イスラエルのために国を建て直すのは今なのか、という弟子たちの質問に対して、主イエスはその返答ではなく、あなたたちの上に聖霊がくだると力を受ける、と言われた。弟子たちは、ユダヤ民族のことばかり考えていた。救い主であるから、国を建てなおしてくれるはずだ。メシアはそのためにきてくれると思っていた。人間は自分中心の狭い視野で考えようとする。しかし、 キリストの真理は、限られた地だけではない。二千年を通し全世界につたえられている。 聖霊を受けると、力を受け、伝道するように促される。聖霊が与えられるという約束は、ヨハネ福音書では次のように記されている。 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(*)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ十四・16~17) (*)原語は、パラクレートス parakletos。パラ para とは、~のそば 側 、クレートスは、カレオー(呼ぶ)の受動的意味を持つ 。それゆえパラクレートスとは、「そばに呼ばれた者」の意味。励まし、慰め、弁護、とりなしなどのために、そばに呼ばれた者という意味。そこから、助け主(口語訳、新改訳の訳語)、慰め主、弁護者といった訳がなされている。 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 (ヨハネ十四・26)
聖霊が与えられると、霊的に必要なすべてのことを教えてくださる。学問や経験が教えるのはない。神の愛、永遠、復活、罪、すべて聖霊によって知らされる。力と霊的な知識は深く結びついている。主イエスは霊的な知識が深くあり、そして力もあった。その力は迫害をこえてなお進んでいくという力である。そしてまた、何が正しいかということを見抜く力。それも聖霊によって与えられる。霊的に目覚めると、何とかして伝えたいという願いが起こる。それを後押しするのが聖霊である。 キリスト者とはキリストの証人であり、神の力の証人、また罪の清めの証人である。キリストの証は病気になっても、死ぬ前でもできる。いつでもだれでも、聖霊が与えられたら証ができるのである。 キリストは、天にあげられ雲で覆われた。雲とは、神の御臨在の象徴である。イエスが再び来られるときもまた、神の力とともに来られる、ということである。再臨ということを今、すでに知ることができるために、キリストは聖霊としてこられた。二人三人あつまるところにイエスもともにいてくださる。今、ここに聖霊のイエスがいてくださるのである。
37名(内スカイプ3名) 復活の重要性が書かれている。復活がなければ、聖霊はない。パウロは、十字架の福音を告げ知らせていたがこの十字架の言葉というのは、イエスが十字架で死んで罪のあがないを成し遂げた、ということだけでなく、パウロが最も重要なこととしている、十字架による罪のあがないと復活の双方を意味している。神は万能である。死者を甦らせることができないのであれば、死の力に負けている。もし、キリストが復活しなかったのであれば、ただ人間が処刑されただけであり、罪のあがないはできない。死の力に打ち勝っていなければ、贖いはなく人は罪の中にあり、そのまま滅んでしまう。そしてまた、復活しないものを信じるとなれば、偽りを信じているのであり、みじめなものとなる。 神を信じるという人はいても、キリストの十字架と復活は信じられないという人は多い。しかしパウロは、生きているのでは自分ではなく、キリストであるとさえ言ってる、キリスト者を迫害までしていたパウロを変えたのは、復活したキリストに出会ったからであった。復活のキリストがいなければ、回心はなかった。そして、復活のキリストを伝えているのもキリストご自身である。 復活がなければ、キリスト者の働きもなくなる。復活のキリストが毎日の生活の中で働いておられるからである。復活のキリストの霊を受けることが、最も大事なことである。 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ書八・9) 神の霊が宿っているなら、聖霊、生けるキリストによって生かされていく。復活と聖霊が特に大事であるから、パウロは強調して記しているのである。 キリスト者も、そのあつまりも、キリストの住む神殿である、とパウロは言う。二人でも、三人でも、キリストを信じて集まれば、そこに復活したキリストがともにいてくださる。復活を否定すると、聖霊を否定することになる。聖霊を受けている証拠として、祈りがある。神に、キリストに祈ることができるのは、聖霊が与えられているからである。 聖書の最後には、主が再び来られることが約束されている。神の力をもってこられ、悪の力を確実に滅ぼしてくださる。聖霊が与えられるほど、新しい天と地が与えられていく。復活があったからこそ、主イエスは天に帰られ、そして、再び来られるのである。 世界中のキリストの名による集まりも、さまざまな欠点や問題を超え、生きて働くキリストが導かれてきたといえる。求めたら与えられる聖霊。主イエスはわたしの内にとどまりなさい、といわれた。そうすれば、わたしもあなたのところにとどまると約束してくださった。わたしたちはこの聖霊なる復活のキリストをこれからも切に求めていきたい。
