あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。(使徒言行録1の8) |
ステファノはキリスト教史上最初の殉教者である。彼は信仰と聖霊に満ちた人であった。殺される時でさえ、聖霊に満たされていた。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て…」(使徒七・55)
聖霊に満たされると、イエスのために死ぬことさえも、受け入れることができるようになる。それは信仰を知識として知っているということとは全く別である。学問もなくても、聖霊が与えられると強固な信仰が与えられる。だから、わたしたちが求めるべきはこの聖霊である。
ステファノは「恵み」と「力」に満ちていた。この力は聖霊によって与えられるものである。 力には、腕力、体力、学力、芸術やスポーツなどの能力、軍事力、経済力などさまざまな力がある。わたしたちはこの世の中で、さまざまな力、悪の力に影響されている。人間にはどうしても愛や真実なことができない。それは人間には罪があり悪の力、悪い霊の力が働いているからである。それとは全く別の真理の力が存在する。その真理の力を完全に持っていたのが主イエス・キリストであった。主イエスが弟子たちに伝道の税所に与えた力は、この悪の力を追い出す力であった。
また、「恵み」についてはヨハネ福音書には以下のようにある。
「…わたしたちは皆、この方(キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(ヨハネ一・16~17)
キリストにつながるときその恵みを受け取っていくことができる。恵みと真理は、人間からではなく、キリストから与えられる。恵みが与えられるとき、人間の奥深い心の問題の解決が与えられる。心はさまざまな良くない思いに引っ張られる。また取り返しのつかない罪もある。しかし、主イエスはそのような弱い心を救ってくださり、罪を赦して清めてくださる、それが主イエスの恵みである。
「彼が知恵と霊(聖霊)とによって語る」(10節)とある。この知恵とは英知という意味である。真実が言えないのが人間である。罪の赦しも、この英知がなければわからない。主イエスこそが最も英知に満ちていた方であり、すべてを見抜くことができていた。この英知が与えられるためには何をしたらいいのか。
「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言一・7)
主を畏れること、これこそが英知の出発である。神様が全能であり正義である方。だから悪を裁く方でもある。裁くということは正義と結びついている。人の心には愛も真実もない。神の裁きには耐えられないので誰もが裁かれてしまう。しかし、主を仰ぎ望めば救われる。そのままでは裁かれるが、仰ぐだけで赦していただける。 わたしたちもこの世の悪に打ち倒されないためには、この聖霊による英知と力を求めていく。それは求める真剣さによって確かに与えられていく。
39名(内スカイプ3) 子供2名
ここでは応答してくださる神が示されている。主の裁きをすべて前に置く、とある。しかし、人間がそのままで、主の裁きの前に立つとき、それは正しくあり得ない。神によって裁きを受ける者である。しかし、新約の時代になり、これは変えられた。キリストによってその罪があがなわれたのである。正しいことができない人間をキリストが、その罪を負い、身代わりに裁きを受けてくださった。そして、そのことをただ、信じるだけで正しいとされる。それが、信仰によって義とされる、ということである。正しくないままで、正しいとしてくださる。そして、信じて受け取る者を神は喜んでくださる。
神の応答は常に真実である。人間は忠実に尽くしたからと言って、忠実に答えてくれるとは限らない。人間の罪があり弱さがある。罪ある人間に従うのではなく、神を信じ神に従うことが示されている。そして、そのうえで人間に関わっていく必要がある。神は人の心の忠実を見てくださる。人に見えないところで神に忠実に祈るとき、神はそれに応えてくださる。人の見ていないところで良きことを行うとき、その真実はまわりに、何か良きこととして伝わっていく。
神の応答には限界がない。病院の中、牢獄の中、どこでも神はいてくださる。迫害のさなかでも、答えてくださる。死の苦しみのときでも、そこを通り過ぎると、完全な安らぎが与えられる。 神は決して信じる者を捨てない。どんなことがあっても、応えてくださる神。だから、神は光になるのである。罪の闇をも主は照らしてくださる。神のみことばこそがともしびである。さまざまな闇がある。そのただなかに光がある、命の光、それが主イエスである。応答してくださる神を信じ、この光なるキリストによって導かれ、生かされて行きたい。
