はじめに―「野の花」における交わり
「私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネの手紙一の三)
この「野の花」の文集は、神と人との交流の場である。
人と人との交流が大切なことはだれもが認めることである。しかし、その交流はともすればまちがった方向に流れやすい。人間そのものが、正しい方向からつねにそれていく存在だからである。
主イエスは、まず神の国と神の義を求めよ、といわれた。これは人間どうしの交流についても言える。まず神の国を求める心をもってなされる交流であるならば、そこには、いのちの水、天来の水が流れるだろう。
夏の夜空に天の川というのがある。山間の地では現在でもはっきりとみることができ、心開いて見つめるとき、それは心にこの宇宙の広さを感じさせ、なにか清いものが流れるような気持ちにさせてくれる。しかし、最近ではほとんどの若者は見たことがないようであるし、都市化のために、大人も夜空の星に関心を持つ人は少なくなっている。
しかし、天にある命の川の流れは、尽きることなく今も信じる人の魂の内に流れ込んでいる。黙示録の最後のところにこのようないのちの水の川のことが書かれている。
私たちの主にある交流も、このような、いのちの水がたえず流れるようなものでありたいと願う。主よ、この文集に書かれた一つ一つの文を祝福してもちいて下さい。(T・Y)
Y.S
切腹は自害にほかならないが、武士にとっては名誉ある死として美化された。切腹には死を美しくするための作法があり、単に命を絶つために腹を切るのではなく、武士の誇りを保つ側面が大きかった。
最近、コーラスの仲間が末期癌との壮絶な戦いの後、召された。彼は日本キリスト教団の教会に属するキリスト者であった。死に直面して彼のとった態度は、自分の苦痛をよそに看病に疲れ切っている妻を気遣い、静かに息を引き取った。最期に立ち会った医師と看護師が最期の見事さに感動し「こんな死に方ができるなら、私もキリスト教に入信したい」と、言ったという。
十字架上の主イエスが弟子に母マリアのあとを託し、ご自分を嘲る人たちのこころない仕打ちを赦し、「エリ エリ ラマ サバクタニ」と絶叫し、息を引き取られた。主イエスの十字架上の姿は目を覆いたくなるような悲惨なものであったろう。
しかし、この時ローマの百人隊長が「この人はまことに神の子であった」と言った。
キリスト者にとって死は最後の伝道のチャンスである。それは武士の切腹のような作法はなくとも、人々はそこに神のみわざを見るため、感動するのである。告別式ではコーラスの仲間がモーツァルトのレクイエムから「ラクリモーサ」(涙の日)を歌って見送った。宗派を越えて弔問に訪れた人たちは感動した。
山梨県
Y.A
リコーダーを4年程前から始めた。小学校の教材にも使われているあの笛である。「リコーダーは嘘をつくより易しい」とシェークスピアは言ったそうである。
習い始めてみるとどうしてどうして、いっこうに上手く吹けない。
嘘をつくより易しとリコーダーにはまりし嘘の奥深きかな
リコーダーは奥が深い。そして、最近、今まで吹いていたプラスチック製の笛でも充分であるが、ふくよかな音色に憧れて木管のリコーダーを購入した。ところが私の力量不足のためか、気後れなのか笛に拒否されているようで気軽に吹けないのである。「魂を入れる」という言葉を思い出して、創世記2章のみ言葉が浮かんできた。「主なる神は土の塵で人を形づくりその鼻に命の息を吹き入れた。こうして生ける者となった」・・・・・そうだ。命の息を吹き込こまねば笛は生きた音を出してくれないのだと気がついた。笛は生き物である。
背を伸ばし深呼吸してリコーダーを構えるときは祈りのかたち
古代から親しまれた単純な楽器、笛は命が吹き込まれた音だったのだ。
「いかにたのしいことでしょう。主に感謝を捧げることは」・・・と十弦竪琴を奏でた詩編の讃美を思いながら、リコーダーでコラールが、讃美ができることはなんとうれしいことでしょう。甲斐駒ヶ岳をま正面に仰ぎながら。そしてアンサンブルの仲間と笛を合わせ、ハーモニーがうまくいった時の喜びは格別だ。
叉、哀しい時、寂しい時も、命の息を吹き込んで笛を吹いていると勇気が湧いてくる。リコーダーは神さまが私に与えてくれたプレゼントである。感謝である。(山梨県)
Y.F
バス通りの街路樹の葉が紅や黄に色づき、秋が深まってきました。私は最近「真っ直ぐに創造を信じる」という藤木正三牧師の説教集を読み、「ため息ひとつで十分です―群衆への憐み―」マタイ十一・2~15に深く心を動かされました。同時に今夏、近畿地区無教会キリスト教集会で安積力也氏が話された「自らの心の闇を見よう」というお話を思い、人間の心の闇と福音の光、そして溜め息ひとつすらつけぬ人のいる事も考えさせられ、神の愛について神に祈り、多くの事を知らされました。
藤木先生は次のように語られます。洗礼者ヨハネもイエスも共に「悔い改めよ。天国は近づいた」と言われた。旧約時代正しい人とは律法を守っているパリサイ人、律法学者などの宗教的特権階級であり、罪人とは律法を知らず、守れぬ普通の人々の事であって、その惨めな人間が群衆―私達の事である。ヨハネにとって天国は神の正しさにみちた国であり、その正しさに備えるよう悔い改めを迫り、イエスにとって天国は神の憐れみに満ちた国であり、群衆が神の憐れみの中に、あるがままで既に包まれている事に気付くこととして、悔い改めを語られたのです。まさに天国はイエスによって正しさの支配から憐れみの支配へ、裁きの支配から赦しの支配へ、区別の支配から包容の支配へと奪い取られようとしていると言われます。天国はイエスに於いて、私達に無条件に開かれるものとなったのです。
先生は、イエスは群衆を深く憐れみ、悔い改めを迫りつつも、なさる事はただ癒しと赦しのみであった。自分を改める事が悔い改めではない。憐れみの中に既に包まれている事に気づく事、それが悔い改めです。と言われます。そしてキエルケゴールの言葉をひかれます。「『疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい』そう言われても、余りに悲しくて主のもとに来ることが出来ないなら、溜め息一つで十分です。あなたが主に向かって溜め息をつくこと、それもまた御許に来ることなのです。」主に向かって溜め息をつく。それこそが悔い改め、気づきなのです。と先生は言われます。立派でなくても低く真実な心を主は受け入れて下さいます。
私は、自分がいかに欠け多く善き事の出来ぬ、貧しい人間であるかを知らねば、主に向かって溜め息をつく事は出来ないと思います。人間は本来自己中心な者でありますから、神の前に本当の自分の姿を知らなければ、素直に低くなる事はできないのでないでしょうか。神の義は旧約新約の時代を通して変わりなく存在します。ただ神の長い忍耐と痛みと大きな愛によってイエス・キリストの十字架により、義は愛の中に含まれ、憐れみと赦しの道が開かれたのです。その意味で自分を知り、神に向く方向転換の必要(悔い改め)を思います。この主の愛を心から感謝すると共に、ヨハネの道を歩まぬ様にと心に願っています。
而し世の中には自分の心を見る事のできぬ人もあります。安積先生のお話のように思春期に福音と自分の心の闇を知る機会を持つ事は、何と幸せでしょうか。表面素直で明るい生徒達と共に歩み、忍耐と愛をもって彼等が閉ざしている心を開き、心の闇と対決し、闇の中に輝く神の真の光を見出す迄導かれる先生方の御愛労に、心を強く打たれました。又学園で聖書を学んでいても、人間故に現実の厳しい嵐の中で揺れる北海道瀬棚の卒業生に対して、力強く福音を語られる吉村孝雄氏、両方が命をかけた伝道と教育の働きで「車の両輪の如く、又利己の存在領域を持つ」愛の働きに感動を覚えています。人は思春期に心の闇をみる訓練を受けないと、自己防衛、自己絶対化に陥り易いと思います。心が柔らかければ光に出会えましょう。而し頑なに光を拒絶し闇を愛し、海底に沈む魂もあり、その人と共に歩む事は、或る意味で命がけであります。今私の心にずっと左のみ言葉が響いています。
「人その友のためにおのが命を捨つる。之より大いなる愛はなし」(ヨハネ十五・13)
「父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり (ルカ二十三・34)
イエス様は私のためにも、家族のためにも御自分の生命を捨てて下さいました。いかにして、その御愛に応えるか。私にとって主人も子供達も神から与えられた大切な友であります。日々、このみ言葉を何度もくり返している時、心に不思議な平安と力が宿るのを感じ、主に感謝がわき出るのです。
又主は愛した弟子や群衆に捨てられ、侮辱されつつ私達の救いのために十字架にかかって下さいました。そして主は、悔改める人々でなく、主に敵対し命を奪う者をも「友」とよび、とり成して下さったのです。その事を思う時、体が震える程深い感動を受けました。現世で悪と戦わねばならぬ時もありますが、いつもこの主のみ言葉を心に刻んで歩ませていただきたいと心から祈り、願っています。
高槻市
Y.K
主に守られ瀬棚聖書集会を終えることができたことを感謝します。また、吉村さんや運営に携わり集会を準備してくれた方々に感謝いたします。
今回の集会では主の御声を聞き、主につながっていくためには主の語りかけに絶えず耳を傾け、御心を意識して歩むことの大切さを学びました。日々の生活に追われ、この世の流れに、流されている時も、全ての事象の背後に主の御計画があることを信じ、主の内にとどまれるよう祈り、歩んでいきたいと強く感じました。
感話では皆さんの思いを聞くことができ、主にあってつながっていることを感じることができました。
幸枝さんが友のために真剣に祈り、祈りが聞き入れられ、そのことが自分の大きな喜びとなり、そしてまた主に感謝の祈りを捧げることができたことを話されていました。自分自身が隣人にそんな真剣な祈りをしたことがあるか問いかけました。隣人も自分も共に喜び霊的に高められていくことを主は求めておられることを強く感じた感話でした。
この集会が主に祝福され、これからも継続されることを祈ります。
北海道
Y.T
山道を歩いているとき、立ち止まって耳を澄ます。遠くから近くからさまざまの音がある。意識しなかったら分からなかった音、遠くの小鳥の声、一つだけでなくいろいろな声が響いてくる。小さな谷沿いの道であるから、水の音も語りかけてくるように聞こえる。
山道に落ちているさまざまの落ち葉、それは意識して見入るのでなかったら、何も語りかけてはこない。ただ踏みつけていくだけである。
しかし、一つ一つの落ち葉、黄色や褐色、あるいは赤く染まったものやいろいろの模様のもの、また虫が食って不規則な模様となった葉もある。ヤマノイモ、イヌビワ、アカメガシワなどの黄色く染まった葉、クヌギやコナラ、クリなどの褐色になったもの、また、ヤマハゼやカエデ、ツタのように、真夏の頃の緑色の葉とは思えないほどに見事な赤色に作り替えられた葉もある。
その一枚一枚が一年のつとめを終えて、さまざまの色と形をもって、枯れて地上に落ちた後まで、美しい色を見せて、その役を果たしている。
それは創造主から与えられた役目を最後まで、果たそうとしている姿である。
耳を澄まし、目を開いて周囲の事物に接するとき、その何の意味もないような落葉や小さな小鳥の声のかすかな響きや風や水の流れの音など、それらがみんな語りかけるものとなってくる。
それは、いわば当然なのである。一つ一つを神が無限の愛と意味をもって創造してあり、その一つ一つもそこから神のお心がにじみでているからである。人間の創作した作品、短歌や詩、絵画、音楽、文章なども、それを作った人の心がそこにある。心を開いて接するとき、それらの作品から作者の心が、また言葉が伝わってくる。
同様に、自然のすべての事物は、神の愛のお心がそこに刻まれている。
聖書は、文章として私たちの前にある。そして、神が人間に直接に語りかけた一つ一つの言葉がそこにある。耳を傾けるとき、その聖書の文の背後から神が私たちに語りかけてくるのを感じる。
神の語りかけこそは、無限の豊かさを持っているので、飽きることがない。モーツァルトやベートーベンなどの天才の音楽であっても同じ曲を何度も聞いていると飽きてくるが、神の語りかけは決して飽きることがない。
聖書は読み飽きることのない唯一の本である、と言われる。それは、そこから神がたしかに一人一人に語りかけてくるからである。
人間関係でも、神が仲立ちになって導いてくださるときには、飽きることがなく、新鮮な感覚をもって続いていく。聖書の同じ言葉が繰り返し、その背後から神からの語りかけとして感じるかぎり、飽きることはなく、新たな心にされる。「求めよ、そうすれば、与えられる」 というよく知られた言葉も、その言葉が、生ける主が自分に語りかけて下さっているというのを感じるときには、常に新たなもの、新鮮な力を持って迫ってくる。
主イエスはしばしば、夜通し祈られた。そこには、生きた神からの語りかけ、力の注ぎ、そしてイエスご自身の神への語りかけが生き生きとなされていたゆえにそのような長時間を祈りにかけることができたのであろう。
神の語りかけは時間を忘れさせ、疲れをも越えて新たな力を与えられ、心に新鮮な水が与えられる機会となるからである。
時間を忘れ、接待の仕事もおいて、主イエスの言葉に聞き入ったマリアを、なくてならぬものを持っているとイエスは言われた。
貧しくとも、また健康に問題があっても、あるいは、困難な家庭や職場の問題を持っているときでも、常にこのなくてならぬもの、主からの語りかけに耳を澄ます歩みを続けたいと願う。
Y.E
なぜか最近「エマオへの道」の記事が絶えず思い出されて、別のことを書きたいと思っていたのに、いつの間にかここに戻って来てしまいます。あの「エマオの道」を描いた画家の名前を知りたいと美術の本で捜したりパソコンで調べようとしましたが、検索の仕方が悪いのかわかりませんでした。(それであの絵を載せていただきました。)もしかすると聖画として余り評価されていないのかもしれません。ただ何度も何度もルカ伝の記事を拝読し、集会で講話を聴いて来ましたので、その内容は自分なりにわかっています。
エルサレムからエマオまではおよそ十二キロ、丘陵地帯で、話をしながら歩いたのですからきっと四、五時間ほどもかかる道のりだったと思われます。イエス様の復活の日の朝、二人はエマオに向かいました。弟子の一人はクレオパと記されています。もう一人は名前が書いてありません。クレオパより若かったのか、あるいは女性(妻)だったかもしれません。二人は一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目が遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やりとりしているその話は何のことですか」と言われました。二人は「ナザレのイエスのことです。……」と言って話しましたが、イエスは「…メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(13~27)と記しています。
一行は目指す村に近づきました。イエスはなおも先に行こうとされる様子だったので、二人は、無理にイエスを引きとめました。そして、一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると、二人の目が開け、イエスだとわかったのです。
二人は「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心が燃えていたではないか」と語り合い、時を移さずエルサレムに戻って十一人の使徒たちに話しました。(28~35)
この「エマオへの道」を描いた画家はこの絵を彼自身の心象画として描いたのではないかと思ったりするのです。美しい木々の大木、木々の間から望む明け染めてきた空、暖かく愛を表すような道。もっと近くで弟子と語られるイエス様のお顔を見たい、弟子たちの驚きの様子を見たいなど、人物の表情を見たいとも思います。この絵を描いた人もきっとそのようにも思ったことでしょう。でもそのような思いも含めて風景画のように描き残しました。
イエス様が復活された日曜日の朝、二人の弟子はエマオに向かいました。イエス様が語りかけ…後で「わたしたちの心が燃えたではないか」と言っています。これは私たちにとっては毎日曜日の礼拝の姿です。朝、私たちは礼拝の場に集まります。イエス様を讃美し、祈りを捧げ、聖書の講話を聴きます。一人ひとりの心にそれぞれに新しくイエス様が生まれてくださいます。紅茶とパンの愛餐をし、家路につきます。エマオの道はイスラエルだけにあるのではないのです。わたしたちの毎日の生活のなかにもあるのです。悲しみの心を抱いてふと入った教会で主に出会う人もいるでしょう。毎日平凡に思われる生活の中で、突然なにかしら誰かの声のようなものを聴く人もいるでしょう。このような不思議なことでなくとも、エマオへの道はいつの時代、どこの場所にでもあるのです。今わたしが歩いている道でもありうるのです。 人生の晩年に近づき、そう感じるようになりました。我が家に帰るには岩を削って造った段々を登らなければなりません。子供が小さい時には玄関ではなくここで「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」と言うこともありました。喜びや悲しみの心を抱いて歩んだ道でもありました。この山道を歩きながらふとイエス様が見ておられるように感じ、振り返ることもありました。確かにイエス様は見守っておられたのです。だからこそ、今があるのだと知らされます。主イエスと出会うところはみなエマオの道なのです。(主婦)
Y.Z
イエス様は、神から遣わされた王としてエルサレムにこられました。その際、不思議なことをなさいました。弟子たちにまだ誰も乗ったことのないろばの子を連れてこさせ、それに乗って入城されたのです。これは預言者ゼカリヤが予言していた通りです。
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り荷を負うろばの子に乗って。」
通常、王や将軍は馬に乗り、威風堂々と都に入るものです。当時の馬は王侯貴族しか飼えない特別な家畜で、力の象徴です。それに対しろばは一般庶民の家畜で、柔和と忍耐の象徴です。重い荷物を山のように背負わされながら、黙々と働きます。馬ではなくろばの子に乗って入城されたところに、人間に対する神の計画とイエス様の思いが示されています。
イエス・キリストと言う王はこの世の王とは違い、力づくで敵をねじ伏せ、従わせる方ではありません。柔和と忍耐を持って人々に仕える方です。柔和とはただニコニコしていることではなく大きな責任を担いつつ耐えていくことです。誤解に基づく非難を受けても、なお相手を愛することです。又人々に仕えられて暮らす方でもありません。この王は、神のみ旨に従い「仕えられるためではなく仕えるために,又多くの身代金として自分の命を捧げるために」来られた方であり、愛によって人々を統治する方です。
神はイエス様を十字架に架け、その命をもって私たちの罪を購い、滅びから救い出そうと計画されました。イエス様は柔和と忍耐をもって、神の救いの計画を完全に実現なさいました。
わたしたちは、このようなイエス様の歩み方に完全に従うということは、できないことですが、少しでも、一部でも真似たいと願っています。
徳島県
W.E
私はある団体に入っていて、そこに気の合わないKさんと同じ組です。ある時お早うとお互い声をかけ合ったのにKさんには私の声が聞こえなかったようで、顔色を変え怒り、人を馬鹿にしていると、私も何かする時いつも憎らしい事を云うと嫌に思っていました。二日間程心の中で相手を責め悶々として過ごしました。その夜休んでから又、Kさんを思い出した時、ハッと思った事はイエス様が私の罪の為にも十字架でこの罪を贖って血を流され死なれた事を思い、人を恨む自分に気づかされ、その時の私の心の憎しみは一つの罪の塊となってびくともしません。主の祈りの中に「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と祈っても心の罪の塊にはね返されてしまうのです。苦しさで眠ることも出来ず、何度も罪のゆるしを祈り乍ら二時間位過ぎた時 右側の上の方で静かな声がきこえました。
「いいの、いいのそのままでいいの。」と低い聞いた事のない男の人の声でした。「そのままでいいの。」との声でびっくりして声のした方を見たのですが何も見えなく、イエス様の御声でないかしら、ああ許していただけたのだと思った瞬間、心の塊がすーと消えて行きました。この罪だらけの自分を許して下さったと思った時、涙があふれ出て心は慰められ安らかな静かな平安がいただけました。嬉しくてKさんをも許して下さいと祈ることが出来 本当に不思議でした。
主が私を許しの光の中に置いて下さったのですね、なにものにも変えられない戴きものです。本当に感謝です。
北海道
A.OM
私は、九月九日(水)の夜、東京を出発して四国を目指しました。四国を訪れるのは初めてでした。初日は、四国で最も憧れていた高知の四万十川を観光し、宇和島で一泊。 そして、今回の四国巡りを企てる切っ掛けとなった日本音楽療法学会講習会・学術大会in松山に参加後、最終目的地である徳島聖書キリスト集会に参加しました。
徳島聖書キリスト集会は、無教会青年全国集会のときにオブザーバー参加をして下さった吉村孝雄さんが主宰する集会です。
その日は、日曜日と言うことで、聖日礼拝があり多くの会員の方が集会場に集まってこられていました。吉村さんが盲学校教育にも携わった関係で集会に加わるようになった視覚障害者や、直接の教え子も含む聴覚障害者の方々も参加されており、手話の飛び交う賛美や講話が、普通に行われていることに感動しました。
この日は、ヘブライ人への手紙三章14節~19節(実際には9節~19節)からのお話しで、「安息」というとかなり宗教色が強い言葉となってしまうが、原語から考えると「憩い(メヌハー)」となる。この個所の主旨は、憩いの地に行くためには、主の教え(導き、または恵み)を最初から最後までしっかりと確信し続ける必要がある、ということでした。これは真に前日の私だと思いました。
というのも、その日は、日本音楽療法学会学術大会in松山の初日で午前中に日野原先生の講演、午後は生野先生のワークショップに参加してから吉村さんと待ち合わせの徳島駅に向かう予定でした。
あまり遅くなってしまっては申し訳ないと思い十九時台の到着を目指し、松山駅から特急電車に乗ろうと計画していましたが、いろんな予定外のことが三つも四つも重なり、すんでの所で予定の電車に乗り遅れてしまって、すっかり動揺してしまいました。
命を落としかけたわけでもなく、そんな小さなことも受け入れられなくなってしまったのです。
明らかにこの時、私の中に平安が、安息が、憩いが、ありませんでした。私にとってはとても身に摘まされるような内容で、真にタイムリー、神様の恵み・教えを実感しました。
また、吉村さんは、こうもおっしゃっていました。聖日にたとえどんなに忙しくともそのリスクを背負って礼拝に参加することは、神様の大いなる恵みを受けるだろう。時間があるときだけというのでは、恵みは薄くなる、と。これも今回の私にとっては、まさしくその通りだった。
昨日は、くだんの学術大会2日目で講演や研究発表がたくさん用意されており、とても勉強になると予想できましたが、こうして徳島へ来て、礼拝に出て学ぶこと感じること、さらに、今までメールの字面のみの交流であった会員の方々と握手と笑顔を交えて交流できたことは、とても大きなことと感じています。
こういった意味でも四日間四国に滞在して、最後にきっちりとまとめ上げてくれたような濃密な一日となりました。
東京都
I.F
子供の頃お天気の文句を言っても「神様のなさることに不足をいうものでない」と母に注意されました。今その時の母の年令を遙かに越えた私は、毎日神様ありがとうを一つ覚えのように繰り返しています。人間のあらゆる罪を背負って死んで下さったイエス様に、私ができることといえば感謝しかないのです。といいたいところですが、実はそうではありません。私の日々はまるで小説「沈黙」(遠藤周作著)に出てくるキチジローのように、神様への裏切りとお詫びの連続なのです。夜毎のお祈りでは反省も込めているのですが、一夜明けるとキチジローが顔を覗かせています。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です。」(Ⅰヨハネ四・20~21)これほどのみ言葉を学びながらも自分中心から脱皮できない私。数え切れない罪を重ねて神様を裏切り、それ以上に赦されながらも今まで、ペトロのように激しく泣いたことがあったでしょうか。
十余年前に神様は私の方向を聖書の方に変えて下さいました。しかし人間の原罪から発生したさまざまな罪が消えるまでに変えて頂けるのは容易じゃないようです。人間の奥に染みついた罪はそう簡単に消えるものでなく、先述のように度々キチジローが出てきます。
今読書会で学んでいる「神曲」ではダンテほどの人でも、立ちはだかる煉獄の山々に悪戦苦闘をされて登っています。しかも理性の象徴といえるヴェルギリウスに導かれながらの登頂で、時にはこの偉大な先達ですら、神様に示して頂かなければ行く手が分からなくなるほどの険しさです。想像を絶するばかりの煉獄の厳しさに仰天しながらも、神様が私のようにちっぽけな者にまで絶えず手をさしのべて導いて下さっていることも思います。しかしダンテが額に記された罪のしるしのPの文字が天使によって消されていくように、私の罪も跡形もなく消して頂けることがあるのでしょうか。
「念仏を口にすることはやさしいが、信がともなっての念仏である。善く信じることの難しさは、比叡山の修行の厳しさにもおとらない。まして自力の信ではなく、仏の側からさしのべられる信である。その信を歓ぶ、というところにまで達するには、上人(法然)がふだんいわれているように、徹底した愚かな自己に還るしかない。智者のふるまいをせず俗にまみれ、自己の煩悩の深さをまっすぐみつめるときに、本当の信がうまれるのだろう」これは小説「親鸞」のなかの一文ですが、ダンテが煉獄の竣厳な山を苦労して登ったと同じように親鸞も、仏の側からさしのべられる信を得ることの難しさを「徹底した愚かな自己に還るしかない」と述べています。
茶の湯で使う掛け軸に好んで用いられる言葉として「喫茶去」(きっさこ)というのがあります。意味はお茶を飲んでいらっしゃいということなのですが、そこには、何びとにでもそれができるか?という心が問われています。自分の気の合う人には気軽くいえるこの言葉が、万人に向かってはどうでしょうか。「放蕩息子」の父親のように優しい心で受け入れることができるでしょうか。私は茶の湯に携わって四十年にもなりますが、今も喫茶去の三文字のなかに自分の罪の深さを見るばかりです。煉獄の第一の還道も通過できそうもなく傲慢の罪を背負ったまま、あてどなくさ迷いそうです。
神様からすべての罪を消して頂いた人を挙げれば、誰もが知っている人としてマザー・テレサや賀川豊彦氏がおられます。お二方とも、社会から見捨てられ置き去りにされた人々に、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ二十三・39)のみ言葉の心で接しられた生涯だったといえます。マザーの言葉に「大切なことはどれだけ偉大なことをしたことでなく、どれだけ心をこめたかです」とありますが、揺るぎない愛がなければあれほどの人生は貫けなかったと思います。
「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(1コリント十三・2)
神様は限りない愛を、偉大な先人たちを通して示して下さり、存在するさまざまから、喜びや感動を与えて下さっています。
しかし私の喫茶去への道はまだ遠いのです。
(茶の湯)
徳島市
うつからの解放―主の恵みによりて―
I.H
主に望みをおき、尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
若いときに、くびきを負った人は、幸いを得る。
くびきを負わされたなら、黙して独り座っているがよい。
塵に口をつけよ、望みをみいだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。
主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを、苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。 (哀歌三章25節ー33節)
昨年から今年にかけて、鬱(うつ)状態になっていました。集会から離れ、聖書もあまり読むことができなくなりました。今年の初めから父に認知症が表れました。私自身もうつ状態の中で何をすればいいのか解らず仕事も身が入らずにいたところ隣家の方がいろいろと父に手を貸して下さいました。なにかと気にかけてくださり励まして下さいました。何もできずに黙していたときの主からの救いのようでした。八月ごろから徐々に鬱から解放されました。九月に茨城に住む弟も帰省し助けてくれました。今、これまでのことを振り返ると、主の恵みを深く感じ、冒頭の聖句が浮かんでまいりました。
大分市
I.M
「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ一・21) この世でだんだんと年を重ねると結婚式など祝いの時より、悲しみの時、葬式が増えてくる。身内で言えば今年八月には母を亡くし、いよいよ次は自分の番が回ってきたかと思う。私達は死に向かって一歩一歩、一刻一刻と近づいており、生きることは毎日毎日、死を背負っていることであり、いつ死の世界からお迎えが来るか解りません。自分がこの世から旅立って新しい世界へ移る。新しい世界への出発であると解っていても、ふと寂しくもなる。自分の魂が平安を持って、天国へ旅立つことが出来るだろうか?心の中心にある信仰を最後まで、貫き通すことが出来るだろうか?この世で着ていた全ての衣を脱ぎ捨て、むき出しになった魂が、無事神様の元に帰ることが出来るのだろうか?といろいろ不安にもなる。そして出来るだけ、苦しみがなく、死にたいと思う。又最後は妻に看取られ、妻よりは一足でも先に 旅立ちたいと思う。しかし全てを神様に委ねていきたいと思います。
この世に生を受けること、生かされること、やがて死ぬことも全て神様の業だと思います。又、この世の死は肉体の終わりで、悲しみでなく希望であり、神様は、とこしえの光へと導いてくださると信じ歩んでいきたいと思います。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ五・24)
俳句
種まきの乾きし土に恵み雨
聖書開き命の糧を求め聞く
草や木も秋色に染め主のみ業
大空を仰ぎて近き神のみ手
夕映えにべこ鳴く声の息長し
散り染めて香り伝わるこぼれ花
涼しさの風が顔きり行く山路
徳島市
I.M
・神知りて仰ぎて歩む春の星
・一生の今日は今日のみ花のもと
・純白の聖さこぼれて花卯木
・白百合や永遠の命を告げ知らせ
・ひまわりや主への思いまっすぐに
・納骨の賛美歌流れ夏帽子
・木犀の時の流れは早すぎて
・曼珠沙華燃えて小さき主の集い
・依り頼む主の導きよ冬満月
・裸木の全てなくして凛と立つ
・キリスト教書店混み合う十二月
・神の文字多く記さん初日記
・初暦み旨に添う日幾日か
徳島市
I.T
私達はキリストの御真実によって救われているのです。 だから御名を呼ぶだけで、それだけで、救われ、喜びに溢れるのです。過去を省みて特に若い頃は、罪、罪人と罪のことを言うことが真実な信仰だと思ったりして、どこかに思い込みや無理、また偽りがあったと思うのです。本当に沢山の偽りを背負って不自由だつた自分を思い起こします。
福音書においては「放蕩息子の譬え」にあるように神の無条件の赦しの愛が語られています。
私達はキリストの愛と赦しのなかですべてを知るのだと思います。ドグマ的思考にはまり易い私達はいつも正直に、真に思っていることを自由に語り合い、異なった考えに耳を傾けて、真理を探究して行きたいものです。
