方法で、従おうとする人を守られる。主とその人とにしかわからない方法で。主が共にいてくだされば日々新たなひかりの中、示されている新たな歩地平へと歩いて行ける。 詩 五篇 手紙 秋の日に 林で拾った一枚の木の葉 しっかりとした布地のような 大きな木の葉 黄金色 神様からの手紙 ー安心して行きなさい 胸のポケットに挟んで また歩き出す クロッカス 棄てられたら 棄てられた処で 咲いている球根 黄金にかがやき 日を浴びて 蝶 庭のフジバカマにアサギマダラが来ている 羽を開いては閉じ 閉じては開き 神の この時をよろこんでいる そして 舞い立つとき あざやかな文様を見せて ああ あんなにも軽やかに飛ぶ 金星 おどろくべき主のみ業 あなたに向かって 引き絞られる こころ とらえてください わが魂を 祈り 苦しみの谷で 一寸先の見えない闇の奥で どう生き延びるか なぜ生きなければならないのか そこは苦しみの谷 何も見えてこない 何も聞えてこない 人は孤独な闘いをする時がある たとえ敵に打ち倒されても 主よどうかその 手をとっていてください 手をとっていてくだされば 主よ その子は決して死ぬことがありませんから (徳島市) |
I.M 好きなみことばの一つに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサロニケ・五・10~16)があります。 毎日どんな時にも心がけて実践することが出来たら、どんなに平和な日々を送れることでしょうか。憧れでもあり理想です。どんなに辛い時でも、苦しい時でも、まずはお祈りをして神様からの救いや慰めを頂かないと、とても感謝など出来ません。神様がひとりひとりに与えてくださっているご計画、苦難も良き方向に変えて下さることを信じていればこの試練も恵みに変えられ、希望を持つことが出来ます。それが感謝となり喜びに繋がります。聖書のみことばとは違う心の道順ですけど、三つのみことばは罪多き日々を改め、落ち込んだ心を励ましてくれます。現実に流され、悪に負けそうな時、いつも神様が共にいて下さるということを認識して、歩んでいけますように。 徳島市 |
I.K 二〇一一年七月三〇、三一日の、第十一回近畿地区無教会キリスト教集会に、私は初めて出席いたしました。私は青森市に住んでおりますが、時空を超える生ける神の不思議な導きにより、大阪狭山集会の宮田咲子さんが毎月出しておられる「福音」誌を通し、そして、昨年は遠い所を、わざわざ青森の私宅に来て下さり御励ましと、主に在る御祈りをいただいた吉村先生を通して、今回の集会に導かれました。 近畿集会の主題が「キリストの言葉」とあり、「主の祈り」を吉村先生が講じて下さるとありまして、ぜひ出席したいと思いました。そして又、宮田さんから、私の敬愛する杣友博子さんの「最後の機会と思うから」と言う御言葉を聞いて、私も同感で、遠路、老齢、暑さなども気にならなくて、一人で出かけて参りました。 こういう顔でこのような場に出るのは恥ずかしいのですが、私は二二才過ぎた頃、首から上、顔、頭に濃硫酸をかけられて、瀕死の重傷を負いました。何故か、それは同じ職場の女性のアブノーマルな独占欲、私への妬み、今でいうストーカー行為の狂気に巻き込まれたのだと思います。 それから三十七~八歳ころまでいろいろな整形の治療を受けてきました。首から上は、スイカのように重く腫れ上がり、目も見えず、声も出なくなり、左の耳はとけてしまい生きているのが不思議な有様でした。 その後、病院で三〇回以上もの植皮の整形手術を受けましたが、お化けのように赤くケロイドにひきつれた顔の私は、絶望のどん底で、必死で看護してくれる母や見守ってくれる人を思えば、死ぬことも出来ず呻きつつ、「もし、神様が本当に居られるのならどうか私を助けて下さい」とただ助けて下さいと、日夜心の中で叫び求め続けていました。 そして、神は本当におられて、不思議な導きで入院していた東京の病院の隣にあった教会に行けるようになりました。聖書の学び、祈りと賛美に導かれ、ここにこそ私のような者も生きる道があると思いました。