野の花 |
世にうち勝つ力 2011年は、日本だけでなく、世界的な規模で考えても、日本に生じた、かつてない大地震、津波と原発災害ということで、大いなる警告がなされた年であった。人間が造り出したものであるから、人間が簡単に制御できるということでなく、後世に永遠の重荷を与えることになっていくことを思い知らされた年となった。 原発の大事故、それは何十万年経っても、元通りにはできないということであり、これは永久的である。 このような、津波によるおびただしい破壊、原発の事故による破壊など、壊れたものを本当に修復し、その悲しみや苦しみから真に脱却する道は、人間ではできない。 昔から、たくさんの人たちが戦って死んでいくこと、ペストのように14世紀のヨーロッパで、数千万人が命を落としたこと、またハンセン病など肉体的にも、精神的にも苦しみ、かつ差別され見捨てられていくという、最も苦しい世界へと放逐されていくようなこともあった。また、世界大戦では数千万人が死に、無数の人たちが傷つき家庭も破壊されていった。 こうした歴史上でのさまざまの苦しみや悲しみは、文字通り死に至らしめ、生きていても精神的に絶望の淵に突き落とされる状況であった。 こうした状況を本当の意味で回復し、いやすもの、それは、死を越える力を持っているものでなければならない。 こうした根源的な求めに応えるものこそ、聖書であり、そのすべてが指し示すキリストである。 私を信じる者は、死ぬことがない―と主イエスは約束してくださった。この単純な、だれでもただ信じるだけで受け取ることのできる力、それは、死という最も強力な力もむしばむことがないというのである。 この力を本当に受け取るとき、死に勝利するゆえに、あらゆる災害や病気、人間関係などにうち勝つ道へと招かれたことになる。 新しい2012年、それはこのような不滅の力を日本人一人一人が受けること、その方向に対して目覚めることだと言えよう。 (吉村孝雄) 「主よ、わたしの心は驕っていません」(詩篇一三一) K.T 「主よ、わたしの心は驕っていません。 わたしの目は高くを見ていません。 大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。 わたしは魂を沈黙させます。 わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。 イスラエルよ、主を待ち望め。 今も、そしてとこしえに。」 老いることは決して悲哀ばかりではありません。静かさと安らい、充足も与えられます。これまで余り心にとめなかった「みことば」が魂をとらえ気づかなかった心の奥の隠れ場に憐みの光をあてて頂くことはよろこびです。このダビデの歌が直に私自身の祈りとなりました。アーメン 槻聖書キリスト集会 |
K.M どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。 あなたの御言葉どおりに道を保つことです。 心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。 あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。 わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。 主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。 あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。 どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。 わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。 わたしはあなたの掟を楽しみとし 御言葉を決して忘れません。 (詩編 一一九編9~16) 我が家での家庭集会(藍住集会)が始まってから十五年になります。いろんな出会いと交わりがありました。苦しみを持っていた人が、心が軽くされたのもみ言葉を受けたからだと思います。今までの年月には、それぞれに深い悩みがあって生きていけないと思うどん底の経験をされた方もありました。 み言葉によって、苦しいところから抜け出た事は本当によかった。試練の最中でも、神様の愛を学んでいたので、自分を失わず、神様の道を歩めたと聞くと、その人と共に感謝できました。 礼拝後の交わりでは清められた雰囲気があり、この世の集まりとは違うものがあります。交わりの中で話される事を聞いていると、神様から清めを受けてそれぞれ成長させていただいている事を感じます。 長い年月には、集会が重荷に思った事もありますが、続けてこられたのも自分の思いではなく導きであったと思います。この十五年の歩みを通して、神様は、いろんな事も清めながら私達が歩む道を導いて下さっている事を、詩編の学びで感じました。 (美容サロンルカ 美容師) |
K.K 神様の手のひらの上に わたしたちが乗っている。 世界とか、宇宙とかとよばれている 人間にとっての知る限りのすべての空間が まるくなって 神様の手のひらの上に乗っている。 神様はいつも 優しい目をして 哀しい目をして 厳しい目をして 手のひらに乗った世界を 見つめておられる。 このまるい空間を ひとり子を賜るほどに愛してくださった。 痛み、苦しみ、うめきながら 人の罪を赦そうと 苦しむいのちを救おうと きょうも 手のひらに乗った人の心を 神様は 痛むほどに じっと見ておられる。 (看護師) |
今年(二〇一一年)の痛くて残念だった出来事 K.Y 今年の「野の花」には残念にも良い報告(逆に善い報告かも…)が出来ません。困った事が身体に起こりました。やはり私は病人だったのだと再自覚させられました。今まで私なりに健康であったのは当たり前ではなく、神様が私を憐れんでいてくれたのでした。その御心に私は甘えていました。いつなんどきでも、健康ではないのが分かりました。神様は私の弱い心と信仰を試されました。 三月頃から、舌と唇に痛みと味覚異常を感じるようになりました。舌がツルツルになってカレー類や香辛料が痛く、歯磨きがしみてきました。鉄分と亜鉛の欠乏でした。今でも多いのに、これ以上薬は増やしたくないので、そのうちに良くなるくらいに思い、様子見にしました。ところが、六月二九日に最悪の日がやって来ました。見る見る内に、口に跳び上がるくらいの痛みが出て、唇は開かない、喋れない、食事は出来ない、出血する状態になりました。情けない事に音をあげてしまいました。急いで口腔内科の往診を依頼すると、口の中を診ただけでカンジダと言う悪い菌が住み着いている事が判りました。治療で痛みと菌は十日ほどで取り除かれました。ところが、口の中がネバネバした感じは続きました。 でも、問題はコンピュータでした。私は生活のほぼ全てをコンピュータに頼っています。そして、その操作を口でしています。コンピュータ(日常生活)を取り上げられた事になります。まず困ったのは、それまで続けていたスカイプ集会を休む事でした。私はスカイプを通して聖書を学んできました。私にとって集会に参加出来ないのは、すごく寂しく心に穴が空いたのに等しく、時間を持て余していました。そして二ヶ月も集会から離れてしまいました。その時にこのまま休んでいると、怠け癖が付くのと、イエス様の事を一日でも考えなくなってしまうかも知れないとの怖さが出てきました。イエス様から離れる事はもちろんありません。口の調子も完全ではないものの、早く戻らなければ、との気持ちも盛り上がって、復帰する日を自分で決めました。以前のように殆どの集会に出るまでには至っていませんが、それをひとつひとつ積み上げて行く事を今の励みにしています。それは体調にもよりますが、私も努力します。 病気を治すのも治さないのも神様の御手の中にあります。善きも悪きも、神様が私に成される事は「全てを自分が引き受ける」と言うクリスチャンでいたいと思っています。随分前に四国集会で証しした「今が最善の時・・・」につながると信じています。神様は全能ですから、「全てを善きに成す」事も信じています。 十月の診察で明らかになった事がありました。口の渇きとベト付いた違和感は、加齢による「口腔乾燥症」でした。今後若くなる事はないので、この気持ち悪さは、一生涯続くのです。不便であっても、せめてコンピュータを使う事と話をする事と食事が出来る事は許してほしいと願っています。嬉しい出来事もあって、亜鉛を含んだ豆乳を届けてくれる姉妹がいます。この感謝も病気の恩恵だと思えます。 |
K.H わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず 白髪となるまであなたがたを持ち運ぶ わたしは造ったゆえ必ず負い持ち運び、かつ救う。 (イザヤ書四六章4節) ひたすら神のみむねに従い いかなる時も 神に望みを置くもの もろもろの悩みと悲しみに 閉ざさるるとも 神はその人を不思議にも守り給わん。 いと高きものなる神に依り頼む人は、 砂の上にその家を建てしにあらず。 (同胞教会賛美歌第一七二番) 「より高きをめざして」(カール・ヒルティ著 幸福論第三部より) 今年もまだ体調の悪い中でしたが、休みながらも礼拝に参加でき、み言葉を学べましたこと感謝でした。 神様に従う生活は困難もありますが、主を仰ぎ見て、信じてゆくなら、祝福に変えられる、ということを学びました。 この世にあっては悪の力は強く、どこに神様はおられるのだろうかと思わされる時もおおくありますが、でも時がくれば必ず悪は滅ばされると言われています。 私もどうしていいかわからなくなった時、そこから助けだしてくださったことを思う時感謝に溢れます。そして神様を信じてゆけばその信仰によって救ってくださることを思い、希望が持てます。 家族が救われ、御国にゆくまで神様を信じてゆけますように、また、神様の証し人となれますように祈ります。 私のようなものを神様に出会わせてくださり、信仰を与えてくださり、救ってくださって、本当にありがとうございます。 愛はすべてに勝つ(「眠られぬ夜のために(第2部)」 |
夕拝の学びから K.I 十月の移動夕拝は、わたしの家で行われました。聖書箇所は、ヨハネ福音書十八章36から38節でした。「真理とは何か」という題で講話がありました。 この世の人たちは、本当の真理である神様を知らず、さまざまなものを求めているがために、分裂、争いなどが絶えないことなど、聖書には本当の真理である神様が書かれていることを学びました。 わたしは、真理の神様を知らなかったら今でもさまざまなものを求めて、今も迷った歩みをしていたのではないかと思います。はかりしれない大きな存在である神様のことをすべて知ることはできませんが、聖書に出会って、真理である神様を知ることができた恵みを感謝します。 それから、講話の中で、関連する聖書の箇所として、ヨハネ福音書十三章6節の聖句が語られました。 「わたしは道であり、真理であり、命である。」 これは、わたしの治療院の「一真堂」という名前をつける元となった箇所です。唯一であり真理である神様をずっと求め歩いていきたいと思い名づけました。これからも神様を求め歩んでいきたいと思います。 (鍼灸師) |
試煉の中で K.I 十三才の年にはじめて聖書を手にして以来、私の信仰はとても薄い弱いものでした。 そんな私に大きな試練が与えられました。二〇〇七年十一月、主人が胸部大動脈瘤の手術を受け、生死の間をさまよいました。集中治療室にいる主人に、主治医は「ただ祈るのみです」とおっしゃいました。手術後二日目に意識がもどり一週間ほどして一般病室に移りましたが、全身の力が抜けた状態で経管栄養が続き、依然として危険な状態が続きました。 一ヶ月過ぎた頃、県立病院から経管栄養のままリハビリ病院に転院し半年過ごしました。この時は神様の御心は思わず、「どうして、何故?」という不満と不安が私の心を支配していました。今まで真剣に祈ることもなく、おざなりの祈りで過ごしてきた私に、神様は「目を覚ましなさい」と主人を通して祈りの大切さを示して下さいました。 毎日、病院に通うバスの中で安倍川橋を渡る時、「み心ならば、主人がもう一度この橋を渡って帰ることが出来ますように」と祈りました。リハビリ病院に移ってもはじめのうちは毎日のように状態が違うので、病院に着いて顔を見るまで、祈って祈って部屋までいきました。 翌年七月退院になり、安倍川橋を渡って自宅に帰る車中で「み心に感謝致します」と心から祈りました。 手術後、主人は歩行が出来なくなりましたので、退院後は車イス生活でしたが、訪問リハビリ、訪問看護、入浴サービス等福祉関係の方々のご親切と石川家庭集会の皆様の祈りとお心遣いに支えられて過ごしておりました。 そんな折、MP3対応のCDラジカセをお願いしましたら、徳島の吉村先生が、静岡来訪のときにラジカセを持って説明に自宅に立ち寄って下さり、主人にも会っていただき、祈ってくださいました。その後も、励ましのお便りをいただき、「祈っています」と書いて下さいましたので、本当に力になっておりました。そして介護の三年間を聖書講話のCD、集会CDを毎日聞いて過ごし、主イエス様を身近に感じさせていただくことが出来ました。 また、「苦しみに遭った事は、私にとってよいことであった。」「すべてのこと相働きて益となる」「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう逃れる道も備えていて下さいます。」の聖句と共に、以前「野の花」に小学生の子供さんが、負債のために苦しんでいる母親に「神様は愛している人を強くするために試練を与えるのだから・・・。お母さんは今一番神様に愛されているのだから・・・。」と話されたという言葉を、いつも頭に置いていました。 この三年間は、私に与えられた貴重な期間であったと思います。この期間がなかったら真剣に神に祈ることができただろうか、いつまでたっても聖書は「古文書」のような感覚で読んでいたのではないだろうかと思います。 以前の「野の花」に書かれた文の中に、「何かの苦しみや出来事によって、はっきりとした方向転換が与えられることがある。その時生きた神を、生きてはたらくキリストを実感するようになる」とありました。 今私は、本当にそのことを実感しております。主人の身体は、もう精一杯の状態で何が起きてももう手術はできない」という状態でしたから、状態が悪くなってからは「すべてのことに時がある」という聖句を思い「神様がよしとされた時、苦しむことなく眠ったまま、み許に迎えて下さい」と祈り続けました。 祈りは聞きとどけられ今年三月、苦しむこともなく眠ったまま自宅で静かに天国に旅立ちました。神様は確かに迎えて下さったと思っております。主人の命、病を通して私を方向転換させて下さった神を思い、これからの信仰の道を常に目を覚まして歩いていかなければと思っています。 (静岡市) |
