集会だより 2012年12月号 第389

主の憐れみは、主をおそれる者に、
世代から世代へと与えられる。
(ルカ1の50


○十一月十一日(日)主日礼拝 「福音と伝道」

     (沖縄全国集会での発題の録音メッセージ)
 キリスト者は、福音を聞いて、信じることができた。誰かが伝えてきたのである。それが脈々と続いてきて、次々と信じる人が起こされてきた。神に呼び出され、願い、祈り、そしてキリストを伝えてきた多くの人たちがいた。社会的に改善されてきたよきこと、医療や福祉など、その根源をたどっていくと、たえずキリストの光がある。女子教育や平和運動の根源も聖書にある。
次の詩篇に見られるように、福音―神の言葉をこの世に送り出すということ、それは宇宙的な神のご意志なのである。
「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。 昼は昼に語り伝え夜は夜に知識を送る。 話すことも、語ることもなく声は聞こえなくてもその響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩篇十九篇25
 詩編19編では、このように良き知らせ、福音を伝えようとする神の御意志が示されている。神は歴史をつくり新しいものを作り出していく。信仰、希望、愛、それも福音である。愛も希望もどこにもないと思われるところでも、キリストの光は続いている。
 神は決して信じる者を捨てない。信仰はどこまででも続くのである。そして、神の光を受けて働くとき、どのような仕事でも、祝福された地道な働きがある。それを人は知らなくても神が御存じである。そして、必要に応じて、神はそれを他者に広められる。大空を見ると、神は清らかなよきメッセージを与えている。
 福音は「Good News」と訳される。最大のよい知らせなのである。それは、罪が清められるからである。人間はどうしても神の真実に従えない弱さがある。その罪の赦しこそが、最大の福音である。そしてそれは、心に受け、そのまま伝えていくとき、神が働かれ伝えていくことができる。学問があるかどうかは関係なく、与えられた福音をしっかりと受け止めて、主に導かれつつ、可能な方法で伝えようとするとき伝わっていくのである。
 創世記の始めに、地は空しく、形なく、闇があり、そこに神の霊(風)が覆っていた、と記されている。闇の中に、神の風が吹いていたのである。たとえどんなに闇があっても、そこに神の風が吹いている。それを受け取ればいいのである。また、創世記には砂漠に水が湧きあふれることも記されている。水と風。それはどんなに狭い隙間であっても自由に行くことができる。風は思いのままに吹くとある。聖霊によって生まれたものは、そのように導かれて行くのである。それこそが良き知らせである。
 今も、この日本にも神のこの風が吹き、水が流れている。どんなに弱くても、心を神に開くとき、その風が伝わってくる。この一番大事な仕事は、たとえ寝たきりの人でもできる。祈りがあれば、そこから伝わるからである。


○十一月十六日(金)天宝堂集会 ピリピ書一・914
 ここでは、主にある愛がますます豊かになるように、そして、いっそう深く知ることができるようにというパウロの祈りが記されている。この世の愛は強くなるほど、ますます特定の相手にだけ注がれ、他の人のこと、周囲のことが分からなくなっていく。何が正しいか見抜く力をもって冷静に理性的に愛することが大事である。それはまさしくキリストの愛である。
 これは、「 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。」(エペソ一・1718)という箇所からも示されている。
学問があっても心の目は開かれるとは限らない。 それは原発関係で数々の学問ある人たち―自然科学、工学、政治、経済、法律などの専門家たちが、絶対安全という虚偽のことを受けいれ、国民にもそのようなことを宣伝してきたこと、また、聖書の世界でも、旧約聖書を学んできた律法学者がイエス・キリストが救い主であるということが見えなくて、かえって最もキリストを憎み、迫害することにもなっていたことからもわかる。
 どうすれば、真実が見えるようになるのか。神によって知恵と啓示の霊、つまり聖霊が与えられて初めて心の目は開かれる。人間は弱さ故に誰でも、真実を知る力と見抜く力がなくなってくることがある。だから、パウロがあえて、祈り求めるということを示しているのである。真理を見抜く力を伴った理性的な愛こそ、本来だれもが求めている愛なのである。
 キリストの日に備えて、ということは、最終的にこの世界に終わりが来て新しくされる。また、人間は死ということによっても終わりが来る。主イエスを信じるものは、死後、また世の終わりによって、その後で神の栄光の世界に入れられる。だからそのときに、とがめられることのないように備えていなさい、とパウロは記している。
 イエスを信じ、十字架によって正しいとされるとき、自然によき実が実るようにされてくる。それが義の実である。
 神の真実や永遠があるということがわかって、神を賛美できるようになる。また、神が創られたあらゆるよきものを讃美できるようになる。そのような心が与えられることが人間にとって本当に幸いな事なのである。
 わたしの身に起こったこと、とパウロが言っているのは監禁されたということである。パウロが捕えられたとき神の力は働かなかったのか。そうではなく捕えられたことにより、神の言葉を勇敢に語ることができるようになった。迫害の時代もいっそう、神の力を語ることができキリスト教は広まった。人間の力ではなく、神の力が働いたのである。窮地に陥った時にこそ、いっそう神の力が働くのである。困難や弱さを持っているところに神は働かれ、その弱さを用いてくださるのである。


○十一月十八日(日)主日礼拝 Ⅰコリント書一・124
 キリストを信じる者の体は、キリストの体の一部である、という今までの内容から続いている箇所である。キリストの体であるから、男女の間違った関係で汚れることはあってはならない。しかし、現実にはそのような罪がこの集まりの中にあったためパウロはこのような内容に言及しているのである。
 ここで、なぜ、独身のままでいたほうが良いとか、欲求が抑えられないなら結婚した方がいいとかかかれているのか。
「主が来られるときまで生き残っているわたしたち」(Ⅰテサロニケ四・15)とあるように、もう、再臨が迫っていると考えられていた。だから、独身でいるほうがいいという考えがあったのである。もう、終わりの時が近いというとき、結婚、身分などこの世の社会的な問題はどうでもよくなる。それは、私たちに「死」が迫っているときのことを考えるとわかる。この世のことでなく、神のことだけを見つめることが重要になるのと同じである。
世の終りが近いのだと実感するとき、一番必要なことは自分をも含め、人々が神に受け入れられるようにという願いだけになる。時間が限られると人間は真剣になる。パウロが一日も惜しんで宣教するために、神様がパウロにそのような啓示を与えたのである。時間は有限である。わたしたちも、終わりの時を思い神のために生きていくべきである。
 終わりの時に、誘惑に遭い滅びてしまわないように、夫婦関係のありかたが記されている。そして終わりの時が迫っているから、独身の人はそのままで、キリストの花嫁になるほうがいいとある。しかし、それは、人それぞれだから、結婚してもいい。また未信者の人と結婚している人は、どうしても価値観が合わない事が起ってくるが、離婚してはいけないし、離婚した人は、再婚してはいけない。それもすべて、再臨が近いと考えられていたからである。
 信仰を持っている配偶者は、信仰を持っていない配偶者にも、その信仰の力が及んでいく。これは、現実には相手が変わらなくても信じていく。自分が信仰をしっかりと持っていたら、相手も清められていくのである。男女の関係はあらゆる人間関係の根底にある。これは、聖書が一番はっきりと示している。
 また、奴隷が自由になっても、そのままでいなさい、と記されていることも、再臨がそこまで来ていると信じられているからである。身分は奴隷であっても、キリストにあっては自由だから、再臨までそのままの身分でいなさいと言われているのである。
 結婚は神秘であり、その関係を壊してはいけない。「人は父と母を離れてその妻と結ばれて二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです(エペソ書五・31)とあるように、結婚は、キリストと一体になることを象徴している。だから、キリストに対する畏れをもって互いに仕えあうべきなのである。このすべてに人に開かれたキリストとの霊的な結婚を感謝したい。


○十一月二十五日 (日)主日礼拝 Ⅰコリント七・2540
 未婚の人たちとやもめ、という、特殊とみられる問題の中に、パウロは、普遍的な内容を示している。この内容は、世の終わりが迫っていると考えられている状況のもとで書かれている。もうすぐに危機的な状況が起こりうる。だから、現状にとどまっていることを勧めているのである。実際、世の終わりがあることは、聖書に記されていることである。それは、さまざまな危機が起こり、戦争や飢饉や天災が起るとある。聖書の言葉からいうと、徐々にこの世がよくなって、理想的な世界になるのとは違う。人間の目に見えることでは、悪くなってくる。しかし、最終的には主の再臨で、新しくされるのである。そのために、このような危機が起こると記されている。
 それは、この世のことで思い煩っているときに起るかも知れない。だから現状にとどまり、ただ、主に仕えることを勧めているのである。聖書には、神に従う道か、背く道か、どちらを取るのかということが問われている。現在のわたしたちにとっても、問われていることである。
「見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを叱咤と共に火と炎を送られる。」(イザヤ書六十六・15)とあるように、主は、火によって悪を焼き尽くすためにこられる。神様ご自身が、わたしたちを悩ます、悪そのものに決着をつけてくださるのである。人間が苦しむのは罪のためである。それが滅ぼされる。
そして、「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。」(マラキ三・20)とある。これはキリストの預言となっている。パウロが時が迫っている、と言っているのは、キリストの再臨を示している。それは、わたしたちには、なかなか分かりにくいことであるが、聖霊があたえられることで、知ることができる。わたしたちにとっても、主の日は近い。それはいつかわからない。だから、気持ちを引き締めて、主が来られる日を待ち望みつつ生きていきたい。聖書の最後には「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。(黙示録二十二・20)とある。主よ来てください、という祈り、そしてそれは御国を来たらしてください、という祈りにつながっていく。日々、目を覚まして祈り、主を待ち望む者でありたい。


◯十二月二日(日) 主日礼拝 サムエル記(上)2930
ぺリシテとイスラエルの戦いが始まろうとしていた。ダビデはサウルに追われぺリシテに逃げ込んでいたので、ぺリシテ軍に加わり、戦いに行かねばならない状況になった。ぺリシテの領主であるアキシュはダビデを、神の使いのようだと評価し、信頼していた。しかし、部下たちは、ダビデがいつ裏切るかもしれないと、戦いに連れていくことを反対した。本来ダビデはぺリシテにとって一番の敵なのだから。
ここでもし、部下たちが反対しなければ、神の民とされるイスラエル人を殺すことになり、ダビデは非常に困っただろう。だが部下の反対によってイスラエルと戦うことなく、またアキシュの信頼を裏切ることもせずにすんだ。結局、ダビデは両方に罪を犯さずにすんだのである。
人間の予想を越えて神が働かれる。人間はどうしても間違った方向に行ってしまうが、神は不思議な仕方で守ってくださる。道が無いような所に、道を開いてくださる。三千年前の記述だが、今のわたしたちにも重要なことを示している。
戦いの最中に「裏切られてはならない」とある。ここでは、「裏切り」という名詞が使われているが、このヘブライ語がサーターンという言葉であり、その動詞も「敵対する、妨げとなる」という一般的な言葉である。それが、「サタン」という神と敵対する霊的な存在を意味する言葉の元になった。他にもヨブ記に十四回、ヨブに対する神の守りを妨げるのがサタンとして出てくる。
ダビデが、与えられた土地ツィクラグに帰ると、アマレク人が侵入し、無惨に攻撃されていた。だが兵士たちは自分の身に苦しいことが降りかかると、敵ではなく、ダビデを殺そうとした。かつて一緒にパンを食べた者も、突然敵に変ることがある(詩篇)。モーセにしても砂漠で同じようなことがあった。だが、まわりの人間全部が攻撃してくるような中で、神に頼った。わたしたちも、誰にもわかってもらえない問題、また非常に苦しい病気など、棄てられたようになったときも、神に頼ることができる。
ダビデも、祈ろうとしてエフォド(祈りの助けとなる祭司の服装)を持って来たのがアビアタルであった。アビアタルは、前に、サウルの迫害からダビデを助け、そのために殺された(2220)祭司たちのうち、たった一人生き残った人であった。神がこういう人を、必要あって残そうと思えば残されるのである。
ダビデは主に言葉を求めた。アマレクを追跡すべきか、砂漠では難しい行軍だ。敵はどこにいるのかもわからない。その時、神様は、飢えて死ぬ寸前の、アマレクの奴隷になっていたエジプト人を使って案内させた。 ダビデは、奪われたものをすべて取り戻した。神様の不思議な導き、また力。
戦いに出ずに残っていた人たち。死の危険も犯さずに、弱さのためにただ待っていた人たちもいた。戦いで得たものも、神の導きがなかったら、できなかったことである。「悪意を持ったならずもの」というのは、主がしてくださったものを、「自分達がしたのだと思う悪意」である。よくありがちだか、悪意を持たないにしても、働きのないものには与えないという考えは、人間的である。
色々な理由で、弱くてできないその弱さを神様は見てくださる。弱さを持って働きができない人たちにも分かとうとするキリスト教の考え方が、すでにイエスより千年も昔からすでに芽生えていたのである。このようなことは、新約聖書にもつながるよく似た喩えがある。マタイ20章、労働者が次々と雇われていく。だが日の暮れになってやっと雇われた労働者。この人にも神は同じ報酬を与えた。


○十二月七日(金)天宝堂集会 聖書箇所マルコ六章6~13
この前の箇所で、故郷では不信仰があり、イエスは力を発揮されなかったと記されている。イエスの力は、受け入れて信じるときに発せられる。心を神様に開くと、そこに神様の奇跡、神の業がなされていたことを知らされる。イエスに対する信頼と、神の奇跡は響きあっている。
ここで、弟子たちが、宣教のため派遣されていった。福音を伝えるということは、自分の考えではなく神の思いを伝えることである。その重要な働きに弟子たちは、二人ずつ組にして派遣された。主イエスは、二人または三人が主の名によって集まるときには、わたしもその中にいる、といわれた。そこに霊的なイエスがいて、共に働いてくださるのである。
イエスが弟子たちを派遣するときに、何を与えたか。それは、悪霊を追い出す力であった。そして、目に見える備えとしては、杖のほかは何も持たないように言われた。悪に対する力が十分与えられると、ほかのことは与えられることを示している。悪が心にあるから、欲が出てしまい物に心を捕らわれる。そうすると力は働かない。
「神の国と神の義をまず求めなさい、そうすれば、ほかのことは与えられる」と主イエスは言われた。
悪霊を追い出す力を与えられるということは、神の御支配を与えられるということである。人間が一番必要な力は悪に勝つ力であり、罪が清められることである。心に悪が巣くっているから、人は憎み返したり、おびえたりする。もし悪の霊に対する力をいただいていれば、見下されても耐えていくことができる。
真剣に真実に福音を伝えても、まったく受け入れられないとき、そのような町は、裁かれていく。足の裏の埃を払い落とすというのは、神様から裁かれてしまう、という象徴的な行動であった。
この弟子たちは、信じたばかりだった。しかし、このような不思議な力があたえられた。神の力は人生経験や学問によって与えられることではない。それは神が与える。だから差別はなく、どんな人にも与えられるのである。
悪の霊は世にはびこっている。それを追い出すのは聖霊である。この霊こそが、力をもって、働くのである。
悪の霊が追い出されるとき、そこに神の国がある。わたしたちの内に、執拗に宿ろうとする悪の霊を追い出す聖なる霊。それはイエスから直接与えられる。神に、主イエスに心から方向転換さえすれば聖霊は与えられるのである。


◯十二月十日(月) 北島集会 詩篇11997112

この詩全体が、み言葉に関する詩である。
「律法」と訳されている原語(トーラ─)は、現在では、一般的には、ユダヤ人の教典を表すというように思われているので、わたしたちには関係なく思える。しかし、このトーラーという原語は、聖書ではいろいろに訳されている。(主の)「律法、教え、掟、規定、等々。一言で言えば「神の言葉」である。
詩篇第一篇にある、「主の教えを愛する」と訳されているところで、「教え」の原語は、このトーラーという言葉である。 同じ新共同訳でも、トーラーという原語がこのようにいろいろに訳されている。それで、「律法を愛する」、とは、現代の私たちには、「み言葉を愛する」ということである。この詩篇の言葉も、「神のみ言葉を愛し、喜び、神の言葉を口ずさむ(黙想 瞑想する)」ということなのである。
神様のみ言葉を、どれほど愛しているか。み言葉が、昼も夜も心にある。心がそこにあるならばいつも思い出す。愛するとはよろこぶことであり、心をそそぐことなど、詩篇第一篇との関連は大きい。
「わたしはあなたのみ言葉をどれほど愛しているでしょう(97節)」とある。愛しているから、そこに心を注ぐ。これはわたしたちのあるべき姿である。人間の言葉がいつも心にあるとき、それが悪い言葉であれば、とりかえしのつかないこととなって残ってしまうが、本当によい、神様からのものをわたしたちは蓄えることができる。神のみ言葉は、何が一番価値あることかを直感的に知る英知を与える。
それだけでなく、蜜より甘いものを与える、とある。現代人にはありふれてわからなくなってしまったが、砂糖さえ無く、この当時、他のものとは別格に、蜜は極めて貴重なものであり、栄養に富んで力づけられるものであった。ここで、神様のみ言葉はそれよりも甘く、人間にとって心地よいものであるのだ、と言っている。更に力や栄養になるみ言葉。それをこの表現で言っている。当時の状況を知らないと「蜜」というこのインパクトはわからない。神様の言葉は本当に魂にとって心地よいものである。心に深い栄養を与える。いかなるものよりよきものである。
あなたのみ言葉は、わたしの道の光、とある。み言葉は、動的なもので、たえず導いていくものでもある。わたしたちの生きる道を照らすのは、み言葉であり、老年になっても照らし、死んでもなお、永遠的に照らし続ける。毎日の生活のなかで、また圧迫されたり卑しめられたり、困難な状況で、道を失うようなときがあっても、なおそこを越えて行ける道をしめしてくださる。「嗣業」とは、神様から受け継いだ財産。神様からのみ言葉は、神様から譲り受けた財産だ。何千年かかって受け継いできた。


1211日(火)海陽集会 この集会は、視覚障がい者(弱視)の数度(すどう)勝茂さんが責任者、全盲の数度春代さんの治療院での集まりです。勝茂さんが鍼治療を主として、あんま、マッサージもやり、春代さんはあんま、マッサージ業を、となりあわせた建物で、それぞれがしています。お二人は、きょうだいです。
この集会でも、スカイプをいつも併用しています。今回も、参加者が、関東地方のご夫妻、九州の方、そして県内の病院に入院中の人もあり、少数ながら遠隔地の方々とともに礼拝、讃美できることの恵みを感じています。
海陽町とは、徳島市から八十キロほど南、高知県にあと十キロというところで、美しい大里海岸が、二キロほども全くゴミや観光用の建物など何もない自然のままで広がっていて、そのような自然のままの長大な海岸は現在の日本ではまことに貴重なものとなっています。


お知らせ

○クリスマス集会 1223日(日) 午前10時~午後2時。こどもとともに、讃美のひととき、聖書講話、感話会、昼食と交流会などがあります。問い合わせは、吉村孝雄まで。どなたも参加できますが、 昼食代金として五百円が必要です。(午前中で帰る方は不要です)

○故 鈴木一明兄の納骨式…1125日(日)に鈴木益美さんのご父君の納骨式予定でしたが、私の足の怪我のために、できなくなり、十二月三十日(日)の午後二時からになりました。寒い季節なので、参加者は厚着しておいてください。場所は眉山のキリスト教霊園です。

12月のスカイプ集会 は、27日午後8時からです。問い合わせ、申込は、中川 陽子さんへ。myrtus7@khc.biglobe.ne.jp

○元旦礼拝 1月1日午前六時半~八時 徳島聖書キリスト集会場にて。

○今月の移動夕拝は、いつもの第四火曜日でなく、十八日(火)、中川 啓・春美夫妻宅です。田宮の集会場ではないのでご注意。

○第四火曜日の夕拝は、その前日24日がキャロリングとなっているので、今月はおやすみです。

○出エジプト記の聖書講話CDは、2巻と前回のお知らせで書きましたが、3巻となる予定です。価格は、送料共で1500円です。

○今月の集会だよりは、いろいろな都合で、集会の一部の内容だけの掲載となっています。


集会だより 2012.10 NO.387


恵み深いあなたの霊によって、安らかな地に導いてください。
(詩篇143の10


 

○九月二日(日)主日礼拝  サムエル記上二十五章

 ダビデがバランという砂漠地帯に行っていたときのことである。そこに裕福なナバルという人がいた。当時は旅をするということは命がけであり、誰かに水や食料を分けてもらう必要がある。ダビデがバランにいたときに、ナバルの従者には親切にし、羊などが奪われそうになるときにはダビデの一軍が昼も夜も守るということもしていた。そのナバルに従者を送り、水や食料を分けて欲しいと頼んだ。そして「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように」と祝福を祈った。この「平和」という原語シャーロームは、単に争い、戦いがないという意味ではなく、「神によって完全にされる―満たされる」というニュアンスを持っている。
 しかし、ナバルは、このダビデの丁寧な依頼を侮辱してはねつけた。ダビデはこれを聞いて憤った。いままで、サウルにどんなに理不尽に命を狙われて追われても、反撃することのなかったダビデであったが、神に対する祈りを忘れ、人間的な感情に押されて反撃に出ようとした。これを知ったナバルの家来は、聡明な妻に成り行きを伝えた。妻、アビガイルは即断し、ナバルに告げずに、精一杯のものをただちに準備してダビデに会いに行った。そして、ひれ伏して謝罪し、「主は生きておられる」と言った。隠れた悪事には最終的には必ずさばきがある。また、隠れた良いことも神は見ておられる。主は生きておられるからである。アビガイルはダビデに「あなたをひきとめて、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。」と伝えた。自分の感情に流され、流血の罪を犯そうとしていたダビデに、先を越して、すでに思いとどまったことを伝えている。そして、アビガイルは、ダビデがこのような人間的な戦いをする者ではなく主の戦いをする者であり。王となる者であることを伝えた。このような誰もが見抜けないことを見抜く力、何が本当に価値があるかを見抜く力が英知である。アビガイルはこの神の英知を授けられていた。武力も権力もあるダビデに向かって、四百人もの従者の前でアビガイルは彼の間違いを指摘したのである。無礼なことと怒ることもできたが、ダビデはすぐに神に心を向けた。
「イスラエルの神、主はたたえられよ。主はきょう、あなたをわたしに遣わされた」と、アビガイルの言葉が神によって語られたことであることを受け止めた。もし、アビガイルが遣わされていなければ、罪を犯すところだった、と謙虚に受け止め、ダビデはアビガイルの申し出を受け取った。
 自分の思いを捨て、謙遜に神に聴き従おうとするとき、神はそれに応え、神ご自身が正しく裁きを与え、従う者には祝福を与えてくださるのである。
 そして、アビガイルは最後に「主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください」と言った。パウロも、「あなたがたを思い起こすたびに、」と祈っていた。いつも、思い起こしながら祈っていたことがわかる。
 三千年も昔の記事であるが、神を見つめ、勇気を持って神に従っていく姿勢が、今の私たちに告げられている。


○九月三日(月)小羊集会 マタイ二十六・6975

 主イエスが捕らえられた場所にペテロは後からついて行った。その中庭で、そこで働いている女中に、あなたは主イエスと一緒にいた人だ、と指摘された。ペテロは、そんな人は知らないと強く否定した。ペテロは少し前には「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったとある。(マタイ二十六・35)しかし、そのあとで、ここまで主イエスを否定してしまった。ペテロも、まさか自分が、このように主イエスをののしってまで否定するとは考えもしなかった。人間は時と状況によっては、非常な弱さを露呈する。どんな優れたと思われる人でも、突然罪を犯してしまうことがある。心の底をすべて見透かされたら、罪と汚れに満ちたどうしようもない存在、それが人間である。
 人間の弱さや罪を見るとき、そこに救いはない。しかし、どんなに汚れた者であっても、罪を赦し、清め、そして導いてくださる主イエスがいてくださる。ここにのみ救いがある。
 ペテロが主イエスを三度も否定したとき、すぐに鶏が鳴いた。それは、主イエスが予告していたことだった。主イエスはすべてを見抜いておられた。そのことを思い、ペテロは激しく泣いた。
自分を愛してくれていた主イエスを裏切り、真実に反してしまった罪を深く知らされた涙だった。自分は立派な弟子だと思っていたのが徹底的に砕かれ、本当の姿を知らされた。
人間はいつのまにか自分に頼り、自分を誇る。他者を見下す冷たい、傲慢な心が潜む。それは、示され、砕かれる必要がある。そのために、神様は、さまざまな苦しい出来事を与えられ、それを通して砕かれ、キリストによる救いが必要であることを知らされるのである。


○九月六日(木)いのちのさと 詩編一〇五

 この詩編は、歴史を振り返り、神の御業を讃美することがテーマである。歴史は人間が主役となり、偶然に起こっていると考えらえている。しかし、聖書は、歴史も神の御業であることを示している。
「 主を、主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。」(4節)
いつの時代も、混乱があった。しかし、その中で主の御顔を求めていく。それは、神のほうにまっすぐに向き合うことである。心に罪があれば神に向かうことはできない。罪赦され、清められて初めて主の御顔を求めていくことができる。
 主はアブラハムを選び、祝福され、カナンの地を神の国を象徴するものとして与えられた。その出発点は、小さなものであった。神の御業は小さなところから始まる。小さなところで、神様の真実を守っていれば、神の祝福をうけて大きくひろがる。神の祝福を受けた人々、神の本質を注がれた人たちは特別な守りを受けた。それで、小さなものが大きくされていった。
 その約束の地であったが、そこに大変な苦しみが与えられた。しかし、そこにヨセフを遣わされた。ヨセフは苦しみによって練り清められ、そして用いられた。また、神はモーセとアロンを遣わした。そこで、さまざまな御業をなされた。そのあと、この詩には「主がなされた」ということが繰り返し、繰り返書かれ、人間ではなく主がなされたということを明確に記している。偉大なのは人間ではない。神が用い、神がなされるのである。「主は聖なる御言葉を御心に留め、僕アブラハムを御心に留められた。」(42節)
 神様はいつも、わたしたちを覚えてくださっている。だから、わたしたちも、主にあって困難の中にある人を覚えておく。そして、思い起こして祈りに覚える。それは私たち誰にでもできることである。


○九月十二日(水)北島夕拝 ヤコブ書五・720

 主が来られるとき、ということが記されている。主の再臨。これはどのような形で来られるのかはわからない。しかし、主は必ず来られる。悪はいつまでも続くのか。それとも、悪は滅ぼされ、神の支配となるのか。どちらを信じるかによって、生き方がきまる。主の約束を信じ、再臨を信じるとき、大事なことは、忍耐である。現実の世界は闇の力があふれている。そこで忍耐が必要となる。最後には神が正しく全てを裁いてくださる。だから、そのとき裁かれないように、清められていきたい。正しく裁かれる主が来られるのであれば、自分も相手も赦されるように、悪い心が消えるようにと祈るべきである。そして裁きは主にゆだねる。
 キリストに望みをおく忍耐は、必ず主が最善にしてくださる、という希望がある忍耐である。
 ここで「誓いをしてはいけない」と記されているのはどういうことか。安易に神を持ち出し、安易に誓うべきではないということである。人間には何が起こるかわからない。明日の命さえ自分の意志でどうすることもできない弱い存在である。これらのことが書かれているのは、いつ起るかわからない神の裁きに合わないように、日常生活においても心をひきしめるために記された。
 そして、苦しい時には祈る。喜ばしい時には讃美をする、とある。地上でどれほど、苦しみがあって闇の力が覆っていても、天上では賛美が広がっている。主が来られる日まで、日常的にできることをしていくことが示されている。


○九月十四日 天宝堂集会 ピリピ書一・1~11

 パウロはこの手紙の初めに、まず、自分がどういう者であるかをはっきりと記している。それは、キリスト・イエスの僕「原語の意味は奴隷」であるということである。自分の思いでもなく、他者の指示でもなく、ただ、キリストの指示に従う者。それがパウロの一番の肩書きであった。
 パウロはこの手紙を、ピリピに住む、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに対して記した、とある。この「聖なる者」とは特別な聖人という意味ではない。旧約聖書以来、「聖」ということは、完全無欠といった意味ではなく、本来の意味は、「分かたれた」(be set apart , separated)という意味である。ピリピの信徒の中には、信仰を与えられて間もない人もいた。しかし、キリストを信じている限り、神によってこの世から分かたれた者であり、守られ、導かれていくのである。
 そしてまず「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」という祈りが記されている。パウロの祈りが凝縮したものがこの冒頭である。
「恵み」とは、一般的には、あらゆる善きことを意味している。そうした数知れない恵みの中で、人間にとって何が最も善き恵みであるか。それは、罪が赦され、清められることである。人間は誰もが実際は弱く、もろい。自分自身でも知らないような醜い心がひそんでいる。そのような、どうにもならない人間の罪を赦され、清められること。恵みとは罪の赦しの確信からくる善きことといえる。
 また、ここにある「平和」という言葉は、もとの意味は旧約聖書のヘブル語のシャーロームに由来するのであって、それは単に戦争がない、争いがないといった否定的表現で表されるものではない。 このシャーロームという語は、完成する、満たされるといった意味を持っている。それゆえ、神によって満たされ、完全にされた状態、という意味である。罪赦され、清められ、そして、神によって満たされ完全にされた状態になること。それこそが、人間のもっとも、幸いな状態である。この「恵み」と「平和」があるように、ということこそが、人間にとって最も必要なことである。どうか信徒たちが、そのように導かれていきますように、というパウロの祈りである。そして、これはわたしたちも、誰に対しても祈るべき祈りである。 
 この冒頭の箇所は、パウロがどれほど、信徒たちのために祈っているかという心が伝わってくる。そしてそれは、キリストからのわたしたちへのメッセージでもあり、目指すべき到達点でもあると言える。
918日 イザヤ書53章1~4、102日(同53章5~12)
 本来は5212節からが53章に入るところ。低く低くされた者が、高く高く、神と同じほど高くされるということがはじめに記されている。人間とは見えない程外見が損なわれ、ひどい状態にまで…とあるようにどこまで低くされたかが53:2,3に書かれている。乾いた地に埋もれた根から出た若枝のように…やっと育った、貧弱で力のない成長をしてきた。どこから見ても高くあげられるとは思われない姿をされていた。3節 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っていた。まさに  その姿は A man of sorrow(悲しみの人)であった。その彼を、私たちは軽蔑し、無視していた。4節 この悲しい程にやつれたのは、私たちの身代わりになってわたしたちの罪を負い、私たちの苦しみを担ってくださったからであった。このようなことは、その人の内に神さまの力、キリストのような力(キリストからの慰め)をもっていないと、決して出来ないことである。私たち人間は愚かにも、このような苦しみを一身に負われた方に対して、彼は神の手にかかり、打たれたので苦しんでいるのだと思った。何と言う誤解、恥、不信実であろう。5節 彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの故であった。私たちの罪のために打ち砕かれた。私たちには罪があるのでいつも不完全である。いつも欠乏している。不満がある。そこにある種の完全なものが与えられた。6節~ 自分の欲望の方向に行っている。(これが罪)根本的な罪を僕に負わせられた。誰も考えたことのないような方法で、解決の道を示された。11節 そしてわたしの僕(イエス・キリスト)は多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。12節 多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しのしたのはこの人であった。それから五百数十年後、イエス・キリストによって実現した。そして現在に至るまで今も、日々犯す私たちの罪を負ってくださっている。
 イエス様は侮辱されても、非難されても、黙して、今も私たちのために罪を負ってくださっている。イエス様が受けた十字架によって、今も私たちに平和、シャロームが与えられている。このイザヤ書の記事は過去のことではなく、今現在の話である。
 私たちがイエスさまと共に荷を負う時には、安らぎが与えられる。重いはずの荷が軽くなる。イエス様はどんな人の重荷でも、共に負って下さる、罪の重荷でも、魂の罪の重荷でも、担って下る。