○七月二十一日 主日礼拝 イザヤ書60章1〜5 マラキ書3章20 参加31名(うちスカイプ2名) 「義の太陽が昇る」ー北海道瀬棚郡の日本キリスト教団 利別教会での吉村さんの講話。録音による。 「義の太陽が昇る」という。いま無数の情報が飛び交っていても、「何が正義であるか」というようなことはほとんど言われない。だが「正義」は色々なところに出てくる聖書のメインメッセージである。 「光を放て」とある。わたしたち自身は光を放つことはできない。しかしあなたを照らす正義の光がもう昇ったのだから、闇と暗黒が包んでいても、その光を受ければ自然に立ち上がり、闇の只中で輝く。あなたの上に突然、主が輝き出るのだと言われている。神様のなさることは誰一人予測できない。 人間の意見は役に立たないが、2500年経ってもこの言葉の価値は変わらない。絶対の真理、神からの直接の啓示だからである。 このことは創世記一章から書かれている。地は混沌(空しく、荒廃している)であり、闇であった。だがそこに神の霊(風、息)が吹いていた。そして何かを生み出そうとしていた。「光りあれ」といえば光があった。その光に、様々なものが向かって来る、と言われている。 悪が一掃され、義の太陽が昇った時には、全く想像もしなかったことが起こる。まだ神様のことが本当にはよくわからなったとき、神様がアブラハムに賜物を与え、神を信じる心を与え、小さな太陽として昇らせた。それまで、信じるだけで義とされることなど考えもしなかった。またその後もモーセ、ダビデなどを経て、完全な、義の太陽としてイエスキリストとこの世に来らせた。歴史の中で、神様は人間の予想のできない太陽を起こさせていった。 義の太陽、という言葉が旧約の最後、マラキ書3章20にある。神を畏れ敬うなら、義の太陽が昇るのだと。政治や原発の問題なども現代の混沌であるが、その只中で、信じる者には義の太陽が昇るのだという宣言。信じて受け取れば本当に光が見えてくる。幼子のように信じるか否か、二つの道がある。義の太陽の翼には、癒す力がある。翼とは光だ。神の光線、霊の光は何物にもさえぎられることはない。 マタイ四章12には「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」とあり、ヨハネ福音書では「わたしを信じる者は、命の光を持つ」と。どんな闇の中、迫害の中でもこの太陽は沈まない。「神こそが太陽である」とヨハネ黙示録22章。最終的な状況にあっても、「わたしはダビデのひこばえ、明けの明星である」。このイエスの光。義の太陽。それは最終的なひかり、すべてを覆して生きる新しい光である。次第に沈んでいくのではなく、信じて、この光がわたしたちのこころにも昇っていくように。 32名(内スカイプ4名) 今から三千年も前の詩であるが、今なおわたしたちの心に神を信じて生きる人の思いが迫ってくる。詩篇の詩は人が書いたものであるが、神が人を通して書かせたと言える。そして、預言ともなり、また今なお読む者を励まし神に向かって心を引き上げてくれる。 しかし、特に詩篇には訳語の問題があり、意味が十分に訳語に反映されないので、原文の力が欠けるということにもなっている。 「主に従う人よ。」とある。これは、「正しきもの」「直きもの」とも訳されており原語では「ツァッディーク」という言葉であり「正しい・正義」という意味である。また、その後に「正しい人にふさわしい」とあるが、この「正しい」ということは、まっすぐな、という意味がある。主に従う人、正しい人、心が神に対してまっすぐであると神への賛美が湧き出てくる。 聖書の中で、一番最初に賛美を捧げたのは出エジプト記十五章である。 「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。…アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。」(出エジプト十五・1~21) 賛美は祈りであるから主に向かって歌う。そして楽器を使い踊りながら、あらゆることを用いて賛美した。賛美せずにはいられなかった。そして「新しいうたを捧げる」ことができるようになる。主にある新しい心で、主に向かって歌う、それが、賛美の本質である。 「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。」とある。「恵みの業」とは原語の意味では「正義」である。そしてここでいう「裁き」も原語は、ミシュパートであり、その意味は正義、公平、公正という意味の言葉である。正義、ということが繰り返されており、神は正しいことを愛するということを強調している。 そして「地は慈しみで満ちている」とある。この世は苦しみと闇がいつも覆っていると言える。なぜ、このようなことが言えたのか。 「主よ、あなたの慈しみは天に/あなたの真実は大空に満ちている。」(詩篇三十六・6) 「主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。」(詩篇一一九・64) と詩篇の他の箇所でも同じ内容が記されている。福祉も社会保障もない時代。弱者は捨てられていたと思われる。そのような中でこのように言えたのは、主を仰ぎ見ているからである。 「わたしを信じる者はいのちの水があふれてくる」と主イエスは言われた。ただ信じるだけで、命の水があたえられる。それは、主の慈しみが全地に満ちあふれているからである。イエスの泉は、世界中どこで掘っても泉が湧き出る。「わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる」と約束してくださっているからである。 神を信じ、心の内から水が湧きあふれる。そういうことを実感して、はじめて、この世は主のいつくしみで満ちているといえるようになる。苦しみや悲しみがあっても、そこから求めたら、泉が与えられるのである。 「御言葉によって天が創られた」とある。神の言葉の重要性が示されている。神の言葉は永遠で天地を創る力をもっている。そして神のご計画は必ず成る。だから、この世がどのように揺れ動こうと、信じる者は動揺することはない。それは、信じるというところに、力が与えられる。そして直接神によって示されたら、信じることができる。しかし、啓示がなく、なかなか信じることができなくても、神の言葉であるが故に、信じるということを選び取っていくことはできる。 そのような偉大な宇宙の創造主は、わたしたち、ひとりひとりをみつめておられる。主を信じて神を畏れる。それだけで、死の暗闇から救い出してくださる。これは、神にしかできないことである。 勝利はどこにあるのか。武器の数ではない。兵の数、馬の数ではない。核でもない。神の力にある。たとえ、武力によって国を滅ぼしたとしても、悪は神が滅ぼされる。剣を持つ者は剣によって滅びる。核をもつとき、核によって滅びる。勝利は武力によらない。それは聖書を貫いている。 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ二・4) 日本の平和憲法の源流はここにある。 この詩は、大いなる神の言葉の力、賛美、そして細やかにひとりひとりを見てくださる主のまなざし。平和の問題、と様々な角度から神がわたしたちにメッセージを与えてくださっている詩である。わたしたちがどのような状況におかれたとしても、神は共にいてくださり、救い出してくださると信じることができる。