洗礼を受ける時、牧師が「あなたに硫酸をかけた人を赦すことができるか?」と問われました。その時、私は「ハイ」と答えました。あの時は聖霊に満たされた祈りの中に居り、主共に在し給う恵みの中で素直に「ハイ」と言えたのです。 けれども、その後の惨めな苦しみの日々、平安も無く、喜びも感謝もなく、ただ暗い心の中に決して赦してはいない自分を見出します。赦しなさい。愛しなさい。との聖言に全く従えない自分、聖書の言葉がめぐみではなく、さばきとして恐れを覚える者となり、自分の罪のために存分長い間苦しみました。 けれどもイエス・キリストの十字架のさばきと、赦しとめぐみが本当にわかった時「赦すのは私ではない、私こそ赦されなければならない者です。主よどうか赦して下さい」と主の十字架に縋り涙と共に祈りました。主はリアルに私の罪のトゲを抜き取って下さり痛苦が癒されて、すべてを主に委ねる自由と平安が与えられました。 「苦しみにあいたりしは我によきことなり、これによりて我、汝の掟を学び得たり」(詩篇一一九・71)との聖言の真実を実感して、この苦難がめぐみであると感謝いたしました。 「神は真実な方だから、耐えられない試練には遭わせない。必ず逃れる道を備えて下さる。」(一コリント一〇・13)とあります。私はその逃れる道とは聖書の聖言であり、恐れるな、安かれと我に来よとみ手をのべ給う、イエスは御自身なのだと信じております。私はこんなに長く生かされるとは思っておりませんでしたが、今年で八十才になりました。 聖書の言葉を力としてささえられたことがいろいろあり、今日まで歩んでくることができました。 「主イエスは罪を外にして、すべて私たちと同じ試練に遭われたのだから、憐れみを受け恵みにあずかって折りにかなう助けをいただくために…」(ヘブル四・15~16)とありますが、本当にどんな時も折にかなう聖言が与えられ、力と平安が与えられ、今日まで生かされて来た事を感謝します。 マタイ福音書の六章の25節にありますように、本当に神様は、空の鳥も守り、野の花も咲かせて下さる。まして人間であるお前も顧みてくださる。思い煩うな。まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば、それらのものはすべて添えて与えられるということばが、具体的な神様の恵みとして受け取ることができました。 母が亡くなった時、もう自分の名を呼んでくれる人は居ないんだと悲しみましたが、「おそるな、われ汝を贖えり、われ汝の名を呼べり、汝はわがものなり。」(イザヤ四三・1)の聖言によって悲しみが喜びに変えられ心の底から慰められました。具体的に厳しい老年の日々の中で、「私はあなた方の年老いるまで変らず、白髪となるまであなた方を持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ必ず負い、持ち運びかつ救う。」(イザヤ四六・4) この聖言が慰めです。 「わたしは造ったゆえ」と神に造られたものだからという、それ以外の人間の側のことは問われない。この神を信じて老年を生きる喜びはひとしおです。 青森の自宅に帰り、貝出久美子さんの第十三集の詩集「光のかけら」が届いておりました。「イエス様の服」をとても嬉しく読みました。年と共にだめな自分であることを知り、がっかりすることが多いのですが、このままでイエス様の衣を着せていただいて、神のみ前に出られるという使信、本当に有難うございます。 近畿集会において、宇宙の完成ということを吉村先生から学びました。私の中心はイエス・キリストの再臨による宇宙の完成です。「ローマ八・18」からの、被造物の呻き、御霊の呻きが完全に贖われる日の希望です。ヨハネ黙二一、二二章の神の国の実現が希望です。現代の耐え難い悲しみと空しさの日々にも主イエス再び来給う希望の喜びを日々十字架の下に在って迎えられ、必ず来るその日を待ち望んで、あくまでも信じひたすら祈りたいと思います。 青森県青森市 |
