その憐れみは、代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ。
主はその力によって傲慢なものを打ち散らし、 |
使徒言行録九・32~十・8
ペテロは中風で寝ているアイネアに「起きなさい」といった。するとアイネアは起き上がった。また、死んでしまったタビタに「起きなさい」と言った。タビタも起き上がった。このようなことは、わたしたちの日常や現実から見ると、かけ離れた出来事に思える。
しかし、この時ペテロたちには特に豊かに聖霊が注がれていた。聖霊により、神の力によって奇跡がなされていたのである。現在は、このような奇跡は起こらなくても、同じように、霊的に死んでいた状態から、新しい命を受けて起き上がる、ということにつながっている。その象徴として、この時代に奇跡を起こされたのである。
人間は誰もが、神の無差別的な愛、いかなる汚れもない真実や清さ…等々などと比べるとき、死んだような者である。それは以下の記事にも記されている。
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(エフェソ二・1)
「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――」(エフェソ二・5)
そのような死んだ状態から霊的に復活させていただけるのである。
アイネアは八年間も寝たきりであった。しかしキリストによって癒され立ち上がることができた。アイネアは「起きなさい」という言葉で起き上がった。この「起きる」という言葉は「復活をする」とも訳される言葉である。死んだ者、動けない者、どうしようもない状態、そこから生き返ったということである。イエスから「立ち上がりなさい」という声を聞いたら人間は立ち上がることが出来る。人間を立ち上がらせるもの、それは神の言葉である。
マルコ福音書にもイエスの言葉によって生き返り立ち上がった少女の記事がある。この少女は会堂長の娘で死んでしまった。
「そして、子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。
これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」(マルコ五・41~42)
イエスの言葉によって死んだ者を立ち上がらせることができる。そのイエスは天地創造の前から存在している神であった。だからイエスの光、イエスの言葉を受けたら起き上がることができるのである。
人間は、弱く起き上がれなくなる存在である。災害、戦争、病気、人間関係などで立ち上がれなくなる時、また、闇の力によって打ち倒される時がいつか来る。聖書は人間を鋭く見抜き、この世の闇の力から救う道を示している。そのときイエスだけが倒れた者を立ち上がらせることができるのである。
タビタは、弱者に施しもしている女性だった。死んでしまったタビタにペテロは「起きなさい」と言った。神の力が臨み死んだタビタが起き上がることができた。わたしたちも、真剣に求めたら、この起き上がる力が与えられる。祈りによって、生き返ることができる。礼拝も、この世の闇の力で起き上がれなくなったとき、神のことば、力によって起き上がるためになされている。
ペテロの真剣な祈りで、倒れた人が立ち上がった。そのあとでコルネリウスの祈りについて書かれている。コルネリウスが祈っていると、「あなたの祈りと施しは神の前に届けられた」とある。祈りも行いも、神の前に届けられていることがわかる。 ペテロの奇跡も真実な祈りによってなされた。コルネリウスもその真実な祈りが聞き届けられていた。神様はわたしたちの祈りを聞いてくださっており、そして行いを見られている。小さな祈りも聞き届けられない祈りも、すべて御前に覚えられ、神の時に備えられているのである。
「あなたがたは神に敵対していた」とある。自分は特に悪いこともしていない、犯罪も犯していないので神に敵対などしていないと考える人もいる。しかし、神の完全な基準に照らしたとき、どんな正しい人も神に敵対することになる。神は愛である。他者を憎むときそれは愛に反するので神に敵対することになる。嘘をいうことも、真実の神から見れば反することになる。人間の本当の姿は、神からかけ離れている。人間はまず自分中心である。それが神に反する。つまりすべての人間が心の中まで見たら神に反するということである。それは学問でも努力でも直らない。人間にはできない。
人間はすべて正しい者はいない。ローマ人への手紙にこのように記されている。
「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」(ローマ三・9~12)
神の完全な基準から見たら、だれもが罪人と言える。しかし、そこに大きな転換点が示された。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(ローマ三・21)
このような救いのない人間に、まったく新しい道が示された。律法と関係なく、信じるだけで、正しいと見なしてくださる。愛がないのに愛があると見なしてくださる。このことがここでも示されているのである。
信じるだけで、神の前に傷がないものとしてくださる。完全な神の前に、不完全な弱い者を、完全であると見なしてくださる。信じるだけで救われる。罪を犯してしまっても、十字架を仰ぐだけで罪を赦してくださる。
福音が約束をしている希望、それは罪を犯しても赦してくださるかたがいる、信じるだけで赦してくださという希望である。死んだら終りではない、殺されてもよみがえることが出来、キリストと同じ姿に変えてくださるという希望である。
パウロの使命は、その福音、つまり神の言葉に仕えることであった。人はいろいろなものに仕えながら生きている。しかし、変わることのない、そして正しい神に仕えていく。聖書を基としていくことが、神に仕えるということである。神の言葉に仕えているから、苦しみを与えられても、甘んじて受ける。苦しみからは誰でも逃げたい。しかし、この苦しみを通して福音が伝わるのだと思っていたので、苦しみをも喜びとすることができた。 キリストの苦しみの欠けたところを補うとはどういうことか。パウロは、ムチや遭難、飢餓など大きな苦しみに遭った。主イエスは3年間の伝道であり、限られた時間の苦しみであった。だからパウロはこのように言ったのである。
世のはじめからの「秘められた計画」とは、神の深いご計画で「奥義」「神秘」とも訳されている。神のために分けられた人たちには神の奥義が表された。ずっと隠されてきた神のご計画、それがキリストである、神と同じ力を持ち、天地を創られた方、そして、人の悲しみも痛みも知っていてくださる方。このキリストは今も生きておられ、集まりにおられ、また、個人の心の中に住んでおられる。キリストが救い主であるとわかった人は、どんな偉人よりも深い奥義が示されたと言える。そして、この世では目立つことはなくても、地下水のように流れていき、必要なところで用いられ福音は伝わっていくのである。
マタイ二・4~12 34名(内スカイプ12名)
東方で星を見た学者たちが預言されていた「ユダヤ人の王として生まれた方」を礼拝しにきた。それを聞いて王であったヘロデは不安を抱いた。さまざまな罪の中にいたエルサレムの人も、神の裁きを思い不安を抱いた。
メシアはユダヤのベツレヘムで生まれる。これはイエスが生まれる七百年もの前に旧約聖書に記されていた。
「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ五・1)メシアがベツレヘムで生まれること、そしてこれから生まれると言うのに永遠の昔に生まれていた、ということが記されている。それはイエスこそ神であり、天地創造の前から存在していたことを示している。ここに記された神の御計画は七百年後に実現した。神の時は計り知れない。今、願いがかなえられなくても、たとえ自分が生きているときには実現しなくても、神の時がある。それを信じて待ち望みたい。
「彼は立って、群れを養う 主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり その力が地の果てに及ぶからだ。」(ミカ五・3)
群れを飼う羊飼い、ということがここでも示されている、そして、その力が全世界に及んでいく。彼こそが平和である。主イエスは「わたしの平和を与える」と言われたことからもわかる。
ヘロデは学者を集めて、星を調べさせた。学者たちは、サタン的なシンボルでもあるヘロデに呼ばれてイエスのもとに導かれた。そのまま、ヘロデに報告したら殺されたかもしれない。しかし、東方で見た星が再び出て導かれて進むことが出来た。
主イエスが生まれているところで星がとまった。博士たちはその星を見て喜びがあふれた。この「喜びがあふれた」という言葉は、原語では幾重にも喜びという言葉が重ねて書かれており、その大きさを表している。主イエスのもとにくると喜びがあふれる。この世の喜びは、一時的であり、それによって人生が変わるということもない。しかし、主イエスのもとに行くとき、生涯さえも変わる。そして、博士たちは、主イエスを拝んだ。神であるから礼拝したのであった。
博士たちは宝の箱を開けて、黄金、没薬、乳香を捧げた。黄金とは滅びないものであり、永遠の王としての支配権を象徴している。キリストが「王である」ということは聖書が明確に示している。
乳香とは、乾燥地帯に生える植物であり香料として使われる。鎮痛薬、鎮静薬としても使われており、癒しを象徴しており、また、霊の香りといえる祈りを受けるキリストの神性を表している。 没薬、これは、防腐剤、腐敗を止める効果があった。「死」に関わるものであり、キリストの十字架での死を現している。この博士の捧げ物が、キリストの王としての支配、その神性、わたしたちのために死んでくださった十字架の贖い、ということを象徴しているのである。このことを絶えず思い、待ち望むときが主の日の礼拝であるとも言える。
博士たちは、神に導かれた。ときに危険にもあうが、最後まで導かれた。わたしたちも、努力や学問、自分の思いではなく神に導かれる必要がある。そして、それは、能力や健康の有無にかかわらずどんな人にも与えられる。誰でもができることが書かれている。だから福音なのである。生きていく上では様々な問題や困難を誰しも負っているが、そのただ中で、神に導かれて生きたいと願う。
〇12月のスカイプ集会は、移動夕拝と兼ねて、12月15日(火)に行ないます。会場は、中川 啓、春美夫妻宅です。
スカイプでの参加希望の方は、次に申込してください。
〇冬季聖書集会の締切りは12月20日です。申込は関 聡 兄まで。
〇「野の花」文集は、来年1月発行で、1月号の「いのちの水」誌に同封します。去年に送付したのと同じ部数で送付する予定ですが、もしその必要部数に増減のある方は、連絡ください。
〇来年の徳島聖書キリスト集会での元旦礼拝は、1月1日午前6時半からです。
〇新しい年を迎えて、ともに祈りを合わせていく一年でありたいと願っています。その祈りをより多くの方々とともにしたいという希望の方は、「祈りの友」に加わることをお勧めします。特別な義務とかはなく、ただ、主にあって「祈られ、祈る」ことが目的です。11月から12月にかけても新たに3人の希望がありました。
問い合わせや申込は、左記の吉村 孝雄まで。
あなたのみ言葉は、天において永遠に堅く定まり、 あなたの真実は、世々に及ぶ。(詩篇119の89~90より) |
35名こども1名(内スカイプ4名)
列王記の冒頭、ダビデは老年になり弱さの中にあることが書かれている。そして追い打ちをかけるように四男アドニアが思い上がり「自分が王である」と宣言をするということが起こった。それを祭司アビアタルが後押しした。アビアタルは、サウルが祭司をすべて殺したとき、一人だけ生き残った人物である。ひとり助けられ、導かれたアビアタル。そんな人が悪の後押しをした。人生のある時期に熱心に神にしたがっていても、油断をすると罪の中に落ちていく。かつて熱心であったかどうかでなく、どうであるかが大事である。
ナタンは、ダビデが大きな罪を犯した時、その罪を告げた預言者である。王にその罪を直言する―それは、場合によっては命にかかわることであったがナタンは神にしたがった。そのナタンが、今回の出来事をバテシェバに伝え、直ちに、王にも伝えることになった。ダビデは、預言者ナタンとツァドクを呼んで、神に聴き、その上でソロモンを王とした。
ダビデはもう老いて弱い状態であったが、最後まで神に聴き神に従っていった。どんなに弱くなっても、目を覚ましていれば、神の御意志はわかる。ダビデは、最後にでも正しい決断ができた。それはナタンの助けもあった。ナタンの働きは大きい。どんなに神にしたがっている人でも、主にあって助ける人の存在が重要である。誰でも人間は間違うことがある。だから、互いに祈りあう、助け合うことが大事である。
ダビデの人生の最後にもこのような試練があった。イエスを信じるとき最後にまでもサタンの攻撃があるので目を覚ましている必要がある
二章ではダビデの最後が書かれている。死の直前に語った言葉の中に、二つのことがある。
ひとつは、祝福は御言葉に従うところにある、ということである。どんなに苦しいところにあっても、罪があっても、取り返しがつかないことであっても、なお、赦しを乞うとき、それは赦される。御言葉に従うときこそ、祝福がある
「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、すなわち牛の子や羊の子も祝福され、
籠もこね鉢も祝福される。あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。」(申命記二十八・2~6)
祈って神の声に聴いていくとき、それは祝福されるのである。
次に、「まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩む」ことの祝福が書かれている。「まこと」これは原語のヘブル語では「エメス」。「堅固にされた状態」「真実」を意味する。心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、という「心をつくし」とは原語の表現は、「すべての心を用いて」なので、外国語訳はそのように訳している。
「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」(申命記四・29)
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記六・5)
これが一番大事なことであると、主イエスが言われた。心を尽くして神を愛するという、繰り返し語りかけられているその流れが今日のところにも流れてきている。わたしたちは何かを愛している。何に心を注いでいるか。 唯一の神に心を注ぎだす。それを目標としていきたい。
パウロが、天からの光を受けて変えられた。パウロは福音伝道という面からは最大の働きをしたキリストの弟子である。人から言われて心が変えられたのではない。パウロを変えたのは、イエスの言葉であった。どんなにしても人が変わらないとしても、復活のイエスが直接語りかけると変えられる。パウロはキリストが生きているときには出会っていない。しかし、聖霊のキリストに出会って変えられた。人間を本当に変えられるのは直接のイエスの語りかけである。それは不連続的に突然起こる。人が働きかけても変わらなくても、神が働くとき変わる。だから希望が持てる。
神はパウロを変えた。しかし、3日間も目が見えなくなった。そしてパウロは食べることも飲むこともしなかった。それは祈りに集中するためであった。徹底的に祈るため、そこまでして神はパウロに集中させた。パウロを変えた大いなる力を思うためにこの3日間を与えた。それから、神は、アナニアを使わせた。神が個人的にアナニアに呼びかけ用いた。パウロはキリスト者を迫害する悪名高い人であったが、神はアナニアに行くように命じた。彼はキリストの本質を伝えるために神が選んだ人だからであった。
そして、それは「わたしの名のために、どんなに苦しむのかを示すためである」とある、人間は愛する者に対しては、できるだけ苦しまないようにする。しかし、神は選んだ器だからこそ、大事にするためではなく、苦しめるのである。神のために選ばれると言うことは苦しみをともなう。迫害の時代には、神に選ばれるということは大きな苦しみを受けるということであった。
イエスが生まれるという啓示のときにも苦しみの記事がある。
「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」(ルカ二・34~35)
選ばれるということは、苦しみも与えられることである。神と結びついた選ばれた人には苦しみがある。その苦しみが神によって用いられている。
アナニアが祈りの中で手を置くと、パウロは目が見えるようになって聖霊が注がれた。
聖霊が注がれると、霊の目が見えるようになる。聖書が真理であると言うことは聖霊が与えられないとわからない。聖霊によらなければ、神をお父様、と呼ぶことはできない。聖霊が注がれるようにとアナニアが遣わされた。神は人を用いて神の業をなされる。わたしたちも貧しいパイプであっても用いられたら、神の道具となることができる。
そしてそこから、すぐにイエスこそ神の子であると、宣教に出て行った。キリスト教の宣教は簡単、単純なことである。神が働きかけると伝わっていくのである。そのために祈り、用いられるものとされたい。
「願いととりなしと祈り」これは、すべて祈りということである。とりなし、というこの言葉が原語では祈りという意味をもっている。「とりなし」とは、次の箇所にも記されている。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ八・26~27)
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ八・34)
祈ることもできないとき、聖霊が祈ってくださる。今も祈ってくださっている。パウロが第一に勧めること、それが祈りである。祈りの深さは、学問の研究では与えられない。まず、祈れということである。だからパウロは「絶えず祈れ」と言われている。主の教えを愛し、昼も夜も思う。祈りの対象はどこまでもひろい。関わりがある人すべてということである
「王のために祈る」とある。悪い指導者であっても、よき心が与えられますように、心が変えられますようにと祈っていく。敵対する人のために祈るとは、その心が変わるように祈っていくのである。すべての人が救われて、よき心が与えられるようにと祈っていく。人のために祈る、そのことを第一にする。それをパウロが示している。
・この第2水曜日は午後一時からの水曜集会後と、夜の北島夕拝の後、二回にわたって、集会だよりの折り込みや「いのちの水」誌の封入など発送作業をしました。
「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」とある。贖いとは、代価を払って買い戻す、という意味である。わたしたちは罪の奴隷になっていた。主イエスが命を代価として、買い戻してくださった。誰もが赦されない罪がある。人はその解決を求めて、さまざまなことで気晴らしを必要とする。しかし、本当の解決にはならない。キリストによる十字架の贖いこそが、解決の道である。
そのイエスの計り知れない大きさが書かれている。イエスは神と同じ本質をもっている。そして、天に見えるものも地のものも、すべてがイエスによって創られた。聖書は啓示を受けて、イエスが神であることを示している。
パウロの晩年の獄中書簡でも、イエスが万物の創始者であることを啓示され記している。「万物」つまりすべてのものがキリストに向けて創られたのである。病気の人、障害がある人、悪い人さえも意味があり、キリストのために創られた。
イエスはすべてのものより、前におられた。そしてすべてがキリストによって支えられている。そのキリストがうめくほどに、わたしたちのために祈ってくださる。このようなことは、小さな人間には、大きすぎて、わからない。そして人間的な心でわかることではない。聖霊が与えらないとわからないのである。でも、わからなくても、聖霊を求めていく、わからないから、わかるように祈り続けていく。
この箇所は、キリストが、どれほど大きな存在であるか、表現しきれないというほど書かれている。キリストのなかには、神様のよきことがあふれている。
キリストが十字架で死んで下さった。それによって、平和を造りだしてくださった。この平和とは、天にあるもの地にあるもの、すべてを神様と和解させた神との平和である。それは戦争がないということだけではない。真実とか愛に反対すること、それが、神に背を向けることである。その罪をゆるしていただいて、平安をいただく、それが本当の平和であり、戦争があってもなくても関係がない。どんな人でも、神と対立しており、戦争がなくても、心の中の平和がなければ、心の中は戦争状態である。心の中にキリストの平和をもっていたら、武力によって人を殺そうとはしない。まず、ひとりひとりの心の中にキリストが来てくださること。それが本当の平和の道である。
45名(スカイプ10名)