○七月三〇日(火)移動夕拝 いのちのさと イザヤ63章10~19 13名(内スカイプ2名) イスラエルの民が罪を侵す事は、主の聖なる霊を苦しめる事になる。神の霊を人格化しているが、この事は後に三位一体となり神とイエスと聖霊が同じものであるという考えになった。神は彼らが間違いを悟るようにと苦しめた。彼らは苦難の時に初めて神を思い起こした。信仰を持っていても、余りに苦しい事があると、神はどこにいるのだろうかと強い疑問、叫びが起こる。今もいろんな人が経験している。非常に深い疑問が起こるが、その苦しみを通して神は導く。 モーセは荒野で民を導いたが、「谷間に降りていく家畜が水にありつくように、主の霊が彼らを憩わせた。」とある。神様の素晴らしさはここにある。今は解決されない問題があるが、かつてモーセに神が行われた事を思い起こして叫び続ける。 旧約では、神様の事を身近に「父」と呼ぶ信仰はなかった。ここで「父」とあるのは、イスラエルの民を創造して下さった父という意味である。キリストにより神様の事を「天のお父様」と身近に呼べるようになった。 神様はどういうお方か。あらゆる困難の中で救い出し憩いを与える、「贖い主」である。この贖いはキリストによって完成したが、旧約のイザヤは神の本質をはっきり見ていた。永遠の昔から日々解放して下さる贖い主である。聖書の世界には、人間の根本問題の罪の贖いの事がずっとあり、それは変わらない。贖い、赦して下さる神の本質を知った上で祈っている。 今の私達にも当てはまる。どんなに苦しい事があっても、神様はあくまで、必ず救い贖って下さると信じる。そういう姿勢が私達にも求められる。 ○八月四日 主日礼拝 サムエル記下六章 参加28名 「神の言葉の重視と賛美の重要性」 「神の箱」とは、神の言葉を刻んだ石板を入れた箱で、非常に重要なもの。かつてペリシテに奪い取られていた。だが神の箱の前に、ペリシテの偶像の神が倒れていたり、住民に災いが起こったりし、置いておくとよくないことが起こることから、あちこちを転々とすることになった。 神の箱がキルヤト・エアリム(六章ではバアレ・ユダ)に置かれて二十年を経た。ダビデ王の時代になっていた。帰って来た神の箱をエルサレムに運び上げる際、牛がよろめいたので、ウザは神の箱に手を伸ばし、箱を押さえた。そのウザに対して、神は怒りを発して滅ぼしてしまったとある。意図的に悪いことをしたのではない。なぜ、と思う。だが、サムエル記(上)六章19にも「主の箱の中を覗いた」ために多くの人が滅ぼされた記述がある。古代において、神様の「聖」なることが特別に強調されて書かれたのである。神は聖であるゆえに、人間が支えたり、興味本位に覗いたりできるものではない。新、旧約とも神の聖性を一貫して言っている。 新約でも、イエスキリストが万人の罪を、身代わりに負って死んでくださった。その愛。それは別格の愛だ。人間では考えられないことで「聖」ということをあらわしている。主の祈りも、「み名が聖とされる(ハギアゾー)ように」であって、「あがめられるように」というのは本来のニュアンスとは違いがある。いかなる混乱があっても神様の愛や力は変わらない。神にそのような力は無いと、人間が自分で判断して信じることをしないのは、神を人間の領域に引きずりおろしていることだ。陰で悪いことをしてもわからないと思うのも、神を「聖」としていないからである。 ダビデは、神の箱(神の言葉)をエルサレムに持っていくことを一番の喜びとした。わたしたちも、神の言葉を心に運び入れることを一番の喜びとする。新約では、聖霊が内に留まってくださることを一番の喜びとしている。神の言葉をしっかり持っていれば、どんな困難をも超えて行ける。 ダビデとイスラエルの家の者は皆、楽器を奏で、喜びの声を上げ、踊り、すべてを用いて喜びを表し、賛美した。神の箱がやっと帰って来た、その喜びをダビデは全身であらわし、踊った。民を祝福し、よろこびを分かち合った。だが妻のミカルだけは祝福を受け取らなかった。踊るダビデを見て、心の内にさげすんだ、とある。だがダビデは、神のみ前に踊ったのであって、人間の前で見てもらうためにしたのではない。 現代に通じることは、神の言葉こそ一番大事なものであって、神の言葉が入り込まねば、人間の言葉が入り込む。人間の意見、考え、この世の風潮が入り込み、間違ってしまう。 ダビデは言っている。そうだ、主のみ前で、わたしはもっともっと卑しめられ低いものとなろう。人間にでなく、主のみ前で。自分の目にも低い者となろう、と。
主イエスが天に帰られてから、使徒たちは集まって、主イエスの約束を待ち望み、祈りを続けていた。 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録一・4~5)この約束を信じていたからであった。熱心に祈り続けながら待つ。ここに聖霊が注がれ、伝道がはじまった。まず、心をひとつにして祈ることからはじまる。そして、祈りは必ずきかれる。二人三人集まるところに主イエスも共におられる。 神を信じる、ということと、祈りがきかれることを信じることは同じである。神への信頼が深いほど、祈りへの信頼も深くなる。 キリスト教の集まりは、初めから、「祈り」によってなされた。祈りのある集まりは神が守られ続いていく。 偉大な働きをしたパウロも、「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」(使徒言行録十三・2~3)とあるように、断食をして祈っていた時に、示された。人の命令や組織の指示ではなく。キリストが直接送り出した。ここでも、複数の人の祈りがあった。神は共同体の祈りによって、働きかける。パウロは背後の祈りによって押し出された。