集会だより  2020年9~12月号  NO.476  

    その憐れみは限りなく、主をおそれる者に及ぶ。(ルカ1の50

集会だより 9月分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇八月二日(日)主日礼拝 

 「キリストとともにいることからくる喜びと戦い」

 フィリピ一・2330 会場10名 スカイプ38  合計48

「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように」とある。喜びもさまざまな喜びがある。しかし、この世の楽しみではなく永続的で誰でもが与えられる喜びは、信仰による喜びであり、聖霊による喜びである。

 新型コロナウィルスの蔓延は、交通の著しい多様化とスピード化、また自然を人間が破壊していくこと、コロナウィルス自体の感染しても症状のない場合も多いこと…等々、さまざまの理由があるが、 より根本的には、歴史的に、人々がこの世の楽しみ、物質的豊かさをどこまでも追い求めてきたことが重要な原因となっている。

 しかし、聖霊による喜びがあると、さまざまの娯楽、遊興の施設に行くも必要なく、飲酒や多人数によるしばしば贅沢な会食も必要なくなる。人間は弱いので、目先の楽しみを選んでしまう。コロナの拡散も、その相当の部分は、本来必要ない楽しみや物質的豊かさを追い求めた結果とも言える。

 本当に必要なのは信仰による喜びである。

〇八月三日(日)小羊集会 ヨハネ一・1418  参加12

 小羊集会は、はり治療院を経営している鈴木益美宅での集会。鈴木姉は中途失明者。この集会だけに参加される方々もおられるので鈴木宅にての集会が続けられている。

 ヨハネ福音書の冒頭の部分は、神からの啓示を受けて、ほかの福音書に記されていないことが記されている。1章1節「初めに言があった」とある。これは天地創造の前に先に「ことば」(ロゴス…根源的な宇宙を支配する存在)なる、キリストが存在していたということである。

 そしてまた、神の言葉が万物を創造したことも示している。神が光あれ、と言われ万物が生じた。万物を創造したという側面、そして、ギリシャ哲学で示されている根源的な存在、その二つが示されているのである。

14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「言は肉となった」とは、その宇宙の根源的な存在が、人間の体をもって地上に来てすべての人類の中に宿られたということである。つまり、神であるキリストは人間と同じ姿になって地上にこられた。

「わたしたちの間に宿られた」とある。当時のキリスト者の間に、そして今のわたしたちの間に宿ってくださっている。

「わたしたちはその栄光を見た」とある。ここでのキリストの栄光とは、神のあらゆる善きことー真実、愛、光、命、永遠…等々を指している。

〇八月九日(日)主日礼拝 

「福音のための闘い、キリストのために苦しむという恵み」

  フィリピ一・2730  43名(スカイプのみ)

 きょうは長崎に原爆が落とされた日である。わたしたちは歳月の流れと共に、また目先の問題がおこるために、狭いところを見るようになる。核廃絶を言う前に戦争そのものをやめるべきである。そのためには、まず、私たち一人一人が主の平和を与えられることが必要である。

 本当の平和のためには聖なる霊が与えられる必要がある。使徒言行録でも以下のように記されている。「祈りが終わると、、皆、聖霊に満たされた」。そして、福音の宣教の出発点はキリストの復活を証をすることであった。パウロも十字架の贖いと復活のことを繰り返し話した。

「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており」とある。

 福音信仰のために一つのチームとなって戦う。キリスト者であるということは、自分だけの平安、自分だけの病の癒し、そのことだけを思うべきではない。体の病で痛みや苦しみがあるとき、また家族が病で苦しむとき、そのことが心を占める。しかし、パウロのように、離れていても、福音信仰のために戦っているということをパウロは霊の目でみていたのである。

「同じ戦いをあなたがたは戦っている。」とある。それは霊的な戦いへと導かれたのである。 「…神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。」(コロサイ書四・12)この「熱心に祈っている」という言葉は、原語のギリシャ語では、「祈りの中で戦っている」という意味がある。祈りの戦いが必要である。

 個人的な苦しみも、キリストのために戦い、キリストのために苦しむのだと受け取る。家族の問題も、キリストの戦いのために、その苦しみがわかるために与えられたのだと受け取る。信じる者にはすべてのことが働いて益となる。

 〇八月十四日(金)天宝堂集会 20時~22

 この天宝堂集会は、はり治療院を経営している全盲の綱野悦子宅での集会。コロナのことがあるが、この集会だけに参加される方々が4名ほどおられるので、ネットと併用して続けられています。会場参加者 9名

スカイプ参加 5名。(神奈川、千葉、香川、大阪、徳島の方々)合計14名。「キリストを受けること」マルコ十四・2226

 「一同が食事をしているとき」とある。これは最後の食事のときの内容である。このあと、イエスは捕らえられ殺される。そのような切実な中で話されたことである。

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて」とある。これは、神に感謝の祈りを捧げたということである。

 そのときに主イエスはそのパンを、「これはわたしの体である」と言われた。そして、杯のぶどう酒を「わたしの血であり、契約の血である」と言われた。

 このときの中心にあるのは、イエスは御自分を与えようとされたことである。最も大事なもの、イエスご自身である「聖霊」を与えようとしたことを言われたのである。

そして一同は賛美の歌を歌った。讃美は祈りである。キリストが、最後の食事をして、最も重要なことを語ってから、最後に賛美をした。

 「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ六・4751より)

 イエスの霊的な体、聖霊こそが、人を生かし、命を与える。

〇八月十六日(日)主日礼拝

 「人の交わり、聖霊による交わり」

   フィリピ信徒への手紙二章1~4 42名(スカイプ)