ペテロが手紙で強調していることは、何とかして、信徒たちに思い起こしてほしいという願いであった。
「これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。」とある。この「思い出す」という原語は「覚えておく」という意味もある。主イエスを深く霊的に知るようになってほしい。そのことをずっと覚え、また常に思い起こしてほしいという願いである。
「自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて」とある。
家も体も、仮のものである。田園も街も、ひとたび災害があれば壊れる。仮の姿である。しかし、変わらないものがある。変わることのない神の言葉によって、立ち上がってほしい、という願いが書かれている。
「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように」ということも同じ意味である。この世では、人間は自分のことを覚えていてほしいと願う。しかし、それらは、すべて消えていく。わたしたちは、永遠の言葉を覚えていてほしいと願う。聖書には、預言者もまた弟子たちも、最後にどのようになったかは書かれていない。人間のことを書くのが目的でないからである。聖書は、神の言葉をいかにつたえたか、ということに焦点が合わされている。ここにある「これらのこと」とは神の言葉である。
「思い起こす」ということについて聖書は他の箇所ではどのように記されているか。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記五・15)
「彼らを恐れることなく、あなたの神、主がファラオおよびエジプトの全土になさったことを思い起こしなさい。すなわち、あなたが目撃したあの大いなる試み、あなたを導き出されたあなたの神、主のしるしと奇跡、力ある御手と伸ばされた御腕をもってなされたことを思い起こしなさい。あなたの神、主は、今あなたが恐れているすべての民にも同じことを行われる。」(申命記七・18~19)
「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」(申命記八・2)
「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。
むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記八・17~18)
どのように富が築かれたとしても、それができたのは神の力である。
「エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである。」(申命記十五・15)
「その際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。」(申命記十六・3)
神がしてくださったことを忘れない。人間はかつて受けた恵みをわすれしまう。だから、繰り返し、思い起こすということが書かれているのである。くりかえし、「覚えておきなさい」「おもいおこせ」という、その背後に神のめぐみがある。わすれたら、祝福はのろいにかわる。
この流れは新約に続いている。イエスが最後に言われたことである。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ十四・26)
大切なことは聖霊が教えてくださるのである。
「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(ヨハネ十六・4)
ときがきたら、思い出させるため申命記にとくに多くの内容が書かれている。わたしたちの生活に関して、神の言葉を思い起こすとき、はじめて他者のことを祈りに覚えるようになる。それが愛することである。他者のことを祈ることがなければ意味がないといえる。いろいろな人のことを、聖霊に促されて、思い起こす。それは、静まっていないと思い起こすことができない。祈りは、みことばを思い出させ、関わっている人のことを思い出させる。聖霊が与えられたら、一番苦しい人のことを思い起こすことになる。わたしたちは聖霊を求め、つねに御言葉を思い起こし、祈りをもって生かされるものでありたい。
1節、心を尽くしてとあるが、私達もすべての心を持って感謝と賛美を捧げる。2節、神殿に向かってひれ伏して祈ったとあり、苦しい時には神様にひれ伏して祈る。また、心から感謝を捧げる為にひれ伏す。2節、神はみ言葉(仰せ)を一切のものを超えて大いなるものとしたとある。神とみ言葉は同じものである。
3節、神はどんなにたくさんの人がいても応答して下さる。力と共に答えを与えて下さる。心を尽くして神に祈り願うと神が力を下さる。殉教者は迫害で殺されても力が与えられた。4節、地上の支配者も本当の御言葉を聞き受け取ると感謝するようになる。支配者の心が変えられるように祈る必要がある。受けた御言葉は王であろうとどんな人にも及ぶ。6節、神は無限に高く居ても、低い者を見てくださり、傲慢な者を絶えず裁かれる。このような真理は学んでも分からないが啓示を受けると分かる。聖書は人間の考えで書いたのでなく啓示により書かれた。主は高くいまし・・・今頃は明けの明星が4時頃見える。星を見ると人間の作ったものと次元の誓う輝きがあり、人間がどのようにしても汚すことはできない。主イエスは明けの明星に譬えられている。7節、この詩人は苦難や敵の只中で命を得させてくださいと具体的に祈った。神は御手で必ず救って下さる。8節、主はすべてを成し遂げて下さる。私達の祈りに応え、必要な良き事をして下さる。主イエスは何も良い事が起こっていないと見える状況の中で「成し遂げられた」と完了形で言われた。神は全能で愛なので、御心を必ず成し遂げられる。
主よ、あなたの慈しみがとこしえにありますように。あなたの御手の業を放さないで下さい。
○九月一五日 移動夕拝 奥住宅 申命記三二の48~三三の7(16名内スカイプ4名)
モーセの最期が近づいた時、モーセはネボ山(ピスガ)に登り神から約束の地、乳と蜜の流れるカナンの地を見せてもらった。乳と蜜は神の祝福の象徴。モーセは見るだけで約束の地に入る事ができなかった。
モーセは40年の長い間、主のみ心を守り、イスラエルの民を困難な中で導いたが、民が水が無いと怒った時、神が「水が出るように口で命じなさい」と言われたのに「杖で岩を2回打った」。これが神に対する忠実さに欠けるところがあったとされ、約束の地に入れなかったと申命記にある。
現在の私たちも信仰を続けていくかぎり、神が霊的に引き上げて高い所に連れて行き、他の人には見えない約束の地を見させてくださる。神を仰ぐと救いが与えられる。幼子のように真っ直ぐ神を見る事が大事である。讃美歌に、ピスガの山の高嶺で約束の地を見、そこに導かれる事が歌われている賛美がある。
2節は、死海の東の方のエドムがあるが、この山の地帯から太陽が昇るように無数の聖徒が現れる。現在どんなに世の中が悪くても時がきたら太陽が昇る。聖書の民は暗さの果てに夜明けがあり、主の光が必ず昇ってくる。万能の神、愛の神、正義の神が信じられなければこの世は知れば知るほど暗くなる。
マラキ書三の19・20に「しかし、神を恐れる者には義の太陽が昇る」とある。日常的な祈りの時に、義の太陽が昇る。今日の箇所も、砂漠地帯の中から神の光が昇ってくるとある。
モーセの最期が近づいた時、民への祝福を祈った。5節では主はイスラエルの王として来られるとある。特にユダ部族には特別な祈りが注がれている。創世記四八章にもユダ部族への祝福がある。このユダ部族から主イエスが出た。色々な歴史の中をくぐりその通り実現した。
41名(内スカイプ10名子供3名)
たった一人の人が、十字架につけられて殺された。そのことによって、罪が赦された。それは、常識ではわからない。十字架の贖い、復活、再臨、それは考えてわかることではない。しかし、永遠の真理である。主イエスの十字架を信じることによって罪を取り除かれる。罪が取り除かれても人類の将来、悪はどうなるのかという最終的なことはわからない。しかし主イエスは再び来られる。そして、一切の悪が消される。どのような形であるかは、わからないが、それは必ず訪れる。
神にしっかりと結びついていないと、将来のことは闇に向かっていることを感じ憂いが生じる。自分の将来、世界、宇宙の将来を思うとき、聖書の真理はすべてを包含する。キリストの前には、解決できない問題はない。
「 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。…ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」(マタイ十七・1~5)
主イエスの声を聴く。それは時代によってはときに命がけになる。日本でも、戦争中、キリスト教会は戦争を聖戦とするという罪を犯し、時代の流れの中で間違った道をあゆんだ。主イエスの声を聴かずにこの世の声を聴いたのである。キリスト者はこの世の間違った力に反対する必要もある。キリストも、時の社会情勢や権力を持っていた人たちを批判した。そして、人に従うよりは、神に従うと言った。憲法九条はキリスト教精神で成り立っている。キリスト者は真理に立って、間違いと戦うべきである。
明けの明星が、あなたがたの心の中に上る、とある。今、明けの明星(金星)が美しく輝いている時期である。
「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(黙示録二十二・16)
朝、五時に起きてぜひ、金星を見てほしい。星は神様の永遠性を示されている。
預言の言葉、これは神の言葉である。旧約聖書の預言者も「主の日」と繰り返して告げている。そのときが主イエスの再臨である。最終的には明けの明星のように、キリストが輝く。どんなに暗い状況になっても、そのただなかに明けの明星がのぼってくる。
どんなことがあっても、日はまた昇ってくる。
「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(マラキ三・19~20)
旧約聖書の最後は、この希望のことばで終わっている。最終的には奥の力が滅ぼされ、義の太陽がのぼってくる。わたしたちが、今までキリストを信じ続けることができているのも、心に主イエスの義の太陽が昇ったからだと言える。
(内スカイプ9名 こども3名)
偽預言者に対する裁きについて書かれている。神の言葉を聞いたと言いながら、自分の考えを主張する。これは昔からなされていた。主イエスは、このように言われた。
「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。』
イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。」(マタイ二十四・3~7)
このように世の終わりには偽預言者、偽宗教家が現れる、ということが書かれている。そして、それに引っ張られていった人もいる。しかし、そのただ中で神にしたがった人もいた。偽預言者に引っ張られたひとたちは、どうなるか。深い闇が用意されているとある。だからこそ、目を覚まして神の言葉に立つ必要がある。
「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(Ⅱペテロ一・19)
私たちが、確かな神の言葉にとどまっているとき、悪は最終的には滅ぼされるのを確信できる。万能の神、天地宇宙を創られた神であるからだ。その希望がかかれている。闇が迫ってきて、そこに落ち込んでいくか、明けの明星が輝いてる希望の世界に導かれるか。道はどちらかである。
当時、偽預言者が現れて、キリストを信じ光の道を歩もうとしていた人たちを、闇の世界にひっぱりこんでいこうとしていた。だから、これほどまでに、書かれているのである。
聖書(新約)に基づく信仰かどうかを試す一つの重要な問いかけは、戦争を肯定するかどうかである。戦争になると一般のたくさんの人たち、とくに弱い人たちが多くが殺傷される。そのような大量の人たちを殺してもいいという考え方は、キリストの教えではない。新約聖書はあくまで、非戦の立場をとる。憲法九条はキリストの精神がその根底にある。
偽 預言者、偽宗教に従っていくと、一時的に権力が与えられるときがあるが、最終的には、滅びに向かう。真理に背くと、深い闇に入る。しかし、神に従う者は、永遠に輝く世界に導かれていく。それは、詩篇にも表されている。
「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩篇一・1~9)
神に逆らう者の軽さは、風に吹き飛ばされるもみがらなのである。神に逆らう者はそれほどに軽くなる。
それに比べて、真理は重く動かない、岩のようである。それは、以下にも記されている。
「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩篇十八・3)「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」(詩篇十八・32)
「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。」(詩篇十八・47)
確かな神に結びついていくとき、この世の偽預言者にも動かされない。数の力によって少数の正しいものを滅ぼすことは昔からあった。しかし、迫害があっても、キリストの真理は消えることはなかった。そして迫害をしてきた権力は、風のように消えていった。
「彼らは朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のように 煙出しから消えて行く煙のようになる。」(ホセア書十三・3)とホセア書にも記されている。
悪の力が必ず滅び去ることを信じ、神の真理に固く立って歩む者でありたい。
この詩の一部は、新約聖書の山上の教えに引用されている。
22節に、神の祝福を受けた人は地を継ぐと、29節には、主に従う人は地を継ぐとあるように「嗣業(約束の地を継ぐ)」という言葉が繰り返されている。
作者が特別に受けたこの強い啓示。だが、地を継ぐとは現代のわたしたちにとってどういうことなのか。また新約聖書ではどのような形で出てくるか。
人間性の奥には、カインとアベルの出来事のように、憎しみや怒り、妬みがあれば、人を簡単に抹殺しようとするようなものがある。だが、この愛と正反対のもの―悪はいかにして滅ぼされるのかという問題は聖書では一貫して重きを置いて記されている。そして、
時間の流れ―歴史の流れにおける神の業を記述していると共に、個人への深い関心を併せ持ち、全体的にこの世界は神の国に向かっていることを聖書は語っている。
悪は、神の目から見れば瞬く間に消えるという、この確信を持つかどうか。作者は啓示によって、そのことがわかった。沈黙して主に向い、忍耐強く主を待ちのぞめ。そうすれば、地を継ぐ、と。
だが現代のわたしたちにとって、地を継ぐとはどういうことか。七節には、沈黙して主に向い、忍耐して主を待てとあり、主に望みを置く時に、地を継ぐと言われている。
悪事を行うものは断たれ、貧しい人は地を継ぐーこのことは重要である。貧しい人とは、本来は圧迫された人、苦しむ人、やり返すことのできない人のことだ。詩篇9の13にも、貧しい人(原語のヘブル語で、アナーウイーム=圧迫されている者、苦しむ者)の叫びを…と、同じ言葉が使われている。
イエス様の山上の教えの中には、この37篇11節を用いた言葉がある。苦しみ悩む中から主を待ちのぞむ人は、地を継ぐ。また、正義が無いから飢え渇く。何も持ってない人は幸いだ。そのように、無い人が、また満たされない人が神の賜物によって満たされる、それだから幸いなのだ。そして、そのことは神の約束のよきもの(今のわたしたちには神の国という完全に豊かなもの)を受け継ぐことでもある。
23節に、人の一歩一歩を定め、とある。神さまはわたしたちの日常生活の細かなところまで守ってくださる。ただ信じて祈る。
〇九月三十日スカイプ集会 ヨハネによる福音書5章31~40節「旧約聖書とイエス」(参加者二十三名)
日本語では「神の子」というと、「人間皆神の子」と言う言い方をする宗教があるし、だれでも生まれつき神の子なのだ、ということは何となくわかったような気持ちを与える。
しかし聖書では、どのように大きな働きをした人ーアブラハムやモーセ、ダビデ、あるいは預言者などなどでも神の子とは言われていない。イエス・キリストが、神のすべての力、権威を受けた永遠の存在という意味での神の子であるということは、旧約聖書のダニエル書7章ですでに預言されている。主イエスは神様と同じだからこそ、人を救うことができる。自分自身を証しすることは、偽物でもできることである。
新約聖書では、洗礼のヨハネはイエスのことを本当のメシアと言い、自分はその方の靴の紐を解く値打ちもないと証しした。また、主イエスの様々な業が神様の力を持つことを証ししている。神様ご自身も、主イエスの洗礼の時と、十字架に架かられる前の山の上で「これは私の愛する子」と証しをされた。
主イエスの本質は何者か?それは、キリスト教の根幹に関わることである。ヨハネは福音書の最初に、聖霊によってそのことを証しした。新共同訳では、「暗闇は光を理解しなかった」と訳したが、この原語カタラムバノーは、ヨハネ福音書のほかの箇所(私は世に勝利している)などとの関連からいえば、口語訳や多くの英語訳が採用している「勝利する、うち勝つ」という意味として受けとるのがよりふさわしいと考えられるから、闇は光にうち勝つことができなかったという意味となる。
聖書の最初、実体のない世界の中で、神は「光あれ」と言われ、そこに光ができた。光が勝利したと言える。これも主イエスを証ししている。また、エマオへの途上では、主イエスご自身が、モーセと全ての預言者から始めて、聖書全体に渡り、ご自分について書かれていることを説明された。
ではその旧約聖書では、いかにキリストのことを語っているか。それは、学ぶ折々に知らされるものである。イザヤ書53章、11章、9章などは直接的にキリストを予言しているが、このような直接的表現だけでなく、旧約聖書全体が主イエスを霊的に示している。それでは、旧約聖書にある幾多の戦いの記述は、どのように解釈すればよいのであろうか。どうキリストと関わりがあるのか。それは、一般的な戦争が、人間の私利私欲によって起こされるのに対し、聖書では物欲や権力欲ではなく、周囲が唯一の神を信じていない世界の中で、信仰を持った神の民を確立するためという意味を持っている。その確立されたところから、周囲に信仰が広がっていくのである。啓示は最初から全て示されるのではない。割礼をしなければ救われないと言われていたが、後には主イエス様を信じるという「心の割礼」こそが大事であると知らされた。このように旧約聖書では武力で表現されたが、これは悪の「霊」との戦いの前段階なのである。
また、イスラエルは何度も背信行為によって裁かれるが、神様はそれでも尚イスラエルを救うと言われ、裁きと、一方では救いも与えられている。これも主イエスを表している。私たちも罪があっても、主イエス・キリスト様を仰ぐだけで救われるからである。
詩編では、1篇から絶えず御言葉を口ずさむ(黙想する)ことで、決してしおれないと書かれている。この御言葉とは、キリストである。主イエスを常に黙想することによって、私たちもしおれることがない。22篇では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というイエス様が言われた言葉が書かれている。このように、聖書全体が、キリストを示している。聖書を読むとき、旧約も絶えずキリストがどのように示されているのか繋がりを思う。そうすれば、キリストの姿、大きな存在が浮かび上がってくるのである。
主イエスは、「あなたがたは聖書を研究しているのに、私のところに来ようとしない」と言われた。聖書を学ぶのは、キリストを知るためである。「聖書は大なり。されども生けるキリストは聖書よりも大なり。われら、もし聖書を学んで彼に接せざれば、われらの目的を達せりと言うあたわず。(内村鑑三)」文字は殺すが、霊は生かす。祈りの心で2人3人が集まれば、そこにキリストはおられる。生きるキリスト、聖霊に導かれることこそが重要なのである。 (まとめと入力 K.K & E.I & H.N
& & Y.N)
〇9月23日の「祈りの友」合同集会には、県外からも、大阪、岡山、愛媛、鳥取などからも加わる方々があり、また、埼玉県や神奈川県の方々がインターネットのスカイプによって参加され、午前11時から午後4時まで、25名ほどが、祈りと賛美、み言葉をともにすることが与えられました。
◇私(吉村)のメールアドレスの変更について。
毎年1月に発行している「野の花」文集の原稿募集のときになりました。原稿の作成や提出について次に書いておきます。
〇目的…「野の花」文集は、キリスト者それぞれが受けた主からの恵みを証しし、それによって互いの交流がより具体的になり、また強められ、さらにそれぞれの身近な人や未信仰の方々にも手渡されて福音を伝える一助とされるようにとの願いによって作成されています。
〇原稿の提出先について…従来は、提出先は、吉村孝雄宛てでしたが、今年から原稿の受付係を新たにつくり、
