集会だより 2009.04.8  NO.346

 

渇いているものには、いのちの水の泉から 価なしに、飲ませよう。(黙示録216より)

 

三月十五日(日)主日礼拝 ルカ二十二・6671  34
 この世の知識や指導力があっても、主イエスの本質はわからない。主イエスはご自分を「人の子」と言われた。それは、神と同質である、ということを示している。これは、ダニエル書七章で預言されていることであった。その預言の成就がなされ、主イエスが神によって遣わされたのであった。しかし、このとき、旧約聖書を学んでいたはずの祭司や律法学者は、主イエスがその預言された人物であるとはどうしても理解することができなかった。そして、主イエスがご自分を神の子であると言ったことで、激しく憎んだ。昔も今も、主イエスが神の子であるということに人はつまづく。今も生きておられ、これからも永遠に生きておられる神と同質のお方である、ということが受け入れることができないのである。
 ヨハネ福音書が書かれた目的は、その冒頭と末尾に記されているように、主イエスこそが神に等しきお方であり、主イエスの名によって永遠の命をうけるために書かれたのである。このことを信じるか、信じないかで、命を受けるか、受けないかが分かれてくるのである。
 主イエスは神と同質であり、そして、神の右に座す存在であることを示された。「右に座す」それは、神の正義をも示している。現実は捕らえられ、罪人として裁きを受け、これから殺されようとしている主イエスであったが、そのただ中に神の義は表され、預言は成就し、神のご計画は確実に進んでいった。 人間がどのように真理を壊そうとしても、決して揺るぐことにない神の義。そして、闇の力が渦巻くようなこのような場においても、主イエスは岩のように堅く、静かに立っておられたのであった。
・森本麻依子さんが大阪に就職されるため、みんなで「神共にいまして」(讃美歌405番)を讃美しました。
神ともにいまして 行く道を守り
天のみ糧もて 力を与えませ また会う日まで、
神の守り 汝が身を離れざれ
○三月五日(木) いのちのさと夕拝 詩編四四
 まさに国全体が滅びようとしている危機の時この詩は生まれた。ユダヤ人のアイデンティティーを根こそぎ壊してしまう絶望的な状況の中で、神に向かって叫んだ。あなたは我らを見放された。死の陰で覆ってしまった。先祖をカナンの地に住まわせたのは軍事力や武力でなく神の御手によってであった。神が過去にされたので今こうして在る事ができる。だからこの困難をも乗り越える事ができると信じる。過去の導きを思い起こして、まず導きに軸足を置く。あなたこそ私たちの王。私が寄り頼む主。神様への信頼、感謝と賛美をもって今まで歩んできた。しかし現実は見放されたのと同じ。どうしてこんなひどい事を起こすのですか。これは無数の人が叫んできたことである。民族と国家が崩壊する中で神の力を諦めず求め続ける。この叫びと祈りと求めがあったので国は滅びないで、この詩が作られておよそ一八〇年ほど後にイエス・キリストが来て下さった。私たちも試練の続く時、諦めずすがり求めていけばイエス・キリストが来て下さる。


三月九日(月) 藍住集会 詩編八〇
 この詩は、個人の悩み、苦しみではなく、国全体の苦しみ、民族の苦しみや叫びを書いてある。涙のパンを私たちに食べさせなお、三倍の涙を飲ませられる、という特に三という数字によってどうする事もできな絶望的な状況、深い感情を表している。1314節の石垣が破られたは、侵略、攻撃されて破壊されていく状況。9~12節は、民族の歴史を言っている。自分たちをぶどうの木に譬えて民族をエジプトから移しカナンの地へ導かれた。ぶどうは祝福のこもった産物で、民族を増やし、地中海の沿岸、ユーフラテス川のところまで広がった。しかし、今、予想できない状況になって追い詰められている。民族的な試練に遭っているが、だから神がいないという考えにはならず必死になって集中して神に心を注いでいる。「ケルビムの上に座し顕現してください。あなたの光を輝かして下さい。闇の力を打ち破る為にも来て下さい。」と神に願い、三回もあなたの光を輝かせて下さいとある。人間は苦しい事があると神から離れ、楽しい事が続くと神から離れる。絶えず誘惑にさらされている。悪の力が強いと思う時にも祈り続ける事の大切さ。苦難の時、単純な祈りを確信をもって祈り続ける事が私たちへのメッセージである。


