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内容・(もくじ)質問・回答 |
Q1、神とはどういうお方ですか Q2、キリストとはどういうお方ですか Q3、罪とはどういうことですか Q4、罪のゆるしとはどういうことですか Q5、聖書とはどういう本ですか。 Q6、復活とはどういうことですか Q7、再臨とはどういうことですか Q8,アーメンとは何だろうか Q9、新約と旧約とは何を表すのですか。 Q10、聖書は誰が書いたのですか。 キリスト教とは何か Q1、神とはどういうお方ですか A1、 キリスト教での神様は、一言で言えば愛の神であります。愛の神とはどういう神かといえば、我々人間を子供のように見守り、いつも本当に我々のためになることをおもんばかって下さっている神様ということであります。そしてその愛というのは果てしがないのであって、人間がそうした愛の神を知るには、ただひとえに心を神様の方へ向けることだけでよいのです。 「私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」(旧約聖書イザヤ45章)といわれている通りです。 人間はどんな人でも愛されることを望んでいます。けれども私たちは、美しいものや立派なもの、はなやかなものを愛しがちであり、みにくいもの、弱いもの悩んでいるものに対しては心を閉じてしまうことが多いのです。それは、たれしも深い悩みをもてばもつほど他人が理解してくれなくなるのを感じることでうかがえると思います。私たちが苦しい病や孤独に陥って悲しみ、苦しんでいる時、その苦しみが大きいほど、人間の友も遠くに感じられてしまいます。そうした悩み悲しめる心に慰めと安らぎを与えて下さるからこそ、愛の神というのです。人間の愛ことに恋愛は、しばしばお互いが美しく若い間しか続かないし、親の愛というのもしばしば親の都合のよいことに子が従わなければうすれ、溝ができてしまうものです。そして親が亡くなればその愛も永久に帰ってきません。 けれども神様の愛は私たちが年とっても、失明しても、大けがをしても、身よりの者がだれもいなくなってもやはり、かわらずに注がれるのです。 どんな人でも心の安らぎを求めています。けれどもその安らぎは、すぐこわれやすいのです。夫婦円満、家族も健康、であって収入も安定していても、突発的な事故で夫を失えばたちまち、そうした平安は破られますし、何もかも十分にそなわっているような人でも、それだから一層そうしたものが失われはしないかと、心の奥では不安がつきまとうのです。私たちが神様の愛に触れたときはじめてそうした不安は除かれるのです。 次に神様は正義の神であります。絶対の正義をそなえておるのです。けれども正義と愛とは別々のものではありません。 全き愛はすべてをその内に含みます。 正義も勇気も正直も忍耐もなにもかも神の愛の内に含まれているのです。ギリシアの哲学者アリストテレスはキリストの愛のようなものを知らなかった人ですが、それでも「もし人々が互いに愛をもってさえいれば正義は全くいらないが、その反面、たとえ正しき人々であってもなお愛を必要とする。」(ニコマコス倫理学)といっています。愛の神であるならば、それは同時に正義の神でもあるのです。 またキリスト教でいう神様は全宇宙で唯一の神様であって、他に何かの神様があるのではありません。よく風の神、火の神、水の神などといったりしますがそんなものは存在せず、唯一の神が風や雨、天体などのすべてを支配し動かしているのです。聖書の一番初めに「はじめに神は天と地とを創造された」と書いてあります。神様は、天体も地球も地上のあらゆる生物をもみなお創りになったのです。そして単に、過去に創っただけでなく、今日もなお新たに創り続けていますし、万物を支配しています。つまり私たちの身近で生じる一切のこと、人間も動物も、太陽も星もみな唯一の神様が見守り、支配しているのです。ですから神を信じる者にとっては、偶然というものはありません。どんなに思いがけぬことも、偶発的なこともすべて神の深い愛からなされているのです。 内容・もくじへ戻る。 Q2、キリストとはどういうお方ですか A2、 神を信じる人は昔からありました。けれどもその神はあまりに人間から遠い存在でした。キリスト教の母体となったユダヤ教にも、もちろん神を信じ、神と親しく語るはいました。けれどもそれは、モーセやエリヤのように極めて一部の選ばれた人でしかありませんでした。 実際私共が目に見えぬ神様のことばを受けたいと思ってもなかなかうけられません。