「キリストによる励まし」とある。この「励まし」は「慰め」とも訳される。

 キリストは聖霊である。聖霊によってひとつとなる。互いに主にあって友となる。それは人間の力ではなく聖霊の力による。最終的に地上を去るとき、わたしたちは聖霊の力によって、キリストと同じ姿に変えられる。

 キリストは万物を支配される力によって、わたしたちも栄光ある姿に変えて下さるのである。すべては聖霊による交わりが根本にある。

 主イエスは、わたしたちが罪深い、弱い者であるにもかかわらず、そのようなわたしたちのために祈り、とりなしてくださる。

 「霊(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる(祈ってくださる)からです。」(ローマ八・26

「執り成してくださるからです。」とあるが、これは言葉にならないうめきをもって「祈ってくださる」のである。そこから、以下のよく知られている個所につながっていく。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

〇八月二十三日(日)主日礼拝

   「キリストの本質とわたしたち」

   フィリピ信徒への手紙二・5~11 47名(スカイプ)

 「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」とある。一番近い他者に対して、愛をもって関わる。他者のために祈りの心を持って対せよということである。

 今も、キリストが万物を支えておられる。すべてを創造されたのはキリストである。それはヨハネ福音書冒頭に記されている。

 「初めに言(イエスとして人間の形で生まれる以前から存在していたキリストを意味している)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ一・1~4より)

へブル書には以下のように記されている。

「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる…。」(ヘブル一・2~3より)

〇八月三十日(日)主日礼拝 「星と命の言葉」

 フィリピ二章1216 参加者 51名(会場参加、スカイプ)

「恐れおののきつつ自分の救いを達成する」とある。神を忘れて、自分の思いで過ごすとき、そこには神に対する恐れはない。神を信じて従おうとするとき、自分の罪を知らされ恐れを知らされる。実際の生活の中で、身近な人への愛や祈りはあるか。他者の痛みや苦しみを共感しているだろうか。テレビや新聞などのニュースで知らされる大きな苦しみも、軽い気持ちでみるべきではない。祈りをもって見るべきである。

 常に、呼吸のように祈りをなす。それは、目を覚ましているということである。主は内にいてくださる。だから、すべてをご存じである。必要な時には痛みや苦しみをもって、裁き、正しい道へと導かれる。そのように真実に神をみつめて従おうとするとき、神は助けて下さるのである。

「命の言葉をしっかり保つ。」イエスに心の内に住んでいただき、命の言葉を持つとき、命の言葉が輝いているから、わたしたちも輝くことができる。 星は、何ものにも動かされず、永遠の輝きを持つ。いのちのことばを持つとき、その御言葉ゆえに星のように輝く。

ペトロは言った。

「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ六・68

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集会だより 十一月号 475号から

 〇十月四日(日)主日礼拝

「後のものを忘れ、前のものにむかって」

    フィリピ信徒への手紙 3章 10節~16

        会場12名 スカイプ42名 合計54

 キリストを信じる者にとって、 なすべきことは、前のものに向かって信じて進んでいくことである。後ろのものとは過去のことであり、パウロにとっては地位や権力、学問などこの世で称賛されるものであった。しかしそのような過去の力はまったく力を与えない。また、後ろのものとは、わたしたちが犯すさまざまな罪も指す。それはキリストの十字架を信じることにより清められ赦していただいた。それゆえに前に進んでいくことができる。過去のことにこだわるのではなく、今、生きている人、身近な人、家族、関わる人に対して力を注ぎかかわっていくべきである。

 前のことだけを見る、とある。「前のこと」とは何か。神の国、真実、それが福音である。 前のものとは、キリストのご支配である。それを求めていく。

★十月十一日(日)主日礼拝 徳島聖書キリスト集会・高槻キリスト聖書集会・阪神エクレシア合同集会

 「命を得させてくださる主」 詩編三十編

徳島集会場11名 高槻那須宅6名 スカイプ(神戸、高槻、徳島関係)45名 合計62

 第二日曜日は、神戸と高槻の集会に出向いて御言葉を語らせていただいてきたがコロナのために、今回はスカイプでの合同集会となった。 高槻集会所属の那須容平さんご夫妻も台湾からスカイプで参加。(現在は日本語学校での数学教師として赴任中。)

 〇十月十八日(日)主日礼拝

「私たちの本国は天にあり」フィリピ三・1720             会場 12名 スカイプ 39名 合計51

 わたしたちの本国は天にある。だから切実に帰りたいと願う。パウロはいのちにかけても、本国に帰りたいという願いを持っていた。たとえ、殺されても天に帰ると言うことを目指していたことがわかる。

わたしたちの本国は天にあるといわれているが、これは死んだのちにだけ、行くところではない。天、これは国、霊的な国である。それがわたしたちの国である。主イエスがおられるところが、天の国である。死んだのちの世界だけではなく、今、生きて働いている国が、キリストを信じる者にとっては天の国である。身近なことなのである。だから、主イエスは、「神の国はあなた方のただ中にある」と言われた。(ルカ1721)どこにおいても、真実な神の正義、その愛が働いているところは、天の国である。

〇十月二十五日(日)主日礼拝 「主と同じ栄光の姿に」

フィリピ三・21~四・1 会場12名 スカイプ39名 合計51

 イエス・キリストは万物を支配する力を持っている。万物を支配し、維持されているのである。

 万物とは、天体宇宙の世界すべてであり、小さな生物から社会、歴史、人間の生活すべてを支え、導かれている。そしてそれは、愛と真実、完全な美をもって支えている。夜空の星の美しさ。地球も万有引力の中におかれている。それも、神の愛の中にあるのである。このことは、人間の狭い頭では理解しがたい。わからなくて当然であり、だから信じるのである。神を信じると言うことは、神の愛を信じる。いつくしみを信じる。自然界のさまざまなすべてを愛をもって支えておられるということを信じるのである。