A.S 八十年近い私の人生を守り、導いてくださった神様。今まで何度か、もうだめか、と力尽きる思いをいたしました。今にして思えば、あの時の困難はそれほど大きなものではなかったのかもしれない。けれども、人生の経験の少ない、世間知らずの私には耐えられない思いのものでした。その度に神様に訴え、祈りました。神様は私の涙を拭い、再び立ち上がる力を与えてくださいました。今、体が弱り、杖に頼って歩いている私ですが、聖日礼拝の出席を許され、御言葉に触れることができますことは、ただ感謝です。 「あなたがたを襲った試練で人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (Ⅰコリント十・13) 徳島市 |
O.Y 聖書を読むには、そして聖書は「私」のことが書かれていると読むことが大切だ…と教えられたのは浦和キリスト集会でで関根義夫先生の講話であった。「聖書は「一人称単数現在」で読む!であった。 「私たち」は「私」、「あなたがた(たち)」も「わたし」に置き換えて読むことが大切であると教えられた。 このような読み方に慣れてくると聖書との距離がだんだん近くなってくることを感じるようになるから、驚きである。 難しいといわれるロマ書でも「わたし」に置き換えてよむことで、身近になることを体験したのです。 聖書の文字に捕らわれて、どう解釈するべきか?などと心配することはなく、読むほどに力強く心に響いてくる。 わたし達が生きていくことは、様々な悩みや、苦しみ、それが罪の悩みであれ、身体的な悩みであれ、家庭での悩みであれ、降りかかる一切の苦悩から離れられる「神の力」に包まれる。 ルターはロマ書を暗記するほど読めというが、暗記は出来ないまでも少しずつパウロに近づくことができると思う。(札幌市) |
O.Y 昨年の「野の花」誌に原稿を寄せた折、吉村さんから「スカイプで集会に参加してみませんか」とお誘いをいただきました。 パソコンの操作ができるかな、参加する時間が確保できるだろうか、と心配しているうちにも吉村さんが次々手筈を教えて下さり整えていって下さいます。時間が取れた十二月の北島集会に参加することになりました。 いざ聖書講義を聞けるとなるとわくわくし、仕事の時間を空けて準備万端でパソコンの前に座るも、一回目・二回目とうまく行かず…。 でも吉村さんや集会の方たちが、ていねいに対応して下さって三回目から参加できるようになりました。最初のうちは操作に戸惑ってあたふたしていましたが、回数を重ねるうちにパソコンでの操作の要領もわかり、落ち着いて参加できるようになってきました。 そんなところに三・一一の震災と原発事故が起きました。私の住んでいるところは地震の被害はそれほどではなかったのですが、電気が止まる中、手廻しラジオで聞いた原発の状態には心底恐怖を覚え、三月一五日の朝十八才の娘と母を連れて大阪に避難しました。そのまま娘を広島まで避難させて1週間ほどで自宅に戻りましたが、原発事故の収束は見えないままいつもっと悪い事態になるかわからず、何ヶ月もの間本当に怖い思いで過ごしました。 また、悪い状態が進行しているのに国民を守る姿勢の無い政府や大企業の自己保身の有様に、私たちの命の軽んじられる様、人間の命のはかなさを身に沁みて感じました。 そんな、明日のことさえどうなるかわからない不安のなか、スカイプで参加できる集会は心の拠り所でした。時間が経つとまた巷の情報に振り回され自分で考えてしまって不安に取りつかれるのですが、集会に参加して神様の言葉を渇望し、終われば希望が与えられていました。 新しいことに臆しがちな私でしたが、あっというまにスカイプで集会に参加するようになっていたことは、吉村さんを通して神様が備えてくださったのだと今回も思わされました。 我が家は新規就農で有機野菜と養鶏をやっています。休日は無いし、昼間は、他の人が働いている時にパソコンの前に座っているのも居心地悪く、仕事が終わるのも遅いので夜も時間が取りにくいのが現状です。自分の仕事時間の中で参加しやすい月曜の北島集会と月一回のつゆくさ集会とスカイプ集会に通常は参加しています。パターンになったので、主人もその時間を取るのは協力してくれるようになりました。 