水野源三さんの詩より K.T 美しい秋 一 木々のもみじを 見ましたか 百舌の声を 聞きましたか 主の御名を 呼びましたか 主の愛に 触れましたか (折り返し) 美しい秋を 美しい秋を 作られた父なる 御神を 喜びたたえて いますか 喜びたたえて いますか 二 赤いりんごを 食べましたか 栗の実を 拾いましたか 主の御名を 呼びましたか 主の愛に 触れましたか (折り返し) この歌は、今年集会でも賛美した時、昨年、徳島聖書キリスト集会に大阪から阪井和夫さん(水野源三さんの詩を作曲されている)と浜田盟子さんが来られ「瞬きの詩人コンサート」が開かれました。その時に歌ってくださった事が、思い出され心に響いて来るものがありました。日々の生活の中で自然を見たり、神様が創られたものにどれほど、愛に触れるものを受けているだろうかと思うとき、詩を書かれた水野さんは、自由に歩くことも、しゃべることも、食べることも、誰かの手助けがないとできない。そんな中から神様の愛に触れられ、沢山の表現ができ、詩を書かれたことと思います。 人は健康で何の問題もなく過ごしている、でも病魔が襲ったり、色々な大きな出来事が起こると、周りのものが見えなくなり、心が病んだりします。私たちは、神様に委ねると全て受けてくださり、歩む道を示して下さる神様がいることを知っています。感謝です。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。(詩編二十三・一ー四) |
出発 河野 進 愛はもうこれ以上 進めないところから出発する 愛はもうこれ以上 施せないところから出発する 愛はもうこれ以上 手の打ちようがないところから出発する 愛はもうこれ以上 命がないところから出発する 最近この詩に出会ってどんなに力づけられたかしれません。 絶望の淵に立たされたところから本当の愛が生まれることを実体験をとおして共感できる方もおられると思います。今、絶望の中にあってもうこれ以上先がないと思われている方はこの今の世の中にはたくさんいらっしゃると思います。特に今回の被災された方々の中には想像を絶する苦難や試練の中に今なお置かれておられることを思います。 もう希望も無いような状況の中でここから本当の愛が出発すること、こんなに勇気づけられることはありません。この愛こそがイエス様のご愛であって、希望につながる愛であることが示されています。人間の力ではどうすることも出来ない状況を絶望して終わってしまうのではなく、人間には出来ないが神様には出来るこのお方からいただいた愛を通してのみ立ち上がることの出来るほんものの力がわいてくるのだと確信します。 孤独の中に、生活苦の中にあってこれ以上生きられないところに立たされておられる方々にどうかイエス様の御手が伸ばされて、ここから本当の愛が示され、生きる希望を持って欲しいと祈ります。 徳島県 |
「たといそうでなくても」 K.N 安利淑著「たといそうでなくても」を読み終わった。 次の朝早く、神様に祈りをささげ、讃美歌をうたった。私はこの本の存在を徳島聖書キリスト集会のHPで知りました。 安利淑さんは韓国の人です、当時韓国は日本に占領されており、神社を沢山つくって韓国の人たちに神社参拝を強制していたのです。 彼女は学校の先生をしており、全校生徒の前で参拝を拒んだことから彼女の運命はおおきく変わっていきました。 彼女は強制参拝を強いられた時、ダニエル書三章十八節に書かれている聖句「そうでなくとも、御承知下さい。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝む事も、決していたしません」を心の中におおきく描いた。彼女は暗記した一〇〇の聖句と一五〇の賛美歌に支えられ長い戦いを耐えていくのです。 この本は神様が現在も生きて働いておられ、祈りを持って願うことはことごとく聞き届けて下さることを証する実話です。 神と共に歩むことがどういうことなのか、そして聖書に書かれた御言葉の持つ力をみごとに指し示してくれたのです。いつもいつも神様に心を開き、神様の声を聞こうとすると聞こえてくる事に気付かせてくれたのでした。溢れ出る感謝を主に捧げます。 |
神様感謝です K.M 果てしない欲張り婆さん、世の雑事に超多忙の私、あれも、これもと、せめて時間を稼ぎ出そうと自転車のペダルを踏む回数を早くして…? それを反対車線の車中から孫娘の目に触れ… 夜、娘から注意される「高校生を抜いて走ってたって~母さん来年八十ょ!危ない、年寄りが骨折したら寝たきりになりますよ、自転車乗るの、もうやめたら~」自転車パンクさせる、サドル抜く、との発言。孫娘イワク「あかん、ばぁちゃん座布団巻いて走るヮ…」。 ご尤も、そのテもある。以前北島の集会から小羊集会へ梯子しての帰途、夕暮れの田圃へ落ち自転車も後から落ちてきてエライ目にあった事。あの時の痛さを、もう忘れている。今この身体どうぞ支障無く夫の処へ洗濯物、必需品運べる身を続行させて下さいと、神様に祈るにも日々罪を重ねている身、指折り数えて知っている罪、知らずに平気で犯した罪、後で気が付く罪、「済みませんでした。」では済まない事を知りつつ身勝手なお願い、神様お許しください。以前、車に乗っていた時は黄信号でアクセル踏み込んで、赤で抜け切り…。きちっと信号守って青で発車、前方に車両無く快適走行、突然!旗が出現!警官に「あなたは風のように来た」と、違反切符きられ、罰金、ゴールドの免許証消滅、あぁ残念。後続の車は、すいすいとイケニエの私を横目に抜けて行く。イケニエと思うところに違反した反省が無い。この頃回数の少ないバスを待ちながら、「あぁ車やめるの早かった~」と後悔しきり。 先日、北島の集会の帰途、降車のバス停で、バスの座席にしがみ付いて離れない夫(これで二度目)彼の脇の下へ頭を潜らせ、力一杯引き離そうにも離れない、指一本一本引き離そうにも離れない、手間どる、焦る、公共のバスを遅延させてはならじと、渾身の力を出し、やっと下車、もぅふらふら。運転手に心の底から深謝「うん、うん~」と目で許してくれたような気がする。 肩を落とし、とぼとぼと頼りなく歩く夫、いつもは腕を廻して介添えして共に歩を合わすのに「何で降りるのを拒否し たか」腹が立って、腹が立って数歩後ろから夫の背中へ悪口雑言、「も!絶対私来ませんから、ハイ!さようなら、今日で終わり、も~迎えに来ませんから…集会は私一人で行きます。貴方はお好きなように、誰が来るもんですか!此処へは送って来ただけ、すぐ帰ります!」 彼の部屋でも睨みつけ、嫌み、脅し、イケズの数々。気が付くと、彼わなわなと震えているのです。半泣きの顔で「連れて行ってくれ、わしは行きたいんじゃ、話を聞きに行きたいんじゃ、頼む、迎えに来てくれ、連れて行ってくれ。」の言葉に吃驚しました。私に付き添われ、退屈しのぎの外出、集会の隅で居眠っているのかと思いきや、講話、御言葉、賛美歌、兄弟姉妹の心温まる笑顔や、お交わりに感謝、心癒されている夫を知りました。神様からの平安を頂いていたのです。私、私では無かったのです。 この夏、京都、桂坂での集会も夫が「行きたい、京都へ連れて行ってくれ」との事で後悔はならじと参加させて頂きました。その少し前の高知であった四国集会も、夫は強く希望していたのに「とても無理」と私の一存で不参加した事が悔やまれて、「神様にお任せ」で京都へ出発しました。行って良かった。素晴しい出会いあり、神様のお恵みいっぱいを感じました。 到着、皆様の温かい出迎えを受け、喜びに満ち会場へ移動の途中、ソファにいる女性を見て思わず気付かぬ振りをして通り過ぎました。サングラスを掛けておられたのですが、それが青森から参加の岩谷さんとの初対面というより会釈もせず通り過ぎた私の無礼。詫びねばと心が痛み、お名前も知らず、明日の早朝祈祷の前にどうぞ会えますように…との思いが叶い非礼を詫びました。嬉しいことに早朝祈祷後の朝食で、食堂の一番奥の隅でいた我々二人の席に来られ、岩谷さんが真正面へ着席されたのです。 今度は心が震えました嬉しくて。同席、相席です。サングラスを外されてお話をなさる彼女、神様を信じ神様に愛され守られているお人だと思いました。それにしても心の美しい人だなぁと思いました。 自分の顔に濃硫酸をかけた人を赦す(耳まで熔けて・・)ご両親の嘆きもさぞや、ご本人の青春は、人生は、私より一つ年上とお聞きして同世代ぐっと親近感を得ました。 文語文の聖句が何箇所もお話の中で、すらすらと出てくる。頭いぃなぁ~、ごっつい信仰心。高嶺の花。お手紙出したいけど敷居高く感じて~。 九月にあった徳島での祈の友の集会に、夫と共にバスに乗れば真正面に高知の片岡さん。ご高齢(私が言うのも?)お一人では初旅のご來徳、これも吃驚でした。 この一年の内、数えてみよ主の恵みは一杯ありますが、もう一つだけ、お願い…強く神様感じた事を書かせて下さい。 つい先日の夕暮れ時、夫を訪ねての帰途、バスに乗った途端、動き出した車の前方から大きな声、車中には乗客二、三人。運転手が私に何やら言っている様で「あっ整理券の事か~」と今抜き取ったばかりの整理券をバックミラーに写る運転手に高く掲げて二、三度振って見せました。違うんです。「主人が向うの窓辺で手を振っているのに(私が)応えず乗った…。」「これから左側の一番前の席へ座るように~。」と忠告と促がしの言葉でした。礼を言うと「今まで何回もあったンでヨ~」との事。エッ何と言うこと!知らなかった! 神様だ!運転手を通して神様がお知らせ下さったのだ。振り返らぬ私に、手を振り続ける夫を哀れんで神様がお知らせ下さったのだ。行けば一言「有難う、来てくれて嬉しい~」それだけ。私は今年の五月頃から窓辺に姿なく時間の認識も失われたか~と寂しく諦めていました。バス停迄の道々振り返って見るも姿無く、どんどん夫が遠くなっていく思いでした。神様!以後バスに乗る直前必ず振り返ります。見返り美人(?)今年いろいろ心を打つ出会い、お恵み、お祈り感謝。天の神様いろいろ有難うございました。 徳島市 |
原発、震災におもう ○人の子の建てたる神殿「原発」の幕裂けにけり 主十字架に垂る ・原発こそは、国民のエネルギーの基盤だとあがめてきたが、そのような空しいものが壊れ、そこから十字架にかかられた主が現れる。そこから、真の救いは、目に見える巨大な技術の産物などでなく、十字架のキリストなりと私たちに語りかけている。原発事故に関して明らかになったさまざまの人間の罪をになうためにもキリストは来られた。 ○「義を慕ふ国民(たみ)とし生まれよ」 御救いを有たざる試みひとつだになし ・大いなる試練、困難も、内には魂の救いへと導こうとされる主の御計画が背後にはある。あらゆる試み、試練はすべて救いを内に有っている。 ○雲の中主置き給ふとや虹の橋 架かりたる際 死者上り降りし ・震災で逝った人々、神は彼らを見えざる虹のかけはしを通して天へと導かれたであろう。そしてそこからまた残されたものたちを励ますために、悲しむ人たちの心に降り立ってくる。 ○「星空が美しかった」と少年の がれきの闇に生き抜きし命 ・一面のがれきと化した一帯、その闇と混沌のなかに星は輝く。 この世のいかなる闇にあっても神の光は輝き続けている。私たちのからだが老化し病におかされてもなお、そこに神の愛は注がれている。 (東京都) |
今年を振り返って 五月に父が亡くなり、七月は実家の壁や畳をリフォーム、八月末には夫と実家へ引っ越しと 今年の夏は慌ただしく過ぎていきました。 同居をはじめると気心しれた近い関係の母と、どうしても気持ちがぶつかってしまいます。そんな時に集会で「忠実な僕と悪い僕」の箇所(マタイ二四・45~51)を学びました。 忠実な僕は正しい善いものを伝えて、悪い僕は悪いものを周りに伝えている。自分にトゲのある言葉しか出て来ないとき、そこには悪いものしか存在しないように思います。わたしたちキリスト者はイエスキリストを信じた時から、正しく善きものをイエスさまからもらっています。そしてそれを周りに伝えることが出来ると学びました。 父が亡くなり、母の心に平安を与えるどころか衝突してしまいます。母に与える愛も母を支える力もいろんなことを乗り越える力も私にはなく、不安な気持ちが積もった時に衝突するのかもしれません。「聖書から何を学んでいるのか!」と思います。でもそれは〝自分〟を中心に考えて「自分がしっかりして母を支えていかなければいけない」という思いが強すぎたのだと思います。そんな時は讃美歌の歌詞に触れると〝神さま〟の愛を知らされ、自分は弱いままでも最善の道を備えてくださる方がいると思うことが出来ます。 大黒柱だった父に頼り切っていましたが、信仰により神さまやイエスさまから力をいただいて、父との地上の別れを乗り越えることが出来ました。これからもいついかなる時も神さまが足りない部分を補ってくださることを信じて、神さまからの愛・神さまからのいやし・神さまからの力強い支えを、母に手渡ししていきたいと思います。御心に沿った忠実な僕となって歩んで行きたいです。 引っ越しによってブログのアドレスも変わってしまいました。 http://laughingly-beatitude.cocolog-pikara.com/blog/ laughingly(笑いながら)beatitude(宗教的な幸福) 何故か、この二つの単語が気に入って、以前のアドレスのハイフンの前後をひっくり返しただけという単純な変え方となりました。ブログのアドレスを考えていた時に、辞書で the Beatitudes が、キリストが山上の垂訓の中で説いた幸福〈《聖書》マタイ五・3~11〉を意味すると知って、この単語を使おうと決めました。 時間の作り方が下手で今年はブログの更新があまり出来ませんでしたが、これからも学びを通して感じたこと(感話)などを交えて書こうと思います。ブログを書く作業により、学んだ御言葉を復習することが出来て感謝です。 東日本大震災の被災者の方々のために、主からの慰めと励ましをお祈りします。シャローム (主婦) |
