まえがき N.H |
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表紙の字/T.S カット/H.S
編集発行責任者 H.N (徳島聖書キリスト集会)
神戸 Y.N |
キリストが必要
わたしにはキリストが必要です
苛立ちに
何度も倒されそうになったから
わたしにはキリストが必要です
望まない誘惑に
何度も負けてきたから
わたしにはキリストが必要です
心貧しくて
孤独に何度も泣いたから
キリストに顧みていただき
憐れんでいただき
癒していただくために
その白い衣の裾に触れるために
今こそわたしは
キリストの許へ行こう
祈り
神様、感謝します。
あなたの霊がわたしに詩を与えてくださいました。
わたしが、苦しむ人々が、罪にとらわれている人々が、どれほどキリストの癒しを必要としているか教えていただきました。丈夫な人に医者は要らない。必要なのはむしろ病人であるとあなたがおっしゃったとおり、あなたの愛が最も苦しむ心貧しい人たちにどうか届きますように。そのために、どうかこの詩をお用いください。
そして、クリスチャンはイエス様を必要としなくなるために律法を目指すのではなく、常にイエス様を必要とするところに導かれていることも知りました。
わたしはあなたに何とか愛されようと、必死で自分がよい人間になれるようにと願ってきました。けれど、もしわたしが自分でよい人間になれたとしたら、イエス様を必要とするでしょうか。わたしはサマリアの女、ゲラサの人、ザアカイ、出血の女だったから救っていただけたのです。
わたしは今までイエス様を知りたいと祈ってまいりましたが、それにもあなたが誠実にお答えくださって、わたしはイエス様が癒されるために来られたことを知らされたのでした。
イエス様はサマリアの女のため、悪霊に苦しむ人々のため、ザアカイのため、出血をわずらう女のために来られたのでした。その最も必要とする人々のために癒しを行われたのでした。
世界は皆、あなたを必要としています。わたしたちは、誰も彼も罪びとです。
イエス様、来てください。わたしたち一人一人の心のうちに。わたしたちを赦し、十字架の御力で清めてください。アーメン。
大阪 S.M |
キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤ書三13~14)
「パッション」というイエス・キリストの最期の一二時間を描いた映画を見て、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」という御言葉の意味を強く感じました。キリストの十字架によって、私たちはあらゆる呪いから解き放たれ、祝福の世界に生かされているのだと実感します。呪いから祝福へ、闇から光へ、憎しみから愛へ、キリストはあの十字架の恐ろしい苦しみに耐えて、最大の奇跡を成し遂げてくださったのだと。
呪われている」とは、何と希望のない言葉でしょう。どんなに努力しても、幸運と思えることがあっても、良いことは続かない。嫌なこと、悪いことが押し寄せてきて、ささやかな喜びや楽しみさえ押しつぶしてしまう。人生色々なことがあっても、最後は必ず悪くなるのが呪われた人生です。かつてある人が言いました。「私は何か良いことがあると、次にはきっと悪いことがあると思ってしまうんです。だから、良いことも喜べなくて」と。人生にこんな呪いを感じている人は、意外に多いのかも知れません。
しかし、キリストは私たちの罪の呪いを受けてくださった。私たちは呪いから解き放たれ、祝福の中にいるのだと知るなら、人生いろんなことがあるけれど、最後には必ず良くなると信じることができます。キリストの救いの御業を信じて生きるのが、祝福された人生なのだと知るのです。
かつて、私に救いの喜びを与えてくれたのは、神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。=という、コロサイ書一章13節の御言葉でした。
この世の現実がいかに暗くとも、この私がどんなに情けなく罪深く愚かでも、すべての人は、すでに闇の力から救い出され、キリストの愛の御手に移されているのだと知らされて、それまでの「こんな私が救われているのだろうか」という不安から解放されたのでした。すなわち、キリストのなして下さった救いの御業の故に私は救われるのであって、私がどんな人間であるか、救われるに価するかどうかは、すでに問題ではないのだと知らされたからでした。
確かに、キリストのあの十字架の前には個々の人間の生き様など問題ではないと思わせるものがあります。人生、最大限の努力を重ね精進してきた人であっても、キリストの十字架の前では決して誇れないでしょう。悪の限りを尽くしてきた人であっても、あのキリストの苦しみを否定することはできないでしょう。
「パッション」を見ながら、キリストの受難をこれほど鮮明に映像に描きあげたことが、私には現代の奇跡のようにさえ思われました。
天宝堂集会二〇〇四・六・四 K.K |
聖書箇所マタイ福音書一五章29~39