◯ 九月二十三日(日) 主日礼拝 一コリント四章6~13 40名(うちスカイプ4名)

コリントの教会にも様々な問題があった。完全な者でもないのに「わたしに倣う者になりなさい」とパウロが言っているのは、当時は聖書がない時代であって、キリストがわたしたちのために死んでくださった、という単純なことから入った人が多かったため、まず最初に福音を告げた人にならうように、と言っているのである。当時の状況を知らなければ間違って理解する。パウロにつく誰につく、という問題があったのだ。
ここに「高ぶる」という言葉が何度も出てくる。「高ぶり」とは「膨らます(puff up)」という言葉が元にある。「自分は偉いのだ」「自分は何かを持っている」というのは「膨らんでしまう」こと。知識は高ぶらせる、と同じ。党派の争い、いじめ、批判、差別、裁き。人間があつまると、至る所でそういうことが起る。しかし、持っているものは、自分の持ち物か。神様から戴かない自分の持ち物があるのか。神様が取去ろうと思えばすぐなくなる。健康も、自分で支えることはできない。与えたのは神様である。 このことを教えるのが聖霊だが、聖霊が働かなければ、わからない。
ヨブ記にあるように、自分のものだと思っているものも、健康、命、みな、神が奪おうと思えば失う。すべて神様から与えられたものである。そういう考えが、わたしたちの日々を変えていく。悪い人に直面する。そこで自分の限界を知る。そして祈らずにはいられなくなる。
予想しなかった悪いようなことも、神様が与えている。よき目的があってのことと信じる。神には不可能なことがない。
自分がえらい、と膨らんでしまったようなコリントの教会の人々の中で、本当の福音についたものは非常に低くされていく。本当の真理を充分わかっていない人は、キリスト教になっても、何か見下し、膨らんでいく。神様を知らない人より偉いのだと。パウロの心は、自分はどこまでも低い所に居よう、ますます低くなって、さらし者のようになってもキリストについて行こうとする心だ。 しかし、コリントの信徒たちには、強いと思い、尊敬されたいという思いが深く巣くっている。
実際にパウロの言葉どおり、「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓」とされたようなところから、福音の真理がほんとうに伝わっていった。人間の力でなく、弱さの中で神様が力を発揮され、不思議なかたちで広がっていったのである。わたしたちも、弱さのなかで神様を仰ぐと、また力を与えてくださる。


◯ 九月二十三日(日) つゆくさ集会 マルコ153541

葡萄酒をさらに発酵させると酢酸になる。ここにある「酸い葡萄酒」とはそのような葡萄酒でなくなったもの。それを飲ませようとして、イエスを最後までさんざんあざけったのである。天地が暗くなった。光であるイエス様を抹殺しようという、まさに真っ暗闇の状況。イエス様のお心も「どうしてわたしを見捨てられたのか」と叫ばれたほど暗かった。その真っ暗闇の只中で、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。 これによって、神と人間を隔てていたものが、この時破られたのである。どんなに暗闇になっても、あざけられ罵られたとしても、最も大事な真理は実現していく。キリスト教は単なる戒めを言っているのでない。
どんなことがあっても、神の御計画がその只中を進んでいく。イエス様がこのように血を流して死んでくださったので、色々な儀式をせずとも、妨げなく、神様のところに誰でもが行けるようになった。非常に大きなキリスト教の中心的真理を言っている。 説明無しに聖書はわからない。
指導者たちがキリストを憎んで殺してしまった。しかしローマ人であるこの百人隊長が、どこから見ても残虐な殺され方をしたイエスを見て、「これは本当に神の子(神と同じ方)」と、まさにそのときに信じたその信仰。弟子たちでさえ裏切り、逃げ去ったのに。
風は思いのままに吹く。神様の風が吹けば、どんな状況にあっても信じる人が起される。天地が真っ暗な中で、このようなことが進んでいった。
女性たちが遠くで見守っていた。このような状況にあるときまで、イエスに従っていた婦人たち。名前まで記されている。重要な働きをしたからである。
世の中の問題も知れば知るほど明るくはならないが、究極にはみな「キリストのもとにまとめられる(エペソ一章10)」と、他の書物にも、どこにもないこの確信が、聖書には示されている。


○9月28日スカイプ集会 18名(徳島・富山・神奈川・東京・愛知・千葉より参加)エフェソ信徒への手紙一章三節~十四節

 ここは「キリスト」「イエス」という言葉が十三回も繰り返され、圧倒的にイエス・キリスト中心の記述であることが分かる。人間である内村とかルターやアウグスティヌスがどう言ったかではない。イエス・キリストがどう言われたのかが重要である。そしてそのキリストからのメッセージ(啓示)が記されているのが、聖書である。
この箇所も、私たちをキリストにあって、天のあらゆる祝福で満たしてくださったという深い実感から書かれている。何故激しい迫害を受け、沢山の人が殺され、集会さえも禁じられた状況でこのようなことが言えたのか。現実の目に見える世界を思えば、迫害や苦難が次々と生じてどこに神の守りがあるのか、迷うばかりである。だからこそ私たちには聖書が与えられている。
「天地創造の前からわたしたちを愛した」という言葉はスケールが大きすぎて受け取りにくいと感じる人もいる。しかし神様の愛を深く感じると、時間や空間を越え、その制限が消えていく。自分が神様を信じる前からすでに愛され、守られていたという実感が持てる。その愛は、天地創造の前まで遡る事ができる。聖霊によるとそこまで深く実感することができる。これはいわゆる「予定節」でなく、神に愛されたという「実感」として書かれている。
 神様には秘められた計画、奥義があり、その計画は人間にだけではなく、全世界、宇宙に関してもある。将来に関する漠然とした薄暗い不安は、聖書によって解決される。ただ信じるだけでいい。信じなければ、ここにたどり着けない。最終的には全てがキリストの元に集められる。神にそぐわないもの、悪の力が滅ぼされて、全体的に一つにまとめられる。これこそが幸いの訪れ、喜びの訪れである。私たちは神の国の相続者だ。大いなるものを与えてくださる。一切のものは神に向かって進んで行くということは聖霊によって確信できる。この確信があれば揺さぶられず、どのようなことがあっても吹き飛ばされないのである。


○九月二五日(火)移動夕拝 奥住宅 ヨハネ一七章2026 13名(スカイプ7名)

 今日の所はヨハネ13章からずっと続いている「最後の晩餐(夕食)」のそのまた最後の部分である。ここは主イエスの遺言のような箇所で特に重要である。イエスはこの後、捕らえられ殺された。ここでイエスは、神に対し「お父さん」と一番身近な肉親の呼び名で呼んでいる。
 神がキリストの内にいて、キリストが神の内に居た。神とキリストは一つであった。主イエスは、このようにすべての人が一つとなるようにと祈って下さった。私達は、夫婦、親子、友人、教師と生徒など、身近な人も一つとなる事は難しい。国と国が一つになる事も難しい。愛や真実でなく、自分というエゴが住んでいると、分裂する。キリストが内に住む事がこの問題の解決となる。小さな群れが一つになると、それが広がっていく。そして、この世全体がキリストを知るようになる。この世は神を知らないが、弟子達は神がキリストを遣わして下さったと知っていた。イエスの御名(イエス・キリストの無限に深い本性)はこれからも信じる人に知らされていく。
 26節に「キリストによる神の愛が信じる人々の内にあるように」と主イエスの最後の祈りが書かれている。一人一人の内にキリストが住むようにという究極的な祈りである。人間に一番大切な事は万能の神、愛の神が私達の内に住んで下さる事である。神の愛が信じる一人一人の内にあれば、どんな事にも傷つかない。その道を開く為に、キリストはこの後、むち打たれ釘づけになって死んで下さった。私達の罪、自我を打ち砕く為である。主イエスの十字架によって愛の神が住んで下さる道が実現されたのである。


○九月三十日(日)主日礼拝 Ⅰコリント四・1421

 パウロがコリントの教会の人たちの間違いを指摘したのは、パウロがコリントの教会の人たちにとって霊的な父であったからだった。パウロが福音を伝え、育ててきたのである。コリントの教会の人たちは、信仰を与えられてから後、他の人とも行動し育てられたこともあった。しかし、霊的な父はパウロである。だから、「わたしに倣いなさい」といわれたのである。実際に、わたしたちが倣うべき方はキリストただ一人であるが、この時代には、聖書がなくパウロという人を通して学ぶしかなかった。だから、信仰の道から外れてしまわないように、「わたしに従いなさい」と言われたのであった。パウロは、教えを伝えるためにテモテをかわりに遣わした。テモテはパウロの宣教によってキリストを信じることができた人であり、忠実、真実な人だった。それで、パウロが派遣したのである。
 福音によって生む、とはどういうことか。福音には力がある。神の力である。この力こそが人を新しく生まれ変わらせる。福音は単純である。そこに聖霊が働くと大きな力になって伝わっていくのである。神が働かれるからである。
 コリントの人たちは「もう、パウロは来ないだろう」と高ぶる人があらわれ、パウロはどうだ、アポロはどうだ、だから、誰につく、と言い合っていた。そのような議論の中には神の国はない。神の国は議論でなくて、力なのだと、パウロが言っている。その力とはどういう力か。神を愛し、人を愛する力、どんなに低くされても耐えうる力、悪く言われても愛の言葉を返す力、敵をも愛する力。この世界で一番大事なのはこの力である。
その愛の力によって、闇にある人に福音を伝えようとして、神は人にこの力を与えた。そういう神の国、神の御支配の中心が神の愛だった。
「神の国」については「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改め福音を信じなさい」(マルコ一・15)という言葉に凝縮されている。時が満ちたとは、旧約の時代からの時の流れの中で、今、時が到来したということである。そして「神の国は近づいた。」とある。また別の箇所では「神の国はあなた方のただ中にある。」とも言われている。新約聖書にはこの二つの要素が溶けあわされて書かれている。二人、三人が信じて集まるときには、主イエスはともにいてくださる。そしてまた、この世の出来事の中にもすべてにおいて、神の御支配は存在する。
 神の国は、近づいて、そして今ここにもあるから、コリントの人たちに、聖霊の力、神の愛によってどんな人をも愛する力が与えられるようにと願い、互いに裁きあっていくことは間違いであり、愛と柔和の心でかかわらなければならないことをパウロは伝えようとしたのである。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N


お知らせ

○「野の花」原稿
前号にも書きましたが、「野の花」の原稿をお送りください。
締切りは、1031日です。二千字以内。日頃の聖書の学びから、読書からの学んだこと、短い聖句、愛好する讃美歌などの歌詞の引用、など自由です。メール、手紙に同封、FAXなどで送ってください。
○キリスト教霊園での合同記念礼拝 …11月4日(日)の午後。
10月の移動夕拝… 1023日(火)午後7時30分より、徳島市城南町の熊井宅です。
1021日(日)の礼拝後に、伊澤湊介ちゃんの祝福式の予定。
○午前の祈祷会…11月2日(金)午前10時半より。


11月の吉村孝雄の県外集会に出向く予定です。

11月3日(土)~6日(火)沖縄での無教会全国集会参加。
118日(木)大分市、9日(金)鹿児島市、11日(日)福岡市(以上は、「いのちの水」誌に連絡先、会場などを記してあります。)
1113日(火)島根県奥出雲の土曜会館(島根県雲南市木次町寺領)にて午後7時~9時
問い合わせ先… 宇田川 光好 電話 0854-54-1765
1114日(水)鳥取市での集会 問い合わせ先 長谷川 百合枝 電話 090-1687-7259
1115日(木)岡山市での集会 場所 三光荘(岡山市中区古京町1-7-36 電話0862722271
問い合わせ先…香西民雄 電話 0862-28-0442

*)こうした各地の集会が主によって導かれ、福音が語られ、聖霊が注がれる集会となりますようにとねがっています。ご加祷をお願いします。


10月のスカイプ集会 1031日(水)午後8時~ 問い合わせ、申込は、中川 陽子 (中川Eメール
○録画DVDの紹介
「内村鑑三と新渡戸稲造」のDVD(7月1日NHKテレビの録画)この番組を見てなかった人、また伝道用にと、いろいろな方々から申込ありました。1枚200円。送料は何枚でも100円。


○次のCD、詩集その他、以前から紹介してきたものですが、希望がありましたらお送りできます。
・讃美CD「人生の海の嵐に」北田 康広 定価三千円ですが左記吉村あてに申込のときには、特別価格でお送りできす。送料百円。
・北田 康広のピアノ演奏、歌を収録したCDとして
①「藍色の旋律」、②「心の瞳」ともに、価格は二千円。
・伊丹 悦子詩集「星になって」価格200円 送料100
・貝出詩集「風のメロディー」価格は右と同じ。
・「原子力発電と平和―キリスト者の視点から」価格五百円。去年八月に出版したものですが、現在でも折々に申込があります。原発は本はたくさんありますが、これはキリスト教、聖書の視点からのものです。
・今年八月の近畿無教会集会での録音のうち、吉村孝雄の「再臨」と岩谷 香(青森県)の「証し」のCD(MP3、普通のCDプレーヤで聞けるCDのいずれでもお送りできます。)
いずれも一枚100円、送料100円。
・「まばたきの詩人コンサート の録音CD」2枚組。これは2年前の徳島聖書キリスト集会での録音です。


集会だより 2012.9 NO.386


知識は人を高ぶらせ、愛は人を造り上げる。


 

○7月31日(火)スカイプ集会 16名(徳島・神奈川・千葉・福岡・富山・東京より参加)これはインターネットを用いた集会です。
詩篇一〇七篇
 これは、新聖歌の讃美「人生の海の嵐に」の元になった詩編でもある。旧約聖書の詩篇は、古代の人間が残した詩集であるが、単に人間の感情や思いを書いたものでなく、神の言葉として重んじられ、歌にすることで広く他者に伝わり、今日に至るまで3千年も伝わってきた。「恵み深い主に感謝せよ」、神の愛と慈しみが永遠に続くことを思えば、感謝が湧いてくる。「主に贖われた人」とは、ここでは、悩み、苦しみからの解放という意味合いが強い。わたしたちキリスト者は主に贖われた者であり、東から西から、全世界から来るということを作者は予見していた。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。」は、この詩のメインテーマであり繰り返し記されている。「驚くべき御業」は絶望を変えてくださることである。それは特殊ではなく普通の人に起こる。驚くべき御業は至る所にあり、目が開かれるとワンダー(驚き)で満ちているのである。
 私達は、適切な御言葉によって癒される。絶望の時にも御言葉が支えてくださるということは多くの人が体験してきた。荒野・砂漠・貧しさ・迫害・牢獄。古代においては非常に危険な旅。砂漠の中でも、大海の中でも、神様は不思議な御業をされる。私たちも生きていたくない、死にたいと思うほど追いつめられることがある。マタイ8章では湖に激しい嵐が起こり、溺れそうだと言うと、イエス様は「なぜ怖がるのか」と言われた。聖書には、神の力によって不思議な静けさが与えられることが書いてある。闇の力の風、海の力から逃れるためには神の力・キリストの力が必要である。


○八月二日(木)いのちのさと 夕拝  詩篇一〇四篇1935
 神様の御業について天体、地上、動物、植物と広い範囲にわったって書かれている。この世では、偶然が支配していると考えられているが、昼や夜、季節という天体に関することから、野生の動物という細かなことまで、全てが神のご支配の中にあって生かされている。
 食べ物を求めてライオンが吠えている。神に求めているのである。動物たちの様々な能力や特徴も神から与えられている。すべてが神の御業であり、神の英知に満ちている、
 神の業がどこにあるのか、と言われることがあるが、それは霊の目が閉ざされてるためにわからないのである。
 神の聖なる霊によって、すべてのものは創造される。神の力の偉大さ。たとえば、神が地を見られただけで、地震にもなり、山に触れただけで、火山の噴火も起こる。それほどに、神の力は大きいことをこの作者は感じ取っていた。だからこそ、命ある限り、このような絶大な力を持って支配されている神を賛美しようという思いがあふれている。そして、悪の力が絶たれ、みんなで神様を讃美できるようになろうという呼びかけが記されている。
○八月五日(日)主日礼拝 サムエル記(上)二四章 34
 サウル王は自分よりも能力の優れたダビデを憎み、殺そうと追っていた。ダビデはサウルから逃げていた。その逃げる途中の出来事だった。サウルは洞窟の中にダビデの一行がいることに気が付かず、暗い洞窟にはいっていった。ダビデはサウルをすぐに殺すこともできたが、着物の裾を切っただけで何もしなかった。そして、後で、サウルに対して、ダビデはサウルの命を狙っているのではない、ということの証拠として切り取った着物を示した。
 サウルは殺意を抱いていたのに、ダビデは善意をもって返したのである。サウルはそのことを知り、ダビデに「お前は必ず、王になる。」といった。本当の王になるには、武力や能力ではなく、悪意に対して善意をもって返すような魂のありかたが必要なのである。そして、その神の御意志は新約聖書に継がれ、今のわたしたちにも流れてきている。
「 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(ロマ十二・17
「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』」(ロマ書十二・19
「 悪に負けることなく、善をもって悪に勝て。」(ロマ書十二・20
「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ五・39
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。」(マタイ五・44
 このキリスト教の基本的なあり方は、きょうの学びにあるようにキリストより千年もまえから、源流があったことがわかる。
敵をも愛する力。人間にはそのような力はないが、神にはある。聖霊を受け、すこしでもそのようになれるように祈り求めていきたい。


○八月六日(月)小羊集会 マタイ二十六・5768
 イエスが捕らえられ、裁判を受ける箇所であるが、その中で、「再臨」ということについて特に記されている。キリスト教の根本は十字架と復活、そして再臨である。
 この世は、ますます混乱し、神はどこにいるのかと思わされる出来事が後を絶たない。しかし、神は世界を御支配されている。そして、最終的に世界はどうなるのか。それがキリストの再臨である。この箇所の元になっていると考えられるのは「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に出てそのもとに…」という旧約聖書の箇所である。(ダニエル書7章十三~十四)
 人の子のようなものが、老いたる者(永遠の命を持つもの、つまり神)の前に出て、その神の一切の権威、威光、王権を彼に与えたと記されている。その内容を、主イエスは用い、「あなたたちは、やがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」と言われた。 主イエスは、再臨という、十字架と復活と並ぶキリスト教の最も重要な真理を語られた。しかし、それを聞いて、宗教指導者は、「神を冒涜している」と受け取った。
 キリスト教の真理は、学問や努力ではわからない。しかし、どんな地位の低い者でも、学問がなくても、病気であっても、貧しくても、信じるだけで受け取ることができる。この世は不公平が至る所にあるが、キリストの真理を受け取ることは、完全に平等である。
 今の世の中も、神はおられるのか、と思われるような現実がある。しかし、最終的に一切の闇の力を滅ぼすために、キリストが来てくださる。だから、どんな現状であっても希望を持つことができる。それは、ただ信じることによって与えられる、誰にも壊すことのできない希望である。


○八月七日 火曜日 夕拝 イザヤ書51章17~23
 神がイスラエル民族の象徴としてのエルサレムに「立ち上がれ」と言われている。ユダヤの民は預言者の警告、即ち神を無視し、北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされ、今また南王国もバビロンによって捕囚の民と連行されて行った。
18
節 どの人も間違ったように育ってしまった。戦争状態なると破壊と破壊、飢饉と剣、町は焼かれ、徹底的に滅ぼされた。神の警告を聞こうとしなかったゆえである。
このような絶望状態にある民に、17節 「立ち上がれ。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」といわれている。この頃のことを詳しく書いてあるのが「エレミア哀歌」。BC587年、イスラエルは徹底的に破壊された。(哀歌1:6 栄光はことごとくおとめシオンを去り、その君候らは野の鹿となった。青草を求めたが得られず、疲れ果ててなお、追い立てられて行く。2:21 街では老人も子供も地に倒れ伏し、おとめも若者も剣にかかって死んだ。あなたは、ついに怒り、殺し、屠って容赦されなかった。2:22 …わたしが養い育てた子らは、ことごとく敵に滅ぼされてしまった。) 深い悲しみ、嘆きがかいてあるが、それは自分たちの罪故に起こったことだ。人間が神から離れていった時、何が起こるのか、ということをはっきり知らせるために書かれている。哀歌に書かれていることを凝縮してイザヤ書に書いてある。そのような時に、神は言って下さる「立ち上がれ」と。
マルコ伝5:41にイエス様が12歳のヤイロの娘を生き返らせて時、「タリタ、クム」と言われた。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。絶望的な状況の中で「タリタ、クム」と言って、手を差しのべて下さる主イエス。苦しみの奥には罪が内在している場合もある。それが神の許に行くのを妨げていることがある。罪のあるままイエス様を仰ぐ時、霊的に目覚めさせてくださり、立ち上がることができる。


◯ 八月八日(水)水曜集会 ヨハネの黙示録 十八章2024
「不幸だ」というのはウ─ アイという間投詞。口語訳では「ああ、災いだ」。 いずれも強い嘆き。それを受けての20節。経済的にも豊かであったのに一瞬の内に滅んでしまうバビロン。これは悪の最終的な滅びを意味するゆえに、天よ、喜べ、使徒たちよ、喜べと言われている。 ヨハネは、この都は裁かれ、滅ぼされるという啓示を受けた。海に投げ込まれ、二度と上ってこない。バビロン(ここではローマ帝国)は、この世の高ぶりや楽しみに喩えられたが、それは大きな挽き臼が、海に投げ込まれのと同様だと言われている。
ローマ帝国の迫害により、何も悪いことをしないのに捕えられて苦しめられた、いつになったら悪に対する裁きがあるのですか(六章9~10)という殉教者たちの問いに対する答えがここにある。ときが来たらこのように神のご支配が成就されるのである。 今も、わたしたちに悪が迫っている。だれでも真剣に考えたら、いつでもこの問いが生れてくる。だが、時が来れば、悪の力はすべてこの石のように、海に投げ込まれる―滅ぼされるのである。
黙示録を書いた人は既に、迫害のさ中にそれを、啓示によって見た。その最中であるのに、「よろこべ」と。どんなに悪が行われていようとも、神がすでにそれを裁かれていることを知らせてくださったからである。迫害を受けていた人も、その力を信じて、ずっと生き抜いていくことができた。 聖書以外のあらゆるものは、こういうこの世が最終的にどうなるのかという問題に一切答えられない。確信を与えることはできない。黙示録は、そういう意味で、とても現代的な書物である。原発の問題にしても、人間のあらゆる考えを越えたところで、神の力が働いていることを信じることができる。


○八月十日 (金)天宝堂集会 マルコ五・3543
 会堂長は、安息日のための重要な会堂の管理者であり、社会的地位もあった。その娘が病気で死にそうになった。会堂長は、主イエスには娘を癒す力があると信じ、大勢の群衆の中、なりふり構わず主イエスに、娘の命を助けてくださいと懇願した。世間体もプライドも捨て、ただあるのは主イエスへの信仰のみであった。
しかし、主イエスが娘のところに着く前に娘は死んでしまった。
主イエスは娘を癒す力があるお方だと信じた会堂長ヤイロ。そのヤイロに向かって、主イエスは、娘が死んだにもかかわらず、「死んだのではない。ただ、信じなさい」と言われた。
そして、死んでいる子供のところにいって、「タリタ・クム」と言われた。タリタとは娘。クム(クミとも) とは「立て」という言葉である。クーム(立つ)という言葉はイザヤ書など旧約聖書にも多く使われている
「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」(イザヤ五十一・17)この「立ち上がれ」という言葉が「クム(クーミー)」であり、神の裁きによって立ち上がれなくなった、神の民に対して、「目覚めよ、立ち上がれよ」と神が呼びかけている。
 罪の苦しみ、この世の思い煩い、病気などさまざまな苦しみによって、魂が眠ったようになり、立ち上がれなくなった状態の人間に対して、目覚めよ、立ち上がれよ、という呼びかけは、このように何千年も前からなされていた。そして、新約聖書につながり、この死んだ娘に対しても主イエスは「立ち上がりなさい」と言われたのであった。 そして、この娘は死んでいたが、主イエスの力によって立ち上がることができた。この力は、今のわたしたちにも注がれている。どのように精神的に死んだような状態であっても、主イエスが手を取って、魂に触れ「立ち上がりなさい」と言われたら、人間は立ち上がることができるのである。
 神は苦しみをじっと見ておられる。この世の華やかさや名誉を見るのではなく、ただ、弱く小さく、苦しむ者を見ていてくださる。そして、そこから、真剣に神を求める者には必ず、神が定められたときに、その手をさしのべて触れてくださるのである。


◯8月12日(日) 主日礼拝 一コリント三章1~9 参加38名 (うちスカイプ8名)
霊の人、肉の人とある。肉の人とは何か。一般的にはわかりにくいが、肉の人とは、自分の考えで生きている人。霊の人は、聖霊に導かれて生きている人である(ローマ8章に詳しい)が、霊に導かれるにも、程度の差が大きくある。
多くの人が、霊的に固い食物を口にすることができない。キリスト教以外の一般的には、固い食物とは、学校教育そのものであったり、噛んでも味が分かりにくい教科であったりする。だが、そういう知的に固い食物も、調理の仕方を変えて適切に提供すれば、受け入れられる。
しかし、ここで言うのは霊的に固い食物のことである。人間的な争い、妬みなどがあるのは初歩の初歩の状態で、霊的な固い食物を、まだまだ提供できない状態だ、と言っている。
コリント以外の教会にもなかなか成長できない人がいたのがわかる(ヘブライ6章)。どうしてなのか。それは「成長させてくださる神様」を、本当に求めていないからである。これはわたしたち一人一人にもあてはまる。神以外のもの、人間的なものを求める。この世の都合、この世のから認められること、この世の利益といったものを、どうしても求めているからである。どうして成長が難しいのか、あるいは成長でき得るのか、ということは、ある意味では単純なことであるとわかる。
福音に関して、植える人、水を注ぐ人がいる。だが成長させるのは私(パウロ)ではない、とある(6~7節)。よくない宗教ほど、特定の人間(教祖など)が成長させるのだと主張する。成長させるのは、神であり、キリストであり、聖霊である。パウロは、神様の働きがなければ成長できないということをはっきりと知っていた。
誰が植物の種を蒔いたか。元々は神様である。雨を降らせ、成長させるのも神様。必要な水、温度、空気があれば、固い種から芽が出る。そのように、はるかな昔から設計されている。神様がそのように造られたのだから。そのように受け止めれば、信仰も新たにされる。
福音に関しては、種を蒔かせようとする人に神様が委ねる。最初はユダヤ人だけであったが、これまでに、次々と広がってきた。また祈りによって水を注ぐことも、種を蒔くこともできる。神様が祈りを聞いて、それを成してくださる。
だれでもができる仕方で、たえず受けた種を渡そうとする。それぞれが祈って蒔く。だが、人間の、高くなりたいという野望に、たくみに入り込んでくる、毒麦のような悪い種もある。
一人一人が、可能なことで、よい種を蒔く。創世記の初め、真っ暗闇の中に光りあれ、と、光の種を蒔かれた。それが種まきの根本原理である。今も神様は光の種を蒔き、わたしたちに光りを植え込んでくださっているのである。


◯八月十三日(月)北島集会 出エジプト 二十二章
モーセの時代、「償い」という精神、がはっきりと書かれている。強いものが弱いものに権力をふるう古代において、非常に珍しい。聖書は無味乾燥に見えるところにも、現代においても重要な考え方の元になる発想があり、驚かされるものを持っている。男女のことについても、新しい命が生み出されることから、遊びや楽しみで男女関係を持ってはいけないことが書かれている。偶像を拝んではいけない。崇拝すべきは万能の神だけであって、それ以外を拝すれば、必ず間違って来る。本当の意味で救われない。自分の地位やお金、オリンピックの金メダルのようなものも本当のものを見失わせる。
寄留者を虐待したり圧迫してはいけないとある。寄留者とは、よその国に連れていかれた人。ここではエジプトに連れていかれたユダヤ人だ。日本にも戦前は韓国人が多数連れてこられていた。
聖書は核心をついている。世界に散らばったユダヤ人たちも、まさに虐待されてきた。だが必ず、主は弱い立場の人の叫びを聞き、虐めるものを滅ぼす。
お金のやりとりだけで利益を得ること(利子)など、たとえば金融業などの、近代の当り前の発想であることが否定されている。当り前と思っていることを考え直すきっかけとなっていることが聖書には非常に多い。年老いて、わたしたちもいつ寄留者になるかもしれない。だが頼る人の無い者にこそ、神は救いを与える。(「寄留者」は申命記1018にも)


