集会だより 200912月号 354


聖き御子よ、今しも我らに降りたまえ。心をきよめ、
宮となして、今よりときわに 住まいたまえ (
讃美歌一一五より)



一一月五日(木曜日)いのちのさと集会 詩編五八 
 この詩は激しい言葉で悪や不正に対して述べられており他にはない独自の表現がされている。神が、不正に対していかに強い気持ちで対処しようとされているか、その気持ちが、詩人に反映していると言えよう。詩編も神の言葉であり、作者は神のそうしたご意志(言葉)を聞き取って表現したと言える。
悪に捕らわれた人は母の胎にある時から悪を持っておりそれは蛇の毒のような強烈な毒であるという。これは悪の根源的な根深さがこのような表現で現されているのである。
そのような人は良い事を言っても言ってもそれに全く反応しない。私達の周りにも不可解な悪の働きを見る事がある。気をつけないとその毒に倒されてしまう。この作者は、「毒蛇の毒を抜いて下さい。」「悪の力が溶け去るように」と神に祈っている。この切実な願いが独自な表現を生みだした。主イエス様が徹夜で祈られたのもこの事であった。そして主イエスは私達に悪人の為に祈れと言われた。11節では、神に逆らえば裁かれるが神に従う人は必ず実を結ぶ事が言われている。悪の力はある時まで強そうに見えてももみ殻のように吹き飛ばされる。どんなに苦しい事が起こっても私達は主に覚えられている。聖書全体を貫く基本方針がこの詩編でも基調となっている。
一一月一〇日(火)夕拝 イザヤ書五章 参加一一名
 イスラエルの民がぶどう畑に譬えられている。神様はぶどう畑を愛を持って作られた。良いぶどうを植えて至れり尽くせりした。しかし、イスラエルの民は神の言葉にキリストに聞き従わず、その罪のゆえに外国が攻めてきて血を流すような戦乱が起こった。神様はイスラエルの民が正義に従って生きる事を願っていたのに流血と混乱が生じた。イスラエルの為に神様は精一杯良い事をしたのに酸っぱい実を結んだ。その結果としてイスラエルに裁きが起こる。この問題は創世記の初めからあった。神様が素晴らしい園を与えて下さり、何不自由ないようにしてくださったのに、闇の力が近づき、簡単に道を外れた。新約でも、主イエスが一二人を選んで精一杯愛したのに、ユダはお金で主イエスを売り渡した。このようにせっかくの神の愛を踏みにじると裁かれる。しかし不思議と遺された者がいた。そして残された者が今の私達につながっている。この五章の記事は新約のマタイ福音書二一章の三三節の「ぶどう園と農夫のたとえ」につながっている。ここでも主人(神様)が農夫の為に垣を巡らしお膳立てをし愛したのに農夫は主人の息子(主イエス様)を殺してしまった事が書かれている。イザヤ五章の記事がずっと先まで続いているように聖書は千年、二千年先の事を見抜いて、その事が起こっていく。聖書の真理は永遠である。


十一月十一日(水)水曜集会 詩篇百四十篇
詩篇は、本当に苦しんでいないとわからない。真剣な状態ではじめてわかる。生きるか死ぬか、歴史の上でそのようなことがたくさんあった。同じ状況にある多くの人がこの詩篇に慰めと励ましを受けてきた。
「マムシの毒が唇に」とある。言葉は心が外に出たもの。心に毒があれば言葉になって出てくる。主イエスは最も清い存在である。しかし、それを妬みから律法学者たちは、神を汚すと言って一番重い罪を担わせた。この世にはいろんなことがある。しかし悪の力が取り囲んで迫って来るような中でも「あなたはわたしの神(エーリー アッター)」という短い祈りの言葉で充分である。祈りに難しい言葉はいらない。
(エーリーは、わが神、アッターは、 あなたは という意)
約三千年前のこの詩は人間のありのままの気持を表わしている。悪に対する激しい言葉。だが悪人を滅ぼすのでなく、悪の霊を滅ぼしてください、悪があってもどうでもよいということではない。イエス・キリストが来られたのは、この目に見えない霊的な悪の力を追い出すためであった。滅ぼさるべきは悪の霊である。
最後に、主に従う者は平安をもって祈ることができ、罪赦され清められた人は御前に座ることができるとある。この作者は新約に近い深い示しが与えられていた。 わたしたちにも何が起るかわからない。しかし苦しいときには必ずその叫びを聴いてくださっているという確信と希望を持って歩んでいきたい。
・集会後、参加者で集会だよりを折り、十一月号の「いのちの水」の一部を発送準備しました。


十一月十三日(金)天宝堂集会 マルコ一・3545
 朝早く、まだ暗いうちに、とある。主イエスは朝早くから人のいない砂漠のようなところにわざわざ行かれた。何のためであったか。この直前には、主イエスが悪霊を追い出した記事が書かれている。主イエスには悪霊、悪の力を追い出す力があった。その力を受けるために一番必要とされたのは、祈りである。絶えざる神との交わりがなければ、力は与えられない。朝早くまだ暗いうちから主イエスは祈られ、力を受けられ、そして人を苦しめる悪の霊を追い出されたのである。
 このとき、らい病の人が主イエスの所に来た。らい病の人は、悲惨な病状に加えて、宗教的にも汚れているとされ、地域社会から隔離されていた。このらい病の人が、主イエスこそが、その病を癒してくれると感じた。治ることのない病であっても主イエスの御心であれば癒してくれるという確信があった。
 主イエスは、その人の深い苦しみを見られ、憐れまれた。そしてその人に触れられた。この時代、らい病の人には触れてはいけない、触れたら自分も汚れる、と言われていた。しかし主イエスだけは手をさしのべて触れられ、癒されたのであった。
 これは、このらい病の人にだけ起こったことではない。誰も触れられないような病んだ心、罪を犯した心にも、主イエスだけは来てくださり、触れてくださる、ということなのである。
「よろしい、清くなれ」その主イエスの言葉によって、この人は癒された。
 どちらを見ても悪の支配があるような現実の中で、わたしたちも悪の力を追い出していただく必要がある。社会の組織からも、また自分自身の内側からも主イエスによって悪の霊を追い出していただきたい。そして、闇の力による苦しみに手を触れていただき「清くなれ」と言っていただきたい。主イエスに触れていただくことによって人は清められ癒されるのである。


十一月十五日(日)主日礼拝 ヘブル六1320  28
 神はアブラハムに対して約束をされた。それは、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やす」ということであった。アブラハムは信じて待った。そして、この約束のとおりにアブラハムの信仰の霊的な子孫は全世界に広がっていった。神は約束されたことを実行される。ここに、希望がある。
 わたしたちは主イエスに希望をつなぐ。そのために世にありながら世を逃れ、主イエスのもとに行く。神は約束のとおりに神の国の善きものを与えてくださる。復活。永遠の命。それらは必ず実現する。だから希望は、魂の錨となって揺るがないようにわたしたちを守ってくれる。
 希望がなければ揺れ動く。最終的に人は死んでいくが、その後に希望がなければ絶望が待っている。死んでも実現する希望が与えられている者は、様々な苦しみなどで、一時的に動揺しても、心に錨があるために、また安定してくることができる。
 希望こそが錨であり、動かない。神こそわが岩、と言われていることである。人生の海には絶えず嵐が吹いてくる。わたしたちは錨なしでは進んでいくことはできない。キリストの錨があれば、嵐の中でも揺らぐことはないのである。