「林 晴美気付 吉村孝雄宛」とし、提出先を林さんにしていただくことになりました。
そうして整理されたものを私が読み、さらにそれらの原稿を貝出(久)さんがパソコンで、編集用のソフトを用いてレイアウトを担当することになっています。
それは、私がいろいろなすべきことが多くあり、原稿の受け付け、整理などにミスが生じることがあり、そのようなまちがいがないようにするためです。
○内容…日曜日ごとの礼拝での聖書からのメッセージ、聖書での学びや読書で印象に残ったこと、暗唱聖句、好きな聖句、心に残っている讃美の歌詞、信仰の証し、また社会問題に関することなど。
○字数…2000字以内。
○原稿提出期限…10月末日。
○入力するときの注意事項
・ どのパソコンにもはいっているソフト「メモ帳」またはほかのエディターで作成します。(ワードなどで作成したときは、保存のときにテキストファイルで保存してください)。そのテキストファイルをメールに添付して送付してください。短い文章や聖句や短歌などは、添付ファイルにしなくても、メールの本文に書き入れても結構です。
・改行のときは一字下げる。
一行目 左詰めで 題と少し空けて名前を書く。
聖書箇所の表記は簡潔に略す。マタイ福音書→マタイ コリントの信徒へ第1の手紙→Ⅰコリントなど
節の表記は、マタイ5の23~25などのように全角文字で表記する。
・原稿の最後に職業、郵便番号、住所、E-mailアドレスなどを書く(これは交流のためですが、何らかの理由で不都合がある場合は、これらの一部でも可ですし、書かないのも可です。)
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○原稿に関しては入力ミス、不適切な表現などあるときは、編集者(吉村孝雄)の判断によって、カット、修正をすることがあります。 なお、従来と同様、提出された原稿はすべて掲載するということではなく、「野の花」の目的は主にある交流と、福音伝道なのでこの目的にそぐわないと考えられるものについては掲載されないことがあります。
霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難に耐え、常に祈りなさい。(ローマ信徒への手が12の12より) |
49名(内スカイプ10名 こども3名)
「主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘われた。」とある。歴代誌上の同じ内容の箇所では「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」(歴代誌上二十四・1)となっている。サタンがダビデを誘惑し神がゆるされたのである。数を数える、とは軍備をはかることである。それは人間の力で戦うと言うことである。モーセは神の力によって戦い、そこに神は奇跡を起こされた。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。」(出エジプト記十四・13~16)
武器の数ではなく、神の助けを願うときに、神は働かれる。目に見えるものではなく、ダビデは神にすがるべきであった。しかし、自分の力をはかる、つまり数を数えるという罪をダビデはヨアブがとめたにも関わらず遂行した。そして、九ヶ月もかかって数え終ってから、初めてそれが罪だと気付いた。人の心はかたくなで狭く、その時にはわからない罪がある。それは人から指摘されても、その時には心の目が曇っているので受け入れられない。それほど、人間は、一部分しか見えない存在なのである。そこに罪の赦しがなければ、生きていくことは出来ない。ダビデは、神に赦しを願った。しかし、そこには裁きが与えられた。民が疫病で多く死んだ。ダビデは自分の罪を謝罪し、赦しを乞うた。ダビデはその苦しみによって、自分がただ、罪あるものでしかないことを、思い知らされた。長いサムエル記の最後の記事が、ダビデの罪が書かれ、そしてその謝罪が書かれている。
心から赦しを乞うとき、神はゆるしてくださる。ダビデが「罪を犯したのはわたしです。わたしとわたしの父の家に裁きが下りますように」と祈ったとき、神はダビデに「主のために祭壇を築け」と言われた。悪いのは自分である、と気付くまで、神は導かれない。ダビデが心から悔いた。そこで神はゆるし、そして働かれた。このとき祈った祭壇がエルサレムの神殿のもとになっていった
自分の弱さを知って、悔い改め、神殿に祈りを捧げていく。神の前に自らの罪、弱さを知ってゆるしていただく。そこから、新しい力が与えられる。
はじめて、エチオピアに福音が伝わったきっかけは馬車にのって、揺られながらも聖書を読んでいたという、その熱心だった。その宦官に主が働きかけフィリポが使わされた。示された箇所が、イザヤ書であり、イエスキリストのことが予言されている箇所だった。聖書は正しい導き手が必要であり、そして聖霊によって教えられることが必要である。
フィリポの目的は、福音を伝えることであった。イエスキリストの復活、十字架の罪の赦し、その簡単なことが聖霊によって語られると伝わっていく。そしてエチオピアの宦官はキリストを信じた。その証として洗礼を受けた。そして、その目的が終ると、フィリポは主によって連れ去られた
この時代、短期間で広範囲に福音が広がっていった。それは、神が次々と示され、人を使わした。聖霊が働いていたことがわかる。
宦官は福音を受け入れたという証として洗礼をうけた。証しとして受けたのであって。洗礼によって救われるのではない。信じただけで救われる。そして、イエスは聖霊の洗礼を授けるために来た。本当の救いの証しは儀式ではない。信仰をこの世で言い表し、行動で証しをしていくことである。
次にサウロ(パウロ)の事が書かれている。サウロはステパノの死を見ていた。そしてステパノの殺害に賛成していた。立派なステパノの生き方、死に方を見ても、サウロは信仰に結びつかなかった。しかし、そのあとで、ダマスコに行くときに、キリストはサウロに働きかけた。迫害者であるサウロに働きかける。神は誰も考えたことのない道を開かれる。だから絶望はない。わたしたちが、道がないと思うときにも、そこに道を備えられるのである。 人間的に考えると、当時のサウロに福音を伝えようとは思えない。迫害し殺すことまでしているサウロには無理だと考える。しかし、神はできる。主イエスは、厳しくサウロを戒めたのではなく光の中で、静かに語りかけた。この光はイエスキリストであった。このサウロが突然かわったのは、光であった 人間は権力や武力で人を変えようとする。しかし、イエスは語りかけで人を変える。迫害に燃えていたサウロが光に対して「主よ」といった。かたくななこころが変えられた。そして何も見えなくなり、また食事も3日間断った。それは魂の大きな変革を受け入れるために、サウロを祈りに集中させるためだった。
このことはサウロだけに与えられたことではない。人生のどこかで、神に語りかけられた人は多数いる。どんな悪い状態であっても、神には妨げはない。神はどんな闇でも、突然の光を与えられるのである。
この世は闇の力が大きくなっている。しかし、神の光には妨げはない。だから、わたしたちは、神の御支配がありますようにといっそう祈っていくべきなのである。
「あなたがたにまで伝えられたこの福音」とある。福音とはよきしらせ、という意味である、
この世には悪い知らせが圧倒的に多く、よい知らせはすぐに消える。しかし、聖書の告げる福音は、二千年も続いている。この世のよき知らせは、他者にとっては悪い知らせとなることもある。しかし、聖書の告げる福音は誰にとってもよきことであり、そして能力も権力も関係なく与えられる。
「神の恵みを聞いて真に悟った日」とは、人間の心の汚れ、罪、を主イエスが赦してくださる、それがわかるということが恵みである。そして、それを深く受け止めていくとき、成長していくことができる。
「この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。」とある。
書物や人から聖書の真理を学んだ。また、パウロは聖霊から直接学んだ。そして、エパフラスは誰かの人間ではなく、キリストに仕えたと書かれている。人間ではなく、神に気持ちを捧げていくことが大事である
また、エパフラスは「霊(聖霊)に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人」とある。聖書における愛は、そのままの人間にはない。敵対する人にも、よきことがあるようにと祈ることは聖霊が与えられないとできない。
福音を受け取った人に聖霊が与えられるから、そこから愛が広がっていく。そういうことで、成長していくのである。
「絶えずあなたがたのために祈り、願っています」とある。良きことがあっても、良くないことがおこっても、そのために祈っていく。相手のために祈り、そこからまた祝福が与えられていく。
どれほど知識があっても、神の無限の力のまえでは、無に等しい。神の愛、真実、清さは、限りなく広く、深く、人間の愛や知識は神の前にははかなく小さい。
「光の中にある聖なる者たちの相続分」とある。聖なる者、とは選ばれ分かたれたキリスト者をさす。光の中におかれた、キリスト者が、神の相続分を受け継ぐことができる。
国がつぶれても真理はつぶされることはない。国が滅びても、神の国は亡びない。
目に見える国ではなく、目には見えない、神の国を相続していく。イエスがもっている神の国をわたしたちも相続させていただいた。だから、わたしたちも少しでもそれを伝えていくものとされたい。
(内 スカイプ9 名)
万物の終わりが迫っている、とある。一般の社会ではそんなことありえないと考えらえられている。しかし、これはイザヤ書の時代から啓示されていることである。
「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。…見よ、主の日が来る」(イザヤ十三・6)
これは、悪の力が完全に拭い去られるという預言である。世の終わりということはゼファニア書にも記されている。「主なる神の御前に沈黙せよ。主の日は近づいている。主はいけにえを用意し、呼び集められた者を屠るために聖別された。」「主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。」(ゼファニア書一・7と14)
ここには厳しい裁きが書かれている。科学がどんなに発達しても、世界は改善されることはない。しかし、神は世界をあたらしくすることができる。
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ロマ書十三・11~12)
「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた。」(マタイ四・17)神の御支配が近づいている。ペテロは神の最終的なさばきが近づいていることを感じていた。それは考えてわかることではない。聖霊によって知らされることである。
「身を慎んで」とある。これは、英語訳ではセルフコントロールと訳しているのもある。「絶えず、目覚めている」ということにつながる。よく祈りなさい、この世のことに支配されないようにして祈りなさい、ということである。目的は祈りである。
神の愛は多くの罪をおおう、とある。神の愛をうけるほどに、多くの罪をカバーすることができる。罪は畑に生える草のようなもの。放置すれば、次々生えてくるが、カバーで覆うと生えてこない。そのカバーのような働きをする。神の愛に覆われているとき、悪いものは出てこない。神の愛に覆われていなければ、この世の考えになってくる。
神の愛をうけて、主に赦してもらっていると知らされるとき、敵対する相手であっても、憎むこころがなくなってくる。
完全な愛を受けていた方が主イエスである。主イエスの十字架で、全世界のひとの罪が赦された。
人はそれぞれに賜物をもらっている。主にあって病気もまた賜物である。それによって砕かれ、弱さを知り、また他者の痛みもわかるようになる。
栄光と力とが神にあるように、すべてのことが、神に栄光があるように。その祈りで終っている。
人間が生きる道はいろいろな生き方があるように見える。しかし、ふたつの道しかない。滅びにいたる道か、命にいたる道か。傲慢なものの道、それは滅びにいたる。わたしたちも、かつては神を知らずに自分中心に生きてきた。この世の道に歩まないで、罪あるものの道にとどまらず、とあるが、道がわからなければ、そこでいるしかない。神を知ってはじめて救いの道を歩むことができるようになる。
「風に吹き飛ばされる」とあるが、それは重さがないということである。神に結びついているとき、何があっても吹き飛ばされない。主イエスは、罵倒され痛めつけられ殺された。しかし、静かに変わらない態度でいた。人間が、どれほど神に結びついているかどうかは、少しのことで動揺するかどうかでわかる。
わたしたちが、もっとも真実な神に従わない道を歩むとき、それは滅びにいたる道となる。それと対照的な道が、いつも神に心を向けていく道である。神を愛するならば、神の言葉をつねに思う。神の言葉の背後にあるのは、神の心であり、また、神が創られた自然の背後にも神の心がある。神に心を向けて生きていくときには命が与えられる。誰にでも与えられる。それだけで、流れに植えられた木のように、生きていくことができる。そのようになる道が書かれている。
神の教えを愛する道。それは命が与えられる道であり、神がいつも知っていてくださる。わたしたちは、どちらの道を歩むのか。神の道を歩んでいても、途中で、この世の道に引っ張られることもある。だから、自分がまず、神の教えを愛しているかを見つめ、常に感謝をして、絶えず、祈ることが大事である。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ五・16~18)
すべての時、すべてのことに感謝する、それはこの詩篇で言われているようにみ言葉を愛し、喜ぶということと深く結びついている。
○七月二十六日(日)主日礼拝 出エジプト記 20~22 45名 (内スカイプ6名 こども3名)
北海道瀬棚での礼拝講話の録音から
「昼は雲の柱、夜は火の柱」の導き、それは今もある。人生には闇の中を歩まされるようなことが起こってくる。その中をキリスト者としてどう歩むか。聖書ははじめから終りまで、闇の中を神に導かれて生きる、さらに、神がこの世界全体を導いておられるというテーマを持っている。誰にでも闇がある。たとえば、病気の闇。それは精神的にも肉体的にも苦しみとなっていく。また、家族の問題による闇がある。それは四六時中心から離れない。
海外では日夜紛争があり、国から命がけで逃げていく。そのように世界には考えられないような苦しい闇がある。闇は自分、家族、世界を見てもいたるところにある。聖書は、驚くべきほどに、その闇を深く知り尽くしている書物である。
民を命がけで導き出してきたモーセに対して、民は言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。…」と詰め寄った。モーセは必死で民を率いてきたのに、激しい反論が引き起こされたのである。(出エジプト十四・11~12)それはモーセを殺そうという考えまでに至った。そこで神はモーセに告げた。
主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。(出エジプト十七・13~14)モーセが杖で岩を叩くと水がほとばしり出た。信仰の杖を振り下ろしたら、神は働いてくださる。聖書が約束している世界は、いかなる闇も越えていく。
しかし、人間は弱くて、さまざまな問題から信仰が弱ってくることもあり、信仰の杖を下せないこともある。
モーセが民を率いた道のりは四〇年という月日を要した。それは実際には二十日間で渡ることのできる距離であった。なぜ、これほどの遠回りを神は強いたのか。それは目的地まで四十年という回り道によって絶えず闇が迫ってくる状態としていったのであった。わたしたちも、人生の回り道をさせられることがある。信仰を与えられていても、回り道をして、最後にやっと信仰の目が覚めることもある。イエスと一緒に十字架につけられた人も最後に立ち帰ることができた。どれほどの闇であっても、神を信じて方向転換をしたひとは、それが最善の道であったのだと、後になって、気が付くことがある。そして、その時には気が付かなくても、雲の柱、火の柱が、たえず導いてきたことが、振り返るとわかる。旧約聖書はイエスを指し示している書である。主イエスは毒麦のたとえを話されたが、毒麦は世の終わりまであるといわれた。しかし、そこにこそ、神の力が働くのである。
「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」(出エジプト十七・11~12)
この内容は、アマレクは、悪の力の象徴であり、そこに働く祈りの力が示されている。闇の力が迫ってくるとき、自分で祈ろうとしても、祈れないときがある。しかし、祈られているとき、支えられていく。
このような集まりの背後にも祈りがあり、また、祈りがあるからこそ伝道も行うことができている。そして、その道はいつも、火の柱、雲の柱があり守られてきた。
エレミヤ八・21~23 十四・17~18 哀歌二・11 三・19~24
旧約聖書の多く現れる人物の中で、もっとも多くの涙を流したのがエレミヤだった。悲しみ、痛み、苦しみの感情が赤裸々に書かれているのがエレミヤ書である。大国が攻めてくるという現実の闇の中、神の言葉を受け取り語り続けた。エレミヤの心の状態がわかるところを見てみる
「あなたたちが聞かなければわたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。」(エレミヤ十三・17)
偽預言者に頼り、神以外のものに頼る、その傲慢さを見て、腹を立てるのではなく、エレミヤは涙した。罪の結果、主の群れが、最終的に連れて行かれる、その現状を見て涙を流した。闇が押し寄せてきたとき、人はどうするか。忘れようとするか、罵倒するか、相手をたたきつけるか。エレミヤは、そのどれでもなかった。わたしたちも、このエレミヤの姿勢を見て、日本の前途を考え、悲しみをもって祈る心が求められている。悲しみによって、つぶされるのではない。悲しみを持ちながら、「立ち返れ」と言い続けるのである。
民が破滅していく。このただなかで、エレミヤだけは、目を覚まして民を見続けていたことがわかる。このように神の言葉を受けたエレミヤであるが、そこには大きな苦しみがあった。
「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに、だれもがわたしを呪う。」(エレミヤ十五・10)
この苦しみが哀歌となっている。
「わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたのでわたしのはらわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。」(エレミヤ二・11)
ほんとうに愛を受けた人は、他者の苦しみを知ると苦しくなる。エレミヤは現実に迫ってくる闇のただ中で民を思い苦しんだ。しかし、神のことばをうけ、乗り越えていくことができた。
これは、いまのわたしたちとかけ離れている出来事ではない。原理原則は今までも、そしてこれからも続いていく。たとえサタンが近くにいても、福音を伝え続ける気持ちが必要である。それこそが祈りの道、勝利の道である。
○八月九日(日)主日礼拝 Ⅰペテロ四・12~19 吉村さん神戸、高槻への伝道のため録音によるメッセージ
41名(内スカイプ5名)
ここでは、繰り返し「苦しみ」について書かれている。
「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」(Ⅰペテロ四・1)
「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。」(Ⅰペテロ三・17~18)
「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」(Ⅰペテロ三・14)
他にも、いろいろなところで「苦しむ」ということが出てくる。ペテロの手紙には特に「苦しみ」という言葉が多い。ペテロが多くの苦しむ人と関わってきたことがわかる。迫害の時代であった。キリストを信じているというだけで、考えられないような苦しみを受け殺された人たちがいた。
キリストのために苦しみを受けるとき、非難されるとき、それは幸いである。キリストを信じていると、公言し、そのために軽蔑されたり、敵対されたりする、そのようなときキリストの霊は必ず与えられる。
キリスト者として苦しみを受ける、ということが長い歴史の中で行われてきた。迫害によって殺されても、キリストの栄光が現れる時、再臨の時には新しい天と地になり、完全な喜びが与えられる。
キリスト名のゆえに、甘んじて苦しみを受ける、そのためにはキリスト者であることを公言する必要がある。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ五・10~12)
