集会だより 2009年2月号 NO.344

 

 

あなたは私の苦しみを見て下さり、
私の魂の悩みを知って下さった。
(詩編318より)

 


一月十八日(日)主日礼拝 ルカ二十二・2430 33
「誰が一番偉いのか」という議論が弟子たちの間でおこった。もうすぐ主イエスが捕らえられ、大きな苦しみの後で殺されるという、その直前の出来事であった。自分の方が偉い。大きい。上になりたい。主イエスにとって、もっとも苦しい緊迫したときにさえも、弟子たちの心にはこのような罪の思いに支配されていた。
 ねたみという罪は重く深い。人間のこのような心が主イエスを殺すことにさえなった。宗教的指導者たちは、主イエスの存在をねたんだ。そして、最終的には主イエスを殺してしまった。しかし、そのような宗教的指導者だけが罪を犯したのではない。ねたみの罪は、創世記の中に出てくるアベルとカインから、すでに記されている。人間すべてが持っている罪である。そのような人間の罪のために主イエスは殺された。そして、主イエスは死んで罪のあがないを成し遂げてくださったのである。
 主イエスそのものが、給仕をする者のようであったとある。主イエスは仕えるために来てくださった。仕えるとは、「善きことを提供する」ということである。人間にとって、一番必要で、一番善きことである「福音」を伝えるために主イエスは来てくださり、最終的には人間の罪の赦しのために、その命を与えてくださった。主イエスが「仕える」とはどういうことかと身をもって指し示してくださったのである。どれほどに、善きことを与えたとしても、心の奥に、自分を認められたい、大きく見られたい、という思いがあれば、祝福はない。しかし、神のため、人のために、小さくても、少しでも何か善きことを捧げたい、と思ってなすときには、それは祝福されるのである
 主イエスは大きいものではなく、小さいものを祝福してくださる。小さき者にコップ一杯の水を与えることさえも祝福してくださるとある。神の絶大な目から見れば、人間の大きさなどなきに等しい。神を見つめていれば、人間を大きいとは思い得ないのである。
 主イエスは弟子たちに支配権を与えたとある。これは弟子たちに、神の御支配が与えられたということである。主イエスの思いとはかけ離れた、自分中心であり、罪も弱さも持った弟子たちであった。それでも主イエスはその欠点をみないで、よきところ、真実な思いを見てくださり、御国を来たらせてくださる。心に誇るものを持たず、素直に神を見上げるとき、そこに神の御支配を来たらせてくださるのである。
 主イエスの持っている大いなる力が、聖霊が注がれた後、弟子たちにも与えられた。そして、それは今も、信じるものに与えられ続けているのである。