十一月十六日 北島集会 列王記(上)十一章
ソロモンの記事の最後の章。この書からイスラエルの大きな傾きが始まり、やがて分裂を招く。
油そそがれてイスラエルの王となったソロモンであったが、晩年になって、多くの外国の女を愛し、その女たちが信じていた唯一の神でないものに向かったことから間違いが始まっていく。このことがイスラエルに大きな災いを招いた。色々な災いの元は、本当の神意外のものを神として大事にすること、これが聖書の視点である。
今のわたしたちにとっても「信仰・希望・愛」は、魂の錨である。これがなければいつも揺れ動くばかりだ。ソロモンも、晩年になってあふれるような物や人間に取り巻かれて油断をし、罪を犯した。何でも多くあれば真剣にならなくともやっていける。ソロモンのこの記事は、詩篇に書かれているような死ぬか生きるかの世界から離れている。
この記事を通して、人間はいかに脆い存在であるかを赤裸々に書いてある。信仰は、晩年になっても最後までわからない。だから主は言われた。心の貧しい者は幸いだ、心に悲しみ苦しみがあれば必死で主を求める。神様助けてください、という祈りが自然と出て来るから。列王記のこの章でソロモンは死に、その子レハブアムが王となる。
十一月二十二日(日)主日礼拝ヘブル書七・121  32
 メルキゼデクとはどういう人物か。突然現れ、その後どうなったかも全く書かれていない。父もなく母もないという不思議な存在として記されている。そしてこのメルキゼデクは旧約聖書の中に、二回しか記されていない。そのひとつが創世記十四章である。アブラムが戦いに勝ったとき、メルキゼデクがアブラムを祝福した。すると、アブラムはすべてのものの十分の一を捧げ、特別な敬意を示した。メルキゼデクが神のごとき方であるとアブラムは直感的に示されたのであった。


十一月十七日、十二月一日 火曜日 夕拝 イザヤ六1~7
 六章になってイザヤの召命が出てくる。普通ならば初めに書くことが多い。イザヤ書一章の初めは、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、」から始まっていた。ユダの人々がいかに神の道から外れているか、そしてユダの民に対する神の裁きを宣言することから始まっていた。預言者の使命は人間に迎合して人間が喜ぶようなことをいうことではなく、神の御心から離れていった人々の心を神に向けることである。「相手がいかに腹を立てようとも神から示されたことを言え。」と、預言者は示された。そのためにエゼキエルは「鉄の額を持て」と。
 ウジヤ王が死んだ年、イザヤは召命を受けた。時間の流れのある時、神によって突然与えられた。(すべての人にある特別な時があるということでもある。)1節「見た」が強調されている。日本語では文の最後に見たとなるので、強調点が曖昧になる。イザヤは特別な体験をした。預言者の中でもこんなにはっきりと神を見たと書いてある預言者はいない。
イザヤと共に代表的な預言者であるエレミヤは主の言葉がわたしに臨んだ。(エレミヤ1の四)
サムエルも「サムエルよ。」と神様が呼びかける声を聞いたし、後の預言者たちもそうだった。
 イザヤは神を見た。畏れ多くて神の表情は書いてないが、神様の衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
 セラフィム(天使)が飛び交い、呼び交わしながら、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と。その賛美の声は非常に大きくて、神殿の入口の敷居の蝶つがいが震える程だった。
ダンテの「神曲」の煉獄篇に次のような記述があるが、このイザヤ書にある大いなる賛美と似通ったものを感じる。
天における賛美の大きさと、それが地上でのこの世の出来事で人々が喜ぶのとはまったくその内容が異なる。
ひとりの魂が苦しみを受けることによって清めをうけ、神の方に向かう時、山が激しく鳴動して「栄光高き所に!」と讃美が聞こえた。たったひとりの魂が清めを受けて神に向かった時には、地上では戦い、憎しみがあろうとも、天の世界では耳をろうする程の大讃美がある。
1~4節の特別な経験をしたイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」と言った。
 聖書の民は自分たちがいつも神さまの正しい道から外れている、背いていると知っていた。神を見るという特別な恵みを与えられたイザヤも「自分は心が汚れている」と深く感じていた。創世記の時代から、そのような例は枚挙にいとまがない。アダムとイヴ、カイン、ノア(ノアは、最初は神に従順に従いはこ船を造り命を守られた。洪水のあと船から出るとまず祭壇を築いたことでわかるように信仰を第一としていた。しかし、そのノアが後に農夫となり、ぶどう酒を飲んで酔い、裸で寝てしまうことになる。)また、バベルの塔のこと等ずっと続いてきた。
 聖書の民以外は、こうした善悪の明確な、かつ厳しい基準を知らなかったし、神に従うことがどのようなことなのか、この信仰の世界を知らなかった。
イザヤは汚れた者が聖なるを見たりすれば滅びると思っていた。自分を正しい道から外れた存在だと思っている。それに対してセラフィムのひとりがイザヤの口に火を触れさせて言った。「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」自分は正しいと思っている間は祝福を与えられない、ということを思わされる。自分を信じることができず、神に助けを求めること、それは自分の心の貧しさを知っているから。
 新約の時代になって、主の十字架を仰ぐだけで、罪の赦しが与えられるようになった。


十一月二九日(日)主日礼拝 ヘブライ 七章2228 参加29
ここで「祭司」という言葉が何度も使われている。一見縁遠いような言葉の奥に何があるか。私たちも学び取る必要がある。
祭司は重要な仕事であった。人間は非常に汚れたもので、いつも神様から離れている。それを再び連れ戻す。これには命という大きな犠牲が必要であり、動物の血によって人々の罪に対する赦し、清めをいただいていた。人々の心の一番奥にある問題を担当していたのが祭司であった。このことを徹底して為す為に土地も貰わなかった。しかし人間としての祭司には限界があった。人間には死があるし、また祭司自身も人間なので、罪の汚れがあるし、サムエル記上にあるように、腐敗した人間が祭司になることも生じる。そこで神は、本当の祭司イエス・キリストを完全な祭司として約束された。
イエスは祭司として、永遠に「とりなし」をしてくださる。人間は常に正しい道から外れていく。そのままにしておくと、ついには滅びてしまう。そうならないように引き戻す。そのためには「罪」という間違ったものを消さねばならない。これを帳消しにしない限りは、立ち返ることはできない。罪を無しにするのが「とりなし」である。「罪」は、根本にある壁として深く関わっている。放っておけば人間はどんどん外れて行って、心が暗くなり、希望もなくなり、自分中心に考えて様々な問題が起る。犯罪もこうした所から起る。そのままでは人は、他人の命を奪えばどんな事がおこるかもわからなくなるほど遠く外れてしまう。
イエス様は、このことをいつも見つめておられて呼びかける。パウロもイエス様にとりなしていただいた。
こうしたとりなしは人間にはできない。「放蕩息子」のところで言われているように、正しい生活をしているようでも、心は神から遠く離れている場合もある。人間は他の人間の見えない心の奥まで正しくさせることはできない。心の奥の奥にある汚れを除いて、正しいところに引き戻すことができるのは大祭司であるイエス様だけ。
「わたしの話した言葉によってあなた方はすでに清くなっている。(ヨハネ福音書1513)」と、イエスの言葉や存在そのものにも清める力がある。み言葉をしっかり持っているならば、人間の様々な汚れた思いも清められる。祈りや賛美の中でも、汚れが清められることがある。しかし人間の言葉には逆に、汚されたり混乱させられてしまうことがある。
ぶどうの木のたとえにあるように、主イエスにつながっていることは、とりなしをいつも受け、たえず清められるということである。清めは、求めれば与えられる。イエスの愛によるとりなしによって、十字架上の犯罪人のように。
救いは信仰による。イエス様だけが別格であるが、信じた人もみな祭司だ。悪に対して負けない力を与えられている。


