集会だより 2010.12 NO.366


聖なる霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
(ルカ福音書135


○十一月一日 (月) 小羊集会 マタイ二十三・112

  宗教的指導者であった律法学者やパリサイ派の人たちは、民衆に律法を教えていた。そのことについて、主イエスが話された。
 彼らは詳しく調べて教えているので、教えている内容については従いなさい、しかし、彼らは偽善的なので、行いについては従わないように、と言われたのであった。教えていることと行いとが伴っていない。これは、ファリサイ人たちだけのことではない。
 人間は弱い。言うだけで実行しないとこと。それは、誰でもしてしまうことである。自分でこうしなさいということはできても、それを行うのは難しい。人間は、いつも、完全に正しく歩むことはできないからである。親や教師など、教える立場にあっても、その通りできることは難しいことである。他者に、こうしなければだめだ、と言うことは簡単である。しかし、できていない人に対して、裁いたり見下したりするのではなく、どうしてできないのか。その心の重荷を見て一緒に担おうとするのが、正しいあり方である。
 ここで、律法学者やパリサイ派の人が、律法的な良き行いを、自分を見せるため、ほめてもらうために、行っていることが記されている。このことも、実際は誰でも起こりうることである。勉強やスポーツも、人に認めてもらいたい、ほめてもらいたいと思ってすることが多い。人間は、何をするのも、人に見せるためにしてしまいがちである。それは、自分中心の心である。
 この自分中心を止めることができるだろうか。それは自分中心の心を砕く必要がある。そのためにキリストはこられた。キリストを信じることで、古い自分が死んでキリストがうちに住んでくださるようになる。聖霊がきてくださって、初めて純粋な気持ちで、良きことができるようになるのである。
 人間は誰もが、よく思われたい。認められたい…と願うその心は聖書にも記されている。主イエスが十字架にかけられる直前であるのに、弟子たちは、誰が一番偉いか、ということを議論していた。これが、人間の姿である。しかし、そのような弟子たちであったが、聖霊がそそがれて初めて、命をかけても、主イエスを伝えようとすることがきでるようになった。人から馬鹿にされても、苦しみを受けてもかまわないと思うように変えられた。
 人によく見てみてもらいたいという自分中心の気持ちを断ち切るためには、主イエスの霊、聖霊が必要なのである。そして、それは誰でも真剣に求めたら与えられると約束されている。


○十一月二日 火曜日 夕拝 イザヤ3020~22節
 導かれる人生の素晴らしさが書かれている。神様が近くに感じられない時、導かれていない時には、生きていくことは苦しみであった。しかし導かれる方(神)はいつもあなたを見ておられる。最終的救いの時には、私たちはイエス様を見続けることができる。
 モーセもある時まで神さまのことがわからなかった。同胞のへブライの人が苦しめられているのを助けようとして、エジプト人を殺してしまった。ミディアンに逃れた彼は羊飼いとなり結婚もした。そこに神が現われ、民をエジプトから導きだすようにと言われた。のちに神はモーセを高い山に登らせ、モーセだけに語られ、モーセだけが聴いた。神は後に預言者をおこされた。イザヤもその一人で、神の声を聴き、神を見た。(エレミアもその後の預言者も。)人間や、この世の出来事を見続けるのではなく、イエス様を、神様を見続けることができるようになるという未来のことをハッキリ啓示された。イエス様も「心が清められたら神を見る。」と約束された。新約の時代になって、キリストを信じるだけで、心が清められて、霊の目でイエス様を見、さらに語られる声(ことば)を聴くことができるようになった。
 キリスト教は常に方向性をもって指示してくれる。歴史の流れにも方向性がある。初めがあって終わりがある。一人一人に「神の国に向かって行きなさい。」と語りかけてくださっている。このイエス様の語りかけを「聴く」ことの大切さを痛感する。
 ヨハネ10章に「羊の囲い」の譬がある。3節に・・「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(103~4)「聞き分ける」も「ついて行く」も重い言葉である。聞き分ける(ギリシア語ではアクオー、英語ではlisten,hear) 本当に主イエスのみ声を聴いたならば、従っていく。主イエスに聞いて従っていく、これがキリスト者だと言われている。表面的に十字架の贖いを、復活を信じていますといっても、イエスの声を聴こうとしないなら、ほんとうの羊ではない。生きて働いておられる主イエスは、今も語りかけておられる。静まって「聴く」ことの大切さを示される。


○一一月四日(木)いのちのさと集会 詩編七五
この詩はまず感謝から始まっている。理由は、神様ご自身が私達の近くに居てくださるから。だから驚くべき御業を語ることができる。その御業とは、時が来たら必ず正しい裁きが行われ、真理が固められる。神様がおごる者、高ぶる者の力を砕く。地上の者はみな溶け去る。人を高く上げるものは神であり、神だけが裁きを行い、ある者を高く、ある者を低くされる。人間はいつも目移りし評価も定まらない。詩人は啓示によって、すでに裁きの杯は発酵し神に逆らう者にまさに注がれようとしている事が見えた。聖書は啓示の書物であり、研究によってはこういう事は出てこない。人々が神の裁きはどこにあるかと言っているただ中でこの情景が見えた。悪の力がのさばっているように見えても悪は風前のともしびである。神の力がこの世界に働こうとしている。とこしえにこの事を語り継いでほめ歌う。心から感謝するのは、このように逆らう者が折られ、従う者を高くしてくださる神の事が啓示されたからである。この詩編のように、神に従う者が不思議と残ってきた。
◯十一月八日 北島集会 列王記(下)八章
シュネムの婦人は、エリシャが神の人であるということで精一杯のもてなしをした。背後に神様がおられるということで、その神様にしたのである。婦人は七年前、死んでしまった子供をエリシャに生き返らせて貰った。そして実際に起った記録のあるこの飢饉が過ぎて七年後、たまたまエリシャの業を、ゲハジが王に語り聞かせている所に婦人が出くわせるという不思議なことが起り、婦人は、七年前の土地も畑も収穫も返して貰った。神の言葉に従うことの祝福。神の言葉に信頼を置き、従うと、予想外のことが起る。
これは後のイエス・キリストによる復活を指し示す預言的な出来事にもなっている。よみがえるという事の重大性。人間にとって本当に必要なのは死や絶望に打ち勝つ力である。死んだ状態からよみがえらせるいのちの力、その力があるのだと信じることができるし、希望が持てる。そこにキリスト教の出発点があった。わたしたちが老齢になり死が近づくことは、復活に近づくことでもある。
アラムの王ベン・ハダトは病気であった。何とかして治りたいと、多くの贈り物を持ってエリシャのもとに使いを送り、治るという保障をもらおうとした。しかし使いのハザエルに、エリシャは言った。『王は「必ず治る、しかし主は必ず死ぬ」』と。そしてハザエルの顔をじっと見詰め泣き出した。これからハザエルがイスラエルにもたらすはずの災いが見えたからである。その時ハザエルは「この僕、この犬にどうしてそんな大それたことができましょうか」と言った。本人にもわからないことがある。アラムに帰ったハザエルは翌日、濡れた布で王の顔を覆い、死なせてしまった。そして自分が王になった。
人間の理解を超えたところで神様が動いておられる。神は愛である。天に帰った時にすべてがわかる。人間に頼らず、背後の神様を見る。わからないからこそ神様のなさることを信じていく。


○一一月八日(月)藍住集会 詩編一〇四・1~12
我が魂よ、主をたたえよ、と初めに詩人は自分の心に呼びかけ、神様の方に向き直っている。この詩の最後も「我が魂よ、主よたたえよ」で終わっている。この詩は神様の御業に対する感謝と驚きが歌われている。神様の聡明なご計画、英知でこの地は満ちている。一番直接的なものは自然現象。神様の造った自然には罪がなく、神様のわざが現れている。山は遠くから見ても美しい。近くに行って、そこに咲く草花の姿、形、花びら、どれをとっても綺麗で、顕微鏡でそれを見ると、また秩序立った驚きの世界がある。それを造られ支配される神は大いなる方。神様の光としての側面が書かれている。人間の世界は混乱と闇をまとっている。神様のご性質は光である。雲は神様の乗り物であり風の翼に乗って神様が行き巡る。燃える稲妻をみもとに仕えさせる。地上のどんな詩より壮大な詩である。5節以降は地上の世界に移っている。太陽に光を与えた方、水も神様のもの、この地上はすべて神様が支えている。地上で起こることすべては目に見えない神様が支えているので揺らぐ事がない。水は山々を登り、谷を下り神様が制御して、その所に落ち着く。このように悪にもここから先に来るなと命令される。海は闇の力の象徴だが、海に呑み込まれない。主は泉を湧き上がらせて川とした。動物たちの水、小鳥たちのねぐらとされた。神様は動物や鳥も養っておられる。


○十一月十四日(日)主日礼拝 ロマ書三・920  29
 この箇所をはじめて読むとき、「正しい者は一人もいない」という言葉に驚かれされる。人間の心の中は誰にもわからないから、世界にだれも正しい人はいないということは、断言できることではない。なぜ、このような厳しいことがかかれているのか。
 これは、人間を基準にしていないのである。愛が深いという。もし、深ければ、日夜祈る。人間は、どんなに愛が広い、深いと言っても限界がある。しかし、神の愛は無限に広く、深く注がれる。太陽の光のようである。神の無限に比べたら、人間の愛はどうしてもかたよりができてしまう。
 また、人間はすぐに自分をかばい、偽りを語ってしまうこともある。しかし、主イエスは自分をかばうこともない。そのために殺されたともいえる。
 神を探し求める者も、厳密にいえばいない。人間は気まぐれな者だからである。また、人間は、よいことをするのには遅いが、悪に関してはすぐにしてしまう。
 本当の平和にいたる道はキリストへの道である。しかし、国々は霊的な平和への道を知らない。だから、不正もはびこる。聖書は、社会的な平和だけを言っているのではない。戦争をやめても、心の中の戦争は止まらない。そして、内なるサタンとの戦いに負けて死んでいくこともある。キリストは、本当の平和の道を、灯台のように照らした。
 この箇所の引用は詩編五十三編、また詩編十四編である。なぜ、詩編に同じ内容を二回繰り返してあげられているのか。それは、人間を知るには、現状を知る必要があるからである。もし、人間に完全な愛があれば、救い主はいらない。しかし、完全な人間はいない。完全な愛はない。だから、救い主が必要なのである。現状認識が大事であるから、このように、二回も詩編に記されているのである。
 人間の汚れ、弱さ、罪にまず、目を開かせて、そこから、救いの意味、救いの根源につながっている。二十一節へ続く準備となっているのである。十字架の意味がここから示されていく。


○一一月九日(火)夕拝 イザヤ書三〇章2326 
 最終的な救いの時はどうなるかが書かれている。終わりの日には徹底的に裁かれるが、その後で、救いの状況が書かれている。自然の世界も豊かにされる。悪が滅ぼされる時は山や丘の上にも水が溢れ、あらゆる山々、丘々からも水が豊かに流れる。救われた状態を水が流れる事で表している。砂漠に水が流れると同じことで、決して水が流れないところに流れ出す。神様がいないところには霊的な清い水が流れていない。神様の愛のある所には愛が溢れ流れ出す。私達の現在の状況を預言している。イザヤは大きなスケールで深い内容を言い当てている。水が流れ出したことは創世記から書いてある。渇ききった心の砂漠の中から水が湧き出る。水が地下から湧き出て土の面をすべて潤した。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて四つの川となっていた。イエス・キリストから流れ出たいのちの水は四つの川で象徴されているように、全世界に流れ出ている。中国の乾ききった所が今は世界第二の水の流れる所となった。祝福され救われた状態はあたかも水が流れている世界である。水の流れる所に植えられた木は実を結ぶ。私たちの内に神様の水が流れ出すと実を結ぶ。み言葉を愛し、み言葉を喜ぶと自然に実を結ぶ。イザヤ書そのものが霊的な水が流れている書物である。イザヤ三五章六節には、「荒野に水が湧き出で荒れ地に川が流れる」と書かれている。今荒れている人でも構わない、花が咲くのだから。
十月十九日 火曜日 夕拝 イザヤ書三十章18~19


○十一月二十六日 (金) 天宝堂集会 マルコ三・1319
 主イエスが十二人の弟子を選ばれた。山に登って朝まで祈ってから決められたことがルカによる福音書に記されている。重要なことを決めるときには、霊的なエネルギーを注いで決めたことがわかる。わたしたちも、人間の思いや感情で決めていくのではなく、祈りをもって決めること、神の御意志を聞くことの重要性が記されている。
 主イエスは弟子たちを選んだ。そして共に働かれた。キリスト者は単独で動くのではない。祈りあい、支え合って進んでいく。集まり大切さが記されている。そして、その選びは、この世の基準とは全く違っていた。能力や力のあるものでなく、この世では弱者である漁師から選んだ。選ばれたペテロもヤコブも、アンデレも、仕事中に声をかけられた。主イエスの選びは誰にあるかわからない。そして、選ばれたものは、すべてを捨てて従って行きたいと願う、不思議な力が主イエスにはあった。
 弟子を選んだのは何のためであったか。主イエスと共にいて働き、集まりとして育てていくため、宣教するため、そして、悪霊を追い出すためであった。
福音を伝え、悪の力を追い出す。その力を与えるために、遣わされたもの。それがキリスト者であるといえる。 
 十字架の贖いは、わたしたちの罪を赦してくださり、罪の力から解放してくださるために与えられた。人間には誰にも悪の力が宿っている。根源的にそれを追い出す力が与えられて世に遣わされていくのである。それは、どんな人にもできる。たとえ動けなくても祈りによって、遣わされていくことができる。自分の力でするのではない。主イエスによって、聖霊によってなされていくのである。


◯十一月二四日 水曜集会 ヨハネの黙示録四章9~11
神様のことを「世々限りなく生きておられる方(For ever and ever living)」と言っている。黙示録では特にこの言葉を使って、神様が永遠に生きておられることを強調している。書かれたのは迫害の時代であった。悪いものが支配していて、神様のことが一番わかりにくいような状況の中で、「世々限りなく」ということが多く使われていることは、非常に暗い中にも神様の永遠性が啓示されていたことがわかる。わたしたちも、一番暗いような状況の中でも、このことを思い起こす必要がある。
単に「存在」する、というのでなく「生きている」という。だが、生きているキリストと言葉の上で聞いてはいても、心に入り本当にわかり、実感するのは人によってちがう。生きたキリストが本当に居られるなら、わたしたちはただ祈って待てばよい。世々限りなく生きて働いているキリストがわかっていないとき、様々な人間的なよくないことをしてしまう。生きたキリストが本当わかったとき、人間の心の動揺は消える。
わたしたちは、生きて働いておられる神様に礼拝する。神の「栄光と誉れ」とは、神様の持っておられるあらゆるよきもの(力、清さ、恵み、永遠性、真実など)、それをたたえよう。人間の能力も神様が与えた。人間を讃えるのでなく神様をたたえよう。それを与える神様はすばらしい。清い野生の花は神様が造られた。人間の手が入っていない。万物の創造者。神の愛のご意志によって造られた。人間も同じ。それぞれに意味がある。そのように受取ることが大切だ。「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝(詩編145)」します。


○十一月二十八日(日)主日礼拝 ローマ三・2326 35
(メッセージの前に、吉村さんが自宅近くで採取した、ヤマハゼ、ツタなどの紅葉を見せてくださいました。そこからメッセージが始まりました。)
 なぜ、このように美しく秋に紅葉が色づくのか。これも神の栄光のあらわれである。神は次々と美しいものを創られる。そして、それはひとつとして同じものはない。神の栄光は限りがなく人間にはわからない。しかし、その一部はわかるようにして下さっている。それが美しい自然などである。人間は罪があり、限りなき神の栄光がわからず、良きものが受けられなくなっている。
 そのような人間の罪を清めてくださるのが主イエスの十字架である。そこに神の栄光があらわされている。神の栄光の深みが受けられなくなっている人間のところに、主イエスがきてくださったのである。
 わたしたちはすぐに神に背いてしまう。愛に満ちたことをしようと思っても、できない。悪い思いが去ってほしいのに、正しいことに背くような力が入ってくる。それが罪である。かつてユダヤ人は、動物の血を注いで、罪を清めた。神に対する罪は、いのちを殺して捧げなければ、赦されない、と考えたのである。
 しかし神は、ユダヤ人だけでなく、全人類のために、動物でなく、神にとって一番大事な者、神のひとり子を殺す、という方法をとって人間を贖ってくださった。神の義を示すためであった。
 神の正義は絶対である。悪をもし滅ぼせば、人間はすべて滅ぼされることになる。神は人間を滅ぼす道ではなく、十字架による救いの道をとられたのである。そして、その道はすでに、旧約聖書イザヤ書五十三章4節から記されで預言されていた。
 神は、罪があるものを罰するのではなく、その罪を黙って担われ、死をすらも甘んじて受ける人を起こされたた。そこに神の正義があった。そこから、すべてのひとの救いの道がひらかれた。人間はそれを信じるかどうかにかかっている。信じなければ、受け取ることはできない。しかし、信じたら受け取ることができる。どんな重い罪をおかしても、神に赦しをもとめたら、神は赦してくださる。何もなかったこととしてくださるのである。
 信じるだけで与えられる神の正義。わたしたちも、そこに入れてくださり復活の命を与えられた。復活は肉体が死んだときだけではない。「あなたがたは、以前は自分の罪のために死んでいたのです」(エペソ二・1)とある。主イエスを信じたら、死んだような状態から復活させていただけるのである。
 感話のとき、吉村(孝)さん、中川陽子さんから、青年全国集会の報告がありました。


○十一月二十八日 (日)つゆ草集会 マルコ十四・1021
 金で主イエスを売り渡そうとしたユダ。ユダは主イエスの奇蹟を見、愛の業を行い、その真実な姿を見ていた。にもかかわらず、感化を受けなかった。ユダは計画的に主イエスを裏切ったのである。
 どうしてユダはそのような心になってしまったのか。なぜそれを神は許されたのか。理由はわからない。しかし、理由のわからないことはたくさんある。なぜ、事故に遭うのか、病気になるのか。寿命が長かったり短かったり。この世のことは、わからないことばかりなのである。
 なぜ、悪があるのかなどわからない。わからないことをどんなに考えても意味がない。そこから、わたしたちはどう考えていくかが大事である。
 過越の祭りのための食事をするのに、どこでしたらいいかと弟子が聞いたとき、歩いていけば水瓶を持った人に出会うと主イエスは言われた。謎のようなことがおこる現実のただ中に、神のご計画がなされていることが示されている。だから、闇の力ばかりみていてはいけない。神の力は働いているのである。
 過越の食事の席で、主イエスは、一緒に食事をしている者がわたしを裏切ると言われた。そうすると、弟子たちは「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。主イエスは弟子たちの心の中をご存じだった。すべてを見抜く主イエスをみたら、自分が裏切るのだろうか、と弟子たちは考えたのである。弟子たちは、自分自身がまず、いたらないもの、罪深いもの、という自覚をしていたことがわかる。そしてそれは大事なことである。罪を犯しているのではないだろうか、と考える謙虚さが大事なのである。(ここまでまとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y


○十一月三十日(火)スカイプ集会 詩篇105篇。参加者21
この集会は、月に一度だけ、大体最後の週の一日が選ばれて午後8時からの集会です。毎月のその集会の日は固定してなくて、ほかの集会との兼ね合いで、決めています。
この集会は、全員が自宅にいて、聖書講話担当の吉村(孝)も自宅にて聖書のメッセージを語るという形で、集会を持ちます。スカイプを操作するパソコン担当は、中川陽子さんです。参加希望者は陽子さんに申し出たら、その日時が連絡されます。
北海道や栃木といった遠い方々、そして、30年近くも大学病院で入院している重度の障がい者である方とも、ともに学び、祈り、賛美、そして感話などを共有するという、以前では想像もできないかたちの集会が可能となっています。
今回は、県外からは、北海道、栃木、神奈川、福井、大阪、神戸 などから8名の参加者がありました。この集会にご夫妻で参加された方も二組あり、また、去る112021日の 東京での青年全国集会に参加していた方がはじめて参加されました。


お知らせと報告

○藤原 テル子姉が、125日(日)の朝、召されました。前日までお元気で、11月の藍住集会にも参加され、主にある平安と喜び数々の困難をふしぎな道を通って導かれたことを静かに語っておられました。ご長男の奥さんが38歳で召されてから、20年間もの期間、愛媛県から、徳島に来られて3人の幼い孫を成人するまで育て上げ、ご長男の奥さんの代わりもされ、人生で二回、妻と母親のお働きをされた方でした。

○スカイプ集会
 右に書いたスカイプ集会のほかにも、「いのちの水」誌の最後に書かれている家庭集会のすべてでスカイプも併用していますから、12月で言えば、全部で12回ほどのスカイプをも併用した集会が行われています。
次頁に、それらの集会と、そこでスカイプを操作するパソコン担当者の名前とアドレスを書いておきますので、参加希望の方は、その方に、コンタクトをとっておく(スカイプからの会話テストを事前にしておく)ことが必要です。ここに書いてあるメールアドレスをつかってスカイプで検索すると担当者が見つかりますから、コンタクトをとるとよいのです。時には、検索で出てこない時がありますが、その場合には翌日など日をあらためて検索すると見つかることが多いです。なお、上記のメールアドレスで検索できない場合には、スカイプ名で検索すると見つかります。それで参加希望の方で、上記の担当者をメールアドレスで検索できない場合には吉村孝雄まで連絡してくださると、検索できない方のスカイプ名をお知らせします。

○読書会
今月の読書会は、第三日曜日がクリスマス集会ですから、第四日曜日の午後に変更です。
そのため、つゆ草集会は午後3時からの開始となります。 ダンテの神曲・煉獄篇の第28歌の後半部分から29歌の一部を学ぶ予定です。
○キャロリングが、1224日(金)午後6時半、徳島聖書キリスト集会に集合、7時に出発し、集会場付近をいくつかの箇所をまわり、約1時間あまりかけて賛美をします。参加希望の方は、綱野悦子姉まで。(電話 088-641-4170
○今月21日(火)の夕拝は、キャロリングがあるために、お休みです。

○主日礼拝便り
日曜日の主日礼拝や夕拝に参加できない方々、あるいは、その内容を学びたいという希望のある県内外の方々には、従来から私たちの集会員の多くの方々の御愛労によって、この「集会だより」と、「集会CD」が作成されて送付されています。(MP3のCD) それらを用いて内容を学んでおられる方々は多くいます。
集会CDは、礼拝集会の賛美や講話、感話などすべてを含んでいて全体の内容がはっきりわかりますが、そのCDが届くのは翌月になるということと、専用の機器が必要で聞くための準備が必要です。
もっと手軽に、徳島聖書キリスト集会員の方々に、直前の日曜日の主日礼拝の内容を参加できなかった方々にごく簡単にでも知っていただくために、12月から、ハガキ一枚に聖書講話の要約をして、なるべく月曜日に投函、火曜日にはその週の主日礼拝の要約を読んでもらえるように、不参加者には、ハガキ1枚での主日礼拝だよりを送付することになりました。 ごく短い要約ですが、少しでも早く、集会の内容に触れて、み言葉の風に触れていただきたいからです。         (要約担当は吉村(恵))
○集会場の二階と階下の床が古くなって壊れかかっているところがあるので、集会員の中本 裕由さんによって修理がなされつつあります。

○キリスト教独立伝道会について(入会案内)
私が熊本に年に一度出向いているのは独立伝道会の派遣により、また、やはり年に一度北海道の瀬棚聖書集会に行っていますが(三泊四日)、その聖書集会は、独立伝道会の後援によるものです。会長は西沢正文氏、事務局は鎌田利治氏。〒229-0015 相模原市下溝449の8 電話 042-778-04589
E-mail
kamata-toshiharu@jcom.home.ne.jp
 徳島聖書キリスト集会では、現在8名が会員で、12月には新たに2名の参加希望の方がありました。会費は、4種類に分かれていて、A、毎月千円を越える。B、毎月千円(年一万二千円)、C、毎月五百円(年間六千円)、D、毎月二五〇円(年間三千円)いずれでも選べます。
 毎月二百五十円の会費でも、キリスト教伝道にかかわることができます。入会希望の方、さらに詳しい内容の問い合わせなどは右の事務局の鎌田さん、または左記の吉村孝雄まで。
○吉村孝雄の自宅のIP電話(050-1376-3017)が、先日の雷以来、使えなくなってまだ修復できてないので、左記の電話番号を使ってください。


NO.364立ち返って、静かにしているならば、救われる。

安らかに信頼していることにこそ力がある。
(イザヤ3015

 

○九月二日(木)いのちのさと夕拝  詩編七十二編

 神を讃える、ということは、時代が変わり歴史が動いても続いてきている。そしてそれは、永遠に続いていく。

 この詩編では、王に対する祈りで満ちている。王は人間である。どうしても弱さを持っているため、間違うこともある。だから、王が神から離れないように、という祈りが込められているのである。

 また、イスラエルは神の正義、愛という基準があった。だから、この基準に立ち帰るようにと言う祈りがなされていた。ここでは「正義」ということが強調されている。これはどういう正義か。それは、まず貧しい人、弱い人、乏しい人が救われることである。その基準があってはじめて、民に平和が与えられる。そのような王であるときはじめて、王が永らえ、海から海まで全世界に支配がひろがる。神の真実をもっている王は神と直結しているので、真実な支配がなされるからである。

 これは、キリストの預言となっている。キリストが魂の王として、海のはてまで、支配していくようになる。この世の王ははかなく変わるが、キリストの支配は全世界で変わることなく続いている。この世は悪の霊で満たされているのではなく、神の栄光で満たされるのである。


○九月五日 (日)主日礼拝 サムエル記上六章  37

 神の箱に不思議な力があり、これを奪ったペリシテ人にさまざまな災いをもたらした。ペリシテ人は、このことを恐れ、神の箱を異教の地にもっていくことにした。このときに、乳を飲ませている雌牛を選んだ。それは、授乳中の雌牛は、そのままにしておくと、子牛の所に帰っていく。しかし、そこに神の力が働けば、自然の動きを超えて雌牛は動くと考えた。そして、実際に、雌牛は、子牛のところに帰らずに、まっすぐにベト・シェメシュに進んだ。

 このことは、現実にも起こりうることである。神を信じたとき、できないだろうと思うようなことが起こり道が開けていくことがある。このように行くだろう、とおもう常識や人の考えを越えて、神の力がはたらくのである。

 この民は、やってきた雌牛を焼き尽くす捧げ物として神に捧げた。その牛を食べることも、使うこともできたのに、自分たちの利益にするのではなく、神に捧げたのであった。まず捧げる、という考え方が示されている。

 新約聖書では「礼拝」そのものが捧げものであり、また、毎日の生活そのものが捧げ物である。働いたお金、エネルギー、また、わたしたちの全身を捧げていく。聖霊を受け、促され、心からの真実をもって礼拝する。それが神への捧げ物なのである。

 人々が神の箱をのぞいただけで主はこの民を打たれた。この厳しいことは何を言おうとしているのか。

 この民は、神を畏れる緊張は続かなかったのである。心がゆるんできて、信仰とは関係なく、好奇心で、箱の中をみてしまった。神への捧げ物、神に関すること、また神への礼拝は、畏れを持ってなされなければならない。しかし、人間は弱い。神に顔向けができない存在であり、心の中を見通されたら、神の前には立てない。だから主イエスの十字架による罪の赦しと贖いが必要なのである。そして、罪赦されて神の前に立たせていただけることがキリストの福音である。それゆえに、心から神に感謝を捧げたい。


○九月六日 (月)小羊集会 マタイ二十二・4146

 主イエスは何者であるか。二千年前も今も、この問題は続いている。イスラエルの救い主はダビデの子孫としてあらわれる、とイザヤ書で七百年前に預言されていた。それで、民は救い主を待ち望んでいた。救い主による、回りの大国からの攻撃や支配からの解放を期待していたのである。

 しかし、救い主は、ダビデの単なる人間的な子孫ではない。神と同じ性質をもっている特別なお方である。ただの人間であれば、本当の意味では人間を救うことはできない。死の力から人間を救い出すことができないからである。人間を死にいたらせるのは、目に見える敵ではなく目には見えない心の問題なのである。憎しみ、ねたみ、怒り。そのような人間の罪が人に死をもたらす。その罪からの救い、死からの救いを与えてくださる方が本当の救い主なのである。

 ヨハネの福音書では最初に、キリストが神である、というキリスト教の根本が書かれている。「はじめに言があった」この「言」と訳された原語はギリシャ語で「ロゴス」という。これは、イエスが生まれる前の名前である。「イエス」とは地上に生まれてからの名前であり、生まれる前には名前がなかった。そこで、この「ロゴス」という言葉であらわされた。このロゴスなるキリストは、はじめに神と共にあった、神と同じだった、万物がキリストによってできた、とあり、ここには明確に神とキリストは同じであることが示されている。

 そのロゴスが人間になってあらわれた。これが主イエスである。わたしたちはその栄光を見た。神と同じ性質のキリストを信じるかどうかが分かれ道となる。



○九月七日 火曜日 夕拝 イザヤ書二十七章

1節 「その時」とは、最後の時。人間の想像を超えた時間と空間での出来事であると共に、地球上の国々、また個々人の魂(霊)の問題でもある。最終的には蛇(レビヤタン)や竜で表わされているサタン的力は滅ぼされるのである。科学的に見るときには、地球上の生物が日々恩恵を受けている太陽にさえ終わりがある。当然すべての人間も動物も、植物もいつかは滅んで行く。このような観点からだけ見るので、死んだら終わりだと人は言う。

 しかし、 聖書の世界は、人は死んでも希望があると教える。輝かしい希望が。生きている人間には悩みがあり、怒りが、憎しみがある。神様と人間の関係を壊そうとするサタンが人の心に入り込むからである。人間は絶えずこのサタンに悩まされてきた。

 逆に聖霊が入ると、相手に敵対的な気持ちがなくなる。聖霊は弱い私たちのためにうめきをもってと表現されているほどに執り成して下さっている。

「蛇」に喩えられるサタンは神出鬼没、何処からともなく忍びこんで、人の心を汚していく。だから、「厳しく、大きく、強い剣をもって」と書いてあるように、神様が大いなる力をもってしないと、レビヤタンを滅ぼすことはできないのである。

 イザヤはその日、悪の象徴であるレビヤタンが滅ぼされると言う啓示を受けたのである。(黙示202131

2節 サタンが滅ぼされたら、このようになると示された姿が描かれる。1節なしには2節以下(2~6)のことは起こらない。見事なぶどう畑、神様は常に水を注がれる。私たちにとってはイエス様を受け入れた時、魂にこれに似たことが起こる。聖霊を与えられると、宇宙の終わりの時ではなくても、このようになると言われている。 