多様な花々は色、形、大きさ、みんな違っていて豊かです。その美しさに比較はありません。聖書の御言葉と十字架の出来事も聖霊の風によって私達の心に届けられて、その人らしい花を咲かせるのです。
私はどんな花を咲かせているのでしょうか。大好きな、名もない小さな野の花だと嬉しいです。神様が咲かせてくれた自分の花を見る人は幸いです。
断罪ではなく、愛と赦し、和解の福音が求められています。
沢山の宗教と信仰、思想、多様性豊かに造られた人類、違いを受け入れ合い、すべての民族が共存する世界を祈り求めたく思います。イエス・キリストはあの十字架にかけられた両手を広げて、十字架もろともにこの地球を抱いていてくださると私は信じています。だからキリストと関係ない人は一人として居ないと思います。
主から自由の霊を頂いて、主の御名を呼び、賛美し、祈り、喜び、感謝して生きたいと切に願います。 御名が崇められますように、と祈りつつ。
沖縄県
I.I.Y
五月に開催された無教会青年全国集会に参加させて頂き、一つのことに気付きました。
オブザーバー、講師として参加された吉村さんが、「信仰とは何か」というお話の中で、聖霊の働きについてお話されました。
信仰は、教義や、聖書の内容について、罪について、理解したからといって得られるものではない。これらの事柄はいくら理解してもしきれるものではなく、信仰は「与えられる」もの。そして、「信仰が与えられる」ときには、聖霊が働くのだというお話だったと思います。「聖霊」について、私はよく分かりません。
ただ、信仰は得ようと思って得られるものではなく、人間の知を超えた何かが働くのだろうとは思います。
人間がいくら風を起こそうと団扇で扇いでも、自然の吹く風とは異なるように、ただ、自然に(神様が起こす、と言ってもよいのかもしれません)風が吹くのを待つしかない。鷹揚に、それを待っていればいいや、という思いと、自分でなんとかしたい、と思ってしまう自分がいるのが現状。
それから、いくら「与えられるもの」だと言っても、なにもせず、ただぽかんと待っていてよいわけはないという思い。「聖霊」のことに限らず、人間に与えられた選択の余地と、神様が示される道について、考え続けています。私が選んだ道は、神様の思いと外れてはいないか。まちがいではないか。時々そう思うのですが、ひたすら、感謝しつつ、日々を励むしかないと思うこのごろです。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ三・8)
東京都
I.M
「今立つところの恵みに入ることだ。今この足が地についている、ここに於ける恵みである。遠い彼方の夢の国の出来ごとではなくて、ここの恵みである。
ベッドの側に坐っている姉の顔をみつめつつ、私は思った。幸福はほんとうにここにあると。この私の姉と身近に信頼し合い正しい解放の交わりに帰ることなのだ。あたたかい魂のふれ合った交わりでありたい。互いに弱い魂を抱いているのだ。いたわり合い、ゆるし合って、生きてゆこうと思う。」(一九五三・七・二)「十字架のメドを通って」聖燈社 樫葉史美子著
「ゆるさねばならぬと思った。ゆるそうとしていた。そこに地獄があった。
すべての人がゆるされているというのに―。」
「祝福は限りなく」聖燈社 西川賤著
川口市
I.E
主がまずわたしに与え給うたのは、ある種の欠乏感だった。何かが足りない、本当の自分ではない。それは子供時代に始まり、聖書に出会うまで続いた。雲か霞のようにつきまとう目に見えないもの。誰かがそのことについてくわしく書いてくれているかもしれないと、本の中にさがした。でも図書館の中で、またつかみどころのない人生のなかで、わたしはいつも迷子になった。何も、心を本当に満たしてはくれなかった。やがて暗い道に迷い込んだ。それでも折々に希望らしいものに出会った。それはむしろ単純で純粋な童話の世界。それが、この世の謎を解くカギのような小さな清い光を投げかけてくれた。しかしなお思い続けていた。生きるとは何、何のために生きるのか。この問いが欠乏感と両輪のように軋っていた。
本当に生きるとは何であろう。それは遥かなもの、永遠にも繋がる何か。「あなたの宝のある所にあなたの心もある(マタイ六・21)」。だが心はどこにいても乾いているようだった。人々はいとも易々と生きているように見え、わたしはどこかで何かをあきらめかけていた。だが死ぬ理由もなかった。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くかを知らない(ヨハネ三・8)」。初めて田宮の主日礼拝に参加した日、学んでいたのがちょうどこの箇所だった。「風は思いのままに…」わたしはこの言葉に深い驚きを感じた。さがしていたのはこの風の音。記憶の原点にあるものと符合した。
わけがわからないまま、読んでも分からない聖書の話をひたすら聞いた。風が何処から吹いて来て、どこへ行くのか。知らない。自分がどうなっていくのか、見当もつかなかった。ただ長い間の魂の飢餓を満たしたかった。説き明かされていく聖書から飛んでくる矢とメスは、幾重にも閉じられていたわたしの心の眼に真っ直ぐに入り、瞳を覆っていた薄い幕のようなものがそのつどパチンと音を立てて弾け散るように思えた。同時に、錆び付いていた心の弦を一筋一筋調律し、再び生気を与えられるようだった。そしてこれとは言えないものが、あるときから心に宿り、日々新しい血液が流れはじめるように思えていた。
本当の「いのち」は神が与える。人は新に生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ三・3)。だが偽物のいのちでも生きることはできる。この世に生まれて、一度も本当の意味を見いださないまま。わたしがこれまで生きていたのは心の仮象世界であったかもしれない。あのゲーテさえ「七十五年の苦労の生涯の内に快適な日は四週間くらいであった」と言ったという。
本当のいのちとは何か、求めていたものは何か。わかってきたのは「聖書」に接しはじめたころだった。聖書のなかにすべてがある。真実もいのちも潜んでいる。「わたしは道であり、真理であり、いのちである(ヨハネ十四・6)」
欠乏感は今もある。だがこの欠乏は満たされるためにある。ダンテの神曲、煉獄篇に「新しい渇きがさらに湧くのを覚えた」とあった。神の道を行くにも次々と渇きがわく。だがこの渇きは真理への渇き。ヴェルギリウスによって<明快で平明な解答を得た>ダンテはもうホッとして、一瞬眠り込んだようにボンヤリ宇宙や天体を眺めている場面がある(18歌)。真理への激しい渇きが癒されると心と魂は満たされて、そのつど広大な宇宙や天体に溶け合ってしまうほど豊かに潤され、解放されるようだ(「霊」は一切のことを、神の深みさえも究めます・Ⅰコリント二・10)。
このことを、この時ダンテは深く味わっていたのではないか。
神様はわたしたちに豊かな恵みと祝福を準備していてくださっている。主が共にいて下されば、わたしたちの渇きも欠乏も(苦難も困難も)やがて満たされるためにあるのだから。それはあの文豪と言われるゲーテでさえ得られなかった「本当の快適な日」であり、本当に生きている時間なのだと思わされる。
徳島市
I.U
ダンテの神曲!難しそう。でもちょっと覗いてみたい。野の花二十二号Nさんの「神曲煉獄編の世界に触れて」に誘われて、初めて本を開きました。三月から九月。半年余りになりました。今ようやく、地上の楽園にたどり着きました。「いのちの水」に載せてくださる解説で、深いところを教えていただき、山川先生の難しい文章も味わい深くわからないところはわからないままに、またはじめから再読しております。簡単な朝仕事を終え、神曲に向かうときはわたしの至福の時です。「いのちの水」六月号の「煉獄の歩みとは即ちこの世の歩みと見なすことができる。罪に気づかされ苦しみを受けつつ、天を仰ぎ赦しを受けていく。そして身近な導きをする使命を持った人、あるいは書物に導かれ、究極的には聖なる霊や生きて働くキリストによって導かれていくのがわたしたちの歩みであるからだ。」に励まされ、そして、ダンテが煉獄を巡ったのは三昼夜と七時間とか。わたしたちは耐えかねる長い苦しみの時と思いますが、人生とは本当に僅かなときとか、苦しくとも前方の光を見失わないよう一時一時を大切に歩みたいものと思います。九十五歳と八十九歳二人の歩みは次第に厳しくなりますが、前方の光を目的に歩みたいと思います。
徳島市
U.Y
一九四六年頃、私は協和発酵株式会社防府工場の中に出来た無線電信講習所の生徒でした。
その頃、先生は「日本復興とキリスト教」と題して、全国講演行脚しておられ、晩秋の頃、防府に来られました。私は夕方、早めに小学校の講堂に行きました。
板の床張りの上に綺麗な鎗が敷き詰められていました。満員の盛況で、私は一番前に座って講壇を見上げていました。先生は黒いガウン姿で壇上に現れ、移動黒板一杯に紙を貼り、その上に墨汁を太い筆に浸して、勢いよく神様のこと、宇宙のこと等を書かれ、説明しました。私にはよく分かりませんでしたけれども、何かすごいなあと思いました。次の日曜日に図書館に行き、賀川先生の著書「死線を越えて」を読みました。
神戸の貧しい人々のために尽くした犠牲と努力に頭の下がる思いでした。後に東京で先生の伝道集会に何度か出席してお話を伺いました。
一九四七年六月に防府の無線電信講習所を卒業して香川県丸亀市の父母の家に帰ってきました。
近くのラジオ店でラジオ修理をさせて頂くことになり、数日後、ラジオ店に入ろうとした時、向こうの方から、青年が肩から下げた袋をもって、こちらへかけて来るのが見えました。私が店に入った後、直ぐ外から何かがカウンターにどーんと投げ込まれた。私がそれをとってみると、本のようでした。私は店の奥の主人にこの本、頂いていいですか、と聞くと、主人は持って行け、持って行け、と言うので頂いて帰ることにしました。読んで見ると涙が出るように良い本であることが分かりました。それは新約聖書でした。おそらくアメリカの教会から日本の教会に、伝道用として多数送られてきた新約聖書の一冊を私が頂いたことになります。
こうして、私は少しずつ聖書と教会に関心を持つようになっていったのです。
千葉県
O.S
《ヘルマン・ホイベルス 「人生の秋に」より》
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうな時に希望し
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること…。
老いの重荷は神の賜物、
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために…。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつ、はずしていくのは
真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜して承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残して下さる。それは祈りだ…。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために・・・・・。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と・・・・・。
徳島市
O.H
レビ記、小預言のヨナ書、マラキ書、アモス書、そして、今ホセヤ書を読みだしたところです。何年になるか? 毎月一章づつ、丁寧に読みついできました。聖書巡礼の途上ですが、今、強く「神の愛」を感じています。偶像礼拝は勿論、この神の正しい信仰から離れた、すべての人間に神は「NO」を突きつけられました。どこまでも愚昧で、正しく神に信頼しないで、己の思いや知識に頼り、行動しているあわれな者であるのです。そんな、哀れな私に、神は病苦をあたえたもうた。これなくしては、強情な私は、神のもとには帰らなかったと、今強く思います。
多くの苦しみ、試みなどなどに出会うことは、神の愛が強く働いていることの証明であると、思っています。私は、神の前にひれ伏して、悔い改めの涙を流します。それでも、強情な私は、思い上がったり、利口ぶったり、それでいてどうにも立ち上がれないような、気持ちの沈んだ心に陥ってしまうことも年中あります。この、哀れな者を神は捕らえて、私の所に留まりなさいと、告げられます。なんと、平安であろうか。なんと、気持ちの浮き立つような感動か。平安であれ、平安であれ。
札幌市
O.M
毎月一回 主人は礼拝講話担当を始めると宣言。(なんで視覚障害を持った今になって…しかもレビ記…と私のつぶやく声も届かず)やむなくサポートのためにレジメを作ることになりました。毎月1章ずつ、レビ記、十二預言に入りヨナ書、マラキ書、アモス書、この十月にホセア書6章まで、なんと四九講までたどりつきました。話し手は視覚障害の主人、信仰もパソコンも1年生の私と二人三脚のスタートでした。見えないために話し始めると暴走してしまう話し手、サポートするためのレジメの役割は?…….そして次々にパソコン、プリンターのトラブル……いくら回を重ねても、「言葉足らざること、間違ったことあるなら主よどうぞお赦しください、指し示してください。」と主に祈りながら何とかその日の役目をはたすだけ。レジメはいつもぎりぎりセーフの出来上がりです。ここにふりかえる機会を与えられ、私に主が示してくださった大きな御恵みに気付かされています。 「旧約と新約を結ぶ聖句」これが二人で選んでその章から示されるレジメの最後の項目です。「旧約の学びは新約に通じている」ことを毎回実感として難しいからと垣根を作ってしまうのでなく旧約から何を学ぶか、その章から何を伝えて新約に通じているのか、私にとって旧約と新約の壁がなくなって「慕わしい聖書」と思えるようになりました。主人が病を得て二人三脚と言いながら神様は私を訓練するために、今はこの役割を私に与えられたのかもしれないと思っています。ホセア六章から「旧約と新約を結ぶ聖句」(マタイ五・4)(ロマ書二・4) (札幌市)
O.Y
私は、修道院を待つカトリック系女学校で中・高時代を過ごしました。キリスト教の学びに並々ならぬ期待を持っての入学でしたが、世俗の価値を追う学校の在りように不信感を抱き、「神に頼るのではなく、自分に頼る」と神様に背を向けました。
そんな私が、長女が入学した愛農高校で再びキリスト教に出会いました。聖書・讃美歌・お話と、学校に行くたびに出合う濃い時間。肩ひじ張って拒んでいたキリスト教を自然に受け入れる気持ちになれたのは不思議なことでした。加えて、愛農で出会ったAさんに心の底まで澄んだものを感じ、ああ、このひとの心には神様がいらっしやる、と実感して、学校時代からそれまで長い問わだかまっていたクリスチャンに対する不信が氷解していきました。
進学のことで悩んでいる最中の長男に「おかあさんがいつも正しいってわけじゃないんだ」と言われたのはそんな時間を過ごしていたとき。それほど強く言われたわけでもないのに、それまで私を支えていた「自分に頼る―自分の考えを生きていく上での根拠にする」という姿勢が、なんで?と思うほどもろく崩れていく感覚に続いて、天から降ってきたように「神様を拒否して自分に頼っていたのは間違いだった。神様はこのことに気づくまで私を生かしておいてくださったんだ」という感慨が全身を揺さぶるように湧き起こりました。私の新しい起点となった瞬間でした。
それからキリスト教にそろりそろりと足を踏み出しました。伝道誌を読んだり無教会集会のテープを間いたり、ひとりでこつこつ…。 近くに無教会の集会は無さそう。地元の教会の評判はもひとつ。鶏の世話で時間が取れない。狭い田舎のよそ者なのに地元のクリスチャンと関わって面倒なことが起きたら気が重い。だからひとりでこつこつ。
でも「ひとりでこつこつ…」というのもいかがなものか、と最近思い始めました。そんな折、次女が愛農高校に入学。また愛農に通う日々が始まりました。神様がいらっしやる愛農の丘に。
御心ならまた無理のない形で新しい出会いを与えて下さるだろう。祈ってそれを静かに待とう。そう思いながら、少しどきどきしているこの頃です。(養鶏・有機農業)
茨城県
O.K
一九九一年東京で個展開催。文芸春愁画廊は一階二階が展示会場。出品作は六十二点。
クリスチヤン画家として高名な田中忠雄先生が、御来場くださった。お茶を飲みながら歓談した。「岡田さんの絵は手間と時間のかかった絵ですね」と、感想を述べられた。
そして次作も見たいので連絡をするように、と言われて席を立たれた。先生のコートの裾に青い絵の具の染みが見えた。田中忠雄先生は本物の画家だ、とその時思った。
五年後、東京個展の時、御案内を差し上げたが、先生は逝去されていた。奥様から御丁寧な謝辞のお便りが届いた。
若い女性が幾度も幾度も会場を回って鑑賞されているので、お話をさせていただいた。彼女はクリスチャンで、ピアノ教師でもあった。リサイタルも聞かせてもらったが、豊かで若々しい演奏だった。
その後、彼女は設計会社の男性と結婚し、家も新築、三人の男児にも恵まれた。ところが、下の子が一才にも満たない時、突然、御主人が急逝してしまった。彼女は三人の子持ちの未亡人となった。
しかし、私の個展にはどんなに忙しくとも来場してくださった。会場で交わす会話の中でも彼女は愚痴ひとつこぼさなかった。ある時「この絵、いいですね」と、ポツリと洩らされた。それはガリラヤ湖で漁をする漁師を湖岸にたたずんで見守るイエス、の絵だった。会期後、私はその絵を彼女にプレゼントした。
小学校五、六年生くらいの男の子が、作品の前で聖書の箇所を正確に話し続けている。「よく聖書を読んでいるんだね」と、ほめると、後ろに立ってニコニコ見ていた父親らしい人が、私に名刺を差し出した。父親は牧師であった。
善養寺康之さんが来てくださった。大きな体に大きなカメラマンバッグを肩からぶら下げている。イスラエルから帰京したばかりとのこと。お話をうかがった。「イスラエルの空は黒に近い青い色ですよ」と、熱心に語ってくださった。「一度一緒にイスラエルに行きましょう。案内しますよ」と誘っていただいたが、実現する前に善養寺さんは亡くなってしまわれた。私は善養寺康之という写真家の全貌を知りたいと思った。早速、書店へ行って写真集を買い集めた。
ヨーロッパ絵画に 造詣の深い北海道大学の教授が「岡田さんの描く人物は、いずれもアジア的ですね」と、述べられた。嬉しかった。イエスもペテロも、そして私達もアジア人。
吉村孝雄先生が札幌に来られるというので待ち構えていた。奇跡をどう理解したらよいのか、お尋ねしたかったのだ。「神の全能を信じること」と、吉村先生は明解に答えられた。
家に帰ると早速、制作にとりかかった。奇跡をテーマに三点の絵が、あっという間に完成した。五つのパンと二匹の魚を描いた「五食二魚」八号。夜明けの湖上を歩むイエスと船から驚いて見詰める弟子達「黎明」(れいめい)二十号。五千人が食べて残した十二籠のパンと魚を描いた「十二籠」二十号。神に不可能はなし。神は全能なり。これら三点は二〇一〇年八月の第二十三回「聖書の世界」作品展に出品の予定である。
個展の会期中、毎日閉館間近かに来場される方がいる。勤務後、会場に直行して来るらしい。知人から個展の事を聞いたという。お茶とお菓子をすすめると、気持ちの良いくらい飲み食いしてくださった。帰り際、一言お祈りをさせてください、と言われるので、家内と三人で祈った。入口で入場者の足音がしたが、私達を見て入場をやめたらしい。足音が遠のいた。祈る姿は信仰のない人にとっては異常に見えるのか。その後彼は会場では祈らなくなった。彼と私は友達となり、二十数年来のお付き合いが続いている。
集会の主宰者でもある精神科の先生が、私の絵を買いたいが、値段はいくらかと尋ねたので、私は「売りません。プレゼントさせていただきます」と申し上げた。
三十数年前、無教会の集会があるので参加しないか、との電話を先生からいただき、YMCA会館に駆けつけた。奥の会議室には二十人の男女が調子外れの賛美歌を歌っていた。集会の帰り先生にかしわそばをおごってもらった。おいしかった。温かかった。先生は高齢となり、歩行困難で車椅子生活となられた。奥様が車を運転して集会に通われている。家庭集会の時、先生の書斎に入らせていただいたら、私の描いた絵が医学書の隣に飾ってあった。題名は「善きサマリヤ人」だった。
北海道
O.T
わたしの町に新しく教会が出来た。十八歳の頃の事である。私は青年部として教会の役員の一人であった。二十二歳の頃内村先生の聖書の研究を読んで無教会者のつもりで居た。内村、無教会と云う響きで心が躍っていた。教会の中での無教会者であった。 それから五十数年教会に出入りしなかったが、妻が町内の信者の人との交わりがあり、会に出入りする。去年から新しく牧師さんが来て牧会しておられる。聖日の礼拝に出る事もあり、再び教会の中の無教会者となる。
聖餐式は受ける気がしないので受けない。妻も洗礼を受けていない。その為教会員ではない。私は昔教会に籍が残っている、と牧師が喜んで来られたが聞き流す。天国には教会も無教会もない。イエスキリストにおいて一つである。
教会の掲示板に聖句を書けと云われて受け入れる。それから朝三枚聖句を書くが、今は二枚が私の朝の日課となる。判りやすい聖句を上と下との小屋と私の家に掛けている。時に人が立ち止まって読んでくれている。
朝の祈りは書いた聖句から取る。マルコから入ってパウロの書簡の所々、今はルカ伝に入っていて昨日で終わる。特に十九章からキリスト教の中心課題が多く進まない。聖書は学問的でなく、神と人との大切な事をそのまま書かれている時には霊的なものもあり理性では信じられないものもある。二十二章三一節「シモンシモン、サタンがあなたを麦のようにふるう」三三節「主よわたしは獄にでも、又死に至るまでもあなたと一緒に行く覚悟です」その前にイエスが云われた「わたしは、あなたの信仰がなくならないようにあなたの為に祈った。それであなたが立ち直った時に兄弟達を力づけてやりなさい」。
二十一章では旧約の予言から世の終わりのことが書かれていた。イエスは云われた。「あなた方はこれらのものを眺めているが、その石の一つでも崩れさせないで他の石の上に残ることもなくなる日が来るであろう」。
三十六節ではイエスは御自分の事を人の子と云われている。内村鑑三注解書ルカ伝ではイエスは人の情を持った人間であったと云っている。私はその意味がよく判らなかった。神の子イエスがなぜ人の子と云われるのか。神の約束の成就する為の出来事なのにイエスが血を流し人の子として私達と共に罪を負い、死んで下さった。私にとって実感としてしばらくは判らないのかもしれない。十字架の記事が私を悲しませないのは、イエスの復活が後に有る事を知っているからか、まだよく判っていない。復活のイエスは飲み、食べられたと有る。ペテロは激しく泣いた。ペテロの覚悟は鳥が三度鳴く迄であったのか。イエスの云われた「立ち直った時に兄弟を力づけよ」。ペテロは大使徒となった。
二十四章四六節「キリストは苦しみを受けて三日目に死人の中から復活する」。多くの聖人たちの証言によって今では一大宗教のキリスト教である。私は、天に籍をおく者の一人、天の力を受ける者になりたい成りたいと、祈るものである。
広島県
O.K
主の御言葉は正しく
御業はすべて真実。
主は恵みの業と裁きを愛し
地は主の慈しみに満ちている。
(詩篇三三・4~5)
板野郡
O.F
二〇〇九年九月九日、水曜日の北島夕拝で旧約聖書続編エズラ記(ラテン語)九章を学びました。
「その時には、救われた者、自分の業または誠実な信仰によって怒りから逃れることのできた者は皆、わたしがあらかじめ語った危険を免れて生き残り、永遠の昔から聖別しておいたわたしの地と領域で救いを見るであろう。そのときわたしの道を悪用した者は驚き、わたしの道をさげすんで捨てた者は、懲らしめの中にとどまるだろう。生きていたとき、わたしの恩恵を受けていながら、わたしを認めなかった者、まだ自由を持っていながら律法をさげすんだ者、悔い改めの余地があったにもかかわらず、悟ろうとせずに軽んじた者はすべて、死後、懲らしめを受けながらそれを認めねばならないのである。」 (エズラ記九・7~12)
「家が建てられたことのない花咲く野原に行き、野の花だけを食べなさい。肉を食べず、ぶどう酒も飲まず、ただ花だけをたべなさい。そして絶えずいと高き方に祈りなさい。そうすれば、わたしは来て、あなたと語ろう。」 (九・24~25)
この箇所の学びから世の終わりには神様を信じていた者は、聖別された所へ連れて行ってくださるが、信じない者は裁きの中にはいっていても悔い改めない人は裁きを受ける。また、神様からいろいろなものが与えられているのに神様に従ってないのは神様の御心に反している。と教わり私 たちはいつも、いつも神様を信じて御心にかなって従ってゆけるような信仰でありたいと願っています。
また24節からの野の花だけを食べなさい。の不思議な書き方は意味が全然わかりませんでしたが、人々の心の目を覚まさせて罪の中にはいってゆかないように祈ることと教わったのが心に残りました。この日の学びは月日、学び、賛美もリビングブレイズ九番で九九九九の忘れない記念の日で印象に残る学びでした。九という数字はこの世では忌み嫌われ、病院や部屋などの番号には特に使われてないですが、私 にとっては以前から神様から祝福された数字でこの日もお恵みいただき感謝でした。 (中途失聴者)
板野郡
O.K
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものと思われず、むしろ悲しいものと思われている。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
(ヘブル書十二・11)
このみ言葉は私を信仰に導いてくださったS.G先生が私にくださった、初めての聖書のみ言葉でした。多分十六歳の頃のことでした。子供の頃の私は、きれいな花柄の洋服や、フリルやレースの飾りのついた洋服などを着せて貰って、わりに幸せな時代だったと思います。身体も弱かったのですが、小学生の頃は、学校に行くのが嫌だと泣いて駄々をこねては、毎朝母に送って貰って随分困らせた記憶があります。
ところが、一九四五年三月二十五日の夜明けの名古屋大空襲で、家も家財もすべて焼けてしまって、母の実家にお世話になることになりました。その年の八月には戦争が終わり、家族が名古屋に帰ることになりました。
その頃、上の兄は東京の大学生でした。まだ東京帝国大学だったそうです。せっかく立派な学校に入れたのに、家族が貧乏になったから退学するのは勿体ないとのことで、母の弟つまり叔父が学費を出してくれることになり、ついでに、五十坪ほどの土地付きの中古の焼け残った家を一軒買って貰い、家族は名古屋に帰って行きました。
ところが私は残されて母の弟三人が共同経営している毛織物工場で働かされることになったのです。終戦直後のその頃は景気が良く、叔父たちも成金時代でした。三十人位の若い女性が寄宿生活で働いていました。でも何故か叔父たちは私に冷たく、それはむごく厳しい扱いをしました。子供の頃仲良しだった従姉妹五人も冷たい目を向けるようになり、口もきいてくれなくなりました。その頃父はすっかり無気力になり、母は何故か気が強くなって男の子は大事だけど、女の子はどうでも良いとの考えだったのかなあ・・と思いました。
私は進学も許されず、夢も希望も失せて、自己中心の意地悪な汚い心の人間になってゆきました。身体はガリガリに細ってよく病気もしました。そういう苦しさを両親には言いませんでした。よく叔父に叱られ、自分の子たちには、「○○ちゃん」と優しく言葉をかけるのに、私にはいつも呼び捨てでした。赤の他人だったらもっと気楽に過ごせたのに・・と涙をこぼすこともありました。どんどん周りの人たちや両親への不信感が募って駄目人間になりつつありました。
そんな頃、私はキリスト教に導かれ始めたのです。村のお宮さんにお参りに行く事はあっても、この世の中に人間の罪を赦し、救ってくださる神さまがおられる。そんなことは夢にも思いませんでしたし、とても信じることができませんでした。まして、S先生のくださったヘブル書のみ言葉の意味を理解することもできませんでした。でも少しずつですが、心の中の何処かに神様がいてくださるという安心感みたいなものが芽生え始めていました。時には聖書を開いてみるようにもなりました。
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるのである。」
いつしかヘブル書のこのみ言葉に心ひかれ自分を励ましていたように思います。今でも愛唱しております。
一番最初に覚えた讃美歌は五一五番の
十字架の血に清めぬれば、来よとの御声をわれはきけり。
主よ、われはいまぞゆく、十字架の血にて、きよめたまえ。
でした。誰かが歌っているのを聴いて覚えたのですが、歌詞の意味も、ましてや十字架の血の意味すら知りませんでした。
この世的な惨めさや悔しさばかりの日々でしたが、いつしか、少しずつ、本当にのろのろでしたが、私の心の中に信仰の芽が息づきはじめていました。上の兄が東京の新聞社に就職して、外国特派員になって、西ドイツのボンとか、名前を忘れましたけど、アフリカの何処かに駐留していた頃、あちらのキリスト教についての手紙をよくくれましたし、下の兄や弟は私と喧嘩をすると、「それでもお前はクリスチャンか・・」とよく言いました。家族の中でもいくらか私の信仰を認めてくれるようになっていたと思います。
けれども、家族は一人も信仰が与えられませんでした。下の兄は六歳になったばかりの男の子を残して、年若くして死んでしまいましたし、弟も先年逝ってしまいました。上の兄は八十四歳。東京に住んでおりますが健在です。父亡き後、その頃は名古屋に帰っていた私や母のためによく送金して助けてくれました。義姉も何一つ文句も言わず優しくしてくれました。
神様の御臨在を知らされてより、五十年余りになりますが、苦しいこと、辛いこと、不信仰の限りを続けたことなど悔いばかり残りますが、嬉しいことや楽しいこともいっぱいありました。主に在る素晴らしい先生方や多くの兄弟姉妹との出会いにも恵まれました。どんなにか沢山のお祈りとお導きを頂いたか知れません。そして今年は、吉村孝雄先生に出会い、先生の周りに居られる方々とのお交わりも頂くようになりました。
この十四・五年は身体が弱って、三度の入院手術も受けたりして、現在も病院の整形と内科のお世話になっておりますが、弱いながらも守られ支えられている幸いをどんなにか感謝に思います。
「人の子は何ものなので、これをみこころにとめられるのですか。」
詩篇のこのみ言葉が実感として心に沁みます。現在でも心からの信仰者としてほめられる者ではありませんが、神さまは私がどんなに背いて罪を重ねても、余りに惨めな弱さに失望して神さまから逃げ出そうとしても決して見捨てることなく、優しい愛のまなざしで見守っていてくださいました。神様のめぐみはいつも私を追いかけてきました。そして私は神さまにどんなに背いても信仰が捨てられませんでした。
「おおよそ鍛錬というものは、当座はよろこばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に義という平和に満ちた実をむすばせるのです。」 (ヘブル書より)
本当にそうでした。その時は気が付かず知らずにいても、ああやっぱりあれもこれも神さまのお恵みだった。神さまが助けてくださったと、判らせて頂くのでした。私は長い間、朝は四時前に起きて聖書のみ言葉を二章読み、一時間余り声を出してお祈りするお恵みを与えられております。若い頃は祈ることすら知らなかったのに、心を込めてお祈りできるのも年を重ねてきたからのお恵みでしょうね。
愛知県
K.K
十月九日から、袋井市にあるデンマーク牧場で行われた「日本キリスト者医科連盟、静岡部会」に参加した。