祈りは、知識や学問がなくても、信じる心があればできる。たとえ、祈れないようなときでも「御国を来たらせてください」という主の祈りはできる。 ユダに関する記事は、意図的に主イエスに逆らってきたときには必ず裁きを受けることが象徴的に示されている。主イエスの持つ、清らかさ、真実、愛、に対して意図的に逆らうときには、心は砂漠のようになりすでに裁かれている。 ここで、弟子が一人欠けたために、補うことが書かれている。それは、何のためであったか。主の復活の証人となるためである。わたしたちは、主イエスを知らない人に、復活の証人となることができる。 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(使徒言行録二・32) 「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ一・3)すべてのものはキリストによって創られた。いろいろなことの背後には、今もすべてキリストが働いている。そのことを信じることが、キリストの復活の証人となるのである。
〇西澤 正文氏(静岡市) 特別集会 ・日時…9月15日(日)午前10時30分~14時 ・場所…徳島聖書キリスト集会場 ・講話タイトル …「神の御業が現れるため」 ・聖書箇所…ヨハネ福音書9の1~12 ・会費…五百円(弁当代金)
〇土曜日集会の変更 西澤さんが9月14日(土)に来られますので、土曜日集会は今月は、28日→14日に変更します。
〇8月8日~9日、杣友詩郎さんの前夜式、葬儀、納骨式がキリスト教式で行なわれました。(司式 吉村孝雄) 詩郎さんは、私が大学を卒業して徳島に帰ったとき、無教会徳島聖書集会(当時の名称)の責任者であった故杣友豊市さん(97年に102歳で逝去)の4男の方です。40年ほども昔、集会の後で、赤ちゃんが抱かれて紹介された、その赤ちゃんのときしか知らなかった方が喪主となり、電話でキリスト教式での葬儀を希望されました。その方は、神戸在住でキリスト者でもなく、交流もなかったのですが、その喪主のお姉さんたち3人は、子供のとき集会に時々参加していたことがあり、そうしたこともあってキリスト教式ということになったようです。こうしたことも、杣友さんとその親族や私たちのうちに留まり続けてきた神の言葉がなさしめたことだと感じました。 二日間にわたって、そうした親族の方々も、また一般の参加者も、聖書のことばについての話を聞き、讃美歌を多く歌ったので、そうしたみ言葉が、参加者の心にとどまることを祈りつつ式を担当させていただきました。 ・日時…9月23日(月)秋分の日の午前11時から4時まで。 ・場所…徳島聖書キリスト集会。・会費…五百円(弁当代) 毎年この日に行なっている四国グループ集会に加えて、今年は、四国外の新しい「祈りの友」の方も含めての集会です。参加希望者は、左記の吉村孝雄まで申込してください。 ・なお、体調のことや距離が遠くて参加できない方々は、ハガキやメール、FAXなどで、9月23日までに、祈りやメッセージを短く書いて左記に送ってくだされば、当日読み上げて、ともに祈りに覚えたいと思います。
〇眉山のキリスト教霊園(徳島県下のキリスト教の合同の納骨堂)の清掃草抜きは、暑い中でしたが20人近い方々が集まって奉仕されました。
〇8月の移動夕拝は、27日(火)中川啓・春美ご夫妻宅、午後7時30分~9時です。今月の全員がインターネットでで参加するスカイプ集会は、この移動夕拝を兼ねて行ないます。スカイプで参加希望の方は、中川 陽子さん( myrtus7@khc.biglobe.ne.jp ) 宛てに申込してください。 〇メール配信、または希望者に印刷して送付している「今日のみ言葉」で用いた植物写真の希望者が時々ありますので書いておきます。 写真を希望される方は2L版一枚50円。またその写真を用いたハガキは、一枚20円。送料はいずれも、何枚でも百円。代金は 200円以下の切手でも可。 〇第13回 近畿無教会集会 8月24日午後1時~25日(日)1時 ・主題 「キリストのからだ」 ・場所 ふれあい会館 京都市西京区大枝北沓掛町1の3の1 ・申込先 宮田 咲子 電話072-367-1624 E-mail saiwai1950@yahoo.co.jp ・土曜日講話と証し 伊東良和、大嶋紗綾子・幸野道雄、中川 陽子(スカイプ集会について) ・主日礼拝 聖書講話 吉村孝雄
この詩には、「地を継ぐ」ということばが繰り返し出てくる。主イエスは山上の教えで「柔和なものは地を受け継ぐ」と話された。柔和な人と訳されているが、これは詩篇37の11節の引用であり、この箇所の原語(ヘブル語)は「圧迫された人」という意味を持っている。圧迫されているということから、その詩篇の箇所は、貧しい人、苦しむ人、低くされている人などと訳されている。英訳にも、 Oppressed people と訳しているのがある。その語がギリシャ語に訳されたときに、プラユス(柔和)と訳されたので、新約聖書にもその語が使われている。 地を継ぐ、というのは、約束の地を与えられること。神から約束されたことを与えられる、という意味である。わたしたちにとっては、霊的な神の国を受け継ぐということを示されている。 悪を行う者のことで、いらだつな、とある。腹を立てても、どうにもならない。聖書に記されているとおり、神の定めるときには、必ず悪は、滅びるということを、確信する。問題をしっかり見たうえで、揺らがないように、確信を持つ必要がある。悪の力は目に見えるところでは、強く見える。だからこそ、確信が必要なのである。そこには信仰がなければ、続かない。詩編は、そのことを語りかけてくる。 主は人の一歩一歩を定められる。病気や事故、大きな苦しみで、まわりから捨てられることがある。しかし、人は捨てても、神は捨てない。主がその手をもって、ひきあげてくださる。たとえ、家族もまわりの人もいなくなり孤独な状態になっても、そこに主がきてくださる。 祈っても、なかなか聞かれないとき、主の前に沈黙して、耐え忍んで主を待つ。悪は必ず断たれる。主イエスはサタンが天から落ちるのを見た、といわれている。 主に逆らうひとは、剣を持つ。目に見えないことばの剣、悪意の言葉も、人を刺す。そしてそのことばで、自分も刺す。しかし祈りを持って語るときには、その恵みは自分にも返ってくる。 主は必ず来てくださる。そして輝かしい国を受け継ぐときを与えてくださるのである。 ・今年の早朝の元旦礼拝は、県内の参加者22名 、県外より1名のほかに、元旦礼拝では初めてインターネット(スカイプ)での県外(千葉県、神奈川県、大阪府など)からの参加者も6名。礼拝に集まった時刻は、真っ暗で、星が輝いていたが、次第に明るくなっていった。―新しい年のはじめにこのように集まって礼拝できる恵みを感謝であった。