◯九月八日(水)ヨハネの黙示録 三章1922

  七つの教会に宛てた手紙の最後に何が言われているか。

 「満ち足りている。何一つ必要なものはない」という状態は、何も求めない状態である。求めないということは人間的なもので満たされてしまうということ。神様からは何も入ってこない。

 詩編には、どうか神様助けてください、との必死な叫びが満ちている。神に必死で求める気持がないことは、満ち足りているということだ。人間に求めても限界がある。神様に求めることは、自分が本当に惨めな者、哀れな者…であることを知っていなければ求めない。イエス様も「心の貧しい者は幸い」と言われたが、その貧しさがなくなっていると、ここで言われている。

 それを知らせるために神様は、人に何らかの苦しみを与える。苦しんで初めて、わたしたちは貧しい者、惨めな者だと知る。神様を、いらないということは非常な傲慢である。

 そのような時、神様の方から心の戸をたたく。そのようなことでいいのか、と。陰で罪を犯しても、神様にわからないと思うのは心が硬くなっているからだ。そんなとき神様が、心の戸をたたいている。だが人間の側からも、苦しみのときに求め、神様の戸をたたかなければならない。神が造られた自然も、いつもわたしたちの心の戸をたたいている。

  そして主は、戸を開けた者と食事を共にしてくださる。神様と同じ座に着かせてくださる。


○九月八日 (水)北島夕拝 Ⅰコリント二・616

 神の知恵とは何か。それは、世界が始まる前からの英知である。この神の英知を知らしめるのは聖霊である。これは生まれつきには誰も与えられていない。「あなたがたのうえに聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録十一・8)とあるように、真理を伝える力、苦しみを負ってもなおキリストを伝えようとする力も聖霊が与えられはじめてできることである。わたしたちがそのような働きができないのは、聖霊が与えられていないからなのである。ペテロも主イエスを裏切ってしまった。しかし、そのような弱い弟子たちに、復活した主イエスは「待っていなさい」と言われた。信じて待っていたので与えられたのである。

 罪の赦し、神の御支配、すべて聖霊が教えてくださる。パウロが福音を語ったのも、自分で考えたのではなく、聖霊に教えられた。人間からはこの力は与えられない。聖霊によってのみ与えられるのである。

・この日は、午後1時からの水曜集会のあとと、の北島夕拝の後でいのちの水の発送準備作業を行いました。みんなで手分けをして封入し、発送されています。


○九月十日 金 天宝堂集会 マルコ三・112

 安息日、礼拝をするための会堂に片手の動かなくなった人がいた。当時は病気になっても保証もなく、たちまち、生活ができなくなってしまう。片手の動かなくなった人の苦しみと悲しみはどれほどのものか。しかし、神を礼拝するために集まっている人々であるのに、この人の苦しみに対する愛はなかった。人々の心にあったのは、主イエスを陥れようという思いだった。

 安息日にはどのような治療行為もしてはいけないと律法に記されている。しかし、主イエスは、この人を癒すのではないか。もし、癒せば、それは律法に反することである。主イエスを訴え陥れる絶好の機会である。人々は、主イエスを訴えようと思ってきたのである。会堂は大事な祈りの場であるのに、そこが憎しみの場となり、礼拝の場でなくなってしまった。主イエスはそのような間違った考えと、真っ正面から戦った。敵意、憎しみの真ん中に、この手の動かなくなった人を立たせ、真理を話したのであった。

 安息日に、病気の苦しみを思わず、主イエスを陥れようということしか考えていなかった人たちをみて、主イエスは怒ったとしるされているが、その怒りは、人の罪に対する悲しみをたたえていた。主イエスはどのような人をも愛され、立ち返ることを願っていた。

 主イエスはその病人を癒された。それを見て、パリサイ派の人たちは、もともと考えの異なる、権力志向派のヘロデ派と手を組んで、主イエスを殺そうとした。そのような、悪や汚れの混沌とした中で、主イエスだけが、清い流れを流し続けていたのであった。

 主イエスは、動かなくなった人を動かしてくださる方である。手が萎えている人、という表現を通して、心の萎えた人をも動くようにしてくださることを示している。人生の中で、心が萎えたことがない、という人はいない。そして、そのような心は自分の力では立たせることはできない。しかし主イエスは、萎えた心を立たせてくださる。主イエスの「手を伸ばしなさい」という言葉を聞き取ったとき、萎えた手、萎えた心がまた動くようになる。主イエスはその力を与えてくださる方である。 


○九月十二日(日)主日礼拝 ローマ一・2432  41名 

 世界が造られたときから、造られた者は、神を知ることができるようになっている。たとえば、罪を犯すことや嘘をつくことがよくないことは忘れることはない。それは心に啓示されているからである。そのような心に刻まれたかわることのない真実がある。しかし、それを尊重しないで、はみだしていくとき、神によって修正が加えられず、汚れたことをするままにされることがある。それが神の罰である。そのような心には平安はない。

 「ねたみ」ということについて ヒルティ著眠れぬ夜のために下(十月十七日)で次のように記されている。

 人間のもっとも悪い性質はねたみと虚栄心である。あらゆる進歩の敵である。また、仮に、ねたみが少ない人は、高慢になりやすい。キリストへの愛がなかったら、ほんとうの人間に対する愛はうまれないのである。兄弟だから愛する、というのは人間にはできない。まず、キリストを愛していなければ、兄弟であれ、他者であれ、愛することはできない。神の恵みにあずかることを、すべての人生の宝や、その点での他人の優越よりも、高く評価するようになれば、その人はねたみや虚栄心への素質をも自ら捨て去ることができる。

 出エジプト記二十・1~ 「十戒」の第一、「ほかに神を作ってはいけない。」とある。これが人間の根本である。人間を偶像崇拝する。また、健康を第一と考える。そういうことも、すべて神を第一としていないのである。

 そのようなことと、ならべて「安息日を聖とせよ」とある。安息日をまもるということは重大なことである。人間は罪深い。道をそれようとする。しかし、それを修正するために、集まる。互いに一週間に一度、神のために捧げようとする。その心は必ず祝福される。

 人間のさまざまな問題が書かれている内容の中で、ひとつ、ちがうことが書かれている。25節「創り主こそ永遠にほめたたえるべき方です」という言葉である。どんなにこの世の罪深い状態について、書いているときでも、神からの光、啓示が示されていた。悪いことばかり聞かされてたらうんざりする。しかし、そこで神の光を見つめるとき、心に讃美がわいてくる。それをパウロははっきりと示されていたのである。


○九月十二日 (日)つゆ草集会 マルコ十三・3237

 復活と再臨。ここにこそ、希望がある。個人の人間の最終的な決着は復活である。世界の最終的な決着は再臨である。それはどんなかたちであるかはわからない。わたしたちにできることは今、信じて目を覚ましていることである。これは、主イエスの殺される直前の言葉である。主イエスは目を覚ましていなさい、と念を押した。そして、殺されるところへとまっすぐに進んでいった。

 目を覚ますとは具体的には生活の中でどういうことか。人間の心にはいろいろな罪が宿っている。罪が人の目を閉じさせてくる。主イエスが、そこから連れ出し、目を覚まさせてくださる。礼拝によって、み言葉と聖霊によって、目を覚まさせて頂くことができる。聖霊の風が吹かなければ、目はさめない。はじめにはっきりと啓示を受けていても、途中で真理がわからなくなってくることもある。どんなに、熱心であっても、持続するとは限らない。まどろんでしまえば、信仰は変質してくる。サタンはヘビのように忍んでくるのである。いつでも、目を覚ましていないと、サタンが忍び寄ってきてかまれてしまう。いま、目を覚ましているかどうか。信仰、希望、愛、これがあれば、目を覚ましていることができる。神からの愛をうけ、信仰に堅く立つ。そして、再臨の希望を持っている。それがあれば目を覚ましていられる。


○九月一三日(月)藍住集会 詩編一〇一

 「慈しみと裁きを歌う」で始まっているが、裁きを賛美するという表現(訳)は、私たちには不可解である。裁きというのは、ミシュパートという言葉で正義という意味である。「私は神の愛と正義を歌います」という事である。ここには、「神は愛と正義を持っている」という基本的な姿勢がある。賛美は神への心を引き立てる為に歌う。私達は人間を讃えるのでなく主イエスを愛し讃える。人間をよく知れば愛する事が難しいが背後の神を見て愛する。植物や星などの自然も背後の神を見てその美しさや極めがたさを賛美する。2節では「完全な道について解き明かします。いつ、あなたはわたしを訪れてくださるでしょうか。」とあり、他の道は最終的には滅びるが完全な道とは神様を信じる道である。人々の上に立つ王は、御国への道を解き明かす使命がある。この作者のように、神にいつも心を向け、自分を訪れて下さるのを待ち望みたい。


◯九月十三日(月)北島集会 列王記(下)五章1~14

 アラムの軍司令官ナアマンは、重い皮膚病(らい病)を患っていた。わらをもつかむ思いでいた時、イスラエルから来た少女が言った「サマリアの預言者(エリシャ)のところに行ったら直して貰えるのに」。一度は疑ったが、家来の助言もあってこの言葉にすがり、そのとおりにしたら本当に病が癒された。権力も何もない女の子や家来が病を治す立役者となった。

 神の業は、しばしば世間的に地位のない人が担っている。神の業は人間の思いと異る。神のわざは、小さなものを尊重していくことから起される。どこにでもいる弱い立場の人を重んじることが祝福につながる。神様の言葉は、しばしば地位の高い人から受け入れられない。

 み言葉に従ったとき、そこに大きな働きがある。神様の言葉(み業)をどれくらい本気で信じるか。それによっていろんなことが変ってくる。そこにイエス様が生きて働いておられる。神の言葉は、ごく身近のものを通して働きをする。毎日見る植物や星も、神様の愛や真実が込められている。信じて見れば、身近なものも大きな働きをする。

・内村鑑三所感集から。動揺する人間の心にも真理が入れば静まる。真理には静けさ、また広さがある。イエス様は無限の広さを持つ。(燈前の快楽)


○九月一四日(火)イザヤ二八章 一〇名

 イスラエルの現状は輝かしく繁栄しているが、やがて衰えていく事をイザヤは神から示された。旧約に一貫している事はどんなに繁栄していても真実でなければ衰え滅んでいく。経済が一番だと考えない。神様が一旦滅ぼそうとしたら激しく降る雹や洪水などを起こす力をもって簡単に滅ぼされる。しかし少数の残りの者は清められて存在し真理を受け継いでいく。イザヤは混乱した現実の彼方にあるものをいつも見つめていた。7節に「酒に酔って迷いよろめく」と書かれているが、人の心には、間違ったものが入ってきてそれによっていつも揺れ動く。現代も多くの人が、内容のよくないテレビなどの映像や印刷物などによって間違ったものを飲み迷っている。エペソ五章では、「酒を飲んではいけない。聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって主に向かって心からほめ歌いなさい。」とある。イザヤが警告しても、イスラエルの民は逆にイザヤを見下して言い返した。「悪い事をしても神は見ていない、罰はないのだ。洪水が溢れても自分たちには来ない」と。しかし、そうした当時の指導者達はこの世の流れに呑み込まれていった。16節で、神の言葉として「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、、堅く据えられた礎の貴い隅の石だ。信じる者は慌てることはない。」と言われ、主イエスの事が預言されている。今、主イエスは世界の親石になった。


○九月十九日 (日)主日礼拝 (ロマ書二・1837

 一章で書かれている罪の数々は、特別な人のことではい。誰も、そのような心を持っている。人を裁いておいて、自分は同じことをしていると言える。悪いことをしている人を見て、非難をしたり、陰口をいうとそれは必ず神様から裁かれる。心の平和がなくなり、まわりの真実もなくなってくる。誰かの悪いことを言っていると、自分も壊れてくるのである。誰かに対して憎しみを持つとき、自分自身の心が滅びていってしまう。神の憐れみがなければ、人間はみんな罪のために滅び行く存在である。しかし、そこに神の憐れみが注がれる。神によってのみ人は救われる。この憐れみの究極が主イエスの十字架であった。ここは、主イエスの十字架を指し示す序章となっている。

 神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさ。この殺伐とした人間の世界の中に、神の途方もない豊かさがある。人間は弱い。信頼していても、裏切られることがある。しかし、神を信頼し、神の憐れみをいただいたら、どんな人でも、見捨てないで信頼していくことができる。

 行いに応じて裁きがあると記されている。つまり人間は、そのままの状態では裁かれる。人間が正しい行いをし、忍耐強く善を行えば永遠のいのちが与えられるとある。しかし、人間にはできない。だから、キリストの救いが必要なのである。

 神の忍耐は、わたしたちを大きな心でもって見守り続けていてくださる。そして、わたしたちが、少しでもよき行いができるように、キリストを送って下さった。それでもなお、罪を犯してしまう弱い人間であるが、神の前に立ち帰れば、神は赦してくださる。立ち帰りなさい、神の豊かさの中にいなさい、と主イエスは言われる。そうすれば、他者の罪をも、神の豊かさの中で、見ることができ、裁くのではなく祈ることができるようになるのである。


 ○九月21日(イザヤ29114)十月五日(同書291524
  
1~4節では、エルサレム(アリエルとここでは言われている。)の内容の伴わない形式的信仰に対して、神様は厳しく裁かれると言われている。信仰がない者だけが裁かれるのではなく、形式的な、見せかけだけの信仰も裁かれると。神様はエルサレムの民に、そして私たちにも内的、霊的な信仰を求めておられる。5~8節ではエルサレムを攻める外敵に圧倒的な滅ぼす力を発揮される。どんなに悪の力が強くても、もみ殻のように吹き飛ばされる。ヨブは苦しみ呻いていた。慰めにきた友人たちも終に見放した。神からの直接の語りかけによってすべてのこと(苦しみ)に意味があるということ、神のご計画のうちにあることを知らされた。突然、全く神の一方的な愛によって、闇から救われた。パウロも同様である。弱り、恐れていた弟子たちも祈って聖霊を待っていたら、聖霊が注がれ、雄々しく伝道をし始めた。この聖霊が注がれないと伝道は出来なかった。聖霊は思いのままに吹く。どこから来てどこに行くのかわからない。聖霊がいつ注がれるかわからない。突然くる。それを信じて自分のできることをして「待つ」が大切。9~14節 エルサレムに対する裁き。見えなくなる、歩いて行けなくなる。神が眠りの霊を下されたから。神から受けた言葉が閉じられた言葉になって、本当のことがわからなくなる。

15節  「誰が我らを見るものか 誰が我らに気づくものか」このような思いは神を信じている人にも起こりがちである。面と向かっては言わない事を、心の中で思ったり、言ったりする。これは神様が万能だと思っていない証拠である。悪いことを思ったり、しても見つからないという気持ちは神様を浅く見ているから。復活を信じられないという人がいるが、それは神様は復活させることが出来ない、人間に出来ないことは神様も出来ないと思っているから。そうではないと16節で陶工と陶器の関係で言っている。粘土を使って器を作る人と粘土は断然差があると。陶工は出来の悪い器を打ち壊すことができる。器は陶工に向かって文句は言えない。(イザヤ459647など)

10、23節に「聖なる方」「わが名を聖とする」「聖なるものを聖とし」と「聖」と言う言葉が3度出てくる。マタイ伝6:9に『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』というところは『御名が聖とされますように』というのが、本来の意味である。「分けて別に置く」と言う意味である。第七日を聖とする、これは第七日を神様のものとして別におくということである。神様だけは別格だと思わないと、だんだん神様を引き下ろしてしまう。

17節~ なおしばらくの時がたてば…イザヤからおよそ七百年後、イエスさまが来られた時に、預言は実現した。実際に目の見えない人が聞こえるようになり、また見えない人が、聞こえない人が霊的に見えるように、聞こえるようになった。

20、21節 災いを待ち構える者、悪いことをしようとする人は断たれる。神様を信じていると言いながら、心のうちに何か悪いことを言ったり、考えたりする人は断たれる。Something  beautiful for God という心こそ大切。


◯九月二二日 水曜集会 詩篇22章1~22

 二節の「わが神わが神 なぜわたしを見捨てられたのか(エリ エリ ラマ サバクタニ)」は、十字架のイエスの言葉の預言となっている。

 信仰を持っても、地上では、時と状況によってはこのような苦しみが降りかってくることがある。その時、神は居ないと思うか、神に見捨てられたと思うか、どちらかだ。それで信仰を捨てる人もいる。「ヨブ記」のヨブは、神は自分を見捨てたと思った。このことはわたしたちにも生じうる。信頼していた神様から見捨てられ、周りの人からも見捨てられる。この状況で、「主に頼んで救ってもらうがよい」というあざけりを受ける。このこともイエス様によって、そのままの形で実現した。

 どのようなときも縋ることのできる一本の信仰の綱がある。もともと、母の胎に居たときから、自分は気づいていなかったが神様に結び付けられていた。時間を超えた結び付きがあったと感じられてくる。その根元的な結び付きを新たに思い起こして、今の厳しい状態を超えようとする。

 現実の状態は「水となって注ぎ出され」「蝋のように溶け」て、自分という者がわからなくなってしまうほど霊的に攻撃されてる。そうなればもう死の世界に捨てられたと同じだ。そのわたしの「着物を分け、取ろうとしてくじを引く」(マタイ2735)とある。このようなことまで後のイエスに実現した。

  神様を知らなければあきらめてしまう。だが、イエス様のような完全なお方でさえ、このように極悪人のごとくに取り扱われた。イエス様が置かれた立場が少しでもわかって初めて、この詩編がよくわかるようになる。人間は神様に比べたら全面的に信頼できない。自分の都合が悪くなると、どんなことでもする。人間でなく、神に求めていかねばならない。いかに答えがなくても、絶望はしない。


◯九月二六日 主日礼拝 ローマ二章9~16  参加25

  神様は分け隔てをなさらない。愛や真実にかなうものに背く者はみな心が枯れていき、平安がなくなる。神を知らされたユダヤ人であろうと、そうでないギリシャ人であろうと、神様に切実によきものを求めようとする者はかえりみられる。神様の持っている一番よきものを与えられる。それはあらゆる民族に分け隔てなく与えられる。

 人間は分け隔てをする。たとえ親であっても、学校でも、社会でもいくらでもある。だが神様は本当に分け隔てなさらないのだろうか。生まれつきの体の障害、事故、戦争、国の貧困などはどうか。また聖書をさかのぼってみると「カインとアベル(創世記四章)」は、いっけん神様が分け隔てをしているように見える。だが、ここでは神様はアベルに「どうして怒るのか、顔を伏せるのか…」と語りかけかけている。もし分け隔てをしているなら、カインに語りかけたりはしない。働きかけて、正しく神に向うようにされている。神様のひろい御こころ。カインのささげものは神に受け入れられなかったが、受け入れられないことを通して、訓練としてそこからよきものが出るようにと扱っておられる。受け入れ難いようなものにも深い神様の配慮がある。だが人間はそれを拒み、受け入れないところがある。

  どんなことになっても、しっかり神様に目を向ける。このことが詩編の中に多く見られる。神の深いご計画が、一見分け隔てをしているような中にもある。ユダヤ人はなぜあのようにイエス・キリストを拒んだのか。だがそれによって、全世界にキリストの真理が伝わっていくようになった。これがなかったらイスラエルの人たちは自分達だけの神だ、と非常に狭い考えの中に閉じこもり、キリスト教は単なる民族信仰になっていたはずである。目先の事でなく、神の英知の深さを知るとき、神様は本当に分け隔てをしていないことがわかってくる。

 詩編117篇。すべての民よ、主を讚美せよ。神の愛と真実は永遠。神の愛と真実を実感した者は滅びることがない。


◯九月二六日 北島集会 列王記(下)六章1~7

  鉄の斧を水の中に落してしまった。エリシャが木の枝を切り取って投げ入れたら、鉄の斧が浮き上がってきたと、およそありそうもないことが書かれている。これをどう受取ればいいのか。   聖書には他にもそのようなことがあちこちにある。出エジプト14章9にはモーセたちが葦の海を渡る記事がある。大きな動揺の中で「静まれ」と言うモーセ。本当に神に信頼して静まれば神が働かれる。モーセだけでない。祈りは聞かれる。わたしたちも精一杯神様に信頼していれば、不思議なことを起してくださる。道がなかった所に道ができ、無意味なものにも意味が見つかる。

  旧約聖書はむかし話ではない。今のわたしたちに起ることを示している。このままでは絶望だと言うようなときも、神に向って手を差し伸べれば道ができる。霊的な意味で、みこころにかなうことならこのことが起る。示された一本の木によって、飲めなかったものの味わいが変る(出エジプト1522 マラの苦い水)。  絶望して沈んでいた人間の中にも、みことばが投げ入れられると浮き上がってくる。神の言葉によって浮き上がることができる。


 ○九月二七日(月)藍住集会 詩編一〇二

 この詩の最初には「わたしの祈りを聞いて下さい。」と祈りが書いてある。賛美と祈りは一つなので本当の賛美は祈りをもって歌う。作者は心挫けて弱って主のみ前に心を注ぎ出した。私達が苦しい問題にぶつかった時、誰でもが祈れる祈りである。この作者は、あまりの苦しみに食事もできずやせ細った。「骨は炉のように焼ける」と死ぬほどの苦しい状態が特別な表現で書かれている。苦しみは共有できないので、孤独の中で独り目覚めていた。病気だけでなく人間もこの人を追い詰めた。パンを食べても砂の様、神様が自分を持ち上げて放り投げたのだと思った。そういう痛切な苦しみの中で、それでもなお神に向かい続ける。13節からは主語がシオンになっている。作者はそれまでの苦しい自分の状態とイスラエルの民の捨てられた状態とを重ね合わせて見た。そこから、神はすべてを喪失した者、喪失していく者の祈りを聞いて下さると確信に至った。「主を賛美する為に民は創造された。」と困難な中で、これから後の世代が続いていく事が光のように啓示された。神はすべての事を良きにしてくださる。神の愛が分かると神は素晴らしいという気持ちになる。最後にこの詩人は天地、大地を創られた神の永遠と万能に思い至り万物を創られた神をたたえた。


○九月二八日(火)移動夕拝 奥住宅 箴言一五章  一〇名

 箴言は格言という事で短い言葉に信仰に関する真理を込めてある。3節に「どこにも主の目が注がれ善人をも悪人をも見ておられる。」と書かれているが、神がいないと思っている人は神の目が見ていると考えない。神は万能なので、どこでも見通している。神は目ばかりを持っている。エゼキエル書一の15節では、神様の事を「四つの顔を持つ生き物の周囲にどこにも目が付いている」と不思議な表現で書かれている。私達も信仰を持つほど神の力が与えられて目が増えてくる。信仰を持つと、物事をよりはっきり見たい、学びたい知りたいという気持ちが起こる。神の目が与えられると悪い出来事の中にも神の愛が見える。マザーテレサは病気で死にかかっている人の中にキリストを見た。4節に癒しをもたらず舌はいのち木だと書かれている。言葉の使い方で命をもたらしたり壊したりする。言葉は力を持っている。一番良い言葉は聖霊による言葉である。人間はつい悪い事を言ってしまうがそれを赦し清めて下さるのも主イエスである。19節と24節に上への道と下への道が書かれている。神に従う道は開かれていくとあり、道がない時でもモーゼは海に道ができた。私達も道がない時でも心を天に向けて祈ると不思議と歩いていく道ができる。もう駄目だと思っても開かれる。神に従おうとする人は目に見える道も見えない道も開かれ、その人にふさわしい道ができていく。


◯十月三日(日) 主日礼拝 サムエル記(上)七章 参加27

 民族的な危機のとき、サムエルはどうしたか。神の言葉が納められた主の箱を、置くべき所に置き、エルアザルをわざわざ任命して守りに着かせたとある。主の箱が適切な所に置かれると、わたしたちの心が主に向う。神の言葉を慕い求めるようになる。だが人間の言葉が置かれると動揺が始まる。ニュースや報道は目まぐるしく変り、根本にある問題がわからなくなる。主の箱がわたしたちの心にあり、主の言葉があるときに本当の平安を得る。集会でも人間の意見、考えが中心に置かれた途端に動揺する。神の言葉が消えていく。礼拝は神の言葉を聞くこと。生きて働くイエス様にお会いすることである。

 ペリシテとの戦いがいつもあった。しかし、主に立ち返ることこそ本当の武力というものだ。新約になっては聖霊と、み言葉こそがわたしたちの武力となった。祈りは、集まって祈ることに力がある。皆が祈って心に浮かんだのは、自分たちが罪を犯したということであった。この意識がないと、本当の勝利は来ない。この世の考えは策略で勝とうとする。しかし聖書的には心の貧しい所に、本当の神様のよいものが与えられる。絶えず祈りの心がなければ、神様のよいものは入ってこない。焼き尽す献げ物とは、自分中心の考えや思いを、神様の火で焼き尽す。そして主に向って叫び祈ると、主が答えられたとある。これはわたしたちにも当てはまる。

 神の助けがあったことを記念する。大きな助けがあったことが記念される。わたしたちも神様が助けてくださったことを覚え続ける。重要な経験をしたヤコブ(創世記2810、讚美=主よ御許に)は、そこを「神の家(ベテル)」と名付けて常に感謝を新にした。また悪いことも心に覚えて、それを起さないようにする。

  サムエルの時代を通して、主の手はぺリシテ人を押えていたとある。わたしたちも、人間の手によって押えられるのではない。必要なのは主の手によって悪の力を押えていただくこと。サムエルは、正義とは何かという神の本然に帰り、正しい道筋をいつもつけた。すべて神様中心になされたということである。


 お知らせ

○「野の花」文集の原稿は、10月末までに出して下さい。二千字以内です。メール、パソコン、メールなど使っていない方は、原稿用紙、便箋などに書いて出していただいても結構です。FAXは文字が不鮮明になることが多く、しばしば再度問い合わせたりせねばならないので、特別な場合以外は避けて下さい。

○今月の移動夕拝は、1026日(火)、熊井宅です。スカイプでの参加希望の人は、熊井さんに申し出て下さい。熊井さんのE-mailは、kyrie@mb.pikara.ne.jp

1024日(日)は、主日礼拝の後、午後二時から、徳島聖書キリスト集会場にて、「まばたきの詩人コンサート」があります。水野源三の詩に作曲された、阪井和夫、浜田 盟子の両氏による、演奏と賛美の集会です。参加希望の方は、左記まで。


集会だより2010.09.08   NO.363


私たちは神からの霊をうけた。
それで私たちは神から恵みとして与えられたものを知るようになった。
(Ⅰコリント212

 

○八月九日 (月)北島集会  列王記下4
 夫を亡くした女性がいた。当時は何の生活の保障もなかった。生活ができなくなる。そのような厳しい状態の中でエリシャは女性に、何を持っているのか、と聞いた。女性は油の壺ひとつしか持っていなかった。油の壺ひとつしかないのに、エリシャがそれを持ってきて、空の器を借りてきなさいといった。女性はその通りにした。そうすると、次々と壺の中に油が満たされていった。
 貧しくて何も持っていない。しかし、神に従う時、神は満たして下さる。持っているところには満たされない。
 「心の貧しいものは幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ五・3~4)とある。わたしたちも、持っている、と思っている人は、与えられない。自分が何かをしたとおもったとたんに神からの祝福は消えていく。
 ヨハネ福音書二章の奇跡。婚宴の時にぶどう酒がなくなった。そのとき、主イエスに言われるままに、大きな水瓶に、水を入れた。主イエスは水をぶどう酒に変えられた。瓶はよきもので満たされたのである。人間が必要としているのは、心が満たされることである。
心が満たされなければ渇く。外側の制度をどんなに変えても、心の中の闇は消えない。渇いた心、空っぽの心を主イエスは満たそうとされる。持っている、という気持ちが砕かれるとき、そこに神様の力は注がれるのである。
・エレーナさんが初参加されました。エレーナさんはウクライナ(*)のクリスチャンの女性です。以前徳島にいたことのあるルイスさんと今年結婚。エレーナさんだけ、戸川さんの家にしばらく滞在されました。(829日まで)
*)ウクライナとは、1991年にソ連から独立した国。 紀元988年にヴォロディーメル聖公がギリシアからキリスト教を受け入れ、現在の東ヨーロッパ、ロシアの広大な領域にひろがるもとになった。しかし、首都キエフの北方100キロほどにあるチェルノブイリ原発事故で深刻な被害を受けた。

○八月十一日(水)北島夕拝 エペソ四・1417
 わたしたちの心に、何かが住んでいる。いつも心に思うことが、その人のなかに住んでいるものを表している。それが それは特定の人間であることもある。それは、よい意味で心に住むことも確かにある。しかし、人間の愛はもろく、また変わりやすい。
 「信仰によってあなた方の内に、キリストを住まわせる。」とある。心の中に住む、究極のよきもの。それがキリストである。キリストは神である。神と同質のお方が心に住むと言うことは旧約聖書では考えることができなかった。しかし、キリストによって、わたしたちの心に神が住むようにしてくださったのである。
 キリストが住んでくだされば、わたしたちは愛に根ざして生きることができるようになる。それがあらゆる人にとって、究極的な理想であり希望である。
 二人三人キリストの名によって集まるときにはキリストもともにいてくださる。集まりの中に、キリストが住んでくださるのである。 
 愛に根ざした生活は、キリストが住んで下されなければできない。万物の創造の根本はキリストである。空を見ても植物を見ても、愛が広がっているのがわかる。
 キリストの愛はどこまでも高い。どんなにわたちたちが裏切っても、心から立ち返るとき、赦してくださり、愛してくださる。キリストの愛は広く、長く、高く、深い。人間の心は、この世の物では満たされない。キリストが心に住んでくださって、初めて満たされるようになるのである。
 今、自分の心に何が住んでいるだろうか。それは自分に問うてみるとわかることである。どうすればキリストは心の中に住んでくださるのか。それは、求めることである。求めたら必ず与えられるからである。

○八月十七日 火曜日 夕拝 イザヤ書二十六章7~21
 今日の学びの見出しに「復活を求める祈り」とある。旧約では復活を思わせる箇所はごく少なく、千五百ページ程の中に少し出てくるだけ。ここはその一つ。イザヤ書二十五章8節、二十六章7~(今日の箇所)に出てくる。イザヤはイエス誕生の七百年程前にメシアなるイエス様が来られること、そして復活があるとの啓示を受けていた。詩篇四十九;14~16も詩人が復活の啓示を受けていたことがわかる箇所。みんな死が覆ってしまうが、主は私を黄泉の世界から取り上げてくださるのだ。12節~人間がいかに努力しても平和は崩れてしまう。しかし神さまが平和(シャレーム、全うするの意)をくださったら、すべてが全うされたことになる。人の心の中では動揺、不満があるが、これは主の平和が全うされていないということ。私たちの罪ゆえに。14節と15節は対照的に悪人(神に逆らう人)の滅びと神を信じる人が増え、神の栄光が全地に輝く姿を示している。16節~19節 生涯を振り返って、一体自分は何が残せたのかと思う時、努力しても努力しても生まれたのは風だけ。毎日が風のよう、虚しい。ところが19節には突然の信仰の飛躍が描かれる。復活の力が与えられるのだ、という大きな啓示を受けた。
 塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。…露は雨のほとんど降らない砂漠地帯では、植物が育つために大切はものである。命を保つものである。それと共に光の露でもある。神様はいのちの露と共に光を死んだ人(の霊)に注いでくださる。
 私たちも世の中が渇いている状態であっても、光の露を受けると潤される。