詩篇 119の1名19
○十二月八日(月) 北島集会 ゼカリヤ一章1~6
ゼカリヤは今から約2500年ほど昔の人。ここで言われている「わたしに立ち返れ」というのは預言書に共通のメッセージである。人間ばかりを見ているところから方向を転じ、神を見よ、と。バビロンに捕囚となったのは、神に立ち返らなかったことへの裁きであった。立ち返らねば裁きは必ずある。が、神に立ち返り、罪の赦しをいただけば、心の動揺はおさまり力を与えられる。遠い昔の話しではない。
神に立ち返るとは、新約聖書の養護では「悔い改め」である。 自然のままの人間は、日々、ほとんど人間に関することばかり見つめ、考えている。そのような人間に対して、聖書は一貫して、神に方向転換せよと呼びかけている。
朝起きてから、どれくらい神に立ち返っているか。自然を見ても人間社会を見ても、少しでも祈りの気持ちを持つかどうか。祈りの気持ちなしに悲しむべきものを見る時には霊的に害がある。しかし日常でも神さまに心て方向転換することは至る所で可能である。個人の心の問題から、政治上の欺きや権力の問題にも、このことは関係している。
呼びかけ、そして待っておられる神さま。創世記3章9には、アダムとエバが罪を犯したあと「どこにいるのか」と神さまが呼びかけた。その時の人間の心が神さまからどれほど遠く離れているか。そのことに気づくのを待っていてくださる。また、弟を殺してしまったカインにも、お前の弟はどこにいるのかと呼びかけられた。これも、カインが自分の罪に気づくのを待たれたのであった。 ペテロもまた、イエス様を「知らない」と否認したこのとき、イエス様はペテロをとじっと見つめ、「わたしに帰りなさい」と言葉なくしてよびかけられたのである。
ダニエル書6章 中田 恵さんが、初参加。
・聖書講話 猛獣のなかに投げ込まれるという事態となっても、なお、そこに神は御使いをおくり、ライオンに噛みつかれるという危害から守って下さったこと。こうしたことは、現代の私たちにも、あてはまること。助けはなく絶望的だというときでも、神は不思議な方法で助けを起こされる。
・講話に関しての感話。
○N…活ける神、天にも地にも働く神。その神が、私たちを滅びから救ってくださる。イエス様、活ける神を信じて 神の国が来られるまで信じ続ける。
○K…旧約聖書のダニエル書の内容、そのメッセージはいまも私たちにもあてはまるものがある。目を覚ましていることの必要。周りの悪の支配の力が私たちをねらっている。油断しているとちょっとしたことで 悪の力の支配に動かされるので、祈りと賛美を。
○S…祈りと賛美は切り離せない。せまってくる悪の力とたたかうための武器となる。迫害の時代のもえるような信仰を いまのなまぬるい時代で もち続けたい。
○I…ライオンの口を閉ざしてくれた。ライオンがいるから食われるだろうと思っても 神様と結びついていたらライオンがいても口を閉ざしてくれる、神様の力の大きさ。祈りは戦いだ。
○Y…祈りと賛美(11節)のことについての真実な解きあかしを聞いた。王の口を通して神様のことを賛美し、告白した箇所は マリアの賛歌 ルカの1の46を思い起こした。
○K…たいへんなことが起こったとき、祈りや賛美が消えてしまうことがある、しかし、使徒言行録のパウロたちが牢獄にあっても祈りと賛美をしていたことが心に残った。。私たちは、 見えない力で守られてきたからこそ、今日までキリスト教の集会に参加もできてきたし、祈りもできる。
イエス・キリストは、なぜヘロデ王の時代に誕生したのか。ヘロデ王は残虐な王だった。闇の治世だった。主イエスが生まれたのは、平和で安泰な世の中に生まれたのではない。闇のようなところに生まれた。このことの中にも福音がある。主イエスは今も、闇の中に来てくださる。いかなる苦しみが訪れたとしても、そのただ中に来てくださり、真実と愛の御支配を与えてくださるのである。
東方の博士たちは、自分の国を遠く離れ、はるか遠くの国に生まれたイエスに会いに来た。命がけの旅の目的は、礼拝するためであった。 私たちの日曜日ごとの集会の目的も、キリストを礼拝するためであり、主イエスに会うためである。目には見えない、主イエスに会い、礼拝し、み言葉をうける。そのために集まる。そして、それが適切になされるとき、それだけで深く満たされる。