○一月六日(日)主日礼拝 Ⅰヨハネ書・7~17 34名。(内、スカイプ参加者は2名) 互いに愛し合う、と言うことについて記されている。この愛は人間の感情的な愛ではない。イエスが愛したように、とある。イエスは、差別なく人を愛され、敵対する人のために死なれた。愛は祈りである。そして、それは、まず、自分から始めることである。 わたしたちがまだ敵対していたとき、主イエスが祈ってくださった。それで主イエスに愛され、わたしたちも愛することができるようにされた。祈ることが出発点である。気の合わない人、敵対する人、誰に対してもまず祈る。少しでも祈ろうとするとき、そこからがまた、新しい出発点となる。祈りは誰もができることである。知識も経験も関係がない。素朴な信じる心があればできる。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ十三・35)祈り合い、愛し合うとき、そして敵対する人の為に祈るとき、そのことによって、キリストの弟子であるとわかる。それが、伝道となり、広がっていった。それをさせるのが聖霊である。 祈ることができるのは、罪赦されているからである。まず、私たち自身の罪の汚れを赦していただくことから始まる。そして、若者へ、父親へ、子へ、と呼びかけている。これは立場は違っても、主にあっては同じ位置なのだと言うことを示している。 「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。」ということが二回繰り返されている。これは、ヨハネの手紙もヨハネの福音書でも冒頭から記されている。どちらも、はじめにキリストが存在していた、ということを明記している。キリストは神であるということを信じるかどうかで変わる。キリストが神であり、天地創造のときから存在されていた方であると信じることができるから、祈ることができるのである。 互いに愛し合う、というみことばを実践するには、悪に勝利したということを確信することが必要である。「この世では苦難がある。しかしわたしは勝利している」と主イエスは言われた。主イエスの勝利を信じて祈る。祈りは、老年になっても、寝たきりになってもできる。どのような状態でも重要な仕事が残されているのである。
この箇所の内容は、この出来事が起る五百年ほども前にすでに詩篇やイザヤ書の中で記されていた。 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。」(詩篇二十二・9)「 わたしの着物を分け衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩篇二十二・19)「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇くわたしに酢を飲ませようとします。」(詩篇六十九・22) 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」(イザヤ五十三・3、4)人間は、来年のこと、また明日のことさえも何が起るかわからない。しかし、聖書は五百年後のことがこのように予言され、成就している。これは、神がご計画されたことは、時が来れば必ず成就するということを示している。日本の現実などを見ていると、悪の力が勝利してきているような印象を受ける。しかし、目先のことに心を捕らわれてはけない。そのような中でも、神は着々とご計画を進めておられる。神はこの世の支配や権力など壊すことなど取るにたりないことなのである。 主イエスを十字架につけ、服をはぎ取りくじ引きにし、苦いブドウ酒を飲ませ、そして、自分自身を救ってみよ、と言った人たち。彼らは、そのことが神のご計画の成就であるとは知らなかった。知らないうちに、神の道具として、使われていたのである。人智をはるかに超えた神のご計画が、このときにも、そして今もなされている。そのことを信じていくとき、この世の動きに動揺しないで進んでいくことができる。 この箇所には、殺されようとしている主イエスに対して、神の力があるなら、自分で自分を救え、と言っていることが繰り返し書かれている。十字架で殺されるという、もっとも救いとかけ離れた状態。しかし、このような現実の中で救いはなされた。主イエスは徹底的に侮辱され低くされた。わたしたちも、侮辱されたり、中傷されるとき、少しでも主イエスと同じ経験をさせていただいたのだと感じることができ、神の国のために用いようとされているのだと受け取ることができる。それは主イエスを見つめていないと耐えられないことであるが、主イエスを見つめて行くときには祝福となっていく。 弱さの中でこそ、神の力が与えられ、他者を支えて救っていくことができるのである。