○八月一九日(木)いのちのさと集会 詩編七一・9~24
この詩の作者は年をとっていた。高齢になると外見的に力もなく多くの人が捨て去る。そのように弱っていくのを敵が待っている。体力も気力も段々弱って、力も健康も能力もなくなってきたら敵がいのちをうかがう。作者はそういう所でも神を待ち望んだ。私達の人生は神を信じているのでなければ段々崩れていく。私達が年をとっても神の恵み救いはいくら語っても語り尽くせない。賛美してもしても終わりがない強い持続性が与えられる。18節の老いて白髪になっても・・老いるという事が切実に感じられる状態で人生の晩年である。信じて絶えず頼っていたら神だけは捨て去らない。年よっても霊的な賜物は与えられれる。作者は多くの災いと苦しみを体験した後、神様は人生の苦しみや中傷を越える力を与えて下さり深い底まで落とされても引き上げて下さるお方だと分かった。この確信により大いなる神に対して感謝と賛美を歌うことができる。黙っていられなく賛美を語り伝えようと熱情が湧く。聖霊に満たされた状態を先取りしている。(インターネットのスカイプでの参加 一名)

○八月二十日 金  天宝堂集会  エペソ書4章1~6
 キリストを信じる人たちは、ひとつの「体」であるという。人間は元来一致が難しい。しかし、キリストを信じることにより、一致が与えられる。キリストの体としてひとつにしていただけるのである。だがそのような集まりであっても、気をつけていないと、すぐに分裂してしまう。人間的な感情、自分中心の考え、高ぶりなどがあるとがあると、人間関係は壊れてしまう。本来ひとつの体であるべきものが、こうしたことによってこわれてしまうのである。
 希望も、主も、信仰もひとつとある。そして、洗礼もひとつと書かれている。これはどういうことか。この洗礼とは、水の洗礼を意味すると考えられているが、水の洗礼となると、コリント前書の最初に記されているように、パウロから受けたとかアポロからだとか言って一致が壊されるもとになりがちである。
主イエスが授けようとした本当の洗礼とは、使徒言行録の最初や、洗礼のヨハネが語ったように、「聖霊による洗礼」である。(使徒言行録1の5、マルコ1の8)
聖霊による洗礼と理解して、初めて、希望、主、信仰という とくに重要なものと並べられているのが正しく理解できることになる。 これらの重要な内容は、みなその本質は一つであってキリストを信じる者の中でいつまでも働き続け、神の国へと導くものなのである。
 本当に大切なことはひとつである。この世は、すべてが違っているように見える。しかし、あらゆることが違っている中で、ひとつになる道がここにある。それは、最終的にはキリストのもとにひとつにまとめられる道である。その目的にむかって世界は流れている。 神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのもののうちにある、と書かれている。
神はすべてのものの上にある、とはつまり、どんな自然災害、悪の力も、たとえ戦争が起こっても、世界が滅びても、神はその上にあると言うことである。困難なとき、わたしたちの思いをどこに持って行くか。すべてを御支配されていく神のところにもっていく。それ以外には解決はない。
 すべてのことを通して働いている、とはつまり、悪いことを通しても働いていくのである。神は愛である。だから、良きこと、困難なこと、すべてのことを通して働き、益としてくださるのである。 神はすべてのもののうちにおられる。自然の中にも風の中にも神はおられるのである。
つまり神は、すべてのうえにあって御支配され、用いて働かれ、そしてその中にもおられるということである。
 すべてのものが最終的にひとつになる。キリストに向かって成長していく大きな流れがある。それは目には見えないが、霊的に啓示されるほど、わかってくるのである。

◯八月二十二日(日)主日礼拝 ローマ一章1617 参加35
ローマ書の序論から本論にはいる重要なところ。 まず、「福音を恥としない」という。一般の世界で「恥ずかしい」という気持ちは、成績が悪い、人ができることができない、ひどい罪を犯した等々、力不足からくることが多い。 当時のローマはまだキリスト教が広がり始めた頃。多くの人は十字架上で殺された重い犯罪人のような、一番力のない者に頼るとは、どうかしている、と思った。キリストを信じる者は、よほど力のない者と見なされた。
しかしそれを恥としないとパウロは書いた。原文は「福音を恥としない。力(神の)だから」となっている。福音は力なり、福音こそ本当の力である、と力強く述べている。人間はみな力を求めている。だがみな力不足。自分のことで精一杯、すぐ腹を立てるなど。だから見せかけの力を表そうとする。そして実際に力があると錯覚する。いじめも、憎しみを持つのも、愛する力がないから。苦しみに耐える力がないから。悪い言葉を撥ねのける力がないから。福音の力こそ世界が必要としているものである。
ではどうしたらその力が得られるのか。聖書には「神の義」が明らかにされている。義とは神の正しさ、正義である。旧約から、神様ご自身が「正義」であることは一貫して言われて来た。だがここでは、「福音」には、神の義が啓示されているとあって、これは、その正しい神から、信仰を通して初めて正しいとしてもらえることである。信仰によって出発する。信じてはじめて、罪赦され、正しいとされる。いくら善行を積んでも、経験、学問でもない。
まず出発は、神様から罪赦され、正しいとされることだ。正しさとは、世間で言うように、人から評価されるか否かではない。有名になるかどうかでない。 どこかに罪があれば、よき働きができない。一般社会でもそうだ。罪があれば本当の正しいよい働きはできない。ヨハネ福音書のぶどうの木のたとえにもあるように、よい働きをしようと思えば(わたしにつながっていなさい、そうでなければ何もよいことはできません)。イエス様にとどまること。神様から正しいと言って貰えること。そうすれば本当の力を受ける。この世では赦されなくても、ただ赦してくださいと主を仰ぐだけで認めてくださる。

◯八月二十二日(日)つゆくさ集会 マルコ十三章2431
太陽、月や星、古代から最も永遠的であると思われているものすら永遠ではない、それは仮りのものだ、と言っている。それでは何が永遠なのか。ただ神とキリストだけが永遠の力だと。聖書の世界は、当時から宇宙的広大さを見抜いていた。これを知って、わたしたちは本当の意味での平和を得る。
神様を知らなければ、また科学だけではすべてが消え行き、空しくなる。だが、わたしたちの内にキリストの力が来てくださっていれば、肉体は滅んでも霊的には永遠のものとなる。このことは個人にも宇宙全体にも当てはまる。月や星が滅んでも、永遠的な神とキリストが霊的な光となってくださる。すべて霊的な世界に変えられる。このことを本当に信じるのかどうかは大事な意味をもっている。将来を展望した時、みんな消え去るのか。太陽が消えればまっ暗闇なのか。そうではない。
どんなかたちで来られるかわからないが、キリストが来て光となってくださる。ヨハネの黙示録21章の「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」につながってくる。
キリスト信仰を持って一番よいのは、悪や滅びの力に対して「力」を与えられることである。単なる知識、認識ではない。 様々な災難災害が起ってもそこから新しい世界が始まる。それは産みの苦しみであっても滅びではない。力があるとは持続するということ。神とキリストの言葉は一番力があるから滅びることがない。わたしたちも神の言葉にしっかり結び付いていれば、滅びない。キリストが住んでくださることは密接なキリストとの繋がりがあることだ。
キリストの福音とは、わたしたちの心の根本問題である罪の赦し、死の力を乗り越える復活、そして再臨という三つの柱。ここでは、いかなることが起っても、必ずイエスが来られる再臨について書かれている。

◯八月二十三日(月)北島集会 列王記(下)四章3844
飢饉がしばしばあった。人々は野生のうりを見つけて煮物の鍋に入れた。だが食べようとしたら「死の毒が入っています」と言って、それを食べることができなかった。エリシャが小麦粉を持ってこさせ、鍋に投げ入れると有害なものが消えた。特別に神様が霊的な能力を与えた人がすれば、このようなことがありうることが言われている。
これは今のわたしたちにどんな意味があるのか。キリストが来られて以来、信じたら誰でも神の力をもらえるようになった。「神は言われる 終りの時に、わたしの(聖)霊をすべての人に注ぐ…(使徒言行録217)」。聖霊が与えられたらどんなこともできる。聖霊は神の力であり、飲んだら死んでしまうような毒をも消すことができる。
一番の毒となりうるものは人間の言葉である。人間社会の最大の問題は、心の中にある悪意という毒。その毒を飲んでしまうから。しかしキリストの「力」を本当に貰っていれば、悪意に逢ってもこの毒を飲まないですむ。不思議と毒を消す力がある。(マルコ1618)。非難、攻撃、中傷さえ、更なるよいもの、忍耐や信仰に変えてくださる。神の力が働けば有害なものがなくなり、その人にとってよき食物となる。これが神の力によって成される。真理(神)を愛する者は全てが転じて益となる(ローマ8:28)。
似たことが出エジプト152225にある。有毒の苦い水に投げ込まれた一本の木。ごく普通のものでも、神の力を受けたらそれによって毒が消された、と記されている。
まわりには毒のようなものが色々ある。これらはわたしたちにとって非常に切実な問題だ。だが最大の毒消しはイエス・キリストであり、聖霊である。
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節以降は、新約「五千人のパンの奇跡」の原型。能力が少くても神からいただけば不思議と増える。神様が補給してくださる。神の力が臨めば心の中のものも増え広がる。少数だが、クリスチャンはずっと続いてきた。これからも続いていく。

○八月二三日(月)藍住集会 詩編 一〇〇 
 個人の感情、苦しみ、嘆きではなく、一貫して賛美を歌っている。声だけでなく全身で表す事が賛美の本来の在り方として言われている。全地に向かって喜びの叫びを上げる。目指すべき目標は高い。最終的には地上のあらゆる人がこうなる。地も山も海に住むものすべて歌おう。被造物も動くものも動かないものもキリストが再び来られて天と地に現れる時、悪の霊、悪の力がぬぐい去られ、この事が完全に成る。今は不完全な時なので、何か不満、対抗心があり絶えず自分を損なうものが出てくる。自分は正しいのだという気持ちが除かれた時聖霊が注がれる。私達の心に主が住んで下さった時にはそれが部分的に起こる。植物の世界には悪が全くなく、神を賛美している姿がある。私達は神が愛をもって創造してくださり私達は主の持ち物である。主が私達を養ってくださる。神様は私達を造って絶えず霊的養分で養ってくださる。誰でもがただでこの恵みを与えられる。4節に主の庭・・とあるが、主の庭には霊的な花がいっぱい咲いている。ヤコブが荒野の真ん中で天の階段が見え天使が昇り降りするのが見えたように、私達もどこでも主の庭であり天の階段の門が開かれている。そこを昇っていき恵みに預かる事ができる。科学技術がいくら発達しても、心につける薬はないが、主の庭にはいのちの道に続き、元気が与えられる。

◯八月二十五日(水)水曜集会 詩編 百五十篇
詩編最後の詩。ハレルヤ、 神を讚美せよ と始まっている。「ハレルヤ」も「神を讚美せよ」も同じ意味。口語訳では「主をほめたたえよ」。神を讚美するのが人間の正しいあり方。
大砦の「砦」は「力」のこと。口語訳では、「その力の現われる大空で」と訳されている。大空とは山や川の大自然。それらに触れて讚美せよ。
自然の中に出て行くことのできない病気などの人にも、神様の支えがあり、それを感じることができる。神の力ある業は様々な状況にある人が受け入れることができる。
 また自分中心など心の罪、誰にも取り出せない心の罪を取り出し清めてくださる、など「力ある業」はこれら全部を含んでいる。その力のゆえに神様を讃美せよ。だが、神様の力を感じない場合は、讃美することができない。力ある神の業を知った時、自然と讃美するようになる。聖所での讃美。自然の中での讃美。「天は神の栄光を物語り…(詩篇19編)」の天は、自然を代表している。この詩は自然界に神の言葉が現れている。
 詩篇の第一編は、神の言葉を愛して喜ぶ。その祝福を喜ぶ。第二編は、この世界には、様々な力がたえず支配しようとしている。それに飲み込まれると神の力がわからなくなる。だがそれをはるかに超えてすべてを御支配されている神の力が存在する。第三篇は、個人の悩み苦しみを解決する神の力。この三本の柱。主に信頼し、乗り越えて行けば最後は最終篇の「ハレルヤ」に行き着く。
 神の力だけが永遠に残る。正しい道を歩いていくときそれがわかる。この世を去っていくとき、主に讃美ができればそれが人生の最上の幸い。
・二〇〇三年、三月十二日から始まった詩編の学びが約七年かかって、今日終了しました。感謝です。
・集会後、いのちの水、八月号の発送準備を、エレナさんも加わって11人でしました。

○八月二十九日 (日)主日礼拝 ロマ書一・1823  44
 この前の箇所で「わたしは福音を恥としない。」とある。これから本論に入るのに、どうして恥としないと言ったのか。それは現在の状況とは異なる当時の状況がある。キリストはローマ帝国の片隅で犯罪人として殺された人であり、そのような人を神とあがめることは当時の人には考えられないことだった。
 「恥」とはどういうときにおこるだろうか。みんなができるときにできないとき、弱みを知られたとき、恥ずかしいとおもう。恥ずかしいと思いたくないから、だれもが力を誇示しようとする。 誰もが力がないんだと思われたくない本能がある。だから良い働きをしていても、それを誇示しようとする心が働くこともある。
 だれでも、自分の心の奥の罪や弱さを知りたくない。人間は弱さや罪を避けようとしてしまう。しかし、自分の罪を知ることは弱いことではない。主イエスは罪を赦し清めてくださるのである。罪を取り除いてもらうのは、決して弱いことではない。それが恥としない、といういうことなのである。
人間には真の力はない。だから、何か高価なものを持って自慢をしようとする。その実体は影である。そのような影ではなく、実際に力を受けることができる道がある。力の源は神にある。
そして、真の力が与えられたら、人がどう見るか、ということはどうでもよくなる。霊的な力はこの世の評価とは関係がない。福音とは力が与えられる道が示されることであるから、弱いものではない。だから恥としない、といったのである。
 そして、罪の問題を話すのに、自然のことを示している。
 世界が創られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができる、とある。
 大空の美しさ。自然の壮大さ。天地を創られた神の力。パウロも自然の中に神の力と神性があることを感じていた。そして、わたしたちがこのような集会に集まると言うことも、神の力によって導かれて動かされてきたことである。人間は弱い。赦してくれる存在がなければ立つ瀬がない。でも、そのままで神は呼んでくださる。罪を犯したり、偽善であったりしても、そのままで主イエスの前にたって赦しを求めたら、赦しは与えられるのである。 
 詩編十九編では2節に「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」とあり、自然の壮大さ、神性を示している。そしてまた、13節では「知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください」と罪の赦しを求めている。
 天地宇宙を創られた方が罪を赦してくださるのである。信じて祈り求めれば、創造主が赦してくださるのである。美しい自然を見つめ、清らかさをくみ取り、罪の赦しを求めていく。そこに平安が与えられる。

*ウクライナから来たエレーナさんが八月上旬から私たちの集会員宅で3週間ほどホームステイされ、主日礼拝や各地での家庭集会・移動夕拝、病院での集会などにも参加されていましたが、この日、東京に帰ることになりました。彼女は、詩を書いたり、ダンスも好きだとのこと、またピアノも弾けて、近畿無教会集会のあと、京都の杣友さん宅を数人と共に訪問した際に、チャイコフスキーとか数曲を弾いてくれました。
 エレーナさんが徳島の印象を、話してくれました。
・「とてもいい印象でした。いろいろな日本人から親切にしていただいて、困ることもなかった。いちばんよい時を持てました。みなさん、どうもありがとうございました。また、徳島に来たいです。」  そのあとで、エレーナさんが英語で、「Worthy is the Lamb」という讃美をしてくれました。この賛美はアメリカで作られた歌ですが、ウクライナのキリスト者にもよく歌われていると言っていました。エレーナさんも愛唱の讃美だとのことで、歌詞を見ないで歌いました。これは、インターネットのYOU TUBE では400万回以上も聞かれている賛美です。 キリスト教の新しい賛美がインターネットによって世界各地に広がっているのを感じさせられたことです。
彼女は来たときには日本語がほとんどわからず、英語でしか話せない状態だったので、聖書講話も、日本語で話したあとに、吉村(孝)が短い要約を英語でする必要がありました。しかし、3週間の間に日本語をどんどん習得され、日常の事はなんとか表現できるようになっていました。

828日(土)の午後からキリスト教独立伝道会から三名の方が来られ、吉村(孝)と、伝道に関わるいろいろな話し合いが夜遅くまでなされました。翌29日(日)では三人をお迎えしての集会でした。
聖書講話のあと、一人ずつ話をされました。
・赤塚 牧
 東京から来ました。一年ぶりに参加でき光栄です。わたしは昔から脈々と続いていることに関心があります。子どものときから両親がキリスト者で、讃美をはじめとして聖書に親しんできました。聖書、讃美、クラッシック音楽。これも昔から続いていることです。大学で環境生理学を学びました。そこで、人間のおかれる極限状態、絶えられない状態におかれたとき、信仰を持っているかどうかで大きな差がでる、という話を聞きました。それをさまざまな人の話を聞いて実感しました。昨日、大学病院で25年以上人口呼吸器つけて、全身マヒで入院している勝浦さんのところに行きました。勝浦さんは、現在では、どうなっても大丈夫だという主にある平安を与えられていると感じました。
・土屋 聡
 二年前徳島で行われた全国集会に参加して驚きました。障害のあるかたが、生き生きと自分の役目をはたされているのをみたからです。
 最近の出来事を話します。娘が先日結婚しました。義父である石原兄に司式をしてもらいました。義父はその一ヶ月後に召されました。
 実は、式の一週間前に式場が変わることになるというハプニングがありました。あらかじめ決めていた会場は冠婚葬祭はできないというのです。これは集会形式だから、式ではない、などといろいろ言い訳を考えていましたが、やはり偽りはよくないということになり、急きょ式場を変更しました。当日の朝、大きな雷がとどろいて、雨が降り大風が吹いて、神様から叱られているように感じました。しかし式では雨も風も止みました。式辞の内容は、アブラハムが神の言われるまま、どこへ行くのかもわからないまま、信じて進んでいった話をしてくれました。式をし始めたら、後ろから光が差してきました。神がいてくださる感じがしました。
 義父は胃ガンでした。食べられなくなってやせていきました。看取った者の話では、召される二時間前に紙と筆を持ち、「感謝のみ」と書きました。そして、讃美歌30番を歌い終わると上を見てニコニコして、努力呼吸をやめ、静かに息をひきとったと聞きました。父の召される様子を聞いて、父はイエス様に会ったのだと感じました。
・西澤 正文
 イエスが愛されるのはどのような人かということを話します。八月半ば、独立伝道会主催の夏の聖書集会があり、それぞれが、自分たちにもっとも影響を及ぼした人について話しました。わたしは堤道雄、溝口正、石川昌治、石原正一の四人を紹介させていただきました。その中で、特に堤道雄さんのことをお話しました。わたしにとってインパクトの強い、本物の独立伝道者、というイメージをもっています。それは話の内容だけでなく、その姿からも伝わってきました。その外見はみすぼらしく、着古した背広がてかてか光っていました。カバンをかけ、見た目にかっこいいとは言えない身なりでした。駅まで送ったとき、挨拶をして、群衆に消えていった後ろ姿を今でも覚えています。体を張って伝道されていた、その孤独感、伝道者の厳しさを感じました。堤さんは、真実な嘘のない人でした。そのような人が、イエスが愛される人ではないかと思いました。
 聖書の中でイエスが愛されたのは、障害者、病気の人、この世ではひっそりと生活している人、そして、ちいさな子供です。特にイエスが愛されるのは小さな子供ではないかと思っています。「自分を低くして幼な子のようになる人が天国でいちばん偉いのだ」とあります。これと反対に、イエスが徹底的に宗教家を嫌うところがあります。特に律法学者、パリサイ派の人たちです。おまえたち、偽善者よ、と、徹底的に糾弾しています。これらの人は言うだけで実行しない。言うだけで、自分たちがするのはパフォーマンスでしかない。外側はきれいにするけど、内側は自分たちの欲で満ちている。そういう人をイエスは嫌っています。その反対が幼い子供たちです。駆け引きなしで心をひらいて生きています。イエスの目線は外見はどうでもいいのです。心の中をみられます。どこまで誠実な心をもっているかを問われます。 「心の貧しい人は幸い」とイエスは言われました。心がからっぽで純粋な人。そのような人が偉いといわれているのです。このことを心に覚えて、子供のような純粋さを持ってこれからの信仰生活を送っていきたいと思いました。

○八月三一日 (火)スカイプ集会  詩編三三篇13
 この詩はまず最初から賛美が書かれている。「主によって喜び歌おう」私達は、いろんな事態に遭遇するが、どんな人にも当てはまるのは主によって喜ぶことである。賛美をする事は心のまっすぐな人にふさわしい。新しい歌、新しくされた心で歌う。主にあって、主と結びついて賛美を捧げる。神様のみ言葉とそのわざは真実。5節には主は正義と公正を愛されたとある。この世は絶えず不正なこと、不真実だが神だけは正義を愛する。この全世界は主の慈しみに満ちている。人間の目にはこの地は悲惨で満ちていると映るが暗い雲の上には太陽が輝いているように、どこまでも主の愛で覆われている。悪い事に見える背後には神の御手がある。必ず神が最善をされる。み言葉によって天は造られた。神の言葉は絶大な力がある。神の力は得体の知れない巨大な力を持っている海の力も制御できる。現代の私達に起こる病気や家庭の問題、人間関係、職場や金銭の問題などあらゆる問題をとどめるのは神の力。神が砕こうと思ったらたちどころに砕かれる。神のご計画、神のご意志だけは永遠に変わらない。私達も神の力を信じて神の素晴らしさに立ち返ろう。 (まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y


報告とお知らせ

○近畿無教会集会 878日に、京都桂坂にて開催。今回は、聖霊をテーマ。聖書講話の講師は、小舘美彦、吉村孝雄。参加者は、京阪神、兵庫県加古川市、岡山、徳島のほか、関東方面から講師の小舘夫妻、ルイス、エレーナ夫妻、ニュージーランドから帰省中の吉村浩正といったふだんは参加できない人たちの参加がありました。主催してくださった方々の御愛労、祈りに感謝です。参加者48名。
○今月の移動夕拝は、928日(火)奥住 邦昭・芙美子夫妻宅です。
○大学病院での、つゆ草集会は、いつもは第四日曜日ですが、今月は全国集会があるので、第二日曜日、午後1時半からです。
923日(木)休日に、祈の友・四国グループ集会が、坂出市大浜教会で開催。午前11時~16時。祈の友に加わっていない方でも自由に参加できます。聖書講話は、大浜教会の上野清次郎、松山聖書集会の冨永尚、徳島の吉村孝雄の三名が短い時間ですが、それぞれメッセージを語る予定です。午後は、自己紹介や感話、午後3時の祈り。問い合わせは、上野牧師まで(電話 0877-44-0779

○アメリカに住んで大学院での学びを続けていた松浦大亮さんが去年12月に結婚したローレンさん(Lauren Nichole Patton)とともに、日本に帰って来て、815(日)の主日礼拝にともに参加され、それ以来一カ月ほど徳島にいて集会にも参加しましたが、現在は、高松市に転居されました。また折々に徳島での主日礼拝に参加したいとのことです。

919日(日)午後読書会。ダンテの神曲・煉獄篇28歌。この箇所は煉獄の最上層部の地上楽園での描写です。「さわやかな緑濃い神の林、そこでは、土もかぐわしい香りを放ち… 」というような文からはじまります。神によって清められた世界の、がどのようなものであるか、その一端がうかがえる箇所です。
1212日(日)の夜の、恒例の市民クリスマスでの手話讃美は、「諸人こぞりて」讃美歌112135節、「ガリラヤの風」新聖歌40番の134節、「いざみな来たりて」新聖歌1番の1節だけ全体で手話讃美。「愛をもって生きていこう」。
最後の曲の楽譜持っていない方はお渡しします。

○スカイプを用いる集会
何度か書いていますが、インターネットのスカイプを用いて、遠いところの方々や、集会に参加できない方々とともに、礼拝できることは以前では考えられなかった恵みです。 とくに、長い年月を寝たきりで起き上がることもできない最重度の障がい者である勝浦 良明さんは 大学病院のベッドに横たわったまま、口と頭部のわずかな動きを用いてパソコンを操作できますが、彼は、このスカイプを用いる県内各地の家庭集会のほとんどすべてに参加されるようになり、今までにない恵みを与えられているとのことです。勝浦さんは、人口呼吸器装着しているので、外出となると特殊な車を予約、何人がかりで長時間の準備作業が必要、そして参加したところでも酸素も携帯し、たいへん困難な参加で、そのため、2年前の全国集会に参加したのが最後で、体力の衰退とともにもう外部集会には参加できない状態となっていました。そのようなときに、このスカイプを使う数多くの集会に参加できる状況となったのはとても喜ばしいことでした。 インターネットができる状況にあって、参加希望の方、あるいは問い合わせは、吉村(孝)まで。


集会だより2010.08  NO.362


キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる。
(コロサイ三の十一)

 

○七月五日 (月)小羊集会 マタイ二十二・3440
 パリサイ派の人たちは主イエスに律法の中でどれが一番大事かと聞いた。律法とは、当時のユダヤ人の心の問題や清めの問題に関わる法律であった。旧約聖書には当時の法律となることがたくさん記されている。そのなかで、どれが一番大切なのか、と聞くことによりその返答によって議論を持ちかけ主イエスを陥れようとしていたのだった。
 主イエスの答えは意表をついたものだった。それは、十戒でもなかったからだった。「心を尽くし。思いを尽くし、力を尽くして神を愛しなさい。」(申命記六4・5)と言われたのだった。いろんな宗教的な規定を守れということでも、こうすべきだ、という数ある教えでもなく、目には見えない神を愛しなさい、と言われたのであった。この箇所の意味は自分のすべてをあげて神に心を注ぎ出しなさい、ということである。哲学上の真理や美、それ自体は心を注いでも人間には働きかけてはこない。しかし、全宇宙を創られた神、聖書の神、唯一の神は、弱い汚れた人間に働きかけ語りかけてくださる。その神に心を注ぎ出すことが示されている。完全な愛であり真実である神に心を注ぐことが一番大事なことと言われたのである。
 次にいわれているのが、「隣人を自分のように愛する。」ということである。隣人とは出会う人だれでも、ということである。隣人を愛する。これが人間関係の究極的な目的である。家族や友人を愛する、という当たり前のことではなく、主イエスは、誰でもといわれた。善人であれ、悪人であれ、だれでも愛する。それは好きになる、と言うのではなく、悪を行う人に対しては、その人のために祈るということなのである。しかし、このような完全な隣人愛を持つのは人間には難しい。完全に人を愛することができたのは主イエスだけである。でも、わたしたちはできなくても、このような究極的な目的を知って、できないからこそ、神をみつめ、祈り求めていく。それが、神を愛するということなのである。

〇七月六日 火曜日 夕拝 イザヤ書二十三章
一、十四節「泣き叫べ、タルシシュの船よ お前たちの砦は破壊されてしまった。」地中海全域との貿易によって栄えたティルス(ツロ)、シドンは破壊されると。たくみに貿易をし、勇敢で遠方まで行き来し経済的に栄えた町であったが、滅びるのだと、神は言われる。国民の正義の感覚よりも経済を第一とする国は必ず滅びると。(エゼキエル26:3,12)十五節 しかし、主のみ心に適った時を経て、ティルスを顧みられる。そしてティルスは。再び神とは異なるものを拝し、もう一度商業に力をいれる。
 十八節 ところが意外なことに、彼らの生み出した物の価値と報酬が主にささげられると言われる。この世的なものであっても、神が顧みられた時には、ただの『もの』が生き生きと別の働きをするものとなる。不正な僕の譬にあるように、お金そのものにはどこか不正なにおいがするが、主が顧みられると信じて使う時には、主はそれを清めて用いてくださる。お金に限らず『もの』も主のために使われる時には生きてくるのである。(ルカ16章1~、不正な僕)
 
○七月九日 (金)天宝堂集会 マルコ二・2328
 主イエスの弟子たちが安息日に空腹のために麦の穂を摘んで食べた。それを見たパリサイ派の人たちは、安息日にしてはならないことをしたと言ってとがめた。パリサイ派の人たちは、何とかして主イエスたちの言葉尻をとらえ、陥れようとしてこのように主イエスのあとをつけてきていたのだった。
 主イエスはパリサイ派の人に反論するために、ダビデも供え物のパンを食べたことが旧約聖書に記されているのだ、と即座に旧約聖書から必要な箇所をすぐに取り出して示すことができた。神の御子である主イエスには神の言葉が自由に取り出すことができたのである。
 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主である。」と主イエスは言われた。
 本来、安息日はこのように神を礼拝する日であった。しかし、それが形式的なこととなっていった。形だけを守っても神は喜ばれない。しかし、当時は、律法すべてが、形式的になり、形を守っていればそれでよいとされていた。
 外側だけをよく見せても意味がない。大切なのは心である。
何が本当に大切なのか。安息日に主なるものを失って、形だけになっていることを主イエスは言われたのである。これは、この時代だけではない。ミサのための聖職者の特別な衣服、教会の大聖堂、宗教的指導者に対する崇拝、さまざまな宗教的しきたりなど、すぐに人間は目に見えるものを重要視してしまい、真実から離れていく。
「しかし、まことの礼拝をするものたちが、霊と真理(心と真実)で礼拝するときがくる」(ヨハネ四・23)と主イエスは言われた。本当の礼拝は場所や形式とは関係はない。大事なのは、心である。真実である。まず、主イエスに向かうことである。そのことをこの箇所は示しているのである。

