〇九月五日(日)主日礼拝 「聖霊の神性」ヨハネ十四・15~20 参加者60名(会場9、スカイプ51名) |
聖霊は学問でわかることではない。イエスの奇跡をみても弟子たちはわからなかった。しかし、イエスを裏切った罪を悔い改め、みんなで祈っているときに聖霊が与えられた。祈りの中で聖霊は与えられる。証を聞いて聖霊が働くとき、目が開かれることがある。聖霊が与えられると文字が読めなくても信じることができる。信じるもの同士が祈りあう、そのときにも与えられる。キリスト者が集まるのは聖霊を受けるために集まるのである。 聖霊について以下のように記されている。「父は別の弁護者を遣わして」とある。この「弁護者」と訳された原語はいろいろの意味をもっているので、助け手、助け主、慰め主、励ます者等々と訳されるが、原語(ギリシャ語)では「パラクレートス」である。その意味はパラ(そばで)カレオー(叫ぶ)であり、ともにいて、この人は罪を赦されているのだと言ってくださる。そこから弁護者とも訳されている。さらに、そばにいてはげまし、慰めの言葉をかけてくださる、ということから、慰め主とか励ます者といった言葉で訳されることもある。 新改訳、口語訳聖書では「助け主」と訳されている。聖霊はこのようにいろいろと訳されている。 「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」とある。 |
聖霊は永遠にともにいてくださる。生きたキリストがともにいてくださる。そしてキリストは内にいてくださる。 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネ十五・4) つながっている、とは内にいてくださる、とどまる、ということである。 そしてまた、聖霊がわからないことを教えてくださる。突然の苦しみ、悲しみ、神を信じていてもなぜ、そのようなことが起こるのか。それもすべて聖霊によって教えられる。 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ十四・26) どのような苦しい状態になっても、罪を知りその赦しを知らされるとき、それでも神は愛であると知らされる。そしてどのような状態であっても感謝ができる道が示されている。それは、聖霊が働くと謎のような現実の中でその意味が知らされる。 聖霊がすべてを教えられる。苦しみの意味が知らされるのもこの世の現実の矛盾の中からその意味を教えるのが聖霊である。 聖書の意味、人間関係、すべて聖霊が教えてくれるから、祈って待っていたら教えてくださる。 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ十六・13) 聖霊の働きはすべて神の愛から来ている。そしてそれは求めたら与えられる。風のように水のように人のところに届けられる |
〇九月六日(月)小羊集会「み言葉のために働く」ルカ一・1~4 |
「最初から目撃して御言葉のために働いた人々が」とある。ヨハネもルカも、福音書の初めに神の言葉の重要性を記している。み言葉のために働く、み言葉に仕える、それは神の言葉が神、キリストと同じように人格化されている。 イエスは「わたしの内ににとどまれ」と言われた。イエスの言葉の内にとどまれ、と言われたのである。神の言葉がキリストと同じであることが示されている。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(ヨハネ十五・3) 神のことばを聞くだけで清められるのである。大空や花も神の言葉によって造られたので、見ていると心が清められる 「言葉のために働く」「言葉に仕える」と示されている。 み言葉がはいると、徐々に自分のためではなく、キリストのために生きようとするようになる。 ルカがあえて「み言葉のために働く」と記したのはそれが重要だったからである。 ペンテコステで聖霊が注がれたのも、弟子たちがみ言葉のため、キリストのために働くためであった。 キリストがわたしたちの罪のために十字架で死んで三日目に復活した。それは、イザヤ書で預言されていたことである。このみ言葉のために働くのである。 神を知らされたら、神に仕え、神のために働くようにと、自ずから心が変えられていく。 花はみことばに命じられて花開いている。人間もそのために造られているが、サタンが入り込んで自分の利益のために生きてしまう弱さがある。 聖書は作った話ではなく、事実だけが書かれている。そのことが繰り返し強調されているのである。 |