三月九日(月)北島集会 旧約聖書続編・シラ書(集会の書)四十七章1225
三千年前にイスラエルの王となったソロモン。その名は平和・平安を意味するシャーロームから来ている。その名のとおり、治世の時は国家も平和になった。それはソロモンの信仰に神がこたえて、神様が敵をおさえたからである。
またソロモンは主の名のために神殿を建てた。聡明で英知があった。聖書の「箴言」では全部ではないが、神と人、この世の真理に関する格言を残した。本当に価値があることは主を畏れること、人間が深くなるための出発点だと。しかし19節では驚かされるようなソロモンの罪が書かれている。人間はそれほど脆い。油断してはいけない。他にも罪に対しては、金、名誉、その他いろいろなところに誘惑がある。手綱を引き締める神。背を向けたら罰うける。
しかしそれでも神は、滅ぼして無にしてしまうことなく、ソロモンを守られた。罪を犯した者も、裁きを与えると同時に、用いようとされる。罪があるからといって滅ぼされるなら、みな滅ぼされてしまう人間。
その人間も、ある部分だけ用いられるということがある。神のご計画、その役目を果たすため、我々も皆どの部分かで用いられている。
・内村鑑三所感集から。「我らの霊は永久の春なり」とある。我々はみな春をもっている。霊的にたえず新しく芽吹いている。 春は、英語でスプリングである。この語はもとの意味として、湧き出るという意味を持っている。そこからバネという意味や、泉、そして春という意味もつながっている。春も新たな芽、植物が湧き出るからである。
聖なる霊が宿ると新しい感動がうまれる。日々感謝、喜び。こころに春。永遠の生命。(「不朽のわれら」)
・植物は、セイヨウカラシナ、これがマスコミで写真とかでよく紹介される、菜の花で、吉野川河川敷などに大量に野性的に咲いているものである。


三月十日(火) 夕拝 エレミヤ書四二章  一一名
 エレミヤは以前から一貫して、「エジプトに頼ってはならない。バビロンの支配に従え」と言い続けた。この事は、人間的に考えると、敵に降伏することになるので、非常に不安で、エジプトに頼る方がうまくいくと思われた。私達も主からある事を示されても、自分の気持ちや願望が先に立って、聞きたくない、従いたくないという気持ちが起こる。どういうことになっていっても従おうとするのが信仰の姿勢。その為には深い祈りが必要。アブラハムが一人息子のイサクを捧げようとしたのはこのような信仰であった。自分を空しくして思い切って従う道をとると不思議なことが起こり導かれていく。エレミヤは神から受けたので、この世の人とは違う判断で妥協せず同じ事を繰り返し繰り返し言った。


三月十一日(水)水曜集会 テサロニケ二章1320
神の言葉は働く。神の言葉は活きたもの。人間が本当に変るのは、その人の中で神の言葉が働きはじめて変る。パン種を入れたように、霊的な世界が広がる。深く受け取った神の言葉は、その人の内面で発酵する。生きて、いのちをもっている神の言葉。人間の言葉ばかりの新聞雑誌で、人の本質が変えられたことはない。清い心,真実な心を与える働きをする神の言葉。
福音が働きはじめたのは迫害のさなかであった。そんなときに神の言葉として信じ、受取った人たち。だから神に感謝をしている。迫害する人の裁きは必ずある、とパウロは言っている。
テサロニケから離れても、再び顔を見たいと言うパウロ。手紙はコリントに行った時に書いた。だが、ただ単にもう一度会いたい、という普通の感情だけでない。再臨を信じた上で書いている。最終的なゴールである再臨と結び付けて、その時また会いたいと言っている。今のわたしたちにとって、再臨の一つの現われはイエス様の聖霊であるが、聖霊として来られ、また世の終にも神の力をもって来られる。だからわたしたちも死の時まで信仰をもち続ける。これが究極の喜びだ。
・植物はフサアカシア、 ナガバモミジイチゴ、キブシ、タネツケバナなど。