イエス様がたった七つのパンと小さな魚で四千人もの人を。 この時代、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人、さまざまな病気を抱えた人が移動するのはどんなに大変であったでしょうか。乗り物もなく、痛み止めもなく、十分な食事も出来ず、疲れ果てたことでしょう。
「食事もできず、こんな人里離れたところに来て、帰れなかったらどうするのだ。」
「イエス様に病気を治す力がなければどうするのだ」
そのような引き止める声が聞こえてきそうな状況の中、それでもイエス様の力を信じて求めていった群衆。
ここにはイエス様は必ず癒してくださるという信仰があり、食べ物もないような場所で、それでもなおイエス様を求めていった熱心がありました。
イエス様は真実に求めるところに、必ず来てくださいます。病は癒され、そしてここで、イエス様は、たった七つのパンと少しの魚で四千人もの人を満腹させる奇蹟を行われました。これは特に大切なことなので、聖書のどの福音書にも書かれています。そして、残ったパンくずが七つのかごいっぱいになったと言うことは、こ
のパンが尽きることがない、ということの象徴なのです。
イエス様は求める者にはどこまでも与えて下さる。小さなものを祝福して尽きることのない恵みを与えて下さる。
なんておいしいパンだろう。体に、命に、力が与えられる。苦しい思いをしてこの方に従ってきて、本当によかった。唯一の神よ、命の主よ!」
痛みや空腹に耐えて求め続けたこの群衆たちの驚きと讃美の声が聞こえてきそうです。そして、このパンは、今もわたしたちにも与えられています。心病み、体弱り、疲れ果ててしまう時、ただ救い主、イエス・キリスト様に求めていくときに、イエス様は、尽きることのない命のパンを必ず与えて下さるのです。
香川 K.Y |
最初に、時間的な前後関係をはっきりとさせておきましょう。
荒野の誘惑も、ご自身が神の御子であることの自覚に伴う試みでした。
しかも荒野の誘惑は、イエスが自ら冒険的に荒野に飛び込んで行った出来事ではありませんでした。聖霊に導かれて荒野の誘惑に入られたのです。
この荒野の誘惑は、イエスがこれから入ろうとする公的伝道生活を見極める大切な試金石になったと考えられます。ルカは、次のように記しています。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(ルカ4・14)と、そして伝道生活を開始されたと記しています。
イエスの伝道は、人間的に見れば失敗に終わっています。弟子たちの裏切り、最後の十字架を見ても明らかです。しかし、これが父なる神の望まれた伝道だったのです。
ついでに申しておきますと、この荒野の誘惑で、サタンとの対決に最終決着がついたのではありませんでした。ルカは、こうもいっています。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4・13)。つまり、サタンとの最終決着は、十字架による死と復活によって完結するまで続いたのでした。
「荒野の誘惑」の記事は、福音書のなかでも、その話の出所をイエス・キリストご自身のうちにしか見いだせません。なぜなら荒野の誘惑の記事は、他の弟子たちが、イエスと一緒にいて記憶していた事柄ではなく、イエス自身が語らなければ、およそ私達に知らされることもなかった記事です。おそらく、イエスの心の最も奥深い所で起こった精神の葛藤だったのです。それは荒野でイエス・キリスト自身の内に起こった神とサタンとの戦いでもありました。荒野の誘惑に記された三つの試みは、イエス・キリストの内にさえ忍び込もうとしたサタンのささやきでした。
それでは、サタンの第一の誘惑を検討してみましょう。
サタンは嘘つきです。一つの嘘をつくために、九九の真実をもって私たちに迫ってきます。悪魔はギリシャ語で「告発するもの」「中傷するもの」という意です。「間に投げ入れる」「間を裂く」という意味があります。すなわちサタンは神と人間との間を、そして人間と人間との間を、さらには人間と自然との間をも裂くものなのです。
サタンは、まず、イエスが神の子であるという事実(これは嘘ではありません)につけ入っています。彼の確信をぐらつかせようとしたのです。荒野の誘惑のなかには、まさにイエスが神の子であるという真実を前提にしなければ理解できない試みが記されています。
もしイエスが、石をパンに変えようとしたなら、当然、ご自身が神の御子であることの証明となるでしょう。しかし、それは、サタンの誘惑に乗ったことになります。もしイエスが、サタンの誘惑を退けても、石をパンに変えなければ、ご自身が神の御子でないとの理解されてしまいます。どちらをとっても、イエスの敗北につながる不可能な選択の中で、イエスは、ただ神の御言葉に従います。