パソコンに向かってお祈りしたり感話を言ったりするのは今だに慣れなくて、口を開くと頭の中が真っ白になります。パソコンは事務室にあるので話している途中で人が入ってきたりするとうろたえてしどろもどろになってしまうし、その状態が集会に参加している方たちはわからないし伝えられないので恥ずかしくなったりもします。反対に、集会でスカイプのお世話をして下さる方たちは気持ちが散って大変なのではと申し訳なく思います。 「二人、三人集まるところには聖霊が降る」と集会録音で聞くたびに、一人で学ぶ私は羨ましく思っていました。でも録音での講話は戻して内容を確かめたりできるけれど、集会では一回限りになってしまうからどういう学びになるのだろうと思っていましたが、参加し終わった後の満たされかたは想像をはるかに超えたものでした。 録音での講話も大きな学びでしたが、集会で聖霊が注がれるというのはこういうことかと思わされました。文明の発達はいいことばかりではないけれど、インターネットのスカイプがあればこそ賜物をいただけました。 集会に参加していただく恵みはいつも本当に大きくて、徳島の皆さまとも神様を通じてお知り合いになれ、皆さまのお祈りをいただいて震災後の気持ちの困難な時期を乗り越えさせていただいたことも合わせ、ただただ感謝しています。 徳島聖書キリスト集会とそれに連なる皆さまに神様の限りない祝福が注がれ、私も含めて新たに加えられる方たちに神様のお恵みがいただけますように。 (茨城県) |
O.T 恩人が亡くなった。私たち夫婦の仲人をして下さった方である。御主人を亡くされてから、二0年程、独居生活を送っておられたが、八十才を期に老人介護施設へ入居された。その施設で秋に倒れ、三ヶ所の病院を転院させられてから、五ヶ月後に逝去されたのだった。 家族のない彼女は行政書士を立てて、遺言書を残していた。土地、建物、預貯金、遺品など、すべての財産をきれいに処分していた。見事な死に様であった。 私たち夫婦には葬儀後、散骨するように、との遺言があった。 七月になると関係者から散骨式の案内が届いたので、小樽に出かけた。遊覧船のターミナルには五家族十六名が集まっていた。八十過ぎの老人から、母親に背負われた赤ん坊まで、年令も職業もバラバラの人達だ。 午前十一時、小さな遊覧船に乗り、小樽沖二キロの散骨地点に向かって出航した。天気予報では「曇り・波の高さ一・五メートル」だったが、港の灯台を過ぎ、外海に出ると、小さな船はギシギシと不気味な音を立てて振れ出した。陸地の山々が上に下に大きく動く。黒々とした波のうねりが船に向かって迫ってくる。二キロ地点に到着すると、NPOの方の合図で、それぞれの家族全員が散骨した。 船は三周し、汽笛を鳴らしてから、帰港した。船上で散骨の証明書が渡された。下船しターミナルに集まったが、誰一人として気分の悪くなった人はいなかった。皆、晴々とした顔をしていた。荒れた海だったのに、と遊覧船の乗組員の方々も驚いておられた。 小樽からの帰路、妻と話し合った。私たちのどちらかが死んだ後、どうするのか、どうしたいのか、と。 私は六十才になった時、旭川医大の白菊会に入会し、献体することに決めていたので、葬式は行わないこと、献体後一~二年で骨が返ってきたら散骨してほしい旨を述べた。できれば海より山に散骨してほしいと、言った。妻は運転しながら、黙って聞いていた。 それから三ヵ月後「私も白菊会に入会したい。献体したい」と、突然、妻が言った。葬式もいらない、と言う。驚いたが感謝であった。 妻は書類を取り寄せ、娘の承諾もとって入会手続きを行った。 私たちは今、夫婦として、この世の生活を送っているが、共に同じ御国を目指しつつ、歩み続けています。すべてのことは神におゆだねして、毎日を精一杯生きるだけ。毎日が喜びであり感謝です。心の中には一かけらの不安もなく、さわやかな香気に満たされております。大安心なのです。神からいただいた恩恵の中に生かされている。そのことを身をもって実感している毎日なのです。 妻は相変わらず家事をこなし、娘の心配をしながら、暮らしております。私は愛犬エルを膝にのせつつ、アトリエにこもって、絵と格闘の日々です。 神のお召しのあるその日まで、ひたすらに描き続けます。 主イエスにまみえるその時を楽しみにしながら。 釧路聖書集会 |