三月十三日(金)天宝堂集会 マタイ一章九節~十三節
 イエスはヨハネから洗礼を受けた理由。水の中に入ってあがる洗礼は、ほかの宗教にもよく見られるが、罪からの清めを表している。神と同質である主イエスには罪がなく、罪の汚れを取り去るという行為は本来は必要ではなかった。しかし、神と同じでありながら、汚れた人間と同じように、洗礼を受けられ、低いところまで降りて行かれ、清める必要がなかったのに、清めを受けられたのであった。
 主イエスは最後には、十字架につけられて殺された。罪のないイエスが、最も重い犯罪人のようになって、一番低いところまで降りて来られたのであった。
 イエスが洗礼を受けられたのは、この十字架と同じように、最も低いところに降りて来てくださった、と言うことを意味していた。人間はすぐに上に立とうとする。弱い者を押しのけてまで名誉を得ようとすることがある。しかし、イエスはそうではなく、下の方に降りて行かれるのである。
これは、弟子たちの足を洗う、という行為にも示されている。イエスが殺される前の最後の夕食の時、食事の席から立ち上がり、弟子たちの足を洗い始めた。これは、奴隷のすることであった。しかし、ここで、イエスがあえて弟子たちの足を洗い始めたのは、清めの象徴の行為であった。奴隷がするようなことをあえてされ、常に下まで降りて行こうとされた主イエスのお心が示されている。
 このように、主イエスが洗礼を受けられたのは、高いところへあがろうとする人間に、低いところに降りて行かれる姿勢を示されたのであった。わたしたちも、その精神を受けることが大事である。そしてまた、単なる儀式として水の洗礼を一回だけ受けるよりはるかに重要なことは、復活の主イエスが「あなた方はまもなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒15)といわれたように日々新たに、聖なる霊を受けると言うことが大事なのである。
 主イエスが洗礼を受けられた後、天がさけて、聖霊が鳩のように下ってきた、とある。低いところまで降りて行く、その精神が祝福を受ける。上に行こうと弱者を虐げていくとき、そこには祝福はない。弱者をいたわる心を持つとき、閉じられていた天が開かれていく。天が開かれるとは、目には見えない神からの霊、本当の意味での良きことが天から下り広がっていくことである。神を信じて思い切って下に降りていくとき、そこに天は開かれる。
そして、その後で神からの語りかけがあった。この語りかけは、わたしたちにも注がれている。あなたは、神に愛されているこどもと同じである。あなたはわたしの心にかなう者である、と言ってくださる神。神に愛されているという語りかけを聞いたときには、どのような状況であっても人間は生きていくことができる。神の愛を感じたとき、苦しみや闇の中であっても感謝を持って生きていくことができるようになるのである。「あなたはわたしの愛する子」これは今も、信じるすべての人に語りかけてくださっているのである。


三月十六日(月)北島集会 マタイ五・110
 山上の説教。山の上から、弟子たちに主イエスは話された。これは、神を信じ、主イエスに従っていく者に与えられることはなにかということを示されたのであった。まず、与えられること、それは天の国、すなわち神の御支配である。そこにはあらゆるよきことがある。病気になっても打ち勝つ力があるし、孤独であっても癒される。そのような目には見えない、神の国にあるようなことを下さるという、キリスト教の信仰のエッセンスが書かれている。
 どういう人があたえられるのか。心の貧しい人は幸いである、とある。心の奥、魂の深いところに、自分を誇る思いを持っている心には与えられない。人間の罪と弱さを知り、自分の力を誇らない心。どんな状況の中にある人でも、誇らない心の中には、求めるとき、神様はそこに力を注いでくださる。弱いところにこそ、神の力は注がれるのである。心の貧しい人とはつまり、自分は何も持っていないと知っている人である。そこから神様に求めていくとき、神の霊が注がれるのである。
 また、悲しむ人は幸いとある。悲しみそのものは慰めとはならない。しかし、そこに神の力が注がれるから幸いなのである。人にはわかってもらえないときでも、神様はわかってくださる。悲しみに沈んでいるとき、神様は来てくださる。だから幸いなのである。
 義に飢え渇く人も幸いとある。自分にも回りにも、どこにも本当の正義や真実はない。しかし、だからといってあきらめるのではなく、どこまでも、ただ神に求めていく心。そこに神は来てくださる。強く求める人は大きく満たされる。飢え渇くように求めるだけで、正しいように見なされ、正義に渇く心が満たされていくのである。
 求めたら与えられる神の愛と力。弱さを知り、罪を知り、どこまでも神に求め続けていきたい。
 ・明日から森本麻依子さんが県外に就職のため、徳島を離れます。この北島集会でも共に森本さんの新しい出発を祈り、讃美しました。