義のために迫害されるとき天の国が与えられる。そして、キリスト者ということで苦しむとき、喜び喜べと書かれている。キリストを信じて、どんなに苦しみが与えられても、それは大きな喜びにつながっていく。人間の苦しみには、いろいろある。人間関係や病気、罪を犯したという苦しみ。しかし、ここであるのはキリストの名のゆえに苦しむということである。キリストを信じての苦しみは迫害の時代には、命さえ奪われることだった。
イエスは最後に弟子たちに話した。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ十六・33)
生きている限り、いたるところで、苦しみはある。しかし、その苦しみは、キリストが自分の鍛錬のために与えられたのだと、信じるとき、すべての苦しみはキリストのゆえの苦しみになる
パウロは、神の国に入るには多くの苦しみを経なければならない、と言われている。こうした、殉教という多くの苦しみを受けた人々、ひどい仕打ちをされた人々は、神の国を見ることができた。
これからも、いろいろなことが起こると思われるが、キリストの苦難を超えて与えられる祝福は変わらない。どんな時代であっても、キリストの苦しみにあずかるとき、これは喜びに変わる。わたしたちも、苦しみの時「これはキリストから来たのだ」と信じてうけとっていく。また、キリストを信じていると公言する。戦いの中で苦しみや悲しみがあるとき、「ああ、幸いだ、悲しむ人は」という御言葉を思う。深い苦しみは深い喜びになる。
わたしたちも、それぞれのひとが、それぞれの苦しみを持っている、しかし、最後には神の国をいただける、それを信じて生きていきたい。
この箇所は2節からはじまっているが、1節は「また、イエスは言われた。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。』」(マルコ九・1)となっている。この1節は、2節につながっているという考え方もある。主イエスが真っ白に輝いた内容を記す前に、「決して死なない者がいる」と書かれている
福音書のマタイ、マルコ、ルカ、ではキリストの再臨について書かれているが、ヨハネ福音書では書かれていない。しかし、以下のように記されている。
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(ヨハネ十六・22)
再び、聖霊となった主イエスに会うことが出来る。霊的再臨ともいうことができる。そのとき、すべての悲しみは喜びに変わる。この喜びは何があっても奪われることはない。再臨、復活については、さまざまな表現で記されている。
主イエスの服が真っ白に輝いた、とある。これは何を意味しているか。それは旧約聖書の次の箇所からきている。
「なお見ていると、王座が据えられ「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎、その車輪は燃える火」(ダニエル書七・9)
永遠の存在である方、つまり、神の衣は真っ白であり、完全に清められたものであるということの象徴である。
人間は罪があり、どのようにしても清められることはない。しかし、ただひとつ、わたしたちも真っ白になることができる道がある。それは、努力や経験ではできない。主イエスの十字架を信じた時、わたしたちも白くしていただけるのである。この世でいるかぎり罪を犯す弱い存在のわたしたちであるが、主イエスの十字架によってのみ清められるのである。
「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録七・9~10)あらゆる国の民が、集まって賛美をしていた。そして、民は白い衣を着ていた。また、以下のようにも記されている。
「そこで、わたしが、『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです』と答えると、長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。』」(黙示録七・14~16)
主イエスが死んで下さったことによって、衣を白くしていただける。そして苦しみが取り除かれる。清められ白い衣が与えられるのである。
神と同じ姿になったイエスの前に現れたのは、エリヤとモーセだった。エリヤとモーセは旧約聖書に記されている重要な預言者であった。旧約聖書の神の言葉の重要性がこのようにあらわされている。旧約聖書は絶えず、イエスを指し示しているのである。 主イエスが特別に白く輝き神と同質の存在であることを示され、また重要な預言者と共にいるとき、神の声が聞こえた。神は、イエスは愛する子だ、と言われた。神とイエスの関係は完全な愛で結びついたものであった。そのイエスに聴く、ということを神は言われた。大事ことは神に聴いてから、行うべきである。まず、イエスに聴く、それはずっと変わらない、人間にとって一番必要なことである。そして誰にでもできることである。
イエスが神と同じであることを白く輝いて示され、その状態でイエスに聴けといわれた。わたしたちも、いつも祈り、主イエスに聞いて導かれて行く者でありたい。
47名(内スカイプ6名)
聖書講話 吉村 孝雄 Ⅰペテロ五・8~14
「身を慎んでいなさい」とは原語の意味からは「正気である、冷静である、真面目である」という意味がある。人間はすぐに、ぼんやりしてしまい、正しい道からそれてしまう。主イエスが血の汗を流して祈っているときに、弟子たちは眠っていたことからも人間の弱さがわかる。
「目を覚ます」とは原語では「グレーゴレオー」。ローマ教皇の名前にグレゴリオ○世などと人の名前にも用いられている。目を覚ましていないとどうなるか。サタンがライオンのように吠えて、人を食い尽くそう、襲いかかろうとしている。初めから、この世には闇の力がある。しかし、闇の中に光がある道、ライオンに飲み込まれない道が示されている。そのように、闇に飲み込まれない道が示されているのに、聖書に書かれている最初の人、アダムとエバは神様の指し示すほうに従わなかった。だから、追放された。最初から聖書には人の弱さが記されている。そして、そこからどうすれば解放されるか、ということが、聖書のメッセージなのである。
神の民がイスラエルに増えてきたときも、それを打ち壊そうとする力が働いて、男子が殺されたり、重労働を強いられたりした。しかし、そこにモーセが現れて、光になってきた。また、ダビデも、神に選ばれた人であったのに、大きな罪を犯した。サタンが食いついたと言える。まちがった、指導者によってサタンに食い尽くされることもある。しかし、どのようにサタンによって食いつかれても、また、神によってそこから救い出されてきた。主イエスが、失われたものを探し出されて、見いだしてくださったのである。
「悪魔に抵抗しなさい」とある。抵抗とは言語の意味からは「反対に立つ」「立ち向かう」という意味である。何によって立つか。神によって立つ。そうでないとサタンに飲み込まれる。迫害の時代には、命を呈して、立ち向かっていった人たちがいた。この時代は迫害の時代であった。キリストを信じているだけで、捕えられ家族も殺されたりした。しかし、苦しんできた者を整え、元に戻して下さる力がある。それで、その力が、永遠に
永遠に共にありますように、という願いが書かれている。
聖書講話 香西 信 ヨハネ八・12~20
岡山に来て九月で一年になる。生活にも慣れてきた。岡山での伝道に対して理解してくれる人が増えてきて感謝している。
文学が好きで小説を読む。言葉に命を懸けて、言葉を紡ぎだしている。その姿勢を見習いたいと感じている。
作家の対談集で、このような内容があった。
「わたしたちは、聖書を外側から読んでいる。イエスのたとえ話などを、理想として読んでいる。キリストを信じて歩む人は、聖書のことばの内側を生きている」
自分は聖書の言葉を、自分の道として歩んでいるだろうか。無教会も、学問研究の場となったり、有名な先生の言葉をつぎはぎしているようなメッセージをするところがある。それは、聖書を外側から読んでいるのではないか。たとえば、「敵を愛せ」という言葉は今も自分のものとはなっていない。だから今も、自分に示してくださいと祈っている。平和を追及する非暴力の姿勢、これが、敵を愛するということの本質だと思った。報復からどう断ち切っていくか。主イエスは毒麦は最後に刈られると言われた。悪の力は、最後には裁かれる。そのことを思うとき、敵を愛せるようになる、という気がした。
聖書の内側を生きる、ということは、祈ってことばを啓示していただくとともに、神様は聖書の中に答えをちりばめられていると思った。もっと、聖書を読むべきだと感じている。
今、ヨハネの福音書を読んでいる。とくに霊的な光に導かれて書かれた書物とある。ヨハネ福音書には、光、水など抽象的なことばが多く、イメージが膨らむ。「わたしが世の光である」ヨハネによる福音書は一貫して、主イエスご自身が何者であるかという証をしている。また、「世」という言葉も、多く用いられている。これは「神を知らない人間の言葉で造り上げられた世界」と意味している。大半が神を知らずに生きている。その人たちによって造り上げられた世界である。なぜ、ヨハネが「世」をたくさん用いたか。それは「光」を説明するためである。「世」は神を知らない人間の世界、つまり「暗闇」と記されている。それが、もっとも現れているのがこの言葉である。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ一・4~5)
結局は滅びゆく「世」である。永遠の世界とは全く違うのが「世」であり、キリストを信じる者は、そのようなこの世、神を知らない世界のただなかで生活している。それを認識することが大事である
世の暗闇は喧騒で満ちあふれている。それによってわたしたちの心は落ち着かなくなる。真理の言葉が、喧騒によってかき消されている。それが、「世」であり「暗闇」の世界である。そのただ中で、静まって神の言葉を聞く、それが大事になってくる。周囲が騒がしい中であっても、自分だけで静まるのは大事である。主日礼拝でひとつのところに集まって礼拝する。それが大事になってくる
魂にとって、水や空気のように必要なものは、楽しく過ごすことではない。むしろ、必要なことは、静寂な中で沈黙を守って祈ること。それが魂の養いに必要である。
アシュラムは沈黙の中で、神と交わる、ということを重要としている。魂の中に水や空気を注ぎ入れ、養ってくれる、 沈黙して祈る。そのとき啓示を与えられる。みことばの意味があきらかになって、生きる希望が与えられる。
それが、闇の中に光が与えられるということになる。
「わたしに従うものは命の光を持つ」とある。
命の光を持つことができるという約束。わたしたちの未来は光が与えられている。未来の希望の約束を信じて歩むことができる。
従うという言葉がある。それは神の声を聴いて初めてできることである。「人間に従うよりは神に従う」とあるように、誰に従うかということが大事である。神の声を聴いて従うということは、祈るということである。心の求めを神に打ち明け、神と一対一で対話することが祈りの大事さである。沈黙の中で神とむきあい、その中で、御言葉を自分に語られたこととして、うけとる。
この世の中では本当の平安は与えられない。主イエスを仰いで歩む。そのとき主は我が光、と告白することができる。
詩編119篇では、御言葉について一貫して語られている。「あなたのみことばは、わが道の光」みことばが光であると、はっきりと書かれている。
最後に、聖書は一貫して神の救いがかかれている。救済の歴史である。それを導くのは光である。導くということは、ひとりひとりの道しるべということである。進むべき方向と距離を示している。喧騒の中で方向を見失うことがある。そのとき頼るものが光であり主イエスである。そこを目指して行けば、目的地につくことができる。創世記に「光あれ」と示された光。出エジプト記にはモーセによって約束の地に導かれたとき、「昼は雲の柱、夜は火の柱」で神は導かれた。そして黙示録には
「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(黙示録二十二・5)とある。終りの日にはまばゆいばかりに主の光が輝いている。
「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(黙示録二十二・16)
イエスが「わたしは輝くあけの明星」と示されている。夜明け前に輝く金星。わたしたちは、この輝きをめざして生きていく。
今年もキリスト教独立伝道会より香西信さんを迎えて特別集会が開かれました。礼拝後昼食を共にしてよき交わりの時となりました。
○八月二十三日(日)主日礼拝 Ⅰペテロ一・1~7 43名こども2名 (内スカプ7名)
わたしたちは、イエス・キリストの義によって信仰を与えられた。誰の力でもなく、神の義、イエス・キリストの正しさによって信仰を与えられたのである。
神とキリストを知ることによって、とあるのは、神だけを知るだけでなく、救い主であるキリストを知る必要がある。神と同じであるイエスを知る、そのとき、敵をも愛する心、をうけとっていくことができる。
「ご自分の持つ神の力」によって命と「信心」にかかわることを与えられた、とある。命と信心にかかわるすべてのことを与えてくださった。だから、信仰をもって、この世の誘惑に引っ張られないで生きていくことができる。この「信心」とはどういうことか。この言葉は「ユーセベイア」という言葉である、この世界には、永遠の真理があり、それに比べて人間の卑小を知り、そこから真理を仰ぎつつ生きる姿勢を示す言葉である。
これは聖書の言葉で言い換えると、「神を畏れて生きる」という言葉がそれに近い。自分の汚れ、すべてを知られており清められること、。この言葉は聖書で、信心と訳されているが、イワシの頭も信心から、というようにつまらないものでもまつりあげられると何か恐れ多いもののように信じるようになる、というように信心という言葉は、日本語ではあまりよいよい意味では使われないこともあるから、ユーセベイアの訳語としてはニュアンスが相当ことなってしまう。。
「すべてのものを与えてくださっている」とある。霊的にみると、生きていること、まわりのこと、わたしたちが見えていないだけで、多くのことが与えられている。そして神の力によって、約束が与えらているのである。
それは、神の本性にあずからせていただくことである。この「あずかる」とは原語の意味からは「共有する」という意味のあることばである。神の本性とは「愛、美、清さ、神性、力」など、すべてと共有させていただくようになる。
どんなに老年になってもそして、死んでいこうと、神の本性を共有するようになる。祈りはすべての人に必要である。神の本性が与えられるということ、信仰のある人はそこから離れないように、そして、神を知らない人には、それが与えられるようにと祈る。神の本性が与えられたら、ほかになにもいらない。神の本質とは、自然の美しさ、力強さが示している。特に高山植物など特に神の清さを現している。
どんな病気になっても、事故にあっても、必ず与えられる命がある。それがあると、たとえ、一時的に動揺があっても、神の本性を与えられているので、そこから良きことにつながっている。
「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」とある。信仰が出発点である。そこから「徳」つまり、セルフコントロールできること、正義に向かって歩むこと、その勇気、そのうえに「信心」(ユーセベイア)それに加えてさらに、弱い人罪を犯す人への愛、まず、信じる者同士の愛、兄弟愛、そして、無差別的な愛、敵対する者への愛、誰に対しても、悪しき心が除かれるようにという愛、無関心な人には大事なことへの関心が増えるようにと祈る愛。その出発点が信仰である、それは、信じたら、それぞれの歩みにあわせて、進んでいくことができる。
わたしたちも、それを信じて歩んでいきたい。
○八月三十日 主日礼拝 二 ペテロ一章8~11 参加者35名(うちスカイプ5名)近畿集会のため録音による講話
「選びを確かなものとする」
イエス キリストを知る世界は非常に奥が深いので、五節で言われているように、信仰を持って徳、知識、自制、忍耐、愛などを持った生き方をしていけば、キリストを知ることにおいて、怠惰で実を結ばない者とはならない。そのことにおいてますます深くなっていくと言われている。
十字架や復活の信仰に「徳」を加えていく。徳とは、ギリシャ語でアレテーであり、プラトン哲学にも出てくるが、英知を愛し、何が真理かを探究する。勇気、自分の内にある醜いものと戦う。人間が内なる戦いに負けたら、外なる戦いにも負ける。自らの内に起こってくる様々のよくないもの、それをコントロールする(節制)。節
さらめつめつ制は、英語のセルフコントロールであり、自らを支配することである。
人間の精神世界の一番大切なことである英知、節制、勇気、正義など、人間の到達すべきあり方をギリシャ語でアレテーと言った。そしてプラトンなどギリシャ哲学においても重んじられている。
だが聖書には、そうした徳のさらに根源的なあり方、よきものとして、信仰、希望、愛が言われており、神と結びついていればこういった力をすべていただける。まず神の国と神の義を求めれば、神から正義をいただける。またプラトンの哲学には、真理への愛はあったが、弱者や、苦しむ者への愛には触れられていない。
キリストを知ることは、本を読んで知るようなことではない。神さまの力を求めつつ、5節にあるようなことをしていけば、本当の意味でキリストを知ることになる。単にキリストを知る、というのでない。ここで言われているのは、果てしなく奥があるそのキリストを知ることになる。イエス キリストの真実、愛などの広さ深さ高さ(エペソ3章17以降)、このことが分かってくることである。聖書には限りない奥がある。ヨハネ福音書17章3では「永遠の命とはキリストを知ること」とある。
信仰もなく、徳もなく、希望を持って耐えることもなければ、本当の良きものが見えず、自分中心の、ほんの近くのものしか見えない。信仰や希望、愛を持っていなければ、深くものを見る視力を失ってしまう。
この世から呼び出された者。そのひとの内に確かなものがあれば、まわりにも自然に伝わっていく。神さまが伝えさせる。わたしたちも、たえず神に赦していただき、御国への道を歩く。そのことを信じることができる。
〇第15回 近畿地区無教会
キリスト集会の録音CD。
8月29(土)~30日(日)に京都で開催されたこの集会の講演、参加者の自己紹介、主日礼拝講話の録音のCD(MP3)をご希望の方は吉村まで申込してください。送料共200円。
講師は、榎本和子、榎本恵、橋本るつ子の方々です。この三人の方々は、故榎本保郎の妻、娘、息子といったご家族の方々で、三人が一緒に講演あるいは説教をするのは今回が初めてだとのことです。
榎本和子、るつ子の両氏は、キリストに導かれた証しを、るつ子さんは証しのなかに讃美歌とピアノ演奏を入れ、また榎本恵さんは、一つになるというテーマに沿ったメッセージを語られました。
主日礼拝は吉村孝雄が担当しました。
〇今月号の「いのちの水」誌9月号に掲載した、キリスト者平和の会における講演の録音も希望者にはお送りできます。これも価格は、送料込みで200円です。
〇貝出 久美子さんの詩集「十字架のもと」ができました。余分を希望さる方は、左記の吉村まで。一冊(送料込)200円です。
私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪うものはいない。(ヨハネ16の22) |
フィリポがどのようにして、神によって宣教に用いられたかが書かれている。フィリポは自分の考えや人への相談で宣教の道を進んだのではなかった。福音を伝えさせるのは、聖霊であり、人はその道具である。フィリポはエルサレムからガザへ下る道へ行けと主の使いによって告げられた。
ちょうど、エチオピア女王の宦官がエルサレム礼拝のために、はるかな遠い道を来て、その帰りに馬車にゆられながら聖書のイザヤ書を読んでいた。聖霊がフィリポに、「その馬車を追いかけていけ」と行った。行くと宦官はイザヤ書五十三章を読んでいた。宦官の神に対する熱心がわかる。そして、宦官はフィリポに解き明かしを依頼した。それはイザヤ書の以下の箇所であった。
「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。」(イザヤ五十三・7)
聖書を知るには、適切な手引きが必要である。そのために世界中で牧師や伝道師など、御言葉を伝える人が起こされてきた。場合によっては手引き者が与えられない場合、また、聖書すらない場合もある。しかし、そのような場合であっても聖霊によって導かれる。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ十四・26)「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ十六・13)
聖霊自身が語ってくださる、ということが実際にある。パウロが福音を伝える出発点は、共に祈っていたときに聖霊が語りかけたことからはじまった。
「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』」(使徒言行録十三・2)使徒言行録は聖霊の働き、導きについて書かれている。