S.Y 礼拝の学びから特に心に残ったこと。 「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」 (ローマ十・21) 人間が神様に対して不従順だから、すぐに滅ぼしてしまうのではなく、絶えず手を差し伸べて下さっている。神様はすべての人を救おうと計画されている。神様の見えないみ手は今も、世界に及んでいる。 「天は神の栄光を物語り、大空はみ手の業を示す」 (詩篇一九・1) 天のさまざまな被造物、星や太陽、月、雲・・・など、また野の花などいろいろの植物、自然を通して、常に私達にみ手を伸べて下さっている。マイナスと思われる、さまざまな災害、病気や苦しみを通してもみ手が伸べられている。 不従順で弱く罪を犯す者をも、一日中愛のみ手を差し伸べて下さっている。いつもそのことを信じて、み言葉にとどまり、差し伸べられたみ手に寄りすがり、歩みたいと願います。 |
生活の中で (一)私の刺 私は、よく手紙などを書きます。そして、その都度めいってしまいます。誤字や脱字等々、書いた物が自分の手を離れてから、そのことに気付くからです。年齢的なこともあるのでしょうが、思い込みが多くなって「注意していたはずなのに」と悔やまれるのです。 しかし、その時に思い返されるのは、主キリスト様(神)の憐れみと恵みです。 「・・・私が高慢にならないようにと、わたしの肉に一つの刺が与えられた、悪魔の使であって、これは私が高慢にならないようにと、わたしをうつものである」二コリント書十二・七(塚本虎二訳) パウロの刺は病気ですが、誤字・脱字を常にする私の場合は、これが欠点であり、私の刺と思っています。 キリスト様は、この刺を恵みとして下さった。私の心(魂)の内に、高ぶる思いの起きないようにと、ご配慮なさってのことと思わされます。高ぶる心に平安はありません。 平和の主、キリスト様が常に共にいてくださるように、日々願い歩ませていただきたいと祈ります。 (二) イエスがキリスト この夏友人が、とても楽しく生活にすぐ役立つ信仰の書、小冊子を送ってくれました。「藤尾正人インターネット聖書ばなし」№8・57~59ページ(白鷺えくれ舎)(2008年発行)からの抜粋です。 イエス様は、ユダヤ人でしたから、キリスト教はユダヤ教から生まれました。そのユダヤ教、キリスト教から、イスラム教が生まれました。この三つの宗教を並べると、大きな違いは「イエスがキリストだ」と信じるか、否定するかの一点です。 ユダヤ教、イスラム教も、イエスを預言者だ、宗教的天才だと認めていますが、あくまで人間だ、神の子、神ではないと笑います。キリスト教だけが、あの大工の子、イエスが神の子であり、三位一体の神だと主張するのです。ですからクリスチャンは、神様だけを信じているのではありません。イエス様をキリスト、救い主と信じているのです。 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義(無罪)とされるために復活させられたのです」 ロマ書4・25 科学者の神が、下から考えた末、たどりついた神だったのに反し、聖書の神は、上から声をかけ、恵みがあふれ出す神様です。 そうです神様なら、科学者でも、ユダヤ教従でもイスラム教徒でも信じている人がいます。 いや普通の日本人だってぼんやり信じています。 大切なのは、イエスさまをキリスト・救い主と信じることです。信仰だけではだめなのです。神様を信じるだけではだめなのです。イエスをキリスト、救い主と信じるのです。そのとき、喜びと、平安が、わたしたちを包むのです。イエス様がわかることが、キリスト信仰のかなめなのです。聖書知識や神学は古びても、イエス・キリストは常に新鮮。 |
S.Y 朝の静まりのひと時、主が、不思議に私の心の思いに応えてくださることが何度もありました。それらの中で今年は次の聖句が特に心に残っています。 「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」(創世記七・16) 「さあ、わが民よ、部屋に入れ。 戸を堅く閉ざせ。 しばらくの間、隠れよ 激しい憤りが過ぎ去るまで。」(イザヤ二六・20) これは、スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」の六月五日朝の個所です。『ノアは、神の愛の手により、この世のすべてのものから離されて閉じ込められた。』これを読んで、神様を心から信頼して、すべてを委ねるということは、思い煩いのすべてから離されて、神様の部屋に入れられ、守られることだと知らされました。その頃の私は、家族からの一言に傷つき、どうしてもそこから自分を引き上げられず停滞しているような状態で、そんな自分を責めてみたり、相手を恨んでみたりと情けない毎日でした。そんな時に与えられたこのみ言葉は、神様からの深い慰めとなり、その後も、心が引き戻されそうになる時にはこのみ言葉を思い出し、神様の部屋に身を寄せます。そして、「主は私の慰め主です。」と告白します。 大阪府 高槻聖書キリスト集会 |
Z.M 高札撤去の理由 明治政府は元年(一八六八)三月、徳川幕府と変わらず次の高札を全国に掲げさせた。 切支丹邪宗門ノ儀ハ是迄ノ通堅ク御禁制也。 若シ不審ナルモノ有之バ其筋ノ役所ヘ申出ヅベシ。御ホウビ下サルベキ事。 ところが、高札と信徒迫害が諸外国から非難の的になると六年二月、政府は「従来高札面ノ儀ハ一般熟知ノ事ニ付向後取除キ可申事」との太政官布告をもって高札の撤去を命じた。しかし一般民衆に対する布告はなく、国民の多くは撤去の事実を知らなかった。 明治政府は、キリスト教禁止のままでは諸外国との関係は悪化するとの配慮から高札の撤去を命じたのであり、キリスト教が全面的に解禁されたわけではなく、信教の自由を認めたくない政府の本心に変わりはなかった。こうした状況下にあって、プロテスタント最初の回村伝道が関東地方から実施された。 回村伝道のはじまり 高札撤去布告から間もない明治六年十月九日から二八日にかけて、小川義綏、奥野昌綱の二人は千葉方面から伝道を開始し八王子に向かう途中府中の旧家、比留間七十郎家で多摩地区最初の説教を行なった。 小川義綏は府中出身であるが、郷里を懐しむ余裕もなかったと推察される。なぜなら、府中は現在でも地域社会に根強い影響をもつ武蔵国総社六所宮(明治四年に激化した排仏毀釈のすえ大国魂神社と改名)の所在地であるからである。 明治五(一八七二)年二月、日本人最初のプロテスタント教会である日本基督公会が横浜に設立され、義綏は長老に選ばれるも翌年一月に横浜を去ると長老を奥野昌綱が継いだ。 明治六年九月、横浜本会に対する東京支会の設立が認められ、十二月には横浜公会、東京公会と改称された。東京公会の長老には義綏が選ばれる。先に述べたように十月に小川義綏と奥野昌綱の二人が日本のプロテスタント最初の巡回伝道旅行を行ない、その途中府中に立ち寄ったのである。義綏四二歳、昌綱五〇歳であった。 府中における聖書講義と行政介入 横浜にて小川義綏はタムソン、奥野昌綱はヘボンの日本語教師として聖書の翻訳に参与、協力したことから、府中の比留間七十郎家における新約聖書講義は、「あたるべからざる気魄と情熱をもって」なされた。場所も大国魂神社の膝元である。 ところが、聴衆の中に大国魂神社の神官猿渡盛孝がまぎれ込んでいた。猿渡は集会の状況を見聞きして驚き、「説教ハ丁寧懇切ニシテ、人ヲシテ涙ヲ呑マシメ」るものがあり、このままでは「日ナラズシテ郷民彼ノ教ヘニ傾カン事必セリ」と受け止め、神道に取り大脅威との危機意識から翌々日、その旨建白書にしたためると神奈川県庁役人に郵送し対策を訴えた(当時北多摩地区は神奈川県の管轄下にあった)。 県庁からは区長に比留間七十郎から始末書を取れ、との指示があった。比留間は、集まった者僅かで涙を流す者もいなかった云々と事が大きくならないよう配慮した文書を提出した。だが奥野昌綱は日記に「三十人ばかりの聴衆が熱心に耳を傾けた」と記している。結局、比留間家に対する上からの介入はそれ以上厄介なことへ進展せずにすんだ。 小川義綏と比留間七十郎 比留間は以上の行政機関からの干渉次第を小川義綏に手紙で伝えた。これに対し義綏が比留間七十郎にあて書いた手紙が比留間家に保存されている。(手紙は候文)。 手紙は本文と追伸の四九行、本文ではこのたびの干渉は決して恐るるに足らないこと。毅然たる姿勢をとるようすすめ、「そのような姿勢を保ち得る根拠となる一貫した道理を貫く考え方を持つように」と励ましている。さらに追伸で「真理の大道は人間がその智によって選びとるもので、権威や富によってはなしえない」との意を熱誠込めて述べている。 小川義綏は先の手紙で、西洋諸国には解禁を告げていながら国内で禁止しているのはおかしなことだ。禁止するなら聴衆でなく伝道することを禁止すべきだ、と政府の矛盾をついている。 新政府の列強諸国に対する態度は及び腰であった。一方、近代天皇制国家の確立を急いだ政府の立場は、「神の前には万人平等」などを説くキリスト教の精神とは根本的に相容れないものである。「キリスト教迫害の担い手には神官、僧侶、国家権力があるが、神社の場合、国家権力が介入してくるところに特色」があった。府中における権力側の介入は典型的な事例といえる。 ※参考資料 府中市史近代編資料集(九)他 府中市北山町 |
S.S 私は長野県の木曾無教会のキリスト者の両親に育てられました。父は義次と言い、東京柏木で内村鑑三の教えを受けましたが、肺結核のため、三一歳で亡くなりました。 父の信仰の先輩松島縫治郎氏の長男松島島省三博士は、東京大学農学実科を卒業し、稲の収量の研究で成果を上げた方ですが、生前の父を尊敬し、また私を愛し、生長後は御自分の出版物をすべて贈り、私を励ましてくださいました。博士はアジアやアフリカの諸国に稲作の指導を重ね、とくに晩年には、「熱帯は酸性土壌が固く、農業はしにくいが、稲は酸性土壌に強く、また熱帯の強い日射は水稲多収穫の適地で、乳と蜜との流れる国だ」と唱え、最後にアフリカ、ケェアで、水稲二期作、年間二四トンの成果を上げました。 私は一九九七年三月に博士の逝去を見送り、五月にタイ国に渡り、野菜の小実験を始め、その傍ら、翌年一月からチェンマイ市郊外の古い水田地帯で有機稲作の実験をチェンマイ大学卒業のタワン氏と共に始めました。最初は早生品種で三期作をしましたが、そのうちに鳥獣害のため、周囲の水田に合わせ二期作に変え、現在までに合計三十五回稲作をしました。 二〇〇四年には、後援団体レインボウ・ゆうきの会の招待で、千葉県佐原市のイトミミズ農業の指導者岩渾信夫氏の水田で、初めてイトミミズを観察し、また私の義弟大崎氏から東北大学栗原康教授の研究「イトミミズと雑草」一九八三のコピーを頂きました。また、同年11月には、レインボウ・ファームの乾季水田45cmの底で、タフン氏によりイトミミズが発見されました。 栽培した稲の結果は、(1)病害は不思議なほど全然発生しません。栗原氏の論文(一九八三)に、イトミミズが田植え後一ケ月の有機稲作の追肥期に、大量のリン酸を稲に与え、病気を自動的に予防する図が発見されました。(2)虫害は、第一に熱帯昆虫の強い生物多様性が働いて虫害を抑制し、被害は例年微少でした。(3)雑草は、イトミミズと稲の3者が長年水田に暮らし、イトミミズに攻められる立場にあるはずで、栗原論文によると、ミミズは雑草の幼葉を、稲が小さなうちは稲の葉とともに食べ、3cm以下の小さな雑草を体当たりで殺す。より大きな雑草は、土砂を下から大から小に積み上げ、覆って殺す等の方法が見られた。さらに、雑草の種子をイトミミズが作る泥で覆い、発芽を制止する事実も報告され、これらの方法は総て物理的であった。有機稲作7年めに、稲の稔実期に雑草が5~7㎡の面積にわたって枯れあがり、十一年目の今年は主要な水田雑草はほとんど死滅した。これらの実験の米の収量は今のところ籾粒で、ha当り3.7t程度ですが、農民には4~5tの収穫者もあり、今後私は、稲増産の可能性を実験します。 イトミミズの稲作は紀元前に中国越国で始まったと言われ、日本人は二〇〇〇年来水稲を栽培し、米を主食として生活してきました。この稲作を日本古来のイトミミズを利用して、農薬や化学肥料に頼らず、稲の有機栽培が出来ることは、日本人として精神的にまた環境的に有意義なことです。現在日本に約二〇〇万haの水田があり、イトミミズが生きられるはずで、これを利用してまず有機稲を生産して国民の食糧を確保し、余りの穀粒で畜産を実行すれば、日本は畜産国にもなれるでしょう。 また、イトミミズは世界各地に移植できるはずなので、松島博士が主張したように、熱帯各地に水田を開き、水田を米生産のシステムにして、毎年二期作や三期作の有機稲作を連続したらどうでしょう。おそらく世界の食糧問題は解決し、また今後増加する畜産の飼料も供給され、さらに熱帯諸国の貧困、テロや海賊等の諸問題も解決するでしょう。 川崎市 |