 その偉大な力によって、「わたしたちの卑しい体」を変えてくださる、とある。「卑しい」とは、原語の意味からは「低い、低くされる」「苦しい、圧迫される、悩む」「へりくだった」とも訳されている言葉である。人間の肉体は、死んだら腐敗して虫が食いつくしてしまうものでしかない。しかし、信じる者は、復活し、キリストと同じような栄光の姿に変えて下さるのである。

 神の栄光とは何か。神の持っている、あらゆる善きものをすべて含めたことである。星の光は誰にも、止めることはできない。星の永遠の光。無限に広く高い。星の光を見つめるとき、そこに神の栄光を感じることができる。そのような美しさを含む神の栄光の姿に変えられるのである。

 わたしたちは、罪を犯しながら生きている。隣人にすべきことをなしているか。隣人を愛することができているか。近くの、また遠くの、知りえた苦しみの中にある隣人に対する愛や祈りをどれほど捧げているか。まるでできていないけれども、ただキリストの十字架による救いをを信じるだけで救いを与えられ、キリストの栄光の姿に変えられるという約束が与えられている。

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集会だより 12月号 476号分

〇十一月一日(日)主日礼拝

「主にありて堅く立ち、主にあって、常に喜べ」フィリピ信徒への手紙四・1~4 会場13名 スカイプ41  合計54

 神がすべてを愛によって創造された。主の愛にあってすべてを見る。星の輝き、美しい秋の自然。すべて愛する主が、愛をもって創造されている。そのことを深く知って自然を見ることが主にあって見るということである。

「主にあって」というこの言葉は、パウロのキーワードでもあり、「キリストにあって」なども合わせると164回も使われている言葉である。日本語訳では「主にあって」「主につながって」「主に結ばれて」など、いろいろと訳されているが、原語の意味は「主の霊の中にあって」という意味。

 花のひとつも、神の創造の業であり、主の霊の内にあってみるとき、そこに神の愛があることがわかる。

★十一月八日(日)主日礼拝(福岡聖書研究会との合同集会)

 主題「主のまなざし」 詩編三十三編 ルカによる福音書22・61~62他。 参加者は、福岡集会関係(会場とzoom20名、 徳島集会関係(会場9名、スカイプ30名 合計59名)

  この集会は、私が毎年11月に大分、鹿児島、福岡などの集会を訪れて、御言葉を語る機会が与えられてきましたが、今年はコロナのために、福岡聖書研究会代表の秀村弦一郎氏のご協力によって、オンラインでの合同集会となり、多くの方々との交流の機会ともなりました。

 このときの聖書講話は、「いのちの水」誌十一月~十二月号に掲載。

〇十一月十二日(日)主日礼拝

「共にいてくださる平和の神」 フィリピ書四・8~9  会場15名 スカイプ39名 計54名。

 「平和の神はあなたがたと共におられる」とある。平和の神、そして共にいて下さる、ということ。それは、聖書全体を通して流れていることでる。

 聖書における平和、それはキリストによる平和である。それは戦争がないという一般的な意味でのな平和を指すのではない。今、日本は内戦もなく、他国との戦争もない。しかし、ひとりひとりの心の中に本当の平和はあるだろうか。

 聖書には「平和」とはどのように記されているか。

「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は川のように、恵みは海の波のようになる。」(イザヤ四十八・18

る。主イエスは言われた。

 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ四・14)このいのちの水を受けている魂の状態が主の平和を与えられていることである。

 神のことば、キリストに耳をかたむけるとき、「シャーローム」が川のように流れ、二千年間流れ、あふれ続けている。それは止まることはない。そして、赦しの恵みも、日々、波のように押し寄せ続ける。それは、大いなる不思議な恵みである。

 詩編二十三編も、主の平和について預言的に記されている。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。」

 

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ十四・27

〇十一月二十二日(日)主日礼拝

「すべてのことを可能にするキリスト」フィリピ信徒への手紙四・1014 参加者 会場10名 スカイプ43名 合計53

 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能である。」これは、キリストのおかげで、困難や苦しみのすべての状況に対応できる、という意味である。

「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜んだ。」とある。パウロは、主にあって、喜んだ。それは、その捧げものをしてくれた人たちが、キリストの共同体として進んでいこうとして捧げてくれた、その気持ちを非常に喜んだのである。 パウロはいたるところで、共同体として歩むことの重要性を示している。それは以下のローマ書十六章の詳しい記述からもわかる。 「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。…」(ローマ書十六・1~)

 さまざまな支援も共同体の一環としての援助であると信じて受け取る必要がある。共同体によって、そこで支えられ力を与えられ教えられ成長していくことができる。

 パウロは贈られた物に対して喜んでいるのではないということを示すために、あとのことが書かれている。貧しくても、人から侮られても、パウロは感謝できるのである。

「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」とある。どのような状態のときも、迫害の苦しみのときも、主の平安は与えられる。ステパノやイエスは死の間際の苦しみの中にもそこに力を与えられた。ステパノは死の苦しみのときにも天が開けるということを神は示してくださった。

 夜空の星も、神の愛と全能を示している。聖霊がすべてを教えるとある。どのような状況においても、そこで、聖霊によって力と平安が与えられ、聖霊によって教えられ導かれていく。苦しみのときも、聖霊によって教えられるので、対応できる。すべてのこと、苦しいこと、それもすべて、良きに対応することができる。しばしば、そのときはできなくても、祈り静まるとき、できるようになる。