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一月一三日(火) 夕拝 エレミヤ書三五章
  信仰によって歩んでいたレカブ人の事が書かれている。遊牧民として生き、家も建てない。ぶどう酒も飲まない。独特の厳しい生活を二百年以上も続けてきた。イスラエルの民族でありながら特異な人達。レカブ人はなぜ我々だけ厳しい生活をしなければならないのかと周りと較べることなく、神から与えられた使命を生き、神と自分との関係を守った。多くのユダヤ人達が信仰的に崩れていった中で、レカブ人は自分に与えられた神からの持ち分を進んで行った。このような精神はキリスト教にも受けつがれ、キリスト教は広がって来た。現在の私達も神との関係で自分に示された事を守っていく。周りに証しをしていくようにと導かれている。
それと対照的に当時のユダヤ人は神の言葉に聞かず、自分の考え中心に生きていった。一九節には、神の言葉を忠実に守って何が与えられるかが書いてある。「神の前に立って仕える人が絶える事がない。」と神の仕事ができる人が起こされ、それが大いなる祝福だと言われている。清められた人でなければ神の前に立つことはできない。十字架のキリストによって私達は罪が清められ、神の前に立ち、神の仕事がそれぞれの場でできるようにしてくださった。
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一月十四日(水)水曜集会 一 テサロニケ一章1~3
紀元五十一年頃書かれたパウロの手紙。イエスさまの処刑後二十年足らずという、まだ早い時期に書かれただけに生々しいものが残る。
テサロニケとはギリシャの都市の名前。当時ギリシャにはいろいろな神がいたが、(万人の魂の)父なる神と、(神と同質である)イエス・キリストに結ばれている教会(集会)へとある。個人宛てでなく、真理を書いて回覧するための手紙。キリストに結ばれている、とは 霊的にキリストの「内にある」という意味。
パウロはいつも、信徒たちに恵みと平和があるように、と願っていた。恵みの中心は「罪の清めと赦し」であり、平和とは、わたしたちの心が神と一つになるときうまれる「平和」である。単に戦争がないということではない。両方ともキリスト中心。愛と真実の神様と結び付いていたら、戦争も起るはずがない。パウロはいつもこの祈りと感謝をもって手紙を書いている。
感謝の理由は、信仰・希望・愛という、神様からいただく一番大切なことを信徒たちが与えられているから。聖書で言う「忍耐」とはどんな苦しいことも神様が最善にしてくださるという「希望」と結び付いている。
・集会後、集会だよりを折り、「野の花」共に封筒づめをしました。
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一月一五日(木) いのちのさと集会   詩編四一
 詩編は五巻で構成されているが今日の詩編四一は第一巻の終わりに位置している。各巻の最後には、どの詩も「永遠に主をたたえよ。ハレルヤ」という言葉になっている。区切りを何にするかは私達の生活にも大切で、良い事があったらそれを区切りにし、「主をたたえよ」で終わる。また苦しいことがあっても、それも区切りにし、そこから収穫を刈り取り「主をたたえよ。ハレルヤ」で終わる。一日の終わり、一週間の終わり、一年の終わり、その区切り毎に「主をたたえよ。ハレルヤ」とする。神様を愛して、具体的に日々の生活の中で、み言葉を実践していく。み言葉を愛している証拠は、弱い者に思いやりがあるかどうか。人間の一番の弱さとは、罪を持っている事。それを救う為に主イエスも来られた。その罪ある人間の弱さを思いやる。また、自分も罪を持っているので主に「どうか私を憐れんでください」と切実な祈りをする。作者自身が自分の弱さを経験したので、弱い者を思いやる人は幸いだと考え、この弱い自分を顧みてくださった神が苦しみから立ち上がらせて下さるのだと分かった。「信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者がわたしを足蹴にした」はヨハネ一三の3で主イエスが引用された言葉。
詩編は信仰による様々な個人的な体験を書いたものが多いが、そうした経験を内容としているはずの詩が、意外にも、預言にもなっている。それは詩の作者の背後に神がいて、そのように書かせたのだといえよう。それゆえに、本来、詩というものは個人的な喜び、感動あるいは、苦しみや悲しみ、叫びであるにもかかわらず、それが神の言葉として聖書におさめられているのである。
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一月十九日(月)北島集会 シラ書四十章
この世ではどのような人にも様々な悩み、恐れ、不安がある。そこから逃れられない。じつにみじめな状態だ。しかしそれだけであろうか。そういう現実の中で人間に何が与えられているのだろうか。
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節に「慈しみは祝福に満ちた楽園」と、また27節に「主を畏れることは、祝福されて楽園のようだ」とある。二度、ここで繰り返される「楽園(ギリシャ語でパラデイソス)」という言葉は、パラダイス(英)という言葉で広く知られている。聖書でこのギリシャ語が最初に出てくるのは、創世記二章八節の、エデンの園という箇所である。この「園」というヘブル語(gan ガン)が、ギリシャ語訳旧約聖書でパラデイソスと訳されたのである。
現実を見たらどこにもパラダイスなどありそうもない所にそれがある、と言おうとしている。それは創世記二章8節に「エデンに園(パラデイソス)を設け・・」とあるように、神様がつくられた完全なよいところ、祝福に満ちたところを言う。14節の施し、とは「手を広げる」が原文。悪や不正の中で、たえず手を開いて必要な人に与える。そういう人には喜びがある。手を開いていると言うことは神様からもよきものをいただくということでもある。悩み多き世にもそこからほんとうのよいものが広がっていく。
神は、人間世界の暗さ惨めさに対し、こういった良き道をつけてくださっている。また、この世にはいろんな宝がある。それらは誰にでも必ず与えられるとは限らない。それらにまさるものは神を信じ、畏れ敬うこと、その中にこれらの宝がみな含まれている。そしてその人を喜ばせるだけでなく、守ってもくださる。神様と深く結び付くことこそ本当のパラデイソスだ。
・内村鑑三所感集から、「われはわが神においてわが要する万物(すべてのもの)を有す」。
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一月二十一日(水)水曜集会  詩編一二三
 都に上る歌とある。エルサレムの神殿に礼拝に行くときの思いが記されている。神を見つめて歩み、神の御許に帰ろうとしている、わたしたちの人生も、ある意味では、神殿にいく巡礼者ともいえる。どのような思いで神殿に登るか。どのような思いで、巡礼者としての人生を生きていくかがここには書かれている。
 「僕」とか「はしため」と訳されている原語は、奴隷、あるいは奴隷のように使われる人のことである。僕は主人の手に目を注いで、主人の指示を待つ。それと同じように、作者も神を待っている。しかし、作者は神の憐れみを待ち望むのである。わたしたちが神の御手を待ち望むとき、そこには、神の慈しみ深いまなざしがある。この世の人間の嘲笑の目のただ中であっても、神のまなざしを待ち望む姿がここに示されている。目を上げて、神を仰ぎ望むとき、神はわたしたちに答えてくださるのである。
 目を上げると、夜空には星が輝く。それは神の光に満ちた世界を指し示している。 神にしっかりと目を注いでいくと、神もわたしたちに目を注いでくださる。人間同士が互いに相手に求めすぎると関係が壊れていくが、神は真実な心で求めるほどに善きものを与えてくださる。自然も、神を求める心で深く見つめるとき、神は自然を通して、その深いお心を示してくださる。
 徴税人の頭のザアカイは、ユダヤの人に憎まれ見下されていた。お金はあっても心は空しかった。そのようなとき、主イエスが近くに来られることを聞いた。この愛に満ちた不思議な方は、自分と同じ徴税人であるマタイを弟子としたということも聞いていた。ザアカイは、主イエスに会いたい、何とかしてこの人を見たいと思った。人の見ている中、木に登ってまで必死で主イエスを見つめた。そのとき、主イエスのほうからザアカイをじっと見つめられ、声をかけてくださった(ルカ十九・15
 このように、主イエスを見つめるまなざし、天を仰ぐはっきりとしたまなざしを持つとき、神は必ず見つめ返してくださる。この世の現実は厳しい。しかし、主を仰ぎ見るとき、どのような状況であっても、救いを得ることができるのである。
「地の果てのすべての人々よ。わたしを仰いで、救いを得よ。」(イザヤ四五・22