三月十八日(水)水曜集会 詩篇一二七篇
「主が建ててくださるのでなければ、その労苦はむなしい」と言われている。なぜ、人間の力や努力だけですることは空しいのか。それは目に見える外側だけで、人間の一番深いところにある魂にまで本当の清いものが到達していかないからだ。外側だけ、表面だけになってしまう。それはまた、人の魂に平安を与えない。救いに関係していない。聖書は眼に見えないものに中心を置く。眼に見えない神様がすべての基本。清め、愛から見る。究極的に、神様抜きでする労苦が空しいのはそこにある。いつも主がわたしたちの働きのところにいて、主が為させてくださるように。
新約では、求める者、また心の貧しい者には「神の国」をくださるとはっきり言っている。自分というものが固く残っているとできないが、心の貧しいものには神の国を、その魂の内に建てあげてくださる。眼に見えるものが何もなくなってもそれは残る。十字架上でさえ主は盗賊の魂にパラダイスという神の国を建てあげられた。
主が守ってくださっているときは、いかなる敵意からも守られる。憎しみや怒りが出てくるのは主が共にいないから。わたしたちも主が守ってくださらねばすぐ悪い誘惑に負けてしまう。信仰のために、敵意の只中で死んだステパノの心は平安に満たされていた。主が守ったからである。
主が眠りをお与えになる。眠っている間も、よきものを与える。だから主に信頼する。
胎の実である子供は主からの賜物。だが子供のいない人にも与えられる(ヨハネ15:5ーまことのぶどうの木の)実。それはイエス・キリストの真実さ、また愛。
キリストに繋がっていないと、思っている事と言っている事が異なってくる。真実とは、いつも同じ姿勢でおられること。差別なく、まわりを平等に愛し、どんな時代にあっても変らない主イエスの実。眼には見えないが、いつまでたっても壊れない。

・内村鑑三所感集から。人生の真実を書けるようになるのは、その人がそれだけ苦しんだからである。生まれつきや、本を多く読んだからではない。(読書と苦痛)
・植物… あやめの仲間ーシャガ (学名─イリス・ジャポニカ この意味は、「日本のあやめ」 )ウンナンオウバイ ヒサカキ(メジロもこの花の蜜をこのむ) クサイチゴ ・棘がある(カジイチゴ、ナガバモミジイチゴの花とのちがいなど)
参加 伊丹 逢坂 樫原 桜井 辻 筒井 吉村2


三月十七日 火曜日 夕拝 エレミヤ書四十三章
 エレミヤがエジプトに連行される箇所。前に、ヨハナンは「エレミヤの預言は嘘だ。エレミヤは偽預言者だ。」と言った。当時、エレミヤは偽預言者を糾弾していたのに。真理を語ったからといって重んじられるとは限らない。イエス様は神様を一番重んじられたのに、神を汚しているといって、死刑にされたのと似ている。世論は大きく間違うことがある。ヨハナンは「神はあなたを遣わしていない。主がエジプトに行ってはいけないとは、言っていない。」という。ヨハナンと民は主の声に従わなかった。四十二章ではヨハナンはエレミヤに神の声を聴いてくださいと願った。(神の声が)良くても悪くても主の声に従うと言ったのに、エレミヤが真剣に十日も祈って神の言葉を受け、伝えたが、聞きいれなかった。(43:4
 人間は真実に従わないで人間的感情を第一とするという強い罪がある。自分の気持ち、考えに合った意見だけを聞くところがある。今日の私たちにとっても、聖書を読みながらも自分に合った都合のよい所だけを聞こうとする。魂が砕かれないと、このような心がある。語ったり、文に書いたりする時でも、
私たちは心の底から神様に従おうと思っているのか…が問われる。
 結局、ヨハナンをはじめとする人々はエジプトに下って行くことになった。エレミヤとバルクも含まれていた。エレミヤは、神に背く集団の中にいて、どこまでも神のことばを伝えようとした。
 イエスは、最も重い罪を犯した人と一緒に、十字架にまで進んで行かれた。エレミヤはそのような主イエスに似ている。