ちょうど聖書を読んでいた箇所がイザヤ書であった、と書かれている。主イエスも会堂で開いた聖書はイザヤ書であった。
「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』」(ルカ四・16~19)
ここでもイザヤ書が取り上げられている。そしてどちらも主イエスを預言している箇所であった。これはイザヤ書の重要性を示している。
聖霊がすべてのことを教えてくださる。わたしたちも、聖霊の導きを求めて祈り、待ち望むものでありたい
○六月七日(日)主日礼拝 サムエル記 下 二十三章 53名 (内スカイプ10名・子供4名)
ダビデの最後の言葉とある。最後に何を言うかということは重要なことである。ダビデは「神がまず語り、神の言葉を語った。」ということを最後に伝えている。主にひとたび語りかけられたら、強められ、そしてそれは周りに伝わっていく。弱い私たちであっても、壊れかかった傷ついた器であっても、そこから伝わっていく。信仰が伝わるのは、神の力である。それは止まることがない、不思議なエネルギーである。それは、いかなる権力によって止めようとしても止まることはない。
神の霊が宿る。神の言葉が宿る。それが人間にとって最も大事なことである。わたしたちの祈りも、聖霊が宿るように、神の言葉が宿るようにと祈る必要がある。主の霊の重要性は、復活したイエスが語られた言葉でも示されている。主イエスは復活後四十日間語り続けた。しかし、その内容は聖書に書かれていない。書かれているのは間もなく聖霊が与えられる、ということである。
「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。』」(使徒言行録一・3~5)
このように、一番大事なことは、主の霊を与えられることである。そして、それは、共に祈りを合わせているときに与えられた。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒二・2~4)聖霊が与えられると、すぐにペテロは宣教を始めた。聖霊が与えられると、このような力が与えられる。
「神に従って人を治める者、神を畏れて治める者は太陽の輝き出る朝の光」とある。治世者は主の霊を受け、神の言葉を受けて、御言葉にしたがって治める。それは、朝の光のようだとあり、これが、統治の究極のありかたである。キリストを信じる者はこの世の悪が襲ってきても、打ち勝つことが出来る。神の言葉をしっかりともつと光輝くことができる。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」(フィリピ二・13~15)
主の霊をいただき、神の霊がやどっているとき、心によろこびを芽生えさせてくださる。神の霊をうけ、たえず、どのようなことからも神のことばを受け取っていくことが大事である。
イエスがご自分がこれからどうなるか、ということを弟子たちに告げた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け」とある。「人の子」とは、旧約聖書からきていることばであり、キリストを預言したことばである。
「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。」(ダニエル七・13~14)
神と同じ力を持ちながら、苦しみを受ける。当時イエスは宗教的な改革者であった。宗教的な指導や権威は祭司と律法学者にあったが、その両方からイエスは排斥された。
主イエスは、宗教的指導者のまちがった考えをはっきりと指摘したことによって憎まれ、殺される。しかし、復活すると言った。弟子たちにとっては、自分たちの指導者である主イエスが、捕えられ殺される、と言ったので動揺した。主イエスは、地上で王になると信じていたからだった。だから、殺される、と主イエスが言ったとき、そんなことを言ってはいけないと、ペテロはイエスを叱ったのである。それを聞いたイエスは「サタンよ、引き下がれ」と強い口調でいった。なぜ、これがサタンなのか。神のことを、第一としないで、人間のことを第一とする。それが、サタン的である、といえる。神のことを第一としない考え方はサタンからきており、そこから、おおきな問題になっていく。
このときのペテロは、自分がサタンに支配されているとはおもわなかった。 三年間も仕事もすててキリストに従った。このように神に従っている人でも、サタンに支配されていることはわからない場合がある。そして、そのときには、気が付いていなくても、あとになって、気が付くことがある。
キリストの集まりであってもサタンは間違った方向にひっぱっていくことがある。しかし、聖霊がすべてを教えて下さる。ペテロも、聖霊によって、イエスご自身から言われた。
奥深い人間の罪は、キリストを信じてもなかなか、かわらない。しかし、間違った方に行こうとすれば神は裁かれ非常な苦しみを味わうことになる。神の裁きの力は今もある。イエスはまず、神の国と神の義を求めなさいと言われた。それをもとめたら、神の前で間違いは気づかされる。罪の中にあるわたしたちには、十字架なしでは生きてはいけない。
真理は、聖霊に示されてはじめてわかることである。自分の考えをまず捨てなければならない。自分中心の思いを捨てて聖霊にきていただく。自分の十字架を負うとは、自分の罪を負い、それを赦してくださるかたを思い、自分をすてて、イエスとつながることである。自分が中心にあれば、イエスと結びつくことはできない。
自分の命、自分の感情、まず、自分と思っている人は、自分をなくす。これが書かれたのは迫害の時代である。実際に苦しみを受けて殺されてしまう人も多くいた。しかし、殺されて終わりではなく、そこから命を与えられる。この世の名誉を手に入れても、最後には何が残るだろうか。何もなくても聖霊が与えられていれば生きていくことができる。
「わたしとわたしの言葉を恥じる者は」とある。イエスとイエスのことばが同列におかれている。イエスの言葉が役に立たないようにいうものは、聖霊をあたえられない。どのような時代でも、イエスの言葉が一番大事である、というものは、祝福される。
「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ二十四・34~35)
消えることのない、神の言葉を求め続けるものでありたい。
○六月十四日 主日礼拝 一 ペテロの手紙三章8~12(録音による) 参加46名(内スカイプ11名)
「祝福を受け継ぐための祈り」
キリスト者の心のあり方が書かれている。
8節に「心を一つにする」ことが言われている。それぞれの個性、経験、能力、知識、体の状態等々の違いがあり、わかっていても非常に困難なことがある。様々に分裂させようとする力が働く中で、このことは神さまの力によらねばできないことである。
同情とは、日本語の、なんとなく見下すような意味あいのものではない。原語(*)は、同じ経験をする、同じように苦しむ という意味を持っている。
感情、経験や心を共にする(sympathy)ということで、喜び悲しみ、苦しみを共にするということである。喜ぶものと共に喜び、苦しむ者と共に苦しむことである。また信仰的兄弟愛についても言われており、当時は奴隷もごくふつうの存在であったが、そのような時代から今日にかけて、聖書はそのような当たり前とは根本的に違った改革的見方を提供して来た。
(*)同情と訳された原語のギリシャ語は、シュムパセースsympathes これは sym(共に)と、pascho(経験する、苦しむ)からなる。英語のsympathy もこのギリシャ語に由来する。
謙虚とは、心貧しき者、ということ。高ぶりでなく、低い思いを持つことは、自分の罪を知らねばできない。神のみ前には、自分には愛や真実が無い、正義ができないということにおいて誰もみな罪人である。そのことから自分は低い者だと感じる事から来るもので、表面だけの謙虚な振る舞いではない。絶対の神さまを知らねば、自分が低いという心にはなれない。
愛ということについて。「敵を憎めというが、私は言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とイエスさまは言われた。キリスト者のあり方は、相手が誰であれ、絶えず祝福を祈る。祝福とは、神さまからの良きことがその人に起こるようにと祈ることであり、ある意味ではとても単純なことである。
その祝福を神から受け、他者に受け渡していくという使命がわたしたちにはある。自然に受け継ぐものは 遺伝子(DNA)、言葉、性格、色々な特技、習慣など、人間の意志と関わりなく、数知れずある。だが、そのようなものと、聖書が言う「受け継ぐもの」には非常に大きな違いがある。聖書における祝福は一切の限定が無い。それは神さまが持っているものをいただくからである。祝福する力は神さまが持っているもので、神さまからいただかねば、誰にでも祝福を祈ることはできない。イエスさまを受け入れる心や自分の低さを知る心も、神さまから祝福を受けねばできない。これは神さまから受け継いだ心だからで、万人に開かれた門だ。しかも一番深いものである。
これを受け継いでいく。そのためにわたしたちは呼び出されたのである。このことは「御国を受け継ぐ」とも言われている。人間関係は複雑だが、あらゆる人に祝福を祈っていき、その人もまた他の人に祝福を祈る人に変えられていく。祝福は他者へ受け継いでいくもので、動的なものだ。祝福を伝える役目が伝道であり、わたしたちにも与えられている。
祝福を祈ることに関連して、悪や、嘘を言わないこと。神さまは目と耳と顔は、正しいものに向けられ、その良き祈りを聴いてくださるとある。神は、悪しき者にはその悪を見据え、何らかの罰を与え、方向転換をさせようとされる。
わたしたちが人間に対し、いかなる心や祈りを持つか。家族や仲間、毎日出会う人々に対し、いかなる姿勢を保つか。神さまはいかなるありかたを望まれるか。御国を来たらせたまえ。主はきっと聴いてくださっている、と信じて祈る。
○六月十四日(日) 阪神エクレシア 神戸私学会館 マルコ六・45~52 16名(内スカイプ1名)
主イエスはパンの奇跡のあとで、弟子を船に乗せてから夜通し祈られた。主イエスは神と同質の方である。しかし、夜通し祈られたのである。祈りによって力を受けていた。祈りの重要性が示されている。
弟子たちの船は湖の真ん中で嵐に遭遇した。湖とは原語では「海」という言葉であり、この時代には闇の象徴でもあった。その海の中で嵐にあった。逆風が吹いた。そこへ主イエスが歩いてきて通り過ぎようとした。人生の中でわたしたちも闇のようななかで逆風に苦しむことがある。そのとき、主イエスは来てくださる。しかし、通り過ぎようとされる。わたしたちは祈りによって呼び止める必要がある。そのとき、必ず主イエスはきてくださり「安心しなさい」と語りかけ、嵐を静めてくださる。
・神戸私学会館という明るく静かな施設の一室での集会でした。
○六月十四日(日)高槻集会 那須宅 創世記九・12~17 15名(スカイプ2名こども2名)
ノアの箱舟が陸に着いたとき、神は人間に対して、今後、このように滅ぼすことはないと約束し、その印として虹をおかれた。美しい虹は神の祝福の象徴である。そしてその約束は、イエスの十字架へと流れてゆき、新しい約束として今も大空に輝き続けている。
・光の入る窓の外には竹林が見え、鳥の声がきこえる、静かな集会場で共に礼拝でき感謝でした。
○六月二十一日(日)主日礼拝 Ⅰペテロ三・13~22 34名(内スカイプ9名)
「苦しむ」ということが繰り返し書かれている。これは、このペテロの手紙が迫害の時代に書かれたゆえである。
キリストを信じているというだけで殺される、そのような苦しみの中で言われたことである。「あなたがたの抱いている希望について」とあるが、たくさんの人が殺されているなかで、いったい何が希望なのか、と思わされる過酷な状況。聖書は初めから、苦しみのなかからの救いが中心的なテーマとなっている。
「良いことに熱心であれば害を加えるものはない」とある。本当によきことはなにか。悪をもって悪に報いず、祝福を祈ることである。相手の間違いや悪口をあまんじてうける。それは、聖霊を与えられていなければできない。主イエスは何もしていないのに苦しめられた。そのことも思い、何を言われたとしても相手が良くなるようにと祈る心、どのような人にも祝福を祈る気持ちがあれば、魂に害をうけないといえる。すぐに腹を立てて言い返したり、落ち込むのは自分中心だからである。
「心の中でキリストを主とあがめなさい。」とある。この「あがめる」とは原語のギリシャ語は、聖とする ハギアゾーで、この元にあるのは、「分けておく、聖とする、聖別する、」という意味を持っているヘブル語カーダシュである。つまりキリストの名、本質(キリストご自身)が、この世の混乱や闇からまったく分かたれた存在とみなしますように、という思いである。心の中で主を聖別しなさい、神と同じものとして、いっさいのこの世的なものと別格のものとして受けとっていなさい、ということである。
「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」
この時代は迫害の時代であり、はっきりとキリストにある希望を言っただけで殺される時代であった。キリスト者であることを公言するかどうかで厳しい拷問を受けるか、受けないかにわかれた。
今、日本ではそのような厳しい状況はない。わたしたちは、キリストを信じていますというべきである。キリスト者はいつも、キリストを証すべきである。そして、いつでも、キリストを弁明できるように備えておく必要がある。
「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」とある。キリストを証することも善をおこなうことである。
19節から書かれていることについては、そのままではわかりにくい。ノアは洪水の水によって救われたのではない。洪水は神に背いた人々を裁くものであった。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。」(創世記六・5~8)ノアは神の一方的な愛により、ノア自身も神を信じて救われたのである。アブラハムも神を信じた、それで義とされた。主を信じることができたことが恵みであった。それが、信仰によってすくわれる、ということの、もといになっていった。救われるのは神の一方的な恵みである。だから、預言者も「立ち返れ」ということを繰り返している。
「イエスの復活の力」とある。わたしたちもキリストの復活によって力を与えられた。これがなければ、人は憎しみを受けたら、憎しみを返す存在でしかない。しかし、復活の力によって、相手のために祈ることができるようになった。
霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教された、とある。キリストは闇の中にまで降りて行かれて、捕らわれていた霊、つまり滅びた者にさえも宣教したと記されている。失われた羊をどこまでも、見出して、光を届けるキリスト。それによってわたしたちも、闇の世界からキリストの世界に入れていただけた。
「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩篇一三九・8~10)たとえ陰府の中のようなところでいてもキリストはそこに来てくださるのである。
○六月二三日(火)移動夕拝 熊井宅 ルカ十章38~42 「必要な事はただ一つ」十八名内スカイプ五名
今日の箇所はとてもよく知られている箇所であるが、現代の私たちにどのような意味を語りかけているのか。
イエスが村に入るとマルタが家に迎え入れた。もしマルタが迎え入れなかったらイエスはそのまま通り過ぎていったであろう。神の国に関することについては迎え入れようとする気持ちが大切。 主日(日曜日)は、キリスト者にとって、主イエスを、信じるものたちが集まって共同して主を迎え入れる日である。イエスは特別な神の人なのでマルタは奉仕して差し上げようとした。まず何をしようかと水や食べ物を差し上げたり具体的な事に体も心も忙しかった。しかし姉妹のマリアは何をしたとは書かず「足元に座って聞き入っていた」とある。マルタは妹の事で、不公平だと感じ心の中でつぶやいていた。この時マリヤは何を思っていたのか何も書いていなく不思議な書き方である。マルタの不満に対してイエスは「必要な事はただ一つだ」と答えられた。イエスは徹底して単純化している。短い言葉で余韻がある。この言葉はこれから後、無数の人の心に「主に聞く」ことの重要性を波紋のように呼び覚ますものとなった。
神の言葉(聖書全体)は聞くことが重要である。天地創造も神の言葉でできた。神の言葉はエネルギーを持ちすべての事を為し遂げられるのでそれを受けとる。聖書を真剣に読み、意味を知り神の言葉に聞き入る事の重要性を一言で分かりやすく書いてある。
アブラハム、モーセが歴史に残されてきたのは神の言葉を聞き取りそれに従ったからである。
マルタは神の言葉を聞かず自分の気持ちを立て妹を避難した。本当に聞いている人は、他の人がしようがしまいが他者を裁くことがなく、「自分は神がこうさせてくださっている」と感謝できる。人が褒めようが、悪く言おうが良き事を続けていけるのは、まさに神の言葉を聞きとっているからである。
聖書は前後のつながりも大事である。その前のよきサマリア人がそのままこの箇所に続いている。マルタはよき行動をしたが、マルタに欠けるところがあり不満となった。マリヤは祈っている。よきサマリヤ人、隣り人になる為にはまず神に問わなければできない。サマリア人はよき行動ができたが、そのすぐ後に「聞く事が大事ですよ」と書かれている。すべての良き事の根本がここにある。聞かないと自分の感情でする。雑音が響き渡っている世の中で「必要なのはただ一つ」と主イエスは今もみ言葉に聞く事を促している。
○六月二十六日スカイプ集会「祝福の祈り」民数記6章24~26 (参加者14名)
私たちにとって一番大事なことは何だろうか。多くの人は、健康、家族、経済的豊かさ(お金)等と答えるだろう。しかし聖書で最も大切とされているのは神の祝福を受けることである。祝福を受けると清い心と愛が与えられる。また、全ての苦難を超える力を与えて下さる。神様の祝福と言うのは、水野源三さんのようにほとんど身体が動かないような大変な状況、ステパノのような迫害を受けたひと、また貧困など、最も不幸に見える中にさえも注がれる。
ステパノは殺されようとするとき豊かに聖霊が与えられ、イエス様を見ることができた。
結婚式などでよく、周囲の人たちの祝福を受けた、と言う。しかし聖書の祝福は、そのような人間のものとは違う。神様だけが人間に対して与えることができることである。
だからこそ、他者に対して、その神様の祝福が流れていくようにと祈ることが大切である。私たちが神様を信じていること、そのものが祝福である。創世記12章5節にあるように、アブラハムが神様の言葉によって祝福を受けたが、その後それは無数の人たちに受け継がれて行った。
私たちも誰かの言葉や書いた本によって神の祝福を受け継いだ。そのようにこのことは永遠にずっと続いていく。山上の教えでも、「幸いである」という言葉は英語では、blessが用いられていることが多く、、祝福されるという約束である。
25節「御顔を向けて」は、神様は霊的な存在だが、真剣に求めていくと、詩編(4篇、44篇)にあるようにその御顔を実感することができる。
25節は恵み、26節は平安が与えられるようにとある。恵みは原語ではハーナンで憐れみという意味も含んでいる。苦しみの時に憐れみを与えて下さる。平安はシャーロームであり、完成された、満たされた状態というニュアンスを持つ言葉である。この世のものでは満たすことができないことも、神様によって完全に満たされる。自分や他者に対して、日常生活の中で祝福を祈っていくことが大切である。
○六月二十八日(日)主日礼拝 Ⅰペテロ四・1~6 43名(内スカイプ11名)
当時迫害があり、キリストを信じるだけで想像を絶する苦しみを受けた。しかし、その苦しみを超えさせる力が、キリストを信じる人に与えられていた。ここでは「苦しみ」について記されている。キリストが先に非常な苦しみを受けられた。だからキリストを信じる者は、そのあとに従い、少しでもキリストと同じ苦しみを受けることができるようになる。その苦しみの道に対して「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」とある。
わたしたちの武器は真理のみことばである。これによって武装していなければ、人の意見に引っ張られる。そして、いつまでも正しい判断ができない。わたしたちは二千年前から続いている聖書の真理に立つべきである。
「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」とある。神を信じて苦しみを受ける。そこから神に望みを置くとき、罪との関わりが断たれるようになる。それは詩篇に特に記されている。
「 主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい、