S.M 「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせわたしの救いを彼に見せよう。」(詩篇九一・15~16) この詩を通して神様の守りは強固で永遠に変らないことを学びました。以前に詩篇四六編を学んだ時にも同じように私達が神の名を呼び求める限り、どんな中からでも救い出して下さり、その力は永遠に今も続いていることを教えて頂いていました。 三月十一日の震災の日からずっと四六編を繰り返し読んでは揺れ動く心を鎮め、力を頂いていました。最近また九一編を学んで、この二つの詩が同じ意図を持って書かれていることを教えて頂きました。思いがけない苦難に出会った時、厳しい現実に直面した時、逃れる道を神様は供えて下さっていることを信じて歩んで行く希望が私達には与えられています。どんな情況に追い込まれても神様の救いを求めて、その翼の下に身を寄せて、いつも変らない主に繋がって歩んで行きたいと思わされています。今 突然の不幸に見舞われて居る方も、その出来事を通して神様の愛と力を深く知らされ、誰からも壊されることのない主の平和がありますように・・・・。 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦、苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも。」 (詩篇四六・2~3) 徳島市 |
S.K 「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」このように福音書には記されています。しかしながら、いくら祈っても聞かれない場合があります。 私は二十代後半から、睡眠薬代わりに寝酒をたしなむようになっていました。それが毎晩となり習慣化していくと、やがて酒量も増え、これはいかん、と思うようになったのは三十半ばを過ぎた頃でした。起きれば二日酔いで気持が悪く体も重く、もう今後酒は飲まないと決意しても、寝る段になると寝付けず、一杯だけと飲み始めればもう抑えが利かず、翌日はまた二目酔いで、己の意志の弱さに自己嫌悪に陥る毎日でした。 それがきっぱりと断ち切れたのは、私の四十代初めに父が亡くなり、父の属していた無教会のキリスト教に接したのがきっかけでした。私白身はキリスト教に関心はありましたが、父への反抗心から無教会には属していませんでした。そして、無教会キリスト教に接して初めて、キリスト教の何たるかがわかり、聖書の勉強を始めると面白いことこの上なく、それまでぼんやりとしかわからなかったことがはっきりと見えてきて、喜びに浸っていると、いつしか酒を飲まずに眠れるようになっていたのです。 しかしそれから一年半が経った頃でした。親友と夕食を取った際に、友人がワインを頼んだので、私もふとワインを一杯相伴したい気持ちになりました。そのふとした気持ちが湧いたのは、まさしくサタンが私につけいった瞬間だったのです。一杯が二杯となり、三杯となっていき、その夜を境に、私の酒飲みの習慣は再開してしまいました。 アルコール依存症の人は、何年間と飲酒を絶っていても、たった一杯の酒でもとに戻ってしまうと言いますが、まさしくその状態でした。 私はまた酒を飲まないと眠れなくなってしまいました。しかも飲んでも楽しめず、飲みたくないのに飲まずにいられない、心はノーと言っているのに体が欲してくるのです。意志を制御できない弱い駄目な自分にほとほと嫌気がさしてきます。 飲酒問題をかかえている人に、酒をきっぱりとやめろとは言わない、酒の量を少しずつ減らしていったらどうだ、とよくアドバイスしますが、それができるくらいの強い意志を持っているなら、アルコールに支配されるような生活は送りません。 飲みたくないのに飲まずにいられない、という情けないみじめさの中で、のたうち回りながら、目が覚めたら、今日こそは飲まないと決意し、今夜こそは飲まないですみますようにと祈り、夜は酔いながら、どうか酒がやめられますように、酒をやめさせてくださいと祈りました。 しかし、一年、五年、十年と経っても、祈りは聞かれませんでした。 聞かれない祈りについてパウロは言っています。「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくがさるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 この苦しみは、私が思い上がらないように、サタンから送られたとげ、なのか? パウロは三度祈った後に、神から言葉を得ましたが、私は得ませんから、しつこく祈り続けました。苦しかったし、祈り続けずにいられませんでした。 折りが聞かれないままに十五年が経った時です。あるクリスチャンの方に彼女の祖父についての話しを伺いに行きました。その日、私はいつものように二日酔い状態でした。 しかし、それを絶対悟られないように振る舞っていました。話が進んでいき、やがてある牧師の思い出話しになったときでした。「あの牧師先生はお酒を飲んでいたんですよね]と、彼女は咎める口調で言いました。私はどきりとしました。私が責められているように感じました。私は心の中でその牧師を弁護しました。私自身への弁解でもありました。 好きで飲んでいるわけじゃないんです。飲まずにいられないんです。飲まない人にはきっとわからないでしょうね。特に牧師なんて、職業柄ストレスがたまるし、それを誰にも打ち明けられずに一人で抱え込んでしまうから、意外とアルコール依存症の人が多いんですよ。そう心中でつぶやきながらも、やはりクリスチャンに酒はご法度なんだ、とその言葉が胸に深く突き刺さりました。 それから一ケ月足らずのある夜のことでした。今夜は酒なしで寝られそうだと感じ、飲まずに枕に頭を乗せたらいつしか眠りに入っていました。翌日も、翌々日もそうでした。意外であり、驚きでした。 酒を飲まずに寝ると、翌朝はなんと体の軽いことか! 長年忘れていた喜びでした。神様、サンキュウ、ハレルヤ! と、感謝の讃美が自然と湧いてきます。 福音書に、十二年間長血で苦しめられ、治療に全財産を使い果たし、それでも治らなかった女性は、イエスの服に触れれば癒していただけると思ってイエスの後ろからそっと服に触れると、たちまち病気が癒されたという話があります。すがすがしい朝を迎えられるようになった私は、そこを読んだとき、長年彼女につきまとっていた体の不快感が消え去った瞬間の驚きと喜びと感動とがわかる気がしました。 今でも眠りの来ない夜が多々あります。それでも今は酒に頼って眠ろうとはしません。寝不足になっても、大丈夫、どうにかなるさ、と神様により頼んでいます。 あの時胸に突き刺さったあの言葉は、神様が私に賜った言葉でした。神様は時を見ていたのです。簡単に私の祈りを聞いたなら、高慢な私はさらに付け上がるだろう、私が謙虚になるようにと、どん底でのたうち回らせて様子を見ていたのでした。 この体験で、諦めずに祈り続けることの大切さを教えられると同時に、神様はその人にとって一番よい時を見はからって事を起こすのだと、確信するようになりました。 千葉県 |
S.H 「三浦 綾子 一〇〇の遺言から」(込堂 一博 著) (この本は各項目ごとに三浦 綾子の著書の中から珠玉の言葉の引用があり次に著者のメッセージが添えられていて、最後に三浦 綾子の言葉の背景となっているみ言葉が書かれている構成でできています。) 平和を求める心(99) 「からかわないで。愛国心ってほんとにどんなことかしらって真面目に考えてるのよ。少しぐらい貧しくてもね、これが日本人よ、これが日本の国よって、子供たちに言える国になってほしいの。どこの国をも侵略しない、人の命を奪わない、そんな国になってほしいの。可笑しいかしら。」((青い棘) あの太平洋戦争が終わって六〇数年、日本は戦争を経験しないで今日までくることができました。これは非常に大きな恵みです。 しかし、戦争がなかったとはいえ、米軍基地を提供している日本は朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争などで間接的に戦争に関与してきたとも言えます。命が失われて行くのは武器を持つ戦争だけではなく交通事故で命を落とす人々も数多くいます。また、毎年の自殺者は三万人を超える多さで、一日平均一〇〇名若が自ら命を絶っています。更には全国各地で毎日のように殺人事件が起こっています。親が子を殺し、子が親を殺し、夫が妻を、妻が夫を殺す事件も珍しくありません。ゲーム感覚で人を殺す怖さ、そして、その殺人事件をニュースで流すテレビ局が同じテレビで殺人をテーマとしたサスペンス番組を飽きもしないで放送している矛盾、人間の命と言うものが生ける神に創造された尊いものであること、そして、その命を尊ぶところから平和が生まれることを真剣に再認識しなければ人類は殺人や戦争を止めないであろうと思います。 「人はたとい全世界を手に入れても真の命を損じたら何の得がありましょう。」 マタイ福音書、一六章26節。 (治療師) |
「命のパン」の奇跡 S.K 福音書にはイエス・キリストがガリラヤ地方で群衆や様々な階層の人達に語りかけ、伝道している感動的な場面が多くあります。特に五千人に食べ物を与える次の情景は当時のユダヤの人々に大変共感できる映像的なシーンです。 イエスはガリラヤ湖周辺の村々で神の国について語り人々を癒した後、船で湖を渡りティベリアスの近くで弟子と共に人里離れた所へ行かれたが、大勢の群衆がイエスと弟子たちの後を追ってきた。この情景はイエスが五千人に食べ物を与える場面です。ヨハネ伝六章一節から記されているがマタイ、マルコ、ルカによる福音書にもほぼ同様な記事が載っています。 ヨハネによる福音書によればイエスは弟子ヒィリポに、人里離れた所で群衆に食べさせるパンをどこで買えばよいだろうかと言われた。彼は「二百デナリオン分のパンを買ってきても足りないでしょう」と言った。又他の弟子アンデレはイエスに「ここにパン五つと魚二匹とを持った少年がいますが、こんなに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」と彼も途方にくれた。 そこでイエスは大勢の群衆を見て深く憐れみ人々を座らせた。賛美の祈りを捧げ少年のパンを取り、裂いて五千人の人々に分け与えられた。二匹の魚も同じようにした。人々は欲しいだけ食べて満腹した。残ったパン屑は十二の籠に一杯になったという福音書の五つのパンの話しは有名である。イエスが与えたパンは、食べてもすぐ飢えることのない命のパンであった。 モーセの時代、紀元前十三世紀頃出エジプト記によればエジプトから脱出したイスラエルの民が飢えて天に向かって不平を言った時も、主は天から〝マナ″を降らせ、人々は食べて満腹したと記されている。このような出来事は「私があなたたちの神、主であることをあなたたちが知るようになるためである」と記されている。新約の時代、ガリラヤ湖畔の群衆も同様であった。群衆は彼等の村々でイエスの癒しの奇跡を見たから、人里離れた所までついて来た。彼等は何かいい事があるだろうと思ったかも知れない。そこで人々はイエスを見上げその声を耳にした。群衆のざわめきは止み、彼の言葉が辺りを包んだ。人々は感動で目が潤み、心は充足感と感謝の念で満たされた。不満や不平を抱く者は一人もいなかった。確かに人々はそこでパンの奇跡を目撃し、食べて満たされた。そのパンは〝命のパン″であった。 その日の翌日も霊的なパンを食べた人々はティベリアスや近郊の村々からイエスを探し求めてカファルナウムまでやってきた。そこでイエスは人々に「朽ちる食べ物でなく、いつまでも無くならない永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」そして更に「わたしが〝命のパン″である。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」永遠に生きると教えられた。 およそ二千年前のこの出来事はローマ帝国の支配下にあったヘロデ王朝の圧政による不当な重税、貧困、差別に永年苦しんできたユダヤ人にとってイエスの活動は衝撃的な事件であった。イエスの慈愛に満ちた眼差しや平和で穏やかな人柄、深い愛に満ちた言葉に彼等が癒された事は明らかです。この情景は現代でも壮大なパノラマ映像を見ているようで、生き生きとした場面が目に映ります。イエスのみ言葉を聞くためならば、私自身もイエスの後を追って来た五千人の群衆の一人になりたいと思います。 現代の私たちはキリストから命のパンを得るために聖書のみ言葉によって生かされている。しかし日本ではプロテスタントの伝道が始まって一五〇年以上経過したがキリスト者はわずか1%にも満たない。明治以降、知識者階級がキリスト教を西洋の文化や思想として受容したが、その後一般人の間には宗教として日本社会に広く普及しなかった。日本のプロテスタント教会の大半は内部的な教会形成や神学的な教理に固執し、宗教団体として幅広く地域社会と融合しなかった。そのため一般社会と教会には隔たりがあり一般人には馴染めなかった。そのせいか日本人には無神論者が多く、人間や物、自然を神として崇めるご利益宗教が幅を利かせている。そのほとんどは家内の安全や健康祈願、商売繁盛や入学、子供の成長、長寿等の祈願が大半である。それらはどれも一時的で消え去る祈願であり、最終的な人間の救済につながらない。 しかし人間の究極的なご利益宗教がキリスト教であるにも拘らず99%の日本人はイエスを救世主として受け入れない。私たちの最も大切な人生の目標は自分や家族、社会のために永遠の命に至る霊的なパンを求めて働くことである。イエスはそのような当時の人々を絶望の淵から解放して神の国の到来を熱く説いた真の社会改革者であった。彼は人間を生き返らせる〝命のパン″を与えた歴史上実在した唯一の人物であった。 高知市 |