・二〇一〇年の四国集会について
集会後、パンと紅茶のあと、来年5月十五(土)~十六日(日)の、徳島市で開催のキリスト教・無教会四国集会についての話し合いをしました。テーマの他に部分的に決まったことは、次ぎのようなことです。
テーマは、集会員のアンケートの結果を取り入れて、「主を仰ぐキリスト者の交わり」として、主を仰ぎつつなされる、相互の交わりを主題として、そのテーマにそった聖書講話、また内容を考えていくことになりました。
第一日の十五日(土)の午後一時開会。夜は、前回と同様に、青年の集会とすること、二日目は、日曜日午後四時までとし、その日も会場に宿泊される方は、去年の徳島での全国集会のように、私たちの徳島聖書キリスト集会場にての、交流会を持つことになりました。
それから、参加者全員による自己紹介も、一人三十秒(参加者数によっては、もう少し長くすることもありえますが)という短時間ですることになっています。これは、本来は、全盲、あるいは強度の障害者が五~六人を越える参加者があるので、その方々には、参加者名簿が見えない上に、どんな人が参加しているのか全く分からないので、せめて一人一人声を出してご自分の名前と府県名を言って、その声で参加者のことを少しでも感じとっていただくためなのです。それだけではやはりあまりにも情報が少ないので、三十秒という時間であっても、自分の最も言いたいことは言えるので、そのように企画したのです。 去年の徳島での、無教会のキリスト教全国集会では、二百人以上の参加者があったのですが、司会者の適切な運営により、一人三十秒の時間厳守をして、きちんと予定時間内に自己紹介を終えたのでした。
また、土曜日夜は、自由参加の賛美のひととき、とすることもきまりましだ。これは、今年の愛媛県での四国集会のときに、初めて取り入れられ、主への賛美が自由な形でなされてよかったと希望する方々が多かったからです。
次回の話し合いは、十二月二十七日(日)の礼拝終了後です。


十二月二日 水曜集会  ヨハネ黙示録一・15
 「黙示」とは何か。原語ではアポカリュプシス「覆いを取る」という意味である。この世では閉じられている真理が神によって開かれた。神によって隠されていた覆いが取り外されたのである。時代はローマ帝国、迫害の初期の時代、一世紀後半と考えられる。
 預言のことばを朗読する人は幸い、とある。この時代、ほとんどの人が文字も読めなかった。聖書を読む人は、聖書についてよく知ったうえで人々に語るという重要な役目を担っていた。そして、それを聞く人もまた神の言葉を心に抱いて生きていくことが示されている。
 今おられ、かつておられ、やがて来られる方。これは神のことである。そして、玉座の前におられる七つの霊、これは聖霊である。そしてイエス・キリスト。ここに三位一体の神が記されている。
 この迫害の時代、ローマ帝国の権威は強力であった。しかし、霊の目で見れば、それらの地上の王をも支配している王の中の王がイエス・キリストである。迫害の時代こそ、この信仰が必要であった。


十二月七日 北島集会 列王記(上)12
国家の分裂のきっかけが記されている。ソロモンの死後、その子レハブアムを王をとして立てるため集まっている所にヤロブアムもやってきた。彼はソロモンに反旗をひるがえし、逃げていたが、王を立てるため集まっているというので帰って来た。彼は人心をつかむことに長けた実力者。レハブアムにこう言った。「あなたの父上が負わせた苛酷なくびきを軽くしてください。そうすればあなたに仕えます」と。レハブアムは長老たちの「彼らに仕え、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはず」との勧めを捨て、自分と同年代の若者が言う全く正反対の間違ったものに従った。この間違った選択が、後に起る長い分裂につながった。
この二つの道があるとき、祈ることもしないで選択すると大きな分裂のきっかけとなる。信仰を持って祈ってしない場合、人間的な自分の感情や、周りの人間の声、また風潮に押し流されてしまう。国家社会でも、本当に真実な神様に従う姿勢があるのかどうかが問われる。
仕えるとは、言うなりになることでなく、相手にいちばんよいものを提供すること。イエス・キリストがそうであった。「偉い人が権力を振るっている。しかし偉くなりたい人は皆に仕える者になりなさい(マタイ2026)」。人間は子供の時から支配したいという感情がある。だがキリストに従う者はそうであってはならない。これは単なる過去のお話ではない。二つの道が常にわたしたちの前にもある。神様に続く道と、神様から離れて行く道と、ふたつ。・植物の学びはコナラ、クリ、クヌギ、トサミズキ、イヌビワ、ヤマハゼ、タンキリマメ、サネカズラ、ダンチクなど。


十二月六日 主日礼拝 サムエル記(上)一章1~11 参加27
サムエル記の第一回目。サムエルは預言者の名。サムエル記(下)の方は、すべてダビデのことが書かれている。しかしダビデが王となっていく出発点において、サムエルは重要な役割を果たした。
出発点はごく普通の夫婦。エルカナには二人の妻がいたが、その一人であるハンナには子供が生まれなかった。当時、働き手である子供がなければその家は終ってしまう。子供のある方のペニナは、ハンナを敵視し、子のない弱みを突いて苦しめた。
社会的に力も権威もない所から、大きなことが出発する。この後に興るダビデはキリストのモデルとなり、王という意味でも、「王のなかの王」と言われるキリストにつながっていく。神様が何かを起そうとすれば、どこにでもあるようなものを用いて始められる。ここではハンナの苦しみ悲しみを用いられた。神様は、わたしたちが決して受取りたくない病気や、他の苦しみ悩みを出発点として大きな事をされる。わたしたちの人生の上でも、このことが当てはまる。しかし神様が愛であれば、目的もなしに悪いことをされるはずはない。
ハンナは自分の悲しみ苦しみを神様に委ねた。相手を憎んだり仕返しをしたりしたのではなかった。ここに非常な分かれ目があった。もうひとつは、この大きなことが始まるところにハンナの真剣な祈りがあった。こうした祈りがなければ当然、憎しみと分裂が起り、更に悪くなる。ペニナからのいわれのない憎しみやいじめに対し、それを夫エルカナにも告げず、ひたすら自分の苦しみを胸に納め、祈りでもって神に注ぎ出したのである。
ハンナは祈った。もし自分に子供ができたら、その子供をささげます、と。この神にささげるという心に祝福がある。ふつうは病気や人間関係など様々な問題が解決されたとしても、多くの場合、よくなったらそれを神の国のために、神さまにささげようという気持はほとんどないであろう。祈りが浅ければ、自分のものにしたいと願う心が、祈りが深ければ、神様にささげます、と祈る。誰でも、たとえ小さくとも色んな与えられたものを神様におささげします、という気持で使っていくところに祝福がある。


お知らせ
・今月の移動夕拝は、十二月十五日(火)で、中川 啓・春美ご夫妻宅です。二十二日(火)の夕拝はキャロリングが二十四日にあるために、休会、二十九日(火)は、第五火曜日で休会なので、十二月の夕拝は十五日が最後です。


十二月二四日(木)キャロリング 午後六時三十分に、徳島市南田宮の徳島聖書キリスト集会場に集合です。


来年一月一日(金)の、午前六時三十分より、例年と同様に、集会場にて、元旦礼拝を行います。参加可能な方は、共に参加して一年の出発を主への礼拝によって始めましょう。


「野の花」文集は、一月発行予定です。


クリスマス特別集会は、二十日(日)の午前十時からの開始です。いつもの礼拝は十時三十分からですので、間違わないようにしてください。


水曜集会は、旧約聖書(詩篇)と、新約聖書を隔週交代で学んでおり、黙示録を十二月二日から学び始めています。詩篇は、二〇〇三年三月一二日から学びを始め、現在は、詩篇一四〇ままで学んできました。新約はテサロニケ書が終わり、黙示録の学びが一二月二日から始まりました。