悩みのとき、悲しみのときに訴えたくともあまりにも神様は遠くに感じられることがあるでしょう。 そうした人間の願いにこたえて神様はたれにもなじみやすい、我々と同じ人間の姿をしたキリストに、神様のもつ一切の愛や力を与えられて、人間につかわされたのです。いわばキリストは神様が人間の姿をまとって地上に現れたお方なのです。そして今から二千年ほど前、地中海東部のユダヤにて実際に人々と交わって生き、彼らの悩み悲しみを救われたのでした。そしてそのキリストのなされたことや教えは新約聖書の中の福音書に詳しく書き残されています。福音書の中のキリストのことばそのまま神のことばなのです。 ですから今ではたれでも神のことばに触れることができるのです。そしてそれらのことばを心に深く受けとめ、そこに書かれてあることに精一杯の心で従っていこうとする時、おのずから、自らの罪が明らかに感じられるようになり、同時に霊として生きているキリストと神が次第にはっきりと心にあらわれてくださるのです。そして自分が罪に汚れた姿であるにもかかわらず、キリストが招いてくださっているのを感じるようになるのです。 キリストは私共人間にとってすべてとなってくださるお方です。すなわち、苦しみの時には力を、悩み苦しみに打ちひしがれている時には慰めを、そして孤独に耐えがたい時には最上の心の友となり、生きる道に迷う時は未来に通じる正しき道を」指し示してくれる導き手、また教師ともなってくれるお方なのです。どんなに仲の良い夫婦でも自らの心の悩みの一切を打ち明け合うことはなかなかできないことですし、打ち明けてもその悩みが深ければ深いほど相手にわかってもらえないもどかしさを感じるのです。けれどもキリストを私たちの心に「主」として受け入れる時、キリストから生ける水が注がれます。生ける水とは目に見えない水、霊的な水です。キリストを心にて仰ぐ時、その生命の水が魂の内に湧いてくるのです。そしてその生命の水に心を浸す時、どんな心の悩みも苦しみも拭いさられるのです。霧がかかった山々からみるみるうちに霧が消え清澄な空気が漂いはじめてくるように。 キリストを心にうけいれる時初めてこの世が、光ってみえてきます。混乱と不正、汚れにおおわれているようにみえるこの世のただ中にあって、その背後で天国的な清らかさが漂っているのを感じるようになります。 私たちは何が真理かそうでないのか、また職業の決定、日々の行動を決め、職業生活や家族やその他に生じるいろいろの悩みを解決していくにあたって、私共に真理を示して下さるお方があればどんなによいでしょうか。また私たち人間は、この世では上に立つ人 主人 を持っています。たとえば子は親や先生を、また妻は夫を、また職場では上司を持っているということのように。しかし、そうした上に立つ人は私共にとって常によきものではありませんし、魂にとっての主ではありえません。しばしば、悪しき方へ連れていったり苦しめたりすることも多いのです。そうした人間を主人としていただくことによっては、決して心の安らぎは与えられません。人間ではなくキリストを主人として心で仰ぐときはじめて、心に安らぎが生じてきます。 神様というのは霊であり、目で見えませんし、どこにいるのかわかりにくいのです。けれどもキリストは神様と同じ愛をもたれて私たち人間の所に来て下さったお方なのです。キリストは今から約二千年程前にお生まれになったお方ですが、その方がなされたことや言葉は福音書に残されています。この御言葉こそ神様の言葉なのです。それで、はじめのうちはその言葉に心を向けてできるだけその言葉を大切にし、その教えの通りに生きていこうとしておりますと、おのずから、キリストがその人に現れてくださるのです。キリストは、二千年前にすでに地上を去られた方ですが復活して今は、神様のところにおられます。そして私共が神様やキリストに真剣に心を向ける時、見えないキリストが霊的なキリストとして、私共の心の中に次第に現れて、常に私共の心近くにいてくださり、慰めと安らぎを与えてくださる方になります。 キリストは、私共に必要なすべての真理をその時に応じて、すべて示してくださるお方であります。そういう意味で人間にとって究極的な先生であり、教師でもあります。 キリストは主であり、教師であると共にまた、私共の罪を赦してくださるお方でもあります。 あの十字架上の死というものは、単にキリストが処刑されたことのみを意味するのではなく、私共の罪が許されたというしるしでもあるのです。あの十字架の死の背後から、神様がその十字架のキリストを見上げる者に お前の罪はゆるされたのだよ と語りかけてくださっているのです。 このように、キリストは悩み苦しむ者に、罪のゆるしを与え、慰めと安らぎを与えてくれます。