どのような状況でも、対応できることを詩編二十三編は表している。

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。。命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」

 主が羊飼いであれば、主が導いてくださり、どのような状況でも、満たされる。苦しい時、死の間際でも、主のまなざしがある。だから、すべてのことに対応できるのである。

〇十一月二十九日(日)主日礼拝

「すべてを満たしてくださる神」フィリピ四・1520 会場10名 スカイプ44名 合計54

 これは、パウロのコリントへの第二回の宣教の旅のことである。

 「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれた。(第二コリント十一・8~10より)

 このパウロの必要を満たしたマケドニアから来た兄弟たちというのが、フィリピの信徒たちであった。ここで、パウロの生活について記されている。コリントの場所で生活費に不自由したが、フィリピからきた教会からの支援で宣教した。それは、コリントの教会にはさまざまな問題があったからである。そのような苦しい状況のとき、遠いフィリピの教会が支えてくれたのである。

 パウロは、一部の個所でテント職人として自ら働きながら伝道していたことが記されているが、次々と迫害を受け、困難な旅をしているときにテント職人の仕事などその材料にしても常にあるわけではない。ここに記されているように、各地のキリスト者の集まりの人たちからのいろいろな援助を受けてその伝道は支えられていたのである。 人は誰も、ひとりでは生きることはできず支えられて行かされている。特に伝道ということにおいては、誰かが生活を支えることによってなされているのである。主イエスもまわりの人によって生活を支えられていた。パウロはテサロニケに行った時でも、フィリピの教会の人が支えてくれていた。

 神のために何かを捧げるとき、それは捧げた人の実につながる。福音を伝えると言うことは神の偉大なるご計画である。詩編では地の果てのすべての人に広がると、三千年も前から預言されている。これは、神のご意志によることである。献金は、神のご意志にかなうことなので、その祝福ー神からのよきこと、信仰、平安、清い心、を与えられる。わたしの内にとどまりなさい。そうすれば、あなたがたは実を結ぶとある。「そちらからの贈り物(献金や生活物資など)をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」とある。香りについてはレビ記にも記されている。

 レビ記一・13「これは焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる香りである。」レビ記一・17

心から神に何かをささげることは神に向って立ちのぼるよき香りとなる。「神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たして下さる。」

 この、すべてを満たしてくださった状態が、主の平安である。 主が内におられると、そこに主の平安、心の平和を満たしてくださる。欠けていながら満たしてくださる。わたしたちは罪を犯す弱いものでありながら、そこに赦しを与えて下さる。いろいろなことができなくても赦してくださる。それは神は全能であり、愛であるからである。だから、神にこそ、栄光が永遠にあるようにと祈りが与えられる。称えるべきは神のみである。 大きな人間の栄光より、小さな祈りを神は見て下さる。神の栄光が永遠に続くようにと祈り願うものでありたい。

                                    (要約 K.K

   
 集会だより 2020.2 NO. 469

  私は主に希望を置き、

 御言葉を待ち望む。

〇一月一日 (火)元旦礼拝  黙示録二十一・5 

              14名(内スカイプ4名)

主題…「見よ、わたしは万物を新しくする」

 この世界は、これからどうなっていくのか。次第に悪くなっていくのではないか、という漠然とした予感を多くの日本人が持っているという調査結果が先ごろ発表されていた。

 人類の未来はどうなっていくのかその点について、聖書はどのように示しているのかを学びたい。

 黙示録はローマ帝国の厳しい迫害の中、どうしてこのようなことが起こるのだろうかという、そのただなかに、書かれた。どこから見ても、神がおられるとは思えない、そのただなかで、神の光を見た人、神のご計画を見た人が記した。

 本当の新しさは、目に見えるものが変わったからではない。万物が新しくされる。これほどの一切を包む新しさはない。 この世界には、罪により、またさまざまなサタンの働きにより苦しみがある。

「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録二十一・3~4)

 「見よ、わたしは万物を新しくする。」これは、途方もなく大きなものである。世界は必ず滅びていく。しかし、新しい世界に変えられる。そこでは太陽の光もいらない。聖書の世界は、地上の世界だけのことではない。地上は仮の世界である。新しい世界では、神やキリストが、太陽となる。万物が新しくなるという、このことを信じるとき、どんな状況の中でも希望がある。この世界にはびこる悪、自分自身にも愛がなくどうにもならない。しかし、すべては新しくなる。それは、信仰によって与えられる。

 自分自身の救いも、将来の展望も、信仰によって与えられる。信じたら与えられる。信じなかったら、不安な状態が迫ってくる。世界がどのようになってもすべてが新しくなる。このただ一つのことを、信じるだけで、与えられるのである。

 聖書のはじめには、まったくの闇と空しさが書かれている。その中に、闇と空しさを完全に消し去る神の光があった。「光あれ」という神の言葉である。そして、世界を新しくするために、聖なる風と光が与えられていた。聖書のはじめに、新しい光が与えられると宣言していたのである。

 パウロも、光が与えられて真理が見えてきた。光があれば、つぎつぎと見えてくるようになる。聖霊は、弱いところにこそ、新しい力を与えて下さる。そのことに結び付いているのが神の言葉である。新しさの根源は聖霊であり、神の光である。

 過去はどうだったのに今はこうなってしまった、と過去のこと、相手の罪、自分の罪を思うほど、心は古びていく。神は万物をあたらしくするという確信を持つ必要がある。そして、聖書は、新しくする確信で満ちている。