これは、パウロが捕らわれているときに書かれた。指導者が捕らわれたら打撃になる。しかし、パウロは、このことが、福音の前進になると言っている。捕らわれた中でパウロは神の力が与えられ、ますます勇敢にみことばをかたるようになった。 この世の権力者や支配者は、どれほど力が大きくても死ねば終わる。しかし、キリスト教の死は終わりではない。福音はキリストが殺されてから広がり始めた。この世ではあり得ないことである。キリストは神であるからこそ、聖霊という新しい霊となり、弟子たちに新しい力を与えて広がっていった。パウロもまた、捕らわれて終わりではなく、そこから、力が与えられた。弱いところにこそ、力が与えられる。捕らわれてなお、勇気をもって福音を語るようになったのである。 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ書八・28)とパウロは記している。最終的に、どんな悲劇的なことでも良きことに変えられていくキリストの真理は何が起こっても前進していくのである。 キリストを述べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられて伝えるとはどういうことか。これは、党派争い のようなことから出てきたことである。しかし、パウロはそのようなことであっても、喜んでいるという。それは、とにかく、キリストが伝えられたら、そこから直接キリストが導いていかれるからである。人間の側に、たとえ不純な気持ちがあっても、なおそのような人をも、神が用いて、福音の伝達につながることがある。 「あなたがたの祈りと、霊の助けによって、このことが救いになる。」とある。信仰を与えられたときに救われていても、そこから、生涯をとおして、救いを完成する必要がある。救いは最後まで油断はできない。霊の助けと、兄弟姉妹の祈りが必要である。パウロのような人であってもなお、人々の祈りを必要とした。そして、これはキリスト教は共同体として動いていくことも示している。ヨハネは「互いに愛し合いなさい」と記した。共に強められつつ共同体として救いを全うすることが大事なのである。 波乱があってもそこから導かれていく。不純なこともよきに転じていく。何があってもこれから、良きことに変えてくださると信じるからこそ、パウロは「いつも喜べ」と言われたのである。
○一月二十日(日)主日礼拝 Ⅰコリント書十・1~11 36名 (内、スカイプでの参加4名) 信仰が与えられていても、油断をすると、ほろびてしまう。 イスラエルの民は、神に選ばれ導かれてきた。紅海を渡る奇蹟を示され、雲の柱、火の柱が民を導き守った。この地は日差しが強く、日中は影がないと活動できないほどである。それで神が雲を与え日差しから守られた。また、夜は闇夜である。火の柱が灯火となって、導いた。今も、わたしたちは神によって守られ、闇の中を歩んでいても、光がある。雲の柱、火の柱でこの世の旅路が守られているのである。 皆が同じ霊的な食べ物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲んだとある。そしてそれは、自分たちに離れないでついてきたキリストの岩からであると記されている。 キリストこそ、命のパンであることがヨハネ福音書に書かれている。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。』」(ヨハネ六・53)そのキリストが岩とたとえられている。日本では、神やキリストのことを岩と結びつけるということは、ほとんど考えられないが、この地では草木がわずかであり、露出している岩がとくに目立つ。そこに神の堅固さ、不動の固さが神に結びついてイメージされていた。詩篇にも神を岩と見ている箇所がある。「主をたたえよ。わたしの岩を。」(詩編一四四篇)「神こそわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」(詩篇六二篇・3)何があっても動かされない岩のような神。動かされないものにすがるとき、わたしたちも動揺することはない。 イスラエルの民が、岩から水を受けて飲んだ。その岩がキリストであった。キリストは神であり、地上に生まれる前から存在されていたことが示されている。天地がキリストによって創造された。初めからキリストがおられ、万物はキリストによってなった。聖書は、キリストが神であることを記している。 このように、神に守られ導かれてきたイスラエルの民であったが、恵みを忘れ油断をして滅びてしまった者がいた。神がわからなくなり、心の戸を閉めてしまうと、恵みをうけとれなくなる。コリントの信徒たちも、キリストを知らされ喜んでいるけれど、油断していたら、神から離れてしまうという、警告のために、この内容は書かれている。そのために、主の名によって集まることが大事であり、礼拝が大事である。単独でいては道を見失うことがある。キリスト者は、集まり全体として導かれて行くのである。
○一月二二日(火)移動夕拝 奥住宅 イザヤ書五七章14-21 参加者 10名&スカイプ4名 初めに「道を備える」と書いてある。元々は捕囚から解放された人々が目的地のユダの地に帰る事を指していた。イザヤ書では、それだけでなく私達にとって目的とする「神の国への道」を指している。イザヤ書で最初に「道」が出てきたのは、第二イザヤの最初の四十章に「荒野に道を備えよ、荒れ地に広い道を通せ」と非常に大事な事として「道」が出てきた。私達の生活でも道を見失うと別の所へ行く。 十一章の最後でも、アッシリアに残されていた人々にも道が備えられ、捕囚で遠くに行った人、様々な人々に道が備えられた内容がある。そして偶像崇拝の国、神に敵対していたエジプトを神は撃たれたがまた癒されるとエジプトも主に立ち返る事が書かれている。ここにエジプトからアッシリアまで「道が敷かれる」とあり、主の礼拝の為に交流が起こる事が書かれている。時代を先駆けて誰も考えた事もない事が示された。大きなスケールで「道」が示された。 その一環として今日の箇所がある。「わたしの民の道から躓きとなるものを除きなさい」と主が私達の道を守って下さる事が書かれている。イザヤ書の道で一番重要な箇所は三五章で「荒野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、荒れ地よ花を咲かせよ。」…どんなに荒れた状態であっても花が咲く。人間や社会がどんなに荒れても、そのただ中に花が咲き水が湧く。そこに大いなる道が敷かれる。その道は聖なる道であり、誰もそれを汚すことも壊すこともできない。 その聖なる神が、打ち砕かれてへりくだる人と共に住んで下さる。貧しい、苦しい、弱い、壊れた人の所に来て一緒に住んで下さるとある。 これからの時代何が起こるか分からない。不安を越えさせるものは、このように啓示された真理を信じる事である。