毎月第一日曜日は、旧約聖書ですが、出エジプト記の学びが終わったので、十一月から、サムエル記の学びに入りました。
下の写真は、いのちのさと作業所での集会です。後列左から、枝川、石川(光)石川正晴、東条、奥宮、上原、吉村、前列左から、鈴木、中川(春)、貝出、内藤 (二〇〇九年十二月三日の集会)
 
集だより 20099 NO.351


生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。

(ヘブル三章より)


八月三日(月)小羊集会 マタイ二十・2934

 主イエスと弟子たちがエリコを出て行ったとき、大勢の群衆。が従った。そのとき、ふたりの盲人が道ばたに座っていた。これは、物乞いをしていたと思われる。この時代盲人などの障害者は何の保証もなく生活する手立てがなかった。盲人たちの日々の生活の苦しみについては一言も書かれていない。しかし、なすすべのない苦しい生活を強いられていたことを思わされる。
 盲人は主イエスを見て、「ダビデの子よ」と叫んだ。当時の宗教学者は、聞いていても、主イエスが救い主であると信じることはできなかった。しかし、二人の盲人は、主イエスこそが救い主であると信じることができた。
主イエスに従ってきた群衆たちは、まともな人間扱いさえもされていなかった盲人たちの必死の叫びを見ても、その苦しみをわかろうともせずに叱りつけた。しかし、主イエスは群衆の中、騒然とした中であっても、盲人の声を聞き届け、立ち止まり、見つめて声をかけてくださった。主イエスは決して素通りされることはない。切に祈り叫ぶとき、どのような所にも来てくださる。特に、苦しいところ、弱いところに来てくださり、どんなに大勢の群衆の中からでもその叫びの声を聞き届けてくださるのである。
 「主よ憐れんでください。」この祈りは信じる者には誰でもできる。群衆に叱られ阻止されても、止めることをせず、ますます声をあげて盲人は叫んだ。主イエスへの叫びを阻む力はいつも働く。しかし、主イエスは聞いてくださっている。決してあきらめないで叫び続けるとき、必ず主イエスは来てくださるのである。
 主イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は見えるようになりたいと願っていたからそのように言った。主イエスにはっきりと、また、あきらめないで訴えることを示している。そして主イエスはそれを聞いて、深く憐れんでくださった。わたしたちのこころからの叫びを主イエスは聞いてくださり苦しみを知ってくださるのである。
 主イエスは盲人の目に触れられた。盲人の目は開かれた。これは、この癒しの奇跡を通して、霊の目が開かれることが示されている。主イエスの十字架。復活。これも霊の目が開かれてはじめてわかる。そして、霊の目が開かれた人は、主イエスに従おうとするのである。
 主イエスは決して叫び求める人を捨てない。苦しいから神がいないと思ってしまうのか。それとも、苦しみから主イエスに求めて行くのか。苦しみの中から必死に切実に、神に求めて行くとき、神は必ず応えてくださる。


八月三日(月) 北島集会 列王記(上)三章1628

遊女という特殊な事情の女が二人、同じ時期に赤ん坊を産んだ。まもなくどちらかの子どもが死んだ。二人は残った一人を取り合って、互いに自分こそが本当の母親だと言って仲裁を申し出てきた。証拠はない。それに対するソロモン王の裁きはどうであったか。
王は剣を持って来させ、生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよと命じた。自分の子どもが殺されてしまうよりは、と、手を引いて相手に譲ろうとした本当の母親。王は、本当の愛によって決着をつけようとした。どちらが本当の愛を持っているのかという観点。これはソロモンが、神様から英知をいただいていたことの一つの現われである。
わたしたちも、人間関係、また事件、災害、空や草花、一見何も感じられないような中にも、常に神様の愛と結び付けて考える。これも神様の愛の現われなのだと。苦しいことも、喜ばしいことも、神様からの愛をもらって対処する。ここに書いてあるのは国家間の大きな問題ではないが、ちいさなことのなかに、何を以て解決すればよいかについて書かれていて、これが全ての根底にある。わたしたちも神様の愛をいただいていれば実際に生活に生かせる・植物は、ホラシノブ、ハルノノゲシ、ヤブラン他。


八月五日(水) 水曜集会 詩篇百三十四篇

百二十篇から始まる「都に上る歌」の最後。
苦しみの中から主を呼ぶ。すると主は答えてくださった。敵対するものの鋭い攻撃のなかから叫んだら、主が救ってくださった。だから主の宮に行き、礼拝し、力を受け、また信仰を新にする。祭司も集まった人も、共に主を賛美しよう。主からの賜物を受けたときには自然に、光が鏡に反射するように賛美が生まれる。
手をあげて賛美すると心も主に向かう。その賛美がまた別の人たちに反射する。神様を賛美するという事は神様から受けたものを、また別の人に反射するということである。この短い個所は賛美ということを圧縮している。・植物、オニグルミ。


八月六日(木)いのちのさと集会 詩編五二編

 最初に「力ある者よ、なぜ悪い事をして誇っているのか」と書かれている。悪い事をする人も力を持っている。相手の精神に打撃を与える力。言葉で人間は痛めつけられる。悪意のある言葉によって破滅させられる。7節に「どんな強い力も神がおられるので打ち倒され永久に滅ぼされる」とある。根源的に悪の力を根絶やしにするのは神の力。悪意あるものに囲まれたとき、時が来たら神が打ち倒して下さるのだと意識的に思い起こす事が大切。8節、神の力を知らされた人は冨に依り頼み滅ぼされた人を見て、神を畏れた。そして、時が来たら簡単に悪を滅ぼしてくださる神の力を信じて動かされないようになる。10節以降はこの人の新しい生活。私は生い茂るオリーブの木だと書かれている。悪の力に引っかかっていたら生い茂る事ができない。神の家に留まると自然に生い茂る事ができる。また、永遠に神の慈しみにより頼むと書かれてあり、神ご自身が希望であり神の慈しみに希望を置く者は益々恵み深くされる。敵は神の力を滅ぼそうと躍起になるが、神はそれを一笑にふされる。敵には限界がある、必ず討ち滅ぼされる。そして私たちは流れのほとりに植えられた木のようになる。この詩編は日々この世の悪が打ち砕かれる確信の詩である。