滅びに面している私共の魂の救い主なのです。 内容・もくじへ戻る。 Q3、罪とはどういうことですか A3、 罪とは一言で言えば、神にそむく一切の心の動きや行いを言うのです。たとえば実際に人のものを盗まなくとも、他人のものが欲しいという気持ちが動けばそれが罪なのです。また嘘を実際につくことはもちろん罪ですが、嘘をつこうという心がかすめたらそれも罪なのです。ですから他人に対してバカにする気持ちも、憎しみも、そういう心が動くだけですべて罪というのです。というのは他人をバカにしたり憎んだりする心は愛の神とは相入れない心の動きなのですから。キリストの使徒ヨハネは、人を憎む者は人を殺すことと同じであるといっています。またキリストは 情欲をもって女を見る者は心のなかですでに姦淫をしたのである。 といって、不純な思いで女性をみるだけで、不正な男女関係をもった罪を犯したのであるといわれました。 このように考えてきますと、罪はまことに私共の心の内に根深く巣食っているのがわかります。それは当然なのです。神様は絶対の正義と全き愛の方でありますから、私共がどんなに努力してみてもやはりその愛と正しさに満ちた神様にそむくことでいっぱいなのです。 法律にふれることを罪をいうことだと思っている人は、どんなに醜いことを心で思っていても、罪にはならないと考えるでしょうけれど、神様は外見でなく心をみられるお方でありますから、どんな些細な不正の心の動きもみな罪であるとみなされるのです。神はまた愛でありますから、愛にそむく一切の思い、つまり人を怒ったり、軽蔑したり、バカにしたり、憎んだり、ねたんだりする心はすべて罪ですし、他人に対して無関心でいるということですら罪になるのです。 愛とはその個人への強い関心でありますゆえに、無関心ということが罪になるのです。 それから何も心に悪しき思いを抱かない場合でも、真剣により正しいもの、愛にかなうことへ向かって努力していない場合も罪になります。怠慢という罪なのです。 内容・もくじへ戻る。 Q4、罪のゆるしとはどういうことですか A4、 以上述べましたように、人間は厳密にみますと朝起きてから夜寝るまで罪の連続なのがわかります。たえず不純な思い、悪しき思いが胸をかすめ、そうした心にうごかされているのがわかります。とすればそんなに正しいことや愛からはなれそむいている人間がそのままで心に深い安らぎを感じるはずがありません。不正な心の動きというものはその人間に必ず何か不安定なもの、心の平和を乱すものとなるからです。とすれば罪をぬぐい去ってくれるものが必要なのです。それが罪のゆるしであり、罪からのきよめなのです。 罪のゆるしをうけるためにはどうすればよいのでしょうか。私共の主であり、教師であるキリストが言われたことをみてみましょう。 キリストは、有名な放蕩息子のたとえでこの罪のゆるしを説明しています。 ある息子が父からもらった財産をさんざん使い果たし、身をもちくずして食べるものもなくなり、生きることすらむずかしくなってきました。その時に、その息子は本心に立ち帰ったのです。 そして立って父の所へ行って わたしは天に対しても父に対しても罪をおかしました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。 と言おうと決心して帰っていきました。 すると父は遠くからこの息子をみて走り寄り、それまでの重なる罪をゆるしてくれたばかりか、非常に喜んでもてなしをしてくれたというのです。 このたとえ話の父はもちろん神様であります。放蕩息子は私共人間なのです。毎日罪をおかし、神様からいただいた大切な魂をさんざん汚している私共罪人なのです。けれどもこの放蕩息子と同じように本心に立ち帰り、神様、どうか私の罪をおゆるしくださいと心から罪のゆるしを願うとき、神様がゆるしてくださるのを心に感じることができるのです。心の奥にかすかに罪をゆるしてあげようという御声をきくことができるのです。このゆるしの御声をききとる時、私共の心にはそれまでの罪を犯したという、不快な気持ち、重い心はぬぐわれます。そしてかわりに他のどんなものをもってしても与えられない平安と喜びが心に流れ込んでくるのです。 けれども犯した罪が大きい時、または心の深い部分に刺さったとげのように神様に祈ってもどうしても罪のゆるしを得られない場合があります。更に、右のようにして神様に罪のゆるしを与えられてもなお、心の奥にすっきりしないものが残ることがあります。何かが、心にわだかまっていることがあります。その時にはどうすればよいのでしょうか。 