博士たちは星を見た。主イエスに会わせるために導く星が突然現れて、彼らを導いていった。これに相当する不思議なき手は、、歴史を通してずっと起こされてきた。
博士たちは、黄金などの大事なものをわざわざ遠くまで、主イエスに捧げるために行った。キリスト教の集まり、礼拝も同じである。共に集まり、心の中の黄金を捧げる。キリストに会うということは、それだけ、大事なものを差し出そうという思いになる。
主イエスに出会うということが、最大のめぐみであるが、それはしばしば安全な道ではない。博士たちもそのために、殺されそうにさえなった。しかし、そのただ中に導きがあり、そして、帰りにも守り、導きが与えられていた。
今、星の導きのようにわたしたちを導いてくれるもの。それは聖霊である。聖霊がわたしたちを導いてくださる。
「霊の導きに従って歩みなさい。」(ガラテヤ書5の16)
星の存在は地上で戦争が起ころうと災害があろうと変わることはない。同様に、いかなることが地上で起ころうとも、私たちの導きの星たるキリストは変ることがない。どんな闇、どんな弱さや汚れの中にも、輝く導きの星、主イエスは来てくださる。
ヘブライ書11の1~16 二七名、内スカイプ一五名
「信仰による歩みと天のふるさと」
信仰によって、何が与えられるかが書いてある。わたしたちに与えられてきたことと、ここに書いてあることを比べてみる。
信仰によって義とされるとは、罪ある者が赦されること。義とされるからこそ平安がある。いつも罪を責められたら喜びがない。赦されたから喜びがある。こういう事は分かりやすいが、ここでは視点を変えて今まで何千年も続いて来、これからも続く大きな流れの中で書いてある。私たちは、ともすれば今の自分のことばかり考えて狭くなる。
エノクは天に移されたがエノクを通して、はるか後に明確に啓示される復活が預言されている。神を信じる信仰は、神の言葉も信じる。ノアも乾燥地帯で大雨が降ることは考えられなかったが、神から聞き取って嘲られても舟を造った。アブラハムも、神の言葉を信じて出発した。アブラハムの行動は直接にはカナンを指して進み、目に見える目的には着いたが、約束のものは手に入らなかった。永遠に堅固な都は与えられなかったのである。地上は仮住まいで本当の故郷を目指していくモデルになった。信仰がなければ死んだら終わりの人生になる。聖書は無意味な事を言わない。信仰によって天の故郷が分かる。待つ心も信仰によって芽生えてくる。
本当の神様を知らなければ行動的に決断できない。自分の安らぎだけでなく、どちらの道を選択するか、神様によって促される。礼拝に行こうと思うのも決断。集会を開くのも、命がけの時代があった。矢内原忠雄は間違ったことをする国が滅びると言って、問題にされた。信じますと言うだけでは楽だ。しかし、そこに決断が必要な時、信仰によって見抜く目と選ぶ力が与えられる。信仰とは動的なもの。信じているだけで終わらない。周囲の人によって決めるか、信仰によって決めるか。一日の内でも決断が要る。どのような場でも信仰によって働く。最終的な都を熱望する者には、今天のふるさとにあるものが与えられる。それが聖霊である。新約になり神様が私達の内に来て下さった。
○第1部 子供とともに
①賛美 「もろびとこぞりて」讃美歌 全員
②賛美演奏 オカリナ
「一度 死にし 我をも」 新聖歌202
「かいばのおけに」福音こども讃美歌9
③賛美 いのちのさと
「赤とんぼ」「二匹のさかなと」こども讃美歌21
「神の御子は」」新聖歌75番
④紙芝居「王様」、こどもの歌、その他。
○第2部 み言葉に聞く 司会 伊丹・ 讃美 「御使いのたたえ歌う」新聖歌86
・ 聖書朗読 マタイ福音書2章1~12 ・祈り
・聖書講話 「キリストへの礼拝の意味するもの」吉村孝雄
・賛美 「まぶねのかたえに」新聖歌83 ・黙祷
○第3部 讃美のひととき 司会
①ギター賛美 「みつばさのかげに」 リビングプレイズ128
②デュエット 「主イエスの清さにふれ」リビングプレイズ95
③手話讃美
・「歌い続けよう主の愛を」友よ歌おう28
(手話の説明あり、参加者も加わる)
・「神の御子は」新聖歌75
④コーラス
・ 聞け、天使の歌 (讃美歌21-262)
・ マジェスティ(新聖歌170)
○第4部 感話会 (各3分以内) 司会
○第5部 食事と交わりタイム 司会
賛美、自由交流など。
クリスマスメッセージ 吉村 孝雄
キリストがお生まれになったとき、博士たちはキリストを礼拝するために遠い道を旅していった。そのとき、博士たちは星によって導かれ、砂漠地帯を進んでいった。