O.Y 最近お誘いを頂き、ある絵画展に行く機会がありました。絵の作者はクリスチャンの女性で静かな会場には優しいタッチで描かれた日本画が展示されていました。 その中に、一際心が打たれた絵がありました。 その絵には「静かな喜び」と云う題が付いており、アダムとイブが原野を歩いているところが描かれていました。イブが先に歩き、後からアダムが彼女を気遣う様に歩いています。二人の歩く傍らには穂草が実をつけています。それを見た時、胸が熱くなりました。 神様の云い付けを守れないで罪を犯したアダムとイブなのに、その二人が歩む道にも神様は二人の心を慰め、一日の糧となる実をつける、美しい草木を用意して下さっているのだと思ったからです。 創世記には色々な間違いを犯す弱い人間、それなのに尚も神様が愛を注いで下さり、守り導いて下さる様子が繰り返し書かれておりました。 アダムやイブと同じ罪を犯す私に対しても、神様はいつも変わらぬ愛と恩恵を注いで見守って下さっている事を思い、感謝を新たに致しました。 |
被災して思ったこと T.M 被災して無くすもの。形の見える家や車、それに財産。形は無いのに実態として私達を支えていたものまでも…。家族の絆や一人の重さと存在、収入と仕事への不安。その不安は、大きさ波の高さを変えながら時間と共に繰り返し襲ってくる。そのような感覚は、被災した人達だけのものなのでしょうか…。 東日本大震災に伴う津波などのNHK放送記録番組の中で、被災し、奇跡的にとしか思えないような断末魔の状況を生き抜いて来た一人一人の表情を見た時、その顔や眼差しがとても穏やかで、邪念の無いように見え、皆さん共通してすっきりした表情でいたことが不思議に思えた。 それは、日常仕事や普通に接する多くの人々の中では、なかなか出会えない素敵な表情を持った生存者の顔だった。なにが、あのような顔を作ったのだろう。生きていることへの感謝なのでしょうか。私には映像の中に出て来た皆さんが、まるで悟りを開いた人の様にすら見えたのでした。生きていることへの感謝は、輝く顔を作る要因なのでしょうか。 今回の震災以前には、数百年以上の間を置いて起こった歴史に残る大津波記録に関する報告事例は専門家の間にさえほとんど無かったのも不思議ですね。今になって千年以上もの長い間起こらなかった大津波が再びやってきたことが発表されるようになってきています。 大津波の発生から半年が過ぎ、私たちの気持ちも被災直後段階から見ればずいぶんと落ち着いてきました。家の再建の早かった地区には少し前まで夜になれば真っ暗だった住宅地に明かりが灯り、人の姿と生活が戻ってきました。 被災前、だれもが疑問にさえしなかった「破壊」はそれまで当たり前だった町の姿、家、大型構造物をことごとく巻き込み厳しい姿へと変えていったことは様々な映像で紹介されているままです。 被災後の映像と現実のギャップは、匂いと風でしょうか。それに加え、見慣れた町の姿からすっかり変わった居住空間の姿は、一人一人に「当たり前」だった生活場所の定義をすっかり覆してしまいました。いま残っている被災後の景色と現実は、これまで続けてきた生活や生業とは大きくかけ離れた「場」となった現実なのです。 被災し地震と津波に直面した私たちは、それぞれに、このギャップを受け止める行動の表れ方が異なり、人間の個性がよく表れたように思えます。ある人は、被災前の思い出に縛られそこから脱出が難しく過去を引きずるし、逆に、生きていたことだけで「良し! 良かった」といった気持ちの整理が付けられる人もいます。 全体的にどれほどの人が前を向き、再建や復旧/復興の姿を探っているか、過去に縛られている人の比率と比べどうなのか、それはわかりません。窮地からの脱出に適す性向の人からは、なかなか力強く頼もしい魅力が出ています。その人達に共通しているのは、生きていたことへの感謝と、「地域と皆の助けを少しでもやっていこう」といった、外に広がる価値観を持っていることのように思えます。 地表に起こる大きな地殻変動は、今に至る何億年といった長い地球史を振り返ると、かなり大規模で変動が起こって来た事実は明らかですし、これはそれほど考えられない事ではありません。私たちの生活している地球表面から、ごく少し下には、熱いドロドロのマグマが対流し、その上に浮かぶ層のような地表が私たちの認識にある、今生活しているような地球なのです。 出張に向かう列車の中で、大規模な人智を遥かに超え、動きながら形作られている地球の歴史、自らの存在の面白さ、仕事のことなど様々に思いを巡らせている中、糸の混乱が少しほぐれそうな予感を感じたのです。 それは、今度の震災から学んだことと、高校時代に学んだことがリンクし始めたことがきっかけだったと言えるでしょう。解決の糸口、それが次第にハッキリと高校時代の恩師、鈴木弼美先生の口癖「自分の愚かを知る」だったことに気付かされました。 当たり前のように認識していた現実は、実はそれほど永続性、普遍性のあるものでなかったことが明確に示されたのがこの震災でした。 自分の枠を超えることは出来ないのに、考えの中心や基本の「私」をはみ出し、まるで正義のように持論(私論)を展開している。私にもそうした所はあったのだ。自分を自己流の縛り・プライドの中から解き放っている訳でない。そうして社会や世の中のシステムを判断し、自分流を貫こうとしていることを、真っすぐで良い生き方と勘違いしていることすらあったのです、私には。そして多分多くの人たちもみんなそうでしょうね。 旧約聖書物語の中で、出エジプトからさまよえるユダヤの民四十年の歴史がとても興味深く面白く感じてきました。時代も人種も違いますが、旧約聖書物語の中には、間違いなく私と良く似た「人」が色々な場面に出てくるように思えてならないからです。 ユダヤ民族捕囚に至る、預言者物語りの中で様々な場面な形で、繰り返しでてきているパターン化したテーマは、どれほど神様から離れやすい私たちの性状と、それをごまかそうとする私たちの性状とも言えるでしょう。 その沢山の引用箇所は「自分の愚かを知る」ことの出来ない人の限界や、自分から神様に誠心誠意繋がることの難しさに繋がっていきます。旧約聖書の中に投影された私たちは、神様に従おうとの思いを心の中に持ちながら、自分へのプライド・縛りの中から出る事が出来無かったのですね。 加えて、不幸なのは旧約の頃の私たちには、神様がどれだけ神の選ぶ民を愛していたか、どんなときも神様に任せ切れば良いのだといったような、新約の時代では皆が知っている、歴史書や預言書の約束を知る機会があまり無かったことにも理由にはあるのでしょう。しかし旧約の時代私たちは、結局自分の判断に従った。そして、旧約の本質を勝手に読み替えてしまったのでした。 たいして科学や技術を理解できている訳で無いのですが、サイエンスを生業とする私にとって、サイエンスと真摯に向き合い、自然界の中からの新たな恵みを掘り起こす作業、科学技術の壁と真正面から取り組む上で、極めて大切な基本的訓練は明快です。 それは、時には自分自身すら蹴っ飛ばす程の自己への疑問や、否定を受け入れることの必要性です。これはサイエンスを生業とする、その種の人種にとって、当たり前のことなのです。 しかし、多くの彼ら、彼女らも、研究から外れると、目の前に見える「美味しそうな人参」に翻弄され、本来の科学者から、餌の好きな動物になったりしているのも現実なのです。日頃の課題解明に向け、たゆまない努力と演繹性の組み方から離れ、アレレ…? な、科学者のプライドは、人として誰もが持つ「縛り」の限界から自由に脱出し物事を考え、判断することが私たちには如何に難しいかを考える上で、良い例になるでしょう。 わたし達は、それほど一本気でもなければ、人の評価対象となる表の顔から、心の奥深くまですっかり同じではないということですね。わたし達の何処かに自分の思い―欲や、自分勝手な願い―をかなえるための行動は旧約聖書の中から私の気持ちの中にまでずっと続いているように思えます。 それは、祭りで人が神輿を担ぐことに似た、人の思いを叶えることを最上位にした「偶像礼拝」です。その間違いを人が犯しても起こっても何ら不思議で無い、たぶん動物としての人間の限界なのでしょう。いや正直私も、神様とイエス様、聖霊さまを信じるクリスチャンながら、自分の言い分を神様に受け入れてもらえることを願う、縛りの中の民なのだった、と気付くのです。「自分の愚かを知る」ことに気付かずに主張し、祈っていることもあるのだから。 私たちの中には、要するに、多分本当に賢い人など居ないのでしょう。いざとなれば自分の思いに縛られ、都合を最優先することが遺伝子の中に組み込まれているように思わずにはおられません。 命を失ってもどこも不思議で無い状況の中から、救われた事実は大きいのです。勿論、仕事や収入、これからの生活設計への不安は消える訳ではない。しかし、自分自身のプライドや競争意識と紙一重のある線を超え、脱出する事は殆ど不可能な程、愚かさと縛りはあります。これは、旧約の中であちこちに見ることの出来る、それぞれの「私」がすでに経験して来たことでもあるのに。 大学院時代にはまだ聖書を知らなかった二人とも大親友だった夫婦の奥さんが連れ合いを無くした時、飛び抜けた才女だった彼女の言葉は、「私は、神様のことが人生で一番大切だと思ってますよ」でした。これには、正直参りました。二世クリスチャンであることとの慣れ、私の少しばかりの聖書知識は、私の中で―『新しい愚かな縛り』となっているかもしれない―と。 生きて働こうとしている御霊の働き。神様の働きは、私たちの願いや主張より、待つことによって現れることなのかもしれない。旧約の中の私達がそうしたように、神様の働きを自分主導の思い込みの中で妨害し、神輿を担ぐ偶像礼拝の中心に神様の名前を付けて正当化し、ごまかしては断じてならないのです。 アブラハムは先行きの見えない中、一族を率いて進んだ。常に神様への全面的な信頼の中で、自然に神様への絶対的な信仰は生まれていきました。何一つ不自由の無い中で、豊かに歩んでいく途上、アブラハムのような信仰を持つことはとても難しいでしょう。もしイエス様が居なかったら、私は真っ黒なヘドロにまみれ闇の中に葬られていたように思えます。 さて、自分が輝いていること、実はそうありたいがそれは大きな問題ではないですね。一番の安心は、主なる神様が旧約時代から言われて続けて来た、イエス様を受け入れる者への、永遠の命の約束に守られていることなのです。様々な間違えを犯さないわけの無い私たちだと言うことの分かった今、私にもイエス様は信仰を与えて下さり、信じることを許して下さった。この福音こそは、命の根源なのです。 私の人生最大の恩師であられる鈴木弼美先生の口癖だった「自分の愚かを知る」ことの意味を、ようやく明確に分かる機会として与えてくれたことに大きな感謝です。 (宮城県東松島市) |
地が姿を変え、山々が揺らいでも 二〇一一年を振り返ってみると、地震・台風と、災害が多かったと思います。 特に、東日本大震災では、今までになかったような規模だったもので、巨大津波で、多くの犠牲者も出てしまいました。 おまけに、原発事故による放射能汚染の影響で、今も、先の見えない状況が続いています。 聖書においても、地震にまつわる箇所がありますが、特に、詩編の四六編の、二節から四節が思い出されます。一九九五年の、阪神・淡路大震災の後、福音放送でも朗読されたことがあります。 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。」 徳島でも、南海地震の心配もあるもので、毎回のように防災関連のニュースが報道されています。 東北の被災地の一日も早い復興を祈りたいものです。 |
希望 「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのでなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来をあたえ、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたは私に呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。」 (エレミヤ書二十九章11、12節) 今、この御言葉が心にあり、救われている。今年の野の花の文には何を書こうかと一年中考えをめぐらせていたのにもかかわらず、あまりにも思うこと、考えることが多くて文章にならない状態だ。 何事に対しても不安や煩いを完全に捨てて前進していけたらどんなにいいだろう。 「だから、明日のことまで思い悩むな。 明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。」 マタイによる福音書六章34節 このようにいけたらいいのにと、この御言葉が重荷にさえ感じるときもある。一方で、そうだ、すべては神様にお任せしなければ。そうできることを与えてくださっているのだ。「そうすればいいよ」と主が語りかけてくださっている、と救われる心持ちのときもある。 さまざまなことがある中で、私は今生かされているんだと感じる。感謝があふれる。自分が困っているとき、祈りをもっていたら、主は確かにお導きをくださった。 あれもこれもそうだったと今年もその不思議なお導きを思い返して感謝する。どんな状況の中でも主が生きていられること、希望が待っていることを固く信じていきたい。 (主婦) |