神様にゆるしをいくら願っても深い罪の汚れから清められない魂は何に安らぎを求めればよいのでしょうか。そうした罪に悩む魂への福音こそ十字架の福音なのです。 十字架にイエスがかけられて処刑された それと同時に、自分の罪も滅ぼされたのだと信じることなのです。十字架にかけられたキリストが お前の罪はもうぬぐい去られたのだよ。罪のことは気にしなくてよいのだよ。 と言ってくださっているのを信じるだけでよいのです。これを理屈で考えてみてもなぜ、こんなことで罪がゆるされるのか解決はつかないでしょう。 けれどもキリストの十字架による罪のゆるしを信じて受け入れる者には、罪がゆるされたという心の喜びが与えられるのです。 内容・もくじへ戻る。 Q5、聖書とはどういう本ですか。 A5、 聖書は神の御言葉がかかれた本です。ふつうの本や新聞、雑誌には単に人間が自分の意見を書いているにすぎません。人間の意見や考えというものはうつりかわります。けれども永遠にかわらないことば、真理があります。それが神のことばであり、聖書にはその神のことばが数千年も前からのものを含めておさめられているのです。 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つからなります。旧約聖書は人類や天地の創造の物語からはじまって、十戒という映画でよく知られているモーセがイスラエル民族を率いて神から与えられた地へ目指していく過程の物語、それからミケランジェロのダビデ像などで有名なダビデ、ソロモン王の物語などがあります。これらは、イスラエル民族がいかに神の導きにゆだね、また背いたかという記録であります。神を信じる信仰の立場からみた歴史書なのです。 歴史書といっても、この頃の学校で学んでいるような歴史と全く異なって、その歴史を通していかに神が大いなる方であるか、また人間はいかに神から背くことが多くて、弱くかつ醜い存在であるか、また人が神に従うとき、どんなに大きい賜物が与えられるか、といったことがくわしく書かれています。 そうした歴史書のほかに詩があります。これは主に、王であり、武人でありかつ詩人、音楽家であったダビデのうたがおさめられています。 ある時は神の測り知れない力に心からの讃美をあげ、またある時は、敵の力にさんざん悩まされ、自らの罪の重さに泣きーそうしたさまざまの詩がおさめられています。 主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 主は私を緑の牧場に伏させ、 いこいの水際に伴なわれる。 主は私の魂を生き返らせ、 み名のために、私を正しい道に導かれる。 たといわたしは、死のかげの谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。 (旧約聖書詩篇23篇1~4節) これは、旧約聖書の詩編の中の一つです。 これらは今から三千年も前のものでありながら、全くそうした古さを感じさせません。科学技術の極めて発達した現代に生きる私たちにそのままあてはまることなのです。 詩のほかに予言書といわれるものがあります。イザヤ・エレミヤといった予言者たちが、示された神の言葉を書いているものなのです。予言者といっても未来のことを予言しているだけの狭いものではありません。未来を予言することもありますが、それ以上に神の言葉がおさめられているのです。 未来を予言するには現代に対する鋭い洞察が必要です。現代において何が真理であるかをはっきりと見抜く事ができなければ、未来に生ずることを予言したりすることは到底できません。その意味で予言書はいつの時代にも通じる真理が豊かにたたえられた書なのです。 予言書の一つであるイザヤ書には、 「あなたは知らないのか、聞いていないのか、 主は永遠の神、地の果てまで創造された方 疲れることなく、たゆむことなく、 その英知ははかりしれない。 弱った者には力を与え、 勢いのない者には強さを増し加えられる。 若者も弱り、かつ疲れ、 壮年の者も疲れはてる(時がくる)。 しかし主を待ち望む者は新しく力を得、 わしのように翼をはってのぼることができる。 走っても疲れることなく、 歩いても弱ることはない。」 (イザヤ書40章より) 新約聖書にはまず何よりもキリストの言葉が書かれてあります。キリストは神の子として、人々を救うためにこの世につかわされたお方です。キリストの言葉や行動を記述したのが福音書といわれるものです。福音とは喜びの音ずれという意味です。新約聖書の中心、そして聖書全体の中心にはこの福音書にあります。福音書を知らない者は、世界で最良の書物を知らない事になります。 