 神のことばは、本当の新しさを絶えず与えてきた。神のことばの約束通りに、救い主である、キリストが来られた。そして、約束通りに、世界は新しくされた。イエスは罪深い者、虐げられたものを見つけて救い出してくださる。神の愛こそが究極に新しくする力である。そして、わたしたちの信じる神は、何が起ころうと全能であり、神にはどんなこともできると信じることができる神である。
〇一月五日(日)主日礼拝 第二コリント四・1618
「新しくされること」

 永遠の栄光とは何か。この世の栄光は、変質する。しかし、神の栄光は何があって変わらない。星の光は、神の永遠の光と不動を示す。聖なる霊が与えられると、毎日見ていても、そこに新しい光を感じることができる。人間は日々、体も弱っていくが、内なるキリストは変わらない。

「わたしを敵の手に渡すことなくわたしの足を広い所に立たせてくださいました。」(詩編三十一・9)

 この世は、目先の小さな事ばかりをみる。科学が発達しても、小さいところだけをみている。科学の技術によって心が広がるように見えるが、実際は狭くなる。その狭くなる心を広くするのが神の力である。

人 はさまざまなあやまちを犯す。後悔してばかりしても無駄である。しかし、神の真理の風が吹くと、そこから広がっていくことができる。またいわれなき非難を受けても、イエスの苦しみを思うと、そこから広がっていくことができる。

 痛みや苦しみは、わたしたちを狭くする。災害や迫害で苦しめられて殺されたとしても、復活がある。完全な広いところに連れ出してくださるのである。

「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。」(詩編一一八・5)

 主は苦しみ、圧迫から救い出してくださる方である。人間は敵の手にわたされたら、憎しみがわいてくる。しかし神の手に渡されたら、祈りがわいてくる。それが敵の手に渡されなかった証拠である。その人のために祈ろうと考えることが新しく広くされることである。聖書は新しさに満ちている。

 そして、新しくされることは清くされることにつながる。キリストを信じキリストにつながっていると、体が古びても、心が古びないで清められていく。

 この一年も、日々新しく、たえず十字架をあおいで、清めを受けたいと願うものである。

〇一月六日(月)小羊集会 ヨハネ一・1~5
「はじめに、ことばがあった」「ことばが神であった。」これは、ギリシャ語の知識がなければわからない。普通に話すことばが、神ではありえない。この「ことば」の原語は「ロゴス」である。そしてこのことは旧約聖書のはじめに預言されて

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記一・1~3)

 はじめにあったのは何か。「ロゴス」という言葉をもちいないと、このことが説明できない。ギリシャ語の「ロゴス」は、世界も歴史も支配している目には見えない法則、理性といった意味を持っている。

 他方、そのロゴスは、「言葉」という意味をも持っている。

 そして、旧約聖書には、はじめに神の言葉によってすべてが創造された。神の言葉は万物を創造する力を持っている。

 それゆえに、ギリシャ人がロゴスを万物の根源にあるもの、理性と訳されるとみなしてきたそのロゴスという言葉は、じつはユダヤ人は、早くから、神の言葉が万物を創造したという啓示が与えられていた。

 そして、ギリシャ人が長い間、宇宙の根源的なものとして信じてきたロゴスという言葉は、実は、ユダヤ人が信じてきた神の言葉にほかならないと知らされ、さらに、その神の言葉とは、キリストなのだ、と啓示を受けた。

 その永遠の昔から神とともにあって神でもあったロゴスと言われるキリストが人間の姿をとって地上に来られたのが、イエスであった。

 そして、そのロゴスが命であると書かれている。この命とは生物体としての命を指すのではない。生物が存在する前からの命であり神の持つ命である。

 このことは、ヨハネ福音書の最後にも記されている。

 「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのこと 書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ二十・3031

 この命は神の命である。愛と憐みの永遠の命である。最初から最後までヨハネ福音書に一貫しているのは、イエスが神の命をもたらすために来たこと、その命が光であることである。

 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」                (ヨハネ一・5)新改訳

 闇の中で輝いているのである。闇がなくなるのではない。闇がどんなに深くても輝いているのである。

 すべて万物は神であるキリストが創られた。だからすべてを持っておられる。光は何があっても、消えることはない。この光そのものがキリストである。

「 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた。

 つまり、万物は御子によって、御子のために造られた。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられている。」

                  (コロサイ一・1517

「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(へブル一・2)

 イエスという名を与えられて生まれる前のキリストは、神であり、万物を創られた。万物がキリストによって完全な愛と真実に進んでいくようにと導かれている。わたしたちも、今も、キリストによって支えられている。生物学的な反応、天体、複雑な体の働き、それもすべて神が支えておられ、キリストが支えておられる。今、わたしたちが生かされ支えられているのもキリストによるのである。

〇一月十二日 マタイ26章36から39  30名(内スカイプ9名)こども4名 
 「み心がなりますように」

 ゲッセマネの祈りという、イエスの最も苦しい祈りの個所である。祈っている間、ゲッセマネまで弟子を伴って、そこで弟子たちに、そこで座っていなさいといった。そして、目を覚まして祈れ、と言われた。弟子たちも、祈りのためにイエスに伴った。そして、ヤコブとヨハネは近くに伴った。

 そこでイエスは「悲しみもだえる」とある。それは、「強い苦しみ、苦しみながら身もだえする、非常な悲しみと苦しみ」という言葉が使われている。またほかの訳では「イエスは深く悲しみはじめ、苦しみ始めた」という訳が使われている。