我が家で始めた讃美歌を歌う会も、二〇一二年の一月で五九回目を迎えます。毎月一度、第一木曜日の午前一〇時半~午後二時に開催しています。 午前中は、近藤明子さんのピアノ伴奏で讃美させていただき、午後からは私の手料理を食べていただき、おしゃべりに花が咲きます。手料理をご馳走させていただくということもあり、限られた方しか、お招きできていませんが、讃美歌・讃美歌21・リビングプレイズより、その場で歌いたいと思う曲を讃美させていただいています。 初めて讃美する曲や、歌詞に魅せられ讃美したいと思う曲を、この時ばかりは、神様を声高らかに讃美させていただけるので、私にとって最も贅沢な時間でもあります。 そして、ありがたいことに、偶然(必然?)にも、目の御不自由な旧牧師先生が、全盲伝道師でもあられる奥様とともに、来てくださっているので、讃美の後の祈りをしていただいています。 また、その奥様は、フィンランド人の宣教師から、直接、習われた様々なケーキを、毎月一種類ずつ焼いて持参して来られます。そのみごとなケーキの出来ばえに、皆、驚嘆しています。 私の手料理も、がんばって、できるだけ新しいメニューに挑戦し、楽しめるようにしていきたいと思っています。 また、九四歳の高齢であり、半身が御不自由(要介護3)で、お一人暮らしをされてる方も、車椅子のままタクシーに乗って来てくださっています。 その方は、若い時に、私の義母に本当にお世話になったと言われています。義母は、そのことをとても喜び、励みを受けているようです。 そういう意味では、昔の生き様が、年老いてきた今の御自分たちを互いに、支えあっておられるのだということを教えられます。私たち誰もが、義母たちのように年を重ね、老いを養っていくのです。義母たちに倣い、この今を、主に感謝し、主を讃美しつつ歩んでいきたいと願っています。 主が言われる。「私は生きている。すべての膝は私に対してかがみ、すべての舌は神に讃美を捧げるであろう。」 (ローマ人への手紙一四章11節) (中途失明者) |
み言葉に支えられて―震災の日々のなかで T.K 「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。」 (ヨブ三八・31) ヨブに最後に神が直接話しかけた内容とは、万物がいかに人間の力を超えたものであり、神の無限の英知によって創造されたのだと言うこと語りかけるものであったと「いのちの水・八月号」にもありました。 三月十一日、震災の夜、私は、主人も帰って来られないので、車の中で子供と友人の子供を大きな余震の続く中、寒さの中で守れるだろうか、と心細く思った時、バックに入れていた父の「祈の友」に出す原稿の御言葉を読み、励まされて夜明けの金星が見えるのを希望として待ちました。夜が明けると感謝しました。それからは、とにかく最低限生きることに一生懸命で日ごとの心労と集会の姉妹の安否にのみに気を配っていました。 祈りはするけれども、主の声を聞くこと「信仰は聞くことから始まり…」(ローマ十・17)に少ししか時間をとっていませんでした。今年の三月二十一日(夕ごとに)この日ここを読んで自分に直接語り掛けられたような衝撃をうけました。 「いつの間にか世を愛しかけていた精神、いつの間にか安逸を欲していた心に鉄槌が加えられて謙遜になり再び神に結びつけられます。」とある本にかかれていましたが、本当に、うまく言えませんが、そんな思いでした。 「わたしたちの祈りは不完全で、天まで届く賛美のセラフィムの調にも比する歌の中にも人間の不調和が混じっている。神の御腕を動かすような祈りもやはり傷つき打ちひしがれた祈りである。そして罪の無い偉大なる仲保者が執り成し、わたしたちの嘆願から罪を取り除かれるゆえに、神の御腕を動かすことができる。」(十月二十七日夕ごとに) 私たちの祈りは不十分でも、熱心に祈るとき、聖霊なる神様に助けられて本当の必要を神様にきかれているのですね。主イエス・キリストを与えてくださったことに感謝します。 九月に近くの北中山教会で本田路津子さんの震災コンサートがありました。その中で「わたしの子供たちへ」と言う歌の詩が心を打ちました。 「わたしの子供たちへ」 作詞・作曲 笠木 透 一、生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは 目を閉じてご覧なさい 山が見えるでしょう 近づいてご覧なさい 辛夷の花があるでしょう 二、 生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは 目を閉じてご覧なさい 野原が見えるでしょう 近づいてご覧なさい 竜胆の花があるでしょう 三、 生きている君たちが 生きて走り回る土を あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは 目を閉じてご覧なさい 山が見えるでしょう 近づいてご覧なさい 辛夷の花があるでしょう この詩が今強く心に訴えてきます。 十月二十五日のスカイプ集会でも、吉村先生が、科学的な真理だけでは、原爆のように、ただ一発で人間をたくさん滅ぼしてしまうものを作ってしまった。しかし、神の真理は違う。真理の霊が来ると(ヨハネ十六・13)聖霊が与えられると真理が分かる。わたしが道であり真理であり命である(ヨハネ十四・6)とあるように、真理はイエスご自身であり、全人類に必要なものが全てある。その真理に結びつこうとする人はイエスの声が聞こえてくる。 と、学ばせていただき、ずっと心に響いています。 今年の夏の聖書講習会、桝本華子先生の講義で、楳子先生が華子先生に「(イエス様が必ず背負ってくださるから)ちゃんと砕いてくださるから、大丈夫、大丈夫」とおっしゃったお話しを聞き、その言葉が私にも日々の励ましになっています。わたしたち一人ひとりが、あなたの愛によりちゃんと砕かれ、心が大きく広くされ、永遠の愛をさらに深く悟ることができますように。神様が示そうとされる真理をしっかりと見つめ続けることができますように。 ノアが恐れに満ち疲れきって飛べるだけ飛んだ鳩に、手を差し伸べ自分のところに入れたように、神を求める罪人である私たちをそのままで受け入れられ、「ただ帰れ」との神様の御言葉に従っていきたいです。 これからも、主にある交わりをよろしくお願いいたします。 仙台市 |
信じる者は救われる 「信じる者は救われる」という言葉は、町中で声高に叫ばれると、何かいやな感じを呼び起こされたものだが、しかし、聖書を読むときには、この言葉は本当であると思う。 信じられないままで読むときと、信じて読むときとでは、言葉の重み、発見、ありがたさが違う。そこには、人間の歩むべき道が示され、真理、永遠、慰めが隠されていて、この一冊を読み込めば、こんな私でも、天国に行けそうな気がするから不思議である。 (千葉県市川市) |
さえぎるものからの解放 徴税人ザアカイは、イエスさまを見たくていちじく桑の木に登りました。 「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。」(ルカ十九の3)のですが、さえぎるものは私の内にもたくさんあります。自分にこだわったり、人の思惑を気にしたりなど、いろいろなものにさえぎられてイエスさまが見えなくなってしまいます。 そのような私にもイエスさまは、「ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃってくださるのです。 お言葉を聴いて、ザアカイのように「喜んで」私の内にお迎えした時、私はさえぎるものから解き放され、上を仰ぐ者へと変えていただきます。ただお受けするだけの信仰で良いと言ってくださるイエスさま、感謝いたします。 「空の手を差し出して、聖霊を請い求めよ。そのことを一瞬も怠ってはならない。(w・リユテイ「小説教一日一章」より) 東京都調布市 |
T.M 今年はいのちについて、何度も神様に問いかけられる年だった。東日本大震災と津波の被災、そして福島第一原発の事故による被害を思う時、今までのように呑気な思いでは暮らしていけなくなった。その上、今秋は二人の叔父を亡くし、その死と告別式に立ち会った。 大好きだった叔父は、私が困った時に相談に乗ってくれた。私を認めてくれ自信を与えてくれた。その叔父の死が間近いことを知り、急いで病院に行った。叔父に今までして貰ったこと、出会えてうれしかったことに「有難う」の感謝の気持ちをどうしても伝えたかった。病室に着くと叔父は一人ベットで横になって、人工呼吸器をつけて苦しそうな息をしていた。「ありがとうございました」と伝えて、そして足をそっとマッサージして帰ってきた。その十日後に叔父が亡くなった知らせを受けた。お通夜では、叔父はすでに棺に入っていた。火葬直前に額に触れると冷たかったが生前の叔父の顔がまだ目の前にあった。しかし、火葬された叔父を目の前にしたとき、「骨になってしまった」という思いの中、叔父の笑顔を見ることも声を聞くことも、もう二度とできない寂しさ悲しさに心が覆われた。 これらの体験が訪れて意識せざるを得なくなったのは「肉体は有限で、人間は必ず死ぬこと」、当たり前なことだが、普段はあまり意識せずに生きている。今年は何度も何度も命のことを意識した。そして、有限の命を意識すると、必ず出て来る問いが「お前はなんの為に生きているのか」という問いだ。 自分を認めてほしい、自分の話を聞いてほしい、そして自分を大切にしてくれるのか粗末に扱われるかに関心があり、人といつも比べている自分がいる。また、美味しい物を食べたい、便利で豊かな暮らしがしたいと「いつも自分が自分が」の自己中心の生き方をしていたことに疑問が湧いてくる。こんな生き方をしていて「このまま死んでも悔いは無いのか」との問いが聞こえてくる。 無意識で生きていると、「自分のために」生きていたが、もっと人のために生きていきたいと思うようになった。もし傷付けたなら「ごめんなさい」も伝えたい、そして、もっとみんなに「有難う」を伝えて死にたい。また、「有難う」といわれるようなことをしたい、自分に利害関係のない人に愛を行って生きていきたいとの思いが涌いてくる。イエス様はまさにそのように生きていらしたなあと思うからだ。イエス様が友としたのは、祭司長や偉い人たちではなく、彼らからは罪人や病人として差別され斥けられ、顧みられない人々、例えば悪霊に取り憑かれた人、取税人や足の不自由な人、姦淫を犯した罪深い女などだった。わたしが生かされているのは、イエス様が愛された、この世で苦しんでいる人とともにその苦しみを味わい、その重荷を一緒に担うことだと思えてくる。そのような生き方をしているときにこそ、そばにイエス様はいて下さる。明日はこうしよう、こうなるだろう、などと考え悩んでも、人間にどうにもならないし、分からない。すべては神様が支配されている。神様に一切を任せて、「イエス様ならどうされるかなあ」と振り返りつつ、イエス様の歩んだ道に少しでも近づけるように生きていきたいなあと願う。 |
私の心に残っている聖句 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ六・33‐34) 私の身の周りの人や友達の中で悩んでいたり自分も落ち込んでいたりすると、必ずこの御言葉が頭の中に浮かんでくる。私では問題の解決ができない。神様助けてくださいと願い自分の心の中にしまってしまうより、御言葉を誰かに聞かせてあげたい、知らせたいと言う気持ちがありますが、無視されることも多くあります。でも言えた時は、言って良かったと言う気持ち、神様からの勇気、神様が後ろから背中を押してくださっていることを思いました。 十月二三日に一人一枚のカレンダーが配布されました。その中で風景画を選び家に帰ってきて、カレンダーを見ると「マタイ六・33‐34」の聖句が書いてありびっくりしました。神様はこんな私でも見ていてくださっているんだと思い本当に神様に感謝です。 |
美しい秋 先日、北島集会で「美しい秋」という水野源三さん作詞、阪井和夫さん作曲の本当に美しい讃美に出会い感動しました。 美しい秋 木々の紅葉を見ましたか 百舌の声を聞きましたか 主の御名を呼びましたか 主の愛に触れましたか 美しい秋を 美しい秋を 創られた父なる御神を 喜び讃えていますか 喜び讃えていますか 赤いりんごを食べましたか 栗の実を拾いましたか 主の御名を呼びましたか 主の愛に触れましたか 美しい秋を 美しい秋を 創られた父なる御神を 喜び讃えていますか 喜び讃えていますか 美しい詩にぴったりの心にしみるメロディー。讃美しながら、ああそうだ、まず、目を上げて木々の紅葉を、百舌の声を讃美すればいいんだと思いました。いろいろな心配、不平は置いて、天を見上げ、青い空、白い雲、創造主のみ業を讃美しよう。それでいい。安心が与えられました。 「だから、神の国とその義とをまず求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ六・33) 今、正に秋が深まり、美しい秋、実りの秋の季節。目を天に向け、主の御名を呼び、父なる御神を喜び讃えて参ります。 |
サムエルの祈り サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。 わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。」(サムエル記上一二章二〇節から二四節) この一二章はサムエルが民のために最後の言葉を語ったところです。 そのなかで、特にサムエルが民のために祈ることを決してやめない、それは罪だからだと言っています。 自分の中で祈っていても、祈り続ける事の難しさを感じます。祈りに対して忍耐がない自分を思います。ちょうどその時、この祈り続けるサムエルの祈りがスッと心の中に入りました。私も祈りを辞めてはいけないと思いました。難しいけれど祈り続ける事の大切さを学びました。家族や親族、そして周りの人たちのために祈ることをやめて主にたいして罪を犯すことはしないと言えるように主に導かれたいと思います。(天宝堂 鍼師) |