始まりはMさんだった。Mさんを訪問したときに、「一緒にTさんの働かれている、デンマーク牧場にいきましょうね」と言ってくださっていた。Mさんは召されたけれど、いつか行きたいと願っていた。ちょうど、Tさんより、日本キリスト者医科連盟、静岡部会が、デンマーク牧場で行われることを知らされた。「日本キリスト者医科連盟」という名前も知らなかったけれど、参加したいと思った。Tさんが「医学と福音」という会誌を送って下さり、この会のこと、日本キリスト教海外医療協力会の母体となっていることなど、初めて知った。まだ取っていなかった夏休みを最善に用いたいと思い連休を取った。会は十日だったけれど、九日から、案内してくださるということで、喜んで九日から訪れた。
袋井駅に着いて、すぐに目に飛び込んできたのが、迎えに来てくださった、こひつじ診療所の看護師のSさんの笑顔だった。「来て良かった」と思えた。そして、ずっと心のこもった対応をしてくださり、心をかけるって、こうするんだな、と教わった思いがした。
デンマーク牧場の中に、特別養護老人ホーム「ディアコニア」、児童養護施設「まきばの家」、自立援助ホーム「こどもの家」そしてTさんが診療されている精神科診療所「こひつじ診療所」がある。診療所の窓からは羊がゆっくりと歩いているのが見えて、その向こうに低い山が見える。その山の合間の牧場に牛や山羊、羊が放牧されている。五十ヘクタール(約十五万坪)と聞かされ、思っていたよりもずっと広く、静かで、主の風が吹いていると思った。牧場の中にある小さなログハウスのテラスで座って眺めていると、心が溶かされて、主の平和に包まれた。
四十年も前に宣教師がこの地に来られ、酪農をしながら伝道されていたときいた。それは、継続が困難となってしまったけれど、いろいろな経緯を経て、いま、こうして、心を病む子どもたちや老人が神様に癒されながら過ごす場となっている。そこに大きな神様の御業を感じた。そして、その大いなる流れがわたしの心にも注がれた。
夜、静かな主にある交わりがもたれ、今までの神様の導きを印刷物などを用いて説明してくださり、いろいろな、主に起こされた人の思いを知らされた。そして、今まで知らなかった「I」という方の名前を何度も耳にして、すでに天に帰られたその方と、今出会ったような気がした。
十日の集会はデンマーク牧場の中の施設のホールで行われた。講師はk氏。日本聾話学校や恵泉女子大で校長をされていた方で、医科大学で哲学を教えていたこともある哲学の先生だった。謙虚で、親しみやすい、温かい方だった。テーマは「真実な交わり」であった。それは神の愛の導き、ということであり、出会いを通して導いて下さる神様の憐れみと愛を感じた。そして、K氏が、国際基督教大学で行き詰まり、やめようかと思ったときに、声をかけてくれた友人のこと、それからブルンナー氏との出会い。本物の信仰者と出会って、そのブルンナー氏に働いているキリストの力を知りたいと思うようになったこと、また、京都大学でのI氏との出会いのことなど、引き込まれるような語り口調で話して下さり、心に残った。その中でもわたしは、言葉をかけることは心をかけること、というメッセージと、命は命からでしか育たない。自分の命を、一番良きことのために使っていく、ということが心に残った。
牧場を通る風。ヒツジの声。出会う人の笑顔。とてもおいしかったヨーグルト。いつまでもいたいようなデンマーク牧場に後ろ髪を引かれながら、その夜、浜松に向かった。翌日の浜松聖書集会の礼拝が、浜松駅前会場で開かれるためであった。そこでもひきつづきK氏が語って下さった。「エッファタ、開け」というテーマで、イエス様が耳も聞こえず、舌の回らない人の耳に指を入れて、聞こえるようにされた個所からの講話だった。
イエス様に連れ出され、そして手を触れられた。手を触れるとは心を触れること。そしてイエス様が神を仰ぎ、神の力によって、癒されたことをわかりやすく話して下さった。わたしも、いつも主イエスに手を置かれていたい。そしてまた、患者さんにも手を置いていこうと思った。心がすぐに閉じないように、イエス様に「エッファタ」と言われていたい。
真実な出会いと交わり。これは一方的な神の愛によって与えられる。そして、これは切に求めて行くときには、必ず神様は次々と与えてくださり、新しい扉を心にくださる。与えられた扉を、この世の思い煩いや、生活の忙しさで見失わないように、その扉に心を注いで開いていきたい。
神様はこれからわたしに何を与え、どう導いてくださるのだろうかとデンマーク牧場から吹く風に思いをはせて問いかけると、風の向こうでM.Tさんが笑っているような気がした。 (看護師)
徳島市
K.M
「ある程度は、他人のために心配したり、はたらいたりしなければ、どんな人も精神的に健康をたもつことはできない。
だから、家族のためにしばしばつらい仕事をしなければならない忠実な母親たち、自分のつとめをただ賃金のための関係だとは解していない正直なお手伝い、勤め先きの工場の繁栄をもそれ相当に大事にする善良な労働者たち、こういう人びとは、金持ちのなまけ者よりも幸福である。だから、〈働いて絶望しないこと〉である。
しかし、自分ひとりのためだけではいけない。それでは十分な満足は得られない。」
(ヒルティ著 「眠られぬ夜のために」第二部 十月二五日)
ある日の夕拝でヒルティの右の言葉を学んだ。
私は、心が暗闇に落ち込み、絶望の中にいる時、どうしたらいいのか、分からない。その時の、み言葉の学びでヨハネ九章の「神の業がこの人に現れるためである」と学んだ。
その場から逃げたくなる時にでも、この言葉を信じて、苦しみをも受け入れていきたいと思うことができた。
ヒルティで学んだ、他者に対する愛があると、先には、希望があると信じたい。いつも祈れない自分の弱さも、み言葉を学ぶことによって示され、神様の愛の深さも知らされた。
この愛の神様を信じ、苦しみから逃げないことで他人も自分も、道が開けて行くのだと思うことができ感謝です。
(美容師)
徳島県
K.Y
詳しくは知らない方もおられると思いますが、私は、長く大学病院に入院中です。それは脊髄腫瘍をALS(筋萎縮性側索硬化症)と誤診されたために10年間手術が遅れ、現在のような寝たきりの状態となりました。 悔しくて耐えられないのと、病院の誠意のなさに絶望したのとで、裁判を起こしました。一部勝訴でした。今は信仰によってそのことは乗り越えました。そのことは悩みでも何でもありません。私の今考えていることは、病院の看護師との関係です。
私が裁判を起こしたのは、10年以上も前のことですが、若い看護師にも伝わっているらしく、みんなそのことに触れません。
私としては何でも聞いてくれても全然差し支えないのですが、そうではないのです。私から入っていけばよいのですが、私はそんなに多弁なほうではないし、自然と会話が途切れがちになってしまうのです。その中でも、一人だけ新人の看護師が興味を持ってくれて、病気のことから、裁判のこと、考えていることなど、しつこいくらい聞いてくれました。これは本当に嬉しかったです。
これからは、冗談もまじえて出来るだけこちらから話しかけていくように努力したいと思っています。私の性格上難しいことですが、自然とそれが出来るようにします。病院にいることも一つの神様が与えて下さった恵みであり、環境なので、それを大事にしていきたいと思います。希望は絶望に終わらない。
徳島大学病院
まことのいのちは苦しみの日に―ヒルティの言葉から―
K.H
主は我が力
あなたの憂いをすべて主にゆだねよ、
主はあなたに代わり配慮される。
あなたの家族のための憂いを
われらの信ずる主にゆだねよ
あなたはいたずらに策を案じ考えるだけだ。
しかし主には行く道と将来が開かれてある。
主は心配をきらうが、あなたがささげる
天に向かっての祈りはよろこんで聞き給う。
あなたがやっと一つの策を立てる間に
主は千もの策を持っていられる。
なにびとも勝手気ままに
あなたを害することのないように
主はあなたへの恵みのために
みんなの心を小川のように導かれる。
主のみ手から苦しみも喜びも
安んじて受け、ひるんではならない。
主はあなたの運命をすぐにも変えられる。
しかしそれを悪くするのは、あなたの嘆きだ。
いたずらにあなたを苦しめるために
苦難が与えられたのではない。
信じなさい、まことの命は
苦しみの日に植えられることを
(ヒルティ著「眠られぬ夜のために」三月十五日より)
今年も松山での祈りの友の会に参加でき感謝でした。
祈られ祈る午後三時、本当にこの時を覚えて祈っていきたいと思いました。 集会に参加でき、御言葉を学び、賛美、礼拝することができて感謝します。
鳴門市
K.S
目に見える事に惑わされ、気持ちが沈みがちな時があります。
創世記の中で人が悪魔に誘惑されて食べてしまった「善悪を知る木の実」は全ての事を神抜きに知る木の実である事を学びました。
全ての事を神抜きに知る事が人間を神の国から遠ざけてしまう事なら、全ての事を神を通して理解する事は神の国に近づく道です。
しかし、神の思いは深く大きく、私の浅はかな考えで「これが御心だ」と判断し、後から間違いだと気付かされる事がありました。
御心が分からない時、気持ちが沈みます。でもそれは、神様からの声を「聴こうとする」が、自分で「思考する」にスリ替わっていたせいだと思います。
最近、聖書の箇所で心の中に浮かぶのは
「上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」(ルカ24.49)です。
日々の仕事をこなしつつ目を凝らし耳を澄ませ、心の方向を神様に向けていたいです。 生きて働く神様が予期せぬ所から必ず答えを与えて下さいます。
北海道 (養豚業)
K. H
十一月にまた一つ歳を取りました。歳を重ねるごとに理想とする人間に近付けると思いきや、「厚顔無恥」、心に謙虚さもなく、チョッとした隙間を見つけては傲慢さが顔を出します。
祈っていても、言葉だけが上滑りしている感が拭えなく、心から祈れません。
しかし神様は、溢れんばかりの恵を与え続けて下さっています。
神様に仕える者として下さい、小さき者として下さい、常に神様と繋がっている者でありますように…
あなたの御言葉はわたしの道の光、 わたしの歩みを照らす灯
詩篇一一九の一〇五
北海道
K.M
澄み渡った秋の空
どんより曇った冬の空
花の香り満ちた春の空
照りつける夏の空
そんな空に向かってひと月一度、私は鳥になって
羽ばたく。翼の上には「よろこびの訪れ」を載せて
長い看病に明け暮れている方
次々に与えられる試練に耐えている方
不治の病を元気に受け止めている方
解決が難しい人間関係に悩んでいる方
年老いてひとり主と共に暮らしている方
さまざまなこの世での問題に活路を見出そうとしてい
る方々へ。そしてさびしい方々へ。
この「よろこびの訪れ」(「いのちの水」誌)が届けられる
と、魂の乾きを癒され、御国への旅に元気を与えられる。
鳥になって、待っていてくださる皆様の許へ伺う楽しさ。
主よ!翼が折れるまでお用い下さい!
山梨県
K.T
私は、今年の3月25日、心臓の負荷テスト中に心筋梗塞を起こしました。幸いにも病院内での発作でしたので、緊急手術を受けることができ、二度の失神にもかかわらず、電気ショックで蘇生することができ、まさにいのちを与えていただくことができたのです。
30年以前、肋膜炎で水が溜まったために強い痛みがあったにもかかわらず、半年もの間診断がつかなかったことがありました。死につながる癌などが隠れていて、それを見つけることができないでいるのに違いないと思ったことに始まって、「どのように死んでいくのか。」と、肉体の死というものについて考えることはありました。
初めの内は、「だれもからうらやましがられるような死に様」にあこがれていましたが、最近では、「痛みに苦しもうが、叫びながら死のうが、その時のあるがままの状態に委ねて死にゆくのが自然であろう。」と考えるようになっておりました。
頭の中では、自分の死というものに向き合ったときに、全てを神様に委ねて、かなり自然にそれを受け留められそうな気になっていたのですが、実際にはそうではなかったのです。
心筋梗塞の数日後から、眠りに入ろうとすると自然には眠りに落ち入ることができずに目が覚めてしまったり、また、家族や友だちとはぐれて独り取り残されてさまようような、とても気持ちの悪い悪夢を見たりするようになったのです。
「眠りに入ると、二度と目覚めないのではなかろうか。」という、肉体の死を恐れる気持ちが、潜在意識の中にしっかりと潜んでいたことを教えられました。
「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。」(ヨハネ十一の25)
救いの恵みを、観念的にしか信じることができていなかった私ですが、このみことばを助けにしながら、神様の愛に支えられながら、これからを歩みたいと思います。
「わたしを信じるものは、死んでも生きる。」と、その救いの恵みを、ただ信じさえすれば、死の恐怖にさえ打ち勝って、大きな力で支え守られているという安心感と喜びとを与えてくださる神様、本当にありがとうございます。
(はり治療院) 熊本市
K.M
人は待てないことから「過ち」を犯す。
キリシタンのごとく、初期のキリスト者のごとく、時の権力者のきびしい迫害を受けてもなお、希望をもって待ち続けることができるのが、真のキリスト者の姿であろう。
そんな視点から考えると、私は待つことができているのだろうかと思われる。
この原稿を書いている今も、色々な問題が山積みになっている。 自分の問題に関してさえオロオロし、まして自分の周囲の問題にもっとオロオロしている自分があり、自分の弱さを思わされる。
自分自身の兄弟姉妹の入院するかしないかという判断をすぐに出さなければならなかったとき。友人との連絡が途絶えて、この原稿の締め切り日に、借りている部屋を大家さんに返さなければいけないのに,一向に連絡が取れないことに平安を持ち続けられない今この時。
私はただただ、「主よ、どうか助けてください、憐れんでください。」と祈ることしかできない。
私が自分の判断で処理した問題はその時の対処でよかったのか。もっと待って別の判断を下した方がよかったのではないか…。 いくら考えても結論が出ない。
しかし、時をも支配なさる神様に全てを委ねることができる。
時間の許す限り、精一杯のことをしてみて、後は主の御心に委ねるという道が与えられているのだ。
「主よ、どうか助けてください、憐れんでください。」 (コンビニ店員)
東京都
K.R
昨年末、男の子を授かりました。生んで直後に、その子の顔を見て「神様からのプレゼントだ」と思いました。すると間もなく、病院からの記念品に詩篇127編3の「子供たちは神様からの賜り物であり、褒美なのです。」という御言葉が書かれていて感動しました。 私のようなもらう資格もないような者に褒美を下さった神様に感謝でした。
「一人の人生が始まってしまった。」考えるとどうしようもない不安が心に渦巻くこともありましたが、でも私には神様がいる。心強い神の臨在がある…それに目を向ければ恐れは何もなくなりました。そして息子の人生に私がいることが主からの計画だとしたら、喜んで色んなことを共に乗り越えられます。
出産からもうすぐ一年になります。
「親がなくとも 子は育つ」といわれるように、新米ママで至らないことばかりの私の側で勝手にスクスク育ってくれました。今ではハイハイをし、つかまり立ちをし、必要な時には「にこっ」と笑いかけ、自らの手で食事をしたいとスプーンを持つようになりました。他の子ではなく、私に与えられるべきはまさしく、この子…当たり前ですが心からそう感じます。感動したり、悩んだり。こんな風に時間を積み重ね学びながら子供と共に成長していく日々。それが神様からの「贈り物」なのですね!
わが子に対して望むことは一つだけです。(始めは沢山ありましたが)聖書を、神様を慕ってほしい。これだけです。
これからの彼の人生、私から教えられる事はほとんどないと育児をしている中で感じてきました。息子から教えられることは多くあるのですが。私にできる唯一の事は側にいる事、それだけなのだとしみじみ思わされます。 でも私はいつ、命が尽きるかわかりません。そんな風に先の事を考える時、ただひたすら祈ることは「神の愛を知るチャンスが彼の人生に必ず与えられますように」です。私を支える心強い神の愛、臨在を息子にも知ってもらい、その中で人生を進んでほしいです。
神様、これからもわが子と私たち家族の中にいてください。よろしくお願いします。 沖縄県
K.I
見よ、主なる万軍の神は
支えとなり、頼みとなる者を
また、パンによる支え、水による支えをも
エルサレムとユダから取り去られる。
勇士と戦士、裁きを行う者と預言者
占い師と長老
五十人の長と尊敬される者
参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。
(イザヤ三・1-3)
ここでは、支えの重要性を学ぶことができました。
私たちが毎日歩んでいくために大切な支えと思っている物、人、お金などは、永遠に存在する物でなくある日突然無くなってしまうようなたよりないものであることを思わされます。また、これらは神様から必要なときに与えられた物で、神様の支配の内にあることを学びました。
すべてを創造されて支配されている神様が、わたしたちの本当の支えであり、それを求めていくことが確かな歩みができると学びました。
徳島市
はり治療院、 盲学校講師
K.T
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。(コロサイ二:六~一〇)
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。(詩編五一・一二~一四)
神様はすでに、罪も赦して、勝利して下さり、私たちをどんなときも支え、導いて下さるので、主に結びついて歩んで行きたいと思います。
徳島市
K.K
天のおとうさま、私に祈ることを教えて下さってありがとうございました。いつもあなたから離れようとする私を、じっと側で見つめていて下さる。その温かさを、もっと感じることができますように。
あなたの足元に座ってその声を聴く事ができますように。
そしてその声に従ってゆく強さをお与え下さい。
多くの友人や家族と共に、喜びを分かち合う日々を与えて下さったこと、心を打つ感話を聴かせてもらったこと、そのひとつひとつに、あなたの大きな力が働いていたことを感じます。
その大きな力で、私たちを支え、来年もまたこうして集まることができますように。
大切な友が、たったひとりで悩みを抱え苦しむことがありませんように。
この集会のために、遠くから足を運んで下さった吉村さんに感謝します。徳島で、私たちのためにお祈りして下さっていたおひとりおひとりにも心から感謝します。
主のお恵みがありますように。
北海道
K.T
それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺す、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。
それが何であるかなれば勇ましい高尚なる生涯であるとおもいます。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物誰にも 遺すことのできる遺物ではないと思います。(内村鑑三)
上記の講演は内村鑑三が箱根で行われたキリスト教夏季学校 第六期夏学校の第二回の講演の最後に述べた講演である。第一回では金を残すこと第二回では思想 大文学、土木事業 などであるが これらは誰でも出来るものではない。誰でも出来るものは、勇ましい 高尚なる生涯である。と上記の言葉でおわっている。
私は二〇〇六年 無教会全国集会が札幌で行われた時 山城俊昭氏が英訳した原本を入手したのでそれを参考にした。
岡山市
K.K
健康にはいつも自信のあった私は多少無理をしても「神様の支えがあるから大丈夫」と体を酷使してきた。
しかしその健康に昨年長男を妊娠したあたりから陰りがでてきた。5年前に長女を妊娠したときは妊娠中毒症の症状らしきものはあったが上記をモットーに出産ギリギリまで仕事をかけもちしながらバリバリ働くことができたのだった。
長男妊娠時も同じように動いていたら切迫流産で入院。妊娠中毒症も前回あったためハイリスク妊婦としてずっと絶対安静と入院の繰り返しだった。
出産後はようやく体力も回復し今までどおりの生活になるかとおもいきや急に血圧値が200近くなり割れるような頭痛が続くので専門医を受診。さまざまな検査の結果で「原発性アルドステロン症」と診断が下った。腎臓の上の副腎に腫瘍ができホルモンが過剰生産されるため血圧があがるらしい。薬が全く効かない。体の電解質のバランスも崩れ非常にだるいため家事をするのがかなりしんどくなってきた。一日中横になっていたいが子供がいると休めない。実家が遠いので子供達は自分でみなくてはならない。託児所に預けることも考えたが長女は昨年起こした事故の後遺症で預けることは難しく長男も月歳が低すぎて難しい。家事ができないので家は荒れ放題で一番困ったのは三度の食事と長女の登園拒否だ。
何だか愚痴のような文章になり恐縮だが家庭を持つと健康は自分の問題だけでないことがわかる。まずは子供の生活の保障ができなくなる。今までは神様は私の健康を「支えてくれた」が今度は私の不健康を「支えてくれた」。
大変な時期はいろいろあったが病気のおかげで人に助けてもらうことを覚えた。自分になにかあったとき子供をどうするか考える時間ができた。同じような境遇の人がいればどのように手助けができるかわかった。主人が少しは家事ができるようになった。神様の御言葉が常に側にあった。感謝である。
おかげさまで最近は体調が戻りつつあるのでご心配おかけしました。
足立区
K.E
今年も十月、お誕生日の頃に会うことのできたHくん。養護学校で出会ってから十七年、いつも変わることのない深い瞳で私をみつめてくれる。
発作が多く全面介助のHくんを担任させていただいてから祈ること無しに関わることの出来なかったそんな大切な存在でした。
まだはっきりとしたキリスト者でなかった私を祈りをとおしてイエス様に導いてくださったのはこのHくんでした。
Hくんが卒業した後、Hくんがいないと泣きながら探している夢をみました。どんなにかこのHくんに私の方が支えられていたか気づかされました。
神様はすべての人をそれぞれの場で必要な存在としてつくってくださっていることを実感します。
毎年会う度にじっとみつめてくれるHくんの深い瞳の中に神様の愛のまなざしを感じて不思議な生きる力をいただくのです。 (元高校理科、養護学校教員)
徳島県
G.T
慈しみ深き 友なるイェスは
罪 咎 憂いを 取り去り給う
心の嘆きを包まず述べて
などかは降ろさぬ 負える重荷を
慈しみ深き 友なるイェスは
われらの弱きを 知りて憐れむ
悩み悲しみに 沈める時も
祈りに応えて 慰め給わん
特に、二番までの言葉に、どん底にいる自分の為に温かく慰めて下さってる。
沈んだ魂が救われる希望の光があるのかもと
夫を亡くしたばかりの去年は 讃美の度に涙が溢れてきた。
感謝と悲しみの混じった涙がボロボロと溢れてきた。
今なお、 罪、とが、憂いだらけの自分に
この讃美を私の為に用意して下さった
友人の那須佳子さんに感謝をして、又 なみだ涙。
今は 認知症の母の施設に行く度に一緒に讃美している。
我がままになりがちな母もこれは気に入って歌ってくれる。
母の心の平安を祈りながら私も合わせて讃美する。
(新聖歌 二〇九)
高槻市
K.T
「主なるイエスを私は信じる」
主のみ姿は この目で一度も
見たことはないが 口から心に
語りつがれた み言葉により
主なるイエスを 私は信じる
私を罪より 死より救うため
十字架につき 命をすてさり
まことの愛を 示したもうた
主なるイエスを 私は信じる
悩みの坂道 登り行く時も
あわれみ昨日も 今日もいつでも
血したたるみ木で とりなしたもう
主なるイエスを 私は信じる
私はこの詩を読んで、次のように思いました。
どんな困難、悲しみが襲ってきても 目には見えないけれど今も生きて働いて私達を導いてくださるイエス・キリスト様を私は信じて歩んで行きます。 (主婦)
鳴門市
K.M
高松市での無教会のキリスト教集会(佐々木宅にて)に初めて参加するにあたり、どうせならその前に香川県東部の徳島県に近い引田町の南原繁先生の歌碑を尋ねたいと思いました。
午前十時に家を出て、高速道ではなく一般道路を走行して現地に向かいました。ゆっくり走ったので、十二時半過ぎに引田町の公民館に到着しました。そこの管理人に相生小学校に至る道を尋ねました。その小学校には郷土の庭と希望の庭があり前者には先生の短歌が、後者には先生の胸像と先生の別の短歌に加えて尋常小学校を卒業した際に当時離れて住んでいた父親に決意の程をしたため、成長した自分の姿を知って頂くためにか、「我が望」という決意をしめす短文を書き留めております。
その短文が石板に書き記されておりました。
私ハ今ヨリ進ミテ 高等小学校ヲ卒業シ 身体ヲ強壮ニシ 他国ニ渡リ 学ヲ修メ 教育ノ法ヲ 進歩セシメ 以テ国益ヲ広メン丁ヲ望ム
南原繁
先生はこの決意文に示された通りのお仕事をその後の人生に於いて達成されたと思います。若年である九歳の少年の意気を示すこの文に接して熱い思いが伝わってきました。その後、昨年十二月六日に建立された引田港の傍の高台の緑地にある歌碑を見に行きました。
城山の かくめる 引田港 われ少年にして ここに船出しき。
ここにも熱い思いが有りました。
引田港を発つて高松に向かった時間は午後2時でした。天気予報通り天候が悪化し、雨が降り始めました。
高松まで四十kmあります。道路が混んでいなければ、午後3時より始まる会合に間に合います。そうでなければ間に合いません。何とか時間内に到着することを念じつつ走行しました。期待に反して道路は混んできました。
国道11号線とサンフラワー通りが交わる地点に達した時ラジオの時報が午後3時を告げておりました。初めて尋ねるお家は雨の中に明かりを灯しておりました。お約束の時間に遅れたにもかかわらず、快く迎えてくれました。本当に申し訳なく思っております。
当日教えていただいたのはマタイによる福音書の第1章のイエスキリストの系図です。旧約聖書との関連とか、ヨハネによる福音書の中に記載されている内容との関連とか、今まで知らなかったことを懇切丁寧に教わりました。
僕は朝型人間なので午前中に開催される集会のほうがありがたいと申し上げました。距離的には近い高松より遠方である徳島の方が好ましいと申しあげました。集会が終えて自宅の所在地である四国中央市に戻ったのは午後8時前でした。集会にてお会いした方々に心より御礼申し上げます。
愛媛県
K.K
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ四・4~6)
鳴門市
K.M
今日も、吉野川に架かる四国三郎橋を渡って帰ってきました。上流西の山の端近くに真赤な夕陽が懸かり、左下流の東の空には黄色い十三夜の月、足下は青い大河。橋の中ほどで地球の自転の早さを目の当りにしました。大きな大きな夕陽に茄子紺や深緑の山嶺が、ぐんぐんせり上ってゆき、すっぽりと夕陽は隠れ茜の空、暮色となりました。思はず「早ぁ・・」と独り言。
月日も一年も人生も空ろいやすい事を学ばされ、日時を大切に生きなければと。
いや!悠久の神様の在まし給い、生かされているこの身を感謝しなければと感極まりました。
日本列島ほとんどの川が、南北どちらかに流れるなか、西から東に八十キロほども流れる稀有な川、吉野川。左右に四国山脈と讃岐山脈を配し、雄大な入り日の絶景を神の御業と仰ぎ見て、今、在ます神を賛美しました。
あぁ、あの大河をなぜ、せっせと往復するか:それは対岸の「住宅型有料老人ホームライフコンシエルジェ徳島」に今年の七月一日から夫が入居、共に居て当然だった人が居なくなると、「ほんまにも―」が消え、恥入っております。
自分が何様ぞ、横目で夫を裁き無礼を重ねた無神経さ、至らなさ、自分勝手な自己満足のお節介をやいた罪の数々を思い知らされ、涙にむせぶ反省。「後悔先に立たず」も思い知らされています。
着替えの衣類その他を持って行きますと、「済まんの~無理するなよ、ありがとう。」そして「お前が来てくれるのを毎日待っているからな… 」いつまでも手を振って見送ってくれる彼。
今までの、そして今も辛い時、悲しい時、苦しい時に、何か物事が良い方向に進み、ほっとした時に、その何かが「あっ神様だった!」と気付かされます。それも姉妹に言はれたり、「それは神様ョ。」と娘に言はれた事もあります。気付く事に遅い私は 真剣に祈ってないことであり、「主よお赦しください」とは厚かましくて言い難いです。諸々のお恵みはそのまま感謝、神様有難うございます。愛ある神に只今特訓されております。
今年の八月二日(日)兄弟姉妹と共々に霊園のお掃除を、娘に「乗せて行ってくれよ」と何度も依頼していた夫。熊手を握って黙々と落ち葉を掻き寄せる父と、手袋の指先を真っ黒の泥だらけにして草を抜く娘、親娘三人揃っての、この日があるとは…。 主よ、有難うございます。
過日、夫を訪ねて下さった姉妹方が「キャロリングとクリスマスの参加約束出来ている」とのこと、何と嬉しいお知らせ。どうぞ支障なく皆様揃って参加出来ます様に。主よお守りください。
雲は神の臨在と神秘の象徴と学びました。格別、雲が大好きなあの人に、み言葉付きの雲の写真のハガキを送りました。
「ともにいて下さい、主イエスよ。闇のなかの光り、主イエスよ」(賛美歌二十一―八十九)
主にある兄弟姉妹の御平安を祈ります。 シャローム
徳島市
S.H
八月下旬、私の父に「肺癌」が見つかりました。
七月末に定年退職をしたばかりの父ですが、第二の人生は闘病生活からスタートすることになりました。二十五日間の入院を経て、外来治療に切り替わりました。
父は今まで風邪や盲腸しか経験がなく、抗がん剤の副作用も口内炎や倦怠感が二~三日あるぐらいなので、以前と変わらず活動しています。告知を受けて入院している時は精神的にかなりまいっているようでしたが、家でいるよりも一時間余りの散歩や庭いじりなどで気分転換が出来ているようです。嗄声で声が変わっていますが、相変わらず話をすることが大好きです。父も母も気分の大きな落ち込みがないようで安心しています。
父は五十年間鉄工所で仕事をしていたので耳が遠くなっています。先生の声も半分ぐらいしか聞こえないようなので、帰ってくると私に説明を求めます。病院にはいつも付き添うようにしていますが、良い話ばかりとは限らないのでしっかり聞いてくることが出来るかと不安な時もあります。私ぐらいは明るく笑顔でいようと思い、集会にはなるべく参加して力をいただこうと思います。
私や母は心配が先に立ち色々言ってしまいますが、父の心配をしているというより反対にストレスを与えているように思います。特に私は自分自身の持病も免疫力が低下するので知識があり過ぎて困ります。父は『晴美はうるさいなぁ。』と思っているみたいです。
毎年 年明けから寒くなるので、今年中に抗がん剤治療だけでも順調に終わってほしいと思い、告知後に閉塞性肺炎を併発したので再び感染症にならないように色々父にアドバイスしてしまいます。
経過により治療の方針も変わるとの説明で、先のことは分からないだけにあれこれ悩むより‘祈ること’の大切さを実感しています。
私では頼りなくて気持ちが空回りして支えになれませんが、足りない部分はイエスさまが支えて守ってくださっていることを信じて祈っています。また集会で学んだことを通して神さまのことを伝えることが出来ればいいですが「気が滅入るから静かにして。」と言う時もあってタイミングが難しいです。時を与えてくださいますようにと祈っています。
信仰を与えられ 祈りによって日々力を与えられていること、主にある兄弟姉妹を与えられていることに感謝です。
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ四十一・10)
主婦
徳島市
S.Y
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」
(ヘブル四・12)
この箇所の学びから心に残ったこと。
神の言葉は生きている。今も生きているから変える必要がない。神の言葉にある力を信じれば、人間の力に頼らない。神の言葉を信頼しないから、いろいろな問題が生じて行く。神の言葉の力を本気で信じているか?