この星の導きは今もある。キリストにある集まりは、目には見えないキリストの星の導きによって、ひとりひとりが集められたと言える。そして、この世の旅路を歩んでいく。時には砂漠のような苦しい状態がある。しかし、どのような状態であっても真実な導き手があるということを、聖書では星として示している。
キリストがお生まれになったのは、どのような時代であったか。それは、ヘロデ王の時代であった。残虐な王であった。妻、子供などでさえ、自分の権力のために殺していった。そのような深い闇の時代のただなかに、光りであるキリストが生まれた。このことを深く知るとき、わたしたちに今後、何が起ころうと導かれることを示している。迫害の厳しい時代に、キリスト教は大きく広がってきた。何が起ころうと、キリストの光は輝き、導いてくださる。
博士たちは星に導かれ、命がけの旅をした。それは、礼拝するためであった。そして、幼子であるキリストの前にぬかずいて、宝を捧げた。
キリストに捧げる宝。それは、今のわたしたちにもある。わたしたちの心を捧げていくことができる。
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩篇五十一・19)わたしたちが捧げるべきものは、神様の前に砕かれた心である。だから、本当の礼拝は誰でもできる。そして、それによって罪の赦し、永遠の命が与えられ、神の賜物を豊かに受けることができる。たとえどのような情況であろうと与えられる。死が近づくときであっても、すべて失われていくそのただなかに、よみがえりの希望が与えられる。心からの礼拝を重ねていくとき、すべてのことに感謝ができるようになる。
だから、パウロはいつも祈り、絶えず感謝することを記した。人間は、明日、何がおこるかわからない弱い者である。だからこそ、真の礼拝を捧げ、闇のただ中に輝く光を信じ、導かれて行くものでありたい。
地上の人は、ペルシャの支配のもとに安らかに暮らしていると言われている。だがなぜイスラエルの人々には何の変化も起こらず苦しみが続いているのか。神殿を再建しようとしても妨害され、苦しみを耐え忍んでいる。表面的には平安を保っても、一方では真実を求めている人が弾圧を受けている。主よなぜ、それを放っておかれるのですか。この叫びは今も続いている。
だが13節で「主は優しい(トーブ)、慰めの言葉をもって答えられた」とある。トーブは、単に道徳的な善悪だけでなく、グレイシャス(英語)のように、良いということの幅広い意味合いがある。
わたしたちが真剣に問いかける時、時が来たら、このようにグレイシャスな言葉を主はかけてくださる。
苦しみは七十年も続いているのに、なぜ…という問いかけに対し、いやそうではない、神は、激しい情熱を傾けているのだ、と言っている。悪しき者は滅ぼされ、悪しき状態は続くのではない。時が来ればはっきりとした、神のみ手が差し伸べられる。すべて測り縄(神の計画)どおりに行なわれていくのだ。今も、「いつまで主はわたしたちを憐れんでくださらないのか」という人間の深い叫びは詩篇74篇や、黙示録6章10にもある。
だがそこに語りかけられる神さまの「再び」という言葉。死んでしまえば再びもとにはもどらないようなものも、神の力が再びもとにもどすのだ。わたしたちも、どのような状況になっても、神に祈れば再び建て直してくださる。たとえ死んでも、永久に終わりではない。再び、朽ちることのない命に建て直してくださるのだから。
〇十二月二四日 キャロリング… 毎年クリスマスの前夜に、E.Tさんの担当で、例年のように、集会場近くの大通り沿い、住宅街の一部などでクリスマスの賛美を歌ってきた。今年で、
二十四回目となった。真冬の寒い夜、一時間半ほど。二十三年という年月、このキャロリングが続いてきたことにも驚かされるし、それを支えてくださった主に感謝。 今年の参加者の中には、小学2年生の女子がどうしても参加したいと言って加わったこと、また八十歳を越える高齢者も寒さのなか、参加されたり、今回初めて参加された方も複数名あった。終わったあと、集会場において、軽食をとりながら、交流のときが与えられた。(参加者 十七名)
○十二月二十八日(日)主日礼拝 (ガラテヤ五・16~18) 36名(内スカイプ4名・子供1名)
ガラテヤ書は信仰による救いについて書かれている。そして、救われた後、生きて働く聖霊に導かれていくのである。それはロマ書にも記されている。
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。(ロマ書八・4~9より1)
「同様に、霊(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。…