八月九日 主日礼拝 ヘブライ書二章5~10

参加者十名(この日は、京都で近畿地区無教会キリスト教集会に、私たちの集会からも二十名が参加し、徳島では、残った人たちであらかじめ準備されていた録音を用いて主日礼拝がなされました。)
神は世界を、天使にではなくキリストに従わせるようにした。「あなたが心に留められる人間とは何者なのか(詩篇8篇)」。神様が心に留めてくださる人間、だがその人間がなぜ大きな罪を犯してしまったのか。パウロは「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に到るか、神に従順に仕える奴隷となって義(救い)に到るか、どちらかだ(ローマ6章15)」と言っている。すべての人間はこの二つのうちのどちらかに入る。罪の奴隷となるか、神の奴隷となるか。
罪の奴隷とは、闇の力に支配されているものである。だがイエス・キリストが来て、それを根本からひっくり返した。大いなる逆転。一人の人間についても、今まで悪の力が踏みつけていたものを、キリストが根本から打ち砕いて捨ててくださった。、それによって、わたしたちも罪の力を踏むことができるようになった。イエス・キリストにかたく結びついているなら、わたしたちもそのままそれを為すことができるようになる。
キリストの使命とは、悪の力を踏みつけ、すべてのものを従わせること。十字架による死の苦しみもすべての人の救いのためであった。万物の目標であり、源である神は、苦しみを通してイエスを完全な者とされ、全世界の人の救いの創始者とされた。それは神に相応しいものであった。わたしたちも、よりよきものになされるために、他の何でもなく、苦しみを与えられることによって完全なものとされる。また神様を本当に信じているかどうか、魂の苦しみに出会ったときに初めてはっきりする。
万物の目標であり、あらゆるよきものの源である神(イエス・キリスト)。どんな時も、それに向かって進む。
・近畿集会の留守を守る主日礼拝。途中から豪雨。徳島に洪水警報の出ている中、無事の帰宅を、近畿集会に参加のかた帰りの足のお守りをともに祈りました。


八月一一日(火)夕拝 哀歌四章 参加十名

ユダは特別に価値あるものとして選ばれたのに、その輝きを失って見捨てられた。そして汚れて壊れやすい土の器にされてしまった。最高から最低まで堕ちていった。背き続ける最低まで堕ちる。ソドムは神に裁かれて滅びた町であるが、そのソドムよりも重い罪を犯したと作者の罪の認識が深い。ナジル人は特別に聖別された人であり、雪より白く真珠のように輝いていたが、すすより黒く枯れた木のようになってしまった。私たちも自己中心の生活によって土の器であり枯れた木のようになっている。けれども、エゼキエル書では、非常に枯れた骨が神からの霊を吹き込まれると、甦って生きたものになった事が書かれている。ユダヤ人は苦しい運命によって徹底的に枯れた。しかし、これで終わるのではなかった。22節に「しかし、悪事の赦される時が来る。復興する時が来る。」とユダがどんなに罪を犯しても再び光が臨む時があることが示されている。この世は闇ばかりに見えるが、この箇所にもあるように聖書は光を強調している。神の恵みがまだ受けとれない暗黒の中で先にユダの人々が復活する事が告げられた。そして、悔い改めによってどんな民族も罪が赦される事が示されている。新約では、再び罪の奴隷になることはないと書かれている。


八月十六日(日)主日礼拝 ヘブライ書二・1018  32

 主イエスは信じる人を栄光に導くとある。主イエスを見上げるだけで、栄光へと導いてくださるのである。それはどのような方法によってか。主イエスの苦しみによってである。もっとも重い刑である十字架によって主イエスは苦しみを受けられて、人を救おうとされた。主イエスは武力のような大きな力で悪と戦ったのではない。自分が殺されるような仕方で戦われたのであった。弟子たちでさえ、そんな方法はだめだ、殺されるなんて言ってはいけないと、主イエスに言った記述が他の箇所に記されている。
 主イエスの苦しみを通して人間を救う。これが神の考えであった。愛するひとり子、そして完全な神の力のある主イエスをあえて苦しめて、人を救う。人間では考えつかないことである。
 神は万物の目標であり根源である。神の目標として世界が作られているのである。「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとにひとつにまとめられている。天にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(エペソ一・11)とある。
 神が法則を作られ、御支配されており、すべての源、すべての法則は神にある。その神がキリストをこの世と分かたれた者とされ、そして、キリストを信じた者も、この世と分かたれた者としてくださるのである。
 キリストは人間をはるかに越えた方であるのに、信じる者を兄弟と言ってくださる。どうしようもない人間の弱いところまで、低く降りてきてくださる。そして、死を支配する悪の力を自分の死によって滅ぼしてくださるのである。
 死ということは怖いとされる。死の後、闇の中に入っていくように思われており、また裁かれるという恐れもある。それを本能的に感じている。そのような死後の闇の根源、罪の根源を、身代わりに主イエスが担ってくださった。死後の恐怖、裁きの恐怖から救ってくださったのである。
 主イエスは、どこまでも低いところまで、降りてきてくださった。出発点から、主イエスがうまれたのは家畜小屋だった。そして罪なき主イエスが罪がある人のように低なって洗礼を受けられた。最後には、もっとも重い罪人として死なれた。主イエスが低く降りてこられ、苦しまれたから、あらゆる試練をうけているひとを助けることができた。わたしたちも、その主イエスによって、少しでも低いところに降りていき、他者を助けていくことができるのである。


八月十七日 北島集会 列王記四章~五章14

ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように数が多かったとある。海辺の砂という表現は、主が、子のないアブラハムに、あなたの子孫が天の星のごとくなる(創世記15章5)と言った詩的な表現が最初。子孫とは、信仰的な子孫。それがみ言葉をもらって無数に光る。そのように増えるということ。現実にそうなった。
アブラハムは主が言われるとおり、やっと主からいただいた子どもまでささげようとした。そこまで神様の言葉に忠実であろうとした。人間が考えてできないようなことも神様ならできる、きっと道を備えてくださると信じていたからできた。神を信じ、神様のためと思ってすると「主の山に備えあり」という言葉が今日まで残ったように、不思議な備えがある。これは無数の人が経験してきた。神を信じる人に偶然はない。わたしたちも、行動では正しいことばかりできないが、心から信じることでよしとされる。主はそのようなアブラハムを祝福されて「子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう(創世記2217)」と約束された。祝福の基は、ただ主の声に聞き従ったこと。
ソロモンもまた祝福を受けた人であり、非常に広い地域の支配権を持つようになった。食糧も豊かで、平和であった。多方面に秀でており、聖書にも「箴言」「雅歌」などある。
祝福について新約では「種まく人のたとえ(マルコ4)」で不思議な増え方をすることが、祝福のシンボルとして言われている。神の祝福の力の大きさ。この世の、どんな潰そうとする力にも打ち勝つ。


八月二〇日(木)いのちさと集会 詩編五三

 この詩の内容は、個人の悩みや苦しみでなく世界全体に悪が蔓延している社会的な状況。人々は神などないという。この考え方は、腐敗をする根本原因。神がいないということは完全な真実や愛がないという事。ないものに向かって努力しても仕方がない。悪いことを罰する神もいない。 イスラエルの指導者たちは、多くの人に対して人々を神様に連れて行くのでなく民から多くのものを奪い取る。提供するのが本当の指導者であるのに逆に奪い取る。主イエス様も神殿の境内で売り買いする人に「強盗の巣」と言われた。宗教を利用して何か奪い取る傾向を糾弾された。ここでも、人々はみな腐敗している。悪が蔓延して巻き込まれて何も起こらないのでなく必ず裁きがある。神様の真実や正義を踏みにじり裁きなどないと思い上がっていたら、時が来て裁かれる。作者は悪の蔓延するただ中においてなお神を待っている。この世の現状と裁き。イスラエルの救いがどうか行われますように。捕らわれ人を連れ帰るときこの民は心から喜ぶ。悪が裁かれイスラエルの民の救いが必ず起こる。聖書の世界に触れないと投げやりになってしまう。切実に救いを求める気持ちがなくなる。この詩編は押し流されないで神を固く信じた人の心が現れており、前途には期待をもって神への愛をもって終わっている。