◯8月19日(日) 主日礼拝 一コリント三章1017 参加34
「土台」とは何か。人間の心の土台。身近な問題である。イエス様もそうであったが、パウロはそれを、どこにでもある建物を喩えとして神様の言葉を語った。土台が悪ければすぐに倒れる。それをつかって霊的に重要な問題を説き明かした。
喩えを用いて物事を表現するということは、深く物事を知っていないとできない。イエス様は、霊的に一番深いものを、喩えをもって話された。
イエス・キリストこそが土台である。人生、人間、組織、社会、国家、そのすべての土台となるもの。武力か、軍備か。神を知らなければそうなるが。キリストこそが、その土台。すべての力を持ち、愛を持ち、万能であり、すべてを見抜いている。そして、何があっても守ってくださる。軍備などがあっても、原発と同じようにまちがった方向に引っ張って破滅に向わせる。
一度は聖霊を受けたとしても、油断をしているとキリストの土台が揺り動かされ、他のものが入って来る。土台とするのは金か、銀か、あるいはわらか。欲か、名誉か、競争心か、自分への見返りか。そんなものはみな壊れてしまう。
キリストは火と共に来られる。火は跡形もなく焼き尽す。精煉する。根本から変える。悪を除くのは神様の火の力である。「わたしは聖霊と火で洗礼する(マタイ三章11)」。純粋なものを取り出す。火は悪いものを徹底的に焼き滅ぼす。間違った建て方をした人は、自分は(悔い改めたら)救われるが、他の人に害を与えてしまう。
あなたがたは聖霊が内に住んでいるのを知らないのか、と言われている。殆んどの日本人が、神がおられるとは思わない。それと同じように、神はいないと思えばそれまでだ。だが「イエスが主だ」と思える人は、不十分であっても、ともかくも聖霊が住んでいる、と言われている。信仰を持てば、いろいろな経験や、できごとから、神様はおられると思わされる。そう信じることで一層わかるようになるのだからと、パウロはそのように、目覚めさせるために言っている。 土台は、他のものが入ってきたら揺すぶられる。それが強固になるか否かは、日々聖霊を受けること。もうひとつは、よいことを聞いて実行するかどうかだ。イエス様は言われた。「わたしの言葉を聞いて行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ七章24)。
至るところに、できることがある。隣人を愛しなさいということも、電車やバスの中でも居合わせた人のために祈ることなど、だれでもみんなできることがある。祈ることは神様を見つめることであり、誰かのために祈ることは神を愛し、人を愛することである。それぞれが、できることをしていきたい。


○八月二一日(火)移動夕拝&スカイプ集会 中川宅 参加22名(内スカイプ参加者9名)
「ふるい立て」とあるがこれは五一章から続いている。
 神に対してユダの国は罪を犯したため捕囚とされていたが、長い半世紀を経て帰ってくることになった。その期間は裁きを受けたが、ようやく捕囚の暗い状態から祖国に帰る事ができる。開放される。政治的、社会的な自由に留まらない。神の名を知ることが聖書的到達点である。神様の名…神様の本質がどういう方なのか。いろいろな状況を通して、神様を知ることができるように導こうとされている。「見よ、ここにいる」ありありと神様がここにいるとわかるようになる。
 これは私たちにも身近な問題。動けない病気にかかった時、その中で私たちが導かれているのは神様の名を知るように、私たちを連れていってくださる。 混乱と闇があっても、浮かび上がってくるのは「神様の大いなる姿」である。
 良い知らせ…これが「福音」である。「見よ」と民の事を描写せず、現実のこの世の地平の彼方に現れてくるのは、神様だと書いている。霊的に示された人にとって、神様が現れてくる。
 聖書の世界では、全く違った見方が見えている。神様を信じる人は、だからこそ希望が見える。
 平和は戦争がないだけでない。平和と訳されているヘブル語のシャーロームは「完成される。全うする。満たす。」という意味がある。戦争がないのではない。神様の力によって、完全に満たされた状態であることを告げた。
 聖書のよいニュース(福音)は、どんな苦しい事があっても、神様が浮かび上がってくる。貧しい国にこそ良いニュースとなり、豊かな国にも喜びとなる。神様が王としてご支配してくださっているということは、共通のよい知らせになる。
 主イエスは「わたしの平和をあげよう」と言われた。その平和とは単に戦争がないという状態でなく、神の賜物によって完全にされた状態を意味している。 今日のマスコミ、新聞が伝えるよき知らせと、全く違うものがある。一部の人だけでない。聖書の良い知らせは、あらゆる良い知らせの元にある。
 詩篇九六編「国々にふれて言え、主こそ王と」 神様が支配していると信じないから不安になってくる。主こそ王と言うのは、非常に重要な問題。今も王としてご支配されているから、美しい夕焼けもよき知らせ。小さな花もよき知らせ。色んなものを通してもよき知らせを受け取れるようになってくる。


◯8月26日(日)主日礼拝 一コリント三章1823 参加19
(なお、25日(土)と26日(日)の両日に京都市桂坂で行われた近畿集会のために、私たちの集会から17名が参加。徳島での礼拝は録音による講話。久しぶりの方も参加)
自分をあざむく、とはどういうことか。本当でない自分の姿を、本当のように思い込む。たとえば本当の英知が無いのに、あるように思い込む。これは自分で自分を騙していることになる。わたしたちの生活のなかで至るところに見られる。自分の本質を間違って、自分で受け取ってしまう。自分に関し、そのように偽ったことを思い込むな、ということである。それは自分の本当の姿、罪深い自分の姿を知らない、ということになる。
では本当の英知はどうしたら得られるか。この世の学問は数多くの分野があるが、神学といった特殊なもの以外は、神のことにはまったく触れない。この世の学問すら、神様の前ではしばしば愚かなものだ。原子力発電のように、危険なものを研究者たちは育ててしまった。この世の知恵は。ことの核心を衝くことができぬ。それは神様の英知を貰わねばできない。
本当の英知のある者となるにはどうすればいいか。何が真理か知るためには、愚かな者となりなさい、とある。この表現はわかりにくい。イエス様は「子供たちをわたしのところに来させなさい(マルコ1014)」と言われ、幼子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、と言われた。幼子のような心、真っ直ぐに神様を見る眼。神様の愛が一番大事だという単純率直な気持。それこそが本当の英知ある人にさせるのだ、と。
人間や、自分の英知を誇るのではない。幼子のような心、そこから、神様から真理が伝わってくる。この世の学問を積んでも、神様の深い真実を、よりわかるようにはならない。 幼子のような心と聖霊が与えられると「すべてがあなたがたのもの」になるのだと言われている。
この世の色々なこと。自然現象などもそうだが、「悲しんでいるようで喜んでいる~(2 コリント6章10)」のように、権力も地位も物もないが、わたしパウロはすべてのものを持つ。眼に見えない霊的なもの。本当に大切なもの、必要なものをみな持っているという実感を与えられるということである。霊的に本当に満たされたら、すべてはわたしたちのもの、と思えるようになる。太陽や星、何でもないごく自然なものも、わたしのためにある、と思え、何を見ても、霊的によきものを与えてくれるものとなる。それによって魂のある部分が満される。
このように、イエス様と結び付き、聖なるものを与えられるときには、よいもので満される。「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に恵みを受けた(ヨハネ福音書1章16 )」。愛や喜び、魂の満しが、おのずから生れてくる。「すべてはわたしのもの」。たとえ物は無くても、不足しているものはない、との実感が生れる。パウロにつく、いやアポロだ、誰某だというようなことも自然に乗り越えられる。たとえ悪いことが起っても、そこからよきものが汲み出せる。
死に支配されるのでなく、復活の力によって支配する。死もわたしたちの手の内にある。信じていく限り、悪いものに滅ぼされることはない。求めれば与えられる。「御子と一緒にすべてのものを、わたしたちに賜らないはずがありましょうか(ローマ8章32)」。


○9月2日(日)午後3時~ 5時 高松集会(松浦大亮、ローレン夫妻宅) ・エペソ書 3の1420「 キリストが内に住む」6名の参加(スカイプでの参加者含む) キリストの愛の深さ、広さ、長さ、高さ…この特別な表現は、キリストが私たちの内に住んでくださって初めて実感されてくる。それゆえにパウロの祈りは、信徒たちの内にキリストが住むことであった。


94日 火曜日 夕拝イザヤ書521115
 5213節~53章が一つのつながりで、11 12節は前の521節からのまとまりの部分になる。
 11節 主はユダヤの人々に、捕囚になっていたバビロンから立ち去れと言われる。このことは、霊的な意味で誰にでも当てはまる。本当の神でないもの、また汚れた心、そういうところから出なさいと言われる。人間は汚れを心の中に秘めた存在なので、自分の決心や努力ではできない。だからはるか後になって、イエス様が清めてくださった。そのことが10節に言われている。(主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。)
 私たちはイエス様を与えられた者。主ご自身をいただいている。だからこそ、汚れたものから立ち去りなさいと言われる。
 この箇所で言われていることは、もともと歴史的にはモーセによって導かれたエジプトからの脱出がその根底にある。偶像を神としていたバビロンで捕囚になっていた状態から解放されてそこから出ていくことは、第2の出エジプトであった。出エジプトのとき、「…食べる時は、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いでたべよ」といわれている。(1211) しかしここでは、あらたな出エジプト記の状態が記されている。12節… 今回は急いで出る必要はないといわれる。なぜならば、全き守りのうちにあるから、襲われるようことがない。先に進むのも、私たちのしんがりを守るのも、主、イスラエルの神さまなのだから。
 神さまを信じた時から、前を行かれるのも、後ろから守って下さるのも神さま。これが導きの生活。私たちは、汚れた所から出ていかなければならない。神を信じた時から、導いて下さるのは神さま、後ろから守ってくださるのも神さま。


○9月11日(火)海陽集会 詩篇1391124 参加者は、スカイプ参加者を合わせて8名。スカイプでの参加者の内には埼玉県や福岡県の参加者もあり、埼玉の方とはお会いしたこともないけれども、インターネットを通してともにみ言葉を学び、礼拝できるのは感謝。海陽町は、太平洋に面した所で、高知県境まであと10キロという場所で、近くにある大里海岸は、自然のままの美しい海岸で、長さ2.5キロメートルほどもあり、全くといってよいほどゴミもまた余計な人為的な建造物もなく日本全体でも稀な海岸と言えると思います。徳島市から80キロほどあるために汚されずに自然が保たれているのです。なお、私が去年出版した「原子力発電と平和」という本の裏表紙に入れたのがこの海岸です。 (まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N & T.Y


お知らせ

○「野の花」の原稿
来年1月に発行する文集「野の花」の原稿をお送りください。締切りは、1031日。内容は次のようなもので書いてお送りください。なお、編集上で、一部の内容をカット、あるいは趣旨を変えないで表現を修正などを加えることがあります。
・原稿は、インターネットメールでのテキストファイルの添付が最も好都合です。そのまま、レイアウトソフトに入れることができるからです。メールアドレスは「いのちの水」誌奥付にあります。メールをしていない方は、原稿用紙、ハガキ、手紙などでお送りいただいても結構です。二千字以内。ごく短い聖句やその感想、コメントあるいは好きな讃美歌の歌詞などでも可です。
1
、いつもの礼拝や家庭集会での学びで印象に残ったこと。
2
、信仰生活における証し、感話。
3
、読書の中からの感想。
4
、社会的な問題に対してのキリスト者としての考え。
5
、その他。


10月に私が県外でみ言葉を語る集会
1
、阪神エクレシア…1014日(日)午前10時~12時。神戸元町駅前の神戸私学会館 問い合わせは川端紀子(kawabata@kjd.biglobe.ne.jp)電話 078-578-1876
2
、高槻聖書キリスト集会…1014日(日)午後2時~4時頃
高槻市塚原585 問い合わせは那須佳子(n_mymyms@ybb.ne.jp)電話 0726937174


○スカイプ集会とはどんなものなのか、またそれに加わりたい方は吉村孝雄まで連絡ください。パソコンとインターネットができるなら誰でも無料で加わることができます。
○今月の移動夕拝は、板野郡藍住町の奥住夫妻宅です。スカイプでも参加できますので、希望者は左記にご連絡ください。
 


集会だより2012.8 NO.385


神は私たちの避けどころ、私たちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいて、助けてくださる。

詩篇462


 

○六月四日(月)小羊集会(鈴木はり治療院での集会)
 マタイ二十六・3646)参加者 12名(内、スカイプ参加者3名。)
 ゲッセマネの祈り
主イエスは弟子たちに、座って祈っていなさいと言われた。そのとき主イエスは、死ぬほどの悲しみをもって祈られたとある。なぜ、これほどの悲しみをもたれたのか。主イエスは人間が、どうしても神の御意志がわからないことに対して、大きな悲しみをもたれたのである。神の御意志がわからない。神の御意志に従えない。これが、あらゆる問題の根本である。
 人間はどこまでも自分の思いで生きている。ペテロも、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と自分の意志が中心であった。実際はそのようなペテロも三度も主イエスを知らないと言ってしまう弱さを持っていた。
 自分の願いや感情中心に生きるとき、そこに霊的な眠りがある。自分の意志がいちばん、と思っているときには、霊的には眠っている。主イエスがうつ伏してまで必死で祈っていたのに、たったひとりの弟子も起きていずに、みんな眠っていたというのは、このことを象徴している。
 キリスト者であっても、神の御意志を忘れて、自分の意志で生きて行ってしまうとき、霊的に眠ってしまう。
 人間の本性は霊的には眠っており、目覚めいるのは主イエスだけである。そのように、眠っている人間を目覚めさせるのが聖霊である。
どのような人間も、自分の意志で生きるか、神の御意志でいきるか、死ぬまで戦いがある。しかし、主イエスは勝利されている。弱さの中で、主イエスの勝利によって、わたしたちも、勝利をいただく。
 時に、神の御意志に従うことに、大きな困難や苦しみとなることもある。そのことを先に主イエスは知り、これほどまでに悲しまれた。日常的なことから、厳しい迫害のときまで、神の御意志に従うと言うことは程度の差はあっても戦いなのである。
わたしたちも、日々の困難の中で眠ってしまい、自分中心になってしまうことがある。地上で肉体を持っているあいだは、弱さがあり罪がある。その中で、目を覚ましていくためにも礼拝があり、共に祈ることが重要なのである。


○六月七日 (木)いのちのさと作業所での集会 詩編一〇三の1722 参加者14名 内スカイプ参加者3名。
 主の慈しみが永遠に続く。このことだけでも、本当に信じることができたら、感謝して生きていくことができる。
 人間には、明日何が起こるかさえ、わからない。目に見える世界のことは、原発のことでもうかがえるが科学的なことを知れば知るほど、かえって不安が増すことが多い。しかし何があっても神の愛こそは永遠である。このことは、幼子のような心で受け入れるとき、知ることができる。
 これからの世界は不安なことが増えていく。また、日々の生活の中では、間違いや罪、失敗がたくさんある。そのことを見つめていくと、希望はない。しかし、神の愛を信じるとき、永遠の神の愛がすべてを包んでくださる。
 なぜ、人間には苦しみがおそってくるのか。神は愛であれば、なぜ、このようなことがおこるのか。人間にはわからない。しかし、わからなくても、人間の思いを超えて、神が愛を持って導いてくださっていることを信じていく。
 はるかな昔の詩編の時代にも、このように啓示された神の愛の永遠。今、わたしたちも信じて受け取っていく。
この地上の暗黒がいかに深くても、天上では御使いの讃美がある。主の栄光は全地を覆っている。イザヤが神に呼び出されたとき、イザヤは神を見た。そのとき、主の栄光は全地を覆う、という、御使いの讃美が聞こえた。(イザヤ六章)
 一切のもの、主に造られたものは、すべて、主をたたえている。この闇の世界にあっても、このように信じるとき、詩編一四八編の讃美が響いてくる。
 「ハレルヤ!天において主を讃美せよ、主の万軍よ、こぞって主を讃美せよ、日よ、月よ、主を讃美せよ。輝く星よ、天の天よ、主を讃美せよ!」と。
 現実の厳しい問題の中でも、そのときにこそ、このような讃美の世界に招かれている、ということを聖書によって立ち返らせていただく。


○六月十日(日)主日礼拝 コリント書一・19  37
(内、スカイプ参加者3名)
 パウロの手紙の書き出しには、まず自分がどういうものであるかが明記されている。
パウロは、自分を神の御意志によって、呼ばれて、遣わされたものであると記している。この世では、自分の考えで行うのが一番良いこととされている。しかし、神の御意志でなければ正しく進むことはできない。
恵みと平和をパウロは祈っている。恵みとはさまざまのものを意味するがとくに、根本問題である罪の赦しをその中心の内容としている。それがなければ、神との交わりは得られない。平和は、ヘブル語では、「シャーローム」ということばであり、満たされ、完全にされた状態を指す。主イエスは最後の食事のとき、「わたしの平和を与える」と語られた。この恵みと平和があるようにという祈りは、全ての人に必要な祈りであ、新共同訳のタイトル(小見出し)にあるような単なる「挨拶」ではない。
 キリストに結ばれていたら、霊的にすべての言葉、すべての知識、すべての点で豊かになる、とある。単なる知識は人を高ぶらせる。しかし、愛は作り上げる。神に関する霊的な知識が、キリストによって豊かにされていくのである。
 このように、キリストに結ばれることによって、あらゆることが満たされている。そして、将来は、キリストが必ず来られることを確信し、待ち望むことができる。現実の世界は、知るほどに不安になるが、聖書では、最終的には、世界もわたしたちも輝く栄光に変えてくださると約束されている。神は真実である。信じる者にとって、将来は輝かしい希望に満ちている。
 キリストに結ばれ歩むとき、主はわたしたちを支えてくださって、裁かれることのないものとしてくださる。心から十字架をみつめているものは裁かれない。弱さ故に罪を犯すけれど、そのたびに赦してくださるのである。
 わたしたちは、このすばらしい神、キリストとの霊的な交流のなかに呼ばれた。そしてまた、わたしたちも主を呼ぶことができる。闇と混沌に満ちた騒がしい現実の世界の中では心を静めないと、人の声ばかり、聞こえてくる。いつも祈り、心を静めて主の呼びかけを聞く。ここに神と人との交流がある。わたしたちは、呼び出されてこの交わりの中に招き入れられているのである。


○六月八日(金)天宝堂集会(綱野悦子さんのはり治療院での集会) エペソ書六・2124 参加者16名。内スカイプ参加5名。
 エフェソ信徒への手紙の最後にパウロが記した願いと祈りは、特に「神の愛」についてのことだった。
 ティキコは遣わされて、はるばるエフェソまで出かけていった。信仰の初期の共同体において、このように遠くまで出かけていって交わりを深めたことがわかる。そのことによって、お互いに新たな力が与えられていく。これは今も言えることである。
 パウロの最後の祈りに「平和と、信仰を伴う愛が…あるように」とある。この平和という言葉は、他の訳では平安とも訳されている。原語は「シャローム」であり、完成する、満たす、という意味である。単に戦争がない平和という意味ではなく、神によって満たされ完成された状態を指す。平和を最後に祈るというのは、神からの賜物によって満たされた状態となりますようにという祈りである。
「恵みが、変わらぬ愛をもって…すべての人にあるように」という祈りが次に続いている。この「変らぬ」という言葉は、原語からは「腐敗や滅びるということのない」という意味あいがある。主イエスに対して、変質することのない、変らない愛をもって愛する人たちに、恵みがあるようにという祈りである。
 日本はこれから、厳しい時代を迎えることが予想される。困難な時、何が人を支えるか。お金でも人間でもない。神の愛である。どんなに地上が混乱し、悲惨に満ちていても、それでもなお、神は愛であるという信仰が人を支えていく。
心のうちにキリストに住んでいただき、愛に根ざして生き、キリストの愛を知る。そして神の豊かさに満たされるように、というパウロの祈りがある(エフェソ三・17~19)この満たされた状態が「シャローム」である。 
 平和(シャローム)と信仰を伴う神からの愛が注がれるように。これがパウロの願いと祈りであり、全ての人に必要な祈りである。


○6月17日(日) 主日礼拝 Ⅰコリント 1の1017「一つになること」32
 コリントの信徒への手紙は、ローマ書やガラテア書などのように、魂の救いの根本問題をテーマにしているのではなく、コリントの集会にある具体的問題の対処を記した手紙。10節「勝手なことを言わず」は「皆が語ることを一つにして」が原文で「主にある愛があれば、おのずから他者の善を願うという一つのことになる」とパウロは言っている。当時コリントでは自分はパウロにつく、アポロに、またケファにと言った党派心が強く、自分が一番でありたいという思いが強かった。人はキリストの愛を持っていないので相手をけなし合う。罪があるので一致出来ない。だから、キリストは十字架によって、一致を妨げている罪を取り除いてくださった。人間同士の中に平和をもたらすために。イエス様が命をかけて与えてくださったことだから、主にあって一致することは根本問題でもある。心の中で争っていたら、心に平安が得られない。ここでの分裂の原因の一つが「誰から洗礼を受けたか」であったようである。パウロは二人以外に洗礼しなかったことを感謝し、福音を伝えることに専念したことを感謝している。分裂はキリストの愛を持っていない時に起こる。
17
節 パウロは、自分は福音を告げ知らせるために遣わされたと言っている。当時、それ以前からギリシャの都市では、伝統的に哲学的思索がなされ、ソクラテス、プラトン、等々の哲学者が輩出していた。彼らは人間の理性、思索によって真理に到達できると思っていた。パウロの時代には異邦の国々では十字架は極悪人が処刑された道具であり、汚らわしく、厭うべきものと思われていたから彼等にとってこの十字架で死んだ人から罪赦されるとは信じ難かったし、復活などということは到底受けいれられなかった人たちが多かった。しかしパウロは主からの啓示と自分の体験から、十字架と復活を宣べ伝えた。


○六月二十四日(日)主日礼拝(ⅠコリントⅠ・182531
 十字架の言葉(ロゴス)は、滅んでく者にとってはおろかであっても、救われるものにとっては神の力である、とはどういうことか。十字架の言葉とは、十字架につけられたキリストのことである。キリストはわたしたちの罪を身代わりに負って十字架で殺された。そして復活され、今も生きておられる。このことを信じるだけで、救われる。それが十字架の言葉である。そして、信じたものには聖霊が与えられる。弟子たちも、聖霊が与えられてから、力強く宣教を始めた。しかし、信じようとしない者には、このようなことは、おろかなことだった。
 この手紙が書かれていた時代の背景には、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった名高い哲学者の影響が色濃く残っており、哲学的に真理を探究することがなされていた。このような時代に、哲学的な議論もなく、重罪人として十字架につけられ苦しんで死んでいったような人を信じたら救われるというのは理解しがたく、愚かなことでしかなかった。
 そして、現在でも、この考えは変わらない。とくにキリスト者の人口が少ない日本では十字架の救いなどは愚かなことだと考えられている。しかし、よりよく生きようと、学問や研究をいくら重ねても魂の救いにいたることは難しい。人間の根本問題である、罪が解決されなければ救いはなく、また罪の解決はキリスト以外の他のことでは与えられないからである。このことは、この世の学問や経験の致命的な限界を示している。高度なこの世の科学技術を学んだ人たちが原爆や原発も作り上げた。しかし、魂の救いどころか、人間を滅ぼすものを作ってしまったことでもわかる。
 神は、宣教という手段によって、人々を救おうとされた。十字架の言葉を伝えるために、宣教師は命がけで遠くに行った。それは、この世の人から見たら、愚かに見える。しかし、どんなに愚かと思われても、神の力によって、その真理は伝わっていった。神のみこころにかなった、愚かさは、どんな人間よりも正しく、神のみこころにかなった弱さはどんな力よりも強い。
主イエスは幼子のように神の国を見る者でなければ、神の国にはいることはできない、と言われた。この世的な能力や力などの誇るものを何ももたなくとも、ただ信じるだけで神の国に入ることができるのは何と幸いなことだろう。


○七月一日(日) 主日礼拝 サムエル記上23 30名。
 サウルに命を狙われて逃げている弱い状態のダビデが、主のことばに従って、ケイラをペリシテ人の手から救った。ダビデは自分の思いで動かずに、神の言葉を求めて従った。そして勝利を得た。しかし、そのことにより、サウルはケイラに攻めてきた。ケイラの有力者は恩人であるダビデを裏切ってサウルの手にわたしたのである。人間は、たとえ命がけで助けたとしても、このように、その相手に裏切られてしまうような弱い存在である。主イエスも完全な良きことだけをしたにもかかわらず捕らえられ、最後には弟子にまで裏切られて十字架で殺された。頼るべき方は主イエスただひとりである。そして、主イエスだけは決して裏切ることのない真実なお方である。
 窮地にあるダビデに助けがあった。サウルに殺された祭司たちの生き残りであるアビアタルである。彼はエフォドを持って来た。それは祭司の務めを象徴するものだった。ダビデはエフォドを身につけ主に祈った。サウルはケイラに責めてくるのか、そして、ダビデやその軍はサウルに引き渡されるのか、とダビデは神に尋ねた。神の答えは、サウルは責めてくる。そしてダビデは引き渡される、という答えであった。
 神に従って行くとき、全ての困難から免れるのではない。かえって思いもよらない窮地に立たされることもある。ダビデは最も弱い状態であった。しかし神は共にいてくださる。「弱い時にこそ強い」というパウロの言葉もそのことを示している。
 ダビデは神に頼んでケイラと戦うこともできた。しかし、ダビデは神の力をそのようなことには用いず、ただ逃げた。それゆえに、神はダビデをサウルの手に渡されず、守られた。
 また、遠いところからヨナタンが、荒野の中、ダビデを探してやってきた。ダビデに、「神に頼るように」と励まし、祈るために、命がけで来たのである。祈りによって、共に働く事ができる。そして、神に従う者には、弱いときにこのような助けが与えられる。ヨナタンはサウル王の息子であり、王位を継ぐ者である。しかし、地位や権威ではなくただ、神に従う者であった。ヨナタンと祈り合った後、サウルにダビデの存在を密告する者が現れ、今度こそダビデの命が危うくなったそのとき、ペリシテ軍がサウルの国を攻めてきたという知らせが届いた。サウルの軍はダビデを目の前にして引き返した。
 神に従う時、何も攻撃が起こらないのではない。ぎりぎりまで悪の攻撃は迫ってくる。しかし、だれも予測していなかった助けが、必ず与えられる。厳しい迫害の時に、それでも、福音が広がっていったのは、このようなことが次々におこっていったからである。
 わたしたちも、神に従い生きようとするとき、苦難にも遭う。しかし、どんなに大変な苦しい道を通っても、必ず助けがあたえられ、神はそこから最善に導いてくださるのである。


○七月二日 小羊集会 マタイ二十六・4756
 ユダは主イエスを裏切り、金で売り渡した。そして、主イエスを捕らえに来た人たちに、この人がイエスであると示すために、接吻という愛情表現を裏切りの行為に用いた。ユダも初めは主イエスに呼び出された弟子であり、主イエスと生活を共にし、愛の業や奇跡を間近に見てきた。それでもなお、このような裏切りをした。心がキリストと離れたらどれほど落ちてしまうかがわかる。そしてそれは、他人事ではなく、誰にでも起こりうる、人間の救いがたい罪深さを示している。
ゲッセマネで主イエスが血の汗を流して祈るとき、弟子たちはみな眠っていたことで示されているように、人間は自分でも自分の本性はわからず、真理に対して眠っている存在である。そのような人間の正体をここでは深くえぐり出している。
 ユダの密告により人々が主イエスを捕らえに来た。弟子のひとりが思わず大祭司の手下のものの耳を切り落とした。このとき、主イエスは手下の者の耳を癒されて言われた。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者はみな、剣で滅びる」
武力では本当の解決にはならない。そしてこの、主イエスの言葉は生きて働き、今に至るまで、キリスト者の非戦論となって生きている。内村鑑三も神の言葉によって、非戦論を主張していったのである。そしてその源流はイザヤ書に示されている。
「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ二・45
 聖書の言葉があってこそ、歴史上に命がけで非戦論を主張するものが起こされてきたのである。
 そして、ご自分が捕らえられるというこのことは聖書の言葉が実現するためなのだ、と主イエスは言われた。この世の起ることは、偶然ではなくすべて神の御意志によってなされている。人間がどれほど理解しがたい不可解なことであっても、すべて神様の御手の中にあることである。わたしたちにも個人的にも社会的にも、理不尽で不可解なことが起ることがあるが、それがどのようなことであっても、全ては神の大いなるご計画の中にあるのである。神は愛のかたであるから、最終的には、すべてを最善に導いてくださっていることを信じることができるのである。


○七月十五日(日)Ⅰコリント書二・115  30(この日は、吉村孝雄は北海道の利別教会での説教を担当。そのため事前の録音による礼拝)
 パウロがコリントに福音を伝えた時、何に重点を置いたか。それは、人類の救い主、イエス・キリストが重罪人として処刑されたことであった。それは当時の学問や哲学に秀でた人たちには受け入れがたいことだった。
 キリストが、人の罪を身代わりに負って、裁きを受けるため十字架の上で苦しんで殺された。そして、このことを信じるだけで罪赦され、正しい者とみなしてくださる道を開いてくださった。学者達に受け入れられないこのことを、パウロは特に伝えた。パウロは十字架につけられたキリスト以外には、何も知るまいと決めていたのである。キリストを伝えるとき、その愛の行い、すばらしい教え、また数々の奇跡、そういうことだけを伝えたら人は受け入れやすい。しかし、あえてパウロは、犯罪者として十字架につけられて殺されたキリストを伝えようとされた。
 十字架と復活。パウロにとってはこれが一番重要なことであった。犯罪人として十字架につけられるというキリストの弱さ。そのただなかで、復活ということが起こった。
 パウロ自身も、弱さの中にあった。福音を伝える、という重要なことのためにコリントに行ったのに、弱さや病恐れと震えの中にあった。自信満々でなく、不安感の中で働きがなされている。伝えたことも、立派な言葉をあえて避けて、さげすまれたイエスのことを伝えた。聴く人に、死人の復活などは後にしてくれと、断られたこともあった。しかし、その弱さの中に別の力が働いた。自分の宣教には、力はなかったが聖霊が働いたのである。神の真理に関することは、自分の能力で伝えるのではなく、弱さを自覚し、その中に神の力が働いてこそ、伝わっていくのである。弱さの中で、ただ神の力を信じていく。人間の権威ではなく、ただ神の力にたよる。そのときに、神の力は必ず働いてくださる。
 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(Ⅱコリント十二・9)
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ五・3)
 私たちも、日々の生活の中で、人間の学問、技術、英知、にたよるのではなく、聖霊の力、神の力によってなされますようにと、祈っていく。人間の力に頼ろうとすると挫折、絶望がある。しかし、神の力に頼るときには一時的に弱っても、必ず神の力が与えられるのである。