一月二四日(土)手話と植物、聖書の会
 植物の学びは、トラノオシダ(ルーペで見ると、葉の裏には、まるで、葉っぱのお皿に盛られているかのような茶色い胞子の集まりがよく見える)ネジキの枝の先端部分は美しいワインカラー。 クスノキとヤブニッケイの葉は揉んでみるとさわやかな香り。
 イースターでの手話讃美の練習をしました。 曲名は「いつくしみ深い」讃美歌21493 と「原に若草が」新聖歌477、「如何に汚れたる」新聖歌376の3曲です。寒い日でしたが、春を先取りして「原に若草が」を手話で歌いました。
 聖書箇所の手話表現を学びました。
「神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント七・10
 御心にかなう悲しみとはどういうことか。悲しみは、神が何かの善きことへとつながるようにと、意味があって与えられていることを知り、心を神に向けるとき、それは、御心にかなう悲しみとなり、そこから前に進んでいくことがでいる。しかし、悲しみや苦しみを人のせいにしたり、恨んだりするとき、魂は滅んでいく。悲しみや苦しみは、その受け取り方によって救いに至る道となるか、死に至る道となるか、分かれてくるのである。
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一月二五日(日)主日礼拝 ルカ二二章3134 三一名
 主イエスは「シモン、シモン」と呼びかけた。シモンは主イエスに出会う前のペテロの名前で、シャーマー(聞く)から来ている。「聞け、聞け」これは大事な事であるという意味が隠されている。サタンという悪の力が、シモンや他の弟子達を小麦が振るいにかけられるように落とそうとする。ユダもふるい落とされた。このようにサタンが神に願って聞き入れられた。旧約聖書のヨブ記でも、サタンが許可を得てヨブを非常に苦しい試練に遭わせた。私たちの身近にある苦しいことも、神様が許可を与え、全体的には神様が全てを支配している。ある限界内で様々な苦しみが起こってくると知ることができる。それに対して、イエスの祈り。「あなたの為に信仰がなくならないように祈った」とある。ペテロの意思や勇気によって、立ち直るのではない。主を知らない日本人は人間の意志が一番大事だと言われている。しかし、ペテロは、「主よ、ご一緒になら牢に入っても死んでもよい」と強い決意で言ったが、すぐ砕け散ってしまった。主イエスの祈りと愛があったのでペトロは立ち直ることができた。私たちが信仰が保たれているのは、祈られていると言うことも大きい。今日まで二千年間祈られてきた。パウロはキリスト教を迫害していたその最中、主イエスの一方的な愛によって立ち直った。主イエスは全てを見通す方なので、ペテロが三度否認することだけでなく、立ち直ることも見通された。ペテロは立ち直り、聖霊が与えられて、無数の人たちを力づけた。ペテロはこうして最期は十字架の道まで行くことができた。絶えず立ち直らせてくれるのは主イエスの祈りと愛。どんなことがあっても最終解決に導いてくれるのが神様の愛。
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一月二七日(火)夕拝 エレミヤ書三六章
 この箇所は他の旧約にはない特別な記事である。エレミヤ書がどういう風に書かれたのかを知る一端を残している。この当時「書く」ということは大変なことだった。巻物に書くのには羊皮紙やパピルスに書く。書くことが出来るまでの工程の大変さ、また鉛筆など無い時代、特別なインクを使用した。出来上った書は厚さもあり、重くてかさばる。
 この36章と同じ時代の記事が25章にある。ヨシヤの子ヨアキムの第4年とある。ヨアキム王の第4年と両章に記されている。エレミヤ書の中でも重要な時だった。エルサレム滅亡と共に回復の預言までされた。「語ってきたことを残らず書き記しなさい。」こうしてバルクが書いたことがエレミヤ書の原型となった。主から臨んだので、万難を排して書いたものが二六〇〇年の間残ってきた。
 書かれた目的は、誤った道を歩いている民を神に立ち帰らせるためだった。このことは神のことば全体に言える。現在のわたしたち一人ひとりにも言えることである。人は神の言葉を聴こうとしない。それでもなお神の言葉は人の心に訴えかけて、正しい道に立ち帰らせるためにある。(立ち帰らせるはヘブル語でシューブ、その意味は方向を転換すること。)人は誰しも自分の弱さのため罪を犯すが、心を神様の方に向かえるだけで赦して下さる。
 預言書、主イエス言葉、パウロのことば…みな、私たちを神の方に立ち帰らせて、罪の赦しを受けるためにある。
 エレミアの口述を書いたバルクの勇気にも驚く。神様はバルクという勇気ある人を与えてくださっていた。王に逮捕され、殺されるかもしれない…バルクの心中はいかばかりであっただろうか。バルクはエレミヤの背後におられる神に従順に従った。
そしてエレミヤの命じる通りに書き記し、またエレミヤが命じた通り、神殿で読んだ。
 14節からのバラクと役人たちの問答…エレミヤの書かせた言葉をバルクが読み上げた時、役人たちはその内容に驚き、ことの重大性を知った。そしてエレミヤとバルクの身を守るため身を隠しなさいと言った。
22
~ 王の前でその巻物が読み始められると、王はそれを切っては焼き、切っては焼きし、すべて焼いてしまった。王も側近も誰一人悔い改めようとしなかった。
33
~ エレミヤは再び別の巻物をとってバルクに書かせた。同じような言葉を数多く加えたとある。神の言葉はどんなに切っても、焼かれても、不死鳥のようによみがえる。神の言葉を担った人も甦り、エレミヤ書が書かれてから二六〇〇年の時空を超えて伝わってきた。真理は切られたり、焼かれたりされても永遠に続いていく。
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二月二日 月曜日 小羊集会 マタイ福音書十八章1520
 ここには神を信じて集まる者の心のあり方が示されている。たとえば、信仰の仲間が何らかの罪を犯したときどうするか。その人を愛しているならば、祈りをもって直接、本人を諭すべきである。決して、他者に陰口のような形で話してはいけない。それは分裂を生み出すだけである。誠意を持ってまず、本人に話し、悔い改めが見られないときは、数人で祈りをもって話し、それでもかたくなに悔い改めを拒むときは、その集まりで対処するようにしていく。悪意や感情で対処するのではなく、祈りと愛を持って、順を踏まえて対処する。信仰による集まりは、常に真実であること、誠実であること、そして祈りを合わせていく姿勢が必要であることが示されているのである。
 地上でつないでいくことは天上でもつながれるとある。地上でつながれるとは、祈ると言うことである。どんな願い事であれ、心をひとつにして祈るときには聞いてくださり、最善をなしてくださると約束してくださっている。
 他者のために心をひとつにするとき、その苦しみを知らなければ、ひとつとなるとは言えない。苦しみの中に行き、相手を本当にわかろうとし、ともに苦しみや悲しみを負おうとしなければ、心をひとつにすることはできない。それは主イエスに愛をいただき、はじめてできることである。
 ふたり、三人というのは最小の集まりの単位である。たった二人であっても、真実な心があり、祈りを合わせるとき、その祈りは聞かれ、そしてそこに主イエスも共にいてくださる。主イエスは生きて働いておられる。わたしたちが、心を合わせ、ひとつになり祈るのをじっと待っていてくださる。御心にかなう祈りは聞いてくださるという約束を信じて、どのようなときにも、ともに祈っていく集会でありたい。