 祈りということは、わたしたちが通常している、簡単な祈りだけではない。苦しみや悲しみをもって、全身全霊で神に訴え、叫ぶことをも含んでいる。

 イエスは十字架での死の苦しみの前に、このゲッセマネで苦しまれた。

 ゲッセマネでのイエスの苦しみはルカによる福音書では、22章39節から46節までに書かれている。イエスはいつもの祈りの場所であるゲッセマネで弟子たちに「誘惑にあわないように祈れ」といわれた。そして、イエスは「みこころ(神の意志)であるならば、この苦しみを取り除いてください。しかし、神のご意志であるならそのままにしてください」と祈られた。非常な苦しみの祈りであったが、ご意志のままにしてくださいと言われたのである

 わたしたちも、いろいろな願い、祈りがある。しかし、神のご意志がなりますようにと祈る。

 主の祈りにも「み心がなりますように」とある。これは、神のよきご意志がなりますように、という祈りである。天に行われるように、地上、自分の心にも、世界にも行われるように。

主の祈りが、ゲッセマネの祈りの中でなされている。

 ここで、イエスを天使が支えられた。そうでなければ、耐えられなかった苦しみであった。汗が血の滴るようにとあり、血がにじみ出るほどの祈りだった。祈りにおいて戦われたのだった。みことばの剣、聖霊の剣をもって戦う戦いである。イエスも聖霊の武器によって戦われた。

 祈り終わって、弟子たちの所にくると、彼らは、深い悲しみの果てに眠ってしまった。マタイでは「イエスご自身が深い悲しみを持っておられた」と書かれている。マタイの個所を見ると、イエスは「死ぬほどに悲しい」と言われたとある。イエスが「死ぬほどに」と言われたのはここだけである。イエスは深い悲しみを持たれたのである。また、弟子たちもイエスがもてはやされるのではなく、このようになり悲しみがあった。

 人間も、信仰を持っていても、人によっては非常な悲しみ、苦しみに落とされ、地上を去ることもある。これは、イエスの十字架での叫び「わが神、わが神、どうしてわたしを捨てたのか」という、大きな絶望的な叫び、釘で打ち付けられた苦しみ、そして、人間のどこまでもはてることのない罪に対しての苦しみの叫びであった。

 しかし、その中で、神を呼ぶ。人間には理由がわからないが神を呼ぶことが大事である。。

 イエスは、非常な悲しみを通って、苦しみを通って十字架で死なれた。そして復活された。イエスが、苦しみ、悲しみの淵まで突き落とされていったことがわかる。

 十字架は、この苦しみの祈りを通してなされた。そして、つばをかけられ、罵られ、ひどい目にあわされた。霊的にも深い悲しみを持った。人間はどうして、このように、よいことばかりしている者をも、このような苦しみに突き落とすことができるのか。サタンの力はそんなふうに人を変えてしまう。しかし、聖霊がはいってきたときには、ステファノのように、自分を殺そうとする人にも、祈りをもって去っていくことができる。

 イエスのように、人間も非常な悲しみや苦しみをもちつつ地上を去っていくこともあるが、しかし、共通しているのは、どんな場合でも神が愛のまなざしをもって見ておられることである。

イザヤ書でも、イエスは悲しみの人、と言われていた。バッハのマタイ受難曲は、キリストの受難を音楽と言葉で表した。そのなかにも、深い悲しみを表す旋律が出ている。人間のかたくなさ。よいことをしても、それを倒そうとするサタンの力の中で、倒れていったように見えるけれど、そのような徹底した闇の中で復活させる力がある。

 わたしたちも、様々な罪を犯す。パウロもキリスト者を殺すことまでした、という罪を犯した。そのようなひどい罪をおかし、悲しみに沈んだとしても、そこから引きあげてくださると信じることができる。さまざまな苦しみも、そのような高みに引き上げてくださるための道なのだ。苦しみにあうことも、神の愛の本質を深くしらせるために苦難を通って導かれていくのである。

 イエスの深い苦しみや悲しみを通っての十字架があったことをおもい、そして、イエスが祈られたようにたえず、困難があったときには祈れ、といわれたことを思う。今のわたしたちの幸い、平安にはイエスの恐ろしい試練、人間の本性の現状を見ての悲しみ、苦しみがあった。

 わたしたちも、親しい人に裏切られたり、その人が転落していったりしたときには深い悲しみがある。自分が心から者が道を踏み外し転落していったり、死んだとき、心に深い空白が残る。しかし、イエスは、死によって空白ではなく、栄光につながった。わたしたちも、さまざまな苦しみは、神のみくにへと連れて行こうとしている、準備なのだと信じて受け取っていきたい。

〇一月十七日(金)天宝堂集会

          マルコ十四章十節から二十一節

  ユダの裏切りの個所である。ここでイエスはユダに対して「生まれなかったほうがよかった」と言われた。「生まれなかったほうがよかった」生き方、そして「生まれたほうがよかった」という生き方は何か。

「不幸だ」と訳されてるが、これは原語では、ウーアイという間投詞であり、英語では、alas !「ああ」とか「おう」といった言葉にならないうめき、苦しみ、悲しみなどをあらわす言葉である。

 ペテロは、命がけでついていこうとしたが、イエスが捕らわれてのち、突然に女中にイエスの仲間だ、と言われ、動揺して、

 「イエスを知らない」と言ってしまった。

 しかし、ユダは、計画的にイエスを引き渡し、イエスに親愛の表現である接吻をして裏切った。キリストを意図的、計画的に裏切ることが、いかに悲しむべきことか、その深い悲しみや苦しみが、このイエスの「ウーアイ!」という叫びとなったのであって、日本語訳のように、 ああ、災いだ、という表現は、そのような深い心の動きを繁栄していない。。