○七月二十二日(日)主日礼拝 Ⅰコリント二・611 31
 (この日は吉村孝雄は、仙台市の集会にて不在、事前の録音による礼拝)コリントの教会のひとたちは、福音を信じたばかりの人たちであった。そのような人に対して「信仰に成熟した人」と呼びかけている。それは、この人たちが、聖霊を受け、イエスが主である、と信じることができていたからであった。イエスが主である、と信じるのは聖霊を受けなければわからない。それゆえ、キリストの十字架を信じた人は、その程度は人によって大きく違いがあるにしても、聖霊を受けた霊の人といえるのである。
 ここで語られている「知恵」とはこの世の知識ではわからない、隠されていた、神秘としての神の英知のことである。それは、キリストのあがない、復活、再臨、聖霊の働きなど、新約聖書に記されている、さまざまな内容を指す。神の英知は学問や努力ではわからない。聖霊が与えられ、信仰が与えられてわかるようになる。だから、パウロも、信仰を与えられた人たち、つまり霊を与えられえた人たちに語ったのである。
 この英知は世界が始まる前からあったとある。人間の頭では計り知れない神の英知は時間も空間も越え、天地創造の前からあった。わたしたちは、目先のことしか考えることができないが、聖書ははるかな永遠から永遠までを指し示している。
 わたしたちは、何らかの出会いなどを通して、ある時からキリストを信じることができるようになった。しかし、聖書には、「天地創造の前に神はわたしたちを愛して、ご自分の前に聖なるもの、汚れないものにしようとして選んでくださった」(エペソ一・4)とある。神は、はじめからわたしたちを選んでくださっていたのである。この永遠性は「天地は滅びるが、神のことばは滅びない」ということにも通じている。
神の言葉は、初めから存在し、そしてこれからも、永遠にかわらないのである。その神に選ばれ、導かれているのであるから、わたしたちも、予期しなかった困難が起こっても、神はそのことを通して、必ず、良きことに導いていってくださると信じることができる。
「聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく、思い起こさせてくださる」(ヨハネ十四・26)とある。必要に応じて、個人的に聖霊が教えてくださるのである。このようなすべての力のもととなる聖なる霊をわたしたちはこれからも待ち望んでいきたい。


○七月二十九日(日)主日礼拝 Ⅰコリント二・1216 42
(内、スカイプ参加者3名)
 神の恵みがわかるためには聖霊が必要である。聖霊が与えられていないと、すでに与えられている恵みもわからない。そしてまた、求めても与えられないと思ってしまう。実際にはすでに多くの恵みを与えられている。衣食住。目が見え、手足が動き、呼吸ができること。そのように当たり前と思われていることが、恵みであることを、聖霊が与えられているといっそうわかるようになる。キリストの十字架によって、罪が赦された、ということも、聖霊をうけてはじめてわかることである。
「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える」(ヨハネ十四・26)とあるように、英知を深める。さらに、それとともに聖霊の働きは、聖書の中では「使徒言行録」に、その力が記されている。弟子たちは、復活のキリストに出会っただけでは、力は与えられなかった。しかし、聖霊が注がれたとき力が与えられ、命がけでキリストを伝えるようになった。
 また、ガラテヤ書では、聖霊の生み出すものは愛、喜び、平和、とも記されている。
 そのような、聖なる霊は、求める者には与えられ、与えられた者は、神の愛がいっそう深くわかるようになる。何に対しても感謝ができるようになり、砂漠に水がわき出るように、潤っていく。そして、さまざまな出来事が起ってくるその意味も、聖霊によって知らされるのである。
 広大な宇宙を創られた壮大な神の御計画。この世の中はいつ、どうなるのか誰にもわからない。しかし、わたしたちは、その神なるキリストの思いが与えられている。他者の罪を赦そう、愛そう、という、キリストの思いがわかるほどに、生きる意味、目的を知らされていき、感謝が与えられる。


お知らせ

各地での家庭集会の開催日の8月からの変更について「いのちの水」誌8月号でも書きましたが、念の為にここでも書いておきます。

○日曜日以外の各地での集会の変更について
それぞれの家庭集会などによって、日曜日に参加するようになった方々も多く、家庭集会の日を少なくすることは何とか避けたいと今まで続けてきましたが、時間がどうしてもやりくりがつかないためにやむを得ないと思い、今回変更をすることにしました。
家庭集会については、下記のように毎月2回開催していたものは、私が直接に参加するのは1回にします。
(ただし、初めての方が参加し始めた場合などは、その方のために一定期間、従来のように戻すことはあり得ます。また、別の事情で月に一度の家庭集会ができなかった場合は、状況によっては、日を変えて行うこともあります。)

・第2火曜日の夕拝は休止。 この日は、私は、徳島市から70数キロ離れた高知県に近い海陽集会に出向いています。その地に出向いたあと、さらに同日の夜の徳島市での夕拝は、時間的にもきびしく、負担が多くなりますので、お休みとさせていただきます。
そのため、夕拝は、第1、第3、第4火曜日となり、第4火曜日が従来どおり移動夕拝。そのため、徳島市南田宮の集会場での夕拝は、第1、第3火曜日の2回となります。
・藍住集会と北島集会は、私が藍住町の笠原宅や、北島町の戸川宅に出向いて参加するのは、第2月曜日のみ。
なお、従来の、北島集会の第3月曜日は、私が自宅でスカイプを通しての聖書講話をしていたのですが、それは第4月曜日とします。
・土曜集会→第4土曜日のみ。
・水曜集会は→第2水曜のみ。
・いのちのさと集会→第1木曜日のみ。
・その他の、月に一度の各地での家庭での集会は従来どおりです。

こうした変更の結果、集会の回数は以前より少なくなりますが、その月に一度の家庭集会に、よりいっそう主が聖霊とみ言葉を注いでくださって祝福されますようにとねがっています。


○今月の移動夕拝は、8月21日(火)。吉野川市の中川宅。いつもは、第4火曜日ですが、都合で今月だけ第3火曜日となっているので、特に注意して下さい。これは、私が不在でもあり、近畿無教会集会のすぐ後なので第4火曜日の夕拝を休会としたからです。


○今月のスカイプ集会…月に一度、中川陽子さんのお世話で、全員が自宅にいてインターネットのスカイプを用いてなされているスカイプ集会は、8月は、右の中川宅での移動夕拝ど合併して行います。
参加希望者は、中川陽子さんまで申込してください。
メールアドレスは、myrtus7@khc.biglobe.ne.jp
○西澤 正文氏を迎えての特別集会 915日(日) 午前10時~2時まで。
○祈の友・四国グループ集会 922日(土)午前11時~4時まで。 松山市友輪荘 担当者 冨永 尚
この集会は、「祈の友」会員でなくともどなたでも参加できます。
○この集会だよりは、6月~7月の集会の一部の内容です。
 



主は、そのすべての廃墟を慰め、…荒れ地を主の園とされる。
そこには、喜び、感謝の歌声が響く。
(イザヤ書51の3より)


○五月六日(日)サムエル記二十一章 (40名 内スカイプ5名)
 この箇所は、十九章から続いている、ダビデの危機的状況のときのことである。ダビデはサウルに命を狙われ逃げていたが神の力によって不思議な方法で守られた。
 危機的な状況に続く迫害のさなか、ダビデは神の守りを求め、祭司の所に逃げた。昔も今も、思いがけないような困難なことが生じることがある。そのとき、どこに逃げるか。何に救いや守りを求めるか。この世のことではなく、神に求めていくとき、神は必ず答えて下さる。
 ダビデはこのとき、食べるものもなかったので、パンを求めた。すると、ちょうど普通のパンはなく、特別に聖別されたパンしかなかったため、そのパンを受け取った。このことが、ダビデが今後、聖別された霊的なパンを受け取っていくことを示している。
 しかし、そのような中にもまた、危機が訪れる。いつも、目を覚ましていなければ、陥れようとする、闇の力は常に働いている。神を信じて生きるとき、助けは確かにある。しかし、理由なく滅ぼそうとする力も迫ってくる。そのような、厳しい現実だからこそ、神を求めていかなければならない。
 ダビデは敵と戦うために武器を求めた。そこに、ゴリアテの剣があった。この剣はサタンの力に勝利する神の力の象徴である。その力をダビデは受けた。
 そして、ダビデはガトという外国まで逃げて行った。やっとここまでくれば安全かと思ったけれど、その国にまでダビデのことは伝わっていて、この国の人がたくさんダビデによって殺されたではないかと言っていることを聞き、恐れた。逃げてもまた捕らえられる。ダビデは、次には、気が狂ったような異常な振る舞いをした。それで、かろうじて、そこから逃れることができた。苦難に続く苦難のなかでダビデは神に叫んだ。それが詩編五十六編となっている。「神よ、憐れんでください」というダビデの叫びは、今もわたしたちの苦しみの時にそのまま神への叫びとなる。そして、「あなたはわたしの嘆き、を数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋に、わたしの涙を蓄えてください。」(9節)という嘆きも、同じように時を超え、わたしたちの叫びとなっていく。
 神はわたしたちの苦しみを知っていてくださる。涙を一滴一滴を知ってくださる方である。忘れてしまうのではなく、すべて知っていてくださるのである。これほどに深い神の愛をあらわしている。人間にはわからなくても、神様だけは知っていてくださるのである。
 追い詰められたダビデの叫び。これは、三千年も前のことであるが、このときに生きたダビデの思いが、そのまま伝わってくる。深い悲しみと、それを受け取ってくださる神が克明に記されているところに、詩編の重要性がある。

○五月七日(月)小羊集会  マタイ二十六・3135
 ここは、ペテロの離反のことが書かれている。それはすでにゼカリヤ書に記されている預言の成就であった。主イエスは「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」(ゼカリヤ十三・7)という箇所を取り出され、すべてが神のご計画であることを示された。神の御子である主イエスは、書物もほとんどない時代に、神の言葉である旧約聖書の言葉を自由に取り出し指し示すことができた。
 この箇所には、弟子の離反を予言して示したあと、続いて「わたしは復活した後」と、特に重要な「復活」についても記されている。弟子の離反だけが予言されていたのであれば、それは救いにはならない。しかし、どんなに親しい者が逃げようが、殺されようが、すべてに打ち勝つ復活の力があることを主イエスは伝えたのである。
そして、復活した後、主イエスはガリラヤへ行く、とあえて、復活後に行く行き先まで話された。それは、ガリラヤは主イエスの伝道の出発点だったからである。人間の体をもたれた主イエスの伝道の出発点から、つぎに復活した霊の体による伝道の新しい出発点として、このガリラヤの地を主イエスは選ばれた。
 主イエスがこのようなことを話されていても、弟子たちにはその意味が何もわからなかった。ペテロは自信に満ちて、自分だけはうらぎらないと言った。他の弟子も同じであった。主イエスの言葉よりも自分の考えを優先したのである。神の御意志を聞こうとせず、人間は自分が正しいと思ってしまう。自分の弱さも認めようとはしない。それほど人間は弱い。そして、結局は、ペテロが、自分だけは主イエスを裏切らないと思っていたにも関わらず、主イエスが捕らえられると主イエスを知らないとまで否定してしまった。
だれもが神に背いてしまう弱さがある。主イエスに従いたいと思っていても、裏切ってしまう弱さ。そして、そのような弱さや罪にさえ、なかなか気がつかないのが人間の姿である。
しかし、そのような人間の弱さ、裏切りを超え、また、どんなに真理や真実をつぶすような力をも超え、主イエスの復活の力は勝利している。人間がどんなに弱くても、この主イエスの復活の力はかわることなく、そして、心から信じて求めるときに、誰にでも与えられる。ここに、かわらない希望がある。


○五月十一日(金)天宝堂集会 マルコ五・2134
 当時、ユダヤ人が律法を学ぶ場所として、会堂があった。会堂の責任者である会堂長は、ユダヤ人の中でも社会的な地位が高かった。その会堂長の娘が死にそうになった。
 会堂長は、大勢の群衆の目前で、娘を助けてくださいと主イエスの前にひれ伏した。主イエスは医者でもなく、まだ三十代の若者である。まわりの人にどう思われるかわからない。しかし、会堂長は、脇目もふらずに、主イエスのもとに走り寄り、ひれ伏した。主イエスには神の力がある。だから、娘に手を置くだけで、癒すことができる、と全身全霊をかけて、信じたのであった。
 今も、主イエスは聖霊となって生きて働かれている。そして、信じて心からひれ伏すとき、神の力によって、霊的に死にそうなものに手を置いてくださり、生き返ることができるのである。
 もうひとり、十二年間も出血の病気で苦しんだ女性のことが記されている。これは婦人病の一種であり、治らないというだけでなく、宗教的に汚れているとされ、差別されていた。(レビ記十五・25)病気の苦しみと、差別される孤独の苦しみ。医者にかかり、財産も使い果たした絶望的な状態だった。出血の病気がありながら、人前に出るということは、禁じられていることであり、この女性にとっては命がけであった。しかし、この女性も、イエスだけは服に触れただけで癒されるという信仰を持つことができ、全身全霊で、主イエスだけを見て、その衣服に触れたのであった。
 主イエスは、自分の服に全霊で触れられたのを感じ、「誰が触れたのか?」と問われた。この女性は、人目に出ることを許されていないので、もし、名乗り出たら、なんと言われるかもわからない。しかし、女性は、主イエスの前にでて、ありのままを話した。主イエスはすべてをご存じで、愛の方であるから、どのようなことがあっても、必ず良いようにしてくださる、という信頼があった。主イエスの前に素直で正直であること。主イエスの愛を信じること。その心を主イエスは見てくださり、答えてくださるのである。
 今も、主イエスは生きておられる。どんな人間よりも、目には見えないけれど、主イエスを信じるとき、主イエスは癒しと赦しを与え、良くないものをとめてくださる。
わたしたちも、会堂長や、この女性のように、心から全霊で主イエスに向かい、ひれ伏して祈ること、そして、主イエスを信頼し、素直で正直であることが指し示されている。

◯五月十三日(日) 主日礼拝 一 テモテ六章6~10 参加18 (松山市での四国集会に13名参加。「足ることを知る」録音による講話)
「信心(ユーセベイア=ギリシャ語)」という言葉がテモテの手紙には多く使われている。日本語訳の「信心」という言葉とはかなり意味が異なる。
この語は、プラトンや、その他のギリシャ哲学の著作に出てくるが、そこには「人間としての優秀性のうち、宗教的敬虔(ユーセベイア)に勝るものはない」とある。敬虔(ユーセベイア)とは「天に属するものに尊敬をささげる(ヘラクレス)」という、天に属するものへの姿勢を述べ、それは「滅びることのない徳」であり、あらゆる美徳の基礎だと。また哲学者ソクラテスは、神に聞く事なしには、何事も行わなかった。彼はユーセベイアであった、とその弟子が書き残しているとおり、神の世界を絶えず呼吸し、人間の横の関係にもそれを実践していった。
信心(ユーセベイア)は、軽い意味に受け止めがちである日本語の不十分な意味とはちがい、人間の最高の精神的あり方を示す奥の深い厳粛な意味を持つ。同じ意味の語に、ラテン語の「ピエタース」があり、敬虔、信仰、憐れみ、愛などを表す。イタリア語の「ピエタ」は、十字架で処刑されたイエスを抱き、深い愛をもって悲しむマリア像を言う。
本当に満ち足りることなしに、ユーセベースではあり得ない。6節に「満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」とある。原発の問題も、根元には、満ち足りることを知らず、どこまでもお金や物質的豊かさを求めていったために起った。本当にわたしたちを満すのはユーセベイアであり、それは目には見えない大きな利得である。「わたしたちは、何も持たずに世に生れ世を去るときは何も持って行くことができない」。これは冷厳な事実だ。ヨブ記、一章21に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ」とあり、このような精神がユーセベイアと言える。
神様と深く結び付いていること。満ち足りること知ること。詩篇23篇には「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠ることがない」。これは大きな利得である。主は新しい力と霊的な食物を与えてくださる。
主イエスを心に住んでいただいて、この世を歩むとき、わずかなものでも満ち足りることができるようになる。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足する(ピリピ四章12節)」。足ることを知ることはすべて、神様と共に居り、神に対する深い敬意と礼拝心を持つことによって可能だ。
それに対し、金の欲は悪の根だ。原発のことも、止められないのはその奥に金の欲がある。ひとりひとりも、お金でなくユーセベイア、その大きな利得、霊的な豊さを求めよう。わたしたちはキリストの満ち溢れる豊かさの中から、恵みに恵みを与えられる(ヨハネ福音書一章16)。

◯五月十四日(月)北島集会 出エジプト 二十章5~11
すべてを造られたかただけを礼拝する。それ以外の像を拝してはいけない。
その神は「熱情の神」であり、「妬む神」と訳されてきたが、この訳語は大きな誤解を招いてきた。「妬み」とは、人を殺すにまで至るような、人間の最も醜い感情である。「妬み」には、いかなる意味でも、まったくよい意味がない。にもかかわらず、神が妬む神だ、などと訳されたために、神に関して間違ったことを植えつけてきたことになる。
「熱情」と訳された原語(ヘブル語)は「カーナー」。激しい感情で顔が赤くなるというニュアンスがある。これに対応するギリシャ語は「ゼーロス」。熱心、また用心深い、強く感情を注ぎ込む、などであり、人間的な単なる「嫉妬」とは別のものである。神は妬むような汚れた感情を持ってはおられない。神様だけに向わせようとする激しい情熱をもっておられる。なぜかというと、神様以外の所に行けば、必ずその人が不幸になるからである。神は不信心を許されない。人間の嫉妬心は自分中心。だが神様の熱情は、その人の幸いを思えばこその、愛のお心である。
「わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」とある。神様だけを愛して、神の言葉を尊重する者は、自分だけでは終らない。子供がない場合も、神様の祝福は続く。アブラハムの受けた報いは非常におおきい。天の星のように「霊の子ども」たちに受け継がれる。罰も受けるが、この祝福のほうが遥かに大きい。神様の祝福は予想外のものを使い、伝わっていく。わたしたちも神を愛し、信じていけばその祝福を共有させていただける。
この十戒の中で、初めて神様を愛することが言われている。また申命記6章4にも「あなたは心を尽し、魂を尽し、力を尽して、あなたの神を愛しなさい」とある。信じることは前提だが、神を愛し、隣人を愛することをイエス様は言われた。その源流がここにある。神の赦しによって本当の安らぎが来た場合、神を愛さずにはいられなくなる。そのようなとき、神様のことを言うにしても真実味を持つようになる。

○五月十五日 火曜日 夕拝 イザヤ50章4~11
 この箇所のタイトルは「主の僕の忍耐」とあるが、「主の僕…」と初めて出てきたのは42章で「主の僕の召命」というタイトルであった。「見よ、わたしの僕、私が支える者を。…」イザヤはこのような僕が現れると霊的に見た。神さまのなさろうとされるご計画がはっきり分かった。僕の特性は神の霊が宿る方、まさにイエス・キリストさまのこと。洗礼のヨハネから洗礼を受けられた時、神の霊が鳩のように降った。(マタイ3の16
42
章には「主の僕の召命」とあり、僕はユダヤの国だけでなく、世界の国々に正しい道を示される。そして傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく、また見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すと。49章には「主の僕の使命」として、わたしの救いを地の果てまでもたらす者とすると。この啓示がキリスト以前500以上も昔に、イザヤに啓示された。キリストの福音が全世界に伝えられることが、預言されている。
「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた。あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。」(使徒行伝1347) これは、キリストに関する預言ということにとどまらず、キリスト者―内なるキリストを与えられた人も、程度の差はあるが、同じように異邦人の光となるように召された。
 僕であるためには、言葉を授からないといけない。イエス様の言葉は「権威ある言葉だった。」そのためには上よりの言葉を聴かないと語れない。毎朝、新しくみ言葉を聴かないと語れない。油断していると霊的耳が鈍っていく。昔、出エジプトの時、荒野で民は天からのマナで養われた。その時、安息日を除いては、マナは毎日集めないといけなかった。多く集めても余分のものは腐って食べれなかった。同じように神様との関係も、いつも新しくなければいけない。礼拝も毎日、日々新しく。50の6では、主の僕は徐々に深められ、高められていく。どんな目に遇っても、自分でやりかえさない、抵抗したり、怒ったり、落胆したりはしない。神さまが助けて下さるから、自分でやりかえさない。神さまがわかって下さると信じて静かに耐える。いろいろな理不尽と思われることが起こっても、甘んじて受ける。これは主の僕の特質。これが他者の悪を身代わりに受けるというところまで深まっていく。

○五月十七日(木)いのちのさと 詩編一〇三編 616
 この世は強いもの、権力があるものが、弱いものを踏みつける。この世だけを見ていると、神はどこにいるのかとさえ思わされる。しかし、神様は、そのような虐げられた人のために正義をなしてくださる。歴史の中でも神は、御旨を行い、ご自身をあらわされた。そして、歴史におこったこと、また、この作者個人に起ったことは、全ての人に当てはまる。過去を振り返ると、どれほど導かれてきたかがよくわかる。
 10節からは、罪について書かれている。人間には神に従おうとしても背いてしまう弱さがある。しかし神は忍耐され、常に赦そうとしてくださる。悪に従って報いられるのであれば人間は裁かれてしまうのに、わたしたちの罪を完全に赦し、遠くに投げ捨ててくださる神。作者はこのことを啓示され、天が地をこえるほどに、神の愛は高いと感じた。人間は、なかなか相手の罪を赦すことはできない。すぐにわだかまりを持ってしまう。しかし、神は、まったく罪を思い起こさないで遠く遠ざけてくださるのである。これは、放蕩息子の父親の愛を思い起こさせる。作者は罪の赦しと神の愛を、啓示され実感できたのである。
そして、わたしたちも、そのような世界があること、この高い目標を目指すようにということが示されている。
 14節では、主は、わたしたちを、どのように造られたか知っておられるということが書かれている。わたしたちは塵のように弱い存在であることを神はご存じなのである。人間の生涯は草のようではかない、裁かれてしまう存在である。だから、罪の赦しが必要なのである。神は塵のような人間を無視するのではなく、赦して愛してくださるのである。

○五月二十七日(日)主日礼拝 ローマ書十六・1427
 パウロが、手紙の最後に、助け手や、いろいろな集まりの人のことを記している。交通の便もないような当時に、このようにあちこちの集会とのかかわりがあるのは、パウロが導かれるままに、伝道のために遠くの集まりにまで行っていたことがわかる。そして、その交わりによって支えあい進んでいくことができていた。わたしたちも、可能であれば、いろいろな主にある集まりに参加し、主にある交わりによって支え合っていくことが大事である。
 教会の中、主を信じる仲間の中に、互いに相手が成長するようにという思いに反して、分裂をもたらす人がいた。これは、主の愛ということと反対である。ある人のことを悪く言ったりすると、そのことから、集まりから離れてしまったり、それによって信仰から離れてしまったりすることが起る。祈らないで、相手の人のことをいうことは避けるべきである。
 主イエスを信じる人をつまずかせる、とは、信じることができている人を、できないようにしてしまうことを指す。このことは主イエスが「小さな者をつまづかせるよりは海に投げ込まれる方がまし」といった厳しい表現で指摘している。誰かの悪いことをいうとき、そこから分裂が起り、つまずかせることにつながっていく。もし、集まりの中で、他者のことを悪く言う人がいれば、その人から悪い霊が取り去られるようにと、祈るべきである。
 平和の源である神はサタンの力を砕かれる。サタンの働きは、身近なところから、世界中にわたり現実にはいろいろある。しかし、主イエスはサタンに勝利している。サタンの力は必ず打ち砕かれる。キリスト信仰は最終的には倒れない。この世のことは、知れば知るほど希望が無くなり、悪の力を感じる。しかし、必ず、悪の力は踏み砕かれるのである。
「彼(キリスト)はお前(サタン)の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記三・15)と記されている。踵をサタンに砕かれ、歩けないほどのこともある。しかし、神はサタンの頭を砕かれる。
 わたしたちは、それでもやはり罪を犯してしまう弱い存在であるが、しかし、その罪は十字架によってすでに赦されている。立ち返ることによって罪は赦されるのである。十字架も復活も、主イエスがサタンを足の下で打踏みつけ、打ち砕いた、ということの象徴である。
 福音の三つの柱は、罪の赦しと、死の力の克服である復活、そして、最終的な勝利であるキリストの再臨である。再臨によって、あらゆるこの世の力が踏みくだかれて、新しい天と地となる。このことを、心から信じるとき、どのような問題も解決する。そして、この福音がわたしたちには啓示されたのである。

○五月三十一日(木) スカイプ集会 ルカ福音書十章1720節「天から落ちるサタンとキリストの力」参加者19(北海道・東京・神奈川・栃木・愛知・福井・徳島より参加)
 72人の弟子は喜んで帰ってきた。危険な任務であったが、イエス様の名によって悪霊が服従したからである。イエス様から遣わされるということは、それを潰そうとする悪の力も同時に働く。しかし任命されたばかりの人達でも、イエスから力を与えられたら、確かに力を発揮する事ができた。イエス様の力は学問や教養がないと与えられないのではない。信仰の世界では、物事は不連続的に起こる。神の力は、神のご意志にかなった時には、ただちに与えられる。
 「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」とあるが、聖書全体が、どんなに強大なサタンの力でも、一瞬にして落ちてしまうということを啓示してきた。闇の中で「光あれ」と言われたこともそうである。最終的には、キリストが蛇(サタン)の頭を砕くと預言されている。どのように悪の力がはびこっているように見えても、それは絶えず落ちつつある。これを知っている事はキリスト者の大きな特権である。私たちも信じたら、悪の力を踏みつけて行くことになる。イエス様は最後の食事の場面でも言われた。そういう勝利の力を与えてくださっている事は本当にありがたいことである。
主イエスは、「悪霊があなた方に服従するということを喜ぶのでなく、あなた方の名が、天に記されている事を喜べ」と言われた。人間はすぐに自分にその力を帰してしまう。聖書では、結果ではなくどのような心のあり方を貫くかが問われている。神様を心の中心に置けば、私たちに結果が出ず、試練があっても、神様が覚えてくださっていると思うことができる。善い事があっても、悪いことがあっても、いつも喜び、感謝することができる。神様の愛に根ざせば、どのようなことが起こっても落胆しないのである。私たちの名が天に書き記されている事を喜びたい。

◯六月三日(日)主日礼拝 サムエル記(上)二十二章 参加36(内、スカイプ参加者3名)
ダビデは、サウル王から命を狙われ、必死で逃げている。そのような者について行っても、何らよいことはない筈だ。洞窟に隠れ、いつ殺されるかもわからない。水も食物もない。だが神の祝福うけたダビデは、そのような時でも人を引き付けることができた。神様が、ダビデと共に歩む人を集めたのである。権力ある人は、そのような所には行かない。弱い立場の人ばかり。不思議とそういう人たちが集められた。祝福されたら、たった一人になることはあり得ない。「真理は孤ならず」。
弟子たちでさえ、なかなかイエス様が神の子とわからなかった。だが最後まで付き添ったマグダラのマリア、また「このかたこそ神の子だった」と言ったローマの百人隊長など、啓示によってそれを知らされていた。真理そのものが引き付ける力を持つ。今もそうだ。
ダビデの曾祖母ルツがモアブの人。ダビデはモアブの王に両親を預けた。ダビデは自分がサウル王の迫害によって殺されるかも分からないという状況であったからである。
預言者ガドは「ユダへ行け」と、神の言葉を受けて言った。もし行かなければ、神様が何を起されるか、その業もわからないままになる。それがはっきりわかるために、危険な所に敢えて行け、と。ダビデは、この危険な状況を神の言葉によって導かれ、最終的に神の御計画に従って王となる。
サウルは、ダビデを助けた祭司に対し非常に怒り、祭司の一族たちを殺した。どうして神様はそれを止めなかったのか。戦争もそうだが、すべてわからないことだ。しかしそのような現実の様々な謎のような中に神の業が行われていく。闇の中にも光をもたらす。罪もない祭司たちが殺されてしまうという闇と混沌。 だがそこに一人残された祭司の息子。このアビアタルが後に祭司として続いていく。
自分の存在が、多くの人の犠牲のもとにあることを深く知らされたダビデ。わたしたちも、犯した過去の罪や悪い結果をも赦していただいて生きている。ダビデも、犠牲を負った多くの命を背負って生きていくことになる。
危険の中にあっても神の業は、必ず、求める者には与えられる。見えざるみ手の導きがある。この世には闇も毒麦も混乱もあるが、そのような中にも神様は助けを起こされる。ダビデの苦難は、詩篇57にもある。非常な悪意の只中で「わたしの魂はうなだれる」状況から、どれくらいの時間が経ったのか。「わが心定まれり(8節)」と、神様とはっきり結び付き、苦難を乗り越えた。そのとき、讚美と感謝がうまれる。苦しいところから救い出してくださった。だから「目覚めよ、まが魂よ」。全身で讚美し、曙(夜明け)を開き、すべての人が共に讚美しよう。神の世界は広くて深い。

お知らせ

○6月の移動夕拝は、26日(火)午後730分~9時。徳島市城南町の熊井宅にて。 移動夕拝では、スカイプでの参加の申込は、熊井勇兄へ。アドレスは kyrie@mb.pikara.ne.jp 電話 0886-53-3980
○第29回 徳島市民クリスマスの録画DVD。これは大分以前のものですが、一部に希望があったので紹介しておきます。2005年12月に鳴門市文化会館で開催。講師は 聖路加病院の日野原重明氏。
なお、このときに徳島県のろう者の起こした教会と徳島聖書キリスト集会員の有志との手話讃美もなされ、これも録画されています。
なお、現在まで、30年以上継続されているこの市民クリスマスの内容が録画されたのはこの29回のものだけなので、どのように行われているか、その具体的内容を知りたい方には参考になるかと思います。希望の方は、左記の吉村まで。1枚送料共で300円。