神は逃れの道を備えてくださる。これは、神は真実である、ということをもとにしている。人間は誰かに対して徹底した真実をもつことはできない。それは聖書の初めから記されている。人間は、必要すべてが備えられていたにも関わらず、神に背いて採ってはいけない実を食べた。そこから、人間の不真実ははじまっている。人間の真実は影のようなものでしかなく、そのままの人間は信じるということはできない。しかし、神を信じることによって、よくない人も神によって変えられ、最善がなされると信じることができる。 神に頼らず、武力、偶像、人間に頼るとき、そこからよきことは起こらない。ただ、神を信じることによってのみ、最終的にはすべてがよきことに変えられていくと信じることができるのである。どのような悪い人であっても、神の作品であり、神が愛されていると知るとき、誰に対しても祈りができるようになってくる。神は人間も、自然もすべてを創られ、歴史を支配し、導かれる方である。苦しみも、いたずらに与えることはなく、人を最善に導くため、真実をもって与えられているのである。 この「真実」ということばのもとになっている原語(ヘブル語)アーマンであり「堅固にする」という意味がある。そしてそこから派生した語が、「まこと、真実」といった意味で多く用いられている。旧約聖書では「慈しみと、まことに満ち…」(出エジプト三十四・6)と、神の御性質を示すために初めから使われている。また、ヨハネ福音書では、主イエスがとくに重要なことを語られるとき「アーメン、アーメン」と繰り返して言われた箇所がある。このように、神は真実であるということは、旧約、新約聖書に繰り返して記されている。それは神が全世界に向かって、歴史の中で、そして今も「神は真実である」ということを繰り返し告げ知らせるためであった。 神の真実は変わらない。だから、困難の時であっても逃れの道が備えられているのである。苦しみが重なり、逃れの道がないではないかと思う場合もある。しかし、神は、その叫びのただなかに、安らぎや慰めを与えらえる。そして、死で終わるようなこととなっても、神はそこから天の御国へと導いてくださり、逃れの道へと導かれて行くのである。 主イエスも、十字架で殺された。しかし、そこからが天に続く道であった。神様の真実は何があっても変ることも、揺らぐこともないのである。
「幸い(アシュレー)」という言葉が、詩篇の最初にある。詩篇全体が、本当の「幸い」ということを言おうとしているからである。一般の詩は人間の思いを書くが、詩篇は神様によって心動かさたことを書いている。神を中心とするとき、本当の幸いがわかり、それを知らせたいという願いが起る。 「神に逆らう者」とは、悪しき者でもある。その計画に従って歩むな、とある。しかしまちがった体制や、計いの中を歩まされることもある。聖書の言葉を実際に、置かれた場で実行しようとすれば、その度合いによっては非常に重く難しい内容になる。国家や学校、個人においても、過去も今も、これがわたしたちの現状である。だがその困難なこと、まわりじゅうそのようなものに取り囲まれていても、そこから救い出すようなものがある、と言われている。 新共同訳では、「主の教えを愛し」とあるが、「愛する」は喜ぶ、というのが原意で、それゆえ英訳で delight(よろこび)と多くは訳されている。「教え」はヘブライ語でトーラ─で、法、決まり、であり、「神の言葉」である。み言葉を、昼も夜も口ずさむ(英訳は meditateとなっているのが多い )と訳されているが、単に暗記して言うことでなく、天地を創造された主の言葉をふかく心に思っている―瞑想、黙想も含む意味だ。このようにみ言葉を愛することによって、この世の誘惑や、悪の渦のなかに巻き込まれない道ができる。悪に潰されるどころか、その只中にあっても、神様のご意志をしっかりと魂の内に置いて、現実の世界に当てはめて行けば、三節のように、時がめぐり来れば自然に実がなる。み言葉そのものが力であり、水の流れ(その人は水の流れのほとりに植えられた木)であるからだ。 「実を結ぶ」は、ヨハネ福音書の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶ(15章5)」につながる。イエス様ご自身がみ言葉の結晶であり、ロゴス(言葉)であられるからである。み言葉が内にあるということは、イエス様がその人の内にあることだ。 「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」といわれており、パウロも「万事が益となる」とローマ書八章28で言うように、全てを霊的繁栄に導くのである。 だが悪しき者は然らず。神に逆らうと、もみ殻のような存在になる。この作者にはその姿がありありと浮かんできたようだ。軽い存在になって消えていく。神様に根差した思いはずっと続くがこの世の評論的なものはみな消えていく。まず神の言葉の重要性が言われている。詩篇119編は、ここから更にみ言葉についての詳しい内容となっている。
Ⅰテサロニケ 5の8ー22「主とともに生きる」 参加者18名(徳島・富山・東京・福井・神奈川・千葉・福岡・北海道・大阪より参加) この箇所は、イエス様の再臨をパウロがリアルに感じていた事が背景にある。突然来ると言われた主の日に霊的に眠っていれば、裁きを受けて滅んでしまう恐れがある。再臨や、誰にも訪れる死に対する心の準備として読むことができる。キリスト信仰は、信じて終わりではなく、信じてからいかに生きるかが重要である。 信仰と訳されている原語(ギリシャ語)は、ピスティス pistis は「真実」という意味を持っている。神様の真実や愛を、胸に当てておく。自分というもので胸が一杯になれば眠ってしまう。また、さまざまの悪しきことも最終的には良きことにつながっていく、といこと、復活、再臨等々こそ希望であり、そうしたことをいつも頭に置いておく。そうして目を覚ましている。 私達は裁きに定められているのではなく、神様の大きな計画で救いに預かった。それは目覚めていても眠っていても、私たちの罪を担って身代わりに死なれた、主と共に生きる為である。