八月十八日 火曜日 夕拝 哀歌五章

 218 哀歌が書かれた状況が書かれている。先祖から受け継いだ土地は奪われ、住む家も異邦の民にとられ、水や木の実りさえお金を払わないと食べることが出来ない。なぜこうなったのか。 神様は、「バビロンの捕囚となって、生き残る道を選びなさい。」と言われたのに、エジプトやアッスリヤといった大きく見える力に頼ろうとした。これが滅びの原因なのだ。
このような、目先の大きな力に頼ろうとすること、それは現代にもある。先日NHKの「未来の日本を考える」という討論番組で、その一つに核の問題が議論されていた。北朝鮮が危ないので核を持たないといけない、インドとパキスタンは核を持ち紛争が起こらなくなった云々と。こうして世界の国々が核を増やしていったら最終的にどうなるのか、世界は核兵器があふれ、テロリストなどによって用いられる危険性がますます多くなる。日本は先の戦争によって、多くの人を殺し、また殺された。それゆえ、武力という一見力あるものに頼らない精神を新憲法で「戦争放棄」として記した。
16
節~「いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。」敵が悪いと言わないで、私たちが罪を犯したのでこうなったと言っている。19節~「主よ、あなたはとこしえにいまし、代々に続く御座にいます方」現状はあらゆる階級の人々が苦しみを受け、絶望以外ないと思われる状態になっても、主に対する信頼だけは持ち続けた。主はどんなことがあってもおられる!この信頼は揺るがなかった。


八月二四日(月)藍住集会 詩編八七

 シオンの山は神が居られると信じられておりその都の祝福を語っている。ラハブという地名が出てくるが、元々は海の怪獣の名で神に敵対するある勢力。エジプトを象徴的にそう呼ぶ。イザヤ書30の7に「エジプトの力は空しくはかない」と書かれており、神の前には、エジプトのようにどんな強大な国も力も砕かれ散らされる。ここでは、その敵対するラハブやバビロンが贖われて高くされる事が書かれている。「敵の為に祈れ」と主イエスは言われたが、敵対する悪の力が壊されて神を知る者に変えられるという希望がここにはある。ペリシテ、ティルス、クシュという地名が出てくるが、これは広大な領域でティルスは海岸ぶちの栄えていた町。遥か遠くの人達もシオンで生まれた同じ兄弟、姉妹になると言われている。広大な世界の人達が神の都で新しく生まれたという事で、敵対する国々が最終的に良くなるという展望。これはいと高き神ご自身が定められた事で、そこで新しく生まれるように、神を知る人になる。旧約の時代、「敵を滅ぼせ」と言われていた中で、「神によって世界は一つになる」という画期的な事が示された。今、私たちもイエス様によって霊的に新しく生まれた主の民だが、神様の時が来たらすべての人がこうされる。イザヤ書2章に、終わりの日に主の神殿の山は山々の頂きとして固く立ち、どの峰よりも高くそびえ、国々はこぞって大河のようにそこに向かいと書かれている。この世の意見は絶えず変わるが、聖書は何千年たっても変わらない。


八月二十四日(月) 北島集会 列王記五章1532

ソロモンは、主からの守りと平和をいただて敵対するものもなく、ここに至って神の箱を置く神殿を建てようと考えた。18節の「敵対する、反対する(ヘブル語でサータン)」というごく普通の言葉はのちに重要な言葉「サタン」という、神に対立する霊的な存在(悪魔)を意味する言葉となっていった。サタンということについても、聖書の中で意味が深められて行ったのがうかがえる。
神殿とは一番大事な神の言葉を納めたところ。その建設に重要な材料として、ソロモンからレバノン杉の要請を受けたティルスの王は、賃金が入る事などでなく、まず「主がたたえられますように」と言った。神殿を建てる人間ソロモンではなく、主がすばらしい、と。わたしたちも、何かよいことがあっても、まず神様を思い起こす。人間にたいしても感謝をする。が、先ず背後でそれをしてくださった神様に感謝を。どんなことも神様がなにかよいことをしてくださっていると思い、感謝していく。・植物は、アキノノゲシ、セイバンモロコシ、イヌビエなど。


八月十九日(水)水曜集会 詩篇一三五篇

ハレルヤと繰り返されている。 だがどうして主を賛美するのか。当時、世界のどのような文明を持つ人々も知らなかった神様。すべてをご支配なさっている方が、自分たち、わずか少数の民を選んでその存在を知らされた。選ばれた自分達。それゆえ賛美する。もう一つ、その神は天地を創造された神様であり、当時言われていたどんな神々にもまさって雄大にして絶大なるお方。それを思えば賛美せずにはいられなくなる。本当の賛美は、自分のことと同時に、天地を創造された神の素晴らしさ、この両方が感じられる時にできる。
長い時間の中で、生きて働いて導いてくださった。だから今も導いてくださるにちがいない。神様はほんとうに素晴らしい。
人間が、神以外の何かを賛美しても、それらはすぐに消えていくものだ。だが神は永遠に覚えられ、賛美は三千年続いている。聖書の広さ、深さ、大きさ。本当の神でないまちがったもの(偶像)に従えば、その人も同じようになる。自分を偶像とし、一番大事なものとすれば、心の目も口も塞がれ真理が見えず、語ることもできなくなる。 聖書はいつも主を賛美しようと、一貫して言っている。自然のままの人間はそれができない。常に聖書は人間を正しい位置に引き戻そうとする。
・内村鑑三所感集から。人の価値は、今、現在の価値である。過去に善人であっても、今悪人ならかれは悪人、その逆もまた真である。


八月二十一日 天宝堂集会 エペソ書二・七~十

 キリストによって、限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた、とある。しかし、現実は、昔も今も、人間には苦しみがつきまとう。いったいどこに、限りなく豊かな恵みがあるのというのか。しかし、この恵みは確かに存在する。それは、キリストが来てくださるまで、人間にはわからなかった。キリストこそが、大きな恵みを来たらしてくださった。だから、世界に広まっていったのである。
 キリストが世界に広がったのは。来るべき恵みが現されたからであった。それは、罪の赦し、闇の力からの救いである。そして、その恵みは、まず、神から一方的に与えられたことによる。恵みを与えられ、信仰があたえられ、そして、救いに導かれた。恵みが与えられたから、信じることができたのである。信仰は自分の力ではない。神の恵みによるのだ。そのことを、特にロマ書には中心的に書かれている。 行いによっては人は救われない。どんな人にも、ほんとうに善きこと、純粋によきことだけを思うのは、人間にはできない。つまり、人間は自分の力では救われない。
「いまや、律法と関係なく神の義が示された」(ロマ書三・二十一)。行いではなく、イエス・キリストを信じることによって、救いが与えられる。信じただけで、わたしたちを正しいと言ってくださる。神の目から見れば、人は誰もが罪を犯している。しかし、その罪を贖うためにキリストが身代わりになって死んでくださった。それを信じただけで、救いが与えられる。なぜ、信じることができたのか。それも神から与えられたことなのである。救われたのは、ただ安心するためではない。そこから、神が前もって準備してくださった、善き業をするようになるためである。信仰が与えられ、そして、善い行いをするようにと、導かれていく。つまり、キリスト者は、罪をゆるされ、救われて、そして、よきことをするようになるために作られたのである。なすべき善きこと。それは、あたかも偶然に出会ったように思える。しかし、すべて神の導きであり、神が備え、与えてくださったことなのである。人間は、善きことができると、自分の力でしたように思いやすい。しかし、ただ、神が与え、備えてくださった道を歩ませていただく一方的な恵みの道である。
信仰により、まず、罪をゆるしていただく。そして、そこから、神によって導かれて歩いていくことができる。自分の力では全くない。神に与えられた恵みよるのである。
 こころの貧しい者は幸いとある。自分には力はないと自覚し、神によって生かされていると自覚するこころこそ、幸いである。
 「わたしにとって生きるとはキリスト」(ピリピ一・二十一)とある。わたしたちが救われたのもキリストのめぐみ、信じることができるのもキリストのめぐみ。善き業が与えられることもキリストのめぐみである。出発点からキリストで始まる。そういう意味で、いきることはキリストとなるのである。
このことこそ、はじめに記されている「限りなく豊かな恵み」なのである。