○七月十一日 (日)主日礼拝 ヘブル書十三・2025 40
 ヘブライ人の手紙の最後。ここには祈りが記されている。
「御心にかなうことを、イエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うためにすべての良いものをあなたがたに備えて下さるように。」
 これは、人間的なことをかなえてくださいという願いではない。神の御前で、御心にかなった喜ばしいことをひとりひとりにして下さいますように、と言う願いである。人間はさまざまなことを願うが、すぐに自分に都合がいいことを願う。自己中心となる。
 しかし、ここに記されている願い、祈りの中心は「御心にかなうこと」とである。この祈りは、どのような状況におかれている人でもできる。たとえ病気であっても、その病気が証となるように、と願うことはできる。
 御心にかなったことがありつづけるようにと祈ることは、わたしたちの生涯の課題である。そしてそれは、主イエスが教えられた主の祈りの中に示されている。
「御国が来ますように、御心が地にもなされますように」という祈りの心が、この箇所にも言われているのである。
 人間は弱いので、すぐに神の御心から外れていく。どのような人にもこの祈りが必要である。そして、この祈りのためには、砕かれた心が必要である。そのために主イエスは「心の貧しい者は幸いである」と言われた。自分には誇ることなどないということを知り、思い上がりが砕かれて、へりくだったこころで、切に神に求めるとき、天の国は与えられる。神は恵みを注ごうとしておられる。たとえ、大きな悲しみや苦しみが襲ってきても、そこにこそ神の恵みを注ごうとしてくださる。だから、「悲しむ者は幸いである。」といわれた。悲しみの中から神に求めるとき、神の励ましと力が与えられるのである。聖書はすべて、神のご意志の表れである。そしてその神のご意志とは愛であり清さなのである。

○七月十二日(月)北島集会 列王記(下)二章1525
エリアの霊がエリシャの上にとどまっていることがわかった。聖霊によらなければイエスを主ということができないと同じように、聖霊によらなければ、眼に見えない存在を心からお父様と感じたりはできない。
エリアは天に昇ったが、それで終りではない。人々は、主がエリアをどこかに投げ落した、とくらいにしか考えていなかった。だが、列王記の中でもエリアは突然現われる。マラキ書三章23節では、「見よ、エリアを使わす」とある。新しい預言者が現われるのでなく、エリアが再び来る、と。たしかにそのとおりであった。それは福音書の中に洗礼のヨハネとして、エリアの本質を持って歴史の中に現れた。
エリシャはエリアの霊を受けた。この時はまだ特別の人にしか与えられかった霊的賜物だ。だが新約ではヨハネ福音書三章34節で、聖霊を無限に与えるかた(イエス・キリスト)が内に住むことが言われ、同じ七章3738で、渇いている人がイエスから飲むと聖霊が豊かに宿るようになるとある。誰にでも、しかも限りなく与えられるようになった。
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節、この地は「水が悪く、不毛だ」と言い、水の源に塩を入れると清められたとある。現実ばなれしたようなことだが、本質的、霊的なことになると、このことは起る。清めの塩とは聖霊のこと。命の水を与えると新しい器となり人間が清くなる。みな罪に死んでいたようなものだが、これが魂の源に投げ込まれたら清くなる。イエス様が魂の水源に投げ込んでくださる。日々の生活のなかでも新しいみ言葉、新しい聖霊を受けるとさらに新しくされる。
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節はいっけん不可解なところである。子供が出てきて、「はげ頭、上っていけ…」と言う。そのときエリシャはにらみつけ…とあり、だが、ただ感情的に怒ったのか。そうではなく、それは聖霊を与えられた人を踏み付ける行動だったからである。聖霊を汚すものは赦されないと主イエスは言われた。聖霊を全く信じない、敬うべきものを嘲る。それは聖霊を与えた神そのものを踏み付けにする行為だ。そのことには必ず罰がある。不真実な心でなく、わたしたちは真実をもって神を礼拝したい。

○七月十八日 (日)主日礼拝 ロマ書一・13  38

 今日からローマ信徒への手紙の学びが始まる。聖書は神の霊感で書かれた書物である。だからその内容の順番にも意味がある。まず福音書がおかれ、そして使徒との働きの記録、それから使徒たちの手紙となっている。その手紙のはじめがこのローマ信徒への手紙である。
 ローマ信徒への手紙では特に、十字架によって主イエスが人間の罪を担って死んでくださったことが記されている。この手紙は、世界最大の書、と言われている。聖書には使徒たちによるいろいろな手紙が載っているが、このローマ人への手紙が、一番構成がなされている。
 この手紙のまず始め、パウロが自分が何者であるかを表明している。「僕」とあるのは原語では「奴隷」という意味である。、つまりパウロはキリストの奴隷であると記している。「心の貧しいものは幸いである。」と主イエスは言われた。心の中に高ぶりのない人こそ、幸いである。パウロはそれを示している。主イエスの奴隷となっていく。主体は自分ではない。それこそが目指すべき究極的な生き方である。
 つぎに「使徒として呼ばれた」ことが記されている。実際、パウロはキリストに呼ばれるまではキリストを信じる者を迫害するものだった。そこから、パウロは呼び出されたのだった。自分の意志でキリストを信じたのではない。全世界に影響を及ぼしたパウロであるが、パウロは自分の考えや自分の力で行ったのではなかった。
 このように、ローマ人への手紙の冒頭、まずパウロが自分自身を表した言葉はすべて受け身であった。「遣わされた。」「選び取られた」「呼ばれた」すべて、受け身であり、自分の力でしたのではないことを表明している。なされるのは神なのである。

○七月十九日(月)北島集会 列王記(下)三章
水が底をついてしまったとき、ユダの王ヨシャファトは聞いた、「ここには我々が主のみ旨を尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と。人間はせっぱ詰まって初めて主のご意志を尋ねる。先ず神の国と神の義を尋ねるのが一番祝福が多いのに、人間の弱さから自分中心の行動をしてしまい、どうにもならなくなって初めて神様のことを思い出す。新約では、主イエスが聖霊となってわたしたちの内外にいてくださるから、いつでも主のみ旨を尋ねることができるのである。
エリシャは「主の言葉を持つ人」であった。クリスト者も、内に神の言葉を持つ。ヨハネ福音書の最初に「初めに言(ことば)があった」とある。イエス・キリストは神の言葉そのもの。一番よい持ち物は主の言葉である。主の言葉を持っていることの重要さ。どのような挫折や失敗、落胆することがあっても、神様は最善にしてくださる。たとえ大きな罪を犯してしまったときも、主を仰ぎ立ち返れば、周囲からいかに見下され、認められなくとも、新しい力を得て立ち上がることができる。 主の言葉を持つと、たとえ寝たきりになっても、不思議な力を持ち続けることができる。倒れてしまうところを支えられる。
また青い空、白い雲、星、植物なども主の言葉の現われである。音楽そのものも、聖霊が臨むことを助ける。谷川のせせらぎ、風の音も神の奏でる自然の音楽であり、メッセージだ。
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節に、砂漠にも水が流れることが書かれている。神様は、水が枯れた所も潤すことができる。霊的におよそ水などないような所にみ言葉が、主のみ手が臨んだら潤される。人間はみな渇いている。罪を持つということは、荒れて乾いているということだ。だがそこに主のみ手が臨めば水が溢れる(ヨハネ福音書4章14)。水が溢れると悪い感情などは流される。神を見つめていたら、不当なことを言われても心にかからない。主の言葉があれば心にゴミが溜らない。主の言葉で潤っていれば。

○七月二十日 火曜日 夕拝 イザヤ二十五章
 主よ、あなたはわたしの神 わたしはあなたをあがめ 御名に感謝をささげます。(11,23)(というのは)あなたのご計画は必ず成るから。(人間は変わりやすいが)あなたは揺るぎない真実をもってなされるから。(in perfect faithfulness)
 主よ、 あなたはわたしの神…静かに神様との関係で自分の過去を思い起こすとき、神様がすべての人の神でありながら、わたしの神(my God)であったと思えてくる。この地上でわたしのものと言えるものは少ないし、またいつ消えて無くなるかもしれないが、信仰をいただくと宇宙を創られた神様さえも身近に感じられるようになる。神様を信じる、心に持つと心が広がっていくような気がする。
4,5節では、神様は弱い者の砦となってくださる、苦難の時の避け所となってくださる。6節では神に最後まで従った人々に対して、キリストはあらゆるよいもので満たしてくださる。イエス御自身が最良のものでもある。7節はコリント書Ⅱ三・十五~十八に引用されている。8節は黙示録二十一・四~に引用されている。人間は皆ヴェールを被らされていて、はっきり見えないが、最後の時にはっきり見えるようになる。また神様は死を永久に滅ぼしてくださる。すべての人の顔から涙をぬぐい去ってくださる。イエス様が死を滅ぼすことが、ここで預言されている。肉体の死、精神的な死、共に滅ぼしてくださるのである。だから希望をもって待ち望もうと語りかけている。

○七月二十五日(日)主日礼拝 ロマ書一・35 32
 「御子」とはいかなる存在なのかが書かれている。キリストは人間としてお生まれになった。それは突然でも偶然でもない。神のご計画がなされたのである。そのことを示すために、パウロはここで、主イエスがダビデの子孫として生まれたことを記している。
 新約聖書のはじめ、マタイ福音書一章にイエス・キリストの系図が書かれている。アブラハムの子孫、ダビデの子孫としてイエス・キリストは生まれた。この系図は神の意図が記されている。ダビデの子孫として生まれる、ということは、旧約聖書、イザヤ書に預言されていたことである。
 イザヤが活動したのは、BC七百年。そのときから、イザヤは神の啓示を受けて、預言書を書き記してきた。そしてこの預言がなされてから、人々は待ち続けたのである。預言は成就し、イエス・キリストはお生まれになった。神のご計画は必ず成る。神のご計画に沿って、歴史は流れているのである。そして、わたしたちがキリスト者になったのも、神のご計画である。偶然ではなく、神の導きの中におかれている。さまざまな困難な出来事も意味があり、神の導きによる。神のご計画には揺らぎや間違いはないからである。
 次に、復活のことが示されえている。主イエスは復活して永遠に神と同じ姿になられた。つまり、神と本質が同じということを表す。そしてまた、主イエスを信じるわたしたちも、死んだ後には主イエスと同じ姿にしていただけるとある。永遠の希望が与えられているのである。
 わたしたちは恵みを受けて使徒とされた。不思議な導きによって、神を信じるものとされた。自分の力で行っていることは何一つない。ひとりひとりがご計画によって導かれたのである。

・七月十七日に増田さんのご主人が召されました。十八日に徳島聖書キリスト集会主催で葬儀が行われました。本日久しぶりに、増田さんが主日礼拝に参加されました。増田さんは十六年間ご主人の介護をされました。
 増田さんより葬儀の感謝と「久しぶりに集会に参加し、ふるさとに帰ってきたようです」とお話がありました。

○八月一日(日)主日礼拝 サムエル上五章 37
 ペリシテ人が神の箱を奪った。そして、自分たちの神殿に運び入れた。神の箱に、不思議な力があるのならば、奪って自分たちのものにすれば、力を発揮してくれると考えたからである。しかし、そうではなかった。彼らの神殿の偶像のまえにおいてあったが、その偶像が倒され、壊された。自分たちによいことが起こると思っておいたのに、災いばかりだったので、神の箱を違う土地に移動させた。場所をかえても、やはり、そのところに災いがあった。
四章では神の箱は何の力も発揮しなかったのに、この五章では偶像を倒したりする不思議な力を発揮したことが書かれている。なぜ、四章では神は何もなさらなかったのか。それは、イスラエル人が神に立ち帰ることをしないで、まじないのように、神の箱を戦場にもってきさえすれば勝利があると思ったからである。そんなところでは、神の箱は働かない。神に心の方向を向けなければ、神の力は働かない。
 神の正しさの前では、自分は弱くむなしい。そこから、神を仰ぎ望む。そこに神は力を発揮して下さる。
 そしてペリシテ人は神に立ち返ることなく、神を畏れず利用しようとした。そこには、つぎつぎと災いが起こった。神の言葉をいい加減に取り扱えば、災いが起こる。神のことを思うときには、真実なこころがなければならない。
 また、「主の御手」についても繰り返し書かれている。神は目には見えない。しかし、主の御手、まなざしがある。旧約聖書では「御手」という表現は多い。見えない御手があることが示されている。きょうのところのように御手による裁き、ということでも記されている。
 詩編にも神の御手について書かれている。「天は神の栄光を物語り、大空は神の御手の業を示す」(詩編十九編)自然の力、神の見えない御手がこの壮大な自然を創った。手がなければ、なにも造れない。全世界も神の万能の御手が造られた。太陽の光もすべて、神の御手の力が示されている。
「わたしの魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えて下さいます」(詩編六十三・9)
 わたしたちも、大きな御手、万物を作られた神の御手で支えて下さっている。そうでないと沈んでしまうのである。
「主はモーセに言われた。『主の御手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今あなたに見せよう』」(民数記十一・23
 モーセのように奇跡を成した人でも、追いつめられたら、神様でもできないと思ってしまう。わたしたちも、追いつめられたり苦しいとき、神は何もして下さらないとおもってしまうけれど、「主の手は短かろうか」と神は言われる。神の全能の御手は、どこまでも助けてくださる。
 新約聖書には、ハンセン病の人が勇気を出して捨て身で主イエスのところにいった記事がある。主イエスはその人に触れられた。(マタイ八)だれも、触れることができなかったその人に主イエスは触れ、清くなりなさい、と言われた。そして、いやされなかった病気がいやされたのである。主イエスの御手だけは、どのような闇でも触れてくださり、光を与えてくださるのである。今も聖霊となり、見えざる御手となって主イエスは働いてくださっているのである。
◯八月八日 主日礼拝 ローマ一章6~7 参加 23名(この日は近畿無教会集会が京都で開催され、集会からは15名が参加。)
一人ひとりのクリスチャンが、キリストのものとなるために呼び出された。イエス・キリストのよき恵みを受けて周囲にまた手渡すためである。
人間のものとなるのでなく、イエス・キリストのものとなる。完全な愛と真実によって命じられることをする者となる。そうすれば、それを行う力も同時に与えてくださる。キリストのものとなれば、たとえ人から悪く言われ、誤解されても、また罪を犯したとしても、あらゆることに対して耐えていくことができる。そして神の国のために働くことができる。召されて聖なるものとなったということは、聖人になった、完全無欠な人になった、というのではなく、神のために使われるものとして「この世的なものから別け」られたということ。神の国のためにとっておかれたということ。
イエス・キリストは聖霊として、わたしたちの身近にいてくださる。峻厳な神様も、イエス・キリストによってお父様と呼べるような身近な存在になってくっださった。主から来る平和は、かけひきや妥協で成り立っているこの世の平和と違って、決して壊れることがない。イエス様にたえず心を向けていけば、誰ともぴったり合うイエス様である。合わないのは罪を告白してないからだ。神から与えられるのはゆるぎない平和。また神の与える「恵み」とは、本来与えられる値打ちのない者が、不思議とよいものに出会わせていただいた、また不思議と助けていただいた、病気なのに力を与えられた…そのようなよきもの(カリス)を与えられる。わたしたちもパウロのように、恵みを受けて遣わされた者である。

◯八月十一日(水) 水曜集会 ヨハネの黙示録 三章1418
アーメンである方、これは「真実(誠実)な方」と同じ。人間はそうあり得ないが、イエス様は徹底的に真実だ。イエス様を知ると、人間の究極的な姿を知る。
イエス様は万物の源(ヨハネ福音書1章1)である。単に罪を贖われた方というだけでない。永遠の昔から神と共におられ、神と同質の方であった。聖書をきちんと読まないとキリストがどんなお方であるかという内容が狭くなる。ヘブライ書には「み子によって世界を創造された(一章2節)」とある。自然は人間によって歪められていない。自然を見るとキリストのことが思い起こされる。だが人間には、神様の思いと別のものが入り込んでいる。
「なまぬるい」のは、自分は何かを持っているという気持があるから。聖書は世間一般のように、自信を持てとは言わない。自分の能力、経験など、持っていると思えば、かえってそこが間違いの元となる。
ここで言う「惨め」とは、普通の人が言うような、貧しさ、認めて貰えない、さげすみを受ける…などのみじめさとはちがう。パウロは「わたしは何と惨めな人間なのでしょう(ローマ7章24)」、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と言っている。正しい道があるのにどうしてもできない、このことが一番惨めだと言っている。この根本的なことを知れば、キリストしか救いがないことがわかる。
「火で精錬された金をわたしから買うがよい」とある。製錬された金は混ざりものがない。純粋な金そのものはまったく変化しない。その金のように徹底的に清められたものを持っているのはキリストだけ。それを貰えば、根本的な惨めさから解放される。それはキリストによる罪の贖いであり、いのちの水であり、聖霊である。
キリストは宝石、服、薬、それらの最高のものを持っておられる。キリストに求めなさい。人間に求めたら醜い争いが起る。だが神様の前に惨めな者だということを知らなければ求めない。そしてなまぬるい者となる。
 
◯八月十五日(日)主日礼拝 ローマ1章8~15 参加35
手紙にはパウロの個人的なことを書いてある。にもかかわらずそれがなぜ神の言葉となっているのだろうか。わたしたちの言葉も、心から出る。神の言葉も神のご意志から出る。イエス・キリストがパウロに働きかけて語らせている。目には見えないが、背後で生きて働く復活のキリストが語らせ、祈らせ、ローマに行くことを願わせ、動かしている。
旧約の詩編でも、人間の悲しみ、苦しみ、うめき、叫びのようなものが神の言葉として収められている。それは、そこを通って導かれていくということ。背後でそれをなさっている神様のご意志によって苦しみを超えていく、そういった神のご意志があるとうことである。
背後に、神と同質であるキリストが復活していなければ、パウロはこのように生き生きした心をもって世界に発信したり、出かけたりはできなかった。生きて働くキリストがパウロを動かしていた。
ローマの人たちの信仰は生きて、あふれるように周囲に流れ出していた。溢れていなければ他に伝わっていかない。御子の福音とはキリストの福音。福音とは喜びの知らせ(グッド ニュース)。この世は悪い知らせでいっぱいだ。聖書の世界に行かねば本当の喜びの知らせはない。一時的な喜びはあってもすぐに消える。グッド ニュースは目新しいことを言って喜ばせるのではない。本質は同じだ。しかし、それはずっと喜びの知らせであり続け、二千年間終ることがない。
パウロの祈りは時たま祈るのではない。遥かに遠いところにいる人のことを日夜祈る。それはキリストに促されていたからである。非常に高いレベルのことが書かれている。ローマに行きたいというパウロの願いはとても強い願いであったが、それには大きな妨げがあった(ローマ1522)。しかその妨げがあったからこそ、世界の歴史に絶大な影響を与えたこのローマ書はうまれた。本人の意図を超えたところに神のご意志が働いている。
直接会うということ。よきものを提供したいと昼も夜も願う(1テサロニケ3章10)ことはキリストに促されなければできない。直接顔を合わせて会うことは、新なことが起り、予想しないよきことが起り、互いに力づけられる。何か一歩踏み出すことが大切。 (まとめと入力 K.K & E.I & E.Y
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○七月二十日に徳島を出発して、八月九日に帰着するまで、北海道の瀬棚聖書集会や札幌、苫小牧などの集会、そして東北や関東、中部などの各地でのみ言葉の集会、礼拝を与えられ、多くの方々の祈りと支えにより無事帰着できたことを深く感謝です。 主が各地のキリスト者の集会に、そのみ言葉と聖霊をさらに注いで下さいますようにと祈ります。

○この集会だよりには、徳島聖書キリスト集会でなされている集会の全部が記されているのではなく、担当者がまとめられなかったとか、まとめる担当のない集会もありますので、それらの集会についてはまとめが掲載されていません。


集会だより 2010.06.10 NO.360


霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
たゆまず、善を行いましょう。
飽きずに励んでいれば、時がきて、実を刈り取ることになります。
(ガラテヤ書六の8~9より)


◯五月十日 北島集会 列王記二二 章1~36
神の言葉を本当に受けてないのに受けたと言って、人々を惑わす者がいた。古代から現在まで、そういう者が居る。ここでは歴史の中で起こったことが書かれている。イスラエルの王アハブは、ユダの王ヨシャファトを誘って領土をとりもどそうとした。ユダの王は、友好的ではあったが人間的な感情で直ぐ戦う話にのらず、先ず主の言葉を求めるように言った。
イスラエルの王は四百人もの預言者を集め、戦争を始めるかどうかを問うた。すると四百人全員が、祈りもせず戦争することをすすめた。人間の権力者におもねる。そういう宗教家がいつの時代にも出てくる。が、ここに一人だけ、ミカヤという別の預言者がいた。
ミカヤは意外なことを言った。「彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に帰らせよ」、本来の魂の帰るべき故郷に帰らせよ、と。福音書で、群衆は「飼い主のない羊(マタイ936)」だとイエス様が言っておられる。わたしたちも飼い主が居られることを知らないまま散り散りになっている。霊的な本当の家がわからないことが、あらゆる不幸や紛争の根元になっている。ミカヤは戦争に行くか否かではなく霊的に神の言葉を聞き取った。だがアハブは神の言葉を受け入れず、自分だけ助かりたいため、王でないように変装して戦いに行った。神から見放されたらこのような考えをするようになる。だが、不思議なことに変装していたにもかかわらず、一人の兵士が何気なく射た矢に射貫かれ、アハブは命を落した。
ニセ預言者が溢れるようにいて王の機嫌とりをする。この霊的に混乱した中、命がけでたった一人神様の言葉を堅く守ったミカヤ。三千年前の神の言葉は今のわたしたちにも通用する。神のご計画を人間が曲げることはできない。人に隠れてしたよくないことは、ふとしたことで現われる。不思議な裁きがある。神がそうなさる。
・植物、カラスムギ、イヌムギ、ギシギシ、スイバ、ヤブニッケイ、ネズミムギなど。

○五月十二日(水)水曜集会 詩篇1471220
主はあなたの城門のかんぬきを堅固にする、とある。城とは建物でなく城壁のこと。目に見えない城壁のようなもので、悪いものが入って来ないようにしてくださる。霊的な神様の城壁をめぐらせてくださっている。わたしたちを守ってくださっている主。だから主を讚美しよう。
「み言葉が速やかに走る(Ⅱテサロニケ3章1)」、「氷塊をパン屑のように投げられる」など自然の様々な働きもみ言葉が支配している、み言葉のいきいきした表情。そのみ言葉を、絶えず人間にも投げかけられている。人間を通して、また書物を通して。神様は自由自在に、わたしたちにみ言葉を送り続けている。聖書の世界は天地宇宙も人間も歴史も、全て含んでいる。非常に広い範囲を見ている。天地宇宙をこのように生き生きと受取れれば、わたしたちの生活も生き生きとしてくる。
イスラエルの人たちは、み言葉をたえず与えられた。クリスチャンはその霊的な子孫。たえず永遠の真理のみ言葉を与えてくださる。「掟とか裁き」もみ言葉のこと。励まし慰めもその中にある。植物や花、美しく清いのがみ言葉の本質だ。
み言葉を知らされた者は幸いだ。世の現実がいかに暗くとも、この素晴らしいことが示されれば、ハレルヤと言わずにはおれない。それが神様の力。だが自然の世界とは異り、人間の世界ではみ言葉が走るように祈らなければならない。悪の霊が妨げるからだ。祈りはそれを打ち砕いて走る。祈りは、主の言葉が走るように祈る。
・内村鑑三所感集から。クリスト者の道はたえず前進すること。より清いところへ、上へ上へ。安全な道に信仰はいらない。 (謙遜と祈祷)

○五月十八日 火曜日 夕拝 イザヤ書十七,十八章
 人間の心の問題が書いてあるはずの聖書に、昔の国々に関することがたくさん記されているのはなぜなのか。外国のこと、その滅びのことなどは、一見して個々の人の心の問題とは無関係ではないのかと思われるのに。
だが、無関係ではないからこそ聖書に書かれている。私たち(自分)の心のことだけを思っていたらいいのだという、狭いものではない。イザヤ(をはじめ、預言者)は、個人の心の問題が、世界のさまざまなことと繋がっていることを深く見抜いていたからこそ書き記した。
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~6ではアラム(現在のシリア)はかつて大きかったイスラエルの栄光が消えて行ったように、消えてしまう。しかしイスラエルは完全に消えるのではなく、必ず残される者がある。これはイザヤ書で一貫していわれていることである。
7節 「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。」これがすべての人のあるべき最終の姿である。人はこうなるようにとの神様の愛を受けて生まれてきたのだ。
人間を見たり、お金や地位を見るのではなくまた自分の罪ばかり見るのではなく、造り主を見る日が来る。歴史の中で起こるこの事が個人において起こるなら、それは人間にとって一番大事なことが起こったと言うことである。
新約の時代に生きる私たちにとって「造り主」を仰ぐと言うことは「十字架」を仰ぐと言うことに集約されている。このなかに、神の愛、正義、そして罪をも赦す神の力が凝縮されている。
 十八章から二十章まではエジプトに対する預言が書かれている。当時の時代背景(エジプトにエチオピア王朝が樹立され、間もなくエジプトの陰謀でペリシテ、ユダ、モアブ、エドムの諸国がアッシリアに対して反乱を起こした。アッシリアのサルゴンがペリシテの都市アシドドを首謀者とみなして強硬手段をとったので、アシドドは崩壊した。この時、ユダは攻撃されなかったようである。)
 3節 当時の世界をいいながら、世界の終末のことも暗示している。終わりはいつ来るのかわからないから心の目を覚ましていないと。4節 ~神様の熱心と沈黙を詩的に表している。神様のまなざしをイザヤはこのように感じたのである。必要とあらば、余分なものを落としていかれる。悪をなさば罰せられると。
7 さまざまな民族が国々からシオンの山の神さまにささげ物を持って来る。歴史の流れの最終的なすがたを見ていた。こういったことは、経験や学問ではわからない。神様からの啓示によってのみ分ることである。私たちも現実のなかで右往左往する時に、神様の揺るがないご計画を学びとることが大切である。

○五月二十一日 (金)天宝堂集会(マルコ二・1822
 断食とは、ユダヤ人にとっては食事を断ってまでして、祈りに専念するという信仰的に重要なことだった。宗教的にいろいろ意義があるにも関わらず、主イエスも弟子達も断食をしていなかった。パリサイ派の人たちは主イエスたちが断食をしない理由がわからなかった。それで、なぜ断食をしないのかと質問したのだった。
 しかし、このとき、断食が、宗教的儀式として形式的になされているようになっていた。そのことをも見抜かれていた主イエスは意表を突いた答えで真理を示された。
 主イエスは婚礼の宴のことを話し出された。婚宴に花婿がいる場所では断食はしない、と言われた。料理が並ぶ婚宴で食事をするのは当たり前のことである。これは、どういう意味なのか。主イエスを信じる者は、イエス・キリストと霊的に魂がひとつになる。それが結婚にたとえられる。花婿はキリスト、花嫁は信じる者である。その花婿であるキリストが共にいるとき、それは喜びと力の象徴であるから、そんなときには、断食をする必要はない。しかし、花婿であるキリストが十字架につけられてからは、信じるものたちは断食をするようになる。しかしそれは、押しつけられて断食をするのではない。しきたりだからするのでもない。食事を断ってまでして、主イエスに何かを捧げていこうと、自発的にするのである。形式的にではなく主イエスに心から何かを捧げたいと願う心。そのようになることが示されている。 旧約聖書の中では、さまざまな宗教的な戒めを守れば祝福があり、守らないなら、滅びるといわれ、強制的にさせられていたけれど、キリスト者は自発的に捧げるようになる。「真理はあなたがたを自由にする。」と主イエスも言われた。
 古い革袋は、儀式を守らなければ救われないという古いユダヤ教をさす。新しいぶどう酒とはキリストである。ユダヤ人はキリストが新しいということがわからなかった。つまり、キリストこそが新しいぶどう酒なのである。キリストを受けるためには、受ける人が新しくされなければ、はいってこない。
「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・3)
ということに通じる。自然のままの人間は、キリストはわからない。新しい革袋にならなければわからない。そしてそれは「風は思いのままに吹く」とあるように聖霊の力によってなされるのである。
・天宝堂集会にスカイプで途中まで勝浦さん、後半では中川陽子さんも参加されともに讃美をしました。

○五月二十三日(日)主日礼拝 ヘブル十二・2529 参加32
 神様からのメッセージを語り続けている方を拒むことがないように、とある。この記者は神様からの語りかけをいつも聞いていたのである。神様は語りかけられる。神様や主イエスと生きた関係があれば、いつも語りかけを聞こうとする。
 聖書は神からの語りかけを全面的に書き取ったものである。人間には罪があり弱さがあり、神様を知っていても語りかけを拒んでしまうことがある。最初の人間であるアダムとイブも、神様からすべての良きことを与えられていたのに、神からの言葉を拒み、神に背いてしまえと言う別の声を聞いてしまった。そのような誘惑の声は今も人を惑わし続けている。しかし、どのような時であっても神様からの語りかけはいつもなされている。聞こえないと思うときは、わたしたちが聞こうとしていないだけである。神様や信仰がわからない人でも、「良心」という声で神様からの語りかけは刻まれているのである。
 詩編は神からの語りかけを聞こうとする一番真剣な書である。人間は安楽な状態では神を求めない。困難な状態であったらいっそう真剣に神に聞こうとする。主イエスが十字架の一番苦しいところで叫んだ叫びも、詩編の中に記されていた言葉であった。詩編には苦しみの中から神に叫び、神に聞き、そこから神の声を聞き取って、新しい出発をしたことも書かれている。神からの語りかけは、苦しいときこそ、はっきり聞き取れるのである。そして、苦しみの叫びは、神によって感謝と喜びの祈りに変えられていく。
 神からの語りかけは自然からもなされている。星も植物も神の愛を語りかけている。そしてまた、わたしたちが出会う人や起こる事柄も神からの語りかけである。何らかの意味があって起こる事柄を神からの語りかけとして素直に聞いていくか、拒んでしまうか。そこで道は分かれてしまう。
この神からの語りかけを拒び続けていたら、揺さぶられて振り落とされてしまうのである。どんなことがあっても、振り落とされない、揺れ動かない世界をわたしたちは与えられている。人間を見ていたら動かされてしまう。しかし、主を仰ぎ望むとき、揺り動かされない力が与えられるのである。
 