O.N ありがとう すばらしいめぐみを ありがとう とこしえのいのちを いつもともに いてくださる すばらしいイエスさま
ありがとう すばらしいいやしを ありがとう とこしえのひかりを いつもともに いてくださる すばらしいイエスさま (プレイズ&ワーシツプ六一 一・三) 神様からいつも恵みを頂いている事に感謝します。 板野郡 |
O.T 初めイエス様の宣教は、ガリラヤに有る、カペナウムを拠点とされていた。聖書にはガリラヤの海となっている。巾十Km縦十五Km位の小さな、湖である。海が荒れたと書いてあるが、一時的な山下しで突風によるものらしく、普段は静かな湖畔である。 日本でも大きな山から、山下しが吹いて波が立つ事があるらしいが、私の近くの湖では、その様な処はない、此の湖を船を使って行き来されたらしく、船の上の事があちこちに書いてある。 今マタイ伝に取り組んでいる。聖書は毎朝読んでいて船の中のイエスを取り巻く弟子達の姿が目に浮かぶ。ファリサイ人がイエスにまつわり続ける。 八章 「群衆が自分のまわりに群がっている」 なぜ群衆をさけられるのか。一人でも多くイエスの福音を聞かすのは喜びであるのに。彼らはイエスを、王にしょうとしていたから、イエスの目指すものとは違っていた。ファリサイ人と律法学者は「先生あなたの行かれる処には、どこまでも、ついていきます。」マタイ伝では至る処でファリサイ人が出てきます。 九章 ファリサイ人と断食。十一章 「ツロとシドンの方がお前より耐えやすい。」 十二章 安息日に弟子達が道端の穂をつんだ、ファリサイ人が咎める。十四章五千人のパンを分けられた残り十二籠も有った。イエスが山に一人で祈られていた。船が逆風によって流されていた。ヘルモン山からの突風によったのであろう。イエス湖の上を歩いて来られた。 十五章 ファリサイ人とサドカイ人がエルサレムから、イエスの元に来て言った。「昔からの言い伝えをなぜ破るのですか。」動揺する弟子達を連れてツロからシドン地方にイエスの一行は行く。弟子達の特訓の為か、ファリサイ人を避ける為か、偶像の異国地カナンである。カナンの女とパン屑の話。十六章「ファリサイ人とサドカイ人のパン種に警戒せよ。」弟子達は船の中に食事が無い事を、イエスが言われているのかと言いあっていた。ガリラヤの海は今日は穏やかであって、休息の一時でもあった。イエスの言われた事を互いに論じ合っていた。一時間も漕げばカペナウムに着くと思うのになぜパンの心配をしたのか。おそらく家では女性達がイエスの一行を食事を整えて待って居たであろうに。二度目に「なぜ悟らないのか覚えていないのか。五つのパンで五千人に分けた時、幾籠拾ったか、四千人の時も、私が言っているのはパンについてでは無い」「パン種の事ではなく、ファリサイ人とサドカイ人の事である」と悟った。悟ったとはどの様な事であらう、先ずはファリサイ人である。 彼らはイエスの時代より約五九〇年前バビロンでユダヤ滅亡、起きたイスラエルの信仰を守り、精神主義者愛国の志で有った。それから紀元前五三〇年ユダに帰り、民の指導者と認められていた。イエスの宣教の時には国定化して世の宗教家と成っていた。イエスの福音とは違ったものと成っていたのである。彼らについてイエスが言われたのは「彼らは己の腹を神となす。」である。建前のみを大切にする世の宗教家である。先ずは霊における主の祈りが中心でなくなっている。 今でもよく見かける教会の礼拝である、儀式である。さてサドカイ人である彼らのパン種はなにか、彼らの職業は政治化である世の見かけの宗教家である祭司職を荷っていた。モーセの律法を己の律法としていた。神の子イエスを十字架にかけた政治家である。自からを正しいとして他を排する者。今の政治家なる者に似ている。聖なる座においてやるべき事を間違っている日本の政治家なる者サドカイ人は残っている国を祈るべきである。総理を祈るべきである。