三月十八日(水)北島夕拝エズラ書(ラテン語)四・2252
 イスラエルの民に降りかかった、大変な苦しみ。神様はなぜ、そのようなことをなさるのか。苦しみが大きいとき、神の祝福もわからなくなる。このようなことは、個人としても、民族としてもおこることである。しかし、神はいないのではない。わたしたちも、苦しいことがあるときに神はいないというのではなく、神はこのことを通して、何をなさろうとしているのか、ということを考えていくべきである。
 そして、ここに天使の答えがあった。苦しみの原因。それは悪の問題である。この世界に悪の種はすでにたくさんまかれている。しかし、その悪の種は、時がきたら脱穀が始まる。悪いものが落とされるのである。これは、世の終わりはいつくるのか、という問いかけでもある。なぜこんな苦しみに遭うのか。。時が来たらそれはわかるのである。
 神は苦しみによって人の魂の脱穀をしようとされる。時が来るまでは、まるであたかも、神がいないようにさえ見える。しかし、時が満ちたら、必ず、悪はさばかれる。苦しいときは、神の時が満ちるまでなのである。
 そして、神の時は、遅れることはない。この世の出来事は、神の時が満ちているひとつの段階である。苦しいことはなぜ起こるのか。それは神の鍛錬である。耐え忍ぶ鍛錬である。そして、それは神の時が満ちるまでである。祈っても聞かれないことも、祈りが満ちるまでである。神は祈りを聞いてくださる
。神のご計画は必ずなる。祈ったことは、必ず聞いてくださるのである。生きているときにきかれるかどうかもわからないけれど、しかし、神のご計画はなされ、祈りは何らかの形で必ず聞かれるのである
○三月一九日(木) いのちのさと夕拝 詩編四五
 この詩は他の詩と違っている。王に対する賛美の詩で、王妃となる人の事も一緒に歌っている。12節の美しいという言葉は、心に湧き出るフレッシュで生き生きとした良いという言葉。ここに出てくる王はどんな人より美しく優雅に語る。永遠に神の祝福を受ける。王は戦いの側面もあり、悪との戦い、敵との戦いで非常に力を持っている。「真実と謙虚」という一番大事なものをもって進む。その王は正義を愛し悪を憎む。そして王座は神からのもの。8節で神はその王に油を注がれた。この詩はその時代の現実に存在する王の結婚に触発されて作った詩だがはるか先の事を暗示している内容。たくさんの女性が導かれて王の宮殿に行くとあり、これは王の花嫁の事で、キリスト者のこと。花婿なるキリストのところへ導かれていく。現実の王の奥に見える真の王の姿が歌われている。この王は永遠なので、「諸国の民は世々限りなく王に感謝する」と最後に結ばれている。主イエス様の美しさ神の愛の霊的な美しさを詩人は見ていた。


三月二十二日(日)主日礼拝 ルカ二十三。15 33
 主イエスが王であるという。しかし、現実には今、まさに捕らえられ、裁判の場に出され、どこから見ても王とは見えない。しかし、このことが、ここで問題となっている。会衆は主イエスの罪として三つのことを訴えた。そのひとつに「この男は民衆を惑わし」とある。これはしかし、主イエスは民衆を間違った方向から真理の方向へと導き流れを変えようとしたことを示している。つぎに「税を納めるのを禁じ」とある。主イエスは税を払うのを禁じたことはない。これは根も葉もない偽りである。そして最後に「自分が王たるメシアだと言った」とある。そして、このことをピラトが再度確認した。
目の前にいる、弱り果てた姿の主イエスに向かって「王なのか」とピラトは聞いた。地位の高い総督であるピラトが、、わざわざ、そのように聞いたところに、どのような姿になっても、主イエスには権威があったことがわかる。主イエスが王であることは、他の箇所でも示されている。マルコ十四章では、「お前はほむべきかたの子、メシアなのか」という質問に対して、主イエスは「そうです」と答えられたとあり、また、ヨハネ十八章での「お前がユダヤ人の王なのか」「真理とは何か」とピラトが聞いたことも、主イエスが王であることを示している。
 また、兵士たちがあざけりながら、ユダヤ人の王と侮辱した記事もあり、何度も主イエスは「王」である、と言うことが出てくる。そして、主イエスの罪状書きにはギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の三カ国語で「ユダヤ人の王」と書かれていた。そして、実際に、それらの国に主イエスの御支配が広がっていった。その御支配が、今にまで続いているのである。二千年たっても変わることのない御支配をなされている主イエスの御支配。主イエスこそが王であった。主イエスが捕らえられているという、最も悲惨なときでさえも、主イエスの王権が啓示されているのであった。


三月二三日(月) 藍住集会 詩編八一
 よろこびの叫びを高く歌うとあり、神様から心を強く動かされた人が書いた詩で、力の限り歌わずにはいられない心持ち。出エジプトの時、様々な苦難があったが、メリバの水のほとりで生きるか死ぬかという試練を受けて試された。11節に「口を広く開けよ。わたしはそれを満たそう」とあり困難な時、心の口を広く開いて神に求めなさい、そうすれば与えられる。一貫して神に口を広く開ける。苦難ばかり続くように見え、なかなか求めても与えられなく、疲れ果ててしまう事があるが、そこを通って最終的に与えられる。人間は奪い合う性質があるが、神は満たそうとしてくださる。人間に求めても得られず不満が生じるので神から満たしていただく事が必要。岩から蜜を滴らせるとあり、絶対に出てこないというところから神は蜜を出す事ができる。それは病気のただ中からでも良いものが出、岩のような状態に置かれても神の慰めが蜜になって心に滴り落ちる。身近な植物や青空からでも蜜がもたらされる。求めるところに蜜は出なくても、信仰を持っていたら天の神ご自身から蜜が出る。その蜜の養いがあればこそよろこび歌う事ができる。乳と蜜の流れる約束の地とは究極的な恵みと豊かさのシンボルでそれは私たちにとっては神の国の事である。