八月二十三日(日)主日礼拝 ヘブライ書三章1~6節 29

人間の意見や分析などは力を与えない。しかし神の言葉は力を与える。「イエスのことを思いみよ」という言葉。その関連としてイザヤ4522節に「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ」とある。この「仰ぐ」という言葉は、原語のヘブル語でも、ギリシャ語訳でも「方向を転換する」という言葉。英訳はそれを反映している。Turn to me and you will be saved…。 人間はこの世のこと、自分の罪ばかり見ている。そこは偶像や人間、その欺き、戦争など暗いものばかりしかない。 内村鑑三も、自分の罪で苦しんだ。どうしても自分の中の闇が晴れない。苦しんだあげくアメリカに行ったが、アマースト大学のシーリー総長から「あなたは自分の内ばかり見ている、上を見なさい。主を、十字架を仰ぎなさい」と言われて初めて内村は目が覚めた。このように神の力は、闇のなかにあった者を立ち返らせる。これと、人間の考えや意見、分析とは根本的にちがう。人間の考えをいくら聞いても救いにはつながらない。 ヘブライ書の時代、ここでも、イエスが一番大きいのにモーセが大きい、という考えが続いた。だが「イエスを仰ぎ見よ」この短い一言があれば充分である。詳しい学問がなくても救われる。あの十字架上の犯罪人のように苦しみの中から「主よ」と叫ぶだけで、救われる。
ヘブル書は当時のユダヤ人キリスト者に対する手紙。ユダヤ人はイエスより千年以上も前からモーセこそ神の人だと信じ込んできた。わたしたちにとってはモーセよりイエスが格段にすぐれているというのは、当然として受け取れる。しかし、現代では、また別の形をとって、キリスト者であっても、いつのまにかイエスとは別のものを上に置いていることはよくある。例えば、イエスの言葉より自分の考えの方が上なのだといったことである。 6節の「誇り」とは、日本語のように「自慢する」ことではない。「艱難をも誇る」とパウロがローマ書で言ったと箇所は「艱難をも喜ぶ」という意味を重ねて持っている。主にあるよろこび(希望)を伴った誇りである。1節の「召し」は、神様からの「呼び出し」を受けること。いつも神様はわたしたちを呼んでおられる。星や草花など、自然の様々なもの。呼び出しは、真剣な祈りによっても、賛美(新聖歌 190番 「静けき祈りの」のように)によっても受けることができる。神様の呼び出しは到るところにある。


八月二五日(火)移動夕拝 中川宅 ヨハネ五・1~9 16

 エルサレムにベトサダの池があった。いろいろな病気の人がそこにいた。目の見えない人、足の不自由な人などが横たわっていた。水が動いた時に池に入った人は癒されるという言い伝えがある特殊な場所での出来事。その中でも三八年(人生五〇年の時代人生の終わり近く)ずっと病気で苦しんできた人が居た。主イエス様は最も苦しんでいる人を見つけてくださる。イエス様のこういう具体的な行動で、聖書の神様のご性質が浮かび上がってくる。この人に「良くなりたいか」と聞いた。「良くなりたいが、水に入れてくれる人がいない」と答えた。助け手がいない。主イエス様こそ、助けなき身の助け手。(讃美歌二一・二一八)私たちの病気が重くなったら、一人で耐えていかなければならないが、主イエス様が一番苦しいところにいてくださる。「起き上がれ」エゲイローは「復活する」とも訳される。「担げ」取るという意味を持っている。この世とは、心身ともに様々な病人がいる場所のようなもの。床を担ぐ。床は最も嫌だったはず。神様に立たせて貰ったら嫌で仕方なかったことが担って行けるように変えられることも暗示されている。迷い悩む人のところに行って「立ち上がれ」と言った。イエスのみ言葉を受けたら実際に立って動けるようになる。「良くなりたいのか」と主イエスは聞いた。諦めてしまいそうになるが、諦めてはいけない。諦めずに祈る必要がある。イエス様だけは来てくださると希望をもつ。


八月二十六日(水)水曜集会  テサロニケ一・612

 テサロニケの手紙は新約聖書の中では、最も早く書かれたものである。そしてこの手紙が書かれた当時、キリストの再臨が近いと思われていた。また、この時代、すでにキリスト者に対する迫害がおこっていた。迫害はその後、十数年でローマ全土に広がっていった。ここに、「あなたがたを苦しめているものには」とあるが、これは、キリスト者への迫害の苦しみを示している。何もしていないのに、キリストを信じると言うだけで苦しめられる。それに対して、復讐せず、武力を使わない。そのようなものには、必ず、良き報いが与えられると示しているのである。信仰のゆえに苦しみをうけているときには、時が来れば必ず主イエスは安らぎを与えてくださるのである。
 そして、ここで主イエスが再び来る再臨の日について書かれている。主イエスは火の中を来る、とある。聖書でいわれる「火」とは、何をさしているのか。キリストの先駆けとしてきた、洗礼のヨハネについての記事の中でも、「自分は水で洗礼を授けるが、後から来る人(キリスト)は聖霊と火で洗礼を授ける」という表現がある。また、他の箇所では「殻を消えることのない火で焼き払われた」(マタイ三・1112)という表現もある。このように、ここで言われている「火」とは、焼き滅ぼして清める、ということの象徴なのである。
 旧約聖書には火についてこのように現されている。
「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が」(マラキ書三・19)悪の力をすべて燃やしてくださる日が来る。悪の力は人間の力では消えない。しかし、聖霊の火によって燃やされていく。いつか必ず、悪の力は滅ぼされることがこの時代から示されている。またダニエルが神を見た記事がある。それは、「その王座は燃える炎、その車輪は燃える火、その前から火の川が流れ出ていた・・」(ダニエル七・9)と「燃える」ということが三回も繰り返されている。聖霊の火は燃えている。そして悪を焼き尽くす。どのように悪が栄えても、悪の力は必ず滅ぼされることがここでもまた示されている。ここで書かれている、主イエスが「火」の中を再臨されるとは、そのような希望の象徴でもある。主イエスの再臨の日が近いと思っていたこの時代、だから、神を証しする者になることができるように、神の招きにふさわしい者になることができるようにという祈りと願いがあった。
悪の力は最終的には焼かれて滅ぼされる。それは世の終わりの時である。人間の努力で起こるのではない。だから、ただわたしたちは、少しでも力をいただいて、神の国のために働いていく。主イエスは毒麦のたとえの箇所で、「毒麦は刈り入れの時まで置いておけ、そのときには焼くために束にする。」(マタイ十三・25)と言われた。悪の力の最後は神が最善の裁きをなしてくださるのである。