かの有名なリンカーンは「聖書は神が人類に与えた最上の書物である。」と言いました。キリストの言葉をのべ伝えるための教会や聖書は、今や全世界に見られるようになっています。このような広い規模で、しかも数千年の長きに亘って読まれてきた本は聖書以外にないのです。このように他のいかなる書にもみられない影響力をもってきたのは、ひとえにキリストがこの世につかわされたからでありました。新約聖書の中の福音書はそのキリストのことばや行動をのべているという意味で比類のない重要性をもっているのです。 こころの貧しい人々は幸いである。 天国はかれらのものである。 悲しんでいる人たちは幸いである。 彼らはなぐさめられるであろう。 柔和な人たちは幸いである。 彼らは地を受け継ぐであろう。 憐れみ深い人たちは幸いである。 彼らは憐れみを受けるであろう。 心の清い人たちは幸いである。 彼らは神を見るであろう。 義のために迫害されてきた人たちは幸いである。 天国は彼らのものである。 (新約聖書 マタイによる福音書第5章より) 人間の幸いというものは決してお金や財産、地位、あるいは健康という外側の状態によるのではなく、ひとえに心の状態によるというのです。心に何ら誇るべきものをもたない心の貧しい人、深い悲しみを抱く人、そうした人たちは神様に心を向けることによって幸いになれるといわれております。そしてまた、この肉体の目では見えない神をば、心の目でみえるようにしてくださるというのです。そして、この汚れた人間社会の背後に光っている神様の世界を見せて下さるというのです。そこに真の幸いがあります。ゆるぐことなき幸福とは、神につくことによってのみ与えられるのです。 「狭き門より入れ」とか「求めよ、さらば与えられん」といった有名なことばも福音書に書かれてあります。 また福音書のほかに新約聖書には、キリストの使徒たちの書いた手紙が多く含まれています。使徒パウロの手紙の中に次のような言葉があります。 「たとい私が予言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ私は無にひとしい。たといまた、私が全財産を人に施しても、もし愛がなければ一切は無益である。愛は寛容であり情け深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、いらだたない、恨みを抱かない....愛はすべてを信じ、すべてをのぞみ、すべてを耐える...このようにいつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛である。」 (コリント人への第一の手紙13章) このような最も大いなるものである愛をいだくには神とキリストを心に受け入れることがぜひとも必要なのです。 内容・もくじへ戻る。 Q6、復活とはどういうことですか A6、 キリストは十字架上で処刑されました。けれどもそれは全く、当時の宗教的指導者たちのねたみによるものでした。神はこうしたキリストの死をその三日目に復活させることによって、キリストが死の力に打ち勝つものであることを、目で見えるかたちで人々に示したのです。 死後の魂、復活という考えは、考えとしてはすでにギリシアの哲学者(プラトン)などがかなりはっきりと述べています。真理を愛し、探求した魂は死後、神のみもとに飛び立っていくというのです。けれどもそれは天才的なごく一部の人々によって考え出されたものであり、そうした考え方を理解できるのもほんの一部の人にすぎませんでしたし、何よりも致命的なことは、それが頭の中で考え出されたものにすぎなかったということなのです。そうしたあいまいな復活ということを、目に見えるかたちで当時の多くの人々にはっきりと示し、だれにもわかるようにしてくださったのがキリストの復活なのです。 キリストの復活は、いかに不正と悪が世をおおっているようにみえてもそれは外見なのであって、この世の根底では神の愛と正義が支配しているということを目に見えるかたちで人類に示された事件であったのです。 復活したキリストにペテロやヨハネなどの弟子たちは直接あうことができましたし、言葉で励まされもしました。それなら現代に生きる我々にとっては、復活はどんな意義をもつのでしょうか。現代にあっても、復活したキリストに会うことができるのです。聖書に示された道に精一杯の誠実な心で従っていくとき、おのずからキリストは心の中にあらわれてくるのです。 それはいわば心の眼でみることのできる復活のキリストなのです。