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二月三日(火)エレミヤ書37章 夕拝 10
 ゼデキヤ王とエレミヤのかかわりが書かれている。バビロンの王がユダの王を決めるということから、ユダがまさに滅びようとする寸前であったことが窺われる。それでもゼデキヤ王も家来も民もエレミヤ(神から告げられた)の言葉を聞こうとはしなかった。 
 しかし意外なことに、ゼデキヤ王は人を遣わして、「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」と頼んだ。また王は使者を送ってエレミヤを連れて来させて宮廷でひそかに「主から何か言葉があったか」とたずねた。(1116その時エレミヤは郷里ベニヤミンの地に行こうとしている時、カルデヤ軍に投降しているとして捕えられ、打ちたたかれ、地下牢に入れられていた)
 王はエレミヤを解放するでもなく、監視の庭に拘留して都にパンが無くなるまで毎日パンを一つ届けさせた。エレミヤを殺すでもなく、解放するでもなく中途半端、バプテスマのヨハネに対するヘロデ王の態度と似ている。神の言葉に対する中途半端な態度が続いている。
 ヨヘネ黙示録31516の聖句が思い出される。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。(省略)熱くもなく冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 本当に神の言葉を求めるのならば、まっすぐ向かっていけばよかった。ゼデキヤは神の言葉を、神の存在を少しは信じていた、神がエレミヤを遣わされているとも思っていたが、エレミヤの言葉通りに従ったならば、バビロンに全面的に降伏することになる。そのようなことは、王も高官たちも耐えがたいことと思われ、神の言葉に従おうとしなかった。そして遂に過酷な運命へと進んでいった。
このゼデキヤの態度は私たちと無関係ではない。私たちも神様に対する熱い心をいつも持っていないといけない。先日ルカ伝(223134)で学んでいるように、しっかりイエス様について行こうと決心しているのに、何かあると動揺してしまう。しかしどんなに弱くても、私たちの信仰が無くならないように祈って下さるイエスさまがいてくださる。ゼデキヤもエレミヤの言葉にを信じて行ったなら、この後起こるエルサレムが焼かれたり、王の目の前で子どもが殺されることもなかったであろう。
 申命記28章には二つの道がことを章全体に詳しく書いてある。それは神に従う道と神に背く道である。神の言葉に聞くか、聞かないかによって個人も国も後の国家も変わっていく。ゼデキヤの時代は運命の分かれ道となっていった時代だった。
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二月四日(水)水曜集会 詩編一二四編
主が味方でなかったら、滅んでいた。主が助けてくださったから、生かされている。その確信が、この詩編に流れている。どのような苦しみ、絶望が襲ってこようとも、神は絶望を希望に変えてくださる。神を信じる者には、どんなときにも助けがある。死の彼方にも、復活の命という希望が与えられているのである。
・この日、桜井さんの友人の野口さんが約二十年ぶりに参加されました。 (要約と入力 K.K & E.I & H.N & E.Y
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お知らせと報告