○五月二十三日 つゆ草集会 マルコ十三・113
 この神殿は最初にはソロモンが建てた。祈りの場所として、また罪の赦しが与えられる場として用いられるためにソロモン王は神に神殿を捧げた。
 しかし、時代と共に、神殿は形式的儀式的な場となり、祈りの場としての働きがなくなってきていた。その建物自体が、跡形もなく消えることを主イエスは予言した。神に仕えるといいながら、祈りもなく権力がはびこっている、そういう状態は時が来れば必ず壊されるということも示している。どんなに見た目がよくても、内面がないものは時がたてば消えていく。しかし、弟子たちも初めはわからなかった。主イエスだけが先を見通していたのである。その四十年後、この神殿はローマ軍によって実際に壊された。 
 わたしたちも外側がどんなに立派そうに見えても、内なる真理を持っていなければ、消えていく。しかし、消えていかないものがある。時の流れの中で、はかなく消えていく表面的なことでわたしたちは一喜一憂してはいけない。主イエスは、「今笑っている人は泣くようになる。」(ルカ六・21)と言われた。人間的な満足は必ず消えて行く。しかし変わることのない神の国を見つめて行くとき、状況に左右されない心が与えられる。
 
 ここでは、どうして、そのようなことを主イエスが言ったのか、理由を知るために弟子たちは主イエスに聞きに言った。そのとき言われたのが終末の徴であった。宗教的な混乱、戦争や地震。そしてキリスト者が迫害を受けることを言われた。そこで、捕らえられたとき何を話すか。話すべき事は与えられるとある。実際に迫害の時、キリスト者はキリストを証していった。キリストを信じます、キリストは神の子です、という単純な証であった。迫害のような混乱が起こるとき、聖霊がどこにいるのかと思わされる。しかし、その迫害のただなかで、キリストを信じると言って死んでいった人たちによってキリストが証しされていった。
 わたしたちも、何が起こるかわからない。しかし、何があっても主イエスに叫んでいく。主イエスをみつめて耐え忍ぶと言うことは希望と結びつく。人間も老齢や死の直前には体も苦しくなる。それで、やっと神の国にはいることができる。 また、どのようにしても、自分の中に罪が残ってしまうが、そのことも、ただ、主イエスに委ねていくとき、最後には救われる。すべてにおいて、最後まで耐え忍ぶものは救われるのである。

○五月二十八日(金)スカイプ夕拝 1930分~2030 (申命記一・1933)インターネットによる夕拝。参加者十名(県外二名)
 神はわたしたちに、良きものを与え、良き道へ導こうとされている。しかし、この民は「主は我々を滅ぼそうとされているのだ」とせっかくの呼びかけを拒んだ。これは、この民だけのことではない。わたしたちも、神からの導きを拒んでしまうことがある。良きものを与えるために、いろいろなことを起こすのに、「滅ぼそうとしているのではないか・・」とかたくなになり神の愛を信じることができなくなることがある。それでも神は「主があなたたちのために戦って下さる」と呼びかけて下さる。どこまでもかたくなな人間に、どこまでも大きな神の愛。主の導きを信じて生きていきたい。
・インターネットのスカイプソフトを使用し、それぞれが自宅のパソコンで音声通話にて礼拝の時を持ちました。司会者の指揮で聖書箇所の朗読や祈りも順番に行え、聖書講話も良く聞こえました。家族が近くにいるなどの都合のある人は音声を消して参加し、感話は文字入力で参加することもできました。場所は違っていても同時間に祈りを合わせ、メッセージをきくことで共に恵みを受けることができました。

 ○五月三十日(日)主日礼拝 ヘブル書十三・16 30
「兄弟として愛し合いなさい。」これは原語の意味からは「兄弟愛を、とどまらせよ」となる。この手紙はキリスト者に対する手紙である。神が父である。キリスト者は父なる神から霊的に生まれた。同じ父なので、キリスト者を信じるものは兄弟なのである。この「兄弟愛」という言葉は、旧約聖書にはない。聖書にはアベルとカインがはじめての兄弟として記されているが、ねたみと憎しみがあった。人間的な家族関係だけでは、ここで言われる「兄弟愛」は生まれない。旧約聖書では唯一、ダビデとヨナタンの交わりが、兄弟愛を示す箇所として記されている。「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(サムエル記上十八・1)と、魂の結びつきが書かれている。
 「兄弟として愛し合いなさい。」つまり、「兄弟愛をとどまらせよ。」とあるように、兄弟愛は、意識的にとどまらせる必要がある。これは、「兄弟愛を続けなさい」とも訳されている。とどまらせ、意識的に続けて行かないと消えるのである。主イエスは言われた。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネ十五・4~)まず、先に主イエスにつながっている事が大事なのである。
 主イエスにとどまっていただくためには、意識的に求めて行かなければならない。そのことの大事さは、ルカによる福音書の記事にも見られる。復活の主イエスと出会ったが、イエスとはわからなかった。しかし、何かを感じ、二人は「一緒にお泊まり下さい。そろそろ、夕方になりますし、もう日も傾いていますから」といって無理に主イエスを引き止めた。それで、イエスは共に泊まるために家に入られた。(ルカ二十四・29)。この二人が故意に、無理に引き止めたので主イエスはとどまられ、そこで復活の主イエスであると知らされたのである。わたしたちも、熱心に主イエスを求め、また、兄弟愛をも意識的に求め、とどまらせていかなければならないことが示されている。
 ここに「旅人」とある。これは原語の意味からは「見知らぬ人」という意味である。この時代、近辺の人はだれもが知人である。このような砂漠地帯、「見知らぬ人」とは、遠く旅してきた人のことを指す。水も食べ物もないところで、一人で命がけで来ている。そのような人をもてなすことが、天使をもてなすことになるのである。
「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」(マタイ二十五・34~)という箇所を示している。誰もが顧みない人を思うことが、ここでいる「旅人」つまり「見知らぬ人」を顧みることになる。そのようにしなさいと、言われているのである。


お知らせ

6月から一部の集会の日が変更になります。
・、水曜日午後の水曜集会、それから、土曜日の集会はいずれも、第二と第四だけになります。
月曜日午後の北島集会…私(吉村 孝雄)が直接に北島の戸川宅に行って聖書講話をするのは、第二、第四月曜日です。
第三月曜日は、私がスカイプで聖書講話をします。
また、第一月曜日は、録音による集会です。
第五火曜日の夕拝は従来通りでありません。

6月二十二日の移動夕拝(熊井宅)は、スカイプでの参加者も加えてなされます。
○その他、移動夕拝のほかに、すでに、第二金曜日の天宝堂集会(午後八時~)、月曜日午後一時からの北島集会、第四日曜日の午後一時半からのつゆ草集会などでも、スカイプでの集会を併用していますが、さらに、毎月第一月曜日の小羊集会(午後三時半~)、第二火曜日の海陽集会(午前十時~)、などでもスカイプを併用して、県内外の方々も加わり集会をするという新たな方式を採用しつつあります。スカイプというソフトの問題、地域や加入している回線の速度、パソコンの性能等々、問題が生じることがありますが、スカイプを用いた集会も次第に慣れていきつつあります。希望者は吉村孝雄まで申し出てください。

○集音器のこと
何度か紹介してきたことですが、続いて問い合わせがあるので書いておきます。
老齢化の方々が多くなって、耳の聞こえが悪くてキリスト教の集会に出てもよく聞こえないという方は多くおられます。
そのような方々に、私が安価で老人性の難聴には効果的な集音器をだいぶ以前に見出し、最初は新聞誌上での通信販売のものを、それが出なくなってから、インターネットでたまたま見付けた店にだいぶ在庫があるのを知り、それらを購入したものを希望の方に紹介してきました。(これは以前から通信販売でしか購入できなかったのですが、残念なことに現在では、インターネットでも一般の通信販売でも購入できなくなっています。)
少し前も、ある県内の教会の方が、希望され、それを使ってみるとよく聞こえると連絡がありました。
数十万円もする高価な補聴器を購入してもよく聞こえなくて困っていた方が、この集音器でよく聞こえるといわれる方が多いのです。関心のある方は、吉村まで問い合わせください。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y)七月の各地での集会

・北海道の瀬棚での聖書集会の帰途、各地に立ち寄って、訪問、あるいは、集会の予定があります。(まだ未定のところもあります。)予定されている集会の一部を書いておきます。問い合わせなどは吉村孝雄まで。
主の許しと守りがなければできないことですので、祈って備えています。祈りに覚えていただければ幸いです。

○七月二六日(日)午後三時半~六時ころ。札幌での交流集会に参加できなかった方々を主としての集まり。
○七月二九日(木)山形県鶴岡市での集会。佐藤周治兄宅にて。午後二時~。
○七月三十日(金)山形市での集会 午後七時~九時。
○八月二日(月)午後二時から、千葉県山武郡大網の足立哲郎兄宅での集会。
○八月三日(火)「八王子市子安市民センター」午後一時~四時
○八月五日(木)長野県上伊那郡、那須野兄宅で、午前十時~十二時ころ。


集会だより     2010.05.25   NO.359

勝利を得る者には、私は明けの明星を与える。
(黙示録二の28

○四月五日 (月)小羊集会 マタイ二十二・114
 王が、ごちそうの用意までして結婚式の祝宴に人を招いた。しかし誰も来ない。それで、わざわざ別の家来を使いにだした。なんと呼ばれていた人は、来ないだけではなく、その家来を襲撃した。王は怒り、軍隊を送って攻撃し、町まで焼き払った、とある。日常とあまりにもかけ離れているのでわかりにくい内容である。
 これはイスラエルの民の歴史を示している。神の霊的な祝宴に招かれていたイスラエルの民。しかし、真実の神を無視して、偶像を礼拝し、遣わされた預言者たちの言葉を聞かずに殺した。神に選ばれたイスラエルの民であったが、神の祝福を受けようとはしなかった。 キリストの時代になっても、ユダヤ人はキリストの福音を受け取らなかった。ユダヤ人は神の祝宴を拒んだのであった。それで、ユダヤ人だけを招くという垣根が取り払われ、誰でもが婚宴に招かれるということになっていった。国も身分も地位も、律法も関係がない。信じたら、ただそれだけで、神の祝宴に呼ばれるという、あたらしい時代となった。そこには差別はない。どんな人でも信仰によって神の祝宴に入ることができるのである。それにもかかわらず、ユダヤの人たちの多数は、キリストをメシアとして受けいれず、十字架にかけてしまった。その後、紀元70年に実際にローマ軍の攻撃によってエルサレムは破壊され、人々はユダヤの地から追放されてしまうことになった。
 ここには、イスラエルの大きな歴史の流れが示されている。そして、それは、信仰だけで救われるという、キリストの福音へと続いているのである。婚宴の花婿はキリスト。花嫁は信じる者である。そして、割礼も律法も関係なく、誰でも信じただけで婚宴に入れるようになったので、その祝宴は一杯になった。
 そのたくさんの人の中で、「礼服」を着ていない人がいた。ここで言われている「礼服」とは真実な信仰であり、その信仰によって義とされること、キリストを着せてもらうことである。 これは表面だけ信じているようにふるまっているが、実はまったく背きの心を持っている人、ユダ的なものを持っている人を表しているとみなすことができる。集まっていた人の中で「礼服」を持っていないだけで、放り出された、と厳しいことが記されている。暗闇に放り出される、というのは一番罰せられた状態である。なぜ、このようなことが書かれているのか。「良い実を結ばないものは焼き払われる」と他の箇所で書かれているように、招きと共に神の裁きも確かにあるのである。
 この警告は、招かれて祝宴に入ったもののなかにも、また、信仰を与えられた心の中にも、闇の力が入り込むことがある、という警告である。神は闇の力を決して見逃されない。必ず見破って、外に放り出す。選ばれたユダヤ人が滅んでいったという歴史的なスケールから個人の心の中のことまで、神は全てを見抜いて御支配されている。
 わたしたちはキリストの婚宴に招かれている。だから、滅びに至る闇の力を警戒し、幼子のような心で素直に切に神を求めて行きたい。その中で、苦しみや痛みが与えられたとしても、最終的にわたしたちを待っているのは、清らかな神の永遠の祝宴なのである。


○四月九日 天宝堂集会 エペソ三・1021
 秘められていた神のご計画が知らされたとある。これは研究や議論、知識や学問ではわからない。神による啓示によって初めて知らされる。福音は啓示によって示され与えられる。
 パウロは、キリストを信じる者達を迫害していた。そのような自分に福音が啓示された。何の為か。計り知れない福音の恵みを、ユダヤ人だけでなく異邦人に告げ知らせるためであった。 そのようなすばらしい神の英知は「教会」つまり「信徒の集まり」によって、天使(霊的な存在)にまで知られるようになったと書かれている。福音は異邦人にも広がり、天使達にも知られるようになるほど広がっていく。それが神のご計画である。ここにも集まりの重要性が示されている。信じる人たちの集まりが、全体として神の霊を宿し、福音が伝わっていくのである。キリストに結ばれて集まる者が大きな働きをする。
 一般的な考えでは、信じる者の仲間である誰かが苦しみを受ければそれは集まりの力にとってはマイナスとなる。また、優れた指導者がいなくなれば落胆もする。しかし、パウロは、そのような苦難が、あなた方のためになるのだと言っている。キリストを信じる者にとっての苦難は、イエス・キリストの苦難であり、神の力が弱まるのではない。残された人に力を与えるために神は特定の人に苦難を与えるのである。イエス・キリストの苦難を見て当時の人は落胆した。しかし、そこから罪の赦し、聖霊が与えられるようになった。キリストの苦しみが人を救ったのである。
 神は苦しみによって益を与えようとされるのである。だから、パウロ自身が受けている苦難を見て、落胆しないように、とパウロは信じる者たちに言ったのである。神様はマイナスをプラスに返られる。弱いところにこそ神の力は働くからである。ローマの殉教の歴史も殺された人の血が残された者を強めていくことになった。神のご計画は人にはわからない不思議な方法で広がっていく。 最後にパウロの祈りが記されている。特に愛のための祈りである。人は愛を受けていれば、その愛に応えようとする。神の愛を豊かに受けていれば、神のために、与えられていることを一生懸命しようとする。愛が与えられると内なる人が強められる。キリストの無限の愛を知るようにというパウロの祈り。神の愛がわかれば、神の豊かさがわかるのである。


○四月十一日(日)主日礼拝  31名 ヘブル十一・3240
  モーセの後継者ヨシュアが、エリコに入った。昔の町は城壁で囲まれていた。これを落とさなければ、町にはいることはできない。エリコの町の城壁を崩すために、神は不思議な方法を命じられた。武力ではなく、祈りつつ城壁のまわりを回るというのである。ヨシュアは神を信じた。そしてその通りにした。城壁は崩れた。これは、昔の奇跡ではない。わたしたちが遭遇する、とても壊れないと思うような問題の壁も、繰り返し祈るとき、信仰によって壁は崩れ落ちる。
 娼婦ラハブは、偵察に来たイスラエル人を信仰によって神の人であると信じ守った。それで滅ぼされずに救われた。ほかにも、信仰によって勝利していった人の名前や、信仰によって死んだ息子を生き返せてもらった内容などが羅列されており、信仰による勝利が示されている。
 そして、ここに信仰による迫害を受けた人が「よみがえりに達するため」釈放をこばんで拷問にかけられた、とある。旧約聖書続編のマカバイ記には厳しい迫害の状況が記されている。しかし、そこに、永遠の命へのよみがえりが啓示されている。このような厳しい苦しみの時代に、復活が啓示されたのである。
 エゼキエル三十七章に枯れた骨が復活する記事がある。枯れた骨に神の息が吹きこまれると生き返る。これは民族の復活を示しているが、まったく死んだもの、枯れた者であっても、神の息が吹き込まれると生き返る。マカバイ書、エゼキエル書など、重要な真理は、安楽な中で示されたのではない。復活の真理は、想像を絶するような苦しみの中で啓示されてきた。真理の啓示は、何らかの苦しみを経験して、信仰をもって乗り越えていくときにより深く与えられる。
 旧約聖書の民の信仰は、困難があっても続いてきた。迫害が続いているときも信仰によって抵抗した。だから今に至るまで、信仰は継承されてきたのである。しかし、旧約聖書の時代には、信仰によって神に認められながらも、この「約束されたこと」は、まだ与えられなかった。それは、何か。キリストの福音である。キリストのあがない。キリストの復活。罪の赦しである。迫害を信仰によって戦ってきた民であっても、キリストの福音は与えられてはいなかった。それをみても、キリストの存在がいかに大いなることであるかがわかる。この時代には与えられていなかったキリストが、今は与えられている。究極的な祝福が与えられている。その恵みを決して無にしてはいけない。


○四月一三日(火)夕拝 イザヤ一一章一六~一二章
 その日に何が起こるのか。エジプト、クシュなどの地名が出ているがその当時知られていた全領域に散らされていた残りの者が「その日」には帰ってくると言われている。その残りの者には特別な広い道が備えられ堂々と帰ってくる。この世の道は複雑で狭い。しかし、イザヤに啓示された主の道は、現代でも誰にでもいつでも開かれていて、主の元に帰ることができる。バビロンの捕囚から帰る事と我々が様々な試練から精神的な荒野をさまよっているところから帰る事とが重ね合わせて考えられる。砂漠を帰る事は難しかったが、荒野に道が敷かれた。これが新約になって、主イエスのところへ広い道を備えた洗礼のヨハネの事として出てくる。その広い道を帰ってきたらどうなるのか。一二章では、今までのように裁きの事が出てこない。エッサイの株から一つの芽が出てと表現されたメシアが現れたその時には、みんなが帰ってきて、みんなが感謝をする新しい日が来る。神様と結びついた新しい日は「ありがとうございます」といつも感謝する。神は救いの神、主こそ我が力。神は我が歌だ。その日と言われている日の大きな特徴は、大声で叫ぶほど、喜びが溢れる。あなたたちは喜びの内に救いの泉から水を汲む。この事はとても重要な表現だ。ヨハネ4の14でも、「わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠のいのちに至る水が湧き出る。」とあり、その水を私達は飲む事ができる。喜びや感謝によって自然に私達はいのちの泉から活きた水を飲む事ができる。


◯四月十四日(水)水曜集会 詩篇147篇1~11
ハレルヤ、神を讚美せよ。讚美は人間に、でなく神様に対してする。また歌うことは共に歌う人と心を結ぶことにもなる。しかし先ずメロディがあったのではない。詩篇は人間の苦しみの叫びや祈り、賛美、であったが、その背後に神がおられ、神の御計画のもとに作者が導かれそこから出された言葉であるゆえに、人間の言葉でありながら、神の言葉として伝えられ三千年続いて来た。
離散したイスラエル人。だが、追いやられた人々も、神様がまた集める。どんなに地の果てで一人で死んだとしても、神様のと結び付きは壊れない。こういうところにも神様への讚美がある。イザヤ111112にも同じことが書かれている。
人間の世界、また自然の世界、たえず神様の愛のみ手が働いている。神様が喜ばれるのは武力など表面的な強さを求めているのではなく、主の愛を待ち望む人である。この世が求めるものでない。神様が求めるのは主を畏れる人である。神様を畏れ敬うことは、誰でもが本来できるようになっている。
・内村鑑三所感集から。わたしたちは色んなものを与られている。感謝のない祈りには、神様は耳を傾けられない。持っているものまで奪われる。(感謝と祈祷)
・集会後、四月号の「いのちの水」の発送準備。九名で集会だよりを折り、一部袋詰めをしました。


○四月二十日、五月四日 火曜日 夕拝 イザヤ十三、十四章
イザヤの活動期はBC七四二年からBC七〇一年のころとされている。当時この辺りの情勢はアッシリアが広大な領域を支配していた。イスラエル(北王国)はアッシリアによってBC七二〇年に滅ぼされていた。イザヤが預言をした時代には、バビロンは台頭の萌芽はあったであろうが、ここに書いてあるような大国ではなかった。しかし神と深く結ばれていたイザヤはバビロンが目の前に見るように罰せられ、滅んで行く
のを啓示されたのである。
 ここに出てくるバビロンは単に強大な国というだけではなく、この世の力、神に逆らうものの象徴として書かれている。こうした力は大国を起こしたり、征服したりと歴史を動かすように見える力をもっており、一見すると悪の力が強いように見える。そこには神の正義や真実、秩序がないように見える。それは今も二七〇〇年前も同じである。しかし、いかに強大に見えようとも、バビロン的なものは必ず滅ぼされるのだと言う、現在の私たちにも通じる大きなメッセージとなっている。
神の愛と悪を罰するということは結びついている。悪があるから弱い者が苦しむ。神の愛はいかなるものにも勝って強いのであり、そのような本当の愛があるゆえに、大国の力や悪、不正が横行しているように見えるが、時がくれば神は力を全部奮って、現状を全く変えるような力をもって、11節にあるようになされるのだ。
 しかし宇宙的なスケールの大きな事を言いながら、実は個人的な霊的世界のことにつながっているのである。バビロン的なものを罰せられるといいながら、また一人ひとりの自分中心的な考え、傲慢、高ぶりをも罰すると言われているのである。


○四月二一日(水)水曜集会 ヨハネ黙示録二章1829
ティアティラにある教会。外側からの激しい迫害があった。しかし内側にも、誘惑して別の所に連れていこうとするサタンの働きがあった。この二種類は、いつの時代にもあった。
全体としてはよりよくなっている集まりの中に、よくない異質のものが入り込み、真実なものを壊そうとする力があった。だが教会の人はそういう悪い力を排除していない、大目に見ている、間違ったものがそのまま置かれている、と指摘されている。
本当のクリスチャンは、人をみ言葉に結び付ける働きをするが、イゼベルという女は神から出ていない者で、人を神から引き離す力を持っていた。霊的な間違った力は女の人も強力なものがある。今の日本には外側からの迫害はないが、このイゼベル的誘惑は今も変らなくある。立場が上で、教えている。警告をしても従わない。その悪い影響がだんだんと出てきているから、主イエスが直接このイゼベル的宗教と、その女の子供(女に誘惑された人たち)を罰するとある。人間にはできなくても、神はそれを見過ごしたりはしない。
だがその集会の中にあって、この女の間違った教えを受け入れず、サタンに汚されていない人たちがいた。そういう人たちは祝福される、と言っている。今持っているものを堅く守りなさい。そうすればイエス・キリストが持つ輝かしい大きな権威を与える。諸国の上に立つ力を。真理を持ち続け、勝利を得る者は、権威と明けの明星(キリスト)を、霊的な悪い誘惑に打ち勝つ者はイエス・キリストの持つ輝かしい力を、一番大きなものを与えると。この人間世界とけた違いの大きなものが与えられると。


○四月二十五日(日)主日礼拝ヘブル書十二・413  36
 罪と戦って血を流したことがない、とあるが、罪と戦うとはどういうことか。そもそも罪とは何か。罪とは神の御心に背くことすべてである。神の真実、清さ、愛に反対することが罪である。人間は弱い。悪の心に勝つこと、真実を語ること、それが難しいことがある。罪との戦いはどこにでもある。心が波立ち腹が立ち、憎しみの心がわいてくるとき、それは罪との戦いの敗北となる。人間は弱いので罪に勝つ力はない。努力してもできない。しかし、主イエスはその全敗を、十字架のあがないによって全勝にして下さる。主イエスはすでに世に勝っている、と言ってくださる。わたしたちは罪の中で十字架を見上げ、信仰と希望と愛をもつ。ここに勝利がある。神に願いもせず、祈りもせず、相手がいなくなればいいのに、と思ってしまうとき、そこには敗北しかない。全能の神はいつか、相手の心を変えてくださるし、自分も強めてくださる。たとえ、いまの状況はなかなか変わらなくても、時が来れば、必ず主イエスは最善をなしてださるのである。
 どこまでも弱い人間は、信仰をどれほど続けていても、負けてしまうことがあるし罪を犯してしまうことがある。罪との戦いは、地上で生きている限り終わることがない。
 「主の鍛錬を軽んじてはいけない」とある。すべて与えられる苦しみは神による教育なのである。苦しいとき他者を責めたくなることがある。しかし、神は言われる「お前は悪くないのか。」と。苦しいことは、自分の奥深くに宿っている罪を知らしめる。苦しみが与えられるとき、それは神からの愛による教育だと受け取れば、罪との戦いに勝利できる。しかし、誰かのせいにしたり、相手が悪いとおもうとき、それは罪との戦いに負けることになる。
 神はなぜ人を鍛えられるのか。それは、神の一番良いものを持たせようとしてくださるため、神の神聖に預からせてくださるためである。そして、それによってわたしたちを義としてくださる。本来は正しくない者なのに、神の前に正しい者としてくださるのである。
 この世の悲しみは死にいたらせる。しかし、御心にかなった苦しみは救いにいたらせる。今も、大きな苦しみにあっている人たちのことを思う。どうか主イエスの十字架を知り、その苦しみが救いにつながっていきますように。そしてわたしたちの出会う苦しみも、そのことによって神に教えられ、勝利していくことができますようにと願う。


○五月三日 (月)小羊集会 マタイ二十二・1522
 「神のものを神に返す。」とはどういうことか。神のものとは何なのか。神が全世界や宇宙全てを創造された。すべてのものは神のものである。わたしたちの命も神のものであり、良きことをして生きて行くようにと神に委ねられ与えられたものなのである。わたしたちの命は人を苦しめるためにあるのではない。神に返すとは、与えられたものを神のために用いていくことなのである。健康も、時間も、仕事も神から与えられたものである。目には見えないお方が背後から支えて下さっている。よいものはすべて神から来る。何を見ても聞いても、何が起こってもだから、感謝の心を神様に捧げていく。それが神のものを神に返すこととなる。
 目にみえるお金である税金をローマに取られたとしても、神から与えられたよきことには何の損害もない。信仰、希望、愛は誰にも奪うことはできないのである。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」(マタイ六・1920
 神のものを神に返すとは、この精神と同じなのである。天に宝を積むと言うことが神に返していくこととなる。
また、「 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ五・39)という言葉にもつながっていく。人に打たれたとき、仕返しをするのではなく、神に返す。やり返すのではなく神に委ねて祈っていく。それが神に返すと言うことである。そのとき、神はわたしたちに目には見えない宝を与えて下さる。その究極の姿を主イエスは示された。ご自分の命を捧げ、神のものを神に返されたのであった。そこに永遠につながる祝福を神は与えられた。
 パリサイ派の人が主イエスを陥れ、罵倒しようとしていた、そのような闇のただ中で、主イエスはこの短い言葉で、まわりの人を静め、永遠の真理を指し示したのである。


○四月二五日(日)つゆくさ集会 マルコ十二章3544
単なる血筋を受けてのダビデの子(子孫)ならイエスは人間だ。しかしもう一つの側面、それは神の右に座するような方である。詩篇でもそれが預言され、またここで、単なる人間ではあり得ない、とイエスご自身が言っている。イエスと神は一つ。イエスの神性という重要な問題がここに出ている。
律法学者に注意せよ、とある。学者と呼ばれるほど聖書に精通していても、心の内側は自分がよく評価されたいとか、人から認められたいとか頭をさげてもらうことを心の奥では喜んでいる。祈る場合も見せかけの祈りをする、などいくら聖書の研究しても人間の内の内は変らない。本当の意味での信仰は当時でも少かったことがうかがわれる。
しかし、それを変えるのが聖なる霊だ。わたしたちの学びも、聖なる霊を受けるためにする。知識を蓄えて自慢するためではない。挨拶されたり上席に座ることではない。そういうことは、いくら知識があっても悪との戦いに負けてしまっていることである。また一方で、 誰も気にもとめないような貧しいやもめの精一杯の献金を、イエス様はじっと見抜いておられた。神様は、人間には見えないこころの内をちゃんと見ておられる。そのイエス様のおこころは、厳しさと繊細さの両方持たれている。そして感情的でなく理性的。神と同じお方だからこそできる。


○四月二七日(火)移動夕拝 中川宅 ヨハネ一六章1624参加 一五名
 主イエスが最後の夕食の時話された内容。もうしばらくしたら、イエスが殺されていなくなるので弟子達に非常な悲しみがあった。しかし聖霊がある。わたし(イエス)は殺されるがそれが一番大きな喜びに変わる。主イエスは変革の力がある。聖霊として甦って悲しみが喜びに変わる。主イエスによって私達もどんな悲しみも喜びに変える事ができる。主イエスと結びついていたら回復できない悲しみはない。十字架の事も喜びに変わる。一番深い喜びで心から喜ぶことになる。この喜びは主イエスの持っている喜びなので誰も奪い去る事はできない。ヨハネ一七の13に「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれる。」と書かれてあり、この世の喜びと主イエスの喜びは違う。ヨハネ一章に、主イエスは恵みと真理に満ちていたと書かれてあり、主イエスの持っている豊かさは海のような大きなもの。汲めども尽きない豊かさの中から主の平安や喜びが与えられる。私達が大きな悲しみやショックを受ける事があっても主イエスは喜びへと変革してくださる。


○五月九日(日)主日礼拝 ヘブル書十二・1424  37 
 わたしたちは何に近づいているか。すばらしい神の都に近づいている。しかし、気をつけていなければ、途中で脱落していく。これは警告である。人間は弱い。しかし、たえず、この世とは分かたれた生活をすることが大事である。安息日をまもり、集まること。そしてまた、毎日の生活の中で、この世に流されてしまわないこと。自分は神に選ばれ分かたれていると言うことを、意識していくということが大事である。キリスト者といっても、苦き根がでてしまうことがある。主イエスの木に接ぎ木されたのに、苦い根が出て、芽を出してしまう。そういうことが、まわりも汚す。人間は弱いので、油断をすると、せっかくの恵みから降りてしまう人がいる。この箇所はそれを警告しているのである。
 はじめからヘブル書は目を覚ましていましょう、注意をしましょうといっている。「今日という日のなかで、日々励まし合いなさい。」とある。集まりあい、祈り合うことで励まし合えるのである。
・ヘブル書は随所に警告が書かれており、神からの警告の書と言われている。神から離れると、黒雲が覆ってくる。本当の目的地をしらなければ、闇がづいてくる。神から離れるほどに暗雲は迫る。だから決して離れないように。わたしたちが近づいたのは、シオンの山、天の国。そこは天使たちが喜びにみちあふれて集まっているところである。そして、わたしたちも最終的には御使いのようになると主イエスは言われた。完全に清められ、完全な自由を与えられている存在となるのである。キリスト者はすべて、天に登録されている。財産をうけつぐものである。その神はわたしたちからあらゆる悪いものを取り去ってくださる。そこに悪は入り込むことはできない。
 ここに「血」のことが記されている。これは、主イエスがわたしたちのために死んでくださった、ということを血であらわしているのである。主イエスが十字架で血を流してくださったから、人間の魂の根本問題は解決された。主イエスの十字架の血がわたしたちへの無限の愛を示してくださったのである。
 そのような恵みから、信じる人たちがどうか、離れないように、みんなが一緒に輝く国に行くことができますようにと言う祈りが流れている。