初代のキリストの弟子たちが、キリストが処刑される時はみな神を裏切って逃げておりながら、キリストの復活の後は全く見違えるような勇敢な態度となり、文字どおり生命をかけてキリストをのべ伝えたのですが、そのような大いなる変化は、彼らの罪を深く悔いたこと、そしてその悔い改めの祈りの中から聖霊が与えられたことによるのです。現代にいきる私たちにとっても、復活の主に、まみえることは、この世での最上のめぐみであります。そして、その時、この世の背後に無限の光の世界が光っているのを感じとることができるのですし、生きる目的も深い心の平安も与えられるのです。 冬の間は死んだようになっていた木々や草花も、春になると一斉に芽をふきはじめ、みるみるうちに生き生きした葉を広げ花を咲かせます。そのような不思議な変化をおこすのは神の力であります。それと同じように人間の魂は自然のままでは年齢と共に次第に枯れていくものでしかありません。しかし復活されたキリストに出会う時初めて私どもは新たに生まれるのです。 パウロはかつて、善いことをどんなになそうとしても、悪いことばかりしてしまう自分を深く悲しんで、゛死のからだ゛といいました。この死のからだから復活させてくれるのがキリストであるのです。今は霊的なすがたとなっていきているキリストが私たちの心に宿るとき、私どもはそれまでの弱い自分に、何か一本つよい柱が入ったように感じます。汚れた心が、清い天の水でぬぐわれたように感じるのです。 内容・もくじへ戻る。 Q7、再臨とはどういうことですか A7、 私共は現在ますます悪化する環境の中に生きています。食べる物は肉も魚も米もみな何らかの化学薬品や農薬で汚染され、水や空気ですらいろいろ有害物質を含むにいたりました。そうした数しれぬ薬品に複合的に汚染された時、人類はどうなるのかだれにもわかりません。奇形児や子供の病気の発生率が大幅にましているのは、医療制度の変化もありますが、こうした薬品による汚染のためでもあろうといわれています。 そのうえエネルギーがどうしても大幅に不足するため原子力を用いねばならず、そのため放射線という防ぎようのないものはますますふえ続けていくことは確実なのです。医学も薬学も今までのように楽観できなくなりました。というのは今日では、医学や薬学の進歩によるための新しい病気が次々とつくられているからです。薬は病原菌に対して効かなくなり、病原菌の中には強くなっていくものが次々とでています。そうした問題のほかにエネルギーの不足、資源の消失、人口爆発、食糧難、家族関係の冷却からくる社会の非人間化、等など時代が進むにつれて、かつて予想もされなかったような問題が次々と発生しています。しかし、それらは一部の国の現象というより、全地球的な規模でみられることが多いのです。 教育は発達し、印刷やラジオ、テレビなどは昔とは比較にならぬほどに普及していますし、いかに教育が多くの人に授けられても、一向に世の中から問題がなくならず、かえってふえるばかりであるのはどうしたことでしょうか。科学者も最近では人類の破滅ということを口にする人が多くなりました。これからの世の中に真の希望の光を見ることのできる人は、一体どこにいるのでしょうか。 それこそ、キリストの再臨を信ずる人たちなのです。この世の中が、口先でどんなに弁護しても、どうも大変なところへと向かっていると人々は漠然と感じています。けれども人々はそれに対してどうすることもできずに押し流されるばかりなのです。この世が全体として破局に向かっているのなら、いくら一人の人間が努力しても何にもならないでしょう。 けれどもキリストの再臨を信じる人は、いかに世の人々が押し流されようが一人立つことができるのです。 キリストの再臨とは、キリストが再びこの世に来て、一切の悪や汚れたことをさばいて、完全な愛の国になし給うということなのです。空想のようなことと思う人が多いことでしょう。けれどもこのことは、このこと信ずることによっておのずから真理であることが証されていくのです。まず確かめてから信じようとする人は永久に信じることはできません。今私たちの周囲にあるあらゆる悪はかりそめのものであって、キリストの再臨の時までなのです。神の子たるキリストが神の万能の力を持って来られる。そしてこの世を一瞬にして完全な理想の世界にして下さるーーー何と素晴らしいことなので章か。このことを心に信じるとき人は、心の中が何だか軽くなったように感じます。悪がどんなにはびこるように見えても、また私どもの理想を求める心がどんなにしばしば挫折しようとも、再び心には光が射してきます。喜びと希望が甦ってくるのです。再臨の信仰こそは、この滅びゆく現代に生きる私どもの生きる力にもなるのです。 内容・もくじへ戻る。 Q8,(A1) アーメンとは何だろうか 礼拝において祈りのなされたあとで、参加者が「アーメン」と言い、また讃美歌の後で「アーメン」という言葉が付加されていますが、それはどんな意味なのか、ほとんどの日本人は知らないままで終わってしまうことと思います。私自身もまだ、キリスト信仰を与えられていなかったとき、なんか変わった言葉だと不可解な思いをわずかに感じたあとはなにも考えることなくずっと過ぎていったのを思い出します。