T.K 神は一つの事によって語られ、 また、二つの事によって語られるが 人はそれに気がつかない。 (ヨブ記三三・14) 天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう (詩編十九・1~5) 「神様からの語りかけを聞いた事ある?」と問われたら、以前なら、「いえいえ神様からの語りかけなど聞いた事ないし、解らない。」と応えていた。 でも聖書の学びを通して、始終神様からの語りかけがされている事を学びました。聖書のみ言葉の中からも必要に応じて神様が道を示して下さる。礼拝を通してもその時その時に適切な言葉が与えられる。詩編一九編のように自然界の中に神様の御業を通しても語りかけておられる。この世の様々な出来事を通しても 常に語りかけておられる。それに気がつくのは聖霊が与えられて初めて解る。開かれた霊の目で見ると、神様からの語りかけが理解出来るようになる。不思議だ。 目覚めよ。目覚めよ。いつでもどこででも眠れる私、でもどうか霊の目をいつも目覚めさせてください。 |
母を看取りて 今年九十四歳の母は、脚が不自由で老人車を押しながらゆっくりと歩くほかには、歯も胃腸も丈夫で、めがねと拡大鏡で毎日新聞を読み、また図書館の大活字本を愛読するなど、元気でまさに老年の文学少女?のようであった。 九月四日の夕方、突如携帯電話が鳴り、母が救急車で病院へ運ばれたと言う、ベッドに腰かけようとしてしりもちをつき大たい骨を骨折、左足に重りをつけて固定、一週間後整形外科手術を受けて、以来今日まで寝たきりの入院生活となった。 十年以上前にも同じような右脚骨折があってその時は回復が早かったが、今回は、高齢者へのショックがあまりに大きかったせいであろうか、入院後、顔に表情がなく無口になり、食欲が減退して流動食もまったく喉を通らなくなった。担当医は「認知症が起きており、肺炎に要注意、高齢ゆえに命の危険が伴う」と言う。以前の元気がすっかり失われていっぺんに十歳ほど年を取り、別人のように、赤ちゃん返り?をしたのか自分からは何もしなくなった。腕の血管が細く脆いため点滴が洩れて何度も針を刺され、腕がはれ上がって痛々しい限りである。 或る日、急に両手がワナワナと震え出したので驚いて急報したら看護師が飛んで来て、抗生物質の緊急点滴、高熱のため座薬投入、酸素マスクを付けるようになった。苦しいのかマスクを嫌がってはずそうとするので、鼻への細い管(くだ)に代ったが、高熱の原因は尿管からの排泄がつまってうまく通らなかったためらしい。まったく食べず口からの投薬も吐き出すので衰弱が目立ち、高齢者の一週間は、若い者の十年にも当たるようである。 「老いまして臥す日つづけば このままに衰へゆかむ母のいのちか」(南原繁歌集「形相」より) 妻は「こういう時こそ、母の心のケアが必要であり、(それが出来なければ)あなたの信仰もだめね」と単刀直入に言う。母はかつて三浦綾子の「塩狩峠」などを愛読して、「キリスト者の信仰はえらい」と感心していたが、私の「よろこび通信」は読まず、読書好きの母のためにと渡した「福音書」(岩波クラシックス大活字本)もほとんど読んだようすが無かった。また母に対する私の伝道の熱意も足りなかったと思う。 「もし自分が死んだら、二十五年前に亡くなった父の位牌に並べて戒名を入れて欲しい、そうしないとさびしいから」というのが母の願いであった。昭和の初め頃、はるばると遠くから見も知らぬ商家に嫁いで来た農家出身の母は、商売の商の字も知らないお嬢さん育ちで、厳しい義父母に仕え、戦中戦後の苦難の時代を夫を支えて、浮き沈みの烈しい商売の世界を生き抜いて来た。 (母の歌集「きずな」より) 「商売の家に嫁ぎ来て四十三年 性に合わぬと思いつつはげむ」 「目をこすりしばたたきつつソロバンおけば 三度も四度も間違っていたり」 「年の瀬の売り出しなれば 痛む足さすりてなでて店番をする」 「今日一日あきなひ終えて背をのばし 見上げる空に星影うすし」 苦労して五人の子を育てたが、一番期待していた次女が難病のために親に先立ち、その孫もまた急逝して、悲しみに打ちのめされ、人生の辛苦の涙を心底から飲み干した母の心には、柔和な表情のうちにも強い信念が宿っていたのであろう。 「子を思う吾娘をあはれと思ふれば 入院させるを断腸の思いす」 「あはれなる娘助け給へと念じつつ 重き心で面会に行く」 「悲しけど淋しいけれど泪出すまじ 夫の意志つぎ盾となる我は」 「強くなれ強くなるんだくじけずに 涙のみこみ夫の意志思いつ」 (同歌集より) 私はただ黙して看取り、寝たきりで「しんどい」と繰り返し言う母の手を握り、母の魂が神の光に包まれて、キリスト・イエスの十字架のゆえに、その罪を赦され、清められますようにと、ひたすら神の御憐れみを祈り願うのみである。 「現身のいのち衰へただに眠る 母が小さき顔を見守るも」 「かなしみの極みにありて風を静め 湖を歩み給いしイエスを信ぜんとす」(「形相」より) 愛媛県 |
朝のしずく 神様は神らしく 人の目には分からなくても 不思議な方法ですべての人を 助けてくださる 愛してくださる 私達はただ信じて喜べばよい 赤子が母親を信じきるように 弱き目を刺しぬく朝の光こそ 愛の目薬恵みの一滴 「明日のこと思い悩むな」み言葉はまことに吾らの命の救い日々の旅荒れ野の中のオアシスの 恵みのみ言葉たどりて生かさる 十字架の深き御愛を仰ぎつつ 聖霊求める夜明けの祈り ゆらぎつつどうにか続く信仰は 神の忍耐恵みの賜物 年経れば親子といえどもおだやかに 愛の流れぬ底深き罪 「主は吾に報いたまえり」み恵みを知らずに過ぎし時ぞ悔しき 「御名により祈れば必ず聞かれる」と信じる恵みのいかに尊き 悔い多き人生なれども唯一つ 主にすがる術知りて悔いなし 徳島市 |
光の子として生きる むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― ( エペソ信徒への手紙 五章六~九節) 吉野川市 |
いつくしみの瞳 精神科の病棟に入院をされている八十歳を過ぎた姉妹を訪れました。姉妹は若いころ視覚障害者施設に入所中に入信されました。十年位前には点字で聖書を読んだり賛美歌を歌ったり、手紙のやり取りもできたのですが、次第に困難になってきたので、朗読テープで聞いていただくことにしました。綱野さんの「アシュレー」も聞いておりましたが、それらも困難となりました。姉妹の病棟には、視覚障害者は他におられないので、周囲の理解が得られない悩みを抱えておりました。他の施設か病院への転居を希望していました。希望を叶えるには、身内の方は老齢化し、「我慢」を要求されておりました。このような時、「どこへ行けても、行かれなくても、神様は最善をなしてくださっている」と励ましつつ、「困らせる人のためにも祈ろう」「何か人の役に立てることはできないか」と、話し合ったこともありました。そのうち、看護師さんの肩揉をして喜ばれていることを知りました。妄想や夢と現実の区別がつかず混乱しているときには、「賛美歌を歌いましょう」と言うと以前の施設でマスターした「いつくしみ深き」「恵みの光は」を歌うのでした。 恵みの光はわが行き悩む 闇路を照らせり 神は愛なり われらも愛せん 愛なる神を (賛美歌八七B 新聖歌二二〇) 賛美が神様に届いて、別れる際には笑顔になっていることがよくありました。一時期、老人施設に入所できました。新しくて設備が整った恵まれた施設、終の棲家になるのかなと、思われました。集会の会場に近いので、訪問の回数が増え、集会に出席していただくこともできました。ところが一年も経ってから、何か事情があったとみえて元の病院へ移されてしまいました。今度は個室です。人の出入りが少なく、静か過ぎて、することもなく転寝ばかりしているようでした。加齢とともに仕方がないかなと思っていました。 ここ何ヶ月、なかなか都合がつけないで、訪問できないでいました。夏も過ぎたある日、「今日、行きなさい」と、誰かに背中を押される感じで、急いで支度をして、電車に飛び乗りました。到着して、目に付いたのは、広間でたった一人で、何やら手作業をしている姉妹の姿でした。今まで見たこともない光景でした。何枚もの布をきちんとたたんで重ねている作業をしているのです。(私は家に帰って目をつぶったままやってみましたが、姉妹ほどきれいに出来ませんでした)病院の指導には違いないのですが、姉妹のために神様が与えられたことと思わずにいられませんでした。作業中突然「いつくしみ深き」を歌い始めたので、私も合わせ、一番を三回歌いました。あふれてくる賛美を抑えられずに、人目をはばからずに賛美できるなんてすごいと思いました。作業が終了して、「終わりました」というと、ケアーさんが「ありがとうね。助かってますよ」と肩を優しく撫でていました。患者さんを穏やかにさせている病院の皆さん、中にはクリスチャンもいて、恵まれていることが確認できました。二人でお祈りすると、姉妹は「明るく、誠実に」を求めて祈りました。すでにそのように導かれている、と感謝でした。神様はどのような状況下でも、見捨てることはない、この世の弱い者を憐れみ、慈しみの瞳で見つめてくださっている、微かな信仰の灯もなくならないようにしてくださっているのです。そのことを目の当たりにさせるために、神様は私の背中を押して行かせたのでした。 |
今年召された姉との関わりを通して 今年(二〇一一年)の六月、今でもこの世に姉が居なくなったと信じられないくらい、突然に姉は召されてしまいました。姉は母の二番目の娘で、父親は大分の人ですが、戦死したため、戦後は母の実家で従姉妹たちと大きくなりました。母は再婚し、姉とは別に暮らし、私や弟が生まれました。子供の頃、親戚の集まりがあると、年のよく似た姉や従姉妹はいつも華やかで楽しそうな話題で盛り上がっていました。私は小さくて相手にしてもらえず、弟と男の子の遊びでやんちゃに過ごしました。 でも私も本当は、男の子の遊びより、お姉さん達の会話に入れてくれないかなあと思っていました。いつか成長したらみんなの話しに入れて貰えるだろうかなと憧れていました。 姉の事を「ゆきちゃん」と皆が呼ぶように私も呼んでいましたが、姉はいつも誰か彼かに取り囲まれ 社交に忙しく、十二歳年下の私の方を向いてくれた事はなかったように思います。 姉が結婚すると、毎年夏休みに三人の子供を連れて、母や私の住む家に泊まりに来るようになりました。私が甥や姪と遊ぶようになると、姉の一家が帰る時は、私も一緒に姉の家に連れて行ってくれました。甥や姪と子供向けの映画に行ったり、阿波踊りの見物に行ったり、近所で遊んだ事が今でも楽しい思い出です。 姉は若い頃、とても美人で、社交的でした。しかし旦那さんは嫉妬深い人で、姉が親戚の男の人と話しをする事も嫌い、疑い、暴力をふるいました。そして、私がまだ実家にいた子供の頃、姉は夫に硫酸を飲まされてしまいました。内臓にひどいやけどを負い、長らく入院していました。そんなことがあって、姉はある日突然、夫から逃げて、行方不明になってしまいました。母がどれだけ心配したか、私は側で見て大きくなりました。 何年もの後、前の夫が再婚したのを知って、再び私達の前に現れた姉は、その社交的な人柄を生かして他県で水商売の道に入り、高級クラブのホステスになっていました。姉はタバコを吸い、綺麗に着飾って気取った雰囲気で、別世界の住人でした。そんな姉と、どんな話しをしていいか分からず、よそよそしい社交辞令のお付き合いになってしまいました。姉も妹の私の事には全く関心がない風でした。 魂の事を案じた私は、何かの病気で姉が大学病院に入院したとき、伝道してもらいたいと吉村孝雄兄(現在 徳島聖書キリスト集会代表)に頼んだことがあります。キリスト教ともし姉が結びつくとしたら、本が好きな事だけだったので、キリスト教の本を読んでくれたら良いのになあと思っていました。そんな難しい条件の人に、吉村兄は学校の先生をしているお忙しい中、病院を訪問して下さいました。今でも深く感謝しています。 それから、長い年月がたち、姉は高齢になりましたが、再婚相手が見つかり、私の家の比較的近い所に住むようになっていました。しかし、姉とは交際していなかったので家に行った事もなく、私の家に来たこともありませんでした。 私の実家にいる別の姉が体調が悪く入院した時、私と娘の陽子がお見舞いに行くと、ちょうど「ゆきちゃん」も来ていて四人で話しをしました。 久々に逢っても、姉は私達にはあまり興味がなさそうでした。娘が話しの流れでキリスト教の事を話すと、「私は汚れて真っ黒なので神様の事などふさわしくない。」と言うので、娘と二人で、「自分が汚れていると思っている人にこそ、キリストが必要。聖書にはゆきちゃんのような人がイエス様に愛された事が書いてある。ゆきちゃんこそキリストにふさわしい」と話すと、急にその事が姉の心に入ったようでした。私に対する表情が変わったのです。初めて、何だか心が通じた気がしました。 「今度集会に来てよ。」と言うと「また行くから」と笑顔で返してくれました。その後退院した実家の姉と一緒に礼拝に参加してくれました。その時は吉村兄が伝道旅行に出かけていて不在でしたが、全国集会のための、賛美の練習をしていると、興味を持って見てくれました。そして、その後徳島での全国集会にも二人は部分参加をしてくれました。 姉は本を読むのが好きだったので、「いのちの水」誌も毎月集会から送っていただき、読むようになりました。時々書いてある内容について、話しをしてくれました。 「野の花」や「ともしび」に私や陽子の文が載ると大喜びで話しをしてくれました。すっかり仲良しになり、私が行くのを待ってくれるようになりました。そして、我が家で行われる移動夕拝にも、ときどき参加した事があります。 昨年の二月には、食道がんが見つかり、大手術をしましたが、その時から、「もし亡くなったら吉村さんに司式をしてもらいたい」と決めてキリスト教霊園の納骨場所を購入していたので、天国への準備が出来、手術に向かう時は見送る私達親族に、「イエス様がついているので、大丈夫。元気に帰ってくるからね。バイバイ」といつものように私達を笑わせながら、明るく手術室に入っていきました。