 ○五月十七日(月) 北島集会 詩編二十三編
 「主はわたしの羊飼い。わたしにかけることがない。」とすべて一人称である。人は欠けたところを埋め合わせてもらおうとして、友だちを求めている。満たされていなければ、人間によって満たされようとするのである。人間に求めるから、ちょっとした一言で、傷つき、壊れる。しかし、主を仰いでいると「欠けることがない」と言えるようになる。
 羊飼いであって欠けることがないと言うことを具体的に表現するとき、緑の青草に導かれるということである。食べ物と水を与えてくださる。これが羊飼いである。
 忙しい仕事の中でも、主を仰ぎ見る。少しの時間であっても主を仰ぐ。ひどいことを言われた。そのときに意図的に主イエスを仰ぎ見る。そのとき主イエスに触れることができる。主イエスのやすらぎにふれたら、魂の水、いのちの水を与えてくださる。これがないとどうしても人は人を裁いてしまうようになる。 主イエスはわたしたちが死んでいたようなところから助け出してくださった。だから今度も必ず助け出してくださる。神はわたしたちに鞭と杖を与えられる。わたしたちが間違った道から直すために神は鞭を与えられるのである。
苦しいときこそ、主を仰いでいくことを主イエスは喜ばれる。
 この北島集会には、前日四国集会に参加されていた、朝山(埼玉)坂本(岡山)三好(愛媛)の方々が参加され、祝福された集会となりました。 


お知らせ

○阪神エクレシアでの集会…613日(日)は、吉村(孝)は、神戸市の阪神エクレシアにて聖書講話の予定。今月だけ、午前9時から11時までの時間となっています。また、午後の高槻市の那須宅での集会も、今月だけ、午後1時からの開会となっていますのでご注意ください。 その後、川西市の霊園にて行われる、上田ヤエ子姉(今年二月16日に召されました)の納骨式に行く予定です。
6
14日(月)は午前10時から京都市山科の櫛田宅での家庭集会に参加予定です。そのため、この日の藍住集会は休会です。

○今年の北海道の瀬棚での聖書集会について担当の野中 信成さんから連絡がありました。開催日…七月22日(木)午後8時~25日(日)。主題は「主に依り頼む者になりたい」
 会費 一般 15.000円 学生1万円。講師 吉村 孝雄、相良 展子(北海道利別教会牧師)
場所…北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館
                電話 0137872072 

○札幌での交流会…このことについて、札幌市の大塚 寿雄兄から連絡がありました。瀬棚聖書集会の翌日の26日(月)の午前9時30分~午後1時30分まで、札幌市の北二条クラブにおいて、例年のように、北海道の信徒の方々との交流会。

○近畿無教会集会…8月7日(土)午後1時~8日(日)12時まで。例年のように、京都市西京区の桂坂にある、ふれあい会館での開催。

○祈の友・四国グループ集会 …923日。今年は初めて香川県の坂出市大浜教会での開催。上野清次郎牧師がお世話してくださいます。

○無教会全国集会2010…今年の全国集会は大阪での開催。9月25日13時30分~26日(日)16時まで。会場は、サニーストンホテル(吹田市広芝町103)。

○第二回 青年全国集会 日時 11月20日(土)~21日(日)場所 東京 テーマ 「聖霊の働き」(小舘 美彦兄からの連絡による)


集会だより 2010.04 NO.358


主よ、御名を知る人は、あなたに依頼む。
あなたを尋ね求める人は、見捨てられることがない。(詩篇第九篇より)
○三月一日 (月) 小羊集会 マタイ福音書二十一・3346
 この箇所に記されているぶどう園の主人の忍耐は普通では考えられない。これは、何を指しているか。神は人間に、さまざまの良きことを与えてくださっている。しかし、人間は受け取ろうとしないで背いてくる。神はそれでも、すぐに罰したり滅ぼしたりはなさらない。じっと待っていてくださることを示している。人間は悪いことをされると、すぐに根に持ってしまう。しかし神は繰り返し、救いの御手を伸ばしてくださっている。主イエスはこのようなたとえによって、重なる罪をも罰しないで待ってくださる神様の寛大さ、忍耐を示されたのであった。
 人間は神に従い、神の道をまっすぐに進むことが難しい。すぐに正しい道からそれてしまう。神からそれた道を行くとき、心が不安定になってくる。しかし、神に立ち帰り、神の道を進んでいくと、赦しと主の平安が与えられる。神の忍耐と裁きは現代のわたしたちも経験できることなのである。
 ここで主イエスは、旧約聖書の箇所を示された。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは、主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」この箇所は詩編一一八編の22節である。捨てた石、捨てたような者が親石のような土台になるということを現している。常識では考えられないことである。しかし、これがキリストの預言となっているのである。そしてまた、このように、役に立たないと言って捨てたものが用いられるということは、わたしたちにとって慰めである。この世から見下されても、捨てられても、神は大切にして用いて下さる。幼子のようにすがるだけで、神様は用いてくださるのである。
 「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」
 これは、主イエスを踏みつけ、真実や愛などはないのだ、と考えて罪を犯す者、そのような人は、どんな地位の高い人でも裁かれてしまうということである。神の裁きなどあるはずがない、と神や真実をないがしろにするとき、そこに裁きがある。神の愛や真実に背くことは誰にでもあるけれど、そのたびに立ち帰らなかったら、主の平安はなくなってしまう。主イエスを受け入れる、ということが、すべての解決の道なのである。

○三月四日(木)いのちのさと集会 詩編六四
 「悩み訴える私の声を聞いて下さい」と神に祈っているが、この願いや叫びは誰でも持っている。まず、「聞いて下さい」という訴えから始まる。聞いてくれる人が誰もいなくても神は聞いて下さる。自分の心を分かってくれる人がいなければ耐えられないが、追い詰められても心の声を聞いて下さる方がある事で道が開かれていく。詩人に敵対する者の脅威は大きかった。毒を含む言葉。言葉を矢としてつがえ正しい人を射ようとする。予期しないとき突然言葉の矢が刺さると抜けない。その力を抜き取るものを持っていなければ倒れる。6節に、「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け見抜かれることはないと言います」とあり悪の心理が書かれている。しかし詩人は神を信頼した。8節から神は時が来たら突然悪に矢を射て撃つ事ができるとの確信が書かれている。悪の力を誇って自分たちのはかりごとは巧妙だと思っていても時が来たら神は簡単に根源を砕くので人はみな恐れる。神の大いなる御業に行き着き神を認めるようになるという神の勝利の確信が歌われている。この世の知恵は人に矢をつがえようとするが、そんな一時的な矢より遥かに強力な矢を神は持っている。パウロは迫害の矢を持っていたが、神から光の矢を受けて全く方向が変わった。人間がする事はなかなか変わらないが神の力は突然悪をとどめることができる。

○三月七日 主日礼拝  サムエル記上二・8b~26 40
 ハンナの祈りの後半。大地の柱は主のもの、とある。この時代、世界は柱のようなもので支えられていると考えられていた。後になってそのような柱で支えられているのでなく、地球は宇宙に浮かんでいる状態であるということが分かっていった。神によって「大地が支えられている」という考え方は、実は現代で考えても正しいことである。真空状態である宇宙の中で天体が秩序正しく動いている。それを支えているのが神の力である。神が世界を支えておられるからである。 いったい何が世界の土台であるか。何が社会の土台であるか。神が土台であるから、神の法則に従って最善になされているのである。
主こそが土台である、ということは他の箇所でも示されている。
「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(ヘブル一・3)
「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(Ⅰコリント三・11)また、ヨブ記において、ヨブの苦しみへの答えとして神がヨブに語られたのは「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら言ってみよ」(ヨブ三十八・4)と言う言葉であった。世界の土台があるのかないのか、誰が土台なのか。このことを知ることがヨブの出発点だった。
 そして、次に悪への裁きが記されている。主は逆らう者を打ち砕き、地の果てまで裁きを及ぼすとある。嘘をつくこと、人を欺くこと、人を傷つけ殺すこと。そのような神に背き、人を苦しめる者を、神は必ず裁かれる。神の裁きは、神に背く思いを持ったときすでにそこにある。たとえ誰も知らなくても、その人の心には平安はなく、清いよろこびもない。 主イエスも「わたしにつながっていない枝は切られ捨てられて焼かれる」言われた。神に背くと、心の中の大事な部分がなくなってくるのである。それは、神の法則である。
そして神は御旨のままに、選んだ者に力を与えていく。この世を生きて行く力、悪に打ち勝つ力、困難や苦しみに負けない力、すべての力は神から与えられる。努力や研究では力は与えられない。ただ神のみが人に力を与え、用いられる。
 キリスト者になったということは神に選ばれた者である。わたしたちも主の元で、成長していくことができる。そして、死ぬまで成長することができるのである。サムエルの上に起こったことは、今わたしたちにも与えられるのである。
・この日、神戸から鴇田さん、大阪から日阪さんが参加。

○三月八日(月)藍住集会 詩編九四
 この詩は「報復の神として顕現し、誇る者を罰してください」で始まっている。それは、傲慢に語る人が「主は見ていない、神は気づく事はない」と自分たちの不正に対して裁きはないと言い、やもめや寄留の民やみなし子を殺すというひとい事をしていたからだ。その悪の心をそのままにしてよい事はない。そのような悪しき心を裁いて下さいと祈っている。それは愛と結びついている。神は一番弱い人を愛する故にその人達を苦しめる者を裁く。裁きと愛は結びついている。詩人はいつになったら目覚めるのかと悪人に呼びかける。ここで人間の計らいは空しいと言っている。愚かとは、神が弱い人を助けるという事を知らない事を言っている。後半は神を信じる人の幸いが言われている。主に諭され律法を教えて頂く人は幸いである。神が私の助けとなってくださるのでなければ死んだようになっていた。私に対する災いや悪に対して私の代わりに神が立って下さる。神は砦の塔、岩。もう駄目だ、絶望だ、もう歩けないという時主の慈しみが支えて下さった。たくさんの解決できない問題に囲まれた時神の慰めが我が民の喜びとなった。無数の人々がこういう実感を持ったので信仰が受け継がれてきた。自分の罪によってよろめくと言った時も主の慈しみが支えて下さり、私の胸が思い煩いに占められたとき主の慰めが私の魂の楽しみとなったとある。
◯三月八日 北島集会 列王記(上)182040
預言者エリアの祈りに応えて主の火が降った。火は、焼き尽す献げものや石、溝にあった水をもなめ尽くした、とある。神話的表現に見える所だが、私たちへの重要なメッセージが込められている。預言者とは神の言葉を預る人。だが神の力を受取る人でもある。
火とは、神の力のシンボル。 その火をエリアは天から呼び出すことができた。神の力を天から祈りによって受取ることができた。これはわたしたちに非常に身近なことで、神様から火のような、燃える力をいつも受取ることができれば、この世の様々な悪の力に対抗できる。どんな時代でも一番必要なことである。この世の間違った力には、神様の火のような力を貰う。この道がわたしたちには残されている。心の中で悪い火が燃える。そして罪を犯す。この悪い火に巻き込まれないように。神の火が、悪い火を焼き尽す。
新約では使徒行伝二章に、炎のような舌(霊的情熱、福音を語る力)が降ったとある。わたしたちもこの火を貰ったら、絶えず新しいことが示されていく。
イエスさまが権威と不思議な力を持っていた(マタイ七章29)のは、天来の火、天来の情熱を絶えず与えられていたから。キリスト信仰の大きな恵みは、この「力」を与えられること。
・内村鑑三所感集から。永遠のいのちを貰っていると、いつも芽が出る、花が咲く。神様から貰っているいのちは、どんなことがあってもいつも春だ。たえず生み出す。(「不朽のわれら」)

○三月九日(火曜日)夕拝 イザヤ書十章119 参加 九名
 裁きが生じる原因は、昔から今に至るまで同じ。国の指導者にしても個人にしても、弱い者、貧しい者、やもめ、みなし子を苦しめる考えは必ず裁かれる。神が裁かれる事に対しては、逃れる方法がない。イスラエルもこうして裁かれた。この時代、アッシリアという大国は神の道具であった。神が罪ゆえアッシリアを使ってエルサレムを裁いた後で、アッシリアも裁かれた。どんな大きな国も神の裁きから逃れられない。アッシリアを罰する理由は、自分の力と自分の知恵によって戦勝でき世界中の支配を打ち立てたとおごり高ぶったから。神がして下さったからできたのに「自分ができたのだ」と自分の知恵を誇った。目に見える世界にどんな大きな事があっても背後で動かしている神を見る事が大切だ。

◯三月十日(水) 水曜集会 詩篇145
繰り返し使われている「神の御業(みわざ)」という言葉。作者は様々なことの中に神の御手の業を見ているからこそ神は素晴らしいということが自然に出てくる。
また「すべて」という言葉も繰り返し使われている。人間にはできないが、神様はすべての人に愛を注いでいる。人間は、神の愛を受けていないほど差別的になるが、神様は創ったものすべてに恵みや愛という恵みを与えていることを作者は啓示された。神を讚美している、植物や虫が。また命がないと思われるような石や岩のようなものも。創られたものみな意味が与えられている。動物の姿、その動き方も、神様を讚美している。 人間には英知、動物には人間にない驚くべき能力。それを与えるのもすべて神。思いはそこにかえっていく。すると讚美が自然とでき、祈りの心が与えられる。それも神のみ業である。
うずくまって立ち上がれない人を立ち上がらせるのも御業の一つ。み業は神様の愛を表わしている。だがこの詩にも、裁きという言葉がある。真実なものを踏み付ける、嘘をつくなど、主に逆らい続けるものは例外なく滅ぼされる。 いつも感謝し讚美し祈れ、というパウロの言葉はこの詩に書かれている精神と同じだ。

○三月十四日(日)主日礼拝 ヘブル書十一・17  25
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という、よく用いられるみ言葉である。この箇所は「信仰とは」ということばから始まっているが、信仰の定義をすることが目的でなく、信仰がいかにさまざまの祝福をもたらすかとということを言おうとしている。 聖書には創造主であり全能である神の存在は前提として書かれている。これは前の箇所から続いている内容であり、神の御心を行って約束されたものを受けること、そのために必要なことは忍耐である、ということを受けている。「ただ信仰だけが、わたしたちが希望している祝福を保証する」と訳している英語訳もある。確信がもてずにあいまいになっていることを「信仰」が保証してくれる。そしてわたしたちが望んでいることを、聖霊によって確信させてくださる。ここでは、あえて「信仰」を強調させるために聖霊については記されていない。しかし「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを悟り、またこれから起こることをあなた方に告げるからである。」(ヨハネ十六・13) とあるように、すべては聖霊が導き、聖霊が教えてくださるのである。信仰は、頭で理解するだけではなく、言葉で言うだけではない。現実の生活でどうであるのかが大事である。つまり、神に対する真実があるかどうかである。
 表面的に信じていて、礼拝のときだけ神様を思い、あとは忘れているのでは意味がない。神に対する真実さをもっているかどうかが大事なのである。ここで記されているアベル、エノク、ノアの例、それはすべて神に対する真実についての証である。エノクは神と共に歩んだ、とある。いつも神のことを忘れないで、神を思い、神を信じて生きていった。だから、天に移された。ノアも、神様の言葉を信じて人に馬鹿にされたけれど従っていった。神の愛と真実を信じ、導きを確信する。そうさせてくださるのが信仰であり、聖霊の働きである。

○三月一八日(木)いのちのさと集会 詩編六五
 この詩は賛美という事が2回出ている。「沈黙してあなたに向かい賛美を捧げます。」この世の事でいっぱいでは神様に向かえないので静まって黙して後賛美を捧げる。「祈りを聞いて下さる神よ」と書かれていて、それだから、感謝の捧げ物を捧げることができる。また、すべて肉なるものはあなたに来るとすべてが神に向かっている事を見る視野の広さがある。人間は明日の事も予測できない。人間の学問はさまざまの有用なものをもたらすが、自分の明日はどうなるのか、事故にあうのか無事かということすらまったく予測できないし、この国の1年後はどうなるのか、といった未来の予測についても確かなことはだれも言えないほど無力である。しかし、この詩篇もそうであるが、聖書においては、一番大事な事ははるか先のことまで啓示されている。このような予言的色彩をもった詩は日本にはない。神は諸国の民の様々な混乱をしずめ、地の果てまでも網羅している。はるか昔から絶えず聖書を読む人が起こされてきた。また東の果て、西の果てから喜びの歌が響いてくる。霊的な喜びを持って生き抜いた人が出てきた。この詩の視野の広大さは比類ない。詩人は何故賛美を捧げる事ができたのか。大いなる賛美の出発点は、「罪の数々が人を圧倒する。しかし、神は、そこから人を買い戻してくださる。」この実感が根源にある。罪が赦されるという真理はキリストによって完全に成就した。背いている我々を贖いとって下さる。この詩は キリストの贖いの力を預言している。すなわち新約と旧約がつながっている。この詩は奥に深いものが流れている。4節の背いた私達を神が贖って下さるという事が中心にある。汚れたものが清められないまま神の庭に宿る事はできないが、贖われ、恵みの溢れる主の家で満ちたりる事ができる。ここに幸いの根本がある。

◯三月二一日 主日礼拝 ヘブライ11章8~16 参加27
ノアの時代以来、アブラハムまでの長い年月、神がとくに語りかけた人は記されていない。 アブラハムはそうした長い空白の後に呼び出された。ここからは非常に詳しい記述が始まっていき、信仰によって霊的な世界が開けていくことが書かれている。
アブラハムの特徴は、まず神が語りかけ、その言葉に従っていこうとしたことが始まり。行く先もわからないけれどやってみよう、と。そのような場合によっては非常に苦しいことがある。それを自分で背負って行かねばならない。覚悟が要る。だが思いきって進んでいくと不思議な力が与えれられる。 目的地に着いてからもアブラハムは立派な家に住むのではなく、幕屋(大型のテント)に住んだ。なぜならこの地上は借りの宿りであって、さがし求めていたのは「神が設計者である堅固な土台を持つ」本当の故郷であったからである。アブラハムは本当に住むべき処があることを知っていた。信仰者には霊的な(天の)本当の故郷がある。
信仰とは、神を仰ぎつつ、思いきって飛び降りるような所がある。苦しければ信仰をより用いるようになり、信仰もより進む。失うことは勿論あるが、得る方はさらに大きい。信仰とは次々扉が開いてゆくこと。人間的に自分の利得になることは一時的に開いたようでも、後になって閉じてしまう。だが信仰は、一度閉じたように見えても更に深い世界が開かれていく。天の故郷を求める人を神様は喜ばれ、そういう人の住む所を準備されている。本国は天にあり(ヨハネ福音書14章1~3、ピリピ3章20にも)。

◯三月十五日 北島集会 列王記(上)184119章6
神の火が降り、偽の預言者たちが厳しく罰せられた。王妃イゼベルは、エリヤに対して激しい敵意をいだき、一日以内に殺す、と断言した。よきもの、真実なものを受け入れず、むしろ神と結びついているからこそ一層、滅ぼしてしまおうというサタン的な力が形を変えて昔から働いてきた。そのような力がこの世にはある、と言おうとしている。
激しい雨の音がする、とある。神に背くにせ預言者との戦いに勝利した後、雨が降った。恵みの雨。神様につながっていないと枯れる。わたしたちも神様に背いていると枯れる。しかし、神に方向転換すると恵みの雨が降る。エリアは顔を膝の間にうずめ、必死に祈った。この必死の祈り、ときが来たら聞かれる。途中で止めたら聞かれない。主イエスも夜を徹して祈った。
しかし、神から特別な力を受けたエリアも、イゼベルが「殺す」と言うと、直ちに逃げた。国境近くまで逃げて、砂漠のえにしだの下で死ぬつもりで神に祈った。イゼベルに殺されるくらいならあなたが命を取ってください、と。すると死ぬ寸前で、天使が現われ助けが与えられた。天使は叱るのでもなく、ただ静かに「起きて食べよ」と。
人間は、信仰によって強められた人間ですらも、時と状況に於ては祈ることもできないじつに弱い存在となる。過去はどうであれ、今神様に真剣に向いていなければ、またひとえに神の力によって支えられて生きていなければ、ただちに崩れる。このようにエリヤという偉大な預言者の弱さをもそのまま書いている。聖書は、神を崇拝するのであって、いかなる人間崇拝をも許さない書物。

○ 三月十六日 火曜日 夕拝 イザヤ書十章2034
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23…今日の箇所では「残りの者が帰ってくる。」といことが主題になっている。イザヤは第一子に「シェアル・ヤシュブ」と名付けた。 詳しくは7章1~9で学んだ通り、シャーアルは「残る」という意味で、ヤシューブとは、方向転換する(return)と言う意味。いかに外国からの大きな力がユダの国を滅ぼそうとしても、全滅させられることはなく、残りの者が帰ってきて、神様の方に心を向けて行く。
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31…ここではアッスリアが怒涛のように次々に攻めてくる。その様子をはっきりさせるように、都市の名前が一つ一つ書いてある。イスラエルの都市を飲み干す危機的状況にあった。
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34…アッスリアがシオンを滅ぼそうとした、まさにその時万軍の主なる神が斧をもって枝を切り落とされる。(アッスリアを裁かれる)
 最終的には神様が御手をもって悪を裁かれる。だから24節に書いてあるように、「恐れるな」と言われている。
27
節…神様の決められた時が来れば、ユダの人々にとって重荷、軛であったものが砕かれる。
イエスさまはこの所から「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ十一章28)と引用され、多くの苦しみ、悩む人々の心に寄り添い、力と励ましを与えられた。

◯三月十七日(水)水曜集会 ヨハネの黙示録 二章8~11
 神についての表現は色々ある。黙示録1章8節では「アルファーでありオメガである」、ここでは「最初の者にして、最後の者である方」と。迫害の時代、ヨハネはこの言い方にすべてを込めた。最後の方というのは、主は最後まで支えてくださるし、最後の時には悪を滅ぼしすべてを最善にしてくださるということ。これはわたしたちにも当てはまる。死が現実になるときに、このことも現実感となって迫ってくる。
「貧しい者は幸いだ」。苦難や貧しさのなかでも、かえって霊的賜物が与えられるから。受けようとしている苦難を恐れるな。神様が定められた期間だけだ。それをはるかに越えて大きな霊的な恵みをも与えてくださる。神様のことがそれによってはっきりわかる。祈りと感謝が生まれる。主の平安が宿る。迫害の中で主はそういう形で栄光を現される。 黙示録は、苦しい状態にある人にメッセージを与えるため、神様が書かせた。
わたしたちも死ぬまでイエス様に忠実に行くなら命の冠を与えられる。冠は、すべてを支配する「王」の象徴。何者にも踏み付けられない。聞く耳をもつものは聞け。聖霊は単なる力ではない。神様と同じ、復活のキリストと同じ。人格ある、生きて語りかける方であり、導く方である。
この世には全く逆の声がある。間違った悪の霊のような声。低い次元のその声に聞き従っていかないように。最後まで聖霊の声に聴くのが勝利への道である。

○三月二二日(月)北島集会 列王記(上)19章7~12
エリアは、聖書の中でも特に悪い権力者として出てくる王妃イゼベルから逃れてべエル・シェバまで行った。だが、死にそうになっていたエリアを御使いが助けた。そして再びエリアが回復するのを見計らって「食べなさい、今度は遠い旅だから」と、食物を与えた。力を得たエリアは4040夜歩き続けてホレブの山に着いた。死にたいとまで言ったエリアに食べさせ、力を与えたのは何のためか。神様は目的があって人間を創った。エリアの命を救ったのにも目的があったからである。4040夜とは象徴的な言い方。何百キロという距離であり、とても長い期間である。神様の言葉を受取るために多大のエネルギーを費やす必要があったことが暗示されている。
9節の「何をしているのか」という神様の問いかけ。誰も見ていなくても、神様だけが見ておられる。「どこにいるのか(創世記3章8)」も、神から離れてどうするつもりか、という問いかけ。神様はすべて見通しておられるが、あえてこう問われた。 悪の力が強すぎてもう何もできない、とエリア。その時、岩をも砕く激しい風、地震、火が起こった。わたしたちも出会う人生の嵐。だがそのような大変なことが起こった後で、静かな細い声が聞えた。
色んな問題が起こるが、その後で結局この「静かな細き声」を聴くかどうか、である。この声を聞き取ってのみ、その状態を耐えていける。そしてこの姿勢があれば、そこからもう一つ新しい使命が与えられていく。

○三月二三日(火)移動夕拝 いのちのさとイザヤ書一一章15 一八名
 主イエスより700年も前に、イエス・キリストの事を預言した箇所。エッサイの株とはダビデの子孫の事で、この子孫から救い主が生まれるという預言。ここで未来に現れる決定的な人物を若枝、芽というように植物に譬えている。私たちも自然界のものを見る時神からのメッセージを受け取る事ができる。ここには霊という事が5回も出てくる。その方の上には主の霊がとどまり、知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊、に満たされるとある。そのお方には神の霊が完全に宿っている。神の霊が宿るとどうなるのか。英知の霊、知恵と悟りの霊は本当に価値があるものを洞察することができる。この世は絶えず間違った事が堂々と行われているがそれを見抜く事ができる。死後どうなるかなども、この霊がなければ分からない。学校教育をしてもこの霊は与えられないので、無学な時代でも英知の霊を受けた人は次々と生まれた。この預言の箇所には、一番大事な愛の事が書かれていないが、3~4節にこの事が言われている。弱い人の為に正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護すると書かれている。あらゆる人間が間違ってもこのお方は間違わない。弱い人貧しい人を助ける愛のお方である。そうして悪に対して裁きを行い悪を除こうとされる。本当の愛は悪の力を排除する。このお方はいかなる意味でも不正がなく真実である。このようにイザヤを通してイエス・キリストの事がありありと啓示されたのは驚くべき事である。私達にも主イエスを信じると、英知が与えられる。また神の霊(聖霊)が与えられる。聖霊はいつでも吹いているのでそれを絶えず受けていたい。

◯三月二四日(水)水曜集会 詩篇一四六
ハレルヤ(主を讚美せよ)で始まり、ハレルヤで終っている。心が満たされていなかったり不満があると讚美ができない。人は言わないだけで色々な問題を抱えている。だが主を讚美することは、その色々なことがある中でもできる。不思議なことに、主を讚美し平安でいられる。讚美はその気持を表している。
聖書はどこまでも深く、また高い。どんなときでも主を讚美する、病気になっても、それができるということ、どんな時でも主を讚美する心を求めることができる。聖書の信仰はこれまで多くの人を満たしてきた。そこから詩篇も生まれた。主こそ本当に讚美すべき方。本当に満たしてくださるかた。
讚美するためには、自分やその他の人間に頼るのでなく、主にのみ依り頼むことである。自分に頼んだ途端に、認められたい、自分の力を周囲に及ぼしたいという心が起こり、必ず不満が生じる。すると主を讚美できなくなる。救われたしるしは、主を讚美できることである。
神を待ち望め。永遠に真実(エメス)な主が、支える者もない弱い者たち、また「寄留者」を支える。主は、弱い者を守るため、苦しめる悪いものをくつがえす。主は、立ち上がれない者に力を与える。主こそ王、全てを支配する。(詩篇146篇からとり入れられている讚美は、 賛美歌14篇、同20篇がある)

○三月二十八日(日)主日礼拝 ヘブル十一・1731 参加41
 すべては信仰によって始まるという、基本的な考えがここにある。信仰はいかに大きな転機を人に与えるかが記されている。信仰によって一番大事なものを捧げるとき、それは祝福される。アブラハムはやっと生まれた子供を捧げなさいと言われた。アブラハムは黙々と、神の言葉に従った。思い切って信じて進んでいくと、神の助けがある。そして、自分にとって大事なものを神に捧げようとすれば、反対に神から豊かに与えられる。神に捧げたら、返して頂けるのである。たとえ、命を捧げたとしても、それはおわりではない。永遠の命を返して頂ける。祈りを捧げたら、ふさわしくなければ帰ってくる。人間は何かをしても、相手からよいことが帰ってくるとはかぎらない。しかし、神は必ず返して下さる。
 今日の社会は神を知らず、信仰をもたないところに問題がある。お金があっても、能力があっても、愛は増えない。信仰があれば心は解放される。信仰を持つと縛られると言う考えがあるが、信仰がなければこの世の力に縛られるのである。
 信仰によって、たとえ死が近くても、将来にのこす大事なこと、祝福の祈りを残すことができることも記されている。死に臨むとき、どのような心で臨むか。信仰によって感謝を持って死に臨むことができる。そしてまた、老年になって何もできなくなっても、祈りを残すという大事な仕事ができるのである。
 信仰はマラソンのようなものであり、どんなに信仰によって歩んでいても、死が近くなって最後に信仰から外れたら滅びにいたる。しかし、たとえよいことのできない人生であっても死ぬ間際でも悔い改めるとき、永遠の扉は開かれることが、最後に主イエスと共に十字架で死なれた犯罪人の話が示している。
信仰はこの世界に地下水のように流れ続けている。戦争があっても災害があっても、何があっても流れ続いている。そこに永遠に続く大いなる希望が与えられている。
 「イエスキリストは昨日も今日も、永遠に変わることにない方です。」(ヘブル書十三・8)とある。過去も未来も、すべては主イエスに向かっている。昨日もおられ、永遠におられる主イエス。この決して変わることのない方をみつめて生きて行く。 信仰によって道は開かれる。わたしたちの力では渡ることのできない道を渡れるようにして下さるのである。主イエスを見つめて進んでいくとき、道がないところに、道を開いて下さる。この世の荒海は歩いていくことが難しいときがある。しかし、主イエスをみつめていたら、荒波の上をも歩いていけるのである。また、わたしたちのまわりには、いろいろな壁がある。一番大きな壁は自分自身の罪である。自分中心という大きな壁がある。自分が認められないと言う壁。いじめの壁、評価してくれない壁、病気の苦しみの壁。その壁を飛び越えさせて下さるのが信仰の翼である。主イエスを信じる信仰によって、一人一人が目には見えない翼を与えられたい。 

この日福音歌手 森祐理さんが礼拝に参加されました。
森さんの証がなされ、賛美もしてくださり、良き交わりの時が与えられ感謝でした。
「徳島聖書キリスト集会は初めて行った教会にとても雰囲気が似ている。信仰をもつきっかけになったのは、キリスト教の幼稚園に通うようになったことからだった。そこで、毎日イエス様の話を聞き、イエス・キリストが心に入った。それから、宣教師との出会いを通して教会に導かれた。主イエスに出会って後悔したことはない。よろこびもかなしみもいつも、共にいてくださる主イエスに出会えたことは、最高のプレゼントだった。そして天国に家があるということ。それは大きな安心である。 十字架の重みを知ったのは歌手であるのに声を失ったときだった。罪を知らされ、主イエスの十字架の贖いの尊さを知った。もういちど、歌えるのならば神様のために歌いたいと思った。罪がゆるされたという思いがいっぱいになったときに心から讃美したいとおもった。声が出なかったそのときに、手話讃美を学んだ。それから、声が出るようになった。声もいのちも与えられているのだと、生きてるのではない、生かされているのだと知らされた。それから、返して頂いた声と共に、主を証しするものになった。それから一七年がすぎた。めぐみの月日だった。主を讃美し、これからも歌いつつ歩んでいきたい。天国に行く日まで、主をたたえつつ。」
そしてともに「うたいつつ歩まん」を賛美しました。