☆吉村(孝)の県外での集会でみ言葉を語る予定。(7月)
いろいろな都合で、まだ確定していないところがあります。
○高松市での集会 松浦 大亮宅。7月1日(日)午後3時~
・連絡先 dmatsuur@gmail.com
○北海道瀬棚聖書集会…712日(木)午後8時~15日正午
・問い合わせ先 野中信成。 電話 OI37-84-6335
E-mail nonaka.nobunari@rainbow.plala.or.jp
○札幌での集会…瀬棚聖書集会のあと、翌日の716日(月)に、吉村孝雄は、札幌での交流集会に参加、御言葉を語らせていただく予定です。
○苫小牧での集会…右の札幌での集会の翌日、717日(火)午前10時より。


集会だより2012.4 NO.382


わが魂よ、主を賛美せよ。
そのすべての恵みに心を留めよ。
(詩篇103の2)


○三月四日(日)主日礼拝 サムエル記十九章 37
 この箇所には「死に至らせる(殺す)」ということばが何度も出てきている。そして、対照的に「救う、難を免れる、」という意味の言葉も繰り返されている。死に至らしめようとする力と救う力とが対照的に表されているのである。サウルが槍を持ってダビデを殺そうとしたとき、ダビデは竪琴を持っていた。ここでも人を殺す槍と、人を癒す竪琴とが象徴的に記されている。
 ダビデは神に選ばれた人であった。しかし、死の危険が、いつも迫ってきていた。神に選ばれたから、安泰というのではない。苦しみ、困難、死の危険さえも襲ってくる。しかし、そこから救われる力も与えられる。
 わたしたちも、神を信じていても苦しいことが襲ってくる。それは、サウルがダビデを槍で突き刺そうとしたことが、象徴的にあらわしているように、体や心が刺されるような力である。しかし、神はそこから、救ってくださる。たとえ、殺されたとしても、復活の力によって最終的な勝利が与えられている。救いの力、逃れの道が与えられなければ希望はない。詩編二二編は、この世の中で経験する、絶望的な苦しみと叫び、そしてそこから、救われ、讃美にかわることが記されている。わたしたちには神による救いが与えられている。サウルはあらゆる力をふるってダビデを殺そうとした。しかし、サウルの息子ヨナタンは、ダビデに共感を持ち、親しみを感じていた。ダビデを殺そうとする、その力のすぐそばで、救おうとする力が働いていた。そしてそれは霊の目を開くとき、すぐ傍にあるのがわかる。
 次にダビデを助けたのは、サウルの娘でありダビデの妻であったミカルだった。ミカルは窓からつり降ろしてまでダビデを助けた。しかし、ミカルはダビデと見せかけて、偶像であるテラフィムを寝かせた。ミカルは偶像を持っていたのである。このことは、後において、ダビデが勝利を治め、神に感謝して踊ったときに軽蔑の言葉を投げかけ、そして最後には神に裁かれたことに繋がっていく。偶像、つまり不純なものを心の中に持っていると、ふとしたところで出てきて、それが裁きに繋がっていく。
 そして次にダビデを助けたのは預言者の一団であった。これは霊を受けて、不思議なことをいう人たちである。ダビデを殺すために使わされたサウルの使者も、霊が注がれ正常な状態でなくなった。仕方なくサウル自身が赴いたのにサウルにもその霊がのぞんで、裸になって倒れていた。神は霊的な力でダビデを守ったのであった。
 悪の力がどんな方法で迫ってきても、神は予想できない方法で助けてくださることを聖書は示している。神を信じ、従おうとするとき、どんな困難が襲ってきても神は必ず守り導いてくださるのである。

○三月五日(月)小羊集会 マタイ二十六・1425
 十二弟子のなかの一人が主イエスをお金で売り渡した。主イエスに選ばれ、家庭や仕事をおいて、三年間、主イエスと生活を共にし、神と同質の主イエスの愛や力に間近に接した弟子であった。しかし、感化されずに最終的にお金で売り渡すという裏切りの行為を行った。
 神の人、主イエスは人類の歴史上で最も優れた人である。そのような人といても、感化を受けるとは限らない。人間にサタンがはいったとき、このように、驚くべき恐ろしいことをするようになる。 
 主イエスは、完全な善きことだけをしてきたお方であった。そのような方を売り渡すという、不可解な力。サタンの力は今も確かに存在している。そして、聖書はそのような人間の姿を赤裸々に記している。良い師に出会っても、良い親に育てられても、必ず感化されるとは限らず、かえって悪を行うような不可解。しかし、そのような不可解な力、裏切りや悪の中であっても、神のご計画は進んでいく。主イエスは、ご自分が殺されることを「わたしの時が近づいた」と言われた。ご自分が殺される、ということによって、神のご計画が成就されている。主イエスの死が終わりでなく、大いなる罪の赦し、復活が起るときであることを示している。
 主イエスは弟子達との最後の食事のときに、弟子の一人が裏切ろうとしている、と語られた。弟子たちは驚いた。このことによって
「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べるものが威張ってわたしを足蹴にします」(詩編四十一・10)という聖書の預言が成就した。信頼していた人に急に裏切られる人間の不可解さ。しかし、それもすべて神のご計画の成就に繋がっていくのである。
この主イエスの言葉を聞いたユダ以外の弟子たちは、「誰だ、そんなやつは」と他者を裁くのではなく、それぞれが自分の心を顧みた。「まさか、わたしではないでしょうね」この言葉は、主イエスこそは心の奥までを見抜く存在であり、自分の意識をしていない罪まで知る人である、と感じていたから出た言葉である。人間はすぐに他人の悪いところに目がつく。しかし、自分はどうなのか。弟子たちは、自分の弱さを知っていた。 
 主イエスは、弟子たちに「いま、パンを浸したもの」とはっきりとユダを特定して言った。ここで神を畏れ悔い改めたら赦されたはずである。しかし、この場に及んでも、「自分ではないでしょうね」と神を畏れず白々しくユダは言い放った。サタンの霊が入ると、人間はなにをするかわからない。そして、サタンの霊は誰にでも入り込んできて、愛や真実と反する心を人間に持たせようとする。絶えず目を覚ましていなければ、サタンは隙をうかがっている。サタンの霊と対するのが聖霊である。
心の中に、家庭の中に、集まりの中に、サタンがはいらないように。そして、聖霊が入ってくるように絶えず目を覚まして求めていなければならない。聖霊が来てくださるとき、サタンの霊は追い出され、主イエスによって守られ導かれていく。
 この世にはサタンが働いていて、恐ろしい出来事が後を絶たない。しかし、そのような中でも、全てを超えて神のご計画は進んでいく。闇のような世界の中で、目に見えない神の力を信じて歩む。そこに私たち予想を超えた祝福がある。

○三月十一日(日)主日礼拝 ロマ書1418152 37 (内、スカイプ参加4名)
「互いの向上に役立つことを追い求めよう」とある。
この「向上」と言う言葉は、原語の意味からは「建てあげる、作り上げる」という意味がある。
 当時、偶像にささげた食べ物を食べるかどうか、食べたら、汚れるという人と、食べても汚れないという人の間で、いさかいがよく起こっていた。互いに裁きあうと、人間関係は壊れてしまう。裁きあって壊すのではなく、互いに建てあげよう、とパウロは呼びかけている。
「 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」(エペソ四・29
 悪い言葉ではなくて、造り上げる言葉を語りなさい。それも、必要なときに語りなさい、とパウロはここでも言っている。祈りなく語るとき、すぐに人は良くないことを話してしまう。そして、それは神様を悲しませている。
 どうしたら、造り上げることばが語れるようになるのか。それには聖霊を受けなければならない。
「 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペテロ二・2)
 霊の乳、御言葉、聖霊を求め、聖霊によって語るとき、はじめて他者を造り上げることばを語ることができるようになる。神の愛を受けていなければ、自分も作り上げられないし、他人もつくることはできない。この世の知識、学問や経験だけでは、かえって高ぶりが生じてしまう。素直な心で求めるとき、神様は霊の乳を豊かに与えてくださり、少しでも良い言葉が語れるようになる。
 神様は新しく造りあげる力を与えようとして、キリストをつかわしてくださった。キリストの力に結びつくとき、どんなこの世の力によっても、壊されることはない。たとえ、死によって肉体が壊されたとしても、その魂は壊されることなく。復活の新しい命へと導かれていく。
 個人も、国家も、民族も、神の霊によってよみがえる。これは旧約聖書にすでに預言されていたことである。
「そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』」(エゼキエル書三七・45
命なき骨のようになっても、主が命を吹き込んでくださるとき、人は新しく造り上げられ、生き返るのである。

 ○三月九日(金)天宝堂集会 マルコ五・120
 人間を苦しめ、他者も自分も傷つけ、そして孤独におとしめる悪の霊の力。学問や経験がどんなにあっても、悪の霊の力は追い出すことはできない。かえって、それは悪用され、他者を、そして自分自身を傷つけ苦しめるものとなることがある。原発や戦争などもその結果である。また、さまざまな悪事、依存症、病気や障害による苦しみなど、人間には闇の力が襲いかかり、そこから自分では逃れられなくなることがある。
人間にとって、もっとも必要な力は、この悪の力を追い出す主イエスの力である。
 マルコ福音書には、主イエスが最初に会堂で教えられたそのときに、主イエスが悪の霊を追い出されたことが記されていることからも、この力の重要性が示されている。
 多くの悪霊にとりつかれていたこのゲラサ人も、悪霊の力によって墓場に追われ、自分を傷つけていた。悪霊にとりつかれるとき、墓場のような孤独なところに心は追いやられ、そして、自分も他者をも傷つけていくことを象徴している。
 そこに主イエスの力が働き、この人から悪霊は追い出された。悪霊は汚れを象徴する豚の中に入り、闇を象徴する海の中に入っていった。死んでいたような状態から、この人は生き返ることができた。しかし、群衆はそれを見て、主イエスを恐れ、出て行って欲しいと言った。表面的なことに驚いて、主イエスを受け入れることができなかった。これも、人間の現状である。
 悪霊から解き放たれたこの人は、主イエスに従って行きたいと願った。しかし、主イエスは、自分になされたことを他の人に伝えなさいと言われた。
 主イエスがしてくださったことを伝える。このこともまた、主イエスに従って行く、と言うことである。自分がどんな状態のものであったか。そして、そこから主イエスによってどのように憐れみを受けたか。そのことを伝えていく。キリスト教の伝道は、これが二千年間続いてきたことであると言える。わたしたちも、少しでも、自分になされた神の憐れみを伝えていく。
それが、主イエスに従って行くことなのである。

◯三月十二日(月)北島集会 出エジプト 十五章1~5
主に向って歌うことの源流がここにある。本当なら滅びるところを、神によって助け出された。人間に向って歌うのでなく、主に向って歌う。キリスト教賛美の基本がある。
主は、滅ぼそうとする力を海に投げ込んでくださった。単なる昔話でない。わたしたちに働く悪の力、それは人間の悪意、攻撃、病気、事件、また霊的な悪や誘惑など、滅ぼそうとするものが迫ってくる。だがその力を主が滅ぼし、助けてくださった。またそれらを海に投げ込んでくださった、という経験。「馬と乗り手」とは、わたしたちを踏み付けるものである。
私たちの生活において、何らかの形で必ず迫ってくるそのような闇の力に対して、おおいなる力を神様が現わしてくださるのである。
主こそわが力、わが歌。主こそ讚美の源泉。神様を持っていなかったら力は出ない。だが、主は我が力だ、ということが本当に身についたならば、神様が杖となり力となってくださる。生きるか死ぬか、聖書の言葉はそれくらい大きな力を持っている。 人間の力は、小さい。
老年になってまわりの人間は見捨てても、神様は見捨てない。これらは歴史の中の無数の人間の経験であり。このような神への讚美のこころも世界で共通のものがある。
3節の「主こそいくさびと」は、わたしたちを押しつぶそうとする闇の力を、神様が投げ捨ててくださった。「彼らは深い底に石のように沈んだ」とあるように、海の底に沈めてくださる。日々わたしたちもこの実感をもち、神様にしっかり寄り縋っていく。 それらは讚美の源泉となる。
ミカ書7章18には「とがを除き、罪を赦される神」、「すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあり、神様の深い愛を感じるのはこの点においてである。イエス・キリストの十字架もそれを信じるだけで罪の赦しを感じる。それが力の源泉となる。

○三月一三日 (火)夕拝 イザヤ書四七章  一二名
 イザヤ書四〇章以降はバビロンでの半世紀に及ぶ捕囚からの解放にかかわる事が書かれている。かつて、バビロン軍によってイスラエルの神殿も城壁も壊され滅ぼされ、多くの民は遠い異国に捕囚となった。そのような壊滅的な中から神様はイスラエルの民を救い、再び祖国に帰した。滅ぼした人も時が来たら滅ばされていく。今日どんなに勢力を持った国家も時が来たら滅びる、その視野をここから与えられる。
 バビロンの国は永遠に支配者であって自国が滅びる事など考えた事もないと人々は傲慢な気持ちでいた。平然と悪事をして「見ているものはない」と思い、知識が身に付く程に誤っていった。知恵と知識は傲慢にさせる。4節で前後関係と関係なく「私たちの贖い主、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる神」と挿入され、私たちの罪を贖って下さり罪と戦って下さる主が宣言されている。後の時代、主イエスがそれを受けて十字架にかかり、滅びから私たちを買い取って下さった。これが神様の勝利の仕方である。それゆえ「私たちはこの世に勝っている」と言われている。ゲッセマネの主イエスの徹夜の祈りは、「戦いの主」の姿であった。
 預言者イザヤは、とくに神を聖なる存在として啓示された。「聖」、これは神様の重要な特質であり、旧約に29回出ているが、その内22回がイザヤ書に出ている。神は聖なるお方とは、いかなる人間の動揺や混乱にも影響を受けな永遠不動の存在者であるという意味である。その神様を私達は仰ぎ見る事ができる。神様の愛と聖さを仰ぎ見るという形で私達は神様と関係を持つ事ができる。スパージョンは小さな教会で「地の果てのすべての人々よ、主を仰いで救いを得よ」というみ言葉に捉えられ救われた。スパージョンは霊感溢れる説教をしたが今も影響が続いている。私達も主イエスの十字架を仰ぎ見る。神様は、私達の周りにいかに大きな悪の力があっても、思いもかけない時、突然それらの悪に破滅が襲う。裁きも突然来るが、良い事も突然来る。私たちは絶望せず最後まで望みを失わない。

◯三月十四日(水)水曜集会 ヨハネの黙示録15章1~4
天に驚くべきしるし。神の怒りがその極に達するのをヨハネは見た。怒りとは神の裁き。極に達するとは「完成する=テレオー」であり、「終り」をも意味する。ヨハネ福音書13章1には、弟子たちをこの上なく愛し抜かれたとある。その「この上なく」、または「最後まで」が、「テロス」であり、「テレオー」の名詞形である。1930で「為し遂げられた(完成した)」も「テレオー」という同じ言葉。
神の裁きは、いつも完成する必要がある。神の裁きは、時代と状況によって変化したり、不正が混じる人間の裁判とは全く異なる。神様の裁きは、人間を愛するゆえに、人間の幸いを妨げるものを滅ぼす。悪の力を滅ぼす。これは本質的に愛と結び付いている。
悪いことをしたら、裁きを受ける。悪の力が本当の幸いを妨げるからである。神様はそれを除き、本当の幸いを与えようとする。キリストが十字架で死なれたのも、悪の力である罪を除くためであった。再臨は、主イエスが、すべての悪を除くために来られることである。
ガラスの海は水晶のイメージで、非常に高貴なものの象徴。透明で壊れない。(黙示録4章6にも)。それは神様のみ前に広がり、永遠に清い。しかしここではそこに、火が混じっている。神様の裁きが完成するための、裁きの火である。人間の怒りや裁きは、感情的になると人の命まで奪うくらいに汚れているが、神の裁きは清さと愛が、高貴で清い水晶のような中に混じりあっている。人間も、神様から聖霊をいただくと、感情から怒ることがなくなってくる。
この世の悪の力に打ち勝った者は、迫害の初期から、既に神の勝利を見ている。彼らは竪琴を手に、透明な水晶の岸に立ち歌っていた。清めれられるとそのようになれる。出エジプト15章には、モーセが、「主による勝利」を讚美する歌がある。 神様の裁きによって最終的に勝利する。キリストがそれを成してくださる。暗いさなかにも勝利の歌を歌うことができる。

○3月20日(火)夕拝 イザヤ書48章1~6前半「新しい創造」
○4月3日(火)夕拝 イザヤ48616「苦しみの炉をもって」
 「ヤコブの家よ、これを聞け!」ヤコブの家とはイスラエル民族の別名として言われている。直接的には、イスラエルの人々に呼びかけているが、現代の私たちへの呼びかけでもある。ユダの人々は表面上は宗教的であるが、実質は4節のように頑固で頑なな民である。このようなことはいつの時代でも起こりうることで、イエス様の時代にもイエス様を非難したのは、律法学者、パリサイ派の人々、長老や大祭司で、宗教的、政治的な指導者たちで、イエスさまを受け入れず、殺してしまった。表面は神さまのことを思い、み言葉に従うように見えるが実は従おうとしない。イエス様も彼らに対して同じようなことを言われた。大事なことを表面的にしているが、内面はしていない、内面こそ大切なことなのに。2節 万軍の主(ヤーウエ ツェバオース)ツェバオースは天使にも天体あるいは実際のイスラエルの軍にも使う言葉で、聖書に500回程出てくる。
新約ではイエス様のことを、主の中の主、王の中の王(king of kings)と言っている。イエス様は個人的に慰め、癒しを与えられるが、また全世界、全宇宙をご支配なさっているお方。3節 ペルシャ王キュロスは、バビロンを滅ぼして王となったが、神の僕として用いられ、主が油を注がれた人として出てくる。(44:28~45~)キュロス王は1500キロほども離れた祖国に捕囚のユダヤ人を帰還させるという歴史上考えられないことをした。これも神さまがキュロスを使ってなさったことで、このようなことはしばしば突然なされる。不連続的に。偶像が成したと言わさないために。
 6節後半「これから起こること新しいことを知らせよう 隠されていたこと、お前の知らぬことを。」この箇所はテーマの一つであるが、それが「キュロスによるイスラエルのバビロニアの捕囚からの解放」をさす。
イザヤ書では、全く新しいことを造る、創造(バーラー)英(create)という言葉がとくに多く用いられている。ヘブライ語で54回使われている語(イザヤ書21回、創世記11回、詩篇6回、エゼキエル6回など。(イザヤ書には20回が40章以降に使われているという特異な使われ方がなされている。イザヤ書39章までのイザヤと40章以降のイザヤが別の預言者だったと言われるのもこうした言葉の用いられ方の違いもその理由のひとつと考えられている。)40章以降のイザヤ書の著者はだれなのか不明。創世記や出エジプト記などの深遠な内容を持つ書もだれが書いたかは不明である。神が特別な人を選んで書かせたのであるが、神はしばしば名前を残そうとせず、真理を残そうとした。
 イザヤ書に特別多くこの「創造」という言葉(ヘブル語でバーラー)が使われているのは、捕囚からの解放、苦しい状態から祖国に帰ることができる、ここにイザヤは神の無限の力、万能の力を感じたからであろう。神さまは万能のみ手で、異邦人の王に特別に油を注いで(旧約には他に例がない)予想もできないことをなされるのだ。(人間が作るのは、神さまが与えてくださった材料を用いて、神さまが創造された自然界の法則を使って作るだけで、実は、その根源はみんな神さまが創造されているのだ。)神さまは人間が出来ないことをなさる。予想できないことを、しかも一番よいことを創造される。自然界でも予想できないことがおこる、人間のなかでも、歴史のなかでも想定しなかったことが起こる。もう駄目かと思われるようなひとであっても、神さまは「新しい人、新しい心の人」を造られる。大使徒パウロは立派な先生について学問を積んだが、キリストのことは全く解らなかった。ある時突然、キリストに向かう心を神は創造された。キリスト教にはそのようなことがある。当事者にとって、神が確かにしてくださったと心に霊的に感じることがある。
 10節 見よ、わたしは火をもってお前を練るが 銀としてではない。 わたしは苦しみの炉でお前を試みる。キュロスによって祖国に帰ることが出来るようになったとはいえ、だからといってイスラエルの民が銀のような価値があるからではない。本当は滅びてしまう程の背信行為を繰り返しているではないか。苦しみの炉で試みると言われる。苦しみに遇わないと人間は不純なものが一杯固まったままで、良い物が出てこない。神さまは不純なものを溶かして、善きものとするために苦しみをも与えられる。真実、愛のゆえになさる。人間はわからなくても、信じていくことが求められている。また 富の限界をも示唆している。経済成長で心が良くなるという考えはまちがい。むしろ貧しさ、苦しい目にあって本当によくなることが多い。

○三月二十五日(日)主日礼拝 ロマ書十五章712  34
 人間は顔も個性もそれぞれ違う。それゆえに、自分とは合わないと感じる相手も受け入れあうことは、一般的に言っても大事なことである。しかし、この世では、功利的な目的や、表面的に仕方なく受け入れあうことも多い。 しかし、ここではもっと深い神の御意志が示されている。
 それは、はじめに、主イエスがわたしたちを受け入れてくださった、ということである。神に背いているわたしたちを、悪いから見捨てるのではなく、その罪にかかわらず、神の栄光のために受け入れてくださった。愛の神がいてくださる。だから、わたしたちも互いに受け入れ合うことが示されているのである。
 この前の箇所で、偶像に供えられた肉をたべるかどうかについての内容が書かれていた。神は唯一であり、世の中に偶像の神などない。だから、偶像に一度ささげたといって、汚れなどない。こだわるのは信仰が弱いからである。しかし、神を信じていても、どうしても偶像に捧げた肉は汚れていると感じてしまう人がいた。そこで裁き合いが生じ、そして、そのような思い煩いから信仰から外れていく場合もあった。ここでも、受け入れ合うことの大事さが示されていた。
 正しいあり方とは、何が正しいかを見極めたうえで、そのような、弱さを持った人をも受け入れていくことである。そして、そのような、すべての人を受け入れることこそ、神の御旨なのである。
 異邦人への真理の伝達は、旧約聖書の時代から示されていた。
「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日がくれば、エッサイの根(キリストを指す)はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは、栄光に輝く」(イザヤ十一・910
「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。」(イザヤ四十五・22
「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」(イザヤ二・23
 このようにイザヤ書にも全世界の救いが預言されている。この時代も、混乱の時代だった。しかし、現実がどのように混乱し、悪が支配しているように見えても、神の御計画は変わらない。神は、神を否定し、神に背いていた民であっても悔い改めるとき、必ず赦して救ってくださる。神の定めた時が来れば、全世界の人は、神を仰ぐようになる。そして、それでも、かたくなに神を拒む人は裁かれていくのである。
 日本は特に異邦人の国である。だからこそ、この呼びかけは、今も日本にも、常に呼びかけられている。
 人間は目の前のことに心を奪われ、互いに裁き合おうとしてしまう弱さがある。すぐに小さな狭い心になろうとする人間。しかし、神の赦しのスケールの大きさは全世界に及ぶ。わたしたちも、今、この神のことばを受け入れて、広い心を与えられ、受け入れ合い、愛し合うことのできる確信を与えられたい。

○3月27日(火)移動夕拝 いのちのさと ローマ八章1217
 この世の生き方は二つしかない。肉的なものに従うか。聖霊に従って歩むか。キリストに内に住んでいただいて、聖霊によって導かれる道が最善である。自分の名誉、自分の力を信じている…これは肉に従う道である。クリスチャンになっても、聖霊に従わなければ肉の道に陥る。パウロは繰り返し「もし肉に従って生きるならあなた方は死ぬ」と言っている。肉を断つのは、意思ではできない。本当に意思が強い人は一人もいない。それは聖霊によらなければできない。聖霊が与えられるように私たちは絶えず祈る必要がある。
 神に対し「お父さん」と親しい気持ちで言える。それが私たちが霊的に生まれた印である。神の事を「お父さん」と言える人は皆神の霊を受けている。聖霊によらなければ誰も「イエスは主であるとは言えない」とある。聖霊を受けた印とは何か。イエスに対し礼拝を捧げる。この為、継続的に集会が行われる。人間的なものであればすぐ廃れるが、二千年を越えて礼拝が続いてきた。また祈る事ができる。キリストを信じた人はキリストと共同の相続人である。キリストと共に苦しむ事も恵みとしていただいている。現代でも、キリストを第一にしようとすれば、家庭であれ職場であれ苦しみが襲ってくる。しかし、日本では命を奪われたりはしない。私達の報いは大きい。マタイ五章3節に、「心の貧しい人は幸いである。天の国はあなたがたのものである」と約束されている。貧しい心で神様を仰ぐ。人はそれだけで、天の国の相続人になれる。

※この日、吉村兄は関東方面に伝道に出かけられていて、過去に行われた集会録音よって夕拝を行いました。この日初めて、スカイプで横浜の浅井兄が参加されました。

◯四月一日(日) 主日礼拝 サムエル記(上)二十章 38(内 スカイプでの参加 3名)
ダビデとヨナタンに関する昔の物語だとして現在の私たちと関係がないように思って読むのでなく、旧約聖書の歴史上のこととか物語のような内容を読むときにも、常に現在のわたしたちへのメッセージは何なのかを考えつつ読むことが大切。
理由無くして非常な困難が襲いかかることがある。ダビデとヨナタン、サウルの三者が出てくるが、サウルが、ダビデを殺そう殺そうとする。その理由がどうしてもわからない。
理由無くして危険や困難が襲いかかることが、聖書にはしばしば書かれている。創世記のヨセフは、自分に示されたことを言ったために激しい敵意を被り、殺されかかった。二人とも神様にしっかり結び付いていた。そうであっても、理由無き悪意を受けないのではない。理由の無い悪意、しかしそこから神の導きが始まる。
その典型がイエス・キリストである。執念深い敵意をもって襲いかかろうとするこの世。何をしたからこのようなめに遭うのか、どんな悪や罪を犯したからか。どうして自分だけが、という思いを色んな人が持つだろう。これはおおきな謎として昔からあった。
ダビデを助けようとするサウルの息子ヨナタン(神は与える)に、ダビデは「主は生きておられ、あなた自身も生きている。死とわたしの間はただの一歩です」と言い、目の前であなたが生きていると同じくらい、殺されるのも確実なことだと告げた。 このような言葉を用いているのでわかるが、旧約聖書の信仰ある人たちは、神が生きておられることも、目の前で誰かが生きているのを見るくらいに確実なのだということへの確信があったのがうかがえる。主は生きておられる。偶像や死んだ神ではない神が。わたしたちもその神を感じながら生きる。
「ただの一歩」という言葉は象徴的な言葉である。予測しない事故などによる死、また主が来られるのも、祈りのなかで人と霊的に出会うことも「ただ一歩」である。
ヨナタンとダビデ、危機的な状況の中でも、絶えず「主」ということを念頭に置き、主がしてくださることを待ち望み、行動した。わたしたちも、人間の感情中心でなく、主が中心になってされていることを常に思う。
ヨナタンは王子であったが、何一つダビデから受けようとせず、精一杯与えようとしている。本当の友情とは、与えることだ。貰おうとすることでない。霊的友情。イエス様の友情。純粋なものを与えようとする。この友情は永遠に続く。
一方、サウルは自分の息子さえ、感情から、殺そうとする。人間の裏と表。人間という不可解な存在。
ダビデはヨナタンへの感謝のために地にひれ伏し、三度礼をした、とある。ヨナタンは「平安(シャーロームーローム)にあって行け」と。わたしたちも、最も願うのは、主が介在してくださること。他のものは必要でない。神の真実を信じるか、どうか。神は導く。主はわたしの羊飼い わたしには欠ることがない。たとえ敵を前にしても…(詩篇23篇)

○三月三十日スカイプ集会 ヨハネ福音書十八章33節~38節「真理と受難」参加者21名(徳島・神奈川・埼玉・福岡・福井・東京・茨城・千葉・北海道より参加)

 この箇所は「王(バシレウス)」という言葉が何度も出てくる。ギリシャ語のバシレイア(国)という言葉はこのバシレウスから作られており、国とは「王の支配」を表す。ローマ総督ピラトがイエスに最初に言った言葉が「お前が王なのか」であった。イエスは「私が王ということは、あなたが言っていることだ」と分かりにくい答えをする。これはイエスこそ王だと、異邦人が言うことになるという預言である。ローマ兵の「ユダヤ人の王、万歳」や、イエスの罪状が「ユダヤ人の王」とヘブライ語・ラテン語・ギリシャ語で書かれた事も、イエス・キリストの御言葉が全世界に広がっていくという預言となった。
 イエスは、真理について証しをする存在であると書かれている。真理とは何か。イエスキリストの王としてのあり方は「茨の冠」であった。金銀ではなく茨の冠で血を流す、受難の王である。もっとも善き事を与えようとする深い愛である。これこそが真理である。イエスはこの受難によって我々の人間的な弱さ、過去の失敗など、どうしようもない罪を拭い去られた。その真理のために茨の冠を受けられた。だから、そういう深い愛を持つイエス様に「王として支配してください。」というのは、人として最も深い願いである。それが主の祈りの「御国をきたらせたまえ」である。どんな時でも、この祈りは祈る事ができる。褒められて傲慢になりそうな時でも、落ちぶれた時でも、自分の心の悪い部分に王としてご支配してくださいと祈ることができる。他者が間違ったことをしても、嫌ったり見下すのではなく、そこにイエスの王としてのご支配を願う。
 本当に善いものは、どこかこのように茨の冠を被らされている。イエス様は見捨てられて嘲られた。この世では王らしくない。私たちもまた、この世の栄光を求めるのではなく、イエス様が被られたような茨の冠を多少なりとも被る。そこに祝福がある。人に評価されなくても、ほんのわずかでも茨の冠を被らせていただけたのだと思うことができるのである。
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y & Y.N