霊(聖霊)は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ書八・26~28)
このように、聖霊によって導かれて歩むことの重要性が強調されている。 未知の道を歩いて行くためには、地図や知っている人など、何かに導かれないと進めない。道はたくさんに分かれており、目的地に行くために、どの道を行くか、常に選び取っていく必要がある。歩むとは、生活することを指す。わたしたちも、生活の中で、道を選び取っていくが、間違ったことを選び取ってしまいがちである。言うべきこと、なすべきこと、時間の使い方、お金の使い方、常に聖霊によらなければ間違った道を歩んでいく。祈りについても、聖霊によって祈るか、自分の思いで祈るかが問われる。礼拝の前にも、まず、自分がどれほど足りない存在であるか、罪の中にあるかを思い、そこから神に向きかえる必要がある。
霊に導かれて祈るとき、個人のことだけにとどまらない。日本のこと、世界のことを思い祈る。政治のことも御心にかなうものとなっていくようにと祈る必要がある。主イエスは絶えず、イスラエル全体のことも祈られていた。
聖霊によって導かれるときに、どのような闇があっても光がある。光があるから進んでいくことができる。
信仰が続いてきたということも、キリストの名によって集まることができるということも聖霊に導かれてきたということである。
聖書は導きの原点である「光」が書かれている。かつての殉教者たちは殺される時でも光りを見続けた。最初の殉教者であるステファノも殺されながら光である主イエスを見つめていた。
詩編23編には「主はわたしの羊飼い」とある。主イエスこそが真の導き手であることを指し示している。そしてまた、マタイの福音書のはじめに記されている系図も、そこには神の大いなる導きが書かれている。ひとりひとりが神に導かれ、罪をも清めて用いられたことの証しである。
人が正しく導かれるためには主が共にいてくださらなければできない。人間は自分の考えや、他人の考え、この世の考えに引っ張られていくからである。この世の多くの情報は、神の国に導かれるものではなく、遠ざけるものが多い。
主によって導かれ、その最後には十字架をかざしていただき、神のもとに帰ることができる。聖霊によって導かれる恵みと希望がそこにある。
〇冬季聖書集会…1月23日(木)~25日(日)。
・場所は、「上郷 森の家」
・主題 「私の愛にとどまりなさい。」
横浜市栄区上郷町1499?1
電話:045-895-5151
吉村孝雄はこの集会での、聖書講話が予定されています。それで、25日の徳島での主日礼拝は、録音を用いる予定です。
・なお、部分参加で、宿泊なしで、食事も個人的にとる場合は、直前でも参加可能と思われますので、何らかの事情で、急に参加できるようになったなどの方は、担当の関 聡さんに問い合わせてください。関さんの電話 026-274-3131
〇1月27日(火)移動夕拝
・場所 …板野郡藍住町の奥住夫妻宅。
・主題…「主だ!」ヨハネ福音書21章1~14節。スカイプでの参加も可能です。申込は吉村孝雄まで。
〇1月のスカイプ集会 (これは参加者全員が自宅にて、スカイプを用いてする集会です。)
1月30日(金)午後8時~。申込は
、
〇2月8日(日)吉村孝雄は、神戸市の阪神エクレシア、大阪府の高槻市での集会で、み言葉をかたる予定です。(問い合わせ先などは、「いのちの水」誌1月号参照。)
〇インターネットのスカイプを用いて、徳島聖書キリスト集会の主日礼拝や、家庭集会、スカイプ集会などに参加しておられる方々が以前からあります。 いままで、火曜日の夕拝は、第4火曜日の移動夕拝以外は、インターネットに接続してはいませんでしたが、今年1月からは、第一、第三火曜日にも、希望者には接続して夕拝に参加することもできるようにしています。
毎月第一、第三火曜日の午後7時30分~9時。 1月では、1月20日、27日(移動夕拝)、2月3日、17日、24日(移動夕拝)です。この火曜日夕拝へのスカイプ参加は、吉村まで下記のメールアドレス宛て申込ください。
★元旦礼拝…下の写真は、今年、1月1日の午前6時30分~8時までの 元旦礼拝が終わってからの撮影です。開始が早朝であるにもかかわらず、遠く200キロ余も離れた愛媛県松山市から、また兵庫県からの参加者もあり、新しい年を、祈りとみ言葉、賛美によってはじめられたことを感謝でした。
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