多くの者がわたしに言います。「彼に神の救いなどあるものか」と。主よ、それでもあなたはわたしの盾、わたしの栄え。わたしの頭を高くあげてくださる方。 主に向かって声をあげれば聖なる山から答えてくださいます。」(詩篇三・2~5)
苦しめる者、それは病気や家族の問題など、いろいろなことがある。さまざまな苦しみを何に叫んでいくか。本当の助けは神からくる。神から力を受けると乗り越えることができる。主に向かって声を上げるとき力が与えられる。
「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ四・13~14)
「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ四・19)
苦しみは神から与えられた恵み、と信じるときそこから神に向って行くことができるのである。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & & Y.N)
私の恵みはあなたに対して十分である。 私の力は弱いところに完全にあらわれる。 (Ⅱコリント12の9) |
キリストを信じる者、その集まりに対して、ユダヤ人から厳しい迫害が起こりキリスト者たちは、方々に散らされていった。その中で使徒たちは残った。しかし、その後
使徒たちも迫害され、ヤコブは殺され、ペテロまでも捕えられることになる。
散らされていったキリスト者たちは、住み家も持ち物もなく、生きるのがやっとであったはずである。それでも、福音を告げ知らせながらあるいていった。聖霊の火が燃えていなければできないことである。このような、考えられないほどの熱心によって、福音は広がっていった。現代のような印刷などの手段もなく、聖霊の力だけで、福音は伝えらえていった。迫害の中でそれはおこった。 群衆はフィリポの語る復活の話を一生懸命に聞き入った。また、汚れた霊にとりつかれた人からその霊が出ていったり、中風の人も癒されたりした。こうして神の力が働き福音は広がっていった。しかし、妨げもあった。
人間の弱さを知らないで、自分こそが偉大であるというシモンという人がいた。そのような人でも、ときには、人々を注目させる力を持っている場合がある。キリストの聖なる霊の力と対照されている。たえず、キリストの霊と対立して働く間違った霊の力があり、そして、多くの人が惑わされている。
フィリポが、神の国と福音を伝えたら、信じる人がでた。そこでペテロとヨハネが遣わされ、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。水の洗礼を受けても、聖霊が与えられるとは限らない。そして、彼らが真剣な霊的な深い祈りをもって手を置いて祈った。そうすると、聖霊が注がれた。他者に聖霊が注がれたのは使徒の深い祈りによってであった。
シモンは福音を受け入れた。そして水の洗礼を受けた。しかし、ペテロたちが手を置いたら聖霊が与えられるのをみて、それをお金で買おうとした。一番大事なものはお金では買えない。お金の誘惑は、この世ではよくあり、さまざまなこともお金で腐敗する。豊かになるとしばしば心が濁ってくる。主イエスは言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ六・20)
神の国を貧しい中で真剣に求めるとき、与えられる。物質的豊かさはそれだけでは本当の幸福につながらない。主イエスはこの現代に通じる問題を見通されていた。神のために用いるお金を汚れた心で使おうとするとき、神に裁かれる。清い心で、捧げるとき祝福される。
シモンは間違いを犯したがただちには裁かれなかった。求め方は、間違っていたが、聖霊の力がほしい、と願ったわけであり、それがお金で買えるのかとおもっていたからだった。シモンは、浅はかな気持ちを改めよ、と言われたとき、素直に、祈ってください、といった。
ペテロとヨハネは主の言葉を、聖霊の力を受けて証しを続けた。三千年ものあいだ、聖書から発信されているよき知らせ。わたしたちも、主の言葉を証し、福音を告げ知らせるものとならせていただきたい。
48名(内スカイプ 10名 子供4名)
主は羊飼い、という。この時代は、多くの人が羊を飼っていたため、羊の群れを導いていく羊飼いは身近な存在であった。この詩は、主イエスこそが、わたしたちを導くお方である、という宣言である。三千年も前に書かれたものであるが、今なお全世界で読む者の心に働き続けている。
わたしたちは何によって導かれているか。主イエスは、虐げられ、苦しんでいる人たちをまず顧みて癒された。イエスはたった一人を大事にして、失われた人を探していった。この主イエスこそがわたしたちの羊飼いであり、すべての人にとって、本当の導き手である。主イエスに導かれて行くとき、死んでも生きると書かれている。生きているときも導かれ、また、死んでも導いてくださるのである。決して死が終わりではない。どんな災害や病気や戦争で死んだとしても、この真理はかわらない。
そして、主に導かれているとき、人は満たされる。たとえ体が健康で、経済的にも裕福であっても魂が満たされていないとき、人は渇きを癒すために、何か他のものを求めて癒そうとする。心の渇きから他者を攻撃したり、自分を傷つけたりすることが起こってくる。わたしたちが満たされないのは主イエスと離れているからである。 どのような問題があっても、主イエスと共にいるとき、不思議な平安が与えられる。
盲人福祉に大きく貢献した岩橋武夫は大学生の時、目の病気で全盲となり絶望に追いやられた。しかし聖書に出会い、そこから神の力、希望の光を与えられ、ヘレンケラーとの交流も与えられ、日本における盲人の福祉のために働いた。それほどに、神の言葉には力があった。神の言葉は生きて働き、闇に光を与えていくのである。
人間が悪事を働くのは、渇いているからである。水は渇きを癒す。主イエスが与える水は魂を生き返らせる。神が生きた水を魂の深くに与えられるので、満たされるのである。人は正しく歩むことは難しい。すぐに心に悪の力が入ってくる。心の中に主イエスが宿り、悪が入ってくるのを防いでいただく必要がある。
「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」とある。鞭というのは、間違いを正して導く。また、悪い者を追い払う。杖は人を支える。
「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」とある。人は生きている限り、得体の知れないものが追いかけてくる。それは老化やまた、いつかは訪れる死の不安などである。しかし、主イエスを導き手としたときに、そこには、恵みと慈しみが追ってくる。死が近づいても、追いかけてくる。たとえ、苦しみが追いかけてきても、神様はご存じで、時が来たらそこから引き上げてくださる。人間の不安や闇、苦しみに対する唯一の解決の道が、三千年もまえに、このように神からのメッセージとして聖書通して人に告げられているのである。
*礼拝の後で、今年二月十日に召された、集会員、船井万亀子さんの納骨式が行われました。礼拝には船井さんのご主人や息子さん、娘さんなど5名のご親族が参加されました。礼拝後、集会員も参加し、新緑の美しい眉山中腹にあるキリスト教霊園での納骨式が行われました。鳥がさえずり5月の風が吹く中で納骨が行われました。ご親族の上に主の導きがあり、船井さんの信仰が受け継がれていきますようにと祈ります。
○五月八日(金) 天宝堂集会 コロサイ書一・1~5
手紙の初めに、パウロが自分は何者であるかが書かれている。
「神の御心」によって、とあるが、これは原語の意味からは「神の御意志」という意味である。そして「使徒」とは「遣わされたもの」という意味である。パウロの自己紹介は、自分は神の御意志によって遣わされたものである、ということをまず明記している。人は自分の意志で動くか、または他者の意志によって動かされるかのどちらかである。しかし、そのどちらでもなく、神のよって動かされている。それが決定的に重要であるから、パウロがまず記している。パウロはキリスト教を排斥しようとしていた。しかし、突然、イエスご自身から語りかけられて、キリストを伝える者とされた。神の意志によって動かされたのである。
コロサイにいる「聖なるもの」とあるが、これは、「この世から分かたれたもの」という意味である。キリストを信じてこの世と分けられたのである。
「キリストに結ばれている」忠実な兄弟たちへ、とあるが、これは原語の意味からは、「キリストの内にある」という意味である。キリストの内にある、霊的な兄弟、それは対等であり、罪あるものであるが共に罪赦されたものである。兄弟であるから「お父さま」としての神がいてくださる。キリストがきてくださった、そのおかげで、偉大なる神様に対して「お父さま」と呼ぶことができるようにしてくださった。
「神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」とある。この平和は、ギリシャ語では、エイレーネーであるが、そのギリシャ語のもとにある、ヘブル語は、「シャーローム」ということばであり、完成された状態を意味している。神からの恵みとシャーローム、神からの恵みによって完成された、満たされた状態、それが、あなたがたにあるように、という意味である。主イエスから与えられる平和、「主の平和」である。
恵みという言葉も、一番大切なものを、一方的に与えようとする恵みであり、その中心にあることが、罪の赦しということである。罪がわからなければ、恵みはわからない。その罪は、誰にでもあり自分の力では解決できない。罪は赦していただくしかない。それをなしてくださるのは神であるキリストの十字架のあがないのみである。これが恵みなのである。
「いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。」とある。たえず、感謝している、それは、あなた方のキリストにある信仰とすべての聖徒たちに対して持っている愛について聞いたからである。
信仰と互いの愛、それをしっかりと保っている、それを感謝するとともに、続くように祈っている。神と結びついて行うためには、祈りが必要である。また、互いに愛があるかどうか、それは、祈りがあるかどうかということである。折に触れ、思いだし、祈るとき、それが本当の意味で愛するということである。祈りは神に促されなければ続かない。そして、苦しい時にこそ、祈りは深くなる。当時の厳しい状態の中で、信仰が続いているとは、感謝であった。
コロサイの信徒の愛が、「天に蓄えられている希望に基づくもの」とある。この世の希望は、空しく消えていくことが多い。しかし、天に蓄えられている希望は消えることはない。これは何千年も続いてきた希望であり、わたしたちから捨てない限り、決して消えることはない。天にある希望、それはどんな大きな罪があっても、キリストがとりなしてくださり、赦してくださる。復活の希望があるから、殺されても、なお希望を持つことができる。それが福音である。この不滅の流れを受け継いだら、それをまた、他者へと伝えていくことが大切である。
35名(内スカイプ6名)
皇帝に服従しなさいと書かれている。そのため、悪用もされてきた箇所である。なぜこのように書かれているのか、それは時代背景を知る必要がある。当時、ネロの激しい迫害があり、多くのキリスト者が捕えられ殺された。エウセビウスという人による迫害の実態の記録があるが、想像を超える厳しい迫害がなされていた。ペテロはそれで、他の箇所でも記している。
「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(Ⅰペテロ一・6~8)
「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」(Ⅰペテロ三・14)
「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」(Ⅰペテロ三・17)
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(Ⅰペテロ四・12~13)
キリストを信じているだけで厳しい迫害があり、そのような中で権力者と向かい合わなければならなかった。
しかし、その苦しい生活は仮住まいなのである。やがて、栄光に満ちた本国に帰ることができる。だから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい、とある。「肉」ということは別の箇所で、以下のように記されている。
「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」(ロマ書八・5~7)
この世には、ふたつの道しかない。神やキリストの霊にしたがって生きるのか、それとも、この世の霊、つまり目に見えることを一番にして自分中心に生きていくか。キリストの霊に導かれて行くとき食べるのも飲むのも神のため、生きるのも神のためと思うようになる。主の祈りにある、聖霊以外の力に誘惑され引っ張られないように、という祈りは、誰もが毎日、あらゆるときに、必要な祈りである。
迫害の時代、キリストを信じないといえば、すべての苦しみから解放される。戦うためには、必死の祈りが必要になる。そして、この世は仮住まいであり本当に属している国は天にあるということを信じないと戦えない。地上の生活の旅は天の国に向かっている。だから、まず、神の国を求めなさいと言われた。その、神の国に行く道は、肉的なものに負けたらいけなくなる。
皇帝に従え、と記されているが、それは信仰を捨てると言うことではない。殉教者は迫害にあっても皇帝を神と敬えという命令には従わなかったのである。ペテロたちは権力に従わないで、キリストに従っていった。そして、そのような支配者を憎むのではなく、イエスは、自分たちを殺そうとするひとたちのために祈りなさいと言われた。権力がどのように迫ってきても、キリストに従う。しかし、そのような相手の心を神が変えてくださるようにと、祈り、苦しみを甘んじて受けていった。当時の厳しい、真剣な信仰の姿が思い起こされる。
七章とは対照的であり、内容的に大きく異なる。どのような状況にあろうとも、神の御計画の時が来るならば、突然変えられる。それは神が全能だから。神の、激しい熱情とは激しい愛でもある。荒廃の地にも、ふたたび主が住んでくださり、人間の心も、突然変えられることが期待できる。
この熱情を、ねたみと訳して訳があるが、それは不適切な訳語で、ねたみとは、人間の持つ最も悪い感情の一つであり、神がそんなねたみを起こすことはないからである。「神の愛という熱情」ということである。
「エルサレムの真ん中に住まう」とは、かたくなな心が取り除かれ、新しい霊(聖霊)が来るという、新約に通じる預言がここにある。ゼカリヤはその状況を、老若男女が広場に集い、笑いさざめき、憩う、と示しを受けた。幼子のように信じるだけで、わたしたちもこのように祝福された世界に連れていってもらえる。
残りの者とは、バビロンの捕囚から生き残って帰った者、またエルサレムに残っていた者たちのこと。それを見て人間は驚くが、わたし(万能の神)は驚きはしない、とある。神は何事も自由自在にできるからである。
7節からは、外国の人も神の民として集めてくると言われている。それを神が導く。神殿ができてから、人々は神の言葉をいつも聴かされてきた。以前は非常に不安定な状況であったが、そのように今は残りの者に対して放置したままではない。今は種が蒔かれ実を結び、祝福の時代となったからである。
13節以降は、人間の側からも真剣に求め続けること。それぞれにできることをし、恐れず、平和を求めることをせよ、とある。まず神の国と神の義を求めなさい。先ず心の中に聖霊を求め、真実をもって成すべきことをしていくことが求められている。
この章の最後には、アンティオコス・エピファーネスのことが置かれている。ダレイオス王の時代。ダニエル書全体が、非常な迫害の中から生み出された文書である。
エレミヤ書25章8に、バビロンに捕囚になったのは軍事力や経済力でなく、神の言葉に聞き従わなかったためであり、民は70年バビロン王に仕えるとのことが書かれているが、このように聖書はいつも問題の奥の奥にあることを言っている。
70年の時が過ぎれば新しい時が与えられ、人間の側の切実な祈り求めと悔い改めがあれば祝福が与えられるのだとエレミア29章にも書かれている。実際、捕囚から帰り、神殿が再建されるまでに七十年かかった。長い時の流れの中で、国家的、社会的にも神の言葉が、本当にそのようになっていったのである。また、このエレミアの言葉が、後の預言者ダニエルの言葉に重なり、ここに出て来ている。神の言葉は波及し、より深く啓示されていく。
エレミアの言葉を受けてダニエルは、罪の告白をし、断食し、灰を被った。精一杯の、また全身での赦しを請う祈りと悔い改め。罪は、民族の罪であり、全体のための祈りでもあった。民が滅ぼされたのは、あなたに対して罪を犯したからです、あなたに聞き従わなかったからです、との切実な祈り。
神の声を聴かねば、わたしたちは人間の声に聴いている。聖霊に従うか、肉的なものに従うか。神さまに絶えず聞くことがなければわたしたちは、いつも罪の思いに根差している。そのような状態を知ってのこの祈り。
ダニエルはひれ伏し懇願している。人間の側からの祈り。この切実さは、新約の、罪の悔い改めの精神に流れている。荒れ果てた人間の心の状態を知って、心ある人は常に祈ってきた。神はそのことに応えてキリストを送ってくださった。旧約の、この切実な祈りはキリストを指し示している。わたしたちも自分の罪を知って赦しを受ける。自分の考えでなく、他人の考えでなく、まず神さまのお心を聴く。
神に向き直る。天の国は近づいたと、イエスさまの言葉。神さまの純潔、その白さ、愛の広大さ、その万能の力を示されるほど、そこから無限に離れている自分の罪の汚れがおのずからわかるようになる。こういった神の完全さがわからなければ、罪というものもわからない。イエスさまの十字架の愛を知れば知るほど、人間の愛が動物的で狭いことをも知る。
イエス様を求めること。その道がわたしたちに開かれている。このことは全てのひとに開かれている。
主を畏れることは知恵の初めということは、箴言の初めにもある。
ここでいう「知恵」という日本語は、知恵をつけてやるとか知恵の輪といったように軽い意味あるいはよくない意味でも使われるので、そのようなよくないニュアンスを持つことのない「英知」(叡智)という訳語のほうがよい。箴言は、英知について書かれている。
26節の、「主を畏れることは砦を得る」とは、主を本当に畏れる時には、他の人間的なものを恐れない。本当に力があり頼るべきものを見抜くことができるからである。神の力が本当の砦である。英知はそれを見抜くことができる。
主を畏れることはいのちの源だ。主を畏れることは重要なことだ。しかし畏れるということはどういうことか。人間は正しい道から常に逸れている。言うべきでない陰口なども罪深い。間違ったことには裁きがある、神の全能を思えば、その裁きを当然恐れる。
だが心から悔い改めると、神さまは赦しも与えてくださる。恐れつつも尊敬する。恐れと共に神の愛を感じるとき、いのちの源がそこにあり、それが英知の出発点となる。また死からも逃れることができる。だが神さまはすべてを赦してくださると言って、全能の神の裁きを恐れなければいのちの泉も持てない。
29節。忍耐は、耐える力だ。神さまを仰いで忍耐する。それによって英知は加わる。
22節。罪を耕すとは悪を考えること。毎日何を心の中で耕しているか。いつも何かよいことを耕していけるよう、まず神の国と神の義を求めるように。主の平安を持てば、それは命につながる。腹をすぐに立てるのは体も心もこわす。そうならぬよう、いつもイエスさまが共にいてくだるように。
34節の「慈善」と訳されている原語は、「正義=セダーカー」のこと。この新共同訳だけが、このように訳しているが、これは不適切な訳語である。慈善というのは、困っている人に、お金や物品を与えることであるからである。ここでは、そのような慈善事業とか、武力や経済でなく、「正義が国を高める」ということである。
○五月十七日(日) 主日礼拝 一ペテロの手紙 二章18~21 (松山市の四国集会に11名参加。他の方々で、礼拝が守られた。)
ここで言う召使いとは、実際には奴隷同様に使われていた人。それがたとえ不当な主人であっても主人に従えとある。2千年前ではごく当たり前のことであった。
イエス様もこれに関して、マタイ5章43で「敵(隣人)を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と、簡潔な言葉で言っておられる。隣人とは不特定多数の人であるが、これは最も深い人間としての原則である。
キリストでなければこのようなことは言えなかった。敵と言っても色々あるが、自分に悪を仕掛けて来るような者を、嫌ったり憎んだりすることは当たり前だ。しかしその当たり前をそのまま守るのであれば、なんら人間としての進歩がない。動物とおなじ状態である。その悪いことをする人のために祈る。愛することは祈ることであり、好きになるというのではない。愛というのはその他者が、いちばんよいようになることを祈ることである。これが聖書における愛。神さまのみ心である。それができて初めて神さまの子供となるのである。