震災を祈るべきである。 原発は誇りを恥ずべきである。貧しくとも誇りに生きた時に帰るべきである。五千人に分けられたパンを毎日頂くべきである。祈りのパンが何籠残りしを覚える時である。震災の先は復興であると次は経済であると言う。不景気で会社の為に会社ごと他国に移すと云う。金のみ頼りにする企業など日本にはいらないのである。金の亡者となる。 心である。祈りである、愛国である。日本の戦いも民の願いの上に復興した。世界中神への祈りでなく、市場のパンを求めて戦っている。中国、インドなどの貧しい国が立ち上がった彼らが興れば世界が亡びる。 日本もアメリカも大変な時となっている。天の父に祈りのパンを分けられる日は何時なのか、十二籠余るのである。真の世界平和を祈る民は何処こにおるのか。生命の木の実をもぎ取り放射能の雨を降らし自己の腹を神となす者呪われよ、愛するべき神の民よ祈れ、灯火の油を切らしているものは、日の有る時に油を求め用意せよ。 広島県庄原市 |
O.E すべての国よ、主を賛美せよ。 すべての民よ、主をほめたたえよ。 主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを越えて力強い。 ハレルヤ。 (詩篇一一七) この箇所はサムエル記上十五章の学びの時、関連箇所として聞き知りました。詩篇のなかで最も短い章であるけど、重要な意味があると聞き印象に残っています。 ただ一人だけにでなく、全世界の国民に主をほめたたえよ。と呼びかけられています。私たちに主の恵みを賛美するようにとのことですが、神さまの真理を知らなければ賛美はできないと思います。真の神はただお一人。世界を創りご支配しておられる唯一の生ける神さま。すべてのものはその神の栄光のために創られたのだからすべての国民は主なる神をほめたたえるべきです。どんなことがあっても、永遠に変わらない神の愛と真理を信じて主をほめたたえよう。 人間世界を超えて力強い神さまに従い、聖霊を受けて真理をわからせていただき、常に主を賛美できるようお導きください。 (中途失聴者) 板野郡 |
今号は、か行の方から収録してあります。 この号も、原稿をお寄せくださった方々、そして入力、校正、レイアウトなどいろいろの作業に協力してくださった徳島聖書キリスト集会の多くの方々に感謝します。 今年の「野の花」は、去年の3月11日の、大震災に関する投稿がかなりあります。 歴史上で、このような大地震と津波、そしていくつもの原発の大事故という前例のないことであったので、その震災に関する方々の原稿は、字数制限なく、ほとんどそのまま掲載してあります。 この大きな困難を直接に経験された方々の文によって、私たちはそうした困難のただ中にあって、たしかに主がささえ、導かれていたのだと感じさせてくれます。 直接に話しを聞くことはできなくとも、こうした文によって私たちもより身近に大きな困難を経た方々の経験の一端を知ることができます。それによって、あの大きな苦しみを少しでも私たちの心にとどめておきたいと願います。 そして福島原発の事故においては、広大な地域における、大量の放射能汚染とその4基もの原発の莫大な廃棄物処理の困難という世界でもかつて経験したことのない困難が続いています。そこから次々と新たな問題も生じています。 郷里に帰るか、それとも別の県に移るのかといったさらに新たな難しい状況に直面されているのもその一つです。 そうした不安と重荷をになわされた幾万の人々の魂に、次の主イエスの言葉のように、天よりのあらたな力と平安が与えられ、その困難と不安が少しでも軽減されますようにと願います。(T・Y) 重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。 休ませてあげよう。 (マタイ11の28)
わたしは平安をあなたがたに残して行く。 わたしの平安をあなたがたに与える。 わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。 あなたがたは心を騒がせるな、また恐れるな
|