「どんな闇でも光がさす」 このことを信じなければあきらめるようになる。
「闇の中に光りあれ」 この言葉を信じたら、どんな人にも希望があることを信じることができる。心配したり、悩んだりするのは、神の言葉に力があることを信じきれないからである。神は心の中を見ておられる。すべてをご存知である。
神の言葉の力を本気で信じているか?いつも問われている。信じたら平安と希望が与えられることが心に残りました。
徳島市
S.Y
私が 二十歳後半の頃、東京独立新聞を購読していました。その中の記事で一つだけ、事ある毎に思い起こされることがあります。投稿者の氏名、年月日、文脈など記憶にありませんが、その内容は「洪水にみまわれた時、濁流を間近にして思ったのは、自己の罪であった。」というものでした。
ごく近年のことですが、私は交通事故禍の中にあったり、救急車で緊急入院するという事がありました。何故この事が起こったのか。神様の教えて下さるのを待つ思いで過ごしておりました。その後、ある事を通して、その訳を教えていただいたのです。
私の罪でした。一生懸命な思いが、いつしか神様により頼むことから離れ、己の思いで物事をする方向に変わっていって、高ぶりの心が生じたと思います。神様は、この私の心を正そうとされてのご処置であったとはっきり感じました。大きな恵みであったのです。本当に有り難い事でした。
そして同時に、悪い者(悪魔)の存在をも実感しました。イエス・キリスト様を信じる者はほんの少しの心の綻び(ほころび)をも見逃さずに、強い力で綻びを広げていく方向へと、常に働きかけているのだということを知らされました。「こう祈りなさい」と、イエス様が教えられたマタイによる福音書六章十三節『わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』のみ言葉の重要性を思わされました。人間の弱さを知りつくされたイエス・キリスト様の深い愛に満ちたお教えに、感謝は尽きないのです。
悪魔の誘惑について「高校生と学ぶ山上の説教」(武 祐一郎著、新教出版社)で、次の様に述べられている箇所があります。
悪魔の力も重力のように普段は気づきませんが、絶えず私たちに働きかけ罪の淵に引きずりこもうとしているのです。
第一に、悪魔の声は、天使のささやきのように聞こえる場合があるということ。
第二に、悪魔は私たちの短所ではなく、長所に働きかけるということ。
第三に、小さな事、このくらいと思っていたことが、気がついたら大きな失敗になる場合が多いということ。
そして、マタイによる福音書六章十三節の第六の祈りは、これから将来罪に陥らないようにという祈りです。弱い、弱い私たち一般の信者の切実な祈りの原型なのだということを知らされました。この叫びのような祈りを続けることによって、現実の誘惑から逃れることができるのです。(以上)
神様、イエス・キリスト様は、私の全てをご存知です。祈りに応えて罪を赦し潔めてくださいます。また、祈りをささげない前から、私の必要とするものを知っておられるのです。そして、悪い者からは、遠ざけ守ってくださっています。唯、唯(ただただ)、神様、イエス・キリスト様を信頼して、この世を生かしていただきたいと願い祈ります。(主婦)
山形県
S.Y
「主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
イザヤ書 四〇の31
先日、このイザヤ書四〇章後半から「主はどんなお方か」というメッセージをききました。28節には「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。」とあり、そのあとには
「主はとこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」と続きます。私たちの住むこの地球のことを考えても、陸と海のバランスや動き、太陽との位置関係など、どれをとっても決して偶然ではなく、永遠の神である主が造られたに違いないとわかります。そしてその主は、疲れることなく、その英知は究めがたいとあります。神様の英知は、天地万物の創造の秩序や、人間やすべての生き物の完全さを見てもわかります。このように偉大な神様が、背きや過ちを繰り返す人間を、悔い改めに導こうと呼びかけ続けてくださって、それだけでなく罪のために疲れ、苦しむ人間に対して「主に望みをおく人は新たな力を得る。」と言ってくださるのです。
主なる神の偉大さをすべて知ることはできませんが、ここでは私たちが自分で力んで頑張るのではなく、死もなく、疲れることのないお方、全能の主の約束に期待して待ち望むことの幸いを教えられ感謝しました。そして、自分の頑なで高慢な心を悔い改めて、素直に主に望みをおくものでありたいと思いました。
大阪市
K.M
ユダヤ人難民と敦賀(つるが)港
満蒙開拓青少年義勇軍は一九三八(昭和13)年から新潟・敦賀・下関港等から渡満している。同じころ敦賀港にユダヤ人難民が上陸していることを知り、改めて敦賀港の存在を認識することになった。
一九四〇(昭和15)年七月、ユダヤ民族根絶政策を進めていたナチス・ドイツ軍が、ポーランドに侵攻すると、ポーランドにいたユダヤ人たちは日本経由で第三国を目指すほか逃れる道はなくなっていた。ユダヤ人たちは中立国リトアニアに逃れ、日本通過のビザを発給できるカウナスの日本領事館に押しかけた。この時日本領事館の杉原千畝領事代理は、本国(外務省)の許可が得られずに苦悩するも発給を決断、領事館の閉鎖が迫るなか休みなく日本通過ビザを書き続け約六千人の命を救ったとされる。
「命のビザ」を手にしたユダヤ人難民はその後どのような道をたどったのかはあまり知られていない。簡潔にいえば、シベリア鉄道で終点ウラジオストクに着き連絡船で敦賀港に上陸し「神戸ユダヤ人協会」を目指した。その後神戸、横浜港からアメリカ、上海に逃れている。
ユダヤ人難民の敦賀港上陸は一九四〇年九月末からはじまり翌年の六月まで続いた。敦賀市民は温かく迎え入れたことが最近市民たちの聞き取り調査から分かってきた。例えば、青果店の少年が果物の入った籠を持ってくると黙って置いていったり、港に近い銭湯の主人は彼等の姿を見るに見かねて浴場を無料で開放したりしている。
ポーランド孤児と敦賀港
ユダヤ人難民より二〇年前の一九二〇(大正9)年、ポーランド孤児第一次三七五名が敦賀港に上陸している。
シベリアにはロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や愛国者と家族ら一五~二〇万人が送り込まれていた。彼らは酷寒の地で粗末な宿舎と食事の下で過酷な重労働の日々を過ごす生活を送っていた。一九一七年にロシア革命が起き、その混乱下で更に悲惨な暮らしとなり、飢えと寒さと病で亡くなっていった。親と死別した子どもたちはまさに地獄のような極限状態のなかを放浪していたという。
そのころ、ウラジオストクで在住ポーランド人アンナ・ビルケウィッチ女史を中心に「ポーランド児童救済会」が組織され活動をはじめていた。最初は欧州の国々に助けを求めたが拒否され救助の道が断たれてしまった。万策尽きた「児童救済会」は、当時まだポーランド領事館も大使館もない日本政府(原敬内閣)に半信半疑でこれら孤児救済の交渉をすると、日本政府はあっさり分かりましたと短期間に行動を起こし日本赤十字社を中心に国内体制を整えた。
一九二〇年七月、ポーランド孤児五六名が日本陸軍の筑前丸で敦賀港に上陸した。上陸した孤児たちは受入れ側の配慮により松原小学校に休憩し昼食をとると身も心も安まり、記念写真をとったり婦人会からのお菓子などの温かいもてなしを受けた。
第一次三七五名の孤児は東京に送られ児童養護施設で日赤から真新しい服、肌着また病気の治療、栄養補給を受けた。二年後に第二次三八八名が上陸し未使用の大阪市公民病院附属看護婦寄宿舎に落ち着く。日本国民から多数の品物、寄付金が贈られた。ポーランド孤児計七六三名は八回にわたり上陸、休憩後東京、大阪に向かい早い者で数日、治療のため遅い者で四ヵ月ほど滞在後一人も欠けることなく本国に帰った。日本を離れるとき、孤児たちは日本を離れたくないと涙、涙の別れであったという。
「人道の港・敦賀レゼウム」の創設
二〇〇六年、敦賀市ではユダヤ人難民とポーランド孤児の敦賀港上陸の歴史パネルを展示した。見学者は絶えず、常設を希望する声が強く、市では港の一角に二〇〇八年三月「人道の港・敦賀ムゼウム」を創設した。
古江館長は、学習の場としてまた歴史を学ぶ素材として利用されたら、資料館が発信している命の大切さ平和の尊さと合致するのではないだろうか、と語っている。
* ムゼウムはポーランド語で資料館の意
イエス様が「隣の人を自分のように愛せよ」(マルコ一二・31)と言われた掟を、戦時中(…)、難民の人々に対して実践した日本人が存在したことに、胸が熱くなるのを覚える。
(多摩集会)
東京都
S.R
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ二・20)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒十六・31)
腎不全の為、五年間透析に通院していた妻が肺炎の為に八十八才で召された。魂の救いを兄弟姉妹と共に祈り、葬儀もキリスト教でと希いましたがいろいろな事情のため叶いませんでした。しかし、甦りであり、永遠の命である主は真実であります。
主よ 来たりませ。聖国が来ますように。
私も自分で帯することができない衰えを感じる状態ですが一歩づつ賜わりし、恩恵の生活を祈り 希って居ります。
静岡市
S.N
「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それはわたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」
(Ⅰテサロニケ五・8~10)
この御言葉は 十月五日に診療室の新築記念会と昨年天に召された妹の記念会の時に語られた御言葉の中で特にわたしの心に深く残った御言葉です。
妹は神様を受け入れ、今はイエス様の元で安らいでいると信じていても この一年はとても私達家族にとって寂しく辛いことが沢山ありました。特に年老いた母や残された幼い姪にとっては 他の人に言うことのできない悲しみがあったと思います。私は二十年近く実家から離れた場所に治療院を建てて、そこで一人暮らしをしてきましたが、いつも母や姪といっしょに過ごして、神様の愛を少しでも伝えたいと願って、新しく実家の敷地内に診療室を建てました。
十月五日月曜日は小羊集会の日でその日が妹の命日でしたので、妹の記念会と新しい診療室の新築記念会を同時にしていただきました。妹の記念会のためには
Ⅰコリント十五章50~58節の御言葉を選んで下さり、また診療室の記念会のためにはⅠテサロニケ五章8~22節の御言葉を吉村さんが力強くお話して下さいました。
私はお話を聞きながら主が共に居て下さることをいつも強く実感できるとは、なんとありがたいことかと感謝がいっぱいになりました。悪意や試練にあっても、信仰と愛 救いの希望が心にあれば、どんな悪意や試練の中でも本当に、祈ることができます。聖書の御言葉を通して主が直接私に語りかけて下さることが、ある日突然分かってからは、どんなに苦境に立たされた時も 私には神様がついていて下さると固く信じて祈ることができるようになりました。その恵みは私だけに留まらずに、周囲の人にも少しずつ広がっていっていることも大きな恵みとして受け取ることができるようになりました。吉村さんが多く
の事をお話して下さったのですが、最後に「この診療室を訪れる患者さんのためにも 主が共に居てくださるようにと いつも祈りつつ その仕事も神様によって祝福されますように」と言われた言葉もとても心に残りました。この新しい診療室で、訪れる患者さんのために また家族のために主が共に居て導いて下さいますようにと祈って行きたいと思います。(鍼師)
徳島市
最後の晩餐…洗足の記事(ヨハネ福音書」から
S.K
十三・1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。~十三・19・・・今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』「I Am Who I Am.」ということをあなたがたが信じるようになるためである。
出エジプト記三・14 And God said to Moses, "I AM WHO I AM." 神とは何かとういう問いは私にとってもいつも深い関心事でした。神には人間にできないようなことを平気で望んできました。・・・。
十三・30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
この「夜であった」=時・・・が、自分よがりな人間的な推し量り、迷い、・・・
十三・2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。が全てを言い表していると思う。
いつでも「神の時」を待っているように思える。思い煩いは、イエス様に会って、訪ね求めて解決されていくのだと思う。
ルカによる福音書にも「悔い改めなければ・・・滅ぶ」とういうことが明記されている。
「人間は他者のために存在する」ということを耳にしたことがあるが「私があなた方を愛したように、あなた方も隣人を愛しなさい」これがイエス様の「命令」でした。
「できないことでなく、できること」というのが、義務感でなく「喜んで・・従うこと」が愛だと思うしイエス様が望まれていることを思います。. (はり治療院)
海部郡
S.H
神様が私に与えて下さっている恵みは限りなく沢山ありますが、その中でも私にとって大きいのはギターです。何年経っても技術は上達しませんがギターは私の友達です。
人にイエス様のことを伝えるのが苦手な私ですが、ギター賛美を通してイエスさまのことを伝える手段を、神様は与えて下さったと思えるのです。私はゴスペルフォークが好きですが特によく「友よ歌おう」を用います。
特に、若者や子どもさんたちに救い主なるイエス様に出会ってほしいとの願いがあります。テクニックは下手でも歌のレパートリーを増やして祈りを持ってイエス様のことを伝えて行きたいです。今、私の好きな「命の清水」(友よ歌おう 五九番)の歌詞を記します。
1 空しい心を抱いて あてなくさまようとき
キリストの十字架のもとに湧き出る泉を見た
繰り返し
命の清水を飲んで新しい力を得よう
命の清水を飲めば心が満たされる
2 命の水を飲むものは悲しみがいやされて
ハレルヤと賛美しながら喜びの日を過ごす
3 空ろな心を抱いてさまよい歩く友よ
私と共にキリストの救いの泉に行こう。(治療院経営)
徳島県
S.F
「悩みに気付き耳を傾ける」「専門機関への早めの相談を促す」「温かく寄り添い、じっくりと見守る」これらは我国の内閣府自殺対策推進室が今年九月の自殺予防週間で、もし周囲で自殺を考えている人がいれば、彼等に対して私達が心がけるようにと呼びかけた標語(スローガン)である。
しかし二〇〇八年の自殺者数は三万二千二四九人と十一年連続して三万人を超えている。更に世界保健機関(WHO)の最新データによると自殺率の国際比較でも人口十万人あたり二十三.七人と日本は世界百一カ国中八番目、欧米先進国の中ではトップの自殺国である。上位の国は旧社会主義国家体制のリトアニア、ベラルーシ、ロシア、スロベニア、ハンガリー、カザフスタン、ラトビアの国でいずれも国内に混乱が続く体制移行国である。日本がそれらに続く自殺国である事は紛れもない事実である。我が国の自殺者の大半が働き盛りの三十代後半から六十代の男性に多く占められている事にも安心して生活できない社会的不安がある。今や不況は世界中に及び、思うように働ける適当な仕事もない。生活は苦しくなり将来へ不安は募る。年齢と共に病気や老後の不安がつきまとい、人生を楽しむどころか、このような社会に生きて何か意味があるのかと戸惑っている人達の絶望感がうかがえる。
戦後日本は経済的、文化的、政治的にも安定した民主主義国家でありながら、国民は豊かさを実感せず、幸福感に乏しいと言われている。今や経営者に都合のよい労働者派遣法の規制緩和で、若者や働き盛りの壮年は先の見えない過剰な労働や不利な条件下で就労し、経営者の都合で雑巾のように捨てられる。一方政府は自己責任という言葉の下に労働政策の無策を言い逃れ、格差社会は益々拡大してきている。そのような環境の中で日々の精神的ストレスに耐えられなくなって自ら命を断とうとする人々が増えてきた悲しい現実が世の中にある。そのような人達を早く見つけて対処しようとしたのが前政権内閣府の自殺予防スローガンである。そのようなスローガンで自殺問題がはたして解決するのだろうか。
かつて我が国を「美しい国日本!」と叫んで、任期途中で職責を放棄した首相がいた。彼の言った美しい国とは日本をどのような国に導こうとしたのか理解に苦しむ。人間が求める美しい国とはどこに在るのか。
今から遡ること二〇〇〇年前にイエス・キリストは当時の知識層を代表する尊大なファリサイ派の人々を前にして厳然と言われた。「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と、即ち私達が求める美しい国(神の国)は私達の心の中にあると言われている。
たとえ高度成長した豊かな先進国に住み、収入が安定し、便利な生活環境を謳歌しても、私達の間に神が統治される国、すなわち平和と「友愛」に満ちた心が、行き交う人々の国でなければ美しい国とは言えないだろう。
先頃政権交代した民主党の鳩山内閣は「友愛」を旗印に官僚主導の政治から国民の現実生活に密着した政治に方向を転換しようとしている。即ち国民の納めた税金の使い道を官僚の天下り、利権や無駄につながる公共事業を廃止して国民の生活向上のために、来年度予算を白紙から見直し、無駄な予算を大胆に削り、新たな借金を作らず「国民の暮らしを守る」方向で使うための財源を生み出そうと奮闘している。国民に少しでも夢や希望のある平安な社会の実現に期待したいものである。
さて「友愛」とはまさにイエス・キリストその人自身に当てはまる言葉である。地上で最も「友愛」に満ちた人であった。二〇〇〇年前イエス様は神の国は私たちの心の中にあると教えてくれた。人間の罪を悲しみ、赦し、私たちに温かく寄り添われた。悩みに耳を傾け、死んでいた心を蘇らせてくれた。そして今も私たちの側で見守っていてくださる。イエス様がかつて荒野で誘惑を受けられた時「人はパンのみに生きるのではない」と言われた。イエス様は人の言葉ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる事が出来るのだと教えられた。そのような事実を私たちが実感として受け入れるかぎり、前述の空虚なスローガンは無用になると思われる。自殺者のニュースが報道される度にイエス様の言葉が思い起こされる。
高知市
O.Y
「しもべは聞きます。主よ、お話ください。」
サムエル記上三・9
随分昔の事ですが、ある時伯母に縫い物を教えてもらう為に、伯母の出してくれた古い着物を解いていた時のことです。それは濃い紫の地に白い小花模様が染めぬかれたものでした。
その時伯母はこの着物は或る若い女の人の形見だと言って次のような話をしてくれました。 その人は花街で働いていたそうですが、何かの折に伯母と知り合い、その後[姉さん 姉さんと慕って下さったそうです。
そんな或る時伯母がイエス様のことを話しました。するとその人はただ一度聞いただけで、すぐにイエス様を信じたのだそうです。その人はその後若くして病で亡くなられたとのことでした。あまり幸せとは言えない境遇の中で生きてゆかなければならなかったであろうこの人は、誰にすがるべきかもわからないまま心のうちの悩み悲しみ、苦しみを取り去ってほしいと日夜祈っていたのではないでしょうか。
その祈りが神様に届き答えてくださったのだと思いました。またその声を聴いて即座に信じたこの人はきっとこころの貧しい人だったのだと思います。
…神様 御言葉を聴くことができるように、
どうぞこの私をも心の貧しいものとならせてください。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」マタイ五・3
東京都
T.S
今年は今までにないくらい、辛いことがたくさんあり、大変な一年でした。今の状態をまだまだプラスに考えられませんが、いつかこれで良かったと思える日が来るといいなと思っています。
私達家族のためにお祈りして下さり、本当にありがとうございました。
千葉県
T.Y
二〇〇九年を振り返ってみると、薬物汚染の関連ニュースが、多く報道されていました。特に、有名人による不祥事が多かったもので、最悪な状況になっていました。
芸能活動が、うまくいかないという理由で、薬物に手を出したという状況だったもので、テレビ番組でも、長時間による特集が放送されていました。また、学生による大麻の栽培も横行していたもので、かなりの衝撃を受けました。
私も、音楽を学び始めてから、十五年が経過していますが、時々、うまくいかず、悩まされることもあります。これからも、聖書の学びとともに歩んでいきたいと思います。
徳島市
T.H
父なる神様、私はあなたがこの世を愛しておられることを信じます。あなたは、私が永遠にあなたとともに生きられるように、ひとり子を与えてくださいました。あなたから離れたら、私は死んでしまいます。あなたと一緒なら、私は生きられます。私はいのちを選びます。あなたを選びます。
神に「はい」といったかどうか確信がもてないのなら、あなたは言っていないのだ。飛行機に乗ったのに、それに気づかないということはない。飛行機に乗っているのに、それを隠すことはできない。密航者は許されない。キリストに従う者は、自分たちの信仰を公にする。
ぼくたちは悪しき行いから良い行いに改める(悔い改め)。自分の熱情に従うのをやめ、ぼくたちの新しい機長に敬意を表する(信仰告白)。
ぼくたちは自分の選択を秘密にすることはできない。どうして秘密にしようなどと思うだろう。ぼくたちはキリストのおかげで今、故郷に帰っている途中なのだから。
神のおかげで、ぼくは自分が死ぬときに神に立ち会っていただける。あなたのことを心から気づかっておられる神が、そうしてくださらないことがあるだろうか。神を信じよう。
あなたが
滅びる……
ことは……
ない
と、信じよう。
あなたはいのちを、
永遠のいのちを、
持つ。
永遠に……。 (会社員)
藍住町
T.R
先日、私たちに長男が生まれました。
主がどんな時も助けてくださると信じて、その意味をもった字で、祐(ゆう)と名付けました。
思えば妊娠、出産、そして産後に至るまで全て主がともにいて守られたことを思いました。この御言葉をいつも思います。
「主の山に、備えあり」創世記二十二・14
また、生まれたばかりの長男と上の子、愛子(みこと)二才十一ヶ月の育児に励む中で、この御言葉を支えにしています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」1テサロニケ五・16~18
(主婦)
藍住町
T.H
あの歴史的なオバマ大統領の演説が、「核廃絶とイエス、ウイーキャン」(「いのちの水」五八三号)に再現され、感銘を受けました。オバマ大統領は核廃絶はすぐには達成されないであろうがそれには忍耐と粘り強さが必要であり、世界は変わることができないという声を無視しなければならない、そして「そうだ、私たちはできるのだ(イエス、ウイーキャン)」と主張された。
アブラハムがまだ見ぬ世界を、希望と確信をもって歩んだように、現状だけを見つめるのではなく、あるべき姿を求めて、考え行動することは聖書の中に深く宿っている精神であると教えられました。
この精神がキリスト者オバマ大統領に脈々と生きていました。この思いが国連安全保障理事会での「核なき世界」の全会一致の決議に結実しました。
しかし、現状は厳しく、包括的核実験禁止条約(CTBT)には米国初め九カ国が末批准であり、核拡散防止条約(NPT)には米国が支援するイスラエルやインド、パキスタンが非加盟である等、米国自身襟を正さなければならない課題が山積しています。しかし彼の力強い信念を信じ、必ず核廃絶が達成されることを祈っていきたいと思います。
神奈川県
T.R
十月に結婚し、新しい生活がスタートしました。子供の頃からの持病もあり、生活環境が変わることへの不安や家事ができるだろうか等の不安でいっぱいのスタートでしたが、一日一日支えられてなんとか過ごしています。
最近の私の心の支えになっているイエス様の言葉があります。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコによる福音書二章17節
人並みなことがなかなかできないという焦りや、今まで思っていたより不誠実でわがままな自分を発見して失望したり。そんな時このイエス様のことばは私を信仰の原点に立ち帰らせてくれ、また新たに前へ進む力を与えてくれます。病んでいるからこそ、良く生きようと思ってもできない弱さがある人間にこそイエス様は来てくれたのだということ、イエス様が必要なのだということ、そこに本当の安心があると思います。
病んでいるまま、弱いまま、罪のあるまま、そのままでこれからの道のりも、キリストに従っていくものでありたいと願っています。 (主婦)
明石市
行けども、行けども―讃美歌より―
T.S
讃美歌 行けども 行けども
一番
行けども行けどもただ砂原
道なきところをひとりたど辿る
ささやく如くにみ声きこゆ
「疲れしわが友 われにきたれ」
二番
やけたる砂原 いたむ裸足
渇きのきわみに 絶ゆる命
静かに優しき み声聞こゆ
「生命の泉に来たりて飲め」
三番
帰る家もなく 疲れ果てて
望みもなき身は死をぞ願う
さやかに力の み声聞こゆ
「帰れや、父なる神のもとに」
キリスト教では、人生を天国を目指す旅にたとえることがよくあります。現代ではむしろ登山にたとえたほうがいいかもしれません。 この讃美歌も人生という旅を歌った讃美歌です。曲も歌詞も沈んだ重い感じですので、暗い讃美歌だと感じる人もあるようです。しかし、私たち個人の人生も世界の歴史も、楽しく嬉しいことだけある、というのは間違いです。また、苦しくて嫌な事だけだというのも間違いです。
私たちの人生には、生きている意味が感じられないようなむなしい時もあります。大きな地震や台風などに襲われて生活が破壊されてしまうようなときもあります。また戦争のように人間が殺し合い、悪魔のようになるときもあります。重い病にかかったり、最愛の家族を失うときもあります。