この深いことをイエスさまは「父は、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるではないか」と、ごく当たり前の自然現象で言い表している。相手がどうであれ、たえず良きことを願う。
ヨハネ福音9章では「不当な苦しみと思えるところにも、神の業がそこに現れるため」であり、先祖の罪や、裁きではないとイエスさまは言われた。この一言に無数の人が大きな力を受けて来た。
神の業が現れるため、ということ。たとえば目に見えない人を用いて、神さまの業を現わしていく。神さまを信じていくと、それを聖霊が教えてくださる。信じていくことが、みこころに適ったことだ。これは現代の我々にも通じている。色々な不当な問題も神さまが意味を持ってなされているのだと受け取り、苦しみを受けても信じて受け取れば、そこに神の業が現れる。あなたがたが召されたのはそのためだ、とある。悪や様々な苦しみ、困難をいかに受け取るか。そこに神の愛がないのではなく、その特別な手段を用いて神の業を現わそうとしていると信じる。
わたしたちの常識的な感覚から考えると、このようなあり方は、私たちの現状から遠く離れているが、キリストの力を豊かに与えられた場合には限りなく高い処まで引き上げられていくことを聖書から知らされる。
高い標準を示してくれる聖書は重要な特質がある。この世界を知らなければ、この世の目に見えるものが全てだと思い、死んだらすべてが消えてしまうという非常に空しい考え方に終わってしまう。思想とか評論、特定の人間の考え方でなく、それと全く違った次元にある聖書というこの原点。
なぜ不義を甘んじて受けないのか、なぜ奪われるままにしておかないのか…。殉教したステファノのように命まで奪われる人がいた。それを甘んじて受けて耐え忍んだ。彼は苦しみを受けてこの世を去って行った。それが神の御心であったからだ。その証言のためにまたキリストを受け入れる人が起こされていったのである。
誉められたり讃えられたりするのでなく、苦しみを通して証しする。それがイエス キリストのご意志であった。キリストの道は本当に高いが、少しなりともできるようにしてくださるのが聖霊であり、神の業がそこの現れるための祈りである。その祈りによって神さまが、神の御わざを見せてくださる。
46名(内スカイプ10名こども2名)
侮辱や苦しみを甘んじて受ける、これは、主イエスに強く結びついていないとできない。人から侮辱されたとき、それは、主イエスの受けた苦しみを少しでも共有できた、と考えるべきである。
わずかなことを仕返すことが大きな戦いになっていくことがある。ののしられてもののしり返さない。正しく裁かれるかたに任せるという道が指し示されている。
「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」とある。
羊は、導かれないと、さまよっていく。同じように人間は皆、心がさまよい、正しい道から外れているといえる。旧約聖書では初めから、このことが記されている。
最初の人、アダムとエバはすべてが備えられた楽園にいたが、そのなかで、たったひとつ、食べてはいけないと言う木の実を取って食べてしまった。それは神を抜きにして知識を追求していく木の実であった。それを食べると死ぬと言われている。しかし誘惑に負けて食べてしまった。それで楽園から追放された。今も、世界は神抜きで知識を追求している。そして、この預言の通りに滅びに向っていると言える。
アダムとエバには、アベルとカインが生まれたが、カインはアベルを殺した。その罪のために、カインは地上をさすらう者となった。人は罪を犯し、神に背を向けたときからさすらう者になる。
そのような罪あるものに対して、主イエスが死んでくださり、主イエスの罪の贖いを信じる事によって人はさすらいから、もどることができるようになった。「戻ってきた」とあるこの言葉は、立ち返る、とも訳されていることばである。神に方向転換をするという意味である。神を離れると、人はたえずさまよっている。それが魂の牧者、そして監督者のところに帰ってきた。この監督という言葉は、原語からは「上から見る」という意味のことばである。つまり、わたしたちを、どうしてるか、迷っていないか、と常に上から見ていてくださるのである。
主イエスはわたしたちをさまよいから導いてくださっている方であり、そして、迷っていないか見ていてくださる方である。人間の弱さを見て、赦し、導いてくださる。しかし、人は弱く、ひとたび、イエスに帰ってきても、また、迷い出る。だから、導き手が必要なのである。
主イエスはどう祈るべきかという、主の祈りを教えてくださった。その中で、「わたしたちを誘惑にあわせないで」という祈りがある。安楽になってさまようこともあり、また、あまりの苦しみに、さまよい出ることもある。さまよい出ると神の愛がわからなくなってくる。わたしたちは弱い。だからこそ、共に集まり礼拝し、御言葉を受ける必要がある。そして、さまよい出ないために、絶えざる祈りが必要なのである。
○五月二十四日(日)つゆくさ集会 ヨハネの手紙4章16~21
神は愛なり、と言われている。だが、日本人はキリスト教が入ってくるまで、何か得体のしれないものを「神」としていた。そこには、聖書の神のような、完全な愛とか正義をもった存在という観念は無かった。神が唯一だという考え方、これ自体が日本に無かったので、そのような存在をあらわす言葉がなかった。聖書で言う肝心の創造主を表す訳語が無かったのである。
神の愛は、母親が子供を大事にするような愛ではない。神が、人間の罪という心の根本問題を解決するために、独り子であるキリストを遣わし、十字架につけて殺すことまでもするというのが神の愛であり、それによって全人類が平安に至るようにと、最も深いところで人間を大事にする愛であるから、子供を大事にするのとは全く違う愛である。神の愛とは大きな苦しみも与えることも含んでいるような愛である。だがその苦しみを通して、神の愛を表そうとしたことがヨハネ福音書に書かれている。
しかし、そんな愛などわからない、と言う人は圧倒的に多いだろう。そこで16節にあるように「信じる」ことが必要となる。たとえどんなことが起こっても、神は愛だと信じることでわかってくることがある。神の言葉は変わらない。二千年も続いてきた。
動物的な愛はすぐわかる。小鳥や動物でさえもわかることだ。だが聖書の愛は、最も深くて広く、反感を持つ者にも注がれるような愛だ。キリストが死んでくださったことで、本当の神の愛がわかる。この愛を信じて留まるなら、神もその人の内に留まることになる。
旧約では、闇と混沌の中に光をもたらした、そこに神の愛がある。創世記の最初から神の愛が奥に秘められている。詩篇全体も、神が愛であることを告げている。祈る相手が愛であることを知り、また信じているから心を注いで訴えている。人間的な愛には恐れがあるが、完全な愛は恐れを締め出す。殉教者は苦しみにもかかわらず、愛を捨てなかった。その愛は神から来ている。神の愛には果てしなく奥がある。
パウロはロマ書12章9節で、「愛に偽りがあってはならない」と言い、人間の愛を神の本当の愛と思い違いすることを戒めている。また悪人を憎んでしまうが、悪そのものを憎むべきであること。苦しいことが起こっても絶えず祈る。愛とは祈りだ。神を愛していると言いながら兄弟を憎むのは偽りの愛だ、とキリストによる限りない高い精神性が示されている。いつもイエスさまを見ているとそれを知らされる。
○五月二十八日 スカイプ集会 アモス書4章12節~5章9節「汝ら主を求めよ、さらば生くべし」参加者20名
イスラエルは、南北に分裂したが、アモスはイスラエルがアッシリアによって滅ぼされる前にそのことを示されていた預言者である。この人はエルサレムの10kmほど南にある荒れた土地の羊飼いであった。今より二千七百年ほども昔の人である。
4章4節に出てくるベテルやギルガルは礼拝などの宗教儀式が行われていた場所であるが、そこで罪を重ねよとある。それは表面的、形式的な礼拝を行い、霊的には死んでいる状態への警告であった。マタイ23章23節でイエス様がファリサイ派の人たちに指摘したような、一番大切なものをないがしろにしている姿であった。
神様はそのような状態から立ち返らせるために、様々な種類の困難を送った。しかし人々はそれでも立ち返らなかった。現代の人たちも神様の無限の力によって起こる様々なことを受け流してしまうことがある。しかし、神を畏れることは英知の初めである。安息日は神様と出会う日であるので、備えて受け取る必要がある。 イスラエルの人々はそのような状況であったが、しかし主の声がそこに臨んだ。「わたしを求めよ。そして生きよ!」と繰り返されている。 神の言葉の中に命が込められている。私たちも罪や圧迫の中でもがいていると、神様が「生きよ」と言ってくださる。どのような罪の中からでも立ち返り、生きることが出来る。絶望の中に光がある。
47名(内スカイプ9名 子供2名)
わたしたちは、何に従って生きていくか。聖書は神に従うということが全編を貫いている。ここでは妻に対して、夫に従えと書かれている。男女の格差は、昔からあったが、当時は、とくに厳しく、女性が圧迫されていても、逃れる道はなかった。だからこそ、あえて夫に従うようにと言われている。しかし、それは、間違ったことに従うとかではない。また、信仰を捨てろと言われて、それに従うようにと言われているのでもない。まず、神に従う、そのうえで、神を見つめつつ、夫に従っていくのである。強要されても信仰を捨てない。その姿勢は使徒言行録にも記されている。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。(使徒四・19)
「…ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒五28~29)
このように命がけで信仰を守る姿勢が示されている。
人間はどんな立場にある人でも、何かに従いながら生きている。社会の法則、それ以上に自然界の法則にも従って生きている。最初の人、アダムとエバは、神の祝福の法則に従わなかった。そこから、罪の支配が生まれていったといえる。
まず、神に従う。その上で御言葉に従わない夫に、祈りを持って従うことによって、神の力が働く。苦しみが与えられた時には、神を信じて苦しみを甘んじて受けていく。そのときに神の力が働いていく。
自分にとって不利益を与えることを赦せないのは、神を見ていないからである。そのときにこそ、忍耐の訓練が与えられたと、受け取っていくべきである。憲法九条にも、この姿勢が流れている。武力に対して武力でもってやり返すのは、本当の力を持っていない人たちがいうことである。
なぜ、「妻たちよ」と先に妻が書かれているのか。それは、より弱い立場だからである。エフェソ書にも以下のように記されている。
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ五・21~25)
双方が尊敬しあうとき、ともに祈りあうことができる。「祈ることが妨げられない」と書かれており、祈りの重要性が示されている。
わたしたちは、何に従うのか。病気や老齢による孤独や不自由さに従うことを余儀なくされる場合もある。そのときにこそ、神に従い、どのような状況にも耐える力が与えられていきたい。
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○石川昌治氏、召される
静岡聖書集会の責任者として長く福音伝道をされてきた、石川 昌治氏が、5月21日召されました。(87歳)
徳島には、数十年前に、息子さんが、徳島大学を受験するときに、来られたのが最初で、それ以来の主にある交流がありました。その後、キリスト教独立伝道会の派遣で、徳島に毎年聖書講話できてくださるようになり、また静岡の集会の方と静岡県清水市の清水聖書集会の方々とともに、何人もが徳島の集会に参加してくださり、清水集会との交流も与えられるようになりました。
石川さんが高齢となってからは、清水集会の責任者の西澤正文さんが代わりに何年かきてくださって、み言葉を語ってくださるようになり、それとともに西澤さんが、キリスト教独立伝道会長をされるようになって伝道会との関わりも多くなり、毎年の伝道会主催の冬季聖書集会でもみ言葉を語らせていただくようにもなりました。
また、私も、石川さん宅での集会や清水聖書集会で何度もみ言葉を語らせていただき、その集会の方々との交流が続けられています。
その静岡の方々とともに長野県の松下道子姉も徳島まで来られたこともあります。そして、石川さんがやはり独立伝道会の派遣で熊本に行かれていたのが10数年前に私が引き継ぐことになって秋に九州に出向くきっかけとなり、それは熊本の代わりに鹿児島に行くことも加わって今日も続いています。
また、石川さんの長女の田嶋恵子さんが仙台におられ、御夫君の田嶋 誠さんには、毎年夏の仙台での集会のことでいろいろとお世話になっています。
一人の主にあるお働きが、それに関係したいろいろな方々のやはり主にあるはたらきと共に、主が、私たちの予想していなかったことを起こしていかれるのを思います。
このように私ども徳島聖書キリスト集会にもいろいろと主にあるよきつながりが与えられることになって、主の導きに感謝を捧げます。そして、今後も、各地のさまざまの信仰と祈りによる御国のためのはたらきが主によって祝福され、福音がさらに伝えられていきますようにと願っています。
○今月号の「いのちの水」誌は、さまざまの用件が重なり、時間がとれず、「お知らせ」「編集だより」や、「ことば」、イラストも入れる時間がなく、不十分な物になりましたが、それでも主が用いてくださることを願っています。
また、お送り下さる「いのちの水」誌協力費、お手紙、メールなどについても返信もできないことがありますが、おゆるしください。
○前月に紹介した、インターネットのYOUTUBEによる二つの録画DVD、原発の廃棄物に関する「最終処分場はどこへ―行き場のない核のゴミ」、「映画日本国憲法」 ―世界から見た日本国憲法 、いろいろな方々からの希望がありました。引き続いてご希望あればお送りできます。一枚実費200円です。(送料込)
神はすべての人が救われて、 真理を悟ることを望んでおられる。 (Ⅰテモテ2の4) |
参加者大人60名余、子供約10名
プログラム
○第1部 子供とともに 司会 Y.N
・賛美 「いつくしみ深き」新聖歌 209 全員
・オカリナ「286「シャロンの花」新聖歌286 T.Y、T(T)
・賛美 いのちのさと「若葉」、小さい羊が」 新聖歌485
「カルバリの道」友よ歌おう 3
・こどものための絵本より「ええところ」 お話し K(K)、T(T)
○第2部 み言葉に聞く 司会 T(N)
・ 讃美 「いざ歌え高らかに」讃美歌第2篇-131
・ 聖書朗読 ルカ福音書24章1-7・祈り
・聖書講話 「生きておられる方」清水 勝(大阪聖書研究会)
・賛美 「すべての民よ、喜べ」讃美歌21-327
・聖書講話 「キリストが復活しなかったなら」 吉村孝雄・賛美 「いざ人よほめまつれ」聖歌168番 ・祈り
○第3部 讃美のひととき 司会 E.E
・デュエット
「主イエスの愛は、なんという愛、大波のように」(リビングプレイズ54) S.M、N(Y)
・手話讃美
①「主をたたえよう」世界の讃美(2)-9
②「初めにおられた神のみ言葉」新しい歌5
・コーラス
①十字架の血に:新聖歌45番
②歌えイエスの勝利を:リビングプレイズ167番
★参加者全員で賛美「墓の中に」新聖歌127番
○第4部 感話会 司会 K(K)
1、K.I 2、K.M 3、S.M 4、T.K 5、T.Y 6、N.M 7、H.H
(県外)8、愛媛 S.E、 9、香川 M.D・R、 10、大阪 S.Y
○第5部 食事と交わりタイム 司会 N.H
聖書からのメッセージ 「生きておられる方」
清水勝 (大阪聖書研究会)
主イエスはクリスマスとイースターで2回誕生されたといえる。それは、十字架の死から復活され、新しいいのちを得て誕生されたからである。
主イエスが復活されたとき、最初にその知らせを受けたのは女性だった。この女性たちは、ガリラヤから主イエスに従ってきた人たちであった。主イエスの罪の赦し、癒し、愛の業を見てきた。その主イエスが捕えられ、十字架で極限の苦しみを受けた。女性たちの絶望、落胆はどれほどであったか。その女性たちが主イエスの遺体に香油を塗りに来たのであった。女性たちはイエスに対する純粋な愛から香油を塗りに行った。そのひとりは七つの悪霊を追いだしてもらった女性であり、主イエスの足に香油を注いだ記事が記されている。そして主イエスは「多くの罪がゆるされたのは、多く愛したからわかる」と言われた。その愛を持って死後の主イエスに香油を塗りに行ったと言える。
女性たちが墓に行くと、遺体は見当たらなかった。盗まれたかと途方に暮れたとき、神の使いが現われ、神の臨在を見て地にひれ伏した。そのとき神の使いは「なぜ、生きておられる方を死者の中から探すのか」と言った。
復活は聖書の中の最大の奇跡である。「人の子は三日目に復活することになっている」とある。つまり、神の御意志であった。主イエスは人間の罪によって殺され、この世の悪の力に負けてしまったように見えた。悪が勝ち誇っているように見える時代、それは今も同じである。そのような中で、主イエスは、復活された。罪と死とサタンに勝利されたのである。主イエスが復活されなければ、罪の呵責で絶望しかない。しかし、復活によって、わたしたちの心の中から、苦しみ、なやみ、絶望をとりのぞいてくれた。そして、今も生きて働いてくださり、わたしたちのために神にとりなしてくださっている。罪を犯してしまうわたしたちを仲裁して、神中心に生きるように変えてくださるのである。
わたしたちは、永遠の命を与えられることが約束されている。その証拠はどこにあるか。十字架のイエスを見上げるだけで、罪が赦される。これは、イエスがとりなしてくださっている証拠である。主イエスが生きておられるからこそ、とりなしていてくださるのである。主イエスはイチジクの木のたとえを話された。農園に一本のイチジクの木があったが実らなかった。この木を切り倒してしまえという命令を受けた庭師は、もう一年待ってくださいと言った。わたしたちは、いつも神様を悲しませている存在である。しかし主イエスが「もう一年待ってください」と執り成し続けてくださり、実るまで待ってくださる。
わたしは、十八年前に神から示されて、福音のために働くようにいわれた。今年、大学での仕事を捨てて福音のために働くことにした。神様に十八年間罪を見逃してもらった。これからは、福音のために働きたい。
主イエスを復活させたかたの霊がわたしたちにとどまっているならば、その霊によって、わたしたちのこの死ぬはずの体を生かしてくださる。神の霊を受けたものは永遠の命をいただけるのである。地上の肉体は、いつか死ぬ。しかし、朽ちる者が朽ちない者として復活する。霊の体として復活し、永遠のいのちを与えられるのである。
聖書からのメッセージ 「キリストが復活しなかったなら」吉村孝雄
この世では一番大事なものは何か。命が一番大事という。だから健康が大事という。しかし、聖書は、永遠の命こそが一番大事であると示す。
キリストが復活しなかったら、信仰は無であり空しい、とパウロは言う。キリストに望みをかけているだけでは、もっとも惨めな者であるという。それは、この時代は迫害の時代であり、キリストを信じているというだけで、しばしば悲惨な目に遭わされた。復活がなければ希望はない。死ねば終りになる。復活があるから永遠の希望がある。
神の言葉には不思議な力がある。聖書の言葉、ただひと言を紙に書く。それだけでも力がある。権力や軍事力、学問あるいは科学技術など真のに力があるのではない。すべてが消えても残るのが神の言葉である。
神を信じる者は死んでから復活の体が与えられる。しかし、生きているときにも霊的に死んでいたものに、命が与えられる。人は霊的には死んでいるものである。そのようなものを愛し、罪を赦してくださり、新しい命を与えてくださる。復活は死後のことだけではなく、今起こっている身近なことである。
「愛がなければ無に等しい」とある。どんなに良いことをしても、神と人に対する愛がなければ無である。この愛は、この世の愛ではない。無差別的な、どんなに悪い人でも同じように祈りをもって愛する愛である。そんな愛は人にはない。しかし、聖霊によって与えられる。
神の真理は、変わらない。世界に災害や戦争、病気など何が起ころうと真理はびくともしない。そしてその心理は幼子のような心で神を見つめ、求めるとき与えられる。主イエスはいつもわたしたちのためにとりなしてくださっている。その愛を受けてわたしたちも互いに祈り合って、共に進んでいきたい。
キリスト教の歴史上ではじめての殉教の記事である。その後、キリストを信じているというだけで、厳しい迫害が歴史の中で続いた。
ステファノはなぜ殺されたのか。それは、ユダヤの民に、彼らが神に逆らい続けてきたゆえに、裁きを受けてきたし、これからも同じである、ということをはっきりと告げたためである。そのことによって憎まれ、殺された。
罪を指摘されたユダヤ人たちは、立ち帰ることができなかった。頑なな心を示されて歯ぎしりをするほど怒り、ステファノを憎んだ。しかし、そのただ中でステファノに聖霊が注がれた。