医師の説明では、大変難しい手術なので、万全を期しますが成功の確率は五〇%です」と言われていたので、集会の皆様にメールをし、その前に「祈りの川」にも姉の魂が救われるように祈って下さいとお願いしました。手術の最中に控え室でいると、近くで行われた家庭集会を終えた吉村兄が来て下さり、お祈りをしてくださいました。姉の事は神様にお任せしました。 十三時間に及ぶ手術から生還した姉は、ICUに入りましたが、「痛い所はない。もう大丈夫」と話しができ、ドクターも手術の成功で晴れやかな笑顔で説明してくれました。姉は、皆様の心のこもったお祈りと、イエス様のお陰で回復も早く、無理も言わず、大学病院の優等生だと言われるくらい明るく立派な患者でした。入院中、集会の姉妹が看護師をしているので、科は違いますが毎日勤務の帰りに祈りを携え寄って下さり、信仰の話しや本を持ってきてもらって、心強い霊的サポートを受けました。手術から一ヶ月で退院でき、自宅でヘルパーさんに助けてもらって生活する事になりました。胃が無くなり、腸を喉に持ち上げてつないでいるので、食事が困難でしたが、退院後姉は食欲もあり、欲しいものは固いものでもドンドン食べて元気を回復していました。「夕方が来たら赤鬼さん、青鬼さんが来て引っ張っていこうとするので、怖いので祈って」と言うので、祈ると、今度会ったときには「祈りがよく効くので、鬼が出てこなくなった」と喜んでいました。 自宅では、ほとんど横になって、外出はできなくなり、たまに気分の良い日はヘルパーさんと短時間、買い物に行く程度でした。早く元気になって、お世話になった皆さんに恩返しがしたいと言うので、「大きな手術をしたので、段々元気になると思う」と言うと、希望を持っていました。訪問すると、二人きりで、存分に話しをする事ができました。イエス様のお話もいっぱいでき、姉の子供時代の楽しく大活躍していた時代の事もたくさん話してくれました。人の悪口は全く言わず、愛に満たされた話しの内容は、イエス様が共に住んでくださっている証拠だと思いました。もしも回復できず死んだとしても、母もクリスチャンで天国に行っており、先に召された弟も吉村さんが関わって下さって、キリスト教で葬儀ができ霊園に納骨しているので、母と弟が待つ天国へ行けるので、ちっとも怖くない。「楽しみだ」と、死ぬことも明るく楽しく話していました。 六月半ば、姉のヘルパーさんから急に電話があり、四〇度近い熱があり救急車でかかりつけ医に運ばれたとの事。私はその病院のすぐ近くにいたので、駆けつけると、状態が悪く、すぐ大学病院に手配するので、救急車を呼んでドクターも一緒行くとのこと。私は姉に声もかける事もできず、自分の車で大学病院に向かいました。急性の敗血症でした。私はこんなに急に状態が変わると思わず、病院でも邪魔になってはいけないと思って、姉には声が掛けられませんでした。姉はICUですぐ挿管され、麻酔がかけられ話しをすることもできませんでした。翌日には危篤状態と言われました。 吉村兄に連絡をすると、祈って下さいました。金曜日、夜中に、血圧が下がり始めたので、控え室からICUに呼ばれました。実家の姉と私と、先に天に召された弟嫁の正子さんはクリスチャンです。3人で覚悟して姉の所に行くと、モニターの血圧も脈も心電図も下がってきていました。耳は最後まで聞こえるという事を聞いた事があるので、三人がそれぞれ耳元で大きな声で、「ゆきちゃ~ん、イエス様に手を引かれて天国へ行きよ~」「天国は綺麗な花が咲いていてここよりずっと良いところやけん、良かったな~」「天国でまた逢おうな~」「源一(弟)やお母さんと楽しく暮らしていてよ。後から行くからね~」「ゆきちゃんいろいろありがとう~。」「楽しかったよ~」と言うと、血圧がかなり低いのに、首を下に動かして頷くので、私達三人は「聞こえているよ」と喜びました。最後のお別れをしている時、夜中に大声を出しましたが、スタッフの皆様も、そっと見守ってくれているようでした。見ていると心電図の血圧が下がり、脈もスーと消えてしまいました。 姉は天国へ旅立ちました。最後に再会を姉と約束できて、イエス様に手をとってもらって、天国へ昇った姉の生涯は、「終わりよければすべて良し」で良い人生だったと思います。 前夜式も土曜日夜に吉村さんの司式で親族だけで行って下さり、日曜の礼拝の後で葬儀をするように導かれ、集会が終わった兄弟姉妹がその足で多数葬儀場に集まって下さり、心を込めたお葬式をしてくださいました。心から感謝致します。 主の聖霊のお働きで、この日キリスト教の葬儀に臨んだ、主を知らない親族の一人一人にも、主の救いがありますように。また、震災で、亡くなられたご親族の方々にも主の救いがありますようにと重ねて祈りました。 主は私達の思いが何であるか、うめきもご存知で、思いに勝る恵みと祝福を置いて下さると姉の一生と関わったことから思わされました。イエス様に感謝です。 (在宅支援ミルトス・ケアマネージャー) 吉野川市 |
好きな讃美歌 飼い主 わが主よ 迷うわれらを 若草の野辺に 導き給え われらを守りて 養い給え われらは主のもの 主にあがなわる (新聖歌二〇六) この歌を、思い出す時心が落ち着いてきます。 |
震災後考えたこと 二〇一一年は三月十一日に、東北・関東地方を襲った巨大地震と大津波・原発事故という大きな出来事がありました。地震と津波だけでも甚大な被害ですが、その上最悪の原発事故が起こり、日本はかつてない程の危機に立たされています。東北地方の方々の被害に心を痛め、早期の復興を願うと同時に、放射能汚染の問題を前に、現地の方々にとにかく逃げて欲しいという気持ちがあり、心があちこちから引っ張られるような気持ちがしています。東北の方々は尚更、引き裂かれるようなお気持ちの中におられるのではないかと考えています。 「チェルノブイリ・ハート」という、チェルノブイリ事故から十七年後の子供たちの病気や奇形などを知らせる映画を観に行った時、映画を観終わった私たちに、福島県の女性が「署名をしてください」と話しかけて来られました。女性は「私は今は用事で徳島に滞在していますが、来年には福島に帰ります」と言われ、私は今見たばかりの映画の内容からも心配になり、思わず「徳島で、このままずっと住む事はできませんか?」と尋ねてしまいました。その方は一瞬表情を固くし、「いえ、あちらには活動する仲間がいますから。私もあちらで頑張ります。」とおっしゃいました。先日のNHKの番組でも、何代も続く田んぼを継いだ一家が米作りをしており、故郷を遠く離れて容易に避難できない方々が沢山おられることを思います。 それでもあえて、何とかこの世の中が、もっと子供のように単純にいかないものかと、毎日考えずにはおれません。放射能の線量が高い地域に住む人々が、みんな西日本や北海道に逃げて、みんなで一緒に力を合わせて働くことはできないでしょうか。受け入れ地では休耕田を無料で貸したり、あげたりして、美味しいお米や野菜を作る仕事を再び得ていただく。過疎化が進む漁村や農村地区に住んで、新しい視点からの知恵を出し合って暮らす。そこでの不便なことは、反対に新しい仕事の可能性につながり、雇用を生み出すかもしれません。もちろん海や山地だけでなく、市街地でも仕事を得て欲しい。そうやって一緒に生きていけば、東北から遠い地域でも、より悩みや痛みを実際に分かち合えるのではないかと思うのです。私の空想はそうやってどこまでも続くのですが、これは単純すぎる考えなのでしょうか。 鎌仲ひとみ監督の反原発映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を観に行った時、監督にパンフレットにサインをしていただきながら、「これからも、活動頑張ってください!」と精一杯の応援のつもりで、ありきたりなことを言ってしまいました。監督は笑顔で「頑張ってますよ~」と言われました。すでに何本も核問題に向き合う骨太な映画を撮られてきた監督に「頑張れ」とは、反対に失礼だったかと気づかされ、私こそ、一市民として、一体何をしてきたのか、と思わされました。これからはもっと目を覚まして、社会的なアクションにも、より真剣に参加できるようになりたいです。 一方、霊的な戦いこそ、しっかりしなければと考えています。私は、この原発の問題(と世界を取り巻く核や戦争の問題)は、単にこの世の社会的問題ではなく、主イエス・キリスト様と反キリストの悪の霊の、大きな霊的な戦いの現れだととらえています。イエス様に従う者として、私たちクリスチャンには私たちにしかできない、重要な戦い方があると思います。私は「イエス様はすでに世に勝利している」「全てのものはキリスト様の元に向かっている」「神は愛である」という事実にしっかり立ち、御名が崇められるように祈ること、御国が来るように祈ること、少しでも神様に感謝すること、聖霊様を求めること、全ての王である神様を讃美するという大事なことを、日常の生活の中で一歩一歩行なっていきたいと考えています。そのことが、極小さいながらも霊的イエス軍の一員として、今最も大切なことではないかと思うのです。(ケアマネジャー) 徳島県吉野川市 |
姉を天に送って 昨年十一月五日、私の長姉(以下、姉)が、八十一才で天に召されました。亡くなる前に「イエス様を信じます」と信仰告白をして召されました。このことは、私には奇跡的なことと思えてなりません。病に倒れるまでは、キリスト教には関心を示さず、むしろ、かたくなに拒否していましたので、姉が信仰を持つなどとは、到底考えられなかったのです。 姉は、若い頃、結核に罹り、戦時下の旧制女学校を半分近く休み、混乱期の中で卒業は認められたものの、兄弟の中で一番頭が良いといわれながら、出席日数の不足から大学への進学は認められず、敗戦後まもなく大きな旧家の嫁にと望まれて嫁ぎました。浄土真宗が重んじられるところでした。旧士族の舅、姑に良く仕え、高齢の二人を最後まで自宅で看取り、一人息子が結婚した頃、ようやく、ゆとりができて、次姉の道子(以下、道子)と一緒にたびたび外国を旅行をしたり、兄弟四人で年に一回の旅行を楽しんだりもしていました。短歌などの趣味、カルチャーセンターなどでの学び、と残りの人生を楽しんでいたのです。そのような折に、キリスト者である私や兄、道子がチャンスを見つけて、キリスト教関係の話をしようとすると、事前に素早く察知して機先を制せられ、一言も言わせないように仕向けられました。あるとき、たまりかねて道子が「何故、キリスト教が嫌いなのか?」と聞いたところ、「キリスト教ではなく、あなたがたクリスチャンが一段高い所に立って私たちを見下ろしているからだ」と答えたそうです。私たち、キリスト者のありかたを、深く反省させられることでした。しかし、姉のこのままの生活では、キリスト教へ導かれることは到底不可能に思われていたのです。 亡くなる三年半前、姉が七十七才になった四月、朝の歯磨き中、脳梗塞の発作で仆れました。もともと不整脈があって治療を受けてはいたのですが、血栓が脳に飛んで太い動脈をつまらせたのです。幸い意識はすぐに回復し、言語障害もありませんでしたが左半身の麻痺が残りました。リハビリなどにも励み、早期の回復を期待しましたが、遅々とした改善で、食事以外は介助が必要で寝たきりになることが多くなりました。姉の無念さ、悔しさ、心の衝撃はいかばかり大きかったか想像に難くありません。私たち夫婦や、兄弟の訪問を喜んではくれましたが、なかなか祈ったり、信仰の話しを語る機会を得ないでいました。ある時のことです。道子の訪問の際に帰るときどうしても祈りたく、「お姉さんは何を信じているの」と聞くと、ぶっきらぼうに「阿弥陀さん」と答える、「私は阿弥陀様のことがよくわからないので、私の信じている神様にお祈りしていいか」と聞き、毎回いくたびに許可を得て祈って帰ったそうです。このことを聞いて私たち夫婦も水野源三さんの詩を載せた美しい絵文集を持っていっては、それを枕辺で読み聞かせたり、帰りぎわに短くお祈りするようになりました。兄、道子や私たち夫婦の祈りがつまれていきました。徐々にではありますが、姉も私達の祈りに心を向けてくれるようになりました。お祈りの後、小さな声でアーメンといってくれることもありました。しかし、麻痺の回復は遅々としており、励ましや慰めを語ることがつらいと感ずることもしばしばでした。 こうして一年が過ぎたころでした。中部教区婦人部研修会が開かれた折、それに出席していた道子が会場で武生教会(姉の住まいはその教会の近くだったのです)の五味明子牧師にはじめてお会いし姉を訪問してくださるようにとお願いしたのです。不思議なことに姉と同じ病院に教会の方がおられて、月に一回は訪問しているのでついでに覗いてみましょうとおっしゃって下さいました。その後、何回もお尋ねいただくうちに、姉も先生の訪問を喜ぶようになりました。あるとき、先生から道子に電話があり、「お姉さんは神様のことはわかる気がするが、イエス・キリストがわからないと言っておられます」とのこと。そしてまもなく、先生から「今日、お姉さんはイエス様を信じますと言われました」と道子に連絡があったのでした。この連絡を聞いた時、道子は受話器を握り締めてぼろぼろ泣いて繰り返し感謝を述べたそうです。次第に、姉も真剣に祈るようになり、私達の祈りにも唱和し、祈り終えると目にいっぱい涙をためてありがとう、ありがとうを繰り返すことが多くなりました。特に、今までのことへの感謝、周囲の人たちへの感謝があふれるようになったことは、姉にみられた大きな変化でした。姉の新生でした。 肺炎が悪化して召される前日、その日を予感されたかのように五味先生がお尋ねくださいました。先生のお祈りにはっきりとアーメンと唱和した後、まもなく昏睡状態となり翌日、召されました。このアーメンという言葉が地上で姉が残した最後の言葉となりました。 姉のことを思い、天を仰ぐとき、その微笑んでいる顔が浮かびます。神様の御国で再会できる、きっとできる、そう信じています。私達には復活の身体が用意され、国籍を天に移されているのですから。 福井市 |