八月三〇日(日)特別集会(西沢氏を迎えて)参加者47

吉村兄講話 ヘブル書三・713
「今日、あなた方が神の声を聞くなら」「今日という日の内に、日々励まし合いなさい」とあり、特に「今日」という事を強調している。この時代、キリストの再臨が近いと思われており、初期のキリスト者は、世の終わりが近い、もう時間がないと思っていた。残された時間が少ないと感じていたら、「今」を大事にする。そして、その時その時を燃えて働こうとする。パウロも、残された時間は短いと感じていた。だから、少しでも伝えたいと、切に望み働いた。
 残された時間。それは、今生かされているわたしたちもわからない。一年後、どうなっているかも誰もわからない。もし、あと時間は一年しかない、これが最後の一年だとわかっていたら、時間を無駄にはしないだろう。今日一日を中途半端に生きてしまうと、明日もまた、まあまあ、と生きてしまう。今日をどう生きるか、今をどう生きるか。それで一生が決まっていく。
 「生ける神から離れてしまう者がないように」とある。キリストから離れてしまうことが実際にあるからである。キリストを信じていても、油断をしたら、途中でおちてしまう。毎日、新しい霊をいただかなければ、知らないうちに道がそれていくことがある。だからお互いに励まし合う必要がある。そして、日々励まし合いなさい、とある。これは、使徒言行録二章にも、毎日ひたすら、こころをひとつにして集まったということが書かれている。共に集まる、ということの必要性が記されている。
キリスト教迫害の初期に書かれた記録にも、毎日暗いうちから集まっていたことが記録として残されている。
 信仰は油断をしたら消えたり、変質したり、枝のほうに行ってしまい、本質でないほうに、いってしまうので、共に集まり、祈り合うことが必要なのである。
 二人三人、キリストの名によって集まると、そこに主がおられるので、力が与えられる。どうしても、集まれない人もいる。しかし、互いに祈り会うことによって、励まし合うことができる。そして、祈りによる励ましは、励まされる人だけでなく、励ます人もまた力を受けることができる。
 今日という日を大事にすること。そして互いに励まし合うこと。ここでは特にその重要性が示されている。
西沢兄講話
 罪に泣く人、というテーマで話したい。ここで二人の人を紹介したい。一人が浜松の溝口先生。自分自身のキリスト教入信の決定的な人である。三五年前。ある女性の召天記念会のとき、溝口さんから誘いを受けて参加した。その人は結核で二七年間、入院していた。入院してすぐに離婚され、手術も四回うけた。その人が召される日、「わたしのために泣いてくださるのは神様だけよね」と言われた。それを聞いて、溝口さんは、はっとした。「泣いてくださるのは神様だけ」という言葉に、自分の力なさを受け止められたのであった。その溝口さんの涙をみて、信仰が本物と感じ、自分自身の入信のきっかけとなった。参加した集会の会場も、何か新鮮な雰囲気を感じた。キリスト者が集まる場ということは、いままでにない清い空気があるのだと感じた。
 もう一人の例は堤道雄先生である。高齢となられ、伝道集会の最後というとき、涙を流された。それはご自分が、内村の非戦論を学んでいたのに、戦争に参加し将校にまでなったことの罪について話されたときであった。敗戦後六〇年たった今も、心の傷が痛んでいたのだと知らされた。高齢になって涙もろくなられたのかなと思ったけれど、話を聞いていてその真実に触れた。堤さんは戦争犯罪という罪の意識をもたれて歩まれた。そして、最後の伝道で、その罪を告白されたのだった。堤さんの涙は、罪の意識のための涙だった。そして、キリスト者は罪に敏感になることができるのだと知らされた。
 ペテロが主イエスを裏切って泣く場面がある。ペテロは弟子のリーダー格だった。しかし、主イエスを知らないと三度も言ってしまった。そのとき、その罪を知らされ、激しく泣いた。それは、自分はけっしで裏切ったりしない、命にかけてもイエスに従っていく、と主イエスに言っていたからであった。自分の罪の深さに泣いた。
主イエスが復活してペテロにかたる場面がある。(ヨハネ福音書二五・1519) 主イエスがペテロに「この人たち以上に愛しているか」と三回聞かれたペテロは三度も主イエスを知らないと言った。こんどは、主イエスが三度、くりかえしてペテロに確認した。主イエスを否定したペテロは自分の心を見透かされ自分のふがいなさで悲しくなった。そのようなペテロに、主イエスは「愛しなさい」というのではなく「従いなさい」といっている。離れずに、くっついてきなさい、といわれている。
 この会話があって、復活した主イエスが、天に帰られてから
主イエスの復活の証人として、ペテロは中心的に活動していくのであった。ペテロとヨハネが取り調べを受けた場面でも、「神に従わないであなたがたに従うことが、正しいかどうか考えてみなさい」と言っている。このような姿に、かつて、罪に泣いたペテロから、回心したペテロの姿を見る。すべて罪に泣いたペテロが原点になっているのである。
 自分の罪に泣く人はキリストの信仰が本物であることの証明である。溝口さんは「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者とともに泣く」そのみ言葉が、自分には本当には実現していなかったという罪。愛の至らなさをしらされ泣いたこと。 神の前で示されて、罪に泣く。それはキリスト教信仰生活を送ることができていることの証明である。自分も、罪になく信仰を与えられたい。信仰は、頭で考えるのではない。生活の中で、実践していくことである。そして、その人について、詳しいことをしる。情報を交換しながら、生活する。詳しいことを知って初めて、真のお祈りができるからである。感話の中でも今置かれている状況が知らされる。そして、その人に対する認識がふかまる。生活のことを語り合って、その人が何を今悩んでいることを知って、祈り会うことができる。これからも、庶民的な実生活のなかで、愛の実践をしていきたいと願っている。


九月二日(水)水曜集会 詩篇一三六篇

この詩は賛美として歌っていたことが分かる。慈しみはとこしえに、と折り返し歌うことによって、神の限りない慈しみを心に刻みつけることになる。人間の愛とちがって神の愛は永遠に変らない。真実で堅固。 「感謝せよ」と訳されている原語ヤーダーには、別の意味がある。それぱ創世記2935にある。感謝がなければ、誉めたたえることもできない。この両方が溶け合っている。ユダという名はこのヤーダー(ほめたたえる、感謝するという意味がある)から来た。主に感謝せよ、何故ならば慈しみは永遠だから。
冒頭の「恵み深い」の原語はトーブであり、創世記にある善悪の木の「善」と同じである。この語は、この箇所のように「恵み深い」と訳されることもあり、数十種の訳語が使われている。単なる道徳的な善という意味だけではない。英訳では「good」であり、神様はあらゆる意味でよいことをされる方だという意味がある。慈しみは永遠文字がわからない人も、繰り返すことによって心をそこに引き寄せる。
神様の慈しみ(神の愛)は人間だけにとどまらず、動物、自然、歴史、あらゆるものにわたっている。それは単に神が万能だからでなく、背後に愛があるからである。


お知らせ

「いのちの水」誌で紹介した、北田康広さんの三枚目のCD「藍色の旋律」は、定価は二千五百円ですが、一七五〇円でお送りすることができますので、希望の方は、左記の吉村まで。(送料当方負担) なお、近くに書店とかインターネットなどを利用できない方のために、最初のCD、「ことりがそらを」、つぎの「心の瞳」のCDもお送りすることができます。こちらのほうは、いずれも三千円。
今月の移動夕拝は、九月十五日(火)藍住町の奥住宅にて。
九月二十二日(火)の夕拝は、翌日の「祈の友」の会に早朝から出発する方々がいますので休会です。
九月二三日の休日は、松山市での、祈の友・四国グループ集会です。
私たちの主日礼拝や夕拝の全部の内容を録音した、毎月の集会CDは、パソコンで聞くことができます。しかし、パソコンのない方のため、MP3対応 CDラジカセを、サンヨーの製品を操作性や価格の点から紹介してきました。そして多くの方々が申込され、それで集会CDを聞いています。しかし、そのラジカセは製造を終了したので電器店からは購入できないことになりました。しかし、私のところに若干予備がありますので希望の方は申込してください。(価格八千円)