三月二十三日(月)北島集会 シラ書四八章
エリアは火のような預言者と表現されている。火のように燃える情熱は、人間の憎しみなど悪い意味で燃えることもあるが、ここでは神様の火、燃えるような正義の火が正しいものを指し示し、たいまつのように燃えていた。わたしたちの心も燃えるものがないと冷えていく。魂が燃えるのは、この世的なもので燃えるのではない。神の火が闇を指し示す、そのような燃えかたがある。神の言葉自身、本来燃えているものだ。それを受取った人が燃える。内村鑑三、新渡戸稲造など札幌農学校の多くの若者が、クラ─ク博士から聖なる点火を受けた。
消えることのない神の言葉。死者までよみがえらせたエリアの力は、人間的な情熱でなくて、神から来た。神の言葉がどれくらい人に根付くかによって、燃え方が変ってくる。人間の言葉と神の言葉がある。日本人は殆んど気付いていないが、永遠に燃える神の言葉の強力さ。
エリアの根元には、神から来る火のような力があった。間違った王や、正しいことからあまりにもかけ離れた者たちに裁きを与えた。エリアは死ぬ時も火に包まれて天にあげられた唯一の人。死んで終りではなかったのである。
新約になり、このような火のような神の言葉が、求めたら与えられるようになった。使徒言行録2・1~には、祈っていたら炎のような舌となって、神の言葉が、聖なる霊がくだったとある。どんな時代でも燃やされた人がいた。わたしたちも求めたら与えられる。心燃やす神の言葉。
・ 内村鑑三所感集から。キリストが永遠に燃え輝いている。キリスト、それは火のような言葉でもある。


三月二四日(火) 移動夕拝 いのちのさと 黙示録一章 一三名
 黙示録の最初にまずキリストがどういうお方であるかという事が書いてある。「私たちを愛し、ご自分の血によって罪から解放してくださった方に・・」イエス・キリストが私たちを愛して下さったという事がすべてを包んでいる。人間からは愛して貰えなかった人でもキリストが愛して下さる。ご自分が死んでまで、人々の心の奥の根本問題の罪から解放してくださった。キリスト・イエスの支配してくださる王国の民である私たちが悪の力を受けないで支配する力を下さった。キリストにつく者はキリストと同じ力を与えられる。そのお方は時が来たら、雲に乗って(力のシンボル)神の力を持って来る。悔い改めない人は、再び来るキリストによって裁かれる。アルファでありオメガであり、今おられ、かつておられるのは神の事であり、イエス・キリストは永遠の昔から神と同時に存在している。そのキリストは今も私たちを愛し、求めに応じて下さる。この世のあらゆる問題の解決の為に、やがて来られる。黙示録の啓示は、迫害され、艱難辛苦の中忍耐をし、パトモス島にいたとき、主の日に祈りを深めている時、啓示を受けた。ヨハネの示されたキリストは力強い声を持ち、金の帯をしていて、髪は雪のように白く、炎のような目、顔は太陽のように輝いているという、汚れがなく、悪を見つめ見抜き燃やし、光で照らし剣で裁く多様な性質を持つ完全なお姿であった。一度は死んだが世々限りなく生きて今も生きているキリスト。そのキリストに私たちは従っていく。ヨハネの黙示録はそのイエス・キリストから啓示を受けて書かれた内容。


三月二十五日(水)水曜集会 一テサロニケ三章1~10
二千年前の、霊的にいちばん生き生きとしていたキリスト者の心の世界、またその人間関係のあり方を、パウロの手紙によってうかがい知ることができる。
クリスチャンの交わりは、人間的な感情とはちがう。テサロニケの信徒に会いたいというのも神様への繋がりを深めたいから。互いに信仰がより強く、純粋になるように補い合いたいからである。祈りを込めてテモテを派遣したのも単なる交流のためではない。 苦難や動揺によって信仰から離れてしまう人もいる。だから出かけていく。苦しいことがあってもそれに打ち倒されないようにするのが交流の務めである。
だがテモテが行くことによって、信徒たちが苦難の中で、しっかりと主に結ばれていることがわかった。真実に、愛と信仰によって歩んでいるということを知り、自分にも新しい命が湧いてくると言っている。深い相互の関係。霊的なものを他者に与えたいと昼も夜も祈っているパウロにはこれ以上の喜びはない。人間の愛はむりやり奪おうとするが、主にある愛は、神の賜物を与えあいたいと願う。わたしたちも、聖書に触れてこのような限りなく高い人間関係を知らされる。
新聞、雑誌などは、こんなふうな喜びは知らない。福音書そのものが喜びだ。マタイ二章10に、学者たちはその星を見て喜びにあふれた(かれらは大きな喜びを非常に喜んだー原文の直訳)とあり、キリストへの道を示されて非常に喜んだことが書かれている。パウロは何としてもその喜びを伝えたかった。人が神様に心を向ける喜び、それによって自分も喜ぶ。互いに反射しあう。祈り祈られる。こういう思いを起させるのもキリストが働いてくださるからである。キリストが働いてくださると生き生きとした人間関係ができる。