「生まれなかったほうがよかった」とある。イエスが願っているのは、人生の最後のときに「生まれてきてよかった」と言えるようにということである。

 

 最初の殉教者のステファノは多くの人が集まり、石を投げて殺そうとした。そのとき天が開けて祝福が見えたとある。殺されるときであっても最後の最後で、神も人も祝福されたのである。

 ユダは意図的に聖なるものを滅ぼそうとしたあげく、自ら命を絶った。人間は、そのような闇に引き込まれることがある。しかし、ステファノのように、天が開けて最後に神の光を見るところまで引き上げられることもある。

 イエスの真実を思いながら、気に入らない人を嫌がったりする。それも、イエスへの裏切ることになる。ペテロはイエスがもうすぐ捕らえられて殺される、と聞いたときに、イエスをいさめた。ペテロはこともあろうに、イエスを諭そうというような傲慢な気持ちがあった。そうした心にさせたのがサタンであるから、イエスは、直ちに「サタンよ 退け!」と言われた。

 ペテロはイエスに従ったが、それでも、神に従わないで、人間的な気持ちに従ったのである。サタンに従うということは、誰にでも起こりうる。

 迫害の時代にはイエスに従うと言っただけで殺されることもあった。人間は弱く、イエスに従うことは難しい。しかし、そのように弱さゆえに従えなくても、十字架を見上げるだけで、赦され正しいとしてくださる。それが信仰による神の義である。そこには神に立ち返る、ということが必要である。ユダは、後悔しただけで、神に立ち返ることがなかった。

 サタンに負けることは、だれにでもあるが、そこで神に立ち返るとき、サタンに負けなかった、としてくださる。過去のことばかり思えば取り返しがつかないことであり、後悔をして前に進めない。しかし、神に立ち返るときには赦してくださる。意図的ではなく、心ならずも犯してしまった罪は、イエスに立ち返ると、赦してくださるのである。ユダがもし、イエスの十字架の下で、必死に祈れば赦していただけたのである。

 イエスに立ち返ることで、はじめて、生きていてよかった、と思える。生涯のうちで多くの罪をおかすが、それを赦してくださったと思える時、神を賛美しようと思う気持ちになる

 科学が発達し、建物もきれいになり、環境がよくなっても、生きてきてよかったという気持ちにはならない。人間は、罪の赦しを知らなければ救いはない。

 イエスが殺されるとき、二人の罪人がいた。ひとりは最後までイエスを罵った。そしてもうひとりは、同じように悪いことをしたが、イエスは赦してくださる方、そして、復活されるかたであると信じ「そのとき、わたしを思い出してください」と言った。それだけで、私と一緒にきょうパラダイスにいるとイエスは言われた。生まれてきてよかった、とこの罪人は思えた。

 人生の途中で、有名になること、賞をもらうことなど、意味はない。人生の死が近づくとき、かつての栄誉がすべて取り去られる。悲しいこと、いろいろあったけど、最後に「生まれてきてよかった」と言える生き方を願う。そのような、愛と赦しのイエスを意図的に拒むサタンの力があり、油断したらサタンの力に取り込まれる。イエスは過去のことも未来のこともすべて知っておられる。そして終わりのことまで知っておられる。イエスは最後の食事のときに「わたしと一緒に食事をするものが、わたしを裏切ろうとしている」と言われた。死の直前にあえて、このように言われたのはユダに最後のチャンスを与えたのである。しかし、ユダは立ち返らなかった。またほかの弟子たちは「まさか、わたしでは」と言った。弟子たちは、自分の罪やイエスを裏切るかもしれない自分の弱さを知っていたのである。

 人間は、この世でどんなに満たされていても、何か心の満たされない部分がある。それは、罪の赦しであり、神からのいのちの水を与えられていないと、生きていてよかったと感謝の心が出てこない。

これから先の一日、一日、そのときに生まれてきてよかった、と言えるように主の導きを求めていきたい。

〇一月十九日(日)主日礼拝  マタイ二十六・3646 33名(内スカイプ8名)こども4
  「ご意志のままに」

 このゲッセマネの祈りの中心は何であったか。ここにはイエスの苦しみがあった。イエスの礼拝は全身全霊を捧げたものであった。礼拝は戦いであった。その中心は、神ご意志がありますように、ということであった。この祈りが大事であるから、主の祈りにもある。

この祈りは、いつでも祈れる。神のご意志ははっきりしている真実で清い、愛があり正しいということである。

 神は真実で正義であるから、嘘は罪である。しかし、人間はどうしても間違い、偽りを言ってしまうことがある。人間は、罪を犯すと心が汚れる。また、なすべきことをしていない。なすべきことはいくらでもある。そしてそれも罪である。愛や思いやりは、どこまでもなすべきであり、できているということはない。人間の真実は尽くすことができない。だからあがなう必要がある。イエスのあがないは、そのように罪あるものを、信じるだけで、罪ないものとしてくださる。

 罪がわからなければ、イエスの十字架がわからない。そして、神は、美しい自然によって、神のご意志を示している。青い空は、神のご意志の反映である。わたしたちの心もあの青い空のようであるようにと願うべきである。

 真理は自由を与える。体が動かなくても、自由がある。鳥が飛ぶのを見ても、そのような自由と真理が与えられますようにと願う。白い雲も、神のご意思である。自然の奏でる、風の音や波の音は、神のご意志を表している。そのようなご意志が、わたしたちにもあるように。また花の香りはキリストの香りの一部である。

 礼拝も、神のご意志がなりますようにと願うべきである。神のご意志が書かれているのが、聖書である。そのほかのものは、すべて人間の思いからできている。それをみて心が清められることはない。聖書はどこを見ても神のご意志が書かれている。