九月十日(金)天宝堂集会 (はり治療院の綱野宅) 「自然の中に表される神の力」 詩編十八・8~16 |
非常な苦しみ、死ぬかと思うような苦しみの中から必死に神を呼ぶとき、神は聞いてくださる。 「高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ大水の中から引き上げてくださる。」とある。その大いなる力のことが書かれている。 主の怒りは燃え上がるとある。それは悪に対して、燃え上がるのである。悪は滅ぼされないように見える。しかし、神によって啓示された時、神の大きな力が働き、悪が滅ぼされることがわかる。地震、火山、嵐、そこに悪を滅ぼす力が示されているとこの作者は啓示された。 神の言葉の箱の両側にケルブがいる。神殿の中にある贖罪の場所、そこを見つめているのが翼を持ったケルブである。ケルブは天使のようなもので、聖なる風にのって自由に動かれる。神の力はどこにいても働いてくださる。 そして、神は周りに闇や雨雲、霧を置かれている。それは無限の神の深淵さを指す。この世の人には神がわからないで覆われている。しかし、啓示があり信じるものには神がおられると信じることができる。 天空を貫く稲妻、雷鳴、雹、雷の壮大な現象。その力が、悪に対する神の力であると啓示された。 自然界にみなぎっている力は悪を滅ぼす力を象徴しているのである。 無限に深い闇である海の底はサタンがいるとされていた。そのような海の底でも、神は見られている。 神の力はどこにあっても叫ぶものを救い出してくださるのである。この詩は自然の偉大な力が、悪を滅ぼし苦しみの中から叫ぶものを救って下さる力であることを示している。 詩編148編ではその大いなる神の力を賛美せよと記されている。 「天の天よ、天の上にある水よ、主を賛美せよ。 地において主を賛美せよ。 海に住む竜よ、深淵よ 火よ、雹よ、雪よ、霧よ 御言葉を成し遂げる嵐よ 山々よ、すべての丘よ実を結ぶ木よ、 杉の林よ」 自然の力すべてが、救いの御手の力強さを示し、かつ主を賛美するように呼びかけられ、じっさい、私たちが聞く耳をもっていれば、それらも主を賛美してしているのである。 |
〇九月十二日(日)主日礼拝 「光の勝利と証し」ヨハネ一・5~8 参加者61名(会場11、スカイプ50名) |
闇は光を「理解しなかった。」この原語の意味は、「カタランバノー」でこの原語は、旧約聖書のギリシャ語訳や新約聖書において、「つかむ」「奪い取る、つかみ取る」「襲いかかる」「得る」という意味で用いられている。つかみ取る、ということから、理解する、の意味にとると、闇は光を理解できなかったとやくされるが、ヨハネ福音書の終わりのほうで、イエスの最後の夕食のときの言葉として、私は「世に勝利している」と言われたことからも、闇の力に対する勝利が言われていると受けとることができる。 闇は光に追いついて捕らえ、滅ぼそうとする。わたしたちにも闇の力が迫っている。神の愛などないと告げるサタンの誘惑に負けるとき、そこにはあらゆる善きことはない。しかし、神を信じるとき、闇の力に対しての勝利が与えられる 闇がどんなに覆いつくしていても、光は、闇に勝利しているのである。 イエスは闇の力によって殺された。しかし、復活し、闇に勝利された。 「しかし、勇気を持ちなさい。あなたはすでに勝利している」とイエスは言われた。絶えず、罪を知り、仰ぎ望め、そうすれば救われる、ということを単純に信じる。わたしたちも光が灯され続けているから、信仰も続いている。 「光について証をする」とはどういうことか。あらゆる病の中で、最も恐れられたハンセン病はあらゆるつながりを遮断される。そのような人たちにカトリックの人たちが400年前に治療場所を作った。また、ハンセン病の苦しみの中から光を見出した人がいる。それも闇の力に勝利した光の力である。 洗礼のヨハネがその光の証をした。わたしたちも、小さいながらも証人として立てられているのである。 |