聖霊は神と同じ本質である。だからステファノはこの苦痛に耐えることができた。人間には力はない。聖霊、神にこそに力がある。
聖霊が与えられるということを記されているのは他にもある。
「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒言行録八・17)とあるように、祈りを持って手を置くとき、聖霊が注がれる時がある。また 「『預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。』ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。」(使徒言行録十・43~44) とあるように、福音を聞いているときにも聖霊が注がれる時がある。これは、現代に至るまで続いている。
聖霊の実は平安であり、このような殺意の中でも聖霊が注がれると平安が与えられる。そして、それは求めたら与えられると約束されている。聖霊が与えられると、真理もわかる。ステファノは殺される時主イエスが見えた。主イエスこそが真理である。ほとんどの人には霊的な世界は閉じられている天の窓が開かれ、天上の世界がはっきりと見えた。心の清い者は神を見る、と主イエスは言われた。激しい憎しみ、闇。そのサタンの力のただ中で、神の世界が開かれている。
ステファノは最後に「この罪を彼らに負わせないで下さい」と祈った。苦しみのただなかで、自分を殺そうとする人の罪の赦しを祈った。敵のために祈れと主イエスは言われた。主イエスは出来ないことをいわれない。どのような人でも、聖霊が与えられたらできる。だから、聖霊を求めていくべきなのである。
わたしたちの毎日の生活でも、聖霊をくださいと、求めていくとき、天が開かれ、祈ることができる。イエスは主である、と言えるのは聖霊による。主イエスは生きて、とりなして下さっている。ステファノが強いのではない。人間の力ではなく聖霊の力、神の力による。だから、ただ神を讃美するべきなのである。
(内スカイプ11名、こども2名)
神の言葉は変わることがない。このことは旧約聖書でも記されていたため、ここに引用されている。この箇所はイザヤ書にある。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。…
草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ四十・6~8より)
イスラエルは冬の間が雨季であり、日本では冬であり、花は見られないが、この地方ではこの時に植物は成長し花開く。
しかし四月以降になると雨が降らずに、野草など花は一斉に枯れる。そのような状況の中、一時的に華やかな花もすぐに枯れるということがこの地域では実感されることであった。しかし、そのような中でも、ただ神の言葉は永遠に変わらない。
わたしたちが新しく生まれたのは、神の言葉による。人間の言葉で、誰かを全く違った人間、魂の奥深くを変えることはできない。しかし、神の生きた言葉によって、新しく生まれさせていただいたときには、それはずっと続いていく。
言葉は心から出る。言葉はその人の心である。神の言葉も、神の御意志から言葉が出てくる。神は完全な存在者であり、いかなることがあっても、変わらない。その神から出たことばであるから、神の言葉もかわらないのである。
神が変わることのない存在者であることは旧約聖書にも記されている。
モーセは神に尋ねた。「イスラエルの人々は、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言え。
『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト三・13~14)
神の名は「わたしはある」つまり存在者であり、永遠に存在して変わらないことを示している。だからこそ、主のことばも変わらない。
今、わたしたちは言葉が氾濫する世界に生きている。しかし、それはすべて、はかない。その無数の言葉の中で、神の言葉は星のように輝いている。言葉が、神と同じに重要であり、永遠である。それは次の箇所にも記されている。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ二十四・35)天地は過ぎ去っても、神の言葉、キリストの言葉は滅びない。人間のことばは変わりやすい。だから神の言葉に聴く。
「これこそが、福音として告げ知らされた言葉」とある。福音とは原語では「ユーアンゲリオン」、良い知らせという意味である。
生きた言葉によって新たに生まれることができる。これこそが良き知らせである。
神の言葉が与えられているのに、それに背いていけば神は警告される。それは、苦しい出来事であったとしても、そのことによって神に立ち返れというよき知らせである。知らずに進めば、滅びる。だから警告として知らせてくださる。そしてさまざまな困難があっても、最終的には良きことに変えられていく。
聖書全体が、よき知らせの書物である。そして、キリストこそがよき知らせである。旧約聖書はそのキリストを指し示している。
「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。』」(ルカ四・18~19)
主イエスはこのとき、イザヤ書を示された。そして、ここにご自分について書かれていることを示された。
聖書は聴く耳を持つとき、無言のよき知らせが無尽蔵に告げられているのである。
短い詩であるが、主を讃美するという事の重要性が書かれている。聖書はいかなる意味でも人間を讃美しない。この世は人間を讃美する声で満ちている。七〇年前までは、天皇を現人神とまでまつりあげて讃美した。
神の偉大さを知らないと神を讃美する事はできない。主がすべてを造って下さった。詩編一四八篇から一五〇編は「ハレルヤ」「主を讃美せよ」が繰り返され「主を讃美せよ」で終わっている。
人間のわざにも素晴らしいものがあるがそれは神がその人に与えたもので、与えた神を讃美するべきである。この事が創世記に書かれている。人間の世界は闇と混沌に覆われていた。そこに光を与えるのは神である。その神を讃美しよう。
神は折りに触れて苦しい事や困難を与える。試練で打ち砕かれ初めて主の事が分かり讃美する事ができる。人間は祈るべき存在であり神のみほめたたえられるべき存在である。祈りはどんな人にも害がない。
主イエスが「まず神の国を求めなさい。」と言われたが、神のご支配があるのでこの世界は素晴らしい。自然は神の被造物で美しさと力に満ちている。聖霊が与えられると見抜く力が与えられ、ことごとく必要な事が教えられる。罪を赦して下さる主イエスが分かる。聖霊が与えられる事と讃美することは結びついている。
黙示録に何億という無数の人たちが讃美している声を聞いたとある。キリストと神を讃美するハレルヤの大合唱である。迫害のさ中に天では甦られた主イエスを讃える大合唱があった。讃美は飾りではない。
○四月十三日(月) 北島集会 ゼカリヤ六章
奇想天外でわかりにくい所だが、現代のわたしたちに神さまはどのようなことを言おうとしているのか。
四つの戦車とは、広く四方の世界に吹く四つの風のことでもある。だが風と戦車にどんな関係があるのか。風という言葉には霊的な意味がある。この風は戦うための風であり、その風は主の前に立って、神の力と使命を与えられてから出ていく。これは全世界を支配するということを象徴しており、四つの戦車は悪の力と戦うものである。
この風は今も吹いている。悪の風ばかりのような中で、聖書はそれとは別の風が吹いていることを言い続けている。どんなに荒涼としていても、そこに神からの風が吹いている。創世記の最初からこのメッセージがある。
二つの風がある。今もこの風が吹いており、霊的に目を開いていなければ、この世の悪い風に吹かれて間違ってしまう。霊的なよい風は、引き上げられねばわからない。だがこのことはわたしたちの重要なことにつながっている。
四つの方向のうち、ここに書かれるのが省かれている東の方にはアラビアがあり、この方向からの脅威はなかった。北の国はバビロンである。ここに霊の力が留まり、本来ならあり得ないような奴隷としての民の解放が起こった。神の霊の力の働き、ここにはそのような深い意味がある。新約では使徒言行録2章、また8章2に聖なる風が吹いた事が書かれている。
12節の若枝とはゼルバベルのことであり、更に後のキリストを指し示している。ゼルバベルとヨシュアは、神殿と、帰ってきた捕囚の民を建て直した人である。だがキリストは全人類の霊的な神殿を建て直したのである。またイザヤ53章2~には、キリストを深く指し示し、本当の若枝であることが書かれている。
様々な混乱や攻撃があっても、そこに神からの戦車のような風が吹いて来れば、悪との戦いにも勝利する若枝が芽吹く。そのイエスさまによってわたしたちも救われた。今も、キリストによって日々贖われ、新しくされている。キリストを信じたものは、小さなキリストとなり、若枝となる。
わかりにくい内容だが、全世界的な視野で書いており、雄大な内容を持っている。
示された啓示は二本の角。これはメディアとペルシャであり、西から一頭の雄山羊が飛ぶような勢いで…とあるのは、ギリシャから出たアレクサンドロスである。たった十年で広大な土地を支配し、33歳で死んだ彼の影響力は後々まで残った。エジプトの都市アレクサンドリアはこの名前から出ている。単なる支配力だけでなく、アリストテレスに学んだ彼は、ギリシャ語を当時の世界語として広めるなど、学問的なものも植え付けていった。このアレクサンドリアに住むユダヤ人たちが、旧約聖書をギリシャ語に訳した。それが70人訳で、使徒たちが使ったのもこの聖書である。
アレクサンダーの支配した広大な地が四つに分かれた。その一つから出たのがアンティオコスエピファーネスであった。彼は真理を踏みにじり、ユダヤ人を根絶やしにしようとした。激しい迫害の中からは「いつまで続くのか」という問いが起こる。真実な神が居られるのに、なぜ、という叫び。それはこういった迫害だけでなく、病気や事故、家族の問題、人間関係等々、今もある。ヨブ記にも、そのことが書かれている。
だが、悪の支配下にあるものは、日が暮れ、夜の明けること三千三百回で終わる、と。7章25節にも、それには限界があると。日数にすれば三年、或いは三年半で終わるのだと書かれている。
現代では希薄になった聖なるものに対する恐れ。しかし神さまからの啓示を受けることは非常に厳粛なものであり、全身全霊でそれを受け取るという気持ち。「わたしは恐れてひれ伏した」と、また「かれがこう話している間に、わたしは気を失って地に倒れた」と、27節には「ダニエルは疲れ果てて、何日か病気になった」などのように書かれている。イエスさまは「心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くして神を愛せよ」と言われた。その気迫がここからも伝わってくる。
どのような強大な敵も、混乱も、荒廃も、死も、神に逆らう力も、人の手によらず、神の手によって滅ぼされる。これは聖書全体の変わらないテーマである。
44名(内スカイプ7名)
人の心から、悪意、ねたみ、悪口をすべて取り去り、と書かれている。これは、人間の力で簡単にできることではない。平穏な生活の中で、できていたとしても、他者からいわれのない中傷を受けるとか、悪意を受ける時、誰でも心の平安は消える。それが大きくなれば、殺人や、また戦争にまでなっていく。人の心にはそのような根があって、状況によっては、そこから悪意が芽生えてしまう。
パウロも自分は死の体であると言った。良いと思うことができないのが人間である。それは、ただ、イエスの霊を受けてのみできることである。生まれたばかりの赤ちゃんは、ひたすら母乳を求めて必死で泣く。「霊の乳を慕い求めなさい。」とあるが、この慕い求めるとは、「切に望む、熱望する」という原語の意味がある。迫害の中、真剣に命がけで悪の力を乗り越えてきた、その祈りである。主イエスも夜通し祈ったということが書かれている。
主イエスは、主の祈りを弟子たちに教えた後、祈りについていわれた。
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。」(ルカ十一・5~9)
夜中に訪ねていって、パンを下さいというのは非常識である。しかし、主イエスに対する熱意に非常識はない。中風の人の友人たちが、みんなでその人を運んで、イエスのところに連れていったが、人だかりがたくさんで会ってもらえない。そこでその家の屋根をはがしてつり降ろした。通常では考えられないこんな行動まで、主イエスはその人たちのイエスに対する信仰のゆえに救いを与えられた。
友達だからということではもらえなくても、執拗に求めたら与えられる。祈りがきかれないことがある。しかし、主イエスは見ておられる。そして、聖霊は求めたら与えられると約束されている。
霊の乳を求める、とある。聖霊がミルクとたとえられているが、それは当時、水さえ少ないこのような砂漠地帯では、水分の補給に加えて完全栄養食として貴重なものであった。
霊のミルクをのんでいたら、自然に悪意は消えていく。だから、主イエスはまず、神の国と、神の義とを求めなさいといわれた。人が本当に求めるべきなのは、霊のミルクなのである。それを飲まなければ成長できない。また、怠れば救われていても、信仰から外れていく。
わたしたちは、主が、恵み深い方であると味わった。信じるだけではなく、経験をした。だから、主のもとにきなさいと呼びかけている。重荷を負う者はわたしのところに来なさい、と主イエスは言われた。そして、人間の一番の重荷である罪を除いていただいた。
主イエスが生きた石であると書かれている。個人も、集会も、主イエスを土台とするとき、そこから造りあげられていく。そして信じる者、ひとりひとりが祭司となって、伝えて行く。砕かれた心を主に指しだし、主から聖霊を受けて、遣わされていく。求めたら与えられる聖霊は旧約聖書でも記されている。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(イザヤ五五・1)
主のもとにきなさい、という呼びかけは、このような時代からなされており、今も天から全世界に響いているのである。
42名(内スカイプ10名)
わたしたちは何を土台としていくか。キリストこそ土台である。要の石である。その上に建てられていくとき、失望することはない。人間社会は変わるが、永遠に変わらない土台がある。それは、目で見える社会を見ていてはわからない。その土台の石であるキリストも、預言者も迫害され殺されるということが起こった。それを、「家を建てる者の捨てた石」と表されている。神が良きものであると定めたのに、この世の支配者はそれを捨てようとする。人間の支配者が捨てて殺そうとしたものであっても神はそれを取り上げて、それを、土台とされる。
神の御計画によって、憐れみによって、わたしたちは選ばれた。ほとんどの人が唯一の神などいないと思っているこの日本の中で、神を信じることができた。それは神が、人間の思いを超えて働いてくださったからである。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ一・4)はるかな、永遠の時間を超えたところから、わたしたちを選んでくださった。
わたしたちが、キリストを信じるようになれたこと、また、その反対に、どこまでもキリストを迫害しようとする人がいること、それは何かの御計画があって神が決められたことである。しかし、神に敵対するものであっても、神の時が来たら神の力が働き、突然変えられることがある。パウロがそうであった。だから、わたしたちは、誰が選ばれているか、選ばれていないか、などと考えるべきではない。どのようにかたくなな人であっても、心の中はわからない。主イエスは敵のために祈れと言われた。わたしたちは、ただ主が最善にしてくださることを信じて、祈り続けるべきなのである。
キリスト教がカトリックとプロテスタントとわかれたのは、ルターによって、キリスト教の改革が行われたからである。それは三つの柱からなっている。
1.「信じるだけで救われる」洗礼や聖餐などの儀式がなければ、あるいは教会に所属しなければ救われないとされていた。しかし、聖書には信じるだけで救われると明記されている。
2.「聖書中心」聖書の他の伝承は信じることをしない。たとえばマリアを無原罪であるとして礼拝すること、ローマ教皇を無謬であるとする教義は受け入れない。このようなことは聖書には書かれていないからである。
3.「万人祭司」カトリックでは聖職者と信徒は別であり、賛美も聖歌隊だけしか歌えなかった。しかし、聖書には信じた人は聖霊が注がれており、他者のために罪の赦しを願う祈りという霊的な捧げ物をささげることができるようになり、他者にキリストを伝えるはたらきも与えられていると記されている。すなわち、信徒はだれでも神と人との橋渡しをすることができるようになる。だから、万人祭司といえる。すべての人に霊が注がれるということは、使徒言行録に記されている。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』(使徒言行録二・17~18)
信じた時に神の霊が注がれる。だから預言するのである。これはヨエル書の引用である。(ヨエル三・1~2)このように旧約の時代から示されていることなのである。
わたしたちが選ばれ、驚くべき光の中へと招き入れてくださったのは、何のためか。それは、神の業を、広く伝えるためである。
創造主である神が、わたしたちを選んでくださった。神に選ばれても、それぞれ、欠点があり罪がある。なぜ、選ばれたのかはわからない。だからこそ、畏れと感謝を持つべきである。
わたしたちは王の系統を引く祭司、つまりキリストの系統をひく祭司であると言われる。だからとりなしができるのである。わたしたちは神のものである。人は、いろいろなものに捕らわれる。人間であったり、地位やお金であったりする。しかし、わたしたちは神のものであり、神が捕えてくださっている。母親が子供の手をとらえているように、神の手は、わたしたちを守ってくださる。他のものに紛れて流されないように捕えていてくださる。そして、闇の中から光の中に、光を伝えるために引っ張り出してくださった。祈りによって、また、何らかの働きによって、主イエスを伝えて行く。わたしたちが主のためにエネルギーを用いるとき、内なる霊は活性化され、新たな活力が与えられる。受けた恵みを他者に与えていくことが新たな力となっていくのである。
○四月二八日(火) 移動夕拝 中川宅 申命記三〇章 11~20 参加 二三名内スカイプ一二名
申命記には重要な事が繰り返し言われている。「今日あなたに命じる戒めは特別なものではなく御言葉は、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」あなたの口と心にある。六章5節に言われている「主を愛する」というただ一つの事があればもう私達の内に神の言葉がある。愛しているならその声を聞く。神の言葉は非常に遠いと思っていたがこれは革命的なことである。神を信じるだけでなく全身全霊をもって愛する事ができる。「たとえ山を動かす程の信仰があっても愛がなければ一切は無である。」。マタイ二二章37節で主イエスが一番重要なみ言葉だと言われた箇所はこの「心を尽くし思いを尽くし精神を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい」と「あなた自身のごとくあなたの隣人を愛しなさい」の二つであった。まず神を愛して初めて他人を愛する事ができる。神を愛する事で神の力がいただける。み言葉を愛し聞き従う、それが命である。パウロもローマの信徒への手紙で「口でイエスを主だと告白したら救われる。主の名を呼び求める者は皆救われる」とみ言葉は非常に近いと書いてある。祈りの心は聞く心である。神の声を聞き絶えず神に向き帰る。心の貧しい人、悲しむ人は幸いである。私達に苦難が臨むのも悲しみの中、苦難の中から神の声を全身全霊で聞こうとする心がそこに生じるからである。 (まとめと入力 K.K& E.I & H.N & Y.N)
私はあなた方が老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。私はあなた方を造った。私が担い、背負い救いだす。私はあなた方が老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。私はあなた方を造った。私が担い、背負い救いだす。 (イザヤ書46の4) |
幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのを止めてはならない。天国はこのような者の国である。マタイ19 |
あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯。 あなたは私の隠れ家、 み言葉を私は待ち望みます。 (詩篇119の105、114) |
あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。(使徒言行録1の8) |