◯三月二八日(日)つゆくさ集会 マルコ1228 34
時代によっても変らないものがある。 一番大切なことは、愛と真実の神に心を注ぐこと。 イスラエルよ聞け、とある。聞く(シャーマー)とは心の耳をすませること。自分以外の声を聞こうとする。そうでなければ色々なことが通りすぎてしまう。人間も外見的なことでなく、その人が内に何を持っているか。絶えず聞け。特に自然からは、聞こうとしなければそこにあるメッセージは聞かれない。聞こうとすることは大切なことだ。至る所に神様のメッセージが響いている。
唯一の神がおられる、その声を聞き取った人たちが聖書の民となった。「心を尽し、精神(魂=プシュケ─)を尽し、思い(理性的な=ヌース)を尽し、力を尽して神を愛せよ(30節)」。この姿勢はパウロの言う「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」と同じである。いつも神様に聞こうとして心を注いでいる。これが人間としての最高の状態。聖霊が与えられると自然にそうなる。聖霊の実は愛。
だが隣人を愛しなさいといくら言われても、その前提に神を愛し、神の愛をいただかないとできない。人間の愛は差別的だが、ここで言う隣人とは、たまたまそばにいた人を無差別的に愛せよと言う。その人を自分と同じように愛することはできることではない。が、聖なる霊が注がれたらできるようになる。好きになれというのではない。悪い人ならその人の悪い力が除かれるようにと祈ること。この世は、こういった真理そのものを重んじないが、神様を愛する機会はいつもある。
・主日礼拝に参加された福音歌手の森 祐理さんが集会後、勝浦さんの病室を訪問されました。しばらく交わりの時を持たれ、祈られ、短時間でしたが、深い触れあいを感じる恵みの時を与えられました。


○四月四日(日)イースター特別集会 ヨハネ五・2425  参加者74名。  イースターとはよみがえった主イエスを記念するときである。死んだ人間が三日目に復活したということは理性や常識では信じがたい。しかし、このことはまた、まるで死んだようになっている者、命なく生きている者が、よみがえって本当の命を生きることができるようになることをあらわしているのである。主イエスは、そのことを示すためにも、よみがえりを見せて下さったのであった。
 この世界は、最後は滅びに向かっているのだろうか。否。世界はいのちの方向に向かっている。神は聖書を通してはそのことを示している。闇の中に光あれ!と光が与えられ、渇いた地の上には命の水が与えられる。光と水。命の光と命の水が、死んだようになっている人間に与えられ、本当の命を与えられる。
 わたしたちが罪をゆるされ、命の道を歩くために、主イエスは十字架にかかり、復活して下さった。
・今年もイースター特別集会が開かれました。プログラムは、第一部「子どもとともに」では、紙芝居やいのちのさと作業所のみなさんによる歌がありました。続いて賛美の時、デュエット、ギター賛美、手話賛美、コーラスをしました。それから吉村兄よるメッセージを聞きました。最後に8名のひとが感話され、今の思いを話されたり詩の朗読、歌などで証をされました。第二部はともに食事をいただき、インタビューにより交わりの時をすごしました。今年も初めての人、久しぶりの人、県外からの参加(大阪府の那須 容平、有加ご夫妻、愛媛県の薦田さん、香川県の塩田さん、村井さん母子)もあり、共に主の復活を祝うことができて感謝でした。

○四月六日 火曜日 夕拝 イザヤ11610
 ここは111節からの「平和の王」が来られる時には、どのようになるのかということが言われている。メシアが来られる時には、ここに書いてあるような不思議なことが起こる。狼が小羊と共に宿ったり、豹が子山羊と共に伏すようなことはないし、また肉食動物が牛と一緒に草を食むことなどあり得ない。
 創世記12930には、「全地に種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」とある。これは罪を犯さない時の様子である。少し後になると、(肉も食べてよいと言うことになる。)ライオンは牙を与えられている。爪も筋肉も動物を食べるように創られている。肉食ということは、殺して食べること。これは人間社会にもある。強い者が弱い者を圧迫する。ライオンが鹿を追い、人間も魚を食べ、肉を食べる。考えると、物悲しいところがある。しかし最終的にメシアが来られた時には、根本的に変わる。弱肉強食ということではなくなる。 小さな子供、幼子らしい者が、全体の導き手となる。弱いような者が全体の導き手となる。「神の力は弱い所に現わされる」のである。襲いあうこともなくなり、殺し合うこともなくなる。みんなが兄弟のようになって、共に生きるようになる。イザヤは神と深く結びついていたからこそ、このような深い真理が啓示され、霊的に高みに引き上げられた預言者であったことがわかる。

○四月七日(水)水曜集会 ヨハネ黙示録二章1217
「鋭い両刃の剣」を持つ方、神は信じる人を迫害する権力や、偶像を崇拝をするように仕向ける霊的な力に対して鋭い力をふるわれる。エペソ6章17では「聖霊の剣」すなわち「み言葉の剣」をしっかり持っていれば、どんな悪魔にも武器を使わずとも勝利できることが言われている。敗けるのは、この二つが無いということだ。
集まりの人の中にも霊的に悪いものが入り込むことがある。キリストの名による集まりは、み言葉と聖霊を与えられ、迫っている悪の霊との戦いの準備、またその戦いの場である。普通の楽しみの場ではない。この意識をわたしたちもいつも持っていなければならない。また伝道ということも、罪を生むような悪の力との戦いで、人間の中に宿って真理を拒もうとする力との戦いである。そのために聖霊を受け、み言葉を受け、その戦いに勝利する。聖霊を受けなければ弟子たちも戦いが始められなかった。伝道はサタンとの戦いである。
勝利していく者には「マンナ」と「白い小石」を与えられる。マンナとは、荒野でもう死ぬという時にも、ずっと支えられていくような天からの食物。「白い小石」とは、勝利をするほどキリストの汚れない深いご性質がわかり、堅く刻まれる。新しい名(本質)は受けて初めてわかる。それを益々深く受けた人にとって本当に新しい名だと感じる。これら信仰の賜物が与えられる。

○一月に発行された「野の花」の訂正。
六頁下段左十一行 利己→各自
七頁上段右八行 悔い改める人々でなく→悔い改める人々だけでなく
七四頁上段右八行 観光→刊行


お知らせ

○五月十五日(土)~十六日(日)のキリスト教四国集会(無教会)の参加申込をまだだしていない方は早めに提出をお願いします。会費は、申込書とともだしてください。集会に参加している方は手渡しでも結構です。締切りは四月二十四日(土)です。 申込書など集会場にあります。また、左の吉村孝雄まで
連絡あればお送りします。
○とくに県外参加者や聖書講話、証しなどの担当者については、適切な内容となるよう、主の導きを願って、有志の人たちで担当を決めて祈りに覚えています。
○四国集会の話し合い。四月二十五日(日)主日礼拝の後です。なお、そのため、この日ののつゆ草集会は午後三時半からです。
○神曲の煉獄篇学びは十八日(日)の午後。
○四月二十七日(火)の移動夕拝は、吉野川市の中川夫妻宅。スカイプを用いての県外の希望の人も加わる予定。
○三月初旬に送付、または配布された集会CDの一部には、ダビングの過程で、内容の目次と実際の内容が異なる順番になっているのが生じたことが判明しました。そのようなものは取り替えますので、吉村 孝雄まで連絡下さい。
○五月九日(日)の午後、礼拝終了後に、四国集会の会場である、センチュリープラザホテルに、運営委員と有志の方々で、最後の打ち合わせ、会場の確認などに行く予定です。


集会だより 2010.3   NO.357


神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、
何一つ捨てるべきものはない。
(テモテ前書四の四)


 

○二月一日(月)小羊集会 マタイ二十一・2832
 ここにある、「ぶどう園に行って働く」とは、神の国のために働く、ということを指す。それは、どんな状況におかれた、どんな人にもできることである。 病床の上にあって、神を見つめて祈ることも、神の国のために働くと言うことである。この世での働きは、他者によい影響を及ぼしていくとは限らないが、神の国のための働きは、清い、よい影響を他者に及ぼしていく。
 この兄は、初めは働くのは嫌だと言った。しかし後で思い直した。ここにどれほどの時間の経過があったのかはわからない。しかし、兄は後になって神を見つめ方向を転換した。誰もが、初めは神の国の真理はわからない。一生懸命働いていても、それは自分のためでしかない。しかし、神を知らされたとき、素直に神に立ち帰るとき、そこから神の国の働きが与えられる。そしてそれは、時遅くなり、たとえ少ししか働けなくても、神様は、早くから働いている人と同じように見てくださることが、他の箇所で示されている。パウロも初めは主イエスを迫害していたのに、心から神に立ち帰るとき、神によって豊かに用いられた。
 兄と対照的に、弟はすぐに、働くことを了承した。しかし、口では従います、と言いながら本心は自分中心であり、報酬を求めていた。神のために働こうとはしなかったのである。信仰を持っているといいながら、自分中心の考え方に従って生きるとき、それは、よい返事だけをして働きに行かなかったこの弟と同じである。神の国のために働くとはどうすることか。毎日の生活の中で、信仰、希望、愛を持って神を見つめて働くかどうか。すべてのことに祈りを持って関わっていくかどうかが問われている。
 そして、ここで主イエスは徴税人や娼婦の方が先に神の国に入ると言われた。これは聞いている人たちにとっては驚くべきことだった。この時代、特に蔑まれていた人たちが先に神の国に入ると言われたのである。
 主イエスは心を見てくださる。徴税人や娼婦の中には、人々の蔑みの中で非常な孤独と悲しみ、苦しみを持つ者がいた。誰にもわかってもらえない苦しみの中から、主イエスだけは救ってくださると、飢え渇く心で主イエスを求めた。汚れ、見捨てられているからこそ、そこから主イエスを求めていく。その心を主イエスは受け止めてくださる。そして、主イエスを取り囲んでいた人たちよりも先に神の国に入れてくださるのである。
 誰もが目を向けないところに主イエスは来て下さる。目を注いで下さる。わたしたちも、罪を犯してしまう弱いものである。本当の心の中の苦しみや悲しみは誰にも言えない。しかし、主イエスは知っていて下さる。憐れんでくださる。どうしようもない弱さの中に来て、神の国へと導いてくださるのである。


○二月二日 火曜日 夕拝 イザヤ八章一~一五
 ここではイザヤは自分の三番目の子供に「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前をつけた。このことが確実に起こるというので、証人までたてた。イザヤの妻は女預言者で、イザヤも家庭も、子供までも神の道具であった。4節この子が生まれて間もなく北からアッシリア攻めてくるという。何故か。人々が神に背いて自らの罪を悔い改めないからである。、必ず裁きはくる、この子供の名前の意味する通りに。57には裁かれる理由が書いてある。それはシロアの水を拒んだからである。シロアの水はイザヤの当時から現在までも地下を流れている。シロアの小さい川の流れを拒んでいると、裁きの激流が襲いかかって来る。 シロアの水はいのちの水のようなもの、聖なるお方である主、神さまそのものともいえる。
 現在でもこのことはある。み言葉などは新聞やテレビなどで報道される出来事から見ると小さいようにみえる。科学技術のすごさや経済のことが主流を占めている。学校教育の現場でも神の言葉は語られず、政治においても真理、永遠の命などは無視される。しかしこのままいけば大きな波が襲ってきた時、飲み込まれてしまうだろう。日本は頼るべき、精神的バックボーンというものを持っていない。
 イザヤの子供三人の名前は神様がなそうとしておられる大きなご計画を象徴的に表している。じっさいにイスラエルには、大きな混乱と攻撃と試練が降り注ぎ、たくさんの人も滅んでしまい、捕らわれるが、その前後に救いの約束が書かれている。初めには、少数であっても「残りの者」があり、後にはインマヌエルという名が三回も出てくる。大きな混乱、滅びがあるけれども、一貫して流れているのは残りの者、帰って来る者あるということ、神が共におられるということ。そして実際に「インマヌエル(神、我らと共におられる)」という名前にふさわしい方が、これから凡そ七百年後、キリストとして現れた。シロアの水、この不思議な水の流れを大切に持ち続けたいものである。


○二月七日(日)主日礼拝 サムエル記一・18  31
 ハンナは生まれた子を、乳離れするまで自分で育て、それからは神に仕える者とさせるために祭司の許に連れて行くことにした。かわいい盛りである。やっと生まれた子である。しかし、母親としての感情を超えたものに動かされていた。ハンナは、神を畏れ従うことを優先した。そして夫エルカナはハンナに同意した。
 神は泣きながら祈ったハンナの切なる祈りに応えられた。そして願い通りに男の子が与えられた。人間は苦しみの時には祈る。しかし、祈りが聞かれ、苦しみから解放されると、神が与えてくださった恵みを忘れやすい。しかしハンナは、神が祈りに応えて子どもを与えてくださったことを忘れなかった。神への約束通りに、乳離れしたばかりの子を神に捧げた。
 神が祈りを聞かれるのは、そのことによって神をあがめ、神の栄光が知らされるためである。神によって願いがかなえられたとき、その恵みを神のために用いていくことをわたしたちも考えるべきである。
 二章はハンナの祈りで始まっている。一章にもハンナの祈りがあった。子どもを与えてくださいという祈りであった。そして祈りは聞かれた。「わたしは敵に対して口を大きく開き」とある。敵に追い詰められたとき、何も言えなくなる。力もなくよろこびもなくなる。しかし、そこで神に助けられると、余裕が出てくる。 神を岩と頼む、とある。岩は揺るがない。大きくそびえ、変わらない。その不動、不変の力の象徴として神を岩とたとえている。そして、次に罪の本質を記している。おごり高ぶり思いを持ち続けるとき心が腐敗してくる。それこそが神の裁きである。どんなに誰も見ていないと思っていても、神はすべてを知っておられる。
 この世の力は弱い者を踏みつぶしていく。しかし、神は弱いところ、貧しい者に力を与えてくださる。「貧しい者は幸いである」主イエスの言葉に示されている。 
 このハンナの祈りはマリア賛歌と通じるものがある。(ルカ一・46)マリアも社会的な地位もなく弱く貧しい者であった。その弱いところに力を与えられた神をたたえている。神は、切なる祈りに応えてくださる。弱さの中に働かれる。貧しく砕かれたところに力を注ぎ、恵みを与え、用いて下さるのである。


○二月八日(月)北島集会 列王記(上)十七章1724
十七章はエリアが現われる最初の記事。だがその生い立ちなど、一切書かれていない。重要なのは神の言葉であるゆえだ。人間のことはいくら知っても霊的な助けにはならない。本当に苦しい時の力にならない。この章の始めに「主の言葉がのぞんだ」とあり、「主の言葉は真実です」で終っている。神の言葉の真実(エメス)性。神様の一番大事なご性質がエメスであり、その真実を顕すために、社会的に恵まれない弱い女性が選ばれた。神の言葉を受けることに於ては、男性に劣らない器とされている。それはまた、どんな病気の人でも、死ぬ間際の人でも神の言葉を担うことは可能だということである。
ここに、人間の言葉が不真実なのに対して、神の言葉の真実性が浮かび上がってくる。神様を知らない人は究極的に懐疑的になる。人間の悪い言葉によって傷ついた心は、修復が不可能なほどになるが、神の言葉だけが修復を可能にする。神の言葉の真実を受取れば、癒される。本当に真実な言葉を知れば、人間の言葉が汚れていても、ある程度は当り前、とすることもできる。わたしたちは神の真実な言葉を聞いて、それを証ししていけばよい。わたしたちは神の言葉によって、また十字架の血によって少しづつでも清めていただける。
「神は真実である」と言わずに「主の言葉は真実」と言い、言葉というものを重んじている。神の言葉によって光が創造されたと創世記にある。ヨハネ福音書では「初めに言があった」と。言(ことば)とは、人間のお喋りの言葉ではない。イエス・キリストが神の言葉そのものである。人に苦しみが起こるのは、その人を通して神の言葉の真実性を証しさせるためだ。

・ 内村鑑三所感集から。日露戦争開始の年に書かれている。「探梅」というタイトル。信仰の梅の花、厳しいところにさらされてはじめてこういう言葉が出てくる。ある意味で内村自身が梅の花でもあった。


○二月九日(火)夕拝 イザヤ書八章1623 八名
 16節に「わたしは弟子たちと共に証しの書を守り、教えを封じておこう。」と書かれている。イザヤが弟子たちと一緒に証しの証書に神の言葉、真理の言葉を書き込んで封じておこうとした。イザヤはそれと共に主を待ち望んだ。神が助けて下さらないと思える時でも神に希望を置いた。神の言葉こそ力になる。他のものは大きく揺れ動く。みんなが嘘を言ってどうしたら良いのかわからなくなった中で、神の言葉を少数の人がしっかり守った。聖書は神の言葉が書き込まれてあるが、ある意味封印されていて読んでも分からない。神からの啓示を受けなければ封印が開かれない。聖書全体が封じ込まれていて、私達もそれなりに真剣に対しないと封印が開かれない。今学んで蓄積して置くと苦しい時それが明らかにされる。ここで、イザヤが伝える主の言葉を相手が受け取らず拒んでいるが、時が来て聖霊の風が吹くと宣教できる時が与えられる。ここに書かれてあるように、「シオンの山に住む万軍の主が印と奇蹟だ。」と希望をもって信じる。これからもどんな時代になっても神の真理や神の言葉は一部の人に封印され持ち続ける人が続いていく。


○二月十日(水)水曜集会 黙示録一・1220
 ヨハネは後ろから声をかけられた、とある。後ろから声をかけられる。それはずっと後ろから見ていたまなざしがあるということである。主イエスはどのようなときも、わたしたちをじっと見つめておられる。そして必要なときに声をかけてくださる。 ヨハネは声をかけられて振り向いた。同じように主イエスに声をかけられて振り向いた記事がある。復活の主イエスに声をかけられたマグダラのマリアである。この「振り返る」という言葉は、他の箇所では「立ち帰る」また「悔い改める」と訳されている言葉である。わたしたちは何を見つめるか。神に立ち帰り、神に方向を転換して、神を見つめていくことが示されている。
 主イエスの足はしんちゅう。それは金色に光り輝く。そして強い。帯も金とある。金は変質しない。主イエスの力の永遠性、普遍性が記されている。そして声は轟きのようであった。これも大いなる神の力の現れである。天上での主イエスの栄光の姿がこのように現されている。


○二月十二日(金)天宝堂集会 エペソ書三章
 キリスト・イエスの囚人となっている、とある。実際にパウロは捕らわれていた。福音の宣教をしたために捕らわれたのであった。この時代の牢獄の生活は想像を超えている。しかしパウロは、福音のために苦しむことは、他の人のための益となると言っている。主イエスのための苦しみは、決して苦しみだけでは終わらない。そこから何かを主は起こされ、最終的には祝福と変えられていく。
ここに「計画」ということが繰り返し書かれている。この計画ということはエペソ書一章から記されている。それはどのような計画なのか。天地創造の前に、神はわたしたちを愛してご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと選んでくださったこと、また、最終的にはキリストのもとにまとめられていくこと。また、神の大きなご計画によって神の国の相続者になっていくことなどが書かれている。わたしたちの頭では受け取りきれないほどの大きな恵みのご計画である。
 神のご計画は啓示によって知らされる。神によって隠されていたものの覆いがはずされ、あきらかにされるのである。神の計画と啓示。これは、今のわたしたちにも与えられている。毎日の生活の中で起こってくる出来事すべてが、神の御計画である。啓示があればそれが知らされる。さまざまなこの世の出来事も、すべて神様のよき計画である。暗い出来事も多い。しかし、神様は愛である。神様は最善しかなさらない。それが大きな苦しみであるとき、人間にはすぐにはその意味がわからない。しかし、過ぎてから振り返るとき、そのことがなかったら、ありえないよきことにすべてがつながっていくのである。そしてそれは、啓示によって知らされる。その大事なことを知らせてくださるのが聖霊である。


○ 二月十六日 火曜日 夕拝 イザヤ書九章16
イザヤ書八章23節後半から九章1節はマタイ四の十五~十六にそのまま引用されている。 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」洗礼のヨハネが捕らえられたと聞いて、イエス様が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝道を始められた時であった。
 イザヤが預言をしてから七百数十年を経て実現したのである。
 当時(イザヤが預言した時代)大国アッシリアによってイスラエルの民は滅ぼされてしまう絶望的な状況にあった。その状況のただ中で、真っ暗な中で、神様は大いなる希望の光を与えられた。全き闇だったからこそ、光を注がれた。そして人々の心に深い喜びを与えてくださった。
五節 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。」光として現れるイエス様がどういうお方であるのか、ということが預言されている。
(1)驚くべき指導者…絶えず、適切に助言し、 計画してくださるお方だと言われている。新約になって聖霊こそ、まことに驚くべき助言者となった。パウロのヨーロッパ宣教は聖霊による預言だった。(2)力ある神…モーセでもエリヤでもなく生れてくる男の子(イエス)が力ある神と言われている。人間が考えて出てくる言葉ではない。二七〇〇年余、これは神様の預言だと直感したからこそ保存してきた。(3)永遠の父…私たちは神様のことを「お父さま」と言う。その神と同質のお方がイエス様。(4)平和の君・・・」「わたしは、平和をあなた方に残し…」(ヨハネ14:27)キリストの平和、神の平和を与えてくださるお方がイエス様。私たちにとって一番必要なこと、それは知識や富ではなく、何事が起こっても打ち負かされない確固たる平和、主の平和を持つことだと思わされる。そして霊の目で見る時、さまざまな出来事が起こっていても、キリストの平和はずっと続いている。
六節 いろいろな天災もあり、戦いもあり個人にも国家にも苦難がある。しかし現在に至るまで絶えることなく平和がある。霊の王国では。それは人間の熱意ではなく、産業や、経済ではなく、主の熱意がなさっている。わたしたちも一人一人、主の熱意によって引き上げられてきた。この熱意を与えられる人も絶えないのである。


◯二月十七日(水)水曜集会 詩篇 百四十四篇
主をたたえよ(人間をでなく)。神の恵みを知ったら自然にそれができるようになる。神は不動の「岩」。どんなものにも飲み込まれない。永遠に変らない存在。その御方が、「悪」に対する霊の正しい戦い方を教えてくださる。不当ないじめを受けた時など、正しい戦い方を知らねば人間は、感情的に相手を憎んだり、陰で悪しきことを言うなど、さらなる悪が入り込み「悪」が喜ぶだけだ。
正しい戦いの一つは、神様からの愛をうけ、相手のために祈ること。そのためには、人間とは無であり、息のように軽く空しい存在であることを深く実感していること。でければ人間的なものに頼る。これは神の言葉を受けるためにも不可欠。どうか主よ、神の大いなる力を顕してください。その力を、悪いものに稲妻のように当ててください。またうなりをあげる矢のように、とある。人間的な考えや戦いの方法では必ず悪いことが起こる。だが、み言葉は霊の剣。死にさえも勝利する。神への全面的な信頼によって力をいただく。
こういったことが与えられたら自然に新しい歌が生じる。新しい気持、新しい心。まわりの状態がどうであれ、日々神は助けを与えてくださることを知ることができる。今日も助けてくださっていると感じると、賛美ができる。感謝がうまれる。
正しい戦いをすれば、祝福が心の中だけでなく、目に見えるものにも至る。霊的なもので満たされれば聖霊の実が実る。
・内村鑑三所感集から。わたしをキリストに近づけるものはすべて善きことだ。病、孤独、迫害、死ですらも。だがまわりから称賛されると自分をひとかどの者だと思い、悪い方へ行く。この世は不思議な仕組みだ。


○二月二一日(日)ヘブル書十・1925  参加者33
 はじめに「兄弟たち」という呼びかけから始まっている。このような考え方は、旧約聖書の時代にはなかった。創造主であり万物を御支配される神を父とし、わたしたち信じる者同士が兄弟である。
 主イエスは肉体を持って地上に来られた。そしてその体を死に渡してくださった。罪ある人間は、汚れのない神と交わることはできない。動物の血をいくら流しても、人間の罪を取り除くことはできない。しかし、主イエスはご自分の体を裂かれ、神と人とを隔てている垂れ幕を裂いてくださった。主イエスの身代わりの死によって、わたしたちは聖所にはいり、神と交わることができるようにることができるようになった。主イエスが道を開いてくださったのである。新しい生きた道。これは、今も開かれている。毎日の生活の中でも、人は弱く、罪を犯すし疲れて歩けなくなることもある。しかし、そこからも、主イエスを見つめ続けるとき、必ず主イエスはそこに新しい道を開いてくださる。
 神に近づくためには清めが必要である。大祭司、主イエスによってわたしたちには清めが与えられる。
 主イエスは血を流し、すでにわたしたちを清めてくださった。そして新約聖書では主イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたはすでに清くなっている。」(ヨハネ十五・3)とある。
わたしたちがどれほど弱くても、すでに主イエスによって清められているのである。だから、思い切って神に近づいていく。誰もが時間と共に死に近づいていく。しかし、わたしたちが近づいていく死も世の終わりも、闇ではない。無でもない。輝かしい神の国である。
 そして、信仰による希望を揺るがないでもつ。神はどんな困難をも乗り越えさせてくださる。希望とむすびついた信仰告白をしっかりもっていることが大事である。そしてこれは、求める者には誰でも与えらるのである。 
 この時代は迫害の時代であった。キリスト者が集まることも命がけだった。キリスト者の中でも、集まることの重要性がわからなくなってきた人たちがいた。二人、三人主イエスの名によって集まるところにわたしもいる、と主イエスは言われた。集まることによって、主イエスが働いてくださり、励ましてくださるのである。 主イエスが命を捧げて清めてくださり、道を備えてくださっている。だから、希望を持って信仰から離れることなく、互いに励ましあう。そこに向かってこの箇所は書かれているのである。


○二月二二日(月)藍住集会 詩編九三
 この詩は最初から「主こそ王だ。」という宣言が書かれている。王として支配されるという意味である。目に見えない王であるという事が中心に書かれていて、敵対するものや悪の力の事は書かれていないが含まれている。悪を支配しているからこそ王なのだ。根本的に元になる考え方が日本とは違う。神が全世界を支配しているのは目に見えない支配であり、この宣言は創世記の一番初めからある。「初めに神は天地を創造された。」という記事と同じである。これは、「主こそ王である。全地を支配している王として」という意味である。人間が支配したり権力やお金、武力が支配しても崩れる。人間がどんなにもがいても神の支配から逃れられない。キリストは死に打ち勝った。キリストが王である。神の御支配はどんな事があっても揺るがない。強大な力よりも神の力はその上にある。サタンのどんな力が襲ってきてもその背後に神がいる。真理の力は何があっても変更されずに続いている。


○二月二二日(月)北島集会 列王記十八章1~21
アハブはエリアを殺そうとするような人だ。その人の前に行って言いなさい、という神様の言葉。神の言葉は、人から受け入れられるから言う、というのではない。
エリアは有名な預言者だが、子供時代のことなど、ここでは人間的なことはみな切り捨てられている。エリアの最大の使命は、自分を殺そうとする人に神の言葉を告げに行くことだった。その使命のことが先ず書かれている。
その時ひどい飢饉に襲われていたサマリア。エリアはそこに行った。宮廷長オバドヤは、アハブ王と対照的に、心から主を敬う人だった。意外なところに神様はみ言葉を担う人を置かれる。真剣な人を起される。
オバドヤの助けにより、エリアがカルメル山ですべての民に告げた神の言葉。「いつまでどっちつかずに迷っているのか。どちらかにしなさい、どちらでも選びとることができる」と迫った。 人間はどちらかを選び取って行ける。偶像の象徴であるバアルのように、人間がつくったものを神とするかどうか。本当の神様に従うということは日常の生活の中で、本当の神様に従ってすべてを考えていくことだ。静まって、祈れば主に従う道はどこにでもある。自然を見ても、様々な人間関係を見ても語りかけられることがある。主に従えば祝福がある。


○二月二三日(火)移動夕拝 熊井宅 マタイ七章714  一五名(インターネットによる参加3名)
 聖書全体の中でも最もよく知られている言葉のひとつである「求めよ、さらば与えられん」という箇所。このみ言葉は現実的でないと思う人がたくさんいる。「求めよ、探せ、門を叩け」。私達は小さな子供の時から絶えず求めている。求めるという行動は、生まれ落ちた瞬間から生じる。この世は何かを必死で求め続けている。探すという事も、人間はいつも何かを探している。門を叩いたら開かれる。聖書のこの言葉の奥に何があるのか、どんな意味があるのかと探す気持ちで読まなければ分からない。神様は私達の周りにいっぱい良いものを置いて下さっている。そのどれでも取って自分の学びや教養にできるのに良いものを取り入れない。悪いものがまず見つかる。神様を信じないと悪いものを探す。人間が神の形に造られているのならどこかに良いものがある筈だと探す。良いものが見えない事の中に良いものを探す。交通事故や病気などには、どこから見ても良いものはないように見える。しかし探していくと、苦しい出来事を通して良いものを与えようとしている神様の良い意図が見えてくる。主イエスが十字架で殺された。最大に悪いその出来事を見て「本当にこの人は神の人であった。」と最高のものを見つけた人がいた。主イエスの十字架は良い象徴として全世界に広がっていった。
※この日、初めてインターネットのスカイプ(*)によって北海道の大塚寿雄、正子さん御夫妻、大阪の谷井さん、徳島の高瀬佳輝さんが夕拝に参加され、み言葉を聞き、共に祈り賛美し感話も話されました。
*)インターネットによる無料通話サービスで、複数の人と、遠隔地 にいる人も同時に加わって集会、会議ができる。