三月二九日(日) 主日礼拝 ルカ福音書二三章625
 ピラトの尋問を受けた時に、主イエスは何も答えなかったということが書いてあるが、マタイの福音書では「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と、ピラトは非常に不思議に思ったと書いてある。旧約聖書に書かれている事がここに実現している。イザヤ書五三章七節。「彼は口を開かなかった」。この預言は、イエスが現れるより五五〇年ほども前だとされているなのに、まったくイエスの事をそのままに預言している。ヘロデは自分の兵士達と一緒に侮辱したり嘲り、派手な服を着せて送り返した。バラバを赦すかイエスを赦すかという民衆への問いに皆がバラバ(暴動・殺人罪)を選んだ。イエスは殺人者よりもさらに下に踏みつけられた。人にさげすまれ、踏みつけられ嘲られ、そういうところをただ一人主イエスは通っていかれた。イザヤ書九章五節では「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた。その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君。」とあり、主イエスは権威ある王として君臨するメシアとされている。しかし同じイザヤ書に嘲られて悪人として葬られるという側面も書かれている。無数の人の罪を背負って死ぬ。その道を行くという固い決意を与えられて歩んでいる姿。そんな中でも意外な人がイエスの力を理解した。ここではピラト。指導者や民衆が寄ってたかって言う中「この人は死刑に当たることは何もしていない。何の悪いこともない。イエスは罪がない。」と重ねて言った。また、十字架の場面ではローマの百人隊長が「本当にこの人は正しい人だった」と受け取った。この後信仰が地中海を取り巻く広大なローマ帝国に浸透していったということの象徴的な出来事。イエスを信じるものはイエスと一つになる。イエスに起こったことはわたし達にも起こる。わたし達も福音のために苦しい目に遭うことがあっても高いところに引き上げてくださる。


○四月一日(水)水曜集会 詩篇一二八篇
主を信じ、畏れ敬う人は祝福される。働いたことがみな豊かな食物や必要なものとなる。現代の霊的な意味では主イエスが言われたように、神の言葉が霊的なパン(マタイ四章4)であり、イエス様ご自身が命のパン(ヨハネ六章51)である。わたしたちが神様のために何かをするとき、生きたイエス様がわたしたちの中に入ってくださる。だがそれをどういう気持でするかは大切なことである。金、地位を獲得するためや、まわりに認めてもらうためにする心には平安がない。だが利得に関係なく、神様のためにすると霊的食物が与えられていく。
神様の祝福はまわりにも流れる。ぶどうの木は豊かさの象徴。主イエスにつながっていたら実を結ぶ。
エルサレムに、そして皆に祝福が及ぶように。いかに幸いなことか(アシュレー!)、主の道を行く人は苦しみの中にも幸いがある.


○四月一日(水)水曜集会 詩篇一二八篇
主を信じ、畏れ敬う人は祝福される。働いたことがみな豊かな食物や必要なものとなる。霊的な意味では主イエスが言われたように、神の言葉が霊的なパン(マタイ四章4)であり、イエス様ご自身が命のパン(ヨハネ六章51)である。わたしたちが神様のために何かをするとき、生きたイエス様がわたしたちの中に入ってくださる。だがそれをどういう気持でするかは大切なことである。金、地位を獲得するためや、まわりに認めてもらうためにする心には平安がない。だが利得に関係なく、神様のためにすると霊的食物が与えられていく。
神様の祝福はまわりにも流れる。ぶどうの木は豊かさの象徴。主イエスにつながっていたら実を結ぶ。
エルサレムに、そして皆に祝福が及ぶように。いかに幸いなことか(アシュレー!)、主の道を行く人は苦しみの中にも幸いがある.