行けども、行けどもただ砂原、道なきところを一人たどる(一番)、焼けたる砂原痛むはだし、渇きの極みにたゆる命(二番)、帰る家もなく疲れ果てて、望みもなき身は死をぞ願う(三番)と、少し文学的すぎるかなと思われるような表現がありますが、私たちはこのような事態が実際の事だと知っています。
この砂をかむような過酷な人生の道を辿っているその人に聞こえて来た命の救いの言葉のことが述べられています。
人生の暗く辛いどん底のときに救いが現れる。そういうことがあります。死を通しての再生。 八木重吉という詩人は「キリストは何ゆえに暗きに説きしか、木の実を見よ。地に落ちずば生えぬなり」という詩を作っています。(高校教員)
岩手県
T.Y
私は、二十三歳の時に交通事故に遭って目が見えなくなりました。その後、罪の自覚に導かれ、主イエス様が、私の罪のあがないのために十字架につかれ、死にて葬られ、三日目によみがえられたことを信じるにいたりました。
そして、伴侶にも恵まれ、結婚、出産、育児、夫の両親との同居。これらのあわただしい日々は、私を育んでくれております。
息子は、二一歳と一八歳、両親は、八八歳と八七歳。
八五歳を過ぎて急に年老いた母とその傍らにいる私を元気づけるために月に一度「讃美歌を歌う会」、「唱歌を歌う会」、「裂織の会」、「絵本の読み聞かせ素話の会」を自宅で開くことが許されています。おかげで、家にいながら外の風を感じさせていただける環境にあります。中でも讃美歌を歌う会は、二〇〇九年十月でもう三三回を重ねています。
二〇〇八年九月号の「いのちの水」を読ませていただいた時、「み言葉への愛」のタイトルで詩篇一一九章105節「… あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(105節)が説き明かされ、この節にメロディーがつき、讃美されていることを知りました。
この聖句は、私の受洗記念聖句です。
この歌を わが家の讃美歌を歌う会で、是非、皆さんと歌いたいと思い、吉村先生に楽譜を教えていただけるようにお願いいたしました。先生はすぐにその元の讃美の、アメリカの讃美集「Praise CHORUS BOOK」の Expanded 3rd Edition 234の楽譜と曲を贈ってくださいました。
英語で歌うのは難しく、日本語を探すと、メロディは違いましたがリビングプレイズの133もこの105節を歌っていました。
私たちは、日本語のリビング・プレイズ133の歌詞を讃美しつつ、最後は、讃美歌21の45番で、何度も繰り返し歌い会を終わりました。英語の歌詞の吉村先生の日本語訳からは、讃美は、正に祈りであることを知らされます。
信仰薄き私ですが、讃美の声を高らかに、主を仰ぎ尊び称えたいと思っています。ピアノ伴奏者近藤明子さんのおかげで、初めての歌も皆で讃美することができ、竹下家に、主への讃美が高らかに響かせることのできる幸せを心より感謝しております。
以下、「いのちの水」誌 二〇〇八年九月号よりコピーした歌詞です。
アメリカの讃美集「Praise CHORUS BOOK」の Expanded 3rd Edition 234
Thy Word (あなたのみ言葉)
Thy word is a lamp unto my feet
And a light unto my path
Thy word is a lamp unto my feet
And a light unto my path
あなたのみ言葉は、
我が足のともしび
私の道の光
When I feel afraid
Think I've lost my way
Still You're there right beside me
Nothing will I fear
As long as You are near
Please be near me to the end
私がおそれを感じるとき
道を失ったと思うとき
そんなときでも、あなたは私のすぐ側にいて下さる
私は何ものも恐れない
あなたが近くにいてくださる限り。
どうか最後まで私と共にいて下さい。
I will not forget
Your love for me and yet
My heart forever is wandering
Jesus be my guide
Hold me to Your side
And I will love You to the end
私は忘れない
あなたの私に対する愛を。
それでもなお、私の心はいつもさまよい続けている
イエス様、私の導きとなって下さい。
私をあなたのみ側でとらえていて下さい
私はあなたをどこまでも愛します。
(主の御祝福に感謝。)
京都市
キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。 Ⅱコリント五・14より
T.K
秋の美しい夜空を、流星群を見たくて、久しぶりに見上げました。最近読んだ、「朝ごとに」(C.Hスポルジョン)(キリストにある幼子・・・Ⅰコリント三.1)のところで『最も、小さな星でも天において輝いている。最もかすかな光でも太陽の光と同質である。…主は、あなたを、心から愛しておられる。あなたは、くすぶる燈芯のようだ。…しかしイエスは消すことはない。あなたは、いたんだ葦のようだ。…しかし主は決してあなたを折られない。自己に失望し気落ちすることなく、あなたは、キリストにあって勝利すべきである。』私には、誇るものがなくても、主にあって喜び救いの神をあがめることが許されている。主は、どんなにかすかな光でも、同等に扱い、「イエスの愛しておられたあの弟子(ペテロ)」のように、一人一人皆そうだと言ってくださることが,私にとってどんなに慰めになったことでしょう。
次の日(あらゆる点において成長し…エペソ四・15)の箇所では『イエスの御顔を遠くから眺めるのではなく、ヨハネのように、イエスに近づいて頭を主の御胸にもたせかけなければならない。そうすれば聖潔において、愛において、信仰において、希望においてしかり、すべての尊い賜物において進歩するであろう』と、苦悩を味わう時、試練に会う時、主の胸にもたせかけさせてくれる幸いだけでも嬉しい事であって、その事で、信仰を堅く強く成長させてくださる配慮は、なんて温かく、神様の全部を知ることは到底できない深い愛を感じました。
今朝の(キリストの愛が私達を取り囲んでいる。)この箇所からは、「それなら、イエスの愛に報いるために何かをせよ。愛は奉仕する者の足に翼を与え、働く者の腕に力を与えるものである。神に対する揺るがぬ節操を保ち不動の決意を持って神をあがめ、うむことのない情熱をもって前進し、こうしてイエスに対するひたすらな愛を表明しよう。どうか、神の愛が私たちを天に引き寄せてくださいますように。』弱い私をも引き寄せてください。と祈りました。
今年の夏、吉村先生が瀬棚の講習会のあと仙台に寄って集会をもたれた時、ヨハネ二一章のイエスが弟子に現れた所のお話で、ペテロは「主だ!」と思ったらすぐに飛び込んだ。これは主の方向だとわかったら主に向かって飛び込む。いつもイエス様のほうから語りかけてくださるから、主の平和をいただいて主の方向に応えていけるように、その勇気を日々持てるようにとのお話をききました。私も、まず、日々イエス様からの力をいただいて祈りつつ、イエス様がどれだけ私たちを愛してご自身を与えてくださったかを考え、神に依存して、常に共にいて支えてくださることに感謝していきたいです。
最後に私の好きな一句です、内村 鑑三「愛吟」 海よ私を広くしなさい。 海よ、私を強くしなさい。 心配が 私の勇気をくじき 疲れが 私の思考を圧します。 私の精神と体力はまさに亡びようとしています。しかし、海よ、あなたがあらしに逆らう時、私の忍耐はよみがえります。弱い私は、すぐに不安になり、しばしば不平不満をもらします。忍耐深くあわれみ深い神は、そんな私にもその時々に「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」との御言葉を思い起こさせ語りかけてくださいます。神に感謝いたします。
仙台市
T.Y
この八月、九月、私は富士山の雪解け水が湧き出す美しい泉を二か所見ることができました。山梨県の忍野八海と静岡県の柳田川湧水です。どちらも富士山から数キロ、数十キロ離れた所に突然のように水が湧き出し、年中涸れることなく一定量の水を湛え、そして川となって流れ出ています。その周辺の植物や動物はもとより人間もまたその涸れることなく滾々(こんこん)と湧く清水にどれほど豊かに潤されてきたことだろうかと想像しました。そこで、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネによる福音書四章13節)というキリストの言葉を思いました。キリストという霊峯から流れ出す水は世界の人々の心の内で泉となり、滾々と命の水を湧き出し、その人を豊かに潤す。そして溢れ出て周囲をも潤す。またその水は永遠の命に至る水だということです。永遠の命に至るとはやがてこの世の罪を贖われ、悲しみにあった者も癒され、報われるところの天国に入れられるということでしょう。 キリストを信じるだけで、この世で豊に潤され、天国に入れて頂ける。ありがたいことです。「いのちの水」誌もまた、このようにキリストから流れ出て読む者の心を潤すいのちの水という意味だと思います。そんな誌を読むことができて感謝です。
市川市
T.M
聖書との最初の出会いは、小学校四年生の春でした。自宅からは奥の方にある教会の前で牧師さんに「この辺に住んでるの?」と声をかけられ、「お友達と一緒に、日曜日、神様のお勉強をしましょう。」とかわいい出席カードをもらったのがきっかけでした。
教会の非日常的な空間になんとなく、ひきつけられて、その次の日曜日から十二月のクリスマスまで、一緒にいた友達と連れ立って通っていたことがありました。
その間、「漁師が一晩中、漁をしても何もとれなかったのに、イエスが言われたとおりに網を投げると大漁の魚が網に入り、漁師たちを驚かせた。」という聖書の話や、毎回賛美歌(「慈しみ深き」)を歌っていたのを覚えています。 覚えているというよりは、六月から神戸や高槻市の無教会の集会に参加するようになり、古い記憶が堰(せき)を切ったように甦ってきたのです。
甦るとはいっても、十歳の時、ただ聞いて記憶していたのがよみがえってきただけではなく、スポンジを水につけた時のように、すごいスピードで満ちてくるかのような不思議な感じなのです。 ひとりで、聖書を読んでも、退屈なのですが、集会でみなさんと集い、聖書の説き明かしを受けつつ、関連のページをめくっていると、なんともいえず、満ち足りた気分になります。様々な年代の方の感話を聞けるのも、理解を深める要素だと思います。胸がいっぱいになるのですが、自分の感想を話すのは、言葉が見つからず、とても苦手です。
それでも、今は聖書を学び、いろんなことがつながり、満たされることに喜びを感じ、感謝しています。
兵庫県
T.T
「主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇三七・4)
私事になりますが、新しく仕事が与えられました。だいぶ以前に「こんな所で働いてみたい」と漠然と憧れていた場所での働きです。
ここに至るまでの経緯を想うとき、神様は私のような小さな者の心の願いをも事細かに覚えていてくださり、大切に育んでくださる方なんだなと静かな感動を覚えました。
また、この出来事を通して改めて感じさせられたのは、神さまは愛する一人一人の存在を決して忘れず、大切にしてくださるということ。目には見えない所で一人一人の為にいつも最善の用意をしてくださるということです。
私達にとって大切なのは、冒頭の御言葉のように自分の思いや願いを神さまにお預けし、心配をせず与えられた一日一日を感謝して笑顔で精一杯、隣人と共に歩んでいくことなのかもしれません。神さまからそのように教えられた気がしています。
このように愛に満ちた素晴らしい神さまの、美しいお名前がますます光り輝きますようにと願う今日このごろです。
沖縄県
T.T
ある秋の午後、病院の帰り道のことです。天高く美しく晴れわたる大空の下、少し遠回りをして公園の中を歩いてみました。病院では体の機能の衰えと先の見えにくい厳しい現実を再確認したばかりでしたのに、光の中を歩いているだけで穏やかな気持ちで過ごせることに幸いを感じておりました。
その時ふと、一つの像が目にとまりました。それは、数人の子供が寄り添って一人が手を上に高く伸ばし、上をみつめている像でした。台には「希望」と書かれていました。初めて見つけたのにどこか懐かしい気がいたしました。ふと脳裏に蘇(よみがえ)ったのは、私が昔通った小学校の木造の校舎のそばにあった子供たちの像でした。白い石膏の像でやはり寄り添い上を見上げ手を上にさし伸ばしていました。その台には、「いつくしみ」とひらがなで書かれていました。その二つの像が重なって「希望」と「いつくしみ」…そのとき何か喜びのようなものがこみあげてまいりました。
そして「慈しみ深き友なるイエスが」と賛美歌の歌詞が浮かんできました。慈しみ深き友なるイエス様は、罪やとが、憂いを取り去って下さり、我らの弱さを知って憐れんで下さり,変わらぬ愛をもって導いてくださる…作者の方が何を意図されたのかわかりませんが、よく似た二つの像の見上げた手を伸ばした先、天にイエス様神様がおられるようにその時思えたのです。
そう思うと実に二つの像は良くわかるような気がしたのです。神様から皆に注がれる御恵み即ち愛「いつくしみ」。私たちはただ手を指し伸ばしている…。そして、その神様だけが、私たちの「希望」。私たちは手を高くあげ天を仰ぎ見、栄光と勝利の主に望みを頂いている… 私が神様を知らなかった頃、希望という言葉は何か自分の力で達成させようとするもののような気がして苦手な言葉でした。そして無力さで行き詰まったとき絶望しかありませんでした。しかしその闇の中で光、すなわちイエス様に出会わせて頂いたのです。そして、主こそ希望であることを知らされたのです。
あれから三十年近くたった今でも気づかされることは、きよくなり高められたいと願いながらなお一層罪深く無力で地を這うものであるということだけです。しかしそのことによって一層、神様の無限の力と真実そして栄光を覚えさせて頂きました。
私が、そしてまた、この世がどのような状態になろうとも、主の栄光は永遠に変わることがありません。それが私の希望です。神様は、全てのことを善きことに導いて下さいます。絶望に見える中にあってなお平安を下さる奇跡。イエス様が十字架でのあがないによって全ては成し遂げられそして復活され勝利されまれました。栄光の主からくださる限りない慈しみによって私たちは平安をたまわっています。
「希望」の像の前で小さな子供たちが遊んでいたように「いつくしみ」の像の前を校舎はかわっても今も子供たちが歩いているでしょう。青く澄んだ大空をながめながら、目には見えませんが神様が、全ての人を見守って下さっているこの御恵みを思いこの幸いに感謝いたしました。主よ…あなたの慈しみは永遠に絶えることなく、私たちの希望は永遠にあなただけにあります。
徳島市
T.M
今夏、途上国の保健医療を学ぶために、私はネパールへ二週間行って来ました。一五歳の時に、ネパールで現地医療に携わられた岩村昇先生(JOCS)の『ヒマラヤから祖国へ』という本を読んで以来、私はネパールへ行きたいとずっと願っていました。その願いが叶ったのは実に一〇年後でした。
ネパールは、「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈のふもとにあり、五〇以上の民族のある他民族国家です。一〇年前にカースト制度が廃止されましたが、未だ人々の中にはカースト意識が残っています。また、後発開発途上国といわれ、一日一ドル以下で過ごす国民の割合が世界で最も多い国です。そのような状況のネパールでは、貧困やインフラの未整備などから派生する多くの問題がありますが、海外の援助も受けながら地域医療の整備が少しづつ行われている現状を、今回現地へ行って知る事が出来ました。
今回、二週間の予定でネパールへ行ったのですが、予定していた日程の実に半分以上の期間、私は下痢が続いていました。元々胃腸が弱い体質ではあったので渡航前から心配していたのですが、心配は的中!ネパールでは、食事や水に気を付けていたけれども、細菌性下痢症のため発熱・下痢が続きました。「現地の病気は現地の薬で」と言われていたので、すぐに現地の観光客向けの病院にかかり抗生剤と経口補水薬をもらって様子を見ていました。しかし、いっこうに良くならず、抗生剤が効いていないのではないかと心配になってきました。しかも二週間という短いスケジュールであり、予定していた訪問先などには出かけなければならなかったので、私の体はだいぶ疲れ始めていました。
受診から三日後、処方された薬は飲みきったけれど、快方へ向かう気配がないため不安に感じ、もう一度受診する必要性を感じました。次に行ったのはネパールの人が行く病院で、プロテスタントであるセブンスデーアドベンチストが母体のシーア記念病院へ行きました。そこでは、医師も皆親切で、現在の状況を詳しく教えて下さり、「薬を飲んで、水分を多くとれば、必ず良くなります。」と言ってもらいました。診察も終わり、薬を処方されて受け取りを待っている間、待合い室のベンチに腰掛けると、目の前に描かれた壁画が私の目に飛び込んできました。その壁画には、ヒマラヤ山脈、世界遺産であるネパール・キルティプールの町並み、そしてシーア記念病院が描かれており、病院のすぐ隣には子ども達に囲まれたイエス様の絵が描かれていました。そして、絵の下には、「Come unto me , all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest」(「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイによる福音書一一・28)が英語とネパール語で書かれていました。この聖句を見て私は、疲れや不安、保健医療を学ぶためにネパールに来ているけれども、体調不良で集中できず十分学んだり、現地の様子から多くを感じたり考えたり出来ていないのではないかという焦りなど、心にあった全ての重荷から解き放たれ、心も体も軽くなったように感じました。まさに、ネパールでイエス様と出会い、そして癒されたのでした。病院へ行って薬を飲めば、体の不調はある程度良くなります。けれども、心の不調は良くなりません。だからこそ、本当の意味で癒しを与えて下さる存在は神様であると、この時ハッキリと感じることが出来ました。十年越しの願いであったネパールへの渡航は、現地の状況を知るばかりでなく、神様と出会うことができ、本当に大きな学びと恵みの時でした。 (三育学院短期大学 専攻科地域看護学専攻)
千葉県
T.Y
この映画は、賀川豊彦の学生時代から永眠するまでのことが映画になっていました。学生の時に自ら貧民窟に入り、人の悩みを聞いたり、病気の人の看病をして自分も病気になっても、また貧民窟に帰ってしまう。
そこで心に残っている場面がありました。お父さんが自分の子供を遊女にだすと言ったが、子供は「行かない」と言って反対して柱に縛られてしまう。夜に女の人が「先生の所に行き」と言って縄をほどいて、子供は賀川豊彦の所に行きますが、そこには元芸者の小秀(賀川は、貧しい人たちに食べてもらおうと「天国屋」という店を作るが、店の寄付を篠田という金持ちに頼みに行きそこで芸者小秀と知り合う)がいたので、ハル(印刷工場で働いて、後に賀川の妻になる人)の所へ逃げてきました。お父さんは娘が逃げたのを知って、賀川のところに行きました。刀を振り回して娘のことを聞こうとするその時 小秀が包丁を持ってきたが、賀川は言葉で納得させようとした。その時にハルが来て子供を預かっていることを言いました。お父さんは、刀を振り回して、娘のことを聞いていますが、ハルもまた、はっきりと自分の思いを言っていました。
もし、自分が同じ立場になったら私はなにをするのだろうか? ハルみたいにはっきりと言えるだろうか? それとも小秀みたいに包丁を持って相手を傷つけてしまうだろうか? と二人の女性の取った行動にびっくりしました。
イエス様を知らなかったら、はっきりとした態度はとれずただおびえてしまうと思いました。イエス様を知らない人は、直ぐに行動にでてしまう。イエス様が内に住んでいてくださる、そして共にいてくださるといつも感謝して信じていたら、なにも怖くはないと思いました。ハルも賀川もイエス様を知っていたからこそはっきりとした態度ができたと思いました。
次には戦争の場面もありました。私は、怖くて顔をそむけてしまいました。父や母からも戦争の話は聞きますが、話だけでは、「ふ~ん」と言って聞くだけで『戦争はいやだなあ』と思っているだけでした。でも実際に映画を見るとこんなひどいことがあったんだと思ったら涙がでてきました。親が子供を探し、子供も親を探し、また爆弾の降下で逃げ迷う大勢の人がなくなっています。心のなかで「神様の平安がありますように。戦争は絶対にしないように」と祈りました。
戦争が終わっても、賀川豊彦は、牢獄には何回も入れられ、貧しい人の為に戦い続けました。生活協同組合、農民協同組合等の親となり、生協の旗が、ノアのはこ舟の話から雨があがったときに虹が出ていてそれが旗になっていると聞いた時は、「え~。聖書から取っているんだなあ」と思いました。私も聖書のどこになにが書いてあるかというのが少しでもわかったことがうれしいです。
パンフレットを見たり、また人の話を聞いたり賀川豊彦のことをなんとなくわかると言うような気持ちで頭に入っていませんでしたが、映画をみて感動しました。賀川豊彦という人は、体を犠牲にまでして貧しい人のために戦い続けた人なんですね。
イエス・キリストが本当に賀川豊彦に生きて働いてくださったと思いました (主婦)
板野郡
T.M
死から逃げてはならないと思う。
いつかはわからないが、神様が用意していてくれる、
ほんとうの死まで一生懸命生きよう。
木は自分で動きまわることはできない。
神様に与えられたその場所で
精一杯枝をはり、ゆるされた高さまで
一生懸命伸びようとしている。
そんな木を友だちのように思う。
星野富弘著「愛、深き淵より」
神様に感謝致します。
徳島市
讃美に聞く み言葉
T.E
一 行けども行けども ただ砂原
道なきところを 一人辿る
ささやく如くに み声きこゆ
「疲れしわが友 われにきたれ」
二 やけたる砂原 痛む裸足(はだし)
渇きのきわみに 絶ゆる生命(いのち)
しずかに優しき み声きこゆ
「生命(いのち)の泉に 来たりて飲め」
三 帰るに家なく 疲れ果てて
望みもなき身は 死をぞ願う
さやかに力の み声きこゆ
「帰れや 父なる 神のもとに」
(讃美歌21 四三七「行けども行けども」)
この讃美の歌い出しは一番から三番まで罪や孤独、絶望が迫ってくる。スケールは小さいが、私の中にもそれを見つけてどうしようもなくなる時があった。このまま絶望の中にずっと置かれるのかも知れないという恐れが。
み言葉の学びを通してそれは神様の御声を聞いていないから、聞こえが悪くなっているからと教えてもらって、そうなんだと示された。ふっとサタンが耳を鈍くしようと取り囲んでくるのに気がつかないでいる。
でも、神様の御声を聞こうと祈って待っていれば、必ずイエス様が愛を持って御声を聞かせてくださる。
この讃美の後半は神様からの御声が聞こえる。大転換が起きている。
でも、しかしではすまないような大きな変化が起きている。
神様の御声を聞くということは何とすばらしいことでしょう。
ささやくごとくに、静かにやさしく、そしてさやかに力の御声が聞こえてまったく新しい霊的な神様の愛のなかに入れていただける。
後半のメロディーも静かにやさしい愛に包まれたなかに確信を与えてくれる感じがする。
人生はこれからも時には荒野であったり暗闇であったり、絶望であったりするかも知れない。
神様の声を聞かずに高慢になったり、人を裁いたり、何でもない言葉に心痛んでしまう弱さという罪を持っている。
でも、これまでもそうだったようにこれからも御声を聞こうと求めれば、主はそこから「私のもとに来たれ」と呼びかけてくださり御国へと導いてくださる。イエス様の翼に乗せられて御国へと運んでいただけますように。(はり治療院 )
徳島市
T.K
イエスの後に従って歩むとか、イエスを見つつ歩むと今までにも学んで来ました。でも(列王記上八・23)には「心を尽くして御前を歩む」。「あなたがわたしの前を歩んだように…」(八・25)とある。いつも神様は後ろから見守って下さっているから道を逸れる事はない。
昔夫が元気であった頃、帰りが遅くなった私を駅まで迎えに来てくれた事があった。私は自転車、迎えに来た夫はバイク、自転車の私を、ゆっくり後ろからずっと照らしてくれた事があった。
神様は後ろから照らして下さるだけでなく、声もかけてくださる。
「あなたの耳は、背後から語られる声を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と。(イザヤ書三〇・21)
またエゼキエル書四八・35、最後の箇所で、「主がそこにおられる」とある。神への畏れを持っている者を後ろから照らし、間違った道を歩もうとしている時には、「この道を歩め」と声をかけて下さる。イエス様の後に従順に従って歩む時には、恵みと慈しみが周りを取り囲んでいるのだ。
板野郡
T.T
「しかしイエスを死人の中から復活させたお方の御霊があなた達の中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させたそのお方は、あなた達の中に住んでおられるその御霊によって、あなた達の死ぬべき体をも生かしてくださるであろう。」(ローマ人へ八・11)
人はこの肉体が死んでから、「最後の日・キリスト再臨の時」までどこへ行くのであろうか。私たちは地上を去って直ちに復活するのではない。再臨迄のしばしの間、神がお定めの所に居て、聖霊の力によりキリストとの結びつきはさらに強められる。イエスが十字架にかかられたとき、同じく磔(はりつけ)にされている罪人の一人との対話。『イエス様、こんどあなたのお国と共にお出でになる時には、どうかわたしのことを思い出してください』、『アーメン、わたしは言う、その時を待たずとも、あなたはきょう、わたしといっしょにパラダイスに入ることができる』(ルカ二三・23~24)。当時ユダヤ人の間に死後の義しい霊魂は、黄泉(よみ)の一部のパラダイスに入って復活の朝を待っているという信念があったのを、イエスはそのまま用いて福音を伝えられた。