◯二月二八日(日)主日礼拝 ヘブライ十章2639 参加34
あまり取り上げられない場所。だが聖書に忠実であろうとすれば、自分の好きな場所や読みやすい場所だけ取り上げて読むのは正しくない。ここは恵みではなく、裁きについて書かれている。書いたのは特に恵みを非常に深く受けた人たちであって、特に聖霊も受けた人たちである。
真理の知識を受けた後にも故意に罪を犯し続けることがある、と厳しく指摘している。神の子イエスを足げにする、とは、わたしたちに関係ないことではない。
迫害の時代、それを喜んで耐えた人がいた。迫害を忍耐するほど大きな賜物をいただいていた。だがそれほど大きな体験をしていても信仰がゆらぐことがある。いったいどこから落ちたのか(黙示録二章5)。
他の分野とちがい、信仰に関しては何十年の経験があるからと誇ることはできない。今どうであるか、今弛んでいたらかえって裁きを受ける。この点で、常に皆が同じ立場に立っている。
「復讐はわたしのすること」。「主はその民を裁かれる」。これは信じない人ではなく、信じる人に言われている。裁きとは、主の平安がなくなることであり、よろこびがなくなることである。神様はわたしたちの心をみな見抜かれている。一番恐ろしいのは神様のみこころから外れてしまうこと。裁きのみ手に落ち込んでしまうことである。生きた信仰とは、神様はいつでも必要な時に来られて裁きをなさる、今もそうだ、と思えること。
何もよいことが起こらないようであっても、希望をもって耐え忍ぶこと。「正しい者は信仰によって生きる」とある。わたしたちは信仰がなければ生きられない。神様は必ずよくしてくださると信じて進んでいく。全く希望がないようなところであっても信仰によって生きる。「ひるむ(心が縮む)」こころではなく、新しい命を日々いただいて歩んでいきたい。


○二月二八日(日)つゆ草集会(午後二時半から五時半)14
大学病院の個室にて現在マルコ福音書を学んでいます。
参加者は、西條 、伊丹、南(初参加)、伊丹、嵯峨山、勝浦、鴨島の渡辺れいこ(初参加)、阿南市の三木(初参加)、加戸、楢崎( 聖)、楢崎 諭、松山(茂)、松山(美)、吉村(孝)


○三月二日 火曜日 夕拝 イザヤ書九章620
前回学んだように暗闇の中でイエスの出現が啓示された。そして現れるこの方はダビデの王座に就かれる。そして王座の権威はぐんぐん増していき、この方のもたらす平和には終わりがない。この世のことはどんなに良いことでもすべて終わりがある。この世の平和は終わってしまう。しかしイエス様が下さる平和は主の平和だから終わりがない。この二千年間主の平和は続いてきたし、世の終わりまで続く。そして世の終わりから後はもっと完全な主の平和が訪れる。この世はいつまで経っても戦争ばかりではないか、と神様や預言を受け入れないうちは、思ってしまう。そういう中で啓示が突然別の次元で与えられる。万軍の主の熱意がすべてを従えておられることがわかる。熱意とは普通人間に対して言われる言葉であるが、神様の光をうけると、神の熱心がわかる。そしてこの熱心を受けると、人間も霊的に熱心な人になっていく。使徒たちがそうだった。弟子たちは、イエス様が生きておられる時には、たしかにすべてを捨てるほどの熱心を持っていたが、それは十分霊的なものではなかった。ゲツセマネの園で、イエスが十字架に処刑される前夜であり、イエスが必死に祈っているのに、弟子たちは、皆、眠っていた。イエスさまが、復活した後も、部屋に鍵をかけて隠れていた。しかし聖霊が注がれてからは命をすてるまで熱心になった。
また、パウロは当時世界の果てと思われていたスペインまで行こうとした。後も宣教師たちもその熱心を受け継いできた。江戸時代の終わりに日本に来たヘボンは医師の仕事をおき、子供を預けて、大西洋、インド洋を渡って日本に宣教師としてやってきた。神様がそのような熱心をお与えになったのだ。
7
20 北イスラエルに対する審判がかいてある。16は後に起こることの啓示であるが、ここはイザヤの時代である。神様の裁きなど怖くない、自分の力を頼みとして、神様に立ち帰らなかった。上に立つ者がこのようであったから、民も惑わされた。神様は彼らを眠りから覚ますために裁きをされる。


報告とお知らせ

○三月七日(日)…主日礼拝の日に、大阪の日阪(ひさか) 敏春さん、神戸の鴇田(ときた)宗一さんの二人が参加されました。日阪さんは十年ぶりの参加で、鴇田さんは二年前の徳島での全国集会に参加されたことがありますが、主日礼拝には初参加でした。それぞれ十分程度の時間で、今までの神の導きを証ししてくださり、私たちも霊的な新たな風を受けた思いで、恵まれました。
礼拝後は、パンと紅茶をともにいただいての交わりのひとときが与えられ、さらに日阪さんは、徳島大学病院に入院中の勝浦 良明兄のところを訪問されました。
よき交わりのときが与えられ、私たちも主のなさるわざの不思議さ、長い年月を通して働かれる生きた神の御手を感じました。


○三月十四日(日)午後は、「いのちの水」誌発送をします。いつもは、第二水曜日の昼の水曜集会の後と、夜の北島夕拝の後で、それぞれ十数人がこの「集会だより」の折り込み作成や発送の作業にたずさわっていました。
しかし、今月は印刷所の機械の故障などの都合で、印刷がいつもの発送日に間に合わなくなったためです。残れる方は作業の奉仕をお願いします。


○三月二十一日(日)主日礼拝の後、読書会。ダンテ著の神曲、煉獄篇第二四歌です。


○三月二三日(火)の移動夕拝は、今月は、いのちのさと作業所です。


○三月二十八日(日)の主日礼拝には、福音歌手の森 祐理(ゆり)さんが、主日礼拝に参加されます。前日のいのちのさと作業所の行事に参加されるのが来徳の目的ですが、今回はちょうど日程の関係で主日礼拝に参加できるとのことです。礼拝参加が目的なので、単独で歌うということでなく、参加者と賛美をともにしたいというご希望です。
また、ともにパンと紅茶をいただいたあと、交流の時間を二時ころまでとっていただけるとのことです。
なお、四国集会の話し合いは、その後にあります。そのため、つゆ草集会は、午後三時半からはじめるように変更されました。


集会だより NO.355 20101


私が主に求めたとき、主は私に答え、すべての恐れから私を助け出された。
主を仰ぎ見て光を得よ。
(詩篇3445より)


 

○十二月三日(木)いのちのさと集会 詩編五九
 敵が迫ってきて生きるが死ぬかの緊迫した状況の中で作られた詩篇である。この詩の中には神の力と闇の力という対立した二つの力がある。闇の力が命を狙って待ち伏せして霊的にも神から引き離そうとする。作者はこのような悪が迫っているので、非常に真剣な祈りで神に向かった。他の人間には頼めない。この状況から救い出せるのは神様だけしかない。自分に押し寄せてくる悪の力は社会的にも周囲にも広がっている。そして、夜になると悪の力は戻ってきて、えじきを求めてうろつく。
ここでは悪の力の執念深さが言われている。夜の世界は何か不気味なものがある。精神的にも神の光が射していないと悪の力がはびこって餌食になる。この詩人の霊的な体験があった。
からみつく悪の力をどうするのか。聖書では、詩篇の第二篇に、すでに、個人的にも国々にも襲ってくる悪の力を神は一笑に付されると書かれている。神にとって悪の力など、取るにたらないという確信がこの詩の作者に与えられた。絶えず人間は悪に翻弄されて"噛みつかれる。"しかし、この作者のように霊的転換がある時、悪に勝利できる。そして最終的には、「あなたにほめ歌を歌います」と主への賛美で終わっている。


○十二月七日小羊集会 マタイ二十一・1822
 実らなかったイチジクの木に向かって「今後実がならないように」と主イエスが言われた。これは、当時のユダヤ人の宗教に対する態度を示しているのである。
 葉ばかりが茂っている、ということは、当時のユダヤ人の宗教の儀式に満ちた形や堂々たる神殿の建築などを指している。しかし、そこには真実な心、祈りの心はなく、金儲けの場所とさえなっていた。そのような神殿と当時のユダヤ人の偽善的信仰をさして、「実のならない葉ばかりのイチジクの木」と言っているのである。そして、それが枯れる、ということは、その後、ローマ軍が攻めてきて、町も神殿も壊されることになることをも暗示している。
 これは、今のわたしたちにも言えることである。どれほど科学技術が発達し、文明が進んでも、そこに不真実が満ちていれば、それは枯れていく。キリスト教会であっても、建物ばかりが豪華になっていくとき、真実な祈り、神に従っていく心がなければ、実らないイチジクと同じように枯れていくのである。
 人間は自分の力で実を結ぶことはできない。ヨハネ福音書十五章、「わたしはぶどうの木である。わたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない」と書かれている。そして、主イエスのぶどうの木につながっていなければ、枯れて最後には焼かれてしまうとある。不真実なもの、神に背く思いに従っていくとき、人の心は枯れていくということである。
 このあとに「山に向かって海に飛び込め、と信じて疑わなければそのようになる」と書かれている。
山とは、決して動かないようなことを示している。人の力では動かないことでも神によって動かされる。だから「求めなさい、そうすれば与えられる」と主イエスは言われたのである。


○一二月八日(火)夕拝 一〇名 イザヤ書六章8~13
 イザヤは神から召命を受けた時、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言った。モーゼもエレミヤも、神様から行きなさいと命じられた時、たじろいで「そんな事はできない。」と言ったが、イザヤは直ちに受け取った。イザヤの場合、その前に天使が直接火を持って来て、罪を清め赦した。罪が残っていると神に十分に従うことはできないが、心の罪、神に背く思いを清められると、非常に身軽になれる。イザヤは他にはない方法で罪が清められた。イザヤが遣わされるのはどのような所へであったか。それは、見ても認めず、聞いても理解ぜず、悔い改めて赦される事のない民の所へであった。神様から直接遣わされた人が言っても言っても聞かない民。人間やこの世は不思議な程の頑なさがある。今日の私達もあらかじめこのような事を覚悟しておく必要がある。神様の事を伝えようとすると困難があるが、本当に遣わされたら祈り続け時を得て伝えようとする。決して諦めない。イザヤは、この事はいつまでなのですか、と神に言った。すると、この国が滅び去る時までと言われた。しかし、そこに残りの者がある。どんなに従わない者がいても、滅びても神様ご自身が残りの者を残す。その残りの者は聖なる種子であると結ばれている。


○十二月十一日(金)天宝堂集会 エペソ二・1921
 人間はどこの国でも地位や権力、人種など差別意識が強い。しかし、ここに、どのような人間も、神を信じる者は神の家族であると示されている。
 地上では、さまざまな汚れや欲望が渦巻き、混乱しているが、そのただ中で、神を信じるものは分かたれ、清めていただけるのである。そして、信じる者は、お互いに、隔てられる壁がなくなって、同じひとつの家族なのだという実感ができてくる。
 人間は、何が土台になっているかで生き方がかわる。「自分」が土台になっているとき、それが揺らぐと、動揺する。しかし、神を土台とするとき揺るがない。ひとりひとりが神によって共に建てられ、またその集まりも神の住まいとなっていく。わたしたちは神の家族であり、キリストを土台として、共に支え合い、成長して行くことができるのである。


○十二月十三日(日)主日礼拝 ヘブル八章
 キリストはわたしたちの大祭司である。キリストは生きておられる。そして、神とともにあり、神の右におられる。これはキリストが神と同じ位置にある、ということをあらわしている。大祭司は、たえず動物の血を捧げて、人をとりなしてこられた。「とりなす」とはどういうことか。人間は本来はさばかれる者である。そのような人間の罪を清め、あたかも、罪がないことのようにしていただけるということである。主イエスが人間を神の前でとりなして下さった。それによって罪ある人間を、罪をおかしていないように扱ってくださるのである。動物の捧げ物ではなく、主イエスがご自分の体をささげ、すべての人間をとりなして、あたかも罪がないかのように連れてきてくださるのである。つまり、罪ある人間が、罪を知り、その赦しを知らされ、神に導かれて生きて行くことができるようにしていただくことである。
 主イエスが自分を捧げて行ってくださった「新しい契約」。それは魂の中に書き付けてくださる。十戒は、石の板に書き付けられた。それが、どんなに、くりかえし説かれても、それはいのちを与えることはできなかった。たえず人間はそれをやぶり、罪を犯した。しかし、心の内部に書かれたときには、自然に律法がまもれるようになる。それで、教える必要がなくなるとまで言われている。神ご自身が、心に書き付けてくださるからである。そのとき人間は人間としての正しい魂のありかたが、教えてもらわなくてもわかるようになるのである。
 神の言葉を心の内に書き込むということは聖霊によってなされた。主イエスの弟子たちも、聖霊が与えられ、心に直接言葉を書き込まれたから、力が与えられた。聖霊が私たちのところに吹いてくるときに、神の言葉は魂にかきこまれるのである。


◯十二月十四日 北島集会 列王記13
ここで言われている古い伝承のような記事、わたしたちにとってどんな意味があるのか。神が啓示して書かれ、聖書のなかに組み込まれたのは何故か。
ヤロブアムは金の子牛を造り、人々に拝ませていた。そこに神の人(預言者)が、儀式をしているただなかに入って来て直言した。間違ったことをしていると必ず裁かれる、と。そしてそのとおり、ヤロブアムの手が萎えるなどのしるしがあった。
非常な実力者であった王ヤロブアムも、どうか手がもとに戻るように祈ってくれるよう頼み、そうなった。王はお礼にと、一種の懐柔作戦として食事に誘ったが、神の人は「パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない」という神の言葉だけをしっかり持って、帰るときも、気の緩みを断つために別の道を帰れという厳しい言葉に従った。しかしそのあと意外なことが起った。老預言者が現われ、み使いの言葉だと言って神の人を食事に誘った。だがそれは偽りであって、結局神の人は殺されてしまう。
王の勧めも固く断ったのに、なぜこのようなことになったのか。それは老預言者の言葉をそのまま受けとったたから。自分で祈って受けた神の言葉ではなかったからだ。油断と疲れ、また似たような(老)預言者の、何とか共に食事をしようという人間的な気持があった。聖書そのものの真理でなく、似て非なるものには惑わされやすい。私たちも祈って、神様からの直接の支持を受けたい。神の言葉自身は必ず成就していく。わたしたちも弱い者だが、「子ろば」のように神の言葉を担うことができる。


○十二月十五日(火)移動夕拝(中川宅)ヨハネ八章1216
 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」というみ言葉はわかりやすくよく引用される。深い意味はわからなくても、なんとなく分かる。ヨハネ伝では「世」に独特の意味が込められている。ヨハネ1633では、「…これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この後イエス様は殺されるのだから、最後の夕食の時の最後の言葉である。
 神に敵対する闇の力が支配している所、あるいはそのような力をも「世」と言っている。この世では悲しむべきことが起こっている。厭うべき事や犯罪が毎日のように起こっている。そのような闇の中に輝く光を世の光と言われている。闇を変える力を持った光を世の光と言われている。イエス様と一緒に十字架に付けられた犯罪人は最後の最後に改心して、神の御許にいくという約束を得た。
 目を覆うようなところに光が、罪ある所に光が射してきた。あらゆる困難に打ち勝つ光が射してきた。この光を受けると平安を得ることができる。
 主イエスは真っ暗で動物の臭いのする汚れた家畜小屋で生まれた。そして時代も悪が善を打倒そうとする闇のただ中にお生まれになった。歴史を見ればわかるように、世の中のありとあらゆる苦しみ、困難の中を神を知った人は光に守られ、導かれて歩いてこられた。この世そのものが闇である。私たちも混沌と闇の中に住んでいるが、そこに命を湛えた光があると生きていける。
 「物質的光」は命の光とはなり得ない。「学問の光」は啓蒙する力はあるが「いのちの光」とはならない。いのちの光を与えてくれるのはイエス様のみ。


○十二月十六日(水)水曜集会 ヨハネ黙示録 一章5~8
この迫害の時期、疑問や恐れ、不安が起りがちだが、神は、まず私たちを愛してくださった。それがこの著者の実感であった。
その神様の愛とは何か。それは人間の心の中の問題を解決してくださった、それは「罪からの解放」ということ。「罪」というと、一般には受け入れがたいものがあるであろう。しかし誰であっても、あるべき姿から遠く離れている実感がある。神の愛、この一番深い愛は、人間にはどうにもできない心の奥の問題に関わることであり、それを赦し清めてくださったことである。
また、わたしたちを「王」としてくださったのであり、別の訳では「み国の民」とし、王の権威を与えてくださった。王権とは、イエス・キリストの持っているような、悪を支配する力、サタンの力を踏みしめる力である。このことは殊に悪の支配が蔓延している時代には重要だった。闇の力に敗けないような一人一人のクリスチャンを、王としてくださっていると。わたしたちもせっぱ詰まった時に、神様は本当に居られるのかと思われるようなときに、強く励まされることである。
祭司とは、他の人たちを神様のところに連れていくということ。クリスチャンはみな祭司。クリスチャンとは、神様は本当に心の一番奥の問題を解決してくださっている、悪を踏み付ける力も与えてくださっていると実感できること。
神様、またキリストが来られる。著者はこのことを啓示された。悪の力を裁くために来てください。本当に追い詰められたときは、来てください、と言うしかゆとりがない。だがこのことは遥か昔から預言されていた。(ダニエル書7章13)など迫害の激しい時代に受けたことを再びここで受けた。
イエス・キリストのような真実なものを意図的に突刺した者は必ず裁かれる。(黙示録一章7)この裁きということは、皆の人がわかる。主よ来てください。然り、わたしは直ぐに来る。世の中がどんなにすさんでも、悪の力を裁く神(在りて有る神)、アルファでありオメガである神が来られる。わたしたちも追い詰められれば一層このことが身近になってくる。


○十二月二十一日(月)北島集会  列王記上十四章
 ヤロブアムは預言者アヒヤのところに妻を変装させて遣わせた。なぜ、変装させて行かせようとしたのか。自分が神の前に出たくなかったからである。それはなぜか。ヤロブアムは神に選ばれた王であったが、自分のために偶像を作っていたためであった。ヤロブアムは変装させると見抜けないと思っていた。しかし、神には通じない。
 神の前に変装をしていくとはどういうことか。神の前で、本当の自分でないことを語る。神の力を信じているといいながら、神はみていないと思う。そこに罪がある。ヤロブアムは妻に変装させて、自分の都合のいいことを聞こうとしたのであった。そういう態度で行くときには、何も与えられない。神の前には変装をとりすてて、心を裸にして、罪があれば、赦しを乞い。赦しをうけて初めて、神からの良きことが受けられる。わたしたちはいつのまにか、変装して神の前に出ていないだろうか。
 神の前に変装して出て行かないこと、それは新約聖書では主イエスはどのように書かれているか。マタイ福音書十八章 
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、けっして天の国に入ることはできない。」
幼子のような心になること。神の前ではそれが大事である。変装し、取り繕い神の前に出るのではなく、素直にありのままで神の前にへりくだって出るとき、神は恵みを与えてくださるのである。


○十二月二十三日(水)水曜集会  詩編一四二
 この詩は、苦しみの中、友もなく一人きりで追いつめられた状態での叫びである。わたしたちが出会う苦しみの時。そのときにこそ、ただ主イエスに叫び、主イエスに頼る。苦しみの時にこそ、助けは与えられ、信仰の成長も与えられる。迫害の時代でなくとも、今も、病気、老い、様々な人間関係の問題に、わたしたちは、たったひとりで闘わなければならないことがある。しかし、神は必ず応えてくださる。神はわたしたちの進むべき道をご存じであり、神に求めるとき、神は導いてくださるのである。そして、神に報いられ、深い恵みを与えられる。そのとき、そこには神を求める人、神に正しくされた人が集まってくる。交わりが与えられ、励まし合うことができるようになってくる。そこに祝福を置いてくださるのである。


○十二月二十七日(日)主日礼拝 ヘブル書九・110 31
 神殿の中のもっとも大切な場所である至聖所にはなにがあったのか。「金の香壇」とある。これは祈りの象徴である。祈りの大切さが示されている。人間があたえられる良きものは一時的である。しかし、死を間近にした人でも、悔い改めたら、神は良きものを与えてくださる。
次に「契約の箱」とある。これは神からうけたことばである。金で覆われている、というのは大事であることの象徴である。わたしたちの心の中のいちばん奥にあるものはなにか。祈りがあり、神のことばがおかれているべきである。
 「マンナのはいっている金の壺」も、ここに置かれている。マンナはモーセが遣わされてユダヤの民を救い出したときに与えられたふしぎな食物であった。このことは、今も生じている。この世はさまざまな苦しみがあり、荒野である。しかし、どのような荒野であっても、必要なときには神様からの食べ物をあたえられる。だから記念して、こうして記されているのである。この世は疲れることがたくさんある。この疲れをいやされるものが天からのマナである。
 新約聖書では「人はパンだけで生きていくものではない。神の口から出る、ひとつひとつのことばで生きる」(マタイ四・4)と記されている。
「芽を出したアロンの杖」とは何か。枯れたようなものであっても、そこから芽が出て花が咲くことの象徴である。どんなひとでも、神に選ばれ、神の言葉をもっていたら、芽が出てくる。成長して、みどりの葉が出てくるのである。
 「契約の石板」についても記されている。神は永遠に消えないように、石板に言葉を刻み込まれた。たしかにモーセが受けてから三千年たっても、全世界で今もなお刻まれている。石の板ではなく、心の中に消えないように刻みこまれるのである。キリストがこころにきてくださって、神の言葉が心に刻み込まれるようにしてくださった。


○十二月二十七日(日)つゆ草集会 マルコ十二・110
 この主人の忍耐は、ふつうには考えられないような忍耐である。神の愛はとてつもない忍耐をもって、待ち続けてくださる愛である。このような農場に息子を送ると、どうなるかわからない。しかし、送ってくださった。この息子はイエス・キリストを表している。神は待たれる。しかし、最終的には神は裁かれるのである。
 ここで主イエスは、「家を建てるものの捨てた石が隅の親石となる」と旧約聖書の言葉を話された。役に立たない、いらないと、捨てたものがつかわれることを示している。この世では、役に立たない弱者は捨てられていく。しかし、神はそのような人こそ用いてくださるのである。神に送られた僕たちを農夫がやっつけようとしたように、この世には本当に良きこと、善意をもっているものをつぶしていこうとする力が働く。
 人間の世界には闇がある。しかし、その闇のただなかに、詩編の時代から預言されていることが、こうして成就されているのである。神のご計画は着実にすすんでいく。そして、それは、弱い、見捨てられた人が、どこかでその土台となっておられるのである。神は弱い者をこそ用いられるからである。


○一二月二八日(月)藍住集会 詩編九〇
 詩編九〇編からは第三巻になり、その最初に置かれているこの詩は大きな意味がある。あなたは永遠に私達の宿るところとあり、神の中に私達は宿っていると理解できる。その神とはどういうお方であるか。地球や宇宙が存在した遥か前から神はおられた。神の永遠性を強く言っている。それに較べて人間のはかなさが言われている。。神の目から見ると一夜の命である。寿命の後は土に返る。7節からは内容が変わっている。神は私達の罪を光の中に置かれる。私達は神の前に正しい事がどうしてもできない。罪があるので余計に空しさはかなさがある。この生涯をはかないと感じさせるのは罪のせいである。罪がぬぐわれて、新しい心が与えられると人生に意味が出てくる。そして神様から力付けられ、空しさから解放され、朝ごとに神様への慈しみで満ち足らせて下さる。私達の日々の事に意味が与えられ確かなものにしてくださる。主は私達の日毎になす事を祝福してくださる。その為に二千年前にイエス・キリストが私達のところに来て下さった。これがクリスマスの意味である。


◯十二月二十八日 北島集会 列王記(上)十五章1~5
ユダのアサという王は、親が悪かったのにその影響をうけないで、ダビデの祝福を受け継いだ。だがその逆の場合もあり、神様の祝福のともし火は不連続的に続く。
わたしたちも信仰を持つと、ともし火を持つことができる。このともし火は神からいただくもの。勉強したり本をよんだりして灯されるのでもない。神様が灯してくれた火なら、どんなに追い詰められても、消えない。ダビデが、主の目に正しいことが行えたのはいつも神を仰ぎ、祈りの生活をしていたから。
アサという王は「主の目にかなう正しく善いことを行った」と歴代誌(下)14章にもある。主の目にかなうことと、人間の目にかなうことは、異る。神様に一番喜ばれるのは、わたしたちの心が絶えず曲がりがちであるので、それを知って、主を仰ぎ悔い改めること。
アサは偶像を壊し主を求めた。主を求め、主の御名によって戦ったから、大軍に向かっても勝利を得た。わたしたちも主を求めればこの世の大軍にも向かっていくことができ、勝利も与えられる。与えられたらまた求める。
・内村鑑三所感集「平和の途(みち)」から。神に背けば万人が敵となり、神に向かえば万人が味方となる。人間関係の原点を内村独特の言い方で言っている。


○二〇一〇年一月一日 元旦礼拝 イザヤ四八章 参加者19
 新しい年となった。新しいとはどういうことか。聖書には、変わらない新しさが記されている。聖書の最初から新しいことが記されている。それは「闇の中に光があった。」と言うことである。光を感じると、新しさを感じることができる。
 そのような光の新しさが、わたしたちには与えられている。
 そして、日々新しくされるのである。主イエスが内に住んでくだされば、日々新しくなり、神様が新しいことを注いでくださる。キリストの名前によって集まること。そこに、主イエスは共にいて下さる。だから、新しい霊を注いでくださるのである。新しいことを起こしてくださる神は、苦しみによって導かれることもある。人間が求めないようなことを与え、苦しみの炉で錬られつつ、しかし、つねに新しいところに連れて行こうとされる。
 そして、そこに、川のように平和を与えてくださる。次から次へと川のように流れてくる。恵みは海の波のように、とある。次から次へと押し寄せてくる。どのような状況であっても、恵みが与えられる。そこには変わることのない新しさが与えられる。すべてを御支配される神様の愛。信仰と希望と愛。それはいつまでも続く。そしてそれはいつまでも新しいのである。神の愛こそが、新しいものを注ぎ続けてくださる。
・元旦朝六時半から元旦礼拝がありました。まだ暗いうちから始まりましたが、礼拝中に日が昇り新しい年の朝を迎えました。み言葉によって新しい年を始めることができ感謝でした。


○一月五日 火曜日 夕拝イザヤ書七章一~九節
この記事の時代背景はユダの王ウジヤの孫アハズ王の時、アラム(現在のシリア)とイスラエルの王が組んで攻めてきた。いずれユダに傀儡政権を立てようと目論んでいた。アハズ王も民も「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と記されている。
 この時神はイザヤに息子のシュアル・ヤシュブと共に出て行って、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。…」と言いなさいと言われた。預言者の子供が表に出てくるのは珍しいことである。この子供の名前の意味が、シュアルは「残る」(remain)、ヤシュブは「転換する、立ち返る」(returnturn)という意味を持っている。残りの者がある。また立ち返るという意味を持つ。この子供の名前にユダの将来が重ねられている。 戦争があり、罰がくだるようなことがあっても、必ず残りの者がある。そして、心を入れかえて神に立ち返るのだという預言のようになっている。
 「落ち着いて、静まる(神の前に)」この言葉はイザヤの基本的なメッセージであった。イザヤ3015節にも
・・・・「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」
とある。イザヤが神からこのような言葉を受けている時、アハズ王は戦争になれば一番大事なのは水だと人間的に考えて、水路の確認のために出向いていた。イザヤはそこへ行って、王に会うようにと命じられた。アハズや民にとってアラムやイスラエルの軍は大きな恐るべき力と映ったが、神の前に静まる時、それは切り株の燃えかすに見えてくる。これは、過去の出来事というだけではなく、私たちが体験することでもある。いろいろなことによって心が揺れ動くことがあっても、静まって神さまに祈る時、立ち返ることができ、心に平安が与えられることがある。


○一月六日(水)水曜集会 黙示録一・916
 ヨハネは自分のことを紹介するのに「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネ」と書いた。この「あずかる」とは「共有する」という意味がある。まず、あなたがたの兄弟であること、そして、イエスと共にあること、それから、「苦難、神の御支配、忍耐を共有している」ものである、と記している。
初代のキリスト教のあつまりにおいて、信じる人たちが、生活も食べるものも、共有していた。人気や、権力でなく、主イエスと共にあった。この世では楽しみを共有する。しかし、キリストのあつまりでは、苦難と忍耐、そして、希望を共有した。それが、キリスト教が世界に広がっていった基である。苦難を共有し、神様の力を知る。貧しい時代、苦しみの中でこそ福音は広がっていくのである。
だれかが苦しむとき、それを少しでも共有しようとしなければ、キリストの集まりも前進していかない。福音のための労苦を共有する、ということが大事なのである。この黙示録は、ヨハネがパトモスという島に迫害して追いやられたとき、そこで書かれた。迫害ということを神は用いられたのである。人間から見て、損失だと思うことを神は福音のために利用される。
 そして、「七つの教会に書き送れ」とある。聞いたこと、見たことを、書き送る。人につたえる。神は特別な人を選び、その人に言葉をまず与えた。それがつぎつぎに伝えられ、福音は広められたのである。


お知らせと報告
○一月一七日(日)は、午後、ダンテの読書会です。


○一月二四日(日)の午後は、四国集会の話し合い、その後つゆ草集会です。つゆ草集会は午後二時半からとなります。


○一月第五週の二七日の水曜集会は休会。三〇日(土)の土曜日集会はあります。


○特別集会…一月三一日(日) 千葉県から、多田義国氏が、一月30日(土)日午後の土曜日集会にも参加され、翌31日(日)の主日礼拝にて、聖書講話をして下さいます。開会は、いつもの主日礼拝と同じ一〇時三〇分からです。


○香川県での集会の場所変更…佐々木宅から次の場所に変更になりました。開会は、午後三時からです。
・名称…「サンサン館みき」香川県木田郡三木町大字氷上2940番地1 電話 087ー891ー0333
・毎月第一日曜日午後三時~五時頃 。次回は二月七日(日)。


○二月一四日(日)吉村(孝)は次の集会にて聖書講話の予定です。①阪神エクレシアの集会。午前一〇時~一二時 神戸市元町駅近くの私学会館にて、②高槻市の那須宅での集会…同日午後二時~五時頃。


○「いのちの水」誌十二月号訂正 24頁四段目右から十六行目
稲田誠一→稲田誠二でした。


○「いのちの水」誌にも書いたように、今年から、第一週と第五週の水曜集会と土曜日集会は休会となります。なお、第一週と第五週の月曜日の戸川宅での北島集会は、私は不参加ですが、録音を用いて継続されることになっています。


○「野の花」文集、余分を希望の方は左記に申込下さい。一部200円 。(送料当方負担)
○ルカ福音書聖書講話 CD(MP3版)が完成。一回の平均講話時間は約三五分。全部で一六三回の講話です。合計で約九五時間分となります。CD八枚(内容目次付き)。価格二五〇〇円。(送料当方負担です。)申込は左記まで。
○なお、「ヨハネ福音書聖書講話」、「創世記聖書講話」も、あります。いずれもMP3版。それぞれ価格二〇〇〇円。


○これらを聞くための機器として、MP3対応 CDラジカセは生産終了となりましたが、新たにDVDラジカセが販売されているのがわかりました。それは八〇〇〇円でお分けしています。



今日はです。更新はです。