四月五日(日)主日礼拝 出エジプト三十三章
乳と密の流れる土地を与えるという約束。それは神様の祝福を表わしている。霊的に言えば、神様の言葉は今でもわたしたちにとって霊的な栄養食であり蜜のようにスイート。この世は砂漠のようなものだが、神の国にあるもの、また神の言葉は心にいちばん深くぴったり入るという意味合いがある。
神様は、民のかたくなさのために一緒に行かない、行けばそのかたくなさのために民を滅ぼしてしまうだろうと言われた。悲しんだ民は身につけた飾りをみな外したと書かれている。神が共に行ってくれないという苦しい体験。だがそれを経て、自分の心にある悪い飾りのようなものを初めて捨てることができる。苦しいことを通って神の国に行くのだ。
臨在の幕屋で、神はモーセと顔と顔を合わせ友のように話された。神様の顔を見たら滅ぼされると言われていた旧約ではめずらしい。神とモーセの緊密な関係。これが新約時代になり、求めたらイエス様がわたしたちの内にも来てくださることの予告であった。
モーセは祈った。「もしあなたが行ってくださらないのなら、(約束の地に)上らせないでください」と。神が共に行ってくださらなければどこにも行かない、また正しい道を行けない。自分達だけでは必ず間違った方向に行ってしまう。わたしたちの毎日の生活も同じ。モーセが祈って初めてこの願いが聞かれた。わたしたちも人のために祈ることができる。神様のまなざしのなかに恵みを見いだすことができる。
神の栄光とは、神様の素晴らしい働き。悪いことばかりの世の中で、この栄光がわかったら益々神への確信が強まる。モーセが願ったのは栄光を示してくださいということだけであったが、答えは「わたしの善い賜を通らせる」ことであり、「主という名を宣言すること」であった。目覚めていたら神様が通らせるよい賜がわかる。目覚めていなければよい賜が通って行ってもわからない。「ヤハウエ(主)」という名(本質)は、ヘブル語の、ハーヤー(存在する)という動詞に由来するとされ、永遠の存在者であるという意味を持っている。これがわかるだけでも神の栄光が伝わって来る。
「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとするものを憐れむ」とある。人間的な栄光なら悪人でもよくわかる。だが神様の栄光がわかるのは憐れみを受けた者だけ、それは一方的な恵みなのだと言おうとしている。
神様を見尽すことはできない。しかし神様が働いたそのあとを人間の一生のうちに、また歴史の中に見ることができる。


(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y
お知らせと報告

○私(吉村 孝雄)が偶数月の第二日曜日に出向いて聖書講話を担当している、神戸市元町駅前の私学会館での集会と、高槻市の那須宅での集会は、第三日曜日(一九日)になります。四月は、第二日曜日がイースターとなったからです。

○森本 麻依子さんは、大阪府吹田市に就職のため移りました。なれない仕事で負担を感じることも多いと思いますが、主の守りを祈ります。
○四月の移動夕拝は、28日(火)吉野川市鴨島町の中川宅です。

○ダンテの神曲の読書会
今月は、第三日曜日に阪神の集会に私が出向くので、読書会はお休みです。五月も第三日曜日が四国集会となっていますので、五月の読書会は、第二日曜日の五月一〇日に行います。

○那須 容平兄・小澤 有加姉 結婚式
三月二九日(日)の午後に行われたお二人の結婚式では、親族、友人、那須さんの高校の生徒さんたちも加わり一五〇人ほどが参加されました。式では、二十分ほど聖書からのメッセージの時間が設定され、聖書の話しは初めてであった参加者が大部分であったと思われますが、主が働いて下さったことを信じて感謝です。
「主が赦して下さったように、あなた方も互いに赦しあいなさい。…(神の)愛を着なさい。この愛こそは、すべてを完全に結びつけるきずなである」という、コロサイ書三章からの言葉によって、十字架による赦しの愛、神の愛を深く受けることこそがあたらしい生活の基となることを語らせていただきました。
混乱と分裂に悩まされている現代のこの世においても、それらを真に結びつけるものがあるというこのみ言葉は、参列者すべてに対しても語られている神からのメッセージだと言えます。 式後には五十分ほどをとっての、結婚した二人と参加者との自由な交流の時間、その後の感謝祝会では、参加者がグループごとにそれぞれ前に出て、その代表者が何らかのコメントをして参加者のほとんどがよく顔が見えるようになされていたこと、 プロジェクターを用いて、幼いときからの二人のこと、両親・親族や友人たちとの関わりが多くの写真を用いて映し出され、お二人をとりまく人たちがどういう人たちであるか、またどんな思いをもって参加されているか、それらの人たちへのお二人の思いもまたよく分かるようにこまやかな工夫がなされていました。
主がともにいて下さってお二人の前途が祝福され、導かれ、御国のために働くことができますようにと祈ります。