これは、ヘブル語(*)で、心から同じ考えであることを表したり、真実な気持ちをそこに込めるときに使います。 ヘブル語には「アーマン」という動詞があります。アーマンは「堅固にする」「支える」といった意味が基本です。
アーメンというのは、それから来た副詞で、「真実に」といった意味です。なぜ、この言葉が礼拝とか、讃美歌のあとに言われるかというと、礼拝で語られた神の言葉や祈りの内容に心から同意するとき、そこで語られたことを聞いている自分においても、礼拝に参加している人の内にもしっかりと内容が刻まれるようにとの真実な祈りをこめてアーメンというのです。
たしかに、他の人の祈りや語られた神の言に対して、私もそれに心から同意しますとの気持ちを込めてアーメンというとき、その祈りや語られた神の言は、祈ったり語ったりした人だけが勝手にしているのでなく、共同のものとして堅固にされるわけです。
とくに祈りの時に、一人の人が祈ったその祈りをみんながアーメンと言うと、他の人も「それと同じ内容の祈りを祈ります」という意味になり、同じ祈りをしてその祈りを堅固にするということになり、その同じことを心を一つにして祈りますという意味になります。
アーメンのもとになっているアーマンが堅固にするという意味で使われている例をあげてみます。
例えば、「わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。」(列王記上十一・38)」 というように用いられています。
そしてこの言葉こそ、つぎのように旧約聖書で「信じる」と訳されている代表的な動詞なのです。 「アブラム(アブラハムの以前の名前)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・6)
そしてこのアーマン(aman)から派生した言葉であるエメス(emeth)とかエムーナー(emunah)は、日本語風に書くと、全然別の言葉のように見えますが、原語のつづりでは、少し違うだけの言葉です。このエメスは旧約聖書では最も重要な言葉の一つになっています。それは、神の本質を表す言葉としてしばしば用いられているからです。
例えば「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、・・」(出エジプト記三四・6)のように、記されています。ここでの「まこと」と訳されている原語エメスは、他の箇所では、「真実」とも訳されている言葉です。
アーメンという言葉がこのように、真実性、堅固性、永遠性という重要な意味を持っているために、この言葉はつぎのように神ご自身を指す言葉としてすら用いられているほどです。
それゆえ、自分のために祝福を求める者は、真実(アーメン)の神によって自分の祝福を求め、自分のために誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、私の目から隠れてしまうからである。(イザヤ書六五・16)
ここでは、原文では「アーメンの神」いう表現になっており、神のご性質として根本的に重要なのが、この真実性、堅固さであることがこのような表現を生み出しているのです。
このアーメンという言葉は、新約聖書でも多く使われています。 主イエスは、しばしば「アーメン、アーメン、私は言う」と話し初めて、とくに重要な内容のことを語るときに用いられています。
これは、日本語訳聖書では、「まことに、まことに汝らに告ぐ」(文語訳)とか、「はっきりと私は言う」(口語訳)などと訳されていますが、たんにはっきりと言う意味ではなく、文語訳のように、これから言おうとすることが、特別な重要性を持つ内容であり、その真実性を強調するときに用いられています。
これは、この語の元の言葉であるアーマンという言葉が「堅固にする」という意味である故です。これから語ろうとする内容が揺るがない、堅固なもの、すなわち永遠の真理であり、そのことを強調している表現なのです。
そして新約聖書の最後の黙示録では、イエス・キリストのことを「アーメン」そのものだと言ったうえで、「誠実、真実な」とわかりやすく言い換えています。
アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方(キリスト)が、次のように言われる。・・(黙示録三・14より)
このように、見てくるといかにアーメンという語とその派生語が聖書では重要であるかがわかります。単なる形式的な言葉、儀式的な言葉では決してないのです。
イエスがアーメンそのものであるということは、イエスによってあらゆる良き約束がすべて成就するのであり、それほどにイエスの言葉は真実であり、堅固なものであり、私たちの確固たる希望の源泉であるということなのです。
(*)ヘブル語は今から数千年も昔の古代イスラエルの言語で、長い間旧約聖書の言語として書物の中で残ってきました。実生活の中では使われなくなっていたいわば死んだ言語でしたが、今から百年余り前にユダヤ人のエリエゼル・ベン・イェフーダーという人が、日常語としてよみがえらせて現在のイスラエルも使っています。
内容・もくじへ戻る。 Q9、(1)新約と旧約とは何を表すのですか。 聖書には、新約聖書と旧約聖書とがあり、聖書が万人に知られているように、旧約とか新約という言葉も広く知られています。しかし、その意味になると、どうもわかりにくいと言われることがあります。 契約とは、約束という意味ですが、ふつうは家などの売買とか人を雇うときに使われています。だから、それが聖書のように心の問題に関わる書物で重要なものとして出てきても、どうも私たちにはピンとこないのです。 聖書では、旧約とは、神がとくに選んだイスラエルの民に与える恵みの約束のことです。その恵みを神が与え続けるために、十戒という特別な戒めが与えられたのです。 新約とは、新しい契約のことで、それまでの古い契約(旧約)が、イスラエルの民という特別な民と結んだ約束であったのに対して、あらゆる人間、民族に与えられた恵みの約束なのです。それは神からの一方的な恵みの約束だと言えます。その根本の内容としてキリストの十字架による罪の赦しがあり、赦された者が神に従って生きるために聖霊が与えられるということなどがその内容となっています。 Q10,、(2)聖書はだれが書いたのですか。 一言で言えば、神がさまざまの人を選び、働きかけて書かせたものだと言えます。 むかしは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記などはモーセが書いたと長く信じられてきましたが、現在では、さまざまの理由からそうでないことがはっきりしています。 詩編もダビデの作と記されているのが多くありますが、内容からもダビデ時代以降のものだとわかるものもあり、ダビデ以外の名が記されている詩もあります。これも有名、無名の多くの詩人が、神への信仰によって書き残したものです。それは神がそうした内容を書くように導いたと受け取ることができますし、また現在の詩編以外にも多数の詩があったのを現在のように一五〇編に限定したさいにも、それを選んだ人たちは信仰により、神に導かれながらその作業をすすめたものが今日の旧約聖書に収められていると考えられます。 エレミヤ書やイザヤ書の預言書も、エレミヤとかイザヤという名の預言者が書いたものがもとになっていますが、それ以外に名の知られていない信仰の深い人が神からの言葉を受けてそこに追加して、全体としてエレミヤ書とかイザヤ書という名で伝えられてきたものもあります。 新約聖書では、ルカ福音書とかパウロのローマの信徒への手紙、ガラテヤ書といった手紙のように、はっきりとその著者がわかっているものもありますが、書かれている内容や用語などからだれが書いたか確定できないのもあります。 しかし、旧約、新約の聖書を通じて、だれが書いたかよりも、何が書かれているか、私たちに何を語ろうとしているのかがはるかに重要な問題なのです。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。(Ⅱテモテ書三・16) この手紙が書かれたときの聖書とは、旧約聖書しかなかったので、この言葉は直接には旧約聖書について言われています。しかし、新約聖書についても、そのままあてはまる言葉です。 聖書とは神の霊の導きによって書かれたゆえに、最初に述べたように、その著者は神であるということができます。だからこそ、この書物だけが、数千年を越えてその力を全く失うことがなく今日までその影響が続いているのです。 (ときどき、聖書について上のような質問を受けることがあります。簡単に答えることはむつかしいのですが、できるだけわかりやすく、簡単な説明を今後もときどき掲載したいと思っています。) 内容・もくじへ戻る。 |