キリスト・イエスは弟子たちとの別れに臨んで、新しい掟を与えて言われた『わたしも父上に願ってわたしに代るほかの弁護者(パラクレートス)をおくっていただき、いつまでもあなた達といっしょにおるようにしてあげる。これは真理の霊である』(ヨハネ一四・15~17)。聖霊として働く復活の力は、イエスが復活されて後、パウロや使徒たちを復活の証人として立ち上がらせた。
パウロの手紙『私は今、この二つの板挟みになっている。すなわち一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいという願いがあって―もちろんこの方が遥かにずっと勝れているのに―他方では肉体で止まっていることの方が君達のために必要なのだ』(ピリピ一・23~24)。『それで、わたし達のこのテント(肉体)にいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい(つまり死にたい)のではなく、(天の住まいを)上に着たいからである。これは死ぬべきものが命に飲み込まれるためである。このことがわたし達に出来るようにされたお方は神であり、このお方がその手付(担保)として御霊を下さったのである』(コリント第二 五・4~5)。神の賜わる聖霊こそ御国への復活の保証である。
最後の審判の時、『わたし達は最後の日に一人のこらずキリストの裁判席の前に自分を現わし、一人ひとりがその体によってしたことに従い、善いことにせよ悪いことにせよ報いを受けねばならない』(コリント第二 五・24)。
しかし、紀元九五~一〇〇年頃に書かれた「ペテロの手紙第一」には、キリストがただ一度死なれてから、霊では活かされ『且つ霊で行って、陰府(よみ)の獄(ひとや)に閉じ込められていた(悪)霊達に救いの福音を述べ給うた』(三・18~19.四・6)と、「使徒信条」第四条の「キリストの陰府下り」が伝えられている。イエスが死者にも福音を説かれて悔改めの機会を与えられたことは、不信仰のまま亡くなった肉親や友人をもつ者には、大きな慰めであり希望である。
ヨハネの黙示第六章9~11節「…私は祭壇の下に、神の言のため、またその立てた証のために、かつて殺された殉教者達の多くの霊を見た。彼らは大声に叫んで言うた、『聖なる、真実(まこと)なる主よ、何時まで審かず地上に住む不信者どもに、私達の血を復讐(しかえし)し給わないのであるか。』すると各自(めいめい)に白い上衣(うわぎ)が与えられ、…神の定め給うたその数が満つるまで、なおしばらくの間休息(やす)んで静かに待っているように彼らに言い聞かされた」。殉教者たちも復活の時まで神のみもとに生きている。
『アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信じる者は、今すでに永遠の命を持っていて、最後の日に罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである』(ヨハネ五・24)
「われ聞けり 『御冠(みかむり)と真白き衣(ころも)をつけ 主をほむる民あり』と われも共に歌わん『ハレルヤ』と叫びつつ 御声(みこえ)聞きて喜び 御国へと昇り行かん わが旅路終らば」(新聖歌四七一番)
大洲市
T.K
今年の誕生日が来るとやっと三〇歳になります。今、三〇歳になると、どんな年なのかわかりませんが、ちょっと前に市立図書館へ寄って本を読みました。三〇代にきちんと人生の中で一番大きな目標を置いて果たせるまでコツコツと力を上げてチャンスを逃がさないように気をつけていれば、四〇代になっていい歳だったと後悔しない。と、書かれてありました。又ポイントの中でひとつは笑顔だそうです。失わないように改めて皆様にもよろしくお願い致します。久しぶりの文章なので、少しはミスがあるかもしれません。
私には、耳が聴こえないというハンディがあるので、新しい言葉を使う時に、その意味を覚える必要があり大変です。
集会に参加して、賛美を歌うとき、メロディーが聞こえないので、慣れていない讃美歌の場合は、歌詞を覚えて歌う時まで、余計時間がかかります。
伴奏の音楽が聞こえないから、賛美歌の本を見ながら歌うしかありませんが、耳が聞こえる人と速さが食い違ってしまい、あれ早い! あれ遅い!と気がつくことがしばしばありますが、皆様と一緒に歌うことが楽しいです。
二〇歳になる前頃に、今では考えられない悲観的な悩みを持っておりました。
「天国へ帰りたい!」と何度も家族の人に言って、どうやって生きていいのかと苦しみ悩みました。不器用な手先だったので人並みに達することがなく、ゆっくり、ゆっくりとイエス様に支えられ、少しずつ技術を身につける恵みの中で、周りの人にも悩みを知ってもらい、解決へ導かれて、少しずつ毎日が元気になった時、「主よ、感謝します。」と祈りながら楽しくすごしています。
元気がない時はお休みをもらい、静かな一日を過ごしています。そんな日々に神様への信頼をもう一度やり直して体の回復が少しずつ良くなったように感じて感謝と共に愛を感じました。
毎日生じる小さな悩みと大きな悩みが私だけでなく誰でもありますね。そんな時、すぐ祈りをしたり、そうっと賛美歌を歌ったり、聖書をパッと開いてみ言葉を聞いたりしていれば解決出来ます。
神を信じ、信頼することはどういうことか。という悩みに、ある雑誌に答えが書かれていたので驚きました。
「感情に頼ってはいけません。 私達のよりどころは、自分の感情ではなく、神の約束のことばである聖書です。」
そうだったんだ。み言葉は神からの約束の言葉で、これを守ることが神への信頼なんだとわかりました。
イエス様の宣言が私達の救いとなる約束だと思いました。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」(Ⅱコリント書 十三・5)を見つけました。
「だから、神の国とその義とをまず第一にもとめなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、明日のことまで思い悩むな。明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ福音書 六・33~34)
時々、計画どおりにうまく出来なかったことが、貴方も私もありますね。でも確かに神様のご計画の中に設置した目標があるはずです。ハレルヤと喜びましょう。 すべて何もかも神様がご存じです。祈りするとき、いろいろな愛を示す時、いつか必ず、答えを与えてくださいます。(聴覚障害者)徳島市
ー主は待ち給うー
N.S
・信仰は神の御業と知るときに背筋を走る神秘の恐れ
・時は今霊とまことの礼拝を求めて常に主は待ち給う
・信じつつ生きし老女に十字架の御苦しみをも分ける主の愛
・憐れんでくださいと叫ぶ祈りのみ最後の日まで残るみ恵み
・求めよの御言葉知りつつ求めない罪の大きさ知るとき遅し
・子の為に苦もなく出来る自己犠牲人の為には自我が居座る
・わがままで怠惰な自我に勝つみちを教えてください助けてください
・御口より吐き出さるべきこの吾を赦して今日も命くださる
・朝ごとになすべき事をお尋ねし御力求めて生きる幸い
・顔を地に押し付け動けぬ亡霊は貪欲の罪浄める教皇 (神曲煉獄篇一九歌)
・全山が揺らぎ轟音沸き起こる神の栄光たたえる合唱 (神曲煉獄篇二〇歌)
・只一人悔い改めし罪人を喜ぶ天の愛の大波 (神曲煉獄篇二一歌)
徳島市
N.N
外国人の十九歳の女性とあることで話をする機会があった。在日して十二年、日本の義務教育を受けた後は、現地の高校を卒業し再び来日。来日の目的は、働いて、お金をためて現地の親へ仕送りすることであった。日本で働く外国人の多くはこうした目的があるのかもしれない。
彼女はある事件を起こして、警察の世話になったことがあった。その時、罪の重大さに気づき、そして、家族を悲しませた申し訳なさとで二週間泣き崩れた。審判で、今後は償いをしたいのでもう一度チャンスを下さいと泣きながら訴えたという。そのことを神様に祈っていたという。祈りはかなえられた。今は一生懸命仕事をしている。
若いカップルが誘惑に負けて、事件を起こして話題になったタレントのようになった。先に施設を出られた女性は私に言った。「彼の誘惑に負けた自分が悪かった。彼にやめさせることもできなかった。二人でまじめに働いて将来の生活設計を立てたい。そのために先に私が一生懸命働いているところを見せる!」そして雨にも負けず一時間余りを自転車通勤をした。風邪気味でも体に鞭打って頑張った。しかし無理がたたって、持病が悪化、ついに帰らぬ人となってしまった。彼は施設内で号泣した。葬儀にも出られぬ身であった。
のちに彼は言った。「彼女は自分のために命を捨ててくれた」
私の出会った若い人たち。心から悔い改めた若い人たち。神様はこのような悔いた砕けた心を喜ばれる方です。
八王子市
N.T
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。 イザヤ書 五五・10
退職後の想いがあって、家から車で一五分程の所に畑を借りて家庭菜園を始めてから四年程になりました。今はまだ病院で働いているので一週間に1~2回しか野菜の手入れが出来ず、特に夏野菜は行く度に草取りが大変ですが、自分が育てた新鮮な野菜が食卓に並んだ時には、神様には心から感謝の気持ちが自然とわいてきます。
作り始めた頃は、種まき、苗の植え付けの時期、肥料を与える量、等を教えて貰って化成肥料や消毒も使っていたが、ある日のこと農家の人が消毒剤の散布をしている姿を見た時、あの野菜がマーケツトに並んでいるのかと想い、その時から見た目には悪くても、安心して身体にも良い野菜を味わいたい、と考えて今では家の近くの林や竹藪に行き、落ち葉を集めては畑に運んで有機肥料として育てている。また家族も一緒になって協力して落ち葉を集めたり、本を買ってくれるので助かっている。
しかし最大の協力者は神様で、いつも陽を注ぎ、雨を降らせ、風をそよがせ、育ててくださいます。
私が夜勤明けで家に帰る前に畑で草取りをする時も、神様が造ってくださった世界を見て癒しと安らぎを覚えて時間が経つのも忘れることあります。
これからも神様の導きに感謝して野菜作りをしていきます。 (看護助手)
吉野川市
N.H
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」エペソ書四・16」
今年の夏は、新鮮な野菜がたくさん手に入り、それを調理していただき家族が元気に過ごせたように思います。
私達の命に欠かせない食物。その食物を肉体の栄養として体の中に取り入れますが、それと同じように大事な事は、霊の食物をいただく事です。日本人は今飢え死ぬほど貧しい人はごく稀ですが、魂の飢餓に陥っている人は数え切れないほどいます。そんなに飢えているのは、本当に満たして下さる神様の存在を知らないか、または、神様を知っていても、満たされる方法を知らないからだと思いました。
礼拝の学びで、神様は私達にいつもバイキング形式の食事のように、たくさんのご馳走を用意して、私達がそれをいつでも欲しい時、好きなだけ食べられるように目の前に置いて下さっている。私達はそれを取って食べたら良いだけであると学びました。
逆に、私達はその恵みの饗宴に預からないで、おなかが痛くなるような物や、固くて食べられない味もない石のようなものを取って食べようとします。
小さい子供達は、何でも口に入れますが、母親は、そばに居て、石などを口に運ぼうとした時、それを捨てさせます。私たちの神様も、栄養になる物を取って食べるように、み言葉によっていつも注意してくださいます。また、目の前にどんなにご馳走があってもそれを口に運ばない限りお腹を満たすことはできません。ご馳走のある場所に行って、自分の意志で食物を選んで、口に入れるのは、私達の側がする事です。光の方へ向かっていくとより美味しいご馳走がありますが、信じている人にも、時には闇に用意されている物が食べたくなるような誘惑が来ます。しかしそれを食べてはいけないのです。必ずそれは私達を害しますから。
私達がみじめで悲しい時、罪に泣く時、私達の魂をそのまま放置しておかず、神様の方で用意して下さっている恵みのみ座に近づき、時宜にかなった助けをいただこうではありませんか。主は必ず助けてくださいます。
そのようなメッセージを受けて、私の魂は、俄然 霊的食欲がでました。
求めよ、そうすれば与えられる。主が与えくださるよき食物を求めて、それをいただき今日も感謝の道を進んでいきたいと思いました。 (ケアマネージャー)
吉野川市
N.Y
主日礼拝の出エジプト記三十六章の所で、英知について学びました。イスラエルの人たちは神様の命じたとおり聖所を造りましたが、そのとき神様は知恵と英知を主から授けられた人たちが作業に当たるようにと命じられました。何かを造る作業には、「技術」が最も必要と思われていますが、神様の仕事をするときは、主からの知恵と英知がなければいけないと学びました。英知とは、何が本当に価値のあることか神様によって知ることです。
講話で、「家を建てる、教育をする、歌を歌う。そういうことを神様から英知を与えられてするということは普通考えない。しかし主から英知を与えられて、初めて知識も技術も全うされる。普段私たちが考えたこともないような発想が聖書にはある。」とお聞きし、私は先日見たテレビ番組のことを思い出しました。
韓国のベー・チェチョルさんという男性のお話しです。チェチョルさんは子供の頃から教会で歌っていて、素晴らしい清らかな歌声を持っていました。その讃美は人々の心を癒す力を持っていました。彼は大きくなり、世界的に活躍するテノール歌手になりました。「リリコ・スピント」といわれる非常に貴重な歌声で、百年に一人の才能と言われていたそうです。しかし彼がオペラ歌手としていよいよこれからという時、大きな変化が現れました。声が出なくなったのです。検査をすると喉に大きな甲状腺癌ができていました。声は守られると聞いて手術を受けましたが、腫瘍は予定外の大きさで、医師は声帯の神経を切らざるを得ず、オペラ歌手としての復帰は絶望的となってしまいました。
声の出なくなった彼の周りから、それまでもてはやしていた人たちが一人もいなくなってしまいました。妻と共に懸命にリハビリを行いました。声が出るような手術をしてくれる病院を必死で探しましたがどこにもありませんでした。そんな中、一人の日本人音楽プロデューサーが、日本の医師を紹介しました。そのプロデューサーはチェチョルさんの才能ある歌声が忘れられなかったのです。日本の医師は今まで誰にも行ったことのないような手術を2回行い、成功しましたが、先の手術で肺の神経も一部切れていて片肺がほとんど膨らまず、とても舞台で歌えるような状態にはなりませんでした。
そんな時彼が教会に行くと、そこには自分のために祈るクリスチャンの姿がありました。それによって再び教会で歌いたいという思いが甦ってきました。そして手術後初めて教会で歌いましたが、高い声は出せず、音も長く伸ばせません。教会の人たちは静かにその讃美を聴いていましたが、彼が声を詰まらせて全く出せなくなったとき、会場の皆が後を継いで静かに歌い始めました。とても清らかな素晴らしい歌声でした。その讃美は「輝く日を仰ぐとき」です。
彼はそのとき砕かれ、立ち返りました。それまでは音楽を競争のように思い上へ上へという気持ちで一杯だったそうです。何のために、誰のために歌うのかという事を忘れてしまっていたのでした。
その後奇跡的に肺が元の大きさに近いくらいまで膨らむようになりました。それははありえないようなことで、テレビでは説明のしようがないがあえて考えるなら歌うことによるリハビリの結果なのだろうと解説していました。私は神様だと信じます。彼は去年、日本で復帰の舞台に立ちました。そして讃美を中心としたアルバムを出しました。そのアルバムのタイトルは日本語で「輝く日を仰ぐとき」と書いてありました。
神様に与えられなければ、誰も元々英知を持っていないといいます。チェチョルさんのお身体が完全に癒されますように。そして素晴らしい歌声が多くの人を慰め癒し、聴く人々の思いを神様のところへ運んでくれますようにと祈ります。
(ケアマネジャー)
吉野川市
N.A
父親は、長崎高等商業出身で、若いときキリスト教に触れた。それがきっかけで東京に行って、あちこちの教会を渡り歩いていた。
それも満足できず、塚本虎二の集会に出るようになって、無教会に加わった。塚本虎二の丸の内集会に何十年の間参加した。
塚本集会に行っている間、黒崎幸吉も知るようになった。妹も含め家族も塚本集会に参加するようになった。
現在は、高齢となり、老人ホームに入っているが、体力も衰え、老人の不自由な生活をいっそう感じている。そのため、ますます信仰に支えられていかねば、という気持がある。弱い信仰ですけど、これがなかったら 生きていけないと感じている。
現在では、集会にも行かれなくなり、「いのちの水」誌を読み出して、これが一番支えになる。
今の年齢になって、信仰はなくてはならないと、いよいよ感じる。
老人ホームは、具合の悪いときには、病院に連れていってもらえるし、食事も提供されるから恵まれている。しかし、私たちが想像していた以上にいろいろの問題があるのも分かってきた。
妹(尚子)の友達(Mさん)が、「いのちの水」誌を紹介してくれた。
妹の尚子が、青山学院専門部卒業する間際に、友人のMさんも無教会のキリスト教信仰を持っていると知った、と言っていた。
以前、元気なときには妹は、東京の経堂集会に参加していた。現在の私も、一週に一度の集会に参加できたら、心の支えや喜びになるが、老齢化や病弱になったため参加ができなくなった。
そのような者にとっては、「いのちの水」誌のような冊子が一番よい。器械のように故障もしないし、いつでも取って読めるから。
東京都
N.K
かなり、以前になりますが、「波止場」という映画をみたことがあります。マーロン・ブランドが主演の社会問題をとりあげたドラマです。波止場で作業する労働者を暴力的に支配する組合のボスが、それに反対する労働者と争いになり殺人事件にまで発展します。殺人の目撃者が数人いるようなのですが、脅迫におびえて、証言をためらいます。ボスとその取り巻き連中の不正が横行し、理不尽なことがまかりとおる事態でも、暴力や脅迫におどされて組合員である労働者は不承不承従います。
そこで教会の牧師が、労働者の作業現場にでかけて、不正を暴き、ことに殺人の現場の証言に勇気をふるって立ち上がるように説得します。
「神は教会だけにいましたもうのか。いや、ここが教会だ。暴力が吹き荒れる、不正の横行するここにこそ神はいましたもう。」と叫ぶ場面を、印象深く思いおこします。
映画は、マーロン・ブランドの演じる若者が、ボス連の脅迫に耐えながらも勇気をふるって証言をし、不正をあばいてゆく過程が描かれてゆきます。この映画をつくった監督の福音的な信仰が表されていると感銘を受けました。
これに関連して、かつて、北海道家庭学校の校長をされた谷昌恒先生の言葉を思い起こします。「社会より孤立してゆくような教会を形成することに進むのではなしに、主をこの社会の中にお連れ込みするようにこそ努力すべきだ」。
十月号の「いのちの水」誌に、ヨハネ福音書十五章5節の有名な御言葉「私につながっていなさい…」の中の「つながる」という言葉の解説が詳しく書かれてあります。
原語で「メノー」というこの言葉は「en」がついて内に留まるというのが原意であること、ヨハネ福音書とヨハネの手紙に六十四回もでてくること、「つながる」、「いつもある」、「留まる」と三通りの言葉で訳されていることなどを教えられました。
「イエスの内にとどまって」仕事をすること、いつも自分の意志を働かせ、いつも思いを込めて、主イエスとの関わりの中で物事を思うこということは、主イエスの内におるということである、と書かれています。この思いを持ち続けることで、主をこの社会にお連れこみし、ここが教会だと力強く、話すことが出来るのだと思われました。
小生は現在、民間の病院の小児科で働く、老小児科医(気持ちは青年のつもり)です。その診療の現場でも、ここが神の教会だといえるように、主イエスの内に留まって、診療にあたりたいものと願っておりますが、なかなかそうもいかない現状です。診療にこられる子供さんには、さまざまな家庭背景があり、養育歴があり、事情があります。多忙であると特に、ゆっくり話しも聞かず、そうした事情を知らないままで本当の治療にいたっていない場合もあります。
「メノー」この言葉をキーワードとし、生活の中心に据えて歩みたいと願っております。
福井県
N.H
イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わしになったかたの御心を行ない、その業を成し遂げることである。」
阿南市
N.K
主は人の一歩一歩を定め御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
主がその手をとらえていてくださる。
(詩編三七章23・24節)
阿南市
N.Y
「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれていった。…犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。…」(ルカ伝二三・32~33)
五月のある主日礼拝の朝、イエス様が十字架に架かられるこの時の、二人の犯罪人の姿を解き明かしてくださいました。わたしたちの生き方には二つの道があるという。重罪を犯した犯罪人が「イエスよ、わたしを思い出してください。」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われた。多くの罪を犯し正しい道から外れてしまっているわたしたちに、イエス様を見上げ、立ち返るだけで直ちに救われると言ってくださるそのような道。一方、「おまえが王なら、自分を救ってみろ。」と神をあざわらい信じようとしない道。聖書にはこのように様々の箇所で二つの道が用意されていることが記されています。マタイ伝25章33節にも「羊を右に、山羊を左に置く。」とあります。
いつも子どもたちに言っていることがあります。苦しいとき、前へ進む道をとるのか、苦しいことから逃げて楽な方へ行く道をとるのか、と。メッセージを聴きながらはっとしました。わたしたちに用意された二つの道というのは、聖書のいうこの二つの道なのだと。単に人の言う前進か後退かということではなく、神様を信じる道か、信じようとしない道か、ということだと示してくれました。またその信じる道はどんな罪を犯した人でも、神様を全く知らず考えもしなかった人でもイエス様を見上げよう、心に持とうと思った時にはいつでもどんな状況にあっても用意されているという恵みの道なのだということを思いました。そしてこの道はたとえ信仰を持っていると思っているわたしたちの心の中にもいつも問われていることだと思います。すぐに生活のことや人の考えに動かされてしまう、神様から離れてしまう罪、そのたびにイエス様を思い起こし祈って平安をいただきたい、祈りをもって周りの人々に接していきたいと思わされました。
「無償のはたらき」
アフガニスタンで現地の人と共に活動を続けている中村哲さんという方がおられる。クリスチャン医師である。ペシャワール会という名で活動を三十年間近く続けておられる。昨年夏、この会で活動していた青年、伊藤和也さんが凶弾によって尊い命を失われたことは記憶に新しい。
中村さんは元来医者であり、医療活動にあたっておられたのだが、同時に水と農作物が育たない砂漠地帯のこの地に井戸を掘り、河から用水を引き、現地の人が難民にならないように水を得させ、食べ物を自分たちで収穫できるようにと活動を続けておられる。新鮮な水と食料があれば薬を使わずとも栄養失調、感染症などは激減する。その活動に賛同した日本の若い青年たちがスタッフとして現地に飛び、米軍の飛行機が飛来する中で活動に従事していた。しかし伊藤さんの事件以降、みな帰国し中村さん一人残って「熱砂の谷、死の谷」とよばれるガンベリ砂漠の緑化を目指している。多くの青年たちが全くのボランテアで無償の活動であるということを知った。もちろん中村さんも同じである。
「神の国と神の義をまず求めなさい。」とイエス様は言われる。ロマ書三章には「神の恵みにより無償で義とされる。」とある。私たちはこの世のはたらきにおいて、見返りを求めないはたらきをどれほどしているだろうか。自分の生き方をすべて神に捧げて尽くしはたらいている方がおられる。わたしはそういう人たちの生き方をみるとき、「生きるとはキリスト」というパウロの言葉をいつも思い起こす。このような人たちの信仰を神様は見ておられ、かろうじてわたしたちに恵みをもたらせてくださっている様に思うことがある。
同じような生き方はできないかもしれない。でも独り子イエスを身代わりに立て無償で義としてくださった神様の愛を感謝してそれぞれの者がそれぞれの場所で神様に喜んでくれるようなはたらきをしていきたい、示されたいと、深まる秋の自然のなかでしみじみと思い祈っている。
「ヘブル書の学びから」
ルカ伝の学びを終え、ヘブル書の学びが始まった。1章の始め、「永遠の存在たるキリスト」と題し、イエス様が神の本質の完全な現れであることを学んだ。
「神は、この御子を万物の相続者として定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブル書一・2~3)
神が人々の罪を清めるためキリストとしてこの世に現れ、三十三年間人として生きられ弱さも持ち、わたしたちと同じような姿で生きてくださった。この学びで神とキリストとの関係があらためてすっきりと心に刻まれた。また、支えておられる、という「支える」の意味は「フェロー」―運ぶ―キリストの心を運ぶという意味であり、神様の言葉によってこの世は支えられているのだということも魂の深いところに刻まれた。ルカ伝同様、このヘブル書の学びからも毎回多くのことを聖霊によって注がれている。主日にイエス様の前に立ち、兄弟姉妹と共にみ言葉に学び讃美し祈ることのできる何ものにもかえがたい平安に心から感謝の気もちが溢れてくる。
高槻市
N.Y
東京の無教会キリスト者のK氏の案内で、今年の八月、東ドイツのさらに東端の小さな町、ヘルンフート(herrnhut)を訪れました。この場所には日本の無教会の精神に近いキリスト教信仰共同体があると、今年六月の無教会青年全国集会の時に聞いていました。このヘルンフートについて、日本語の文献はあまりにも少ないので、少しでも知ってもらうために紹介します。
ヘルンフート(ドイツ語で主の守りという意味)とは町の名前ですが、七千人の信徒が住んでいる信仰共同体の代名詞でもあります。この信仰共同体の通称は、ヘルンフート兄弟団・モラビアン教会・ボヘミアン兄弟団と、様々です。