罪を持ったままでは共に生きられない。だからこそ、様々な妨げを除去するために罪から赦してくださった。完全な方と共に生きること以上に幸いなことはない。 私たちが再臨や死の時に、最も重要なことは、他の事はできなくなっても、主と共に生きることができること。死が間近に迫っていても、意識が分からない人を前にしても、「主と共に永遠の命を生きられますように」と祈る事ができる。取り返しのつかない罪を犯した人も、悔い改めて主を見つめるならば、それができる。 「互いに励ましあいなさい。」信仰は自分と神様の関係だけで終わるのではなく、互いに向上し、善きものを建て上げようとする。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい。」苦悩があればどうしても喜べないこともある。その時には「絶えず祈れ」ということが書いてある。「主よ、憐れみたまえ」もどのような状況でもできる祈りである。祈りによって神様からの励ましを受け、喜ぶ事ができるようになる。また、恵みを数え、意識的に感謝を続けていくこともできる。ありとあらゆる人間の苦しみ、食べ物もない人の事を思うと、感謝すべき事が沢山あるのに、忘れている。小さい事に感謝し、聖霊の火を消してはいけない。
神殿を崩され、遠くバビロンに連れ去られたイスラエルの民の、礼拝の中心であった神殿。その神殿を再び建てるというのが神様のご意志であった。神様のご計画であれば、どんな意外な人をも使う。ペルシャの王キュロスが「ユダヤ人たちが、エルサレムに、主ご自身の神殿を建てる」という神からの命令を聞き取った。ユダの民がイスラエルに帰って、そこで神殿を建てることを神様がキュロスに命じ、捕囚の民も、そのためにエルサレムに帰っていい、とされたのである。 捕囚の民が異国の王によって解放されるという不思議、その千五百キロもの長い距離を帰って行くことができたという不思議。神様は道のない所に道を造る。長い時間のなかで、神様がどのように大いなることをされたか。旧約聖書を知らなければ、この大きな時間の流れの中で、神様が、何をどう動かされるかがわからない。 イザヤ書44、45章にもキュロスの記事がある。ユダヤ人以外の王キュロスによる解放がなければユダヤ民族は滅んでいたことになる。これを「第二の出エジプト」と言われる。またエレミア書25章にも、このことがはっきりとエレミアに示され、歴史の流れの中での神様の計画を知らせている。 第一はソロモンの神殿、第二がこのゼルバベルの神殿であるが、捕囚から帰るのは、神殿を建てるためであった。聖書の重要な点は、わたしたちの精神の位置づけがこの世的なものとはちがうのだということである。それが実際に行われて来たということが、わたしたちの大きな励ましにもなる。神の言葉が実際に実現されて、成就していくということである。 ハガイ書には、神殿再建のために帰った民が、そのことを忘れていることに対して、預言者ハガイに叱責されるところがある。わたしたちも、自分の生活を第一にし、キリストが中心にいてくださる心の神殿を第一にしないことが起りうる。そして、その心の神殿がいつの間にか荒れ果てることもある。 神殿というものを建てようとするところには、神はいつも共にいてくださる。また、パウロはあなたがた一人一人が神殿である(一コリント3章16)と言った。主の神殿が揺がないようにするところにはいつも、主が共にいてくださる。静まって祈る。可能なよきことをする。また、できることをする。そのことが神殿を建てるということにつながる。内なる神殿を清いものとして保っていくことになる。 (まとめと入力 K.K & E.I & H.N & Y.N))
○1月19日(土)には、韓国から日本に伝道に来ておられ、福岡市の教会で伝道されている、李 枝涓(イ・ジヨン)さんという方が、大阪に出向いた際、徳島まで来られました。福岡の秀村 弦一郎さんの紹介によるものです。無教会のキリスト教のことについて、私(吉村)にインタビューしたいということでした。朝大阪を発って、高速バスで昼前に、徳島に来られ、また夕方大阪に戻り、夜の高速バスで福岡に帰るという忙しい日程で、無教会のキリスト教ということでいろいろお話しをすることができました。
○主日礼拝に参加できなかった人たちに、はがきの「主日礼拝だより」を、吉村(恵)が送付していましたが、年末に手首に近い腕の怪我をしたのが、まだ治らないので、しばらくお休みしています。
私は、2月23日(土)~26日(火)の集会には、参加できないので、集会の担当者の方は、録音を用いるなど、適当な方法で行なってください。 24日(日)の主日礼拝は、録音をしておきます。 ○今年のイースター特別集会は 3月31日(日)、午前10時~午後2時です。 ○スカイプ集会に参加希望の方、あるいはスカイプそのものなどの問い合わせは、左記の吉村孝雄まで。最近も新たな参加者が加わっています。最初は慣れない人もいますが、何度か参加しているうちに慣れます。
○十二月六日(木)いのちのさと 詩編一〇七1~22 ○十二月九日(日)Ⅰコリント八・1~5 25名 ○十二月十日(月)藍住集会 詩編一一九編129~136 ○十二月十六日(日)主日礼拝 Ⅰコリント八・7~13 ○一二月一八日(火)移動夕拝 中川宅 イザヤ五六章1~8 ○十二月二十三日(日)クリスマス集会 午前10時~午後2時 ◯十二月二十四日(月) 北島集会 詩篇23篇 ○一二月二七日(木) スカイプ集会(この集会は、全員が自宅でいて、インターネットのスカイプによって実際に集まったときの集会と同じような礼拝―賛美、祈り、聖書講話があります。) ○十二月三十日(日)主日礼拝 詩編 一三〇篇 34名(スカイプ参加者4名を含む) ○十一月二十九日 スカイプ集会「このぶどう酒はどこからきたのか」ヨハネによる福音書二章1~11節他 23名(徳島・神奈川・東京・愛知・千葉・福井・三重・福岡・北海道・大阪より参加)(これは前回の集会だよりに未掲載) ○元旦礼拝 一月一日(火)午前6時30分~8時30分 |
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