お知らせ

○北田 康広さんの讃美歌CD「人生の海の嵐に」は、多くの方々から、申込があり、「いのちの水」誌にその感想を掲載したように、聞く人々の心に響くものがあったのがうかがえます。
一般の店、インターネットからでも購入できますが、(定価三千円)、徳島聖書キリスト集会の左記 吉村宛てに、メール、電話、FAXなどで申込あるときには、特別価格にてお送りすることができますのでお申し込みください。

○4月のスカイプ集会(全員スカイプだけでの集会)は、27日(金)午後8時~9時半時ころまで。参加申込は、中川 陽子姉。
アドレスは、myrtus7@khc.biglobe.ne.jp。 なお、このスカイプ集会以外にも、各地の家庭集会でも、その多くはスカイプでの参加が可能です。「いのちの水」誌のお知らせ欄を参照ください。

○今月の移動夕拝は、4月24日(火)、午後七時半~九時すぎ。中川 啓・春美ご夫妻宅。

○MP3機器について
MP3というのがよく分からないといわれることが折々にあります。これは、パソコンで扱う音楽や講演、講話などの録音ファイルのひとつの形です。
これは、普通の市販の音楽CDで使われているかたちよりも、十倍ほど圧縮して、同じCDに、ずっとたくさんの内容を入れることができるのです。MP3対応の機器、パソコン、CDラジカセ、ミニコンポなどがあると、例えば、私どもの集会から発行しているヨハネによる福音書や創世記、詩篇などの私の聖書講話などを聞いていただけますし、日本聖書協会から、旧新約全部の聖書の専門家による朗読による音声で聞く聖書も、MP3版で販売されていますので、目を痛めて読むのがたいへんになった方ですと、これはわずかCD六枚で聖書全巻が収録されており、音声で聞くこともできます。(カセットテープなら数百本になる分量です。)
その機器は、パソコンを使っていない人でも、一番だれにでも手軽なのは、MP3対応のCDラジカセです。現在のところでは、CDラジカセでMP3対応のものは、ビクターの製品が入手可能です。以前はサンヨーから出ていましたが、現在は製造されていません。ビクターの製品もそのうち入手できなくなると思いますから、希望の方は、購入されるとよいと思います。
ふつうのCDラジカセはたくさん置いてありますが、MP3対応のCDラジカセは大型電器店でもなかなか置いていないので、以前から希望の方には、私(吉村)からおとどけしています。私どもの集会で一部補助をして、一台8000円(送料当方負担)でお届けしています。なお、インターネットができる人は、ネットから注文することができます。価格は、現在、八千五百円~1万四千円ほどです。

○「原子力発電と平和」(吉村孝雄著)も、現在も申込があり、ご希望の方にはお送りできます。原発関連の、小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)の徳島での講演の録音(MP3)、高木仁三郎関連のNHK ETV特集のDVDもあります。


集会だよ り2012.3 NO.381


だれでもキリストの内にあるならば、
その人は、新しく造られたものである。

(Ⅱコリント5の17


 

リストボタン○二月五日 主日礼拝 サムエル上十八章
「主が共にいたダビデ 」 参加者 40名(内 スカイプ4名)

人間はたとえ生まれた環境がどうであっても神に捕らえられたら、その心は守られる。ヨナタンはサウル王の息子であった。しかしヨナタンは王の悪影響を受けることはなかった。そして、王の息子であっても、信頼すべき友人のダビデに親愛の印として自分の上着を与えようとした。
 ダビデは神に祝福され、戦いに大きな勝利をあげた。それはサウルの勝利を上回った。サウルはねたみ、ダビデを殺そうとした。しかし、ダビデは敵対心を持たなかった。それは、ダビデは主がともにいたからであった。神を信じていても、危険な目にも遭う。しかし、そのようなときこそいっそう神は近くにいて下さる。神共にいますこと以上に、生きていく上で大事なことはない。神が共にいてくださるとき、悪意にも敵意にも心は守られ、よきことだけを心にとどめることができるように清められていく。少しのことで満足できるようになり、人間に認められなくても、気にならなくなる。自分の中に神がいるかどうかが一番大事なことである。
「エノクは神とともに歩んだ。そして神がとられた」とある。(創世記五・2224)ほかのすべての人が、長寿であっても、みな死んだ、と記されているなかにあって、神が共にいるということ、そして神が取られたということが、閃光のように啓示されている。
イエスキリストは、人が神と共に歩むことができるようになるために来てくださった。どんなに動物の血をささげても、罪は清められない。主イエスが十字架にかかって、罪をきよめてくださった。罪がある限り、神と共にいることはできない。しかし、キリストの十字架と復活によって、人は神と共にいることができるようになったのである。
 ダビデは自分の弱さ、小ささを知っていた。そこに神の祝福はそそがれた。人間はすぐに傲慢になり、自分がひとかどの者と思い上がる。そこには祝福はなく、神は去ってしまう。神の前に砕かれ、心貧しき者であることを知るとき、神は近くに来てくださるのである。


リストボタン○二月六日 小羊集会(月) マタイ二十五・41~二十六・13

 最も小さい者にしたことは、主イエスにしたこととなり、祝福を受ける。そして、最も小さい者にしなかったことは、主イエスにしなかったこととなりさばきを受ける。いつの時代も弱者は踏みつけられ、不当な苦しみを負わされてきた。原発、戦争、など強者の利益、国家権力の犠牲となるのが、弱者である。この世ではそれが当然のようにまかり通っている。しかし、そのような弱者を虐げる者へのきびしい裁きを主イエスは示している。
主イエスはもうすぐ十字架にかかって殺されるということを弟子に告げた。実際にそのころ、祭司長や民の長老といった宗教的、社会的指導者たちは、主イエスを殺そうと相談していた。権力のある指導者たちには主イエスをうけいれることができなかった。
それと対照的にひとりの女性が記されている。主イエスは当時忌み嫌われていたライ病人の家に来ていた。そのような家にその女性は主イエスを訪ねて来たのである。ベタニアのマリアであった。マリアは、主イエスのところに来ると、三百デナリもの(一日一デナリの賃金と主イエスのたとえにあるので今のお金にすると、三百万円ほどにもなる) 香油を主イエスに注いだ。
マリアは、主イエスがもうすぐ殺されると言うことを知っていた。そして、その死の意味の大きさを知り、自分の財産といえる香油を主イエスに注いだのである。それを見て、弟子たちは驚いて叱責した。弟子達にも主イエスの死の意味はこのときにはわからなかった。主イエスはこの女性のことはいつまでも記念されると言われたが、確かにその預言のとおりに、全世界に知らされることとなった。
宗教的、あるいは社会的な指導者は主イエスを受け入れずに殺そうとまでしたのに対し、地位の低かったベタニアのマリアは主イエスの死の意味を知っていたのである。地位や学問があっても真理はわからない。そして、弱者である女性であっても、啓示によって主イエスの死の意味と言う重大な真理を知ることができるのである。香油の香りが広がるように、自分にとって大いなる価値を持つものを主イエスに捧げるひとが続いて起こされ、全世界に広がった。
それは、どれだけ高価なものを注いでもなお払いきれないものを、主イエスの死によって与えられたという実感が与えられるからである。主イエスの死の意味を知ると、自分にとっての大事なものを自ずと注ごうとするようにされる。そして、主イエスはその思いを祝福してくださる。


リストボタン○二月八日() 水曜集会 ヨハネ黙示録 十四章6~13

 三人の天使が次々と言葉を発する。第一の天使は、永遠の福音を携えて来ていた。福音の真理は、全ての人たちに当てはまる。全ての人に、時代を超えて当てはまらねば真理ではない。 世界的に多数の民族、国家に受けいれられているかどうかという点から見ると、日本しか通用しない神社信仰やアジアのごく一部にしか伝わっていない仏教にはその普遍性は乏しい。
 天地、海を創造した方を礼拝しなさい。わたしたちも、他のものではなく、全てを最善にしてくださる創造主である神を礼拝する。
イザヤ書21章9にも「バビロンは倒れた」とあり、エレミヤ51章には「バビロンに対し滅びの風(ルーアハ)を起こす」とある。バビロンの滅びの原因は、この世のことや偶像を拝したためである。そういうものは火と硫黄で裁かれるとあり、昼も夜も安らぐことができなくなると記されている。
「安らぐ(アナパウシス)」とは、様々な動揺が止まって安らぐこと。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ1128)の「休み」と同じ。
 わたしたちは、ほんとうの神様を礼拝しないなら、昼も夜も、何をしても、どこか魂の休みがない。しかし主に結ばれていれば安らぎを得る。困難な状況にある時も、希望ある忍耐が必要。
 書き記せ、とある、誰かに伝えるため、書き記すことには重要な意味がある。「主にあって死ぬ人は幸いだ」。この短い言葉の中に黙示録が書かれた目的がある。迫害の時にも、どうして殺されて死んでいかねばならないか。この疑問があった。だが、この言葉にその解決がある。あらゆる苦しみから解放されて、霊的にキリストにあって(エン クリストー)死んだものにも、永久の安らぎがあるからである。


リストボタン○ 二月七日 火曜日 夕拝 イザヤ45章1~7

 時代背景はアッシリアが滅び、新バビロニアも新しく台頭してきたペルシャに滅ぼされた頃のこと。今から2500年程も前のこと。(日本では文字もなく、中国から文字を借りてきて出来たのが古事記で、AD712年のことである。)ユダヤの民は一帯を支配する大国に支配され、また滅ぼされた。(北イスラエルはアッシリアによって、すでに滅ぼされていたし、次いで南のユダヤは新バビロニアに滅ぼされ、1500キロほども離れたバビロンに捕虜となって連行された。ユダヤの民は捕虜となった地においても、集まり続けて聖典を読んでいた。)半世紀程経った頃、新バビロニアはペルシャに滅ぼされた。ペルシャ王キュロスはこのユダヤの民を祖国に戻すという、不思議なことが起こった。ペルシャ王キュロスは神を知らなかったが、神さまが彼を用いて神のご計画を成就させたのだ。(神さまの道具として用いられた。)2500年余り前、歴史の中で大きな働きをするべく、神さまがキュロスを特別に選んで用いられた。このキュロス王に力を与えたのも神、大国になっていったのも神さまのご計画、聖書における神さまは個人だけではなく歴史の中で働いている神さまなのだ。1節にはキュロスに対して主が油を注がれたと書かれている。これは神さまの本質を注ぐという意味で、神さまはキュロスを特別に選んで、歴史の中で大きな働きをするべく選ばれたのである。
聖書は、このように、過去の歴史を具体的に書きつつ、現在の私たちにも関わっていることが書かれている。
 右の手をとってくださる、そして害を受けないように、悪の力に負けないようにして下さる。また神さまが一度導かれる時には、妨げをなくしてくださる。
2
節に書かれていることは、私たちにも向けられた内容である。いろんな人が苦しみに遭う。そこから抜け出られない、目に見えない檻に入れられるようなことが一杯ある。自分の心にも大きな扉ができてしまうことがある。… 比喩的に考えると、いろんな所が堅い扉で閉じられ、閂がおろされる。聖書を知って初めてこの扉、この閂が壊されることを知らされた。このことは一人一人の心の中の世界をも含んでいる。聖書に記された歴史は我々と結びついている。


リストボタン○二月十日(金)天宝堂集会  エペソ六・112

 人は、創造主である神を信じて生きことが本当の生き方である。神に結ばれて、はじめて正しい人間関係が与えられる。夫婦、親子、そして主人と奴隷、ここに記されていることは、すべての人間関係に言えることである。
 子と親の関係で言えば、主に結ばれて親と関わるとき、たとえ悪い親であってもその心がよくなるようにと祈りを持って関わっていくことができるようになる。また父親は、厳しさも優しさも必要であるが、最終的に親の愛がわかるように、感情で怒るのではなく、祈りと愛を持って諭すことが大事である。また、奴隷と主人との関係においては「主に仕えるように主人に仕える」とある。パウロは自分がキリストの奴隷であると、ローマ信徒への手紙の冒頭で記している。この時代には多くの奴隷がいたので、手紙を読む人にはわかりやすい表現だったと言える。
 人に仕えていくとき、苦しいこともある。しかし、それも主にあって意味があり与えられている。人間ではなく主に仕えるように心を込めて仕えていくとき、主からの報いが必ずある、主は心を見ていてくださるからである。どのような人間関係も、主に仕えるように、愛と祈りを持って関わっていくことが示されている。
 今の時代、わたしたちは、金で売買される昔のような奴隷とされることはない。しかし、制度上で奴隷が解放されても、人間には罪があり、何かの奴隷となっていく。お金、名誉、特定の人間、権力、欲望など、さまざまなものの奴隷となってしまう。キリストの奴隷になるのか、この世の奴隷になるのか。キリストによらなければ、根本的な救いはない。
 最後に「強くなりなさい」とある。人は誰でも強くなり称賛されたい。しかし、聖書は、この世で称賛される強さを示しているのではない。神の力によって強くなりなさいといわれる。キリストは、この世の強さはもたれず、十字架で殺された。しかしなお、神の力によって、全世界に今までも影響を及ぼしてきた。神の力は、戦争にも事故にも悪にも、この世のいかなる力にも影響されず、進んでいく。そして、滅びゆく魂を生き返らせる強さがある。どのような権力もたったひとりの魂を救うこともできない。神の力だけが、滅びる魂を救い、永遠の命を与えることができるのである。
悪の力は強く、人間は弱い。人間の力では、悪の力に勝つことができない。しかし、神の力によって勝つことができる。キリスト者の戦いは、悪の霊との戦いである。人間は弱いからこそ、神の力によって強くなることが必要である。わたしたちは自分の弱さを知り、神の力を求めて生きていく。真実に求める者に神の力は与えられるのである。


リストボタン○二月十二日(日) 主日礼拝 ロマ書十四章1~8  30

 信仰が強い、また弱い、とはどのようなことをいうのか。人間に左右されず、神に信頼し進んでいく姿勢、どのような人にも神の愛を持って関わる姿勢、そのようなことが信仰が強いとされる。しかし、ここでは、信仰が弱い人は、「野菜だけを食べている」といわれる。この意味については背景を知る必要がある。
 当時、真実の神ではなく偶像のための神殿も多くあり、そこに供え物もされていた。そして、その供え物の肉は、捧げられた後で市場に出回っていた。肉を買って食べるときに、それがもしかしたら、偶像に供えられたものであるかもしれない。ユダヤ人は、偶像に供えられた肉を食べると汚れると思っていたので信仰上食べないと言う人がいた。(Ⅰコリント八・4~) しかし、実際は偶像の神などいない。木や石などの偶像は意味のないことであるから、それに供えられたといっても、汚れもなく何の意味もないことである。だが、そういうことに確信を持てない人もいた。真実の神を信じるが故に、そのような肉を食べると汚れる、という思いが捨てられない人を裁いてはいけない、ということである。ここでいう信仰が弱い人とは偶像に捧げた肉だから食べたら汚れる、と考える人を指し、食べても何の関係もない、と考えることができる人を信仰が強い人としている。
 確信して肉を食べる人は、確信が持てずに肉を食べない人を裁いてはいけない。また、食べない人も食べる人を裁いてはいけない。どちらが正しいかと議論していては、議論に弱い人が負けてしまうことになる。また、心では汚れると思いながら、無理矢理形だけ従うこともよくないことである。異なる考えを、受け入れ合い支え合うことが大事である。それは、相手の間違いに対して何も言わないということではない。正しい指摘は大切である。しかし、それを相手を裁き見下していうことは間違っている。相手のことを思い、愛と祈りをもって指摘する。つまり、「たがいに愛し合うことのほかは、借りがあってはならない。」という十三章の内容からつながっているのである。イエス・キリストを着た上で信仰の弱い人を受け入れるべきなのである。
 召使いが立つのも倒れるのも主人による、とある。主人がその人を罰しようとすれば罰するし、立てようとすれば立つ。主人が召使に対しての権限をもっていた。
 信仰が与えられたのは、神様が立たせ受け入れてくださったからである。それでも、人間は弱く、罪を犯す。よくないことを考え、誘惑に負けてしまうこともある。しかし、神は、立たせて下さる。寄りすがる者を決して見放されることはない。
ある日を他の日より尊ぶ、ということは、安息日などの記念の日のことを指す。当時、土曜日を安息日として守る人、日曜日が主の日の復活の日として守る人、また、別の日を重んじる人もいた。このことも、食物の事と同様に、確信に基づいて決めるべきである。裁きあってはいけない。キリスト者にとって、毎日が復活の記念である。そして特に今は、日曜日が復活の記念であり、世界中でキリストを礼拝する日となっている。
 信仰の強さは人間の表面的なことではわからない。信仰が強いと思っても神から見れば弱いこともある。ただ、それぞれの人が確信に基づいて、主のために行うことが大事である。心から主のために行っていくとき、そこには感謝が生まれる。全てのことについて神に感謝ができるかどうかが問われている。
 誰も生まれながらの人間は、自分のために生きている。しかし、キリストを信じるようになれば、キリストのために生きたいと思う心が与えられる。相手を議論や理屈でやり込めるためではない。お互いに愛し合い、キリストの体として支え合うようになりたいと願うようになる。そして、生きるのは主のためであり、死ぬのも主のためであるという心の方向を与えられ、その道も示されていくのである。


リストボタン○二月十三日() 北島集会 エペソ二章1~6

 聖書でいう「生きる」ことと、一般的に言う生きるということは大きく異なる。聖書でいう「死んでいる」とは、この世を支配するこの世の霊に動かされている状態で、それらはみな死んだような状態だと言っている。
 この世の霊しか知らなければ、それが当たり前、ということになる。だが、ここではそれと違う神の霊があることを前提としている。死んだような状態であるのは、神様に関したことがまったくわからず、そのため人間の考えで全てを処理する。神という、いのちの根源との関わりが全く持てない状態だ。その奥に自分という欲望がいつも潜んでいる。よいことをするにも、この世の霊が働けば、自分というものがつきまとう。それは滅びに通じる。だが心理学では、このような現状分析はしない。そこに、自分中心が間違いの根源だ、という見方は無い。
 だが愛によって、死んでいたものを生かしてくださった。それは神の一方的な恵みと、信仰によってである。ルカ15章に放蕩息子のたとえがあり、24節には「この息子は死んでいた」とある。人間はみなこの放蕩息子と同じ状態だ。この世の霊に従ってやっている。そのやり方では絶対的な真理や正義もないことになる。神様を知らないとそうなる。
 だが死んでいたのが生き返った(24節~)父は息子を抱きかかえ、悔い改めた息子に新しい命(復活)を与えた。息子は、自分とは違った神様の考え、愛があることがかった。これが生かされるということであり、本当に生きていける状態である。放蕩息子は他人事でない。自分中心に生きているものはみな死んでいる。だが「死んだ者が神の声を聞く時が来る(ヨハネ5章24)」。
 父である神様はわたしたちをよみがえらせてくださっただけでなく、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」とある。この計画は転地創造の前からであり、壊れない力を与えてくださっている。とるに足らないものなのに。大事なものとしてくださっている。聖書とは不思議な本だ。神の愛は、わたしたちの常識的な考えには、入りきらないくらい大きいものがある。


リストボタン○二月十九日(日)主日礼拝  ロマ書十四・912
「神の裁きの座の前に」参加者 40名(内、スカイプ4名)

 わたしたちは主のものである。今、このときも、死んでからも主の御手の中にある。すべてのことは神の御支配の中にある。だからわたしたちは、何が起ろうと導いてくださる。
すべてを主が御支配されているということは、すべての裁きをも主がされるということである。それなのに、人間は、すぐに他者を自分で裁こうとする。あたかも、自分が神であるように他者を見下し裁くのは、神の御支配を信じていないからである。
 他者を裁いてはいけない。そしてそれは自分も裁かれることになる。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ七・1~2
他者を批判することは簡単である。しかし、それなら自分はどうなのか?と常に問われている。 正義と力は主にある。裁きも主にある。主は生きておられる。正義と真実によって裁きをなされる。そのことを深く知る時、他者を裁こうとする心はおこらない。
 人間には罪がある。神の裁きの前には滅びしかない。しかし、主イエスによって、滅びではなく救いが与えられ、死ではなく永遠の命が与えられる。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、裁かれることなく死から命に移っている。」(ヨハネ五・24
「神はひとり子をお与えになったほどに世を愛された。・・神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」(ヨハネ三・1618
 信じるだけで裁かれない。罪が赦され解決が与えられたら心が平安で満たされる。信じなければ与えられない。それが裁きである。信じない魂には、主にある喜びも平安もない。
 キリスト者であっても、さまざまな弱さや罪がある。しかし、主イエスを求めて生きていくとき、「信じる者は裁かれない」という言葉にすがっていくことができる。弁護者である主イエスが、わたしたちに罪があるのに、もう、罪がないといってくださるのである。
 わたしたちは、常に神の裁きの前に立たされている。しかし、同時に救いの座の前にも置かれている。神の裁きの前には滅びしかない人間であるが、主イエスによって赦しと救いが与えられている。それは、信じるだけで与えられる。
 神の真実の御支配があること、そしてわたしたちも赦されたものであることを知るとき、他者を裁く心がなくなり、相手のために祈り愛する心が与えられるのである。


リストボタン○二月二十日(月) 北島集会 出エジプト六章

 神の言葉を受けたモーセ。だがその言葉を人々に告げても、簡単には受け入れられなかった。モーセ自身の力でなく、神様の力が働いたからそうなった、と思わせるためである。神の強いみ手によって実現するためである。
 なぜ、わたしは主である、とわざわざ三回も言われているのか。主(ヤハウエ)という言葉はハーヤー(存在)という言葉からつくられた。主は永遠の存在者であり、どんなことがあっても変質したり壊れたりしない。万能の神であり、慈しみ、真実の神である。
 わたしたちの苦しみの時にも、神は居ないのでない。わたしはある、という神様はいかなることがあっても存在する。「事が起こったとき『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」(ヨハネ1319)は、これを受けている。たとえイエスが殺されても、そのあとに聖霊を残された。さまざまな困難が起こっても、神様が存在者であることを強調されたのはこういったことであった。
 信仰を持っても様々なことに出会う。だが、困難な中から神の業が成される。あらゆることに負けない力をくださり、その行き着くところにみ国をくださる。神様は、出し惜しみしているのでなく、本当の意味で与えようとされているのだ。ルカ1232には、求めなさい、そうすれば「父は喜んで神の国をくださる」とある。そして「わたしはあなたたちの神となる」。困難を通して、個人的に神様との深い絆ができるのである。これは人間の絆と違い、切っても切れない絆である。詩篇23編の「主はわが牧者、わたしには何も欠けることがない」。これこそ最も大切なものだ。
 神様が業をなさるときも、様々な妨げがある。しかし妨げの中で、神のみ業が成されていく。永遠の存在者である神様を飽くまでも信じ続けていく。


リストボタン221日 火曜日 夕拝 イザヤ書45章14~21

 出エジプト以来、敵対、攻撃する民に悩まされてきた歴史のイスラエルなのに、神を知らない人々までが「神は確かにあなたのうちにいます。ほかにはおられない。他の神々はむなしい。」という。神を知らない人まで変えられる。このことはすでに啓示されていた。(イザヤ書2:2~終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。…)
 当時の人々には考えられないこと。大国アッシリアに比べるとイスラエルは滅ぼされようとする小国、そして北イスラエルは滅ぼされた。しかし、聖書は高いところから見ている。当時の社会状況や政治状況とは全く違ったことを示された。神に敵対する力は殺がれてしまうと言われた。
15
節はイザヤ自身が神から受けたことばとみなされる。(多くの註解書はそのように訳している。)この「隠された神」はルターが強調した言葉として有名。神の働きは確かに隠されている。「確かにおられる」ということは、信仰によって啓示されてわかる。隠された神がわかるのは信仰による。この神を明らかにしていくのも信仰である。


リストボタン○ 二月二十四日スカイプ集会
(参加者14名:東京・福岡・福井・徳島より参加)
ルカ福音書113336「澄んだ目の働き」

 灯火が周囲を照らすように、人間そのものを輝かせるのは目だと書かれている。この目は、普通の目でなく、神様を仰ぐ目のことである。神様へのまなざしをしっかりしていなければ、その人の存在は暗くなる。神様へのまなざしが澄んでいるならば、全身は明るい。目が濁っていて神様の方を向いていないならば、光がまっすぐ入ってこない。イエス様は、「幼子のような目で見るのでなければ、神の国には入れない」と言われた。まず神の国と神の義・神様のご支配を求める。ただ一つのものを見つめようとすることが、単純・率直な目(シングル)である。
 母マリアに息子が立派になってよかったと言う人がいた。しかし、そういうことは本当の幸いでない。本当の幸いは、神様の言葉を聞くこと、そしてその言葉に従うことであるとイエス様は言われた。そこに霊的な力がある。世の中に耳を傾けると心が暗くなる。しかし神様の言葉を聞けば初めて私たちの心が明るくなる。
 ソロモンの知恵を聞きに来たシバの女王は英知を見つめて地の果てから来た。また、ニネベの人たちは、ヨナの説教を聞いて悔い改めた。方向転換をし、罪や欲望ではなくて、神に向き直った。放蕩息子も自分中心に考えていた頃は暗かったが、「奴隷になってもいい。」と考えてお父さんだけを見つめようとした時、本当に神様の光が射してきて明るくなった。
これらの例は、霊的なまなざしがどこに向かおうとしているのかを示す。いつも灯を掲げておく。それは私たちの霊的なまなざしを神という一つのものに注ぐということ。いつもそうしておけば、私たちの存在は常に明るくなるのである。


リストボタン○二月二十六日(日) 主日礼拝 ロマ書十四・1317 37

 互いに裁きあってはいけない。裁きあうとは、相手を批判し、悪く言うことである。これは、相手の欠点を全く指摘しないということではない。明らかに間違っていれば、相手のためにも言うべきである。しかし、愛と祈りを持って、相手のために言うべきなのであって、悪口を言ったり、批判して見下したりすべきではない。裁くとは、相手を低くし、自分を高くしようとする心がある。
 ここでは、食べ物のことに関して特に記されているが、これは当時、偶像に一度捧げた食べ物を食べると汚れるのではないかと考える人たちがいた。そもそも偶像など意味はないのだと、信仰によって気にせずに食べることができる人たちと、信仰はあっても弱く、どうしても気にしてしまう人たちとのあいだで裁きあうと言うことが起っていたのである。裁きあい、批判しあうのは神様の御意志ではない。他者を裁く人は、実は自分が何をしているのかわかっていない。
「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである。」とある。パウロは「義」という言葉をよく用いている。人間にはこの「義」はない。誰もが罪があり、神によって赦されなければ、正しくはあり得ない。義とされた人とは、神に赦され悔い改めた人である。自分の罪を深く知るとき、他の人を裁くことなどはできない。どれだけの罪をキリストの十字架によって赦されているか。それを忘れてはいけない。
 ここでいわれている「平和」は主によって与えられる平和である。新約聖書の平和という言葉はギリシャ語であるが、その言葉は、ヘブル語のシャーロームという意味がその背後にある。この語は「完成する」という意味が原意である。神の豊かな恵みによって、完成された状態。神の国は神からの恵みで満たされた状態を指す。満たされたら、他の人を、裁いたり、見下したりしない。赦してくださったのだから、そのひとも、赦されるようにと願うようになる。
「聖霊による喜び」はこの世の喜びとは異なる。この世の喜びはすべて時間とともに消えていく。老年になると、何もできなくなる。しかし、神の国、つまり、神のご支配も聖霊も、よろこびも平和も求めたら、与えられる。神は、一番よきことをくださるのである。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの天の父は、喜んで神の国をくださる。」(ルカ十二・32
 聖なる主の霊を豊かに受け、喜びと平安で満たされるとき、他者を批判し、裁きあうといった心はなくなり、祈りあい、愛し合う心が与えられるのである。


リストボタン◯二月二十七日(月)北島集会 出エジプト 14

この個所、今のわたしたちとどのように関係があるのだろうか。神が、エジプト王の心をかたくなにした、とある。神様の意図はわからない。他にもわからないことは無数にある。だが信仰の立場では、神様が何か深い意図でなされているのだと信じることである。永遠の存在者である神様はよきお方で、悪いことは決してなさらないということを信じることである。この方が今も生きて働いておられ、わたしたちにとっても、本当に大事なことである。
背後にはエジプトの追っ手、前は海。絶体絶命の状況だ。人々は、モーセに「我々を連れ出したのは、荒野で死なせるためですか」と言うくらいまで追い詰められていた。神がおられるから困難に逢わないのではない。数千年前のイスラエルの人々の動揺はよそ事ではない。わたしたちの日常の困難にも、迫ってくるところがある。「落ち着いて、主の救いを見なさい」。背後で神様がなされる。これが大きな働きの原動力となる。普通ならとても静かにできないような追い詰められた状態で、なぜこのようにできるのか。神様の呼びかけを受け取らねばできないことである。生きるか死ぬか、唯一できることは、神への信仰をしっかり保つことである。モーセの必死の心の叫びを神が読み取った。
モーセが神の力を受け取って、手を海に差し伸べたら、海が二つに分かれて人々は歩いて行くことができた。まるで海のようなこの世の力。それが飲み込もうとする。しかしそのようなときも、しずまっていれば主が戦ってくださる。イエス様を幼子のような心でしっかり見詰めていないと飲みこまれてしまう。主こそ最大の戦士である。主はイスラエルのために戦われた(ヨシュア記1014)。(申命記30節にも)。神様にかたく結び付いていれば、主が様々なサタンの力と戦ってくださり、勝利させ、道を開いてくださる。