ヘルンフートはドイツ国内やヨーロッパの中でも特別な存在で、キリスト教なのですが、「キリスト教」と「キリスト教でない人」の橋渡しをするような存在です。無教会が、教会がない人の教会であることに似ています。無教会の精神と近い理由も、イエスとキリスト者は直接一人ひとりが関係を持つということ、洗礼を行うけれども、信仰告白すなわち証を重要としていること、教会の考え方としては、教会は建物であって信仰それ自体ではないということなどの点で似ているところがあります。
このような信仰姿勢は、内村鑑三が自身の体験の中で無教会の精神を啓示されたことと同様、ヘルンフート兄弟団もまたその成り立ちの歴史と精神とが深く関わっています。
ルターの宗教改革は一五一七年に始まるのですが、それに逆上る一四一二年にチェコのヤン・フス司祭は免罪符にはっきりと反対し、そのために一四一五年、カトリック教会によって火刑に処せられます。
フスの死後まもなく、フスと信仰を同じくした人々は自らをボヘミアン兄弟団と名乗るようになります。ローマカトリックに反対したルターよりも百年逆上る、最初のプロテスタントと言われています。その後一六二〇年頃まではカトリック教会と多くの議論を重ね、弾圧を受けたり改宗を迫られたりする中で、ボヘミアン兄弟団としてカトリックにはならずに信仰を保っていました。
しかし、一六一八年に三十年戦争が始まると、弾圧は暴力的になり、ついに迫害され、モラビア(現在の西部チェコ)から逃れていきます。この地方は山々が連なり、道は険しいものでした。どの地でも受け入れられずに移動を繰り返す中で、一七二二年にヘルンフート(この年にそう名付けられた)のツィンツェンドルフ司祭の元に逃れ着きます。
ツィンツェンドルフは各地で迫害を受けているキリスト者を受け入れて、一宗一派に捉われたり、宗教的強制をしたりすることなく、聖書を開き、祈りを持って迫害を受けた人々を受け入れて、礼拝を続けました。その信仰の中心は、イエスと直接一人ひとりが関係を持つものであり、当時は珍しい、若いうちに主を知る〝姉妹〟の絵が描かれたりもしました。
肉体的にも精神的にも過酷な迫害の旅、逃れの道であったことを物語る、数多くの道中の絵も描かれていました。こうしてヘルンフートはキリスト教から迫害された人のための共同体として形成されていったのです。
一方、教会から離脱せざるを得なかった人々を教会へ復帰させることができるならば、そうすることもまた自分のすべき道である考えていました。
こうして現在、ヘルンフート兄弟団は「キリスト教」と「キリスト教でない人」の橋渡しをするユニークな存在になっています。
「日々の聖句」で知られる「ローズンゲン」は毎年このヘルンフートで選ばれ、今も日本語を含めて多くの言語に翻訳されています。これは、一七三一年から休むことなく観光されて、現在に至っています。
私たちの知る中では、アマスト大学(新島襄・内村鑑三が学んだアメリカの大学)の総長であったシーリー、「眠られぬ夜のために」の著者のカール・ヒルティはこの場所で信仰を学びました。教育原理、教育全般の体系を造り上げ、現在も世界中の学校教育に大きな影響を及ぼしている「大教授学」の著者のコメニウスは、このヘルンフートの司祭でした。
私がこの地で感じたことは、主の守りとなる場所はいつの時代にもあったということです。社会的、民族的、宗教的差別をうける人々を、イエスは受け入れたように、私も、自分の思いでなくイエスの思いと心を一致したいとおもいました。
――闇に迷う日も 主はわが道なり。 主ともにいませば、 わざわい恐れじ。――
(「ひかりにいます主」三節 讃美歌21 五〇三番 ツィンツェンドルフ作詩)
大阪府
N.H
神の存在をわからせていただいたことを感謝します
信仰を与えてくださり感謝します
正しい道へと導いていただき感謝します
日々私たちを守ってくださり感謝します
私たちにとり最もよくなるように計っていただき感謝します
美しい草花と木々のある自然を与えてくださり感謝します
自然を美しいと感じる心を賜わり感謝します
人の心の暖かさがわかる心をいただき感謝します
次の世の存在をわからせてくださり感謝します
死への恐怖を取り除いてくださったことに感謝します
苦しかった過去を忘れさせていただき感謝します
心に主の平安を賜わり感謝します
数え切れない恵みを賜わったことに感謝します
恵みを賜ったことをわからせていただき感謝します
神の国に招いてくださり感謝します
幸いに満ちた一生を与えていただきありがとうございました
大阪府
S.M
九月に発行された「ともしび三十三号」では、J R清水駅へ向かう出勤途上の自宅すぐ近くの橋の袂で出会った高校一年生、中学一年生の様子を紹介した。今回は、清水駅到着後の様子を記してみたい。
私の役所生活は、福祉関係部署の在籍が長い。現在の障害者福祉課は、三回目、在課延べ年数は今年で十年目となる。障がい者との関わりが深いということもあるであろうが、無意識のうちに市役所までの出勤途上で障がい者の姿がよく目に止まる。
今夏八月から一つ早い清水駅発六時四十一分の電車に乗るようにした。駅ホームで朝日を浴び心地良い風を肌に受けつつ待っていると中学生らしき少年が母親に寄り添い私の後に並ぶ。少年の様子から母と共に特別支援学校に通っているようである。親子の会話は無いが、少年は母に絶対的信頼を寄せ、あたりをキョロキョロ見回しホームからの眺めを楽しんでいる様子である。乗車すれば指定席の如く、私と親子は向かい合わせとなる。そしてしばらくすると決まって母は目を閉じるやうたた寝を始める。この姿を拝見すると何年もの間子供の通学に付き合う親の負担、犠牲の大きさを思わずにはいられない。迎えはどうするのだろう、仕事に就いているのだろうか、パート勤めくらいしているのだろうか‥‥との思いが頭をめぐらす。
静岡駅に着き今春新装し綺麗に生まれ変わった地下道を市役所方面に向け歩き出す。すると百m程のところで中学生と思われる少女に会う。彼女は両足を補装具で固定している。左手は二本の松葉杖を抱え込み、右手は新しく設置された手摺につかまり、黒色の大きなリュックを背負っている。右足を一歩前に進めるとリュックは大きく左に傾き、左足を前に進めると右に大きく傾く。補装具と手すりによって何とか自力歩行を維持する様子がうかがえる。一m少々の極めて小柄な身体のため黒色のリュックがとても重たそうに感じられる。一歩また一歩と足を進め、全力で学校に向って足を進めている。見慣れた姿となったため凝視することは無くなったが、すれ違う時は自然と頭が下がってしまう。
地上に出ると、駅前一等地に市内一、二を競う高層ビルが大手建設会社により建設中である。来春四月オープンに向け毎朝多くの職人が建物周辺に集まる。コンビニ前に歩を進めると、若い職人さんグループが私と交差し店内に入っていく。職人らしき個性の漂う洗いざらしの服装に身を包み、皆きりっとした風貌の持ち主である。不景気風が吹く中、長期間の仕事が保障され、しかも大きなビルの建築を任せられた信頼と自信がその風貌に現れている。ねじり鉢巻に精悍な顔つき、そして同僚と仕事の会話をするその姿には、仕事に一途に打ち込む人間の姿があり、理屈ぬきに美しく見える。このような自分の仕事に誇りを持つ人の姿が多く見られる社会になってほしいと願う。
コンビニの店の前を通り過ぎる頃、大きなカバン二つを肩にかけ足を引きずりながら近づく女性を目にする。左足膝のサポーターが目に付く。滑らかな歩行ができず、力が内側に偏るようで運動靴が今にも脱げそうである。肩にかけたバックが落ちないように両手でしっかり固定し歩く。女性は決まって神社に寄り、その場所を住家とする野良猫の身体を撫でる。呼吸を整える場所でもあろう。
神社を通り過ぎると夜のネオンが消えた店がチラホラ出現。時々寝る時間を忘れてしまった若者達が、いまだ酔った勢いで、大声で友と戯れる姿に出くわす。昨夜の盛り上がりの熱がまだ納まらないようである。厳しい仕事から逃避したい気持ちなのであろうか、あるいはまた信頼できる友とトコトン時間を共有したいのであろうか、現代の度を越した労働環境の厳しさを思うと、この若者達の心情が痛い程身に染みる。
役所近くに来ると、飲食店が多く昨夜の残飯を回収するトラックを見かける。人々が街に姿を現す前の時間帯に、悪臭漂う残飯の入った容器を狭い通路からトラックに載せるその手際よい動きに見とれてしまう。早朝ならではの時間帯の仕事である。汚い仕事を全く気にする様子もなく、テキパキと仕事に打ち込む姿、この姿も実に美しく見える。
いろいろな光景を目にして、十八階建のコンクリートの塊に七時五分到着。私の障害者福祉課は十五階南側に位置する。窓から駿河湾を百八十度見渡すことができる。仕事は八時半始業のため職場はまだ誰もいない。大海原に朝日が輝き雄大な自然の美しさを眺めつつ深呼吸し、そして今日一日無事でありますように、順調に仕事が進みますように、と頭を垂れ神にお祈りをする。
私に与えられた仕事は、障害者自立支援法の制度の狭間に置かれた障がいのある人達のための支援である。市独自の施策を打ち出し、事業を進めるのであるが、財政難なこの時代にあって、障がいのある人、その家族、支援団体の希望と財政事情の板挟みに合い中々仕事が進まない。時に苦しく職場に向かう足取りもついつい重くなる。しかし、清水駅から静岡市役所までの間、このように障がいを抱えながらも毎日一生懸命学校や職場に通うひたむきな姿、早朝から仕事に向き合う働く人たちの一途な姿を拝見することにより、私の気持ちは奮い立つ。励まされ勇気を心に注入されるのである。
さて、現代の社会状況は国の内外を問わず相変わらずの厳しさがある。特に若者を取り巻く環境は厳しく、将来の生活設計を立てたくても立てられず、ただ現在の生活を維持するだけで精一杯の生活状況に置かれている。働きたくても仕事がない。職に就いたとしても貯蓄する程の稼ぎがない。結婚したくても相手と交際する精神的、時間的余裕がない。昨今私の周辺を見回してもこのような環境に置かれた若者が実に多くいることを知る。
しかしである。神様は見ていてくださる。与えられた環境の中を、来る日も来る日もただひたすら懸命に生きる若者たちを、神様は熱い眼差しで見ていてくださると信じる。現代を生きる若者達へ、背筋を伸ばし、前を見つめながら前進し続けろ、と声援せずにはいられないのである。
静岡市
B.T
若き日に肺炎カタルを患って山の療養所に入院していた時、ホーリネスの伝道者佐藤雅文先生の訪問伝道の話を聞きました。二度目の訪問伝道に来られた時、かねてキリスト教に関心を持っていた私は入信を決意しました。私の入信決意を聞かれた佐藤先生は「それは大変良いことです。信仰を続けるには二つの大切なことがあります。その一つは『神は愛なり』ということを信じることです。二つ目は『キリストは人の姿をとってこの世に来られた神である』ということを信じることです。あなたはこの二つのことは今はわかりませんが生涯このことを信じて生きてください。必ずはっきりとわかる時が来ます。」と教えて下さった佐藤先生の言葉は今もはっきりと記憶しております。
あの時から幾春秋私は病も癒え、軍隊にも召集され六年半の内地と戦場の生活を送りました。復員して国鉄に勤めて停年退職し、退職後も信仰生活は続け、今年九〇歳の老年期を迎えております。
この間凡人の浅ましさでキリストから離れようとしましたが、愛なる神様は十字架と復活のキリストのもとに引き寄せて下さいました。
この間焼け野原となっていた東京の街も次第と復興し、貿易センタービルが建ち、東京タワーが建ち、新幹線が走り、東京オリンピックも行われました。そして更に今は都会にはビルが林立し、更に最新の技術情報として若田光一さんが人工衛星に四ヶ月半乗って地球に生還しました。
しかし、地上の繁栄、科学の発達も私達の心を満たしてくれません。全人類の罪、そしてこの私の罪の贖いのために十字架の死を遂げられ、復活され、今も聖霊として私達を命と光の道に導いて下さっている主イエス・キリストを十字架の下で心からなる信頼をもって仰ぐ時、心は平安と喜びに満たされ、死の彼方にある復活の希望を与えて下さいます。
二〇〇八年七月二八日、吉村先生は北海道瀬棚の聖書講習会の帰途、各地の信者を訪問してお疲れになったお体で単身車を運転して、「祈の友」であり浦和キリスト集会員である故に私の家に来て下さり、私達老夫婦と祈の友の栗原庸夫さんをはじめ六人の信者に対して「パウロの祈り」と題してエフェソの信徒への手紙一・15~23を講解して下さいました。
その一節。「神はこの力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」私達夫婦は吉村孝雄先生の主にある愛を生涯忘れることはできません。
埼玉県
N.N
亡くなった私の祖母が始めた、瀬棚聖書集会がいつのまにか私の中に芽を出した。 祖母が「信仰の継承」ということを話題にしたとき、ナンセンスだと思ったが、今になって分る気がする。
種がまかれていれば、いつか主が用いて下さるということなのだろう。 私も息子たちの中に種をまこう。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことは、ただ一つだけである。」
(ルカ十・41~42)
今回の瀬棚聖書集会で最も印象に残った聖句です。同時に、講話の中にあった、私たちの強い意志でイエスに「つながり、とどまり、内に居り続ける」(abide in) という話が印象に残っています。そうありたいと思いました。
北海道
N.R
この会の為に祈りつづけて下さった事に感謝します。
この夏もまた、聖霊の風を送って頂けました。
また、多くの友人と共に神さまに触れることができ、心満たされる時を与えられた事に感謝します。
私にとって、この会で印象に残った聖句は
「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。
すべてのことに感謝しなさい。」でした。
何度も聞き覚えのある聖句ですが、今の私に必要な聖句であると実感しています。感謝します。
N.M
今年の聖書集会で学び、考えさせられたのは「祈り」と「自分にこだわっていると神様の声を聞くことができない」ということでした。信仰を持っていない、と今まで言い続けてきたけれど、時々ふと祈っている自分に気づき、集会で「常に喜べ、絶えず祈れ、すべて感謝せよ」ということを学び、これを機に「祈り」について考えていこうと思いました。
また、「自分にこだわっていたら、神様の声を聞くことができない」という事に関しては、まさに、今の自分を言い表している様で、ハッとさせられました。最近、仕事をしていても、日常生活においても「俺が・・」「俺が・・」と自分を常に中心に物事を考えていました。この集会がなかったら、ずっと気がつかずにいたかもしれません。「自分を小さくして、心を落ち着かせ、耳を澄ます」そんな毎日がおくれたらいいと思いました。
瀬棚の聖書集会はいつも、自分のある部分を原点に戻してくれる気がします。また来年まで、今思っていることを忘れずに生活していきたいと思います。
北海道
N.Y
聖霊に満ちた集会に参加できたことに感謝します。遠回りすることも悪くないなと思いました。主の愛にあって祈り続けたいと思います。
H.T
ごつごつとふしくれ立った、しかし敬虔に合掌された素描「手」の絵を目にしたことがありますか。何年か前に聖画カレンダーにもありました。私はそれを切り取り額に入れて飾っています。その「手」を描いた人はドイツのアルプレヒト・デューラーさんです。書かれたのは一五〇八年ですから五十年ほど前になります。デューラーさんはこの「手」を得意の毛筆で描き、暗褐色の地に白色で明るい部分を強めに描きました。この両手を合わせた絵は何を表しているのでしょうか。勿論祈りです。
この絵は国境や人種を越えて誰の心にも迫る「祈り」、人間だけにしかできない祈りを見る人に訴えています。このデューラーさんの「使徒の手」(信仰者の手)の絵には美しい友情物語が秘められています。デューラーさんにはハンスさんという親友がいました。デューラーさんもハンスさんもどちらも画の才能(賜物)がありました。
二人は将来は絵描きになりたい。立派な芸術家になりたいと思っていました。しかし、二人とも貧しくて絵を勉強することができませんでした。ハンスさんはデューラーさんに言いました。「デューラー君がまず先にイタリアに行くんだよ。絵の勉強に僕は働いて君の学資を送るから」こうしてかじ屋の弟子になったハンスさんは、それ以来、来る日も来る日も、来る年も来る年も一生懸命ハンマーを振ってデューラーさんのためにお金を送り続けました。やがてデューラーさんは評判の高い押しも押されぬ画家になり、故郷に錦を飾りました。デューラーさんが真っ先にとんで行ったのは、言うまでもなくハンスさんのところでした。「ありがとうハンス、今度は君の番だよ」そう言ってハンスさんの手をとりました。その手はかじ屋の仕事で固くふしくれ立っていました。とても絵筆を握れるような手ではありません。「いいんだよ。デューラー、僕はこの手で君を立派な画家になるように手助けできたかと思ったらこれ以上うれしいことはないよ」
デューラーさんは、このハンスさんの手をモデルにしてあの有名な「使徒の手」の絵を描いたのです。立派な画家になってくれるようにと親友デューラーさんのために、長い年月自分を犠牲にしてハンマーを振り続けたふしくれ立ったハンスさんの友情に感謝して手を合わすデューラーさんの絵筆によってハンスさんの友情を永遠に伝えるものとなったのです。
友情が敬虔に合掌された祈りの手によって表されまた合掌の手が友情を物語っています。ここに深い意義があります。真の友情は敬虔な祈りによってこそ支えられること、敬虔に合掌された祈りの手にはとりなしと感謝があります。そこには、かけひきも高ぶりもありません。
「すべての人のために願いと祈りととりなしと感謝をささげなさい。」(Ⅰテモテ二・1)
このみ言葉のすすめ通りすべての人のために両手を合わせて祈る心に美しい友情が生まれるのです。
高松市
H.T
大阪市西成区の一角、あいりん地区にカトリック運営の「こどもの里・子どもの家」があります。子どもたちの居場所。数年前からは、様々な問題を抱えている子どもたちの二十四時間、養護保育、まるごとのお世話をされています。
数年前、この施設の存続危機の時、支援活動として、パウロ・グリン神父が、書かれた本を翻訳して、その収益金を子どもの里に送ろうという支援有志の働きで、「和解」という本が生みだされました。著者は、いくつかの事例を集め、それぞれが赦しを経て、和解に至った軌跡を記しています。どれひとつ、とってみても、憎しみ、憎悪、それしかありえない状況の中で、それでも和解こそが、人間を解放し、より豊かな日々を送る秘訣であることを、気づかせてくれます。この本は、本棚に眠っていたのですが、私自身のここしばらく体調不良のもがきの中で、もう一度、読みたくなりました。
どの事例も心にしみいるものでありましたが、なかでも、BC六世紀のドロテオス修道僧の「怒りや恨み」に関しての言葉にひかれました。ドロテオスは、私たちは皆、物事がうまくいかなくなった時、責めるべき誰かを探す傾向にあると注意しています。「自分を責める真っ直ぐな道を残して、他人を責める曲がった道をいつまでも取るのです。」神は私たち一人ひとりに、偽りや邪悪の中から真実で善なるものを識別する良心という「熱く輝くひらめき」を与えられました。ドロテオスは、こうも言います。「神から与えられた良心は、本当にそうしたいと思えば、ありのままの自分の姿や行動、そして、その動機を見ることの出来る鏡です。」と「もし、誰かが、あなたの邪魔をし、心の平安を乱し、意図的にあなたを攻撃したとしても、それに対処する一番よい方法は、その問題を祈りに変えることだ。」と。
例えば、その人をジョンとしましよう。心の中で静かに「神様、ジョンを祝福して下さい。そして、ジョンの祈りで私を祝福して下さい。」これをマントラのようにくり返して唱えてみましょう。このドロテオスが推薦する一見、単純な祈りは、他人もまた神の子であり、神に愛されており、いつかは天国であなたの仲間となりうることもあるということを認識させます。マントラをくり返して唱えると安定し、もめ事を祈りに変えていきます。「主よ、ジョンを祝福して下さい。ジョンの祈りによって私に祝福を」とマントラのようにくりかえしなさい。そうすれば、主が、相手とあなたを祝福して下さるでしょう。他の人に主の祝福を願う祈りの中で、私たちは愛を示すことができます。
私個人にとっては、ここ十年、心を悩ましてきた教会の問題のことや、関係修復のできなかった友人の結婚問題のことが、ドロテオスの言葉によってゆりうごかされました。そして、マントラのように、自分としては許せなかったお一人お一人の名前をあげて「主よ、OOさんを祝福して下さい。OOさんの祈りによって私を祝福を」と祈りつづけました。そして、具体的に詫び状を書いたり、出向いたりして、和解を請いました。そして、神様は、とりなして下さいました。OOさんから、私への祝福の祈りがありました。OOさんから途絶えていた訪問がありました。神様からの祝福を頂きました。金田福一先生の言葉に「キリスト教とは、聖書を「教え」として読む人が、何かをすることではありません。生きておられる主が、一人の人に話しかけられる時そのみ言葉の力が、その人を変革する。それがキリスト教です」と。サウルからパウロになった小さな私自身の主にある恵みの体験でした。
大阪市
H.G
ルターは礼拝での音楽を重視しましたが(自ら讃美歌も作りました)、それから約二〇〇年後バッハは夥しい数の「教会カンタータ」を生み出しました(私の持っている全集では一九四曲を数えます)。名曲八二番「われは満ち足れり」はこういうバリトンのアリアで始まります。
われは足れり。
われは、神を畏るる者らの望み来し救い主をば
憧れ伸ばせるこの腕に受けまつりたれば、われは足れり!
われは主を見まつれり。
わが信仰はイエスを心にひしと抱けり。
今わが願うは今日にも喜びをもてここより去り行くことなり。
一七二七年二月二日ルター派の信仰を受け継ぐライプチヒ・聖トマス教会の礼拝はルカ福音書二章による赤子イエスの神殿奉献が主題でした。メシアに会うまでは死なないと告げられていた老人シメオンはイエスを抱き、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と感謝します。
第二~四曲の歌詞は省きますが、苦しみ悩みの多いこの世にあってイエスとともにあることに命の喜びがあることが歌われます。第三曲では安息の慰めが歌われますが、歌手であったバッハ夫人が子守唄にしたと言われる優しさに溢れたメロディです。
そして最後のアリアはこうです。
われはわが死の来たらんことを待ちこがる。
ああ、その時のはや訪れまほしきものを。
さらばわれはすべての艱難の桎梏より逃れて、
もはや世に繋ぎ留めらるることなかるべし。
安らかな死は全ての人の願いですが、それはイエスとの出会いによって与えられる。人生の目的はイエスに出会い、その証し人となることにある。
この日集まった人々は礼拝のメッセージをバッハの美しい旋律によるバリトンの歌によって聞きとったのでした。
この当時の三〇分前後の礼拝はこのように音楽を用いて行われていました。聖句に相応しい詩を書く作詩家がおり、バッハは音楽で深く信仰を表現しました。「教会カンタータ」は今日でいえば「聖書講話」に当たるものと言えましょう。字の読めない人も大勢いる会衆の誰の心にも福音を分かりやすく、しかも感銘深く伝える優れた礼拝形式でした。
バッハをピークに「教会カンタータ」は廃れてゆきます。字の読める人が増えたことも一因であったようです。
* * *
今年の無教会全国集会では北田康広兄の歌を聞くプログラムがもたれました(十月十一日)。目の不自由な北田兄は美しいテナーによって讃美歌をはじめ、水野源三さんのうた、黒人霊歌などを聞かせて下さいました。
神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の
実を見ていたら
そんな日が本当に
来るような気がした(母三章・星野富弘詩、武義和曲)
歌い終わった北田兄は、私にも神様がたった一度だけ見えるようにしてくださるなら、私は星空を見たい、と語られました。永遠を支配しておられる神様の愛が奇しくも美しく顕わされている星空への思い…不条理を喜びに変えてくださる神様の愛に満たされている北田兄の証しを通して、感謝を新たにしたことでした。
この一夜の催しは「無教会カンタータ」による礼拝でした。
(福岡聖書研究会)
福岡市
瞬きの詩人水野源三さんのコンサートの祝福 E.T
悲しみよ
悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう
お前が来なかったなら つよくなかったら
私は今どうなっていたか
悲しみよ悲しみよお前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ
十月二四日に大阪の阪井 和夫さんと浜田 盟子さんをお迎えして「瞬きの詩人水野源三の世界」のコンサートが徳島聖書キリスト集会の集会場で行われた。
一九九二年十月にもお二人をお迎えし、キリスト教センターで初めて「瞬きの詩人コンサート」が行われてちょうど十八年になる。
今回も、水野源三さんの生涯と詩の朗読、そして阪井和夫さんが曲をつけてお二人が歌ってくれて、源三さんの生涯を神様が導かれていたこと、その神様に導かれての深い信仰、まっすぐにイエス様を見つめる清らかさにあらためて感動し、讃美を聞きながら涙がとまらなかった。
「神様の真実は変わらない」や「美しい秋」はちょうど季節にふさわしく詩と曲もぴったりだった。
そしてコンサートの最後に源三さんの「悲しみよ」という詩に阪井和夫さんが曲をつけてお二人が歌ってくれた。
どうして悲しみよありがとうと言えるのと、その深い信仰がこころに迫ってきた。
寝たきりでまばたきだけで自分の意志を伝える源三さんの悲しみはどんなに深かっただろう。詩を書いてくれていたお母さんが癌で召された時はどうしようもない悲しみがあふれたことだろう。
それなのに、この詩はすべての悲しみを感謝している。
この短い詩のなかに源三さんの大きな信仰の転換が凝縮され詰まっている。
それは、悲しみのただなかにイエス様が来てくださり、悲しみの彼方にあるよろこびと平安を与えられ希望を見つめている源三さんの静けさを感じる。
イエス様がうちに住んでくださっているからこそ、この恵みをくれた悲しみにありがとうと感謝できるのだ。
「悲しむ人たちは幸いである。その人たちは慰められるであろう」
神様を讃えても讃えても讃えつくせないよろこびが生まれたのだ。
私の日々にもいろんなことで悲しみが起きても、ともにいてくださる主イエス様を信じ、すべてを主にゆだねて悲しみがよろこびに変えられ主の平安に導かれていきますようにと祈ります。
それにしてもコンサートでのこの新鮮な感動は何なのだろう?