○二月八日(日)の大阪府高槻市の那須宅での集会では、主日礼拝としてエレミヤ書第一章の学びの後、去年から集会に参加されるようになったGさんのご夫君の一周年記念会を持ちました。主がその方に一層の導きと支えがありますようにと祈ります。 神戸の私学会館での集会において、初めての参加者がありました。主がいろいろな集会をそれぞれ導いてくださっていることを感謝です。

○第三六回 キリスト教・四国集会。
主題  「主の平安」
日時  2009年 5月16日(土)~17日(日)
会場 スカイホテル(松山市三番町8の9の1)
問い合わせは、冨永 尚氏。
799-3401 大洲市長浜甲271番地 電話 0893-52-2856

○二月二四日(火)の移動夕拝は、熊井 勇宅で、ヘブル書一二章14~29節を学ぶ予定です。

○二月一五日(日)主日礼拝の後で、ダンテの神曲・煉獄篇第十四歌を学びます。今月号の「いのちの水」誌に書いたように、神曲は、昔から多くのキリスト者、思想家、文学者たちにも大きな影響を与えてきた書物ですので、時間とれる人はともに学ぶことで、神がダンテに託した真理の一端を少しでも共有できればと願っています。
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○訂正
 集会だより一月号で元旦礼拝の要約の一行目
「主イエスを喜ぶことはあなたの力です」(ネヘミヤ十・8)
→「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ八・10
○「野の花」文集 77頁右から11行目
負債者→債権者。
いずれも入力ミスでした。お詫びして訂正しておきます。