リストボタン○三月六日 火曜日 夕拝 イザヤ書四十六章

 バビロンに捕囚の民となって50年、神殿は破壊され、エルサレムの城壁は壊され、イスラエルの民は消えて無くなる程の危ない状況、たとえイスラエルに帰ることが出来ても、いつなのか予想も出来ない絶望の時、40章以降において、イザヤ書(エゼキエルも)では神の啓示をうけた預言者が、人々を励まし続けた言葉が記されている。1節 バビロンにはベルとネボという偶像の神がいた。しかしこの神の力はある時までで、後には人間が担って持ち運ばなければならない無用のものとなる。
 反対に真の神は生まれた時から担い続けてくださっている。4節 「わたし」(原語のアーニィという語は6回使われている。(日本語のわたしは3回になっているが。)「私こそがあなたをどこまでも担っていくのだ。」イザヤは強く啓示されたのであろう。人間は、だれかをあるところまでは支えていけるが、年を重ねるにつれ自分が弱ってくると支えることができなくなり、立場が逆転するようになる。
 しかし神さまだけは、死の時まで私たちを担って下さる。目に見えない愛によって。さらに一番深い罪すらも担って下さる。(これは、人間にはできないこと。)(イザヤ53の3,4,11,12)私たち人間の過ち(罪)を担い、背いた者のために執り成しをしたのはこのおかただった。イエスは復活されて今の執り成しをしてくださっている。8,9節 絶えず神さまが支え担ってくださっていることに、立ち返らなければいけない。ここが原点。
10
節~神のご計画は必ず実現する。個人においても、全世界においても神のご計画は成就する。なにが起こっても信頼は揺るがない。1213節 最終的にはこの世の中、恵みのわざ、正義が成就する。どこまでも救ってくださる神さまの力が言われている。何が起ころうとも、揺るがない確信を与えてくれるのは聖書の世界しかない。


リストボタンお知らせ

○北田康広さんの初めての讃美歌CD
このCDは、とくに、3・11を記念して出されたもので、東北大震災の被災を受けた方々の心にも届くようにとの願いが込められています。
被災を受けなかった者も、人生の荒波を受け、いまもその苦しみが続いている方々のことを思い起こし、そのような方々が、本当の魂の安らぎ―いと静けき港(主イエス)に着き、主の平安と力を与えられますようにと願いつつ味わいたいと思います。
さらに、 その音楽を聞くだけでなく、キリストの福音が伝わるようにとの願いがあり、個々の讃美歌に関して詳しい解説がCDケースに付けられています。
今回、その解説を書くことを依頼され、「いのちの水」誌にもそれを掲載していますので、ごらんください。
定価三千円ですが、私たちのキリスト教集会で補助をして、特別価格としますので、希望者は左記まで問い合わせ、あるいは申込してください。
先日の日曜日の礼拝の後でも、この讃美歌CDを聞いた方が、心身ともに弱っていたが、この讃美歌CDを聞いて元気づけられた、と語っていました。

「人生の海の嵐に」の讃美歌CDを聞いた感想から
・CDタイトルにもなっている「人生の海の嵐に」の賛美は、震災や原発事故で被害を受けた人を初め、先の見えない時代にあって一人ひとりが感じている不安に対して、この時に神様の導きを知ることのできるふさわしい歌だと思いました。
・…特に「主の後ろ姿」は歌詞も深く心に受けつつ聞かせていただき、北田さんの讃美を通して改めてイエス様の痛みと苦しみ、そして十字架の愛を受け、罪赦されたものの新たな一歩をとのメッセージが伝わって感動しました。
・「人生の海の嵐に」、淡々と歌っているような中に、すごい真理があることを、歌を通して感じています。
・「紫の衣」この歌は、最初聞いた時、ジーンときました。苦しみにあった時、慰められる歌の一つになること必至です。その他、「人生の海の嵐に」「我れ聞けり」希望を与えられる曲も好きです。
・「二匹の魚と」を聞くとホッとします。この賛美のもとになっている聖書の箇所の深い意味が感じられ、私達をいつも養って下さる主イエス様の愛の奇蹟が迫ってきます。12の籠から溢れる祝福がこの日本の隅々まで満たしてくださいますようにと願います。
・このCDを聞いていると、祈りを込めた歌声が心に響いてきて自分の罪が清められていくようで、涙が溢れてきました。
・CDを聴く前に曲目の解説を読んで背景や作詞作曲者の紹介だけではなく、一つ一つの曲に込められた信仰的な深い意味が解説されていて、その深さに心から感動しました。歌声・演奏・解説のコラボレーションが霊的に素晴らしいCDだと思いました。
・この讃美歌CDを聞き、主にある平安と喜びに包まれます。この讃美歌の世界に入れていただくとき、内なる霊に、神への信仰を高めていただくのを覚えて感謝をしております。
・歌詞をゆっくりと読んでみると、心に残る詩ばかりです。私はガリヤラの風かおる丘でのメロディーを携帯電話の着信にしています。
・「天の神祈ります」。歌を聴きながらわたしも祈ります。今のわたしたち個人の状態に、日本の状態に、世界の状態に、主よ、いま直ぐ来てくださいと…。 伴奏も、よいです。

○イースター特別集会
4月8日(日)この日は、午前10時からの開会なので間違わないようにしてください。参加申込と昼食の申込(代金500円)は貝出姉まで。問い合わせなどは左記にお願いします。


集会だより2012.1 NO.379


苦難の中から、主に助けを求めて叫ぶと、
主は彼らを苦しみから導き出された。

(詩篇107の28


 

リストボタン○十二月四日 (日)主日礼拝 サムエル記上 十七章 39

「生ける神の戦列に挑戦するとは何事か」とダビデはペリシテ人に向って言った。このことばは十七章で3回も繰り返されている。どんなに外見が強そうでも、生ける神に挑戦しようとする者は必ず敗れる。神に挑戦する、ということは、神の定められた愛や善に戦いを挑むことである。人と人とが殺し合う戦争、また、愛や真実に背き、私利私欲のために弱い人を苦しめるようなこと、虚偽で固めるようなこと、すべて真実の神への挑戦であるといえる。そしてこれはまた、気をつけていないと、わたしたちの心の中でもおこりうることである。
 ダビデは子供であったが、超人的な力を持っており、羊を守るために、熊をも倒すことができた。しかし、ダビデは自分の力を誇ってはいなかった。これは神が与えてくれた力であり、神が守ってくれていたと知っていた。
 ダビデはペリシテ人に向って「主の名によって立ち向かう」といった。神は戦ってくださる方である。わたしたちは神によって平和を与えられているが、その背後にはサタンと戦ってくださる主の戦いがある。
 主の名によって向かうとは、主に結びついて向かうことである。そのときには、主が戦ってくださり、悪の力を滅ぼしてくださる。そして、その結果、自分が喜び誇るのではなく、全地が神を知ることになる。
 「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」とある。神の勝利には武力はいらない。戦争の破棄を記した憲法九条は御心にかなう法律であり、わたしたちキリスト者は、憲法九条を守っていくべきである。
 戦いは主のものである。主が万事を支配しておられる。それは出エジプト記においてモーセが紅海をわたる奇跡にも示されている。「モーセは民に答えた。恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい…主が、あなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト十四・1314
そしてまた、新約聖書ではパウロもキリスト者の武器について記している。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい」(エペソ書六・13
 わたしたちは「平和の福音を告げる準備を履物」として、日々、生活の中で福音を伝え、悪の力との戦いで勝利してくださっている主を信じて歩んでいく者でありたい。


リストボタン○十二月五日 小羊集会 マタイ二十五・31

 世の終わり、主イエスが再びこられるときについての内容である。ここでは「分けられる」という側面から書かれている。最終的に世の終わりに、人は神によって分けられる。ここでは、羊と山羊にたとえられている
 神に従った人には、天地創造の前から用意されている神の支配権を受け継ぐことができる、と記されている。これは日常の生活や、また自分の弱さを考えるとき、考えられないような大きなスケールである。天地創造の前から神はわたしたちを愛して、汚れのない者としてキリストにおいて選んでくださっているとエペソ書にも記されている(エペソ一・4)そして、最終的に神からいただけることは、神の御支配の権威であり、キリストのような栄光の体であると記されている。この世の困難、今の苦しみと比べると、はかりしれない恵みである。わたしたちがキリストを信じてこの世を去るとき、また、世の終わりに、キリストが再び来られるとき、長男が跡取りとして相続を受けるように、このような、考えられないほどの栄光が約束されているのである。
 ここでは、そのような人は何をしたから与えられたのか、ということが書かれている。それは、苦しんでいる人、困っている人に、小さなことであっても、純粋な善意で助けたということである。何らかの欠乏、困難、苦しみの時、少しなりとも、心から何かを提供した。それは、建築物を造るとか、事業に成功するとかいったことではない。ただ、見返りを求めることなく、また、その行ったことを自分でも忘れてしまうほどに、自然に、純粋に与える心、それを神様は見ておられるのである。そして、これはたったひとりでもできる。能力やお金がなくてもできる。自分のできることを心を込めてすればいいのである。神様はいつも、小さな者、苦しむ者、弱い者に目を注がれる。そして、その、誰かに心から行った行為は、キリストにしたことになると言ってくださっているのである。
 この世は、大きな者、目立つ者をもてはやし、多くの者がそこに結びつこうとしていく。しかし、神に従うとき、自然にわたしたちの心も小さな者へと向けられるようになる。
「もっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」この御言葉は、マザーテレサの働きの元となった言葉である。神の言葉は、人を動かし、人を用いて神の栄光を表されるのである。


リストボタン○十二月九日 (金)天宝堂集会 エペソ書五・2133

 キリスト者である妻と夫のあるべき関係が書かれている。これは、一方的に妻が夫に仕えよ、言った通りにせよ、ということではない。仕える、という意味は良きことを提供するということである。キリストはわたしたちに、もっとも良きことを提供するためにきてくださった。
 夫婦の関係の基本は、「互いに仕え合う」、すなわち、神を畏れ、良きことを提供しあう関係であるべきである。これは夫婦だけではなく人間関係すべてにおいて一番大切なことである。主に仕えるように相手に仕えるとは、心の大事な部分を相手に注ぎながら関わることである。教会がキリストに仕えるように、とある。キリストを信じる者たちが、心を注ぎ、祈りを捧げてキリストを愛し従っていくように、夫に、また他者に仕えていく姿勢が示されている。
 夫たちへは、どういわれているか。キリストが、ご自分を捨てて人を愛したように、夫も、妻を愛しなさいと言われている。これは大きな犠牲の愛である。ここで書かれている夫と妻のありかたが、キリスト者同士の人間関係の究極的なありかたを示している。それは、人間にはなかなかできないことであるが、しかし、神の恵みを受けると、少しでもこのようにさせてくださると、指し示しているのである。
「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって」とある。これは、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(ヨハネ十五・3)とあるように、本質的には、神の言葉によって人は清められるのである。聖書の言葉だけによらず、自然の音、波の音、風の音、星の光なども神の言葉である。神を仰いで聞き入るときに、わたしたちの心は清められていく。そして、「ご自身をきずのないものとして神に捧げられたキリストの血は、わたしたちの良心を清めて」(ヘブル書九・14)とあるように、まず初めにキリスト者は、キリストの十字架の血によって清められている。これも、神の言葉によって清められたことといえる。
 わたしたち一人一人はキリストの体の一部であり、集まりがキリストの体である。キリストを信じるものは一つであるから、キリスト者である夫婦もひとつといえる。そして、キリストは、信じる者のために命を捧げてくださった。キリストによる究極の愛が示された。このキリストと信じる者との真実や犠牲、愛に満ちた関係が、夫婦の関係にも当てはまる、そしてそれは、キリストを信じる、兄弟姉妹にも当てはまることである。
まず、キリストに対する畏れをもって、互いに仕えあう。夫婦の関係のありかたを通して、人間のほんとうにあるべき姿が示されているのである。


リストボタン○十二月十一日(日)ローマ信徒への手紙十二・913

「愛には偽りがあってはならない」とある。「偽りの愛」とは何か。これは、原語の意味から「偽善」ということである。主イエスが、律法学者やパリサイ派の人たちに「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われ、彼らが宗教熱心そうにして、実は貪欲であったことを指摘した。
 わたしたちは、人を愛すると言うとき、その愛は偽善ではないかどうかを考えるべきである。しかし、これは、キリストの愛がわからなければ、本当の意味での愛はわからない。
「わたしたちが神を愛したのでなく、神がわたしたちを愛された。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四・10)とある。キリストが、わたしたちの罪の問題を解決するために、十字架について死んでくださった。そこに愛がある。どこまでも、与えようとする愛。これが、本当の愛である。キリストは、悪人にも、善人にも、同じように良きことを提供するためにこられた。
 人間は、人を愛して何か良きことを与えるとき、すぐに、見返りを期待したり、自分に対する良い評価を期待してしまう。だから、何かをして、良く思われなかったり、裏切られたりすると不愉快になる。見返りを期待している証拠である。そして、このような、相手に求め、奪おうとする愛は、何かが起こると簡単に破綻するもろさがある。本当の愛、主にある愛は、たとえ裏切られても、そこで、いっそう、相手のために祈りをささげていく。悪いことをしてくる人に、祈る愛。これが、どこまでも、与えていく愛である。
「自分を愛してくれる人を愛したといって、どんな報いがあるのか。」(マタイ五・46)と主イエスは言われた。神様が、悪人にも善人にも太陽をのぼらせて、恵みを注がれているように、人を愛しなさいと言われている。太陽は、人を選ばず照らし、そして、わたしたちが太陽のことを忘れていても、いつも照らしてくれる。それが神の愛である。
 キリスト者は兄弟愛を持って、神をみつめて愛し合い尊重しあうべきである。しかし、人間は弱い。神からの愛をもらわなければ、相手の欠点や失敗をみて裁きあうことがおこってくる。まず、神からの愛を求め、その愛によって主に仕え、人を愛していく。神からの愛を受けていれば、さまざまなことが起こっても希望をもって喜ぶことができるようになる。苦しいことがあっても、感謝できるようになる。そして、たゆまず祈ることができる。それは、自分の力ではできない。聖霊を求め、神の愛を求めていく。そして神はそれらは求めたら与えられると約束されているのである。


リストボタン○一二月一二日(月)藍住集会 詩編 一一九 2532

 「私の魂はちりについています。」現代では意味不明のような表現であるが、ちりは、「土」と訳されることもある。乾燥地帯の砂ぼこりのようなもの、死んだようになっている状態である。いろんな事で絶望したり病気で死にそうだという時、私たちも「どうか助けて下さい」と思うが、詩人は「み言葉によって、いのちを得させて下さい」と祈っている。人間の慰めや励ましは一時的なものである。ヨブも起きあがれない時友人がいろいろ言っても返って慰めにはならなかった。
 今日のすべての節に「道」という言葉が出てくるが、「道」について言っている。道とは自分の生きる生き方、生き様。主のみ言葉が道を教える。み言葉に人間の辿るべき道がある。神様の所に行く道は、テレビや新聞などマスコミは教えない。 本当の道はこうしたものには示されていない。しかし、聖書のみ言葉は道を書いてあり、道を示す。道は出発点があり到達点がある。
 信仰の道の目的地は神の国である。途中で死んでも、何歳で死んでも到達点へ連れて行ってくれる。この世の道は挫折が伴っていて、もし健康や能力、周囲の協力者たちのおかげで、この世の目的―権力、事業、名誉などに到達したとしても、老年になり、病気になってさらに死によって、その人からすべては失われていく。
詩人は「信仰の道をわたしは選び取りました。主よ、あなたの定めにすがりつきます。」と苦境の中で祈り、それによって強くされた。死んだような苦しい状態からみ言葉によって立ち上がり主の道を走る事ができた。大きな転換が起こった。
 人間は、苦しい時、自分という事だけが関心事になり狭くなる。その私たちの所にキリストが来て下さった。み言葉を与え、新しく生まれさせる為にキリストが来て下さった。


リストボタン○一二月一三日(火曜日)夕拝 イザヤ書四四章1~5まで

  原語では「聞け」が最初に出てくるが、聖書では「見よ」と並んで重要な言葉で、しばしば出てくる。絶えず神は私達に何を語っているかを聞く。また、私たちは何を見るべきか。ありとあらゆるものが私たちの前に現れてくるが、しばしば見なくてもよいものを見ている。全人類に与えられたイエス・キリストこそ見るべきお方。神が選んで神が造ったイスラエルであり選びと創造がイスラエルの特質である。イザヤ書では「あなたを創造した」が特筆されている。私たちも無目的にひとりでに生まれたのでなく。特別に選んで愛の御手で造られたのなら、捨てられる事はない。キリスト者は聖霊によって新しく造られたものだと新約では書かれている。神様が造ったので欠点も含めて独自の価値を持っている。ここでも、イスラエルに対して、イスラエルを創造された主は、だからこそ「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言われている。この事を忘れるので、私達はいろんな事が不安になってきて恐れる。精神的な安定を欠いてくる。イスラエルの民が捕囚から帰ってくる時、半砂漠を通って帰るので水がなければ死んでしまう。これは、神の霊がなければ死んでしまうという事である。魂に水(霊)が注がれると、水が流れ出す。信じる者は非常に豊かな水を与えられるので乾いた土地に流れができる。子孫にまで流れていき、霊を与え、祝福が与えられる。水が与えられると成長する。精神的荒廃のただ中にも、迫害の時にもこの水は流れていた。流れ出た水によって、異邦人も確実に「私は主のものだ」「神の民だ」とはっきり分かる。神が水を注ぐ事から真理が広がっていき、歴史の中でキリスト教は今世界中で信じられる様になった。


リストボタン○一二月二六日(月)藍住集会 詩編 一一九 3340

 主に従う道か、従わない道か。熟練という言葉があるように、技術的な事は、ベテランになれる。しかし、信仰の道は、何年してもひとりでに上達する事はない。目を覚ましていないと、途中で落ち込んだり脇道に入り、終わりの時まで保てない。詩人の「最後まで主の道を守らせて下さい」という願いは誰にとっても当てはまる。
 「あなたのみ言葉が分かるようにいつも心を保たせて下さい」とあるが、私たちも、自分の思いや考えがみ言葉によって出てくるようにすると間違った気持ちを除く事ができる。また「律法(み言葉)に従う道を愛する」と詩人は言っているが、この詩人のように、私たちも み言葉を愛していけるようになる。一番良いものだったら、自然に愛していける。ヨハネ14の5に「わたしは道であり、真理であり、命である」とあり、主イエスのような完全な愛のお方が道であるなら、そのような道を愛する事ができる。老年になると病気やさまざまの問題が出てきて、人生の道はデコボコ道で綺麗でなくなる。それゆえ、そうした道と異なる良き道を知っている必要がある。私達も最後まで生きることが嫌にならない為に本当の道を知っている事が大切である。
 37節に「空しいものを見ようとする事から、私のまなざしを移して下さい」との祈りがあり、私たちも本当に良いものを見ていく。一番良いのは神様を見ることである。野原の自然や星を見る。この祈りを私たちもしていきたい。


リストボタン○十二月十五日(木)いのちのさと 詩編九十五編

「主に向かって喜び歌おう。」とある。讃美は主に向かう。讃美は祈りである。キリスト者は、朝起きても、夜休む時も主に向かう。聖書における最初の讃美は、モーセとイスラエルの民が、モーセの紅海の奇跡の後で、民が「主に向かって歌おう」と讃美した。(出エジプト記十五章)その心が今も受け継がれている。
 何をするにも、主に向かって行う。主とは救いの岩。それは不動であることを示している。
 どういうことで、讃美をするのか、がここに書かれている。
 目で見えるものでもない、地の底までも御手のうちにある。非常に深いところ、見えないところも見えるところも、すべて神の御手の内にある。
海も主のもの。すべてを飲みこむ、闇の力を表している。それも主のものである。そして、陸にある一切のもの、そして、人間も山々も主によって創られた。こういうことによって、壮大な世界が示されている。
 そして、ここに、「共にひれ伏し、伏し拝もう」とある。わたしたちの神は個人的な神でもあり、また、共同体の神でもある。
 ここでは、いかに自分が弱いかを知って、今日、神の声に聞き従わなければ、サタンの手に落ちてしまうおそれがある、という警告が書かれている。主イエスも、目を覚ましていなさい、といわれた。だからわたしたちは、絶えず、讃美をしよう。そして、気を緩めずに、きょう、神の声に聴き従おう。


リストボタン○十二月二十五日(日)クリスマス集会
・聖書講話 「新しい創造―壊と創」吉村孝雄

 クリスマスは、キリストがお生まれになったことを記念する日である。そして、主イエスをおぼえ、あたらしい力と光をいただく時である。神様の新しい力はいつまでも続く。主イエスを信じた時から、その力はかわることはない。主イエスは死んでから復活された。死という最大の力に打ち勝つことを記念して礼拝するようになったのが日曜日である。
 主イエスの名前によって人が集められる。これは生きて働く主イエスが、集めてこられるのである。そして、主の名による集まりは、能力や年齢などに関わらず、何もなくても、何もできなくても、誰でも集まることができる。
 今年の漢字は「絆」である。そしてまた、「壊」ということも言われてきた年であった。地震で壊れ、津波で壊れ、そして、原発で壊れた。原発からの完全な回復はその廃棄物のことまで考えると百万年かかってもできない。今もその原発によって、産業や地域、生活が壊されている。恐ろしい原発だけを見ていたら、そこに希望はない。
 しかし、聖書は記す。それは「創」ということである。これは、以前からあるものを改善するのではない。ないところに新しく創るのである。創世記には「神は天と地を創造された」と記されている。暗闇の中に光を創り、天と地を創られた。どんなに暗闇でも、希望がなくても、そこに新しく神は創り出されるのである。
 わたしたち人間弱く、どんなに正しく歩もうと思っても、正しく歩むことはできす、愛をもって生きようと思っても、その愛もない。人間は罪の力によって壊れている存在であるといえる。今、正しく生きていると思っている人であっても、戦争とか極限状態になれば、どんな悪の芽が出てくるかわからない。そのような、壊れる源は誰でも持っている。そして、それは、この世のどんな力によっても直すことはできない。ただひとり、その壊れた心を再生してくださる方がいる。キリストである。キリストこそが壊れた心を再生するために来られたのである。
「自分は壊れてなどいない」と思う人でも、キリストを信じると、神の前にどれほど壊れているかがわかるようになる。そして、キリストは、十字架で死んでくださることによって、人間の、壊れた汚い部分を負ってくださった。ただキリストによってのみ、壊れた心を新しく創り変えていただけるのである。
 自分も壊れていた存在であるということを知るとき、他の壊れている心を見ても、裁くことなく祈りをもってみつめることができる。隣人を愛する心は、そのとき初めて与えられるのである。
 キリストは最終的には新しい天と地を創造される。原発の汚染は回復できないが、神様が最後には新しくしてくださる。人間も、いつかは誰もが死ぬ。しかし、そのあとで、壊れることのない復活の命が与えられる。また、生きているあいだであっても、たとえ何もかもがこわされたとしても、心は壊されないように守り、創り変えてくださるのである。

クリスマス集会プログラム  
○第1部 子供とともに
・賛美 「もろびとこぞりて」讃美歌 102
・賛美 (ハーモニカ、オカリナ) 高瀬、月岡(多)、宇山
・賛美 いのちのさと作業所の賛美 
・人形劇「クリスマスのおはなし」
○第2部 み言葉に聞く
 聖書箇所 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造  された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生  じた。」 (Ⅱコリント五・一七 )
・聖書講話 「新しい創造―壊と創」 吉村孝雄
・賛美 「荒野の果てに」讃美歌106番・祈り ○第3部 讃美のひととき
・デュエット「馬槽のかたえに」新聖歌83番 鈴木(益)・中川(陽)
・ギター賛美 「救い主は待っておられる」新聖歌188番 綱野、数度(春)
・手話讃美 「あがめたたえよ」「主の園のように」
・コーラス①新聖歌82番「牧人羊を」
 ②リビングプレイズ238番「この地を癒したまえ」
○第4部 感話会 一人3分以内。 中川 啓 、 楢崎(祥)、 吉村 孝雄 、 石川 正晴 伊丹 悦子 逢坂 佐久子 奥住(芙) ・県外参加者 田畑、久保、那須(有)、那須(容)
○第5部 食事と交わりタイム
○今年のクリスマス集会は、去年と同様、大阪からの参加者もあり、こどもから大人まで集められた祝福されたひとときとなりました。参加者約80名。


リストボタン○一二月二七日(火)移動夕拝 中川宅 ヨハネ一一1~27
 参加28名(内、インターネットのスカイプを使っての参加14名)

 ベタニア出身のマリアとマルタの兄弟ラザロが病気で死にかかっていた。このマリアは、主に香油を塗り髪の毛で主の足をぬぐった。7つの悪霊を追いだしてもらったマグラダのマリアとは別の女性である。(マグダラのマリアは、罪深い女性だったとは聖書には書かれていない。ルカ8の2、ヨハネ1112章を参照)ラザロは非常に重い病気だが主イエスは「この病気は死で終わらない。神の栄光の為だ」と言った。主イエスは、二日間ラザロの所に行かず、同じ所に滞在した。ラザロが死んでイエスはラザロの所に行った。墓に葬られて四日も経っていた。
 姉妹マルタに主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も決して死ぬことはない。」と言われた。
 死んだ後どうなるのか。信じている者は死なない。「アーメン、アーメン、わたしの言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得る。」とヨハネ5の24にある。信じるだけで良い。これは今の私たちにも言われている。
 4節では、「この病気(困難、災難、地震などの苦難)は死んで終わりではない。必ず実を結ぶ。夜歩けばつまずく。昼間は大丈夫である。」とイエスは言われた。いろんな困難が起こってくるが、主イエスのみ言葉が光なので、それを持っていたら昼歩くようにつまずく事はない。そして、最後は復活できる。悲惨は主イエスが触れると神の栄光に変えられる。生きていて信じる者は死なない。私達も「はい信じます」という単純、素朴な信仰を持つ事でこの道を与えられる。

・この中川宅での移動夕拝では、インターネットのスカイプでの参加も14名。地元徳島からも集会の場所へは行けない方々の参加があり、他に県外からは、北海道、福島、栃木、茨木、神奈川、福井、福岡の各県から参加者がありました。


リストボタン○十二月二八日() 水曜集会 ヨハネ黙示録 13章1~10

歴史上で、権威や力があっても神を汚すようなものがたくさんあった。清い者を殺し、嘘を言っても平気だというような本質、また考え方。それらはみな神を汚す。わたしたちもうっかりしているとその心が入り込む。
 霊的な悪の存在であるサタン的なものを、ここでは獣にたとえている。人間中心の考えはみなサタン的である。イエス様がペテロに「サタンよ引き下がれ」と言われたのはそのことであった。イエス様の言葉に対し、それを信じて受けようとせず、人間的な自分の意志や考えを中心にすることがサタン的なのである。この霊は今も至る所に働いている。(エペソ2章3)。それは「聖なる霊」と反対の位置にある
 悪の霊も力を持っている。全地がそれに服従したとある。ネロはローマ皇帝を拝めと命令した。戦前は、皇居に向かって礼拝を強要した。人間を神のように崇めさせることは最近まであったことだ。しかし、どんなに悪に力があるように見えても、それには期限がある。わたしたちが現実に、悪に直面するときに覚えておきたい。
 獣やサタン的なものを拝まないキリスト者たちが残された。歴史の中でも、神様のことがはっきりわかり、従っていく人が常に居たのである。大変な状況でも、神様に名を覚えられている人は、不思議と信仰が続けられていく。非常な困難も潜り抜けていく。天地創造の前から「命の書」に名が記されているからだ。遥かな昔から、時空を超えて、神様が名指しで覚えていてくださっている、と書かれている。この、神の果てしないおこころ、また愛。それは偶然そうなったのではない。神様が選んだということは(エペソ1章4)、そのひとりひとりをずっと覚えてくださっていたし、これからもずっと愛してくださる。悪の洪水のようななか、いろんな苦しみがある。忍耐と信仰がなければ、それも奪われていくことがあるが、キリストにすがっていくと勝利(わたしは既に世に勝っている)できていく。


リストボタン○一月三日 火曜日 夕拝 イザヤ44章6~8

 「神とはどういうお方か」このことは繰り返し言われてきたが、今また、私たちが信じて、仰ぎ見るお方なのだから、はっきり、正しく知っていなければばらない。そうでないと、万事が曖昧になってくるという思いから、書かれている。日本は文明国と言われる国々の中で、真の神を知らない人が圧倒的に多い国で、今だに過去の人間(神話の人間、天皇、徳川家康、豊臣秀吉、菅原道真等々の有名人や靖国の戦没者等々)、太陽、山、大木、狐などを拝む人々が多数をしめている。
 先ず、神は王である。そしてキリストは神と同じお方だからやはり王である。キリスト誕生の時、東方の博士たちが砂漠を越えて、困難な旅をしてまでやってきたのは、神から啓示を受けたからこそである。「王として生まれた方はどこにおられますか。」と。普通の王ならば、当時の国々にいた。このように、マタイ伝ではキリストが王であることが初めからいわれ、ヨハネ伝ではキリスト様が十字架で殺される時、ユダヤを統治していたローマの総督ピラトがギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語で「ユダヤ人の王」と、御手が働いて知らず知らずのうちに書き記した。
この世を支配しておられるのは王の王、イエス様をはっきり信じるかどうかが分かれ目になる。私たちはこのことを心にしっかり刻みつけていないといけない。
 イザヤは神さま(イエス様)のことを「贖う万軍の主」と言っている。贖うは大切な言葉で「買い戻す」という意味がある。滅ぼされた状態から買い戻す(再び命を与える)と。贖う「ガーアル」と言う言葉はイザヤ書に一番多く使われている。(イザヤ25回、エレミア2回、エゼキエル0回、創世記1回、サムエル上、下1回、出エジプト、申命記2回)
 イザヤに啓示されたのが「贖う」ことにかかわることだった。イザヤ前、北部王国はアッシリアに、その南王国はバビロンに滅ぼされた。もう駄目だと誰もが思った。霊的預言者だったイザヤは「民が腐敗して滅びていく。人間の強さ、醜さ、そのような中から贖ってくださる愛の神を示された。「万軍の主」とはすべての天使や天体など(昔はこれも霊的なものとみなされていた)を-*33も部下として従えて、悪と戦うお方」「すべてを支配しておられる主」、そして個人的に慰めてくださるおかたということが重ねられている。黙示録1の8に「わたしはアルファであり、オメガである。」黙示録の最後にも22の13にも「わたしはアルファであり、オメガである。…」と記されている。黙示録が書かれたのはローマ帝国からの迫害の時だった。クリスチャンが次々に殺されていった時代だった。神とキリストが本当のアルファであり、オメガであると、困難な時、迫害されている時、一層強く実感し、支えられていたのである。この言葉は私たちの日々の生活とも繋がっている。だからこそ神の言葉なのである。(参照エペソ1の10 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあうものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。)
(まとめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y