〇九月十九日(日)主日礼拝 参加者60名(会場10、スカイプ50名) 「光と証し」ヨハネ一・6から9 |
ヨハネは神を証しするために来た。わたしたちも神を証しするために生かされている。 人が生まれるのは神によって神を証しするために生まれたのである。 わたしたちは神の似姿に造られた。そしてすべての人が違うように造られた。無限の広さ、無限の深さ、無限の高さの一部を証するように造られた。 神様は千差万別に人を造られる。そしてさまざまな障害があっても、病気があっても、困難にあっても、それがなければできない証をすることができる。感謝する心があれば、証となるのである。 神は一人一人を大切な存在として証するために造られた。 この世には闇の力が働き、闇の力の証をするように人間を落とし込む。神から託された力を証できず、闇に引っ張られてしまうようになってしまう。 パウロはすべてのことに感謝せよと言われた。それが、証になるからである。いま、与えられていることを、感謝することが、証なのである。 ヨハネは証をするためにきた。そしてそれは、すべての人に言われている。すべてのことが無限の意味に満ちている。すべての人が日常的に、神の創造物による証しーいかに神の力が壮大で、力あり、かつ美に満ちているか…等々が与えられているのである。 神様を知らなければ、感謝ではなく、不満が生まれる。しかし神を知らされて赦しを与えられるときすべてが感謝となる。 この箇所で、このように繰り返し、「証」と記されているのは、わたしたちが神が真実であり清い方であると証しするために生まれたからであり、それが神によって用いられるのである。 |
〇九月二十六日(日)主日礼拝 「まことの光」 ヨハネ一・9 参加者53名(会場10名、スカイプ43名) |
光はすべての生命に必要である。 目が見えない。それは、福祉のない時代、移動できない、働けない、というだけではなく、何らかの「祟りである」と言われ、見下され差別されることが続いてきた。 盲人の福祉に大きな影響を与えた岩橋武夫(一八九八年~一九五四年)もそのような苦しみを受けていた。 若いときに失明し、絶望し死を選ぼうとした。そのとき母が「生きていてくれ」と必死に叫び、どうか生きていてくれと、懇願した。その真実な母の愛に踏みとどまり、生きることを選んだ。しかし治療方法はないと医師に言われた。そのため、目が見えないということを覚悟して生きようとした。盲学校に行き、盲人の世界を知り、それが転機となった。点字を必死で学び英語の聖書を読み始めた。そのとき、以下の箇所が彼に命を与えた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ九・3) 特別な苦しみに出会う。何のために起こったのか。それは、その悲劇、苦しみをとおして神の栄光が表されるためである。まわりの人々は、盲目になったのは、先祖の祟りであると見下して、差別する。しかし、神の言葉はそこに革命を与える。何のために目が見えなくなったか。それがやっとわかり、永続的な力が与えられた。 「イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』」(ヨハネ九・39) 見える、わかっている、と思う人が、実は見えていない。律法学者やパリサイ派の人はわかっている、と思うところから傲慢になっていた。 命の光とは何か。苦しみに出会っても、そこに意味があるのだと、受け取る。命の光がそうさせる。 福祉のための法律ができたのは、この岩橋武夫の尽力によるところが大きかった。そしてそれは、一言のみ言葉によって、立たされたからであった。 神の言葉を受けたら闇の中で輝く。この世には光はない。イエスは「あなた方は世の光である」と言われた。 ハンセン病が重度になると、目が見えなくなり、家族からも断絶され、手も動かなくなり下肢も切断となることもある。そのようにありとあらゆる闇と苦しみが襲いかかる中にでも、キリストの命の光を受けるとき、輝くことができる。そのことをそのような方々は証しつつ、生き抜いてこられたのだった。 |