それはおふたりの信仰がますます主を見上げて低くされているからだと思った。阪井さんは視力を失った悲しみのなかで水野源三さんの詩に出会い、源三さんの声になりたいと曲を作り始められ、見えないことが感謝できるように変えられたと証された。
私は阪井さんたちのコンサートに来ようと思っても入院していたり、家族の介護のために来られない人たちのことを話したら、もしそちらで迷惑でなければ是非そこに訪問して讃美をしたいと申し出てくれた。
主を讃美することがますますよろこびになっていて、そうしたところにこそ出かけて行って歌わせてもらえるのがよろこびだし感謝だと言われた。
そして、このことが今回コンサートの前後に実現して歌うお二人にも聞かれた方達にも恵みと祝福をいただいたと後で教えられて本当にうれしくて、祝福のパンと残りのパンくずの祝福のたとえを思い今もその余韻が残っている。
この祝福はコンサートの前からともに祈って備えてきた私たちと阪井さん、浜田さんたちの祈りが主の御許に届き聖なる霊が注がれたからだと思い感謝です。
(鍼治療院)
F.A
私は今中学2年生です。
学校には自転車で通ってますが、その途中に花がたくさん咲いている道があります。いつも同じ道を通るけど、その度にきれいだなぁと思います。
前までは、花を見てもあまり何も感じなかったのに不思議です。きっと私の心の中に神様がいてくださっているからだと思います。
学校生活の中では、あまり神様のことには触れないけど、部活(音楽)で歌を歌う時に讃美歌を歌ったりすることがあります。顧問の先生はクリスチャンなので色々なことを私に教えてくれます。
私は音楽部に入ってから歌が好きになりました。歌の中に神様が共にいてくれる気がします。讃美歌の中では、「ふしぎなかぜが」(こども讃美歌九四)と「安かれ わが心よ」(新聖歌三〇三)が特に好きです。
この曲は徳島で行われた全国集会で歌ったときにきれいな曲だなぁと思いました。これからも讃美歌の曲をたくさん歌って、好きな曲を増やしていきたいです。
鳴門市
F.M
昨年、徳島聖書キリスト集会発行の「ともしび」第三十二号が届けられ、ある姉妹の証しにとても心が引き付けられました。
次の集会の時、Mさんが、「私と同じような立場の人がいる。私、この人の気持ちすっごくよくわかる…。」と話されて、私も共感しておりました。Mさんも、同じような境遇にあられるからです。
それから少しして、徳島のK姉より、「Mさんに、お電話してもいいかしら?」との問い合わせがあり、お手紙の方がよい旨伝えました。M姉のことをK姉は、四国集会や祈り友会でのお交わりの中で、知ることにより、気にかけて下さっていたことが、とてもよく伝わってきました。筆者とM姉の橋渡しをして下さり、お交わりを持つことができるようになりました。驚くことに、そのあと、M姉から、「T姉は、私の友達のお友達だったのよ。」とのことでした。
七月のある日、M姉が一冊の本を貸して下さいました。高橋由典著―「社会学者、聖書を読む」という、T姉の御主人の書かれた本でした。
H兄の提案で「この本で読書会をしませんか。」と、呼びかけがあり、まとめて購入し、H兄の講話のあと、当番制で、目次より一単元を受け持ち司会をし、感話会をしています。著者がいろいろな角度から、問題提起をされていて、今まで考え及ばなかったことも示されていて感謝です。
すべてのことが、偶然起きたことではなくて、必然的に神様が整えて下さっていたんだなと、これらのことを通して思いました。
主のみわざはくすしきかな アーメン
高知市
F.M
神よ、わたしをお守りください。
わたしはあなたに寄り頼みます。
わたしは主に言う。「あなたは私の主、あなたのほかにわたしの幸はない。」と
地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である
おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。
主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。
測り縄は、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。
夜はまたわたしの心がわたしを教える。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいます故、わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には
とこしえにもろもろの楽しみがある。(一九五五年改訳)
この詩篇十六篇と共に、杣友博子姉はその年の七月に京都へ移られた。あれから今年で十回目の夏を迎えた。今年も又、京都桂の地で、近畿集会が開かれ、徳島からも多くの兄弟姉妹が参加され、又、京都の杣友博子姉、高槻の垣塚千代子姉も参加された由。
私は都合で今までに二回位しか参加できなかったけど、カツラの木が植えられている小さな公園での、早天祈祷会をなつかしく思い出している。そして、おそまきながら、杣友博子姉が京都へ、その後、垣塚千代子姉が高槻へ行かれたことも、すべては神様の尊いご計画の内にあったことを覚えて、深く感謝できるようになった。
思えば、徳島聖書キリスト集会の最初の頃からの主にあるお交わりを頂いた杣友博子姉、垣塚千代子姉方。又、近畿集会の上に御守り、ご祝福が豊かでありますように、そしてすべてを通して、み名が讃めたたえられますように祈りつつ、歩みたく願っている。
徳島市
H.S
昨年六月に大腸の手術をした時の事です。周囲の入院者は平均七日~十日で退院し、顔を覚える時間もない時に、私は四十日の入院となりました。切った大腸同士をホッチキス針状の器具で瞬間接合が良好でなく、長引いてしまったのです。ドクターの態度や反応に一喜一憂しました。
長期入院を覚悟した時に、看護師に「ゆっくりできるチャンスですよ、本を読むチャンス」と言われ、我に返り『いのちの水』を取り出し拝読しました。翌日に「あと五日間で退院です。」と言われベットから夢中で飛び降り、「ドクター本当に」と言い、思わず抱きつきました。
とたんに食欲がでて、大声を出せるようになり、脳から指令が出てきて、主に感謝をささげました。
相模原市
宇宙から地球を見る―主イエスとの出会い
G.Y
立花隆著の「宇宙からの帰還」(中央公論社)という本を読みました。初期のアメリカの宇宙飛行士たちに、著者がインタビューしたものをまとめたものです。
初期の飛行士たちは「良きアメリカ人」であることを要求されたので、信仰の面でもそれを要求されましたが、決して信仰に篤いものばかりではなかったのです。
彼らは、宇宙空間から地球という天体を視るという稀有な体験をしました。その体験を、著者は「神の目に立ったのだ」と表現しました。
その地球はあまりにも小さく、かよわく愛おしいものとして飛行士たちの目に映ったようです。
月面で「創世記の石」を採取した飛行士は、教会には行っていたけれども信仰深かったわけではありませんでしたが、彼は神の臨在をはっきりと感じ、期間後その時の体験を話すうちに伝道師となっていきました。
神に対する信仰という点で、大きく変えられたもの、あまり変わらなかったものと様々ではありますが、宇宙から地球を視るという体験が彼らに与えた影響は確かにあったのです。
視力0(ゼロ)の私には、たとえ宇宙旅行ができるようになっても、宇宙から地球を視るという体験をすることはできません。
しかし、イエス様に出会ったことは、宇宙から地球を視るのと同じほどの転換を私に与えてくれたように思います。真っ暗な宇宙のなかに浮かぶ地球、それを見守ってくださっている主がいます。
そう考えると、この地球の上で憎んだり争ったりしていることは本当に愚かなことだと気づかされるはずなのですが、なんと人間の罪は深いのでしょう。
信仰の薄い私ですが、神様の存在を疑ったことはありません。
宗教に関するインタビューの部分をふくめ、この本は大変興味深く読ませてもらいました。
(熊本市 はり治療院 全盲)
M.M
「徳島」を舞台の朝ドラマが現在放映されています。この南信州(長野県の南部)よりは大分離れていますし、以前は関係のない土地と思って居ましたのに今では、四国・徳島と言うと身近に覚えて懐かしく感ずるのです。
高齢で、遠隔の地へ旅をするなど思いもよらなかったのに一昨年の夏、徳島聖書キリスト集会に急に参加させていただけたのでした。西澤正文御夫妻の御愛の労でしたが…
水渕姉妹とも吉村先生、奥様にも親しくお目にかかり、集会に出席させて頂いて多くの友を与えられ、そして、この「野の花」にも今年で三回目の仲間にさせて頂ける事を不思議なご縁だと感謝しています。
十七年前に主人が召されてからこの田舎で五百坪ある広い家でひっそり独り暮らしをしていますが、この松川町だけでも百人以上の方が独り暮らしでいます。
世の中は変わったものです。昔は大人数でも、賑やかに狭い所で貧しくとも、ひしめき合ってでも家族は一緒に暮していたのに、文化的になって来て生活も潤っている現在は、若い者達は自分の生活を守り、個々の生活を営んで、親達は置いてけぼりになり、足手まといは同居できない世相になってしまっているわけです。
それぞれ事情は異なるでしょうが、私はどうして独り暮しになってしまったのか…と過去の賑やかだった頃に想いを馳せています。子供は五人も健在なのに…。しかし長男が家を継ぐと思っていたのが間違いで、結婚すると相手がそのつもりになってくれなければ同居できないのかもしれません。
又諸事情で子供達がそれぞれ家を出てしまうと、年寄りがとうとう独りになってしまうのです。
朝早くから目覚め、テレビ体操をし、「一日一生」、「続一日一生」を拝読して、賛美歌も唱い、祈祷の時間も自由になるので、本当に恵まれているのですが、家族が無い事がどうしてもさびしくて、落ち込む時があります。
「われらはいかなる境遇にあるも孤独、寂寥(せきりょう)を感ずべからざるなり。」(八月二十日 続一日一生より)
「われ独りあるにあらず。父われと共にあるなり」 「孤独!余輩に限らない、人はすべて孤独である。しかして孤独は神に達するの恩恵の道である。」「独り神を意識し、彼と深き愛的関係に入るのである。」(十月十二日 続一日一生より)
「世に孤独なる者とて神とともにある者のごときはない。しかもイエスは神をのみ友としたる者である。」
(八月二八日 一日一生より)
右の言葉を教えられ、常に神様が共に支えて下さる事を信じて聖言に導かれて、感謝し、元気づけられる幸せを覚える此の頃です。
「独り(ひとり)真理とともにあり、独り良心と共にあり、独り神と共にあり、独り神と共にあり、独りキリストと共にありて、われは自由である。」
下伊那郡
M.S
祈りとは、「天と地の愛の交流」です。
「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ六・10)
この一つの祈りを、私たちが一つの心になって、自分の祈りとすることができますように。
小松島市
M.M
私は十五年余り前、お誘いを受けて今の集会に入れていただきました。会員の中で娘より少し年上かと思われる方と親しくお話している中に、十代の頃心臓の大手術をなさった事を聞きました。色々の悩みがあったのでしょう。何度かお会いしてお話しているうちに「なかなかお祈りが出来ないで困っている」とのことでした。「あなたの奇麗な声で賛美歌を上手に歌って居られるけど、心の中の願い事を、歌を通して神様に、お力を下さい。御恵みを下さい、とお祈りしていると思いませんか」「そういわれればそうですね。」というお話になりました。「上手に云えないけれど感謝の気持ち、助けてください、とか神様の御愛に応える心情など、祈りに適う言葉が賛美の言葉の中に沢山あるでしょう。あれは私達の祈り心が歌になって出ていると私は思っています。だから雨が久しぶりに降れば自然に『みめぐみの雨よ…』を有難うございます。と悲しい時にはこの乱れた心をおいやし下さい。みたして下さい。と自然に歌になって出て来ます。適切な言葉が賛美歌の中に沢山ちりばめられています」と話した事がありました。
私は夫の介護に手をとられてお見舞いにも行けませんでした。(その頃千葉の弟様のお家に身を寄せておられました。)時々、電話でお話をしました。いつもとても喜んでお話をされ、長電話でお疲れにならないかしら、と思った事もありました。いつ頃でしたか「丸山さんに教えていただいて、私は、おふとんの中でいろいろな賛美歌を歌って、寂しい心をいやされ、沈む心を励まされて感謝しています。」と、「本当によかったわね、御大事にね、神様がいつも側にいて下さる事、最前に導いて下さる事を感謝して日々を過ごして下さい。御恵が豊かにありますように、御祈りしています。」とお返事をしました。暫くして召されました。集会の方々によって御葬式が行われとてもご家族に喜んでいただきました。と聞きました。
二、三日たって弟様から「とてもおだやかな最期だった。感謝しています。」と御丁寧な御礼のお便りをいただいて恐縮しました。一度もお伺いも出来ず、申し訳ない気持ちで一杯でございました。すべてを神様が最善に御導き下さった事を感謝致しました。
東京都
M.S
私は一九三六年八月二十一日、熊本県湯前町にて生まれた。一九三七年に始まった日中戦争に出兵した隣のおじさんの話「支那人を道に並べて敷き殺す」と。へェーそんなもんかと納得するくらいの無情な子どもとして成長した。一九四一年十二月八日真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。一九四三年四月国民学校に入学、「日本よい国、強い国、世界でいちばんきよい国」みたいな教育を受けた。まもなく分散教育が始まり、学校から机、椅子を担いで各部落に散って行った。学校には軍隊が駐屯。部落の公民館で一年から高等科二年生までずらりと並んで授業を受けた。授業はあまりなくて作業だった。馬のふんひろい。イモ作り。松の油(マツヤニ)とり。…そして一九四五年八月一五日敗戦。国民学校三年の私は集落の公民館で、若い女の先生から「日本は負けました」と言われ、うつろになって家に帰った。友達とどうやって死のうかと語り合った。母は幼児を背負って川に飛び込むと言ったほど、混乱した状況だった。
まもなくして長崎から宮崎の実家に帰るいとこが、家に寄った。頭の毛がボロボロ抜けていた。翌日、宮崎に出発したが、家にたどり着く途中で亡くなったと聞いた。原爆症であったのだ。わが家も兄三人が出征したが、次男は戦死。中国から南進中、五島列島沖で船が魚雷にやられたという。
軍隊が解散した一〇月に一年ぶり(?)に学校に帰った。それまで一〇代の若い女の先生ばかりでしたが、次第に男の先生が戦場から帰ってきた。軍隊がどんなに悪いことを外国でやったか、誰も語らなかった。戦争が人殺しであり大罪悪であることは、内村先生の本に出会って初めて自覚した。
一九〇三年(明治三六年)に「余は戦争絶対廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない」と述べて、平和論の第一声をあげた。その四二年後、日本は大罪悪を犯して敗戦した。その後、日本の自衛隊は武器で一人も殺していない。ここにのみ真の平和は約束されると信じる。
一九四六(昭和二一)年十一月日本国憲法が公布、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義が基本にすえられた。「大罪悪」をおかすことの出来ない国が地上に生まれた。ところが一九五〇年朝鮮戦争が起こり、日本を占領していた米軍が出動したので、それを補完するため警察予備隊のちの自衛隊が作られた。しかし憲法九条のために、度重なる事故死は除いて、武器をもって人一人殺していない。憲法九条の重さを決して見逃してはならないと思う。
熊本市
神の導き―感謝と賛美
M.M
あなたのみ言葉は、わが足のともしび
わが道の光です。
ハレルヤ主の御名を賛美し感謝します。私共五十五才で会社を定年退職…。理由は立ち仕事に変わり足の不調にて、三月二十六日付にて家事及び失業保険受給者となり、家庭にてフラフラしていた時、近所の友達の誘いにて教会の話を聞き、大阪より牧師様が来られ、そのときに話されたことは、「人間は虫のようなもの、おろかな者たちのために、イエス・キリストが、十字架にて血を流された。それは、私達の罪やおろかさの故…。
その時イエス様を信じることができ、自分の今までの罪の深さや身勝手に涙があふれ、悔い改めが出来て心が解放されました。
その後教会の一員となり、いろいろとありましたが、信徒として第一歩、聖日礼拝に参加しはじめ、さらに早天祈祷や、断食にも参加しました。
鳥取にていろいろと奉仕活動や伝道にも加わりました。五十八才にて鳥取地域長として働き、イエス様と共にあって感謝。
また、奉仕活動としてアフリカ、ケニヤ等々の助け手としてその地を訪れ、一生忘れる事の出来ぬ思い出となりました。自分の力でなく主の導きの助けにて二週間滞在し、すべてに神様の守りにて帰途出来、思い出の一ページとなりました。
七十四才の時、大阪の教会が鳥取に新会堂の建て上げて下さいましたが、地域長のはたらきを仕事をしながら両方を守る事が困難となりました。
また、教会に罪が入り争いが生じて、助け合うのでなくさばき合うこととなりました。
イエス様は、まず神の国と神の義を求めよ、と言われ、みことばを中心とするよう教えられました。しかし、ほかの方々は、マルタのように接待のようなことが目的のようになりました。そして、主にあって、愛し合うのでなく、罪へとはまりこんで行きました。
その時、主人から教会に行ってはいけないと、言われました。私も二十余年を過ごした教会を離れる決心が出来ました。
私が伝道した方々もあり、群から離れた一匹の子羊となった私は弱り果てていました。その時、道がひらかれ、かつて、一緒に祈り合った友である長谷川姉を訪れ、祈り合いました。私の祈りを聞き入れて下さった神様の愛の深さにたどり着きました。感謝致します。
長谷川姉が、帰りに手渡して下さった徳島聖書キリスト集会発行の「いのちの水」誌、や「野の花」文集の二冊を頂き、わが家へと帰りました。そして、そこで説き明かしが書かれてあったのが、マルタ、マリヤのの記事でした。
読み出したらすぐに、目からうろこがとれたようになり、涙が出てきて、解放されました。主人も目にとめてくれています。「いのちの水」誌は手にしやすいと思います。
今年の一月から新しく出発し、長谷川姉はじめ、四~五名と集会に集い、みことばの糧を受けて霊的に守られ、友達も一緒に参加して交わりを持っています。
月に二~三回ほど集まって、み言葉を学び、感話、賛美、祈り会、手を取り合ってのとりなしの祈りなどによって、一同が主に守られています。
…わたしが道であり真理でありいのちなのです。
鳥取市
M.M
「徳島行き」の最後と思われる旅に備えて医薬品の使えない体質の私故昨年より、免疫力アップのサプリメント等も摂ってきました。けれども、徳島行きが近づいた頃から新型インフルエンザの流行が急速に拡大しており、格別暑さが続く中でのハードな旅程は無理かも知れない。それに一段と頭は働かず、まとまらない私は以前にも増して迷惑をかけるばかりだし。姉も反対するしで決断出来ず旅券購入を躊躇していました。「神様、少しでもマリヤ(ルカ十・38~42)に近づけてください。神様助けてください。西澤兄姉との約束通りに、徳島聖書キリスト集会所で懐かしい皆様と一緒にみ言葉を聴きたいのです。」と祈っておりました。
目の前に迫った日のこと、姉から電話があった時には出る様に頼まれました。離れた所の電話のベルに反射的に、それっと廊下を走り始めた途端に勢いよく転倒。体のあちこち痛いこと痛いこと。起き上ろうとしても動けない。下手に動けば二次外傷の恐れもある。「神様、赦してください、又失敗してしまいました。」と心の中で叫んでいました。ああ、これで徳島行きはお流れだー。「主は振り向いてペトロを見つめられた」「主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ二十二・61~62)の場面が浮かびました。そうして五~六分も経った頃、急に体が、ふわっと軽くなったのです。え?え?あっ、神様の息、(御手の動き)(ルカ二十二・51)の「その耳に触れて癒された」場面が思い出されました。廊下のT字点であった故に、柱に掴まり起き上れたこと、あれ程の衝撃にも携帯電話は異常なく、胸が熱くなりました。感謝で一杯でした。大勢の方達から祈って頂いていることをしみじみ感じ感謝しました。憐れみ深い主の御名を賛美しました。そろそろ歩いて行き、姉に、転んで電話に出られなかった事を詫びたのですが、あんなに大きな音をさせたのに姉は気づかなかった、電話が鳴ったのと切れたことだけはわかったとか…。
愚かな失敗(罪)を神様は赦して下さり、癒して下さり、守られて翌朝は気分爽快。小さな痛みが数カ所あるのみ。「安心して徳島に行きなさい。わたしが一緒だから大丈夫だよ」(ヨシュア一・9)とイエス様が言って下さっているように思えました。そうして、あんなに反対していた姉が「徳島行きに決まったね。」と言うのです。その時、たまたま出勤前だった甥が、車で遠回りをし「新下関駅まで送ってくれて旅券購入に漕ぎ付けました。
新下関―徳島、往復切符(八月二九日ー三十日)を手にすると、安心と感謝に満たされて、共にいて下さる神様の息を感じながら、姉の協力を得て慎重に過ごす事が出来ました。
二九日朝、元気で初めてのコース、下関市から徳島までの旅の一歩を踏み出すことが出来ました。主と共に。ハレルヤ「逃れ場」で頂いたお恵み、徳島聖書キリスト集会場は神様から頂いた私の「逃れ場」(Ⅰコリント十・13)になりました。
予定通りに集会場に到着。ナツメの木が剪定されていてビックリ。訪れる都度に「いちじく桑の木に登ったザーカイ」(ルカ一九・1~10)が浮かぶのでした。ナツメでは無理と思いつつも…。「入り口」門の傍らで、神様の愛を教えて下さったのですね。
集会場の玄関を入ると聖霊の風に包まれたよう。懐かしい皆様とお会い出来て感激しました。紙面ではなく直接手に取っての植物観察、手話賛美、自己紹介、西澤兄のお話と、主日礼拝のお二人のお講話は心に深く留まりました。頑固な心の畠を耕し、いのちの水を注がれて潤い。栄養分をたっぷり補給して頂き聖霊の風が祝福の風が吹き渉り平安に包まれました。交流会の終わりに中川陽子姉のお計らいで私の愛唱五一一番と「キリストの平和が」を全節ご一緒に賛美出来たことも大きな喜びでした。北田姉のさりげないお心遣いにも助けられました。西澤兄姉と会場でお別れ…。
帰りは二〇〇七年九月の時と同じに、吉村姉、桜井姉と、奥住姉の車で徳島駅へ。吉村姉は指定席の車両を確認して下さる等、最後までお世話になりました。こうして、うずしお二二号は定刻発車、笑顔でお別れ出来てうれしかったです。西澤兄姉が私のペースに合わせて運転して下さった事ども思い起こし改めて感謝いたしました。(ご自分の通勤は自転車)
常に最善を成して下さる神様、万事を益と成るように導き養って下さる神様に感謝し御名を崇めます。
下関市
M.J
ここに一冊の本がある。岩隈直(いわくまなおし)著「新約ギリシャ語辞典」。 本の扉に「贈呈 一九七七年七月十日 徳島聖書集会」と墨で書いてある。
一九七七年というと、私が転勤のため小松島市そして徳島聖書集会に別れを告げた年である。あれから三十三年という月日が経った。
それにしても、徳島聖書集会の方々は、なぜこの難しい高価な(当時定価五千六百円)、しかも多忙な業務の中にあっておよそ使いそうもないギリシャ語辞典を私に贈ってくださったのであろうか?
現実に私は細々と伝道誌や集会のテープには接していたものの、忙しいとう言い訳で自分を正当化し、おおよそ信仰者らしからぬ日常を生きてきた。 イエス様が眉をひそめ悲しむような道を歩んできた。この辞書の存在は全く忘れ去られ、謎を秘めたまま埃をかぶっていた。
イスラエルの民は、紀元前十三世紀エジプトを出て四十年の長い苦難の旅(荒野の旅)の果てにカナンに入ったと旧約聖書にある。それは「主の命に従って」(出エジプト十七の一)歩んだ旅だったはずである。それにしても、彼らは地中海の海沿いを行けばもっと楽に早くカナンの地に行けたのに、神はどうしてこんなに長い時間彼らに「まわりみち」をさせたのだろうか?
その間、イスラエルの民は、こんな苦労をするならあのエジプトの奴隷生活の方がよっぽどよかったと不平を言い、これこそ頼りになる神々だと言って金の子牛象(偶像)を作ったりして神に反抗した。
神は、この「まわりみち」の旅をとおして、イスラエルの民に人間の醜さ、弱さ、そして主により頼む道を教えようとしたのではあるまいか。そして、私もそのことを自分のこととして実感している。イスラエルの民族の姿は自分の人生と重なる。醜い弱き歩みであった。しかしそのことすべてを無意味とは思わない。
昨年、妻を天に送るという試練を経て新しい歩みが始まった。改めて聖書をしっかりと読んでみようと思った。私の能力では途方に暮れるような無謀なことであるが、この辞書の存在ゆえにできるなら新約を原文で読んでみたいと思った。
三十三年の月日を経てこの辞書に出番が回ってきたのである。
当時の徳島聖書集会の方々は、おそらく今の私の思いを予想してこのギリシャ語辞典を贈ってくれたのではなかったように思う。しかし、長い「まわりみち」を経て、この辞書の謎は解けて息を吹き返している。そこに、神の見えざる御手の導きがあったのではないかと思うこの頃である。
M.K
二〇〇八年十二月のある日、板野郡北島町の戸川宅での集会において、聖書を初めて学び始め、その喜びでいっぱいになって帰ったあの日。そしてその月に「いのちの水」誌を頂きました。その中の「聴覚障害と音楽、宗教的教育」の箇所に強く引きつけられました。
それは二十七年ほど前のこと、もうすっかり忘れていましたあるろう唖の方との出会いが思いだされました。パートで働きたいとの思いで近くの木工会社に勤めることが出来ました。私の部署の主任が一見すると耳が聞こえないなんて思えない二十八歳ぐらいだったかな?穏やかな感じのKさんでした。
会社には八人のろう唖の人達が働いていて、手話で会話をしていました。初めて手話を目にしました。細やかな指や手の動き、時には顔の表情もつけて、速くて私にはチンプンカンプン、でもどんな大きな音のする工場内でも遠くからでも腕を伸ばして会話ができるなんて、便利で楽しそうに見えました。手話が解らない私達には(外にも二人)字や図に書いたり、自分がして見せたり、大きく口を開いてゆっくり話すと何度も丁寧、親切に教えて下さり本当に感謝でした。物覚えの悪い私には主任が健常者なら、いやな顔をされたり小言のひとつやふたつ、いや三つも四つも言われたと思います。ハンディーを感じさせない落ち着きと優しさ、手先が器用で仕事熱心でした。それに指が長かったことが思い出されます。
今思えば、理解してもらえないもどかしさ、私達には見せない心の不安、悩みや辛さもたくさんあっただろうと。指の長さは、きっと手話をする為の神様からの恵みだったのでしょうね。 その箇所を繰り返し読み、生涯を費やして、ろうあ教育に尽くした高橋潔校長の強い意志と行動、重責で忙しすぎる教育の現場で命をもかけて未来ある子供達に真理を伝えた教師のすごさに感銘そのものでした。そして「人間に従うよりも、神に従わねばならない。」のみ言葉、深く深く心に残りました。
今私は、手話通訳、手話賛美に見とれています。メロディーに合わせ神様に届きますようにと、心を込めた、しなやかで優しい、時には力強い指使いは、心に語りかけ、胸を熱くして見て聴いています。手話をしてくださる方ありがとうございます。
板野郡
M.T
二十五年前元気な産声をあげ、この世に生をうけたわが娘。産まれて直ぐには面会をさせてくれず、医大に運ばれ体に大きな障害があることを宣告された。その日から立ち上がる事も出来なくなってしまった。青空がいつもグレーに見えた。これから一体どうなるのか…と途方に暮れた。
子供の顔を見るととても可愛いかった…。表情やしぐさを見ているととても愛おしくなった…。
生まれてすぐから親の声を聞き分け耳を澄ましていた…。
何て可愛いのだろう…
こんなに可愛い魂なのだ…と思った。
何としても生かしてやりたいと思った…
命ある限り生きて幸せになってほしいと願った。
子供だけが障害を背負うのではなく
私も半分担ってあげればいいのだ。
いつも二人で一人でいこうと決心した。
大切な神様からのお預かりものである。
今までの自分と全く違う心になっていた。
今まで見えなかった事が見えてきた。
ものすごい事を教えられたと確信した。
その苦悩と共にイエス様がいた。
娘の側でイエス様がいつも見守っていてくれた。
二十五年間、日々私達を背負い限りない祝福を注いでくださっている。
高松市
M.H
哀しみを ひととき癒す ふるさとの
風はさやかに コスモスゆらすあした
秘めやかに 太古の色をにじませて 大賀蓮(*)の花 朝をひらく
「むずかしい手術です」と医師の告ぐ
主のあわれみに すがるほか 吾れ何をも持たじ
祈ること すでにかなえられしとう
み言葉そのまま 素直に受くる
「わたしには 乏しいことはありません」
手術の前夜 さやかに聞きぬ
息をすることの 苦しきこのときを
主よ耐えさせて下さい おゆだねします。
あたたかき 何かにふわぁっと 包まれし
ここちす瞬間に 苦痛は消えぬ
聖日を退院と決めわが家へと
ハレルヤハレルヤ歌いつつ帰る主とともにあり
一九九五年夏、突然に夫が天に旅立ちました。その年の日記の第一頁に、コリント書のことばが記されていました。
夫も家族もキリスト者ではありませんでした。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。もっとも大いなるものは愛です。私たちにこの言葉が残ったのです。
そして疲れきった小さくて弱い、臆病な私に向けられた人々の愛は大きく、そんな愛に包まれて今日まで生きてきたのです。
それより大いなる愛を知りイエス様と出会いました。何もできない私にでも神の愛を思いだすことができれば、自分の幸のほかに他の人の幸を祈ることができる、そんな人になれるかもしれません。
いつかどこかで何かキリストに従って歩むことができるかもしれません。そういう人に少しでも近づけるようになりたいとあこがれるものです。神様のみことばを身につけることによって心の貧しい人になりたいと願いお祈りいたします。
鳥取市
(*)大賀蓮とは、一九五一年、東京大学の農場(千葉県)にあった遺跡の中で、植物学者の大賀一郎によって発掘された、今から二千年以上前の古代のハスの種から発芽・開花したハス。現在では日本の各地や世界各地にも根分けされて、広く知られている。
なお、大賀一郎は一八八一年岡山生まれ。旧制中学時代に内村鑑三を「聖書之研究」で知り、第一高等学校に入学後、内村鑑三の聖書研究会に入会。その後も無教会のキリスト者として生きた。満鉄で早朝祈祷会を始め、満州各地に日曜学校を開き、また、数年間 盲唖学校の生徒に伝道、東京府中で聖書研究会を始めたり、伝道にも熱心であった。
M.M
欲望を持たない人は満ち足りています。
でも、満ち足りているから
幸福とはかぎりません。
幸福とは、何かを欲し、
それを獲得するために懸命に努力し、
その何かのうち、
ほんの一部でも獲得することです。
愛する仕事を追いかけていれば、
毎日が楽しく、
あっという間に過ぎていき、
夜のしじまのなかで、
安らかに眠れるでしょう。
なぜなら、真の欲求から生まれる仕事は、
苦しみではなく、
あなたにいちばん似合う遊びだからです。
成功は希望をもたらし、
希望は新しい欲求をもたらします。
それは、あなたが
豪華なお屋敷で暮らしていようと、
小さな路地裏で暮らしていようと、
いえることです。
だから、希望と力があるうちに
あなたが住んでいる
世界の片隅でいいですから
有益な仕事をしたいという欲求を大切にし、
信念を持って、仕事をしてください。
それが幸せな人生への近道だからです。
健康な毎日と愛の絆を深める、
輝かしい人生の道だからです。(マックス・アーマン)
大阪で仕事を始めて、七ヶ月です。初めての調理の仕事は思った以上に大変です。材料を切ることから難しく、毎日のように怒られてます。
みなさんに励まされ祈って下さり、ありがとうございます。 神戸の阪神エクレシア、高槻聖書キリスト集会、大阪狭山集会などの聖書集会に参加させて頂き、あたたかく迎えてくださり感謝です。
これからも、参加できますように。
大阪府
今回の「野の花」は、前回よりも多くの方々の投稿があり、全体を見ますと、神の庭の一角に咲く多様な花々だという感じがあります。 人工的な庭園は、植物の種類や、高さ、花の色などを揃えたり、野生種と園芸種を別にしたりして配置します。しかし、自然界では、色や形で目立つのもあれば、ごく小さい花、目立たない色の花、あるいは大きな樹木、花のないシダ類などさまざまのものが、みられます。
この「野の花」文集も、長い文、短い文もあれば、内容も短歌や聖句、また職業や日常の生活のなかから信仰との関わりなど、いろいろあります。各地の無教会の集会に属している方、教会員の方、老齢や病気で所属する集会にも参加できなくなっている方、聖書を学びはじめてまもない方など、信仰においてもさまざまの方々があり、年齢も中学生から、九〇歳を超えた方々まで含まれています。
どこを開いてもさまざまの人たちとの誌上での主にある交流がなされるようにと願いつつ、いろいろな内容が各頁に配置され、野の花を摘むように、自由にそれを取って読み、これらすべてが、私たちの信仰のまなびや、主にある者同士の交流に用いられ、全体として神の国への歩みがなされますようにと願っています。
配列は、今年は名前が「や行」の人から掲載となっています。テーマ別とか地域別でなく、大体五十音順に配列してあります。 メール以外のFAXで送られたものや、原稿用紙などに書かれたものなどの入力、そして多くの原稿の校正や、最終的なレイアウトには、集会員の多くの方々の協力をえました。そうした御愛労に感謝です。
なお、余分を印刷していますので、友人知人などに用いたい方は、奥付の編者あて、申し込んで下さい。 (一部二〇〇円、送料は当方負担)
主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように
ヨハネ黙示録22:20-21より
「野の花」第二十三号
二〇一〇年一月十日発行
発行者 吉村 孝雄(編集者)
発行所 徳島聖書キリスト集会
〒七七三-〇〇一五 徳島県小松島市中田町字西山91の14
電話 〇五〇-一三七六-三〇一七
E-mail: pistis7ty@hotmail.com http://pistis.jp