リストボタン報告とお知らせ

○1月15日(日)午後は読書会。ダンテの神曲、天国編第4
122日(日)午後は、故 米津ツル子姉の納骨式。眉山キリスト教霊園にて。午後1時半開始予定です。西部公園から霊園への道が一部崩落しているので、車は通行止めです。それで西部公園に車を置いて、から石段を100段ほど登って行きます。

○つゆ草集会はその納骨式が終わって後にはじめますので、いつもより、1時間ほど遅く、2時半頃からの開始になる予定です。

○船井万亀子姉は、交通事故に遭われて以来、入院中です。お祈りください。
○今月のスカイプ集会(全員がスカイプ)は、131日(火)の夜、8時からです。参加希望の方は、メールで、中川 陽子さんに申し出ておいてください。myrtus7@khc.biglobe.ne.jpです。

○「野の花」文集を余分に希望の方は、吉村孝雄まで、メール、電話などで連絡ください。

○今月の移動夕拝は、板野郡藍住町の奥住夫妻宅です。「幸いなのは誰か」ルカ福音書112428の予定。

○ MP3対応 CDラジカセ
徳島聖書キリスト集会発行の、MP3型式の、聖書講話シリーズ(聖書講話は、吉村孝雄)は、ヨハネ福音書、創世記、ルカ福音書、詩篇などありますが、それらを聞くためには、MP3対応 CDラジカセが必要です。これは、現在のところ、まだ入手可能ですが、その内に購入できなくなると思います。
最近は、一つの機種は一定期間だけ生産してその後は生産終了してしまうからです。多くの家電メーカーがありますが、MP3対応のCDラジカセは、現在はビクターの製品だけしかなく、それがなくなると、別のメーカーがそうした製品を作るようになるかどうかはわかりません。そうなるとMP3対応の機器が入手できなくなりますので、毎回紹介しています。
希望の方は、早めに購入されることをお勧めします。一般の大型電器店でも置いてない場合がほとんどで、インターネットで購入しますので、価格は変動しますが、1万円前後です。ネットが使えない方々のために、左記の吉村まで、申込されると、私のほうからお送りできます。


会だより2012.1  NO.379


苦難の中から、主に助けを求めて叫ぶと、
主は彼らを苦しみから導き出された。
(詩篇107の28


 

リストボタン○十二月四日 (日)主日礼拝 サムエル記上 十七章 39

「生ける神の戦列に挑戦するとは何事か」とダビデはペリシテ人に向って言った。このことばは十七章で3回も繰り返されている。どんなに外見が強そうでも、生ける神に挑戦しようとする者は必ず敗れる。神に挑戦する、ということは、神の定められた愛や善に戦いを挑むことである。人と人とが殺し合う戦争、また、愛や真実に背き、私利私欲のために弱い人を苦しめるようなこと、虚偽で固めるようなこと、すべて真実の神への挑戦であるといえる。そしてこれはまた、気をつけていないと、わたしたちの心の中でもおこりうることである。
 ダビデは子供であったが、超人的な力を持っており、羊を守るために、熊をも倒すことができた。しかし、ダビデは自分の力を誇ってはいなかった。これは神が与えてくれた力であり、神が守ってくれていたと知っていた。
 ダビデはペリシテ人に向って「主の名によって立ち向かう」といった。神は戦ってくださる方である。わたしたちは神によって平和を与えられているが、その背後にはサタンと戦ってくださる主の戦いがある。
 主の名によって向かうとは、主に結びついて向かうことである。そのときには、主が戦ってくださり、悪の力を滅ぼしてくださる。そして、その結果、自分が喜び誇るのではなく、全地が神を知ることになる。
 「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」とある。神の勝利には武力はいらない。戦争の破棄を記した憲法九条は御心にかなう法律であり、わたしたちキリスト者は、憲法九条を守っていくべきである。
 戦いは主のものである。主が万事を支配しておられる。それは出エジプト記においてモーセが紅海をわたる奇跡にも示されている。「モーセは民に答えた。恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい…主が、あなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト十四・1314
そしてまた、新約聖書ではパウロもキリスト者の武器について記している。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身につけなさい」(エペソ書六・13
 わたしたちは「平和の福音を告げる準備を履物」として、日々、生活の中で福音を伝え、悪の力との戦いで勝利してくださっている主を信じて歩んでいく者でありたい。


リストボタン○十二月五日 小羊集会 マタイ二十五・31

 世の終わり、主イエスが再びこられるときについての内容である。ここでは「分けられる」という側面から書かれている。最終的に世の終わりに、人は神によって分けられる。ここでは、羊と山羊にたとえられている
 神に従った人には、天地創造の前から用意されている神の支配権を受け継ぐことができる、と記されている。これは日常の生活や、また自分の弱さを考えるとき、考えられないような大きなスケールである。天地創造の前から神はわたしたちを愛して、汚れのない者としてキリストにおいて選んでくださっているとエペソ書にも記されている(エペソ一・4)そして、最終的に神からいただけることは、神の御支配の権威であり、キリストのような栄光の体であると記されている。この世の困難、今の苦しみと比べると、はかりしれない恵みである。わたしたちがキリストを信じてこの世を去るとき、また、世の終わりに、キリストが再び来られるとき、長男が跡取りとして相続を受けるように、このような、考えられないほどの栄光が約束されているのである。
 ここでは、そのような人は何をしたから与えられたのか、ということが書かれている。それは、苦しんでいる人、困っている人に、小さなことであっても、純粋な善意で助けたということである。何らかの欠乏、困難、苦しみの時、少しなりとも、心から何かを提供した。それは、建築物を造るとか、事業に成功するとかいったことではない。ただ、見返りを求めることなく、また、その行ったことを自分でも忘れてしまうほどに、自然に、純粋に与える心、それを神様は見ておられるのである。そして、これはたったひとりでもできる。能力やお金がなくてもできる。自分のできることを心を込めてすればいいのである。神様はいつも、小さな者、苦しむ者、弱い者に目を注がれる。そして、その、誰かに心から行った行為は、キリストにしたことになると言ってくださっているのである。
 この世は、大きな者、目立つ者をもてはやし、多くの者がそこに結びつこうとしていく。しかし、神に従うとき、自然にわたしたちの心も小さな者へと向けられるようになる。
「もっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」この御言葉は、マザーテレサの働きの元となった言葉である。神の言葉は、人を動かし、人を用いて神の栄光を表されるのである。


リストボタン○十二月九日 (金)天宝堂集会 エペソ書五・2133

 キリスト者である妻と夫のあるべき関係が書かれている。これは、一方的に妻が夫に仕えよ、言った通りにせよ、ということではない。仕える、という意味は良きことを提供するということである。キリストはわたしたちに、もっとも良きことを提供するためにきてくださった。
 夫婦の関係の基本は、「互いに仕え合う」、すなわち、神を畏れ、良きことを提供しあう関係であるべきである。これは夫婦だけではなく人間関係すべてにおいて一番大切なことである。主に仕えるように相手に仕えるとは、心の大事な部分を相手に注ぎながら関わることである。教会がキリストに仕えるように、とある。キリストを信じる者たちが、心を注ぎ、祈りを捧げてキリストを愛し従っていくように、夫に、また他者に仕えていく姿勢が示されている。
 夫たちへは、どういわれているか。キリストが、ご自分を捨てて人を愛したように、夫も、妻を愛しなさいと言われている。これは大きな犠牲の愛である。ここで書かれている夫と妻のありかたが、キリスト者同士の人間関係の究極的なありかたを示している。それは、人間にはなかなかできないことであるが、しかし、神の恵みを受けると、少しでもこのようにさせてくださると、指し示しているのである。
「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって」とある。これは、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(ヨハネ十五・3)とあるように、本質的には、神の言葉によって人は清められるのである。聖書の言葉だけによらず、自然の音、波の音、風の音、星の光なども神の言葉である。神を仰いで聞き入るときに、わたしたちの心は清められていく。そして、「ご自身をきずのないものとして神に捧げられたキリストの血は、わたしたちの良心を清めて」(ヘブル書九・14)とあるように、まず初めにキリスト者は、キリストの十字架の血によって清められている。これも、神の言葉によって清められたことといえる。
 わたしたち一人一人はキリストの体の一部であり、集まりがキリストの体である。キリストを信じるものは一つであるから、キリスト者である夫婦もひとつといえる。そして、キリストは、信じる者のために命を捧げてくださった。キリストによる究極の愛が示された。このキリストと信じる者との真実や犠牲、愛に満ちた関係が、夫婦の関係にも当てはまる、そしてそれは、キリストを信じる、兄弟姉妹にも当てはまることである。
まず、キリストに対する畏れをもって、互いに仕えあう。夫婦の関係のありかたを通して、人間のほんとうにあるべき姿が示されているのである。


リストボタン○十二月十一日(日)ローマ信徒への手紙十二・913

「愛には偽りがあってはならない」とある。「偽りの愛」とは何か。これは、原語の意味から「偽善」ということである。主イエスが、律法学者やパリサイ派の人たちに「あなたたち偽善者は不幸だ」と言われ、彼らが宗教熱心そうにして、実は貪欲であったことを指摘した。
 わたしたちは、人を愛すると言うとき、その愛は偽善ではないかどうかを考えるべきである。しかし、これは、キリストの愛がわからなければ、本当の意味での愛はわからない。
「わたしたちが神を愛したのでなく、神がわたしたちを愛された。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四・10)とある。キリストが、わたしたちの罪の問題を解決するために、十字架について死んでくださった。そこに愛がある。どこまでも、与えようとする愛。これが、本当の愛である。キリストは、悪人にも、善人にも、同じように良きことを提供するためにこられた。
 人間は、人を愛して何か良きことを与えるとき、すぐに、見返りを期待したり、自分に対する良い評価を期待してしまう。だから、何かをして、良く思われなかったり、裏切られたりすると不愉快になる。見返りを期待している証拠である。そして、このような、相手に求め、奪おうとする愛は、何かが起こると簡単に破綻するもろさがある。本当の愛、主にある愛は、たとえ裏切られても、そこで、いっそう、相手のために祈りをささげていく。悪いことをしてくる人に、祈る愛。これが、どこまでも、与えていく愛である。
「自分を愛してくれる人を愛したといって、どんな報いがあるのか。」(マタイ五・46)と主イエスは言われた。神様が、悪人にも善人にも太陽をのぼらせて、恵みを注がれているように、人を愛しなさいと言われている。太陽は、人を選ばず照らし、そして、わたしたちが太陽のことを忘れていても、いつも照らしてくれる。それが神の愛である。
 キリスト者は兄弟愛を持って、神をみつめて愛し合い尊重しあうべきである。しかし、人間は弱い。神からの愛をもらわなければ、相手の欠点や失敗をみて裁きあうことがおこってくる。まず、神からの愛を求め、その愛によって主に仕え、人を愛していく。神からの愛を受けていれば、さまざまなことが起こっても希望をもって喜ぶことができるようになる。苦しいことがあっても、感謝できるようになる。そして、たゆまず祈ることができる。それは、自分の力ではできない。聖霊を求め、神の愛を求めていく。そして神はそれらは求めたら与えられると約束されているのである。


リストボタン○一二月一二日(月)藍住集会 詩編 一一九 2532

 「私の魂はちりについています。」現代では意味不明のような表現であるが、ちりは、「土」と訳されることもある。乾燥地帯の砂ぼこりのようなもの、死んだようになっている状態である。いろんな事で絶望したり病気で死にそうだという時、私たちも「どうか助けて下さい」と思うが、詩人は「み言葉によって、いのちを得させて下さい」と祈っている。人間の慰めや励ましは一時的なものである。ヨブも起きあがれない時友人がいろいろ言っても返って慰めにはならなかった。
 今日のすべての節に「道」という言葉が出てくるが、「道」について言っている。道とは自分の生きる生き方、生き様。主のみ言葉が道を教える。み言葉に人間の辿るべき道がある。神様の所に行く道は、テレビや新聞などマスコミは教えない。 本当の道はこうしたものには示されていない。しかし、聖書のみ言葉は道を書いてあり、道を示す。道は出発点があり到達点がある。
 信仰の道の目的地は神の国である。途中で死んでも、何歳で死んでも到達点へ連れて行ってくれる。この世の道は挫折が伴っていて、もし健康や能力、周囲の協力者たちのおかげで、この世の目的―権力、事業、名誉などに到達したとしても、老年になり、病気になってさらに死によって、その人からすべては失われていく。
詩人は「信仰の道をわたしは選び取りました。主よ、あなたの定めにすがりつきます。」と苦境の中で祈り、それによって強くされた。死んだような苦しい状態からみ言葉によって立ち上がり主の道を走る事ができた。大きな転換が起こった。
 人間は、苦しい時、自分という事だけが関心事になり狭くなる。その私たちの所にキリストが来て下さった。み言葉を与え、新しく生まれさせる為にキリストが来て下さった。


リストボタン○一二月一三日(火曜日)夕拝 イザヤ書四四章1~5まで

  原語では「聞け」が最初に出てくるが、聖書では「見よ」と並んで重要な言葉で、しばしば出てくる。絶えず神は私達に何を語っているかを聞く。また、私たちは何を見るべきか。ありとあらゆるものが私たちの前に現れてくるが、しばしば見なくてもよいものを見ている。全人類に与えられたイエス・キリストこそ見るべきお方。神が選んで神が造ったイスラエルであり選びと創造がイスラエルの特質である。イザヤ書では「あなたを創造した」が特筆されている。私たちも無目的にひとりでに生まれたのでなく。特別に選んで愛の御手で造られたのなら、捨てられる事はない。キリスト者は聖霊によって新しく造られたものだと新約では書かれている。神様が造ったので欠点も含めて独自の価値を持っている。ここでも、イスラエルに対して、イスラエルを創造された主は、だからこそ「恐れるな、私はあなたと共にいる」と言われている。この事を忘れるので、私達はいろんな事が不安になってきて恐れる。精神的な安定を欠いてくる。イスラエルの民が捕囚から帰ってくる時、半砂漠を通って帰るので水がなければ死んでしまう。これは、神の霊がなければ死んでしまうという事である。魂に水(霊)が注がれると、水が流れ出す。信じる者は非常に豊かな水を与えられるので乾いた土地に流れができる。子孫にまで流れていき、霊を与え、祝福が与えられる。水が与えられると成長する。精神的荒廃のただ中にも、迫害の時にもこの水は流れていた。流れ出た水によって、異邦人も確実に「私は主のものだ」「神の民だ」とはっきり分かる。神が水を注ぐ事から真理が広がっていき、歴史の中でキリスト教は今世界中で信じられる様になった。


リストボタン○一二月二六日(月)藍住集会 詩編 一一九 3340

 主に従う道か、従わない道か。熟練という言葉があるように、技術的な事は、ベテランになれる。しかし、信仰の道は、何年してもひとりでに上達する事はない。目を覚ましていないと、途中で落ち込んだり脇道に入り、終わりの時まで保てない。詩人の「最後まで主の道を守らせて下さい」という願いは誰にとっても当てはまる。
 「あなたのみ言葉が分かるようにいつも心を保たせて下さい」とあるが、私たちも、自分の思いや考えがみ言葉によって出てくるようにすると間違った気持ちを除く事ができる。また「律法(み言葉)に従う道を愛する」と詩人は言っているが、この詩人のように、私たちも み言葉を愛していけるようになる。一番良いものだったら、自然に愛していける。ヨハネ14の5に「わたしは道であり、真理であり、命である」とあり、主イエスのような完全な愛のお方が道であるなら、そのような道を愛する事ができる。老年になると病気やさまざまの問題が出てきて、人生の道はデコボコ道で綺麗でなくなる。それゆえ、そうした道と異なる良き道を知っている必要がある。私達も最後まで生きることが嫌にならない為に本当の道を知っている事が大切である。
 37節に「空しいものを見ようとする事から、私のまなざしを移して下さい」との祈りがあり、私たちも本当に良いものを見ていく。一番良いのは神様を見ることである。野原の自然や星を見る。この祈りを私たちもしていきたい。


リストボタン○十二月十五日(木)いのちのさと 詩編九十五編

「主に向かって喜び歌おう。」とある。讃美は主に向かう。讃美は祈りである。キリスト者は、朝起きても、夜休む時も主に向かう。聖書における最初の讃美は、モーセとイスラエルの民が、モーセの紅海の奇跡の後で、民が「主に向かって歌おう」と讃美した。(出エジプト記十五章)その心が今も受け継がれている。
 何をするにも、主に向かって行う。主とは救いの岩。それは不動であることを示している。
 どういうことで、讃美をするのか、がここに書かれている。
 目で見えるものでもない、地の底までも御手のうちにある。非常に深いところ、見えないところも見えるところも、すべて神の御手の内にある。
海も主のもの。すべてを飲みこむ、闇の力を表している。それも主のものである。そして、陸にある一切のもの、そして、人間も山々も主によって創られた。こういうことによって、壮大な世界が示されている。
 そして、ここに、「共にひれ伏し、伏し拝もう」とある。わたしたちの神は個人的な神でもあり、また、共同体の神でもある。
 ここでは、いかに自分が弱いかを知って、今日、神の声に聞き従わなければ、サタンの手に落ちてしまうおそれがある、という警告が書かれている。主イエスも、目を覚ましていなさい、といわれた。だからわたしたちは、絶えず、讃美をしよう。そして、気を緩めずに、きょう、神の声に聴き従おう。


リストボタン○十二月二十五日(日)クリスマス集会

・聖書講話 「新しい創造―壊と創」吉村孝雄
 クリスマスは、キリストがお生まれになったことを記念する日である。そして、主イエスをおぼえ、あたらしい力と光をいただく時である。神様の新しい力はいつまでも続く。主イエスを信じた時から、その力はかわることはない。主イエスは死んでから復活された。死という最大の力に打ち勝つことを記念して礼拝するようになったのが日曜日である。
 主イエスの名前によって人が集められる。これは生きて働く主イエスが、集めてこられるのである。そして、主の名による集まりは、能力や年齢などに関わらず、何もなくても、何もできなくても、誰でも集まることができる。
 今年の漢字は「絆」である。そしてまた、「壊」ということも言われてきた年であった。地震で壊れ、津波で壊れ、そして、原発で壊れた。原発からの完全な回復はその廃棄物のことまで考えると百万年かかってもできない。今もその原発によって、産業や地域、生活が壊されている。恐ろしい原発だけを見ていたら、そこに希望はない。
 しかし、聖書は記す。それは「創」ということである。これは、以前からあるものを改善するのではない。ないところに新しく創るのである。創世記には「神は天と地を創造された」と記されている。暗闇の中に光を創り、天と地を創られた。どんなに暗闇でも、希望がなくても、そこに新しく神は創り出されるのである。
 わたしたち人間弱く、どんなに正しく歩もうと思っても、正しく歩むことはできす、愛をもって生きようと思っても、その愛もない。人間は罪の力によって壊れている存在であるといえる。今、正しく生きていると思っている人であっても、戦争とか極限状態になれば、どんな悪の芽が出てくるかわからない。そのような、壊れる源は誰でも持っている。そして、それは、この世のどんな力によっても直すことはできない。ただひとり、その壊れた心を再生してくださる方がいる。キリストである。キリストこそが壊れた心を再生するために来られたのである。
「自分は壊れてなどいない」と思う人でも、キリストを信じると、神の前にどれほど壊れているかがわかるようになる。そして、キリストは、十字架で死んでくださることによって、人間の、壊れた汚い部分を負ってくださった。ただキリストによってのみ、壊れた心を新しく創り変えていただけるのである。
 自分も壊れていた存在であるということを知るとき、他の壊れている心を見ても、裁くことなく祈りをもってみつめることができる。隣人を愛する心は、そのとき初めて与えられるのである。
 キリストは最終的には新しい天と地を創造される。原発の汚染は回復できないが、神様が最後には新しくしてくださる。人間も、いつかは誰もが死ぬ。しかし、そのあとで、壊れることのない復活の命が与えられる。また、生きているあいだであっても、たとえ何もかもがこわされたとしても、心は壊されないように守り、創り変えてくださるのである。

クリスマス集会プログラム  
○第1部 子供とともに
・賛美 「もろびとこぞりて」讃美歌 102
・賛美 (ハーモニカ、オカリナ) 高瀬、月岡(多)、宇山
・賛美 いのちのさと作業所の賛美 
・人形劇「クリスマスのおはなし」
○第2部 み言葉に聞く
 聖書箇所 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造  された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生  じた。」 (Ⅱコリント五・一七 )
・聖書講話 「新しい創造―壊と創」 吉村孝雄
・賛美 「荒野の果てに」讃美歌106番・祈り ○第3部 讃美のひととき
・デュエット「馬槽のかたえに」新聖歌83番 鈴木(益)・中川(陽)
・ギター賛美 「救い主は待っておられる」新聖歌188番 綱野、数度(春)
・手話讃美 「あがめたたえよ」「主の園のように」
・コーラス①新聖歌82番「牧人羊を」
 ②リビングプレイズ238番「この地を癒したまえ」
○第4部 感話会 一人3分以内。 中川 啓 、 楢崎(祥)、 吉村 孝雄 、 石川 正晴 伊丹 悦子 逢坂 佐久子 奥住(芙) ・県外参加者 田畑、久保、那須(有)、那須(容)
○第5部 食事と交わりタイム
○今年のクリスマス集会は、去年と同様、大阪からの参加者もあり、こどもから大人まで集められた祝福されたひとときとなりました。参加者約80名。


リストボタン○一二月二七日(火)移動夕拝 中川宅 ヨハネ一一1~27
 参加28名(内、インターネットのスカイプを使っての参加14名)

 ベタニア出身のマリアとマルタの兄弟ラザロが病気で死にかかっていた。このマリアは、主に香油を塗り髪の毛で主の足をぬぐった。7つの悪霊を追いだしてもらったマグラダのマリアとは別の女性である。(マグダラのマリアは、罪深い女性だったとは聖書には書かれていない。ルカ8の2、ヨハネ1112章を参照)ラザロは非常に重い病気だが主イエスは「この病気は死で終わらない。神の栄光の為だ」と言った。主イエスは、二日間ラザロの所に行かず、同じ所に滞在した。ラザロが死んでイエスはラザロの所に行った。墓に葬られて四日も経っていた。
 姉妹マルタに主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われ、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も決して死ぬことはない。」と言われた。
 死んだ後どうなるのか。信じている者は死なない。「アーメン、アーメン、わたしの言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得る。」とヨハネ5の24にある。信じるだけで良い。これは今の私たちにも言われている。
 4節では、「この病気(困難、災難、地震などの苦難)は死んで終わりではない。必ず実を結ぶ。夜歩けばつまずく。昼間は大丈夫である。」とイエスは言われた。いろんな困難が起こってくるが、主イエスのみ言葉が光なので、それを持っていたら昼歩くようにつまずく事はない。そして、最後は復活できる。悲惨は主イエスが触れると神の栄光に変えられる。生きていて信じる者は死なない。私達も「はい信じます」という単純、素朴な信仰を持つ事でこの道を与えられる。

・この中川宅での移動夕拝では、インターネットのスカイプでの参加も14名。地元徳島からも集会の場所へは行けない方々の参加があり、他に県外からは、北海道、福島、栃木、茨木、神奈川、福井、福岡の各県から参加者がありました。


リストボタン○十二月二八日() 水曜集会 ヨハネ黙示録 13章1~10

歴史上で、権威や力があっても神を汚すようなものがたくさんあった。清い者を殺し、嘘を言っても平気だというような本質、また考え方。それらはみな神を汚す。わたしたちもうっかりしているとその心が入り込む。
 霊的な悪の存在であるサタン的なものを、ここでは獣にたとえている。人間中心の考えはみなサタン的である。イエス様がペテロに「サタンよ引き下がれ」と言われたのはそのことであった。イエス様の言葉に対し、それを信じて受けようとせず、人間的な自分の意志や考えを中心にすることがサタン的なのである。この霊は今も至る所に働いている。(エペソ2章3)。それは「聖なる霊」と反対の位置にある
 悪の霊も力を持っている。全地がそれに服従したとある。ネロはローマ皇帝を拝めと命令した。戦前は、皇居に向かって礼拝を強要した。人間を神のように崇めさせることは最近まであったことだ。しかし、どんなに悪に力があるように見えても、それには期限がある。わたしたちが現実に、悪に直面するときに覚えておきたい。
 獣やサタン的なものを拝まないキリスト者たちが残された。歴史の中でも、神様のことがはっきりわかり、従っていく人が常に居たのである。大変な状況でも、神様に名を覚えられている人は、不思議と信仰が続けられていく。非常な困難も潜り抜けていく。天地創造の前から「命の書」に名が記されているからだ。遥かな昔から、時空を超えて、神様が名指しで覚えていてくださっている、と書かれている。この、神の果てしないおこころ、また愛。それは偶然そうなったのではない。神様が選んだということは(エペソ1章4)、そのひとりひとりをずっと覚えてくださっていたし、これからもずっと愛してくださる。悪の洪水のようななか、いろんな苦しみがある。忍耐と信仰がなければ、それも奪われていくことがあるが、キリストにすがっていくと勝利(わたしは既に世に勝っている)できていく。


リストボタン○一月三日 火曜日 夕拝 イザヤ44章6~8

 「神とはどういうお方か」このことは繰り返し言われてきたが、今また、私たちが信じて、仰ぎ見るお方なのだから、はっきり、正しく知っていなければばらない。そうでないと、万事が曖昧になってくるという思いから、書かれている。日本は文明国と言われる国々の中で、真の神を知らない人が圧倒的に多い国で、今だに過去の人間(神話の人間、天皇、徳川家康、豊臣秀吉、菅原道真等々の有名人や靖国の戦没者等々)、太陽、山、大木、狐などを拝む人々が多数をしめている。
 先ず、神は王である。そしてキリストは神と同じお方だからやはり王である。キリスト誕生の時、東方の博士たちが砂漠を越えて、困難な旅をしてまでやってきたのは、神から啓示を受けたからこそである。「王として生まれた方はどこにおられますか。」と。普通の王ならば、当時の国々にいた。このように、マタイ伝ではキリストが王であることが初めからいわれ、ヨハネ伝ではキリスト様が十字架で殺される時、ユダヤを統治していたローマの総督ピラトがギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語で「ユダヤ人の王」と、御手が働いて知らず知らずのうちに書き記した。
この世を支配しておられるのは王の王、イエス様をはっきり信じるかどうかが分かれ目になる。私たちはこのことを心にしっかり刻みつけていないといけない。
 イザヤは神さま(イエス様)のことを「贖う万軍の主」と言っている。贖うは大切な言葉で「買い戻す」という意味がある。滅ぼされた状態から買い戻す(再び命を与える)と。贖う「ガーアル」と言う言葉はイザヤ書に一番多く使われている。(イザヤ25回、エレミア2回、エゼキエル0回、創世記1回、サムエル上、下1回、出エジプト、申命記2回)
 イザヤに啓示されたのが「贖う」ことにかかわることだった。イザヤ前、北部王国はアッシリアに、その南王国はバビロンに滅ぼされた。もう駄目だと誰もが思った。霊的預言者だったイザヤは「民が腐敗して滅びていく。人間の強さ、醜さ、そのような中から贖ってくださる愛の神を示された。「万軍の主」とはすべての天使や天体など(昔はこれも霊的なものとみなされていた)を-*33も部下として従えて、悪と戦うお方」「すべてを支配しておられる主」、そして個人的に慰めてくださるおかたということが重ねられている。黙示録1の8に「わたしはアルファであり、オメガである。」黙示録の最後にも22の13にも「わたしはアルファであり、オメガである。…」と記されている。黙示録が書かれたのはローマ帝国からの迫害の時だった。クリスチャンが次々に殺されていった時代だった。神とキリストが本当のアルファであり、オメガであると、困難な時、迫害されている時、一層強く実感し、支えられていたのである。この言葉は私たちの日々の生活とも繋がっている。だからこそ神の言葉なのである。(参照エペソ1の10 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあうものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。)
とめと入力 K.K & E.I & H.N & E.Y


リストボタン報告とお知らせ

○1月15日(日)午後は読書会。ダンテの神曲、天国編第4
122日(日)午後は、故 米津ツル子姉の納骨式。眉山キリスト教霊園にて。午後1時半開始予定です。西部公園から霊園への道が一部崩落しているので、車は通行止めです。それで西部公園に車を置いて、から石段を100段ほど登って行きます。

○つゆ草集会はその納骨式が終わって後にはじめますので、いつもより、1時間ほど遅く、2時半頃からの開始になる予定です。

○船井万亀子姉は、交通事故に遭われて以来、入院中です。お祈りください。
○今月のスカイプ集会(全員がスカイプ)は、131日(火)の夜、8時からです。参加希望の方は、メールで、中川 陽子さんに申し出ておいてください。myrtus7@khc.biglobe.ne.jpです。

○「野の花」文集を余分に希望の方は、吉村孝雄まで、メール、電話などで連絡ください。

○今月の移動夕拝は、板野郡藍住町の奥住夫妻宅です。「幸いなのは誰か」ルカ福音書112428の予定。

○ MP3対応 CDラジカセ
徳島聖書キリスト集会発行の、MP3型式の、聖書講話シリーズ(聖書講話は、吉村孝雄)は、ヨハネ福音書、創世記、ルカ福音書、詩篇などありますが、それらを聞くためには、MP3対応 CDラジカセが必要です。これは、現在のところ、まだ入手可能ですが、その内に購入できなくなると思います。
最近は、一つの機種は一定期間だけ生産してその後は生産終了してしまうからです。多くの家電メーカーがありますが、MP3対応のCDラジカセは、現在はビクターの製品だけしかなく、それがなくなると、別のメーカーがそうした製品を作るようになるかどうかはわかりません。そうなるとMP3対応の機器が入手できなくなりますので、毎回紹介しています。
希望の方は、早めに購入されることをお勧めします。一般の大型電器店でも置いてない場合がほとんどで、インターネットで購入しますので、価格は変動しますが、1万円前後です。ネットが使えない方々のために、左記の吉村まで、申込されると、私のほうからお送りできます。



今日はです。更新はです。