イエスの最後のときのゲッセマネの祈りも、神のご意志がなるようにと祈る祈りであった。

 礼拝は大いなる戦いや血で買い取られてきたことである。だから、この集会、礼拝も、神のご意志がなるものでありたい。
 126日(日)主日礼拝 マタイ二十六・4046  

           34名(内スカイプ10名)こども4

 「目覚めていること」

 イエスはできるならば、この杯を取り除いてください。しかし、神のご意志がなりますようにと祈られた。わたしたちの選択も、神のご意志を選ぶか、自分の意志を選ぶか。生きていく中でも日々問われている。自分の意志ではなく神のご意志を選ぶことは迫害の時代など厳しい選択であった。しかし、そこから福音が伝わってきた。

「目を覚ましている」とはどのような状態であるか。目覚めていると見える。見えない世界に関して目覚めている、ということは、この世の人が見えない世界が見える。小さな植物であっても、その細やかさの中に神のご意志がある。大木の壮大さ、大空の美しさ、それも神からのメッセージである。

目覚めていると、ほかの人の心も見える。苦しみを経験していないと他者の苦しみがわからない。

 目覚めていなさい、ということは、背後の神の手をしっかりと見つめていなさいということである

 目覚めていない時には、自分が過去に犯した罪も見えない。だから、赦しを願うこともなく十字架のイエスも見えない。しかし、目覚めた心でイエスの十字架を仰ぐとき、赦しが与えられる。

 目を覚ましていると、主のご意志がわかるようになる。目を覚ましているほど、聖書のことばの深い意味も見えてくる。たえず、目を覚ましていること、それは10人の乙女のたとえでも記されている。聖書全体が「目を覚ましていなさい」ということを示している。

 主の祈りでも「御名が聖とされますように」とある。目を覚ましているとき、地上がどのようであっても、人々が神を聖とするようにという祈りとなる。また「神のご意志がなされるように」という祈りとなる。「日ごとの食物を与えてください。」という祈りも、今も食べ物がなく飢えている人がいる。そこで、わたしたちの食物を与えてくださいという祈りになる。また神のことばという食物も、日ごとに与えてくださいという祈りとなる。

 そして、サタンの誘惑は常にある。霊の目が覚まされていると、これはサタンの近づきであるとわかる。人間とは小さなものである。称えるべきは神だけである。このように、目がさめていると、自然に主の祈りも深く祈ることができる。

また山上の教えにおいても「心が貧しい」ということは、自分の罪が見えることである。そこからイエスに祈るときに、その罪の赦しが与えられる。そのことが霊の目で見えるようになる。だから幸いなのである。悲しむものは幸いであるということも、目が覚めているとわかる。

 私たちキリスト者は、人生のあるときに霊の目が覚まされて、そこから神のなさるわざということにも目が開かれた。それゆえに、目を覚まされた者として、他者の霊の目が覚めるように祈るものでありたい。そうすることで、わたしたちも、さらなる祝福が与えられる。                           (要約 K.K

  お知らせ
〇春期四国聖書集会の申込

 5月9日(土)~10日(日)の二日間、春期四国聖書集会が開催されます。「いのちの水」誌に申込書が最後の頁にありますので、それを切り取り、あるいは、コピーして左記の吉村孝雄宛てに郵送してください。

 あるいは 徳島聖書キリスト集会のホームページから、申込書の内容をコピーして、そこに必要事項を入力して、メールで送付してくださっても結構です。  

〇以前、水野源三の賛美のコンサートで、徳島聖書キリスト集会にも来ていただいた、阪井和夫、浜田盟子の両氏の名前で次ぎのメールが届いていますので紹介しておきます。

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 昨年121日、武庫川女子大学公江記念講堂で開催致しました第70回平和を願うコンサートから、兵庫、大阪の11校小・中・高生300人以上によるピースフルトゥモローズがユーチューブにアップされました。是非ご覧くださいますよう、また

お知り合いの方に配信くだされば嬉しく思います。

皆様の上に神様の御祝福が益々豊かにありますようお祈りしています。

https://youtu.be/UQ-oSzWbvTk

 

〇2月の移動夕拝は、2月25日(火)午後7時半より、熊井宅にて。

スカイプでの参加は、左記の吉村までメールで申込ください。

 

〇聖書からのメッセージの動画を見ることができます。

 CGNTVChristian Global Network Television)にて、全国のまざまの教会の牧師のメッセージが、インターネットの動画として放映されているのを見ることができます。

 徳島県でも県内のいろいろな教会の牧師のメッセージが一回10分程度で何回かずつ、収録されています。

 私のメッセージも6回ほど収録されていて、見るためには、

「みことばに聞く? 日本CGNTV」で検索し、「 世界のための福音の通路」 そこから、四国ー徳島を選ぶと見ることができます。

 なお、次のアドレスをコピーして検索欄に貼り付けると、徳島県の内容が現れるので、すぐに見ることができます。

http://japan.cgntv.net/detail.php?number=2676&category=1031 

 なお、CGTV のホームページから一部抜粋しておきます。

  CGVTは、韓国ではじまったキリスト教伝道のための衛星放送で、現在は全世界174ヶ国で衛星とケーブル、インターネット、IPTV、モバイルを通して視聴されている。また、海外制作センターがアメリカ、日本、台湾、タイ、インドネシア、アラブに設立され、その働きは全世界へ広がっています。

 日本CGNTVは日本宣教を担う機関として、教団・教派を超えて教会と教会を結び、日本と世界を結ぶ福音の通路として、200610月に設立されました。