イエスは、石をパンに変えて空腹を満たしてはどうかという悪魔の第一の誘惑に対して、「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4・4)と申命記第八章三節を引用して斥けました。イエスは、サタンの誘惑を斥け、神に従うことによって、石をパンに変える以上に、真に神の御子であること証明しました。しかし、人間的には、徹底して無力な弱さを持った人間としてとどまりました。イエスは自らの空腹を満たすために、御子としての神性、つまりメシアとしての権能を利用してパンを造ることはしませんでした。そうです。イエスは、その伝道生活においても、自らのために神的力を用いて奇跡を呼び起こしませんでした。また奇跡をもって、その身に起こった試練や苦難を回避しょうとしませんでした。
イエスは神の子でありながら、自らのためには奇跡を行うことを断念し、特別な超能力を持った人間としてではなく、無力なただの人であることを良しとされました。イエスは真に人の子となり、人の子として留まられたのです。
現代の豊かな日本において、それこそパンの誘惑などは縁遠いものとみえます。それでも、御言葉か、それともパンか、(この世の恵み、金、職業、愛する人々か)という問いかけは、今日の私達にも突き付けられています。「まずパンがなければ、御言葉も信仰もあったものではない」。これが今も続く私たちに忍び寄るサタンの誘惑です。
私達キリスト者にとって、パンそのものが御言葉と対立するものでもなく、また御言葉に並ぶものではないのです。しかもパンは、それ自体として決して御言葉と切り離された関係にあるのでもなく、御言葉によってその存在根拠が与えられているのです。人間の生命も、それを支えるパンもこの世の恵みすべては、御言葉によって造られ、御言葉を通して清く保たれ、御言葉のためにあるのです。それゆえヨハネ伝において、主は「私がいのちのパンであり、私のもとに来るものは、決して飢えることがなく、私を信じるものは、もはや決して渇くことがない」(ヨハネ6・35-、48-51)、「わたしの肉は真の食べ物、わたしの血は真の飲み物」(ヨハネ6・55)と語られたのです。御言葉(イエス・キリスト)こそ私達の命の究極的な源なのです。
イエス・キリストを通してのみ、私たちは、この世の恵みに接することができるのです。イエス・キリストを通さずに、私たちは、この世の恵みを自分のものにする時、あるいは他者のためと称して、この世の恵みと関わるとき、サタンの誘惑に陥り、人間的に成功したとしても、御前には失敗なのです。
第二の誘惑に移ります。
イエスは、聖句をもってサタンの誘惑を退けられました。そのイエスの揚げ足を取るかのように、サタンは、今度は聖書を引用してイエスに試みを仕掛けてきました。
「聖書に書いてあるというなら、詩篇第九一篇一一、一二節に書かれてあるようにここから身を投げてみよ。神が御使い達に命じて守って下さるであろう」。聖なる都の神殿が舞台です。
この第二の試みは、極めて宗教的といえます。ここからも明らかなように、聖書の言葉、信仰深さ、宗教的奇跡ですら悪魔の格好の道具となります。とても崇高に見えながら実は、大変な傲慢不遜で、「神を試みる」行為になりうるのです。なぜなら私達の思いによって神を動かそうとするからです。
このイエスが受けた同じ誘惑に、ペテロはピリボ・カイザリアで陥りました。
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。イエスは振り向いてペトロに言われた。サタン、引き下がれ。あなたはたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16・22-23)。
実にこの第二の誘惑は、十字架抜きの人類の救済を意味していました。それゆえイエスは、伝道生活においても、十字架の死に至るまで、神の栄光のためではなくサタンの誘惑を察知されたときは、全く奇跡の徴を行うことを拒否されたのでた。そうです。イエスが超自然的な奇跡の徽を行われたのは、神を神とし、神の御心を信じる信仰があった場合に限られていました。
第三の試みに移ります。
第三の試みにおいて、サタンの本性を現し、なりふり構わず露骨に交換条件を示してきました。サタンはこの世の国々とその栄華をイエスに示しました。「ひれ伏して私を拝むなら、これらのものを総てあげよう」と。第二の試みで見たように人が神に成ろうとする誘惑は、結局、サタンが神に代わり、神に成ろうとすることにすぎなかったのです。この世の支配や権力、この世の栄光、それら総てが、ルカによればサタンは、自分に任せられていると語っています。しかし、この世のもの総ては、究極的には神の主権の下にあります。ほんとうは、総ては神のものなのです。サタンが奪おうとしたものは、この世の国々、その栄華、その支配権力には代えられないほど高価なものです。それは、神が人間に与えられた最高の賜物、つまり自由を奪おうとしたのでした。しかし主は、サタンの誘惑を退け、人間の自由を守ってくださいました。
しかしキリストを主と仰ぐ信仰は、決して人を奴隷にしません。人間からその自由を奪いません。その証左に私達は、回心してもなおサタンの誘惑を受けているではありませんか。イエスが十字架上での死と復活を通して、究極的にサタンに勝利したにもかかわらず、なおサタンのささやきが聞こえてくるのは、神が私達になお自由を保証し、イエス・キリストと等しくなってサタンに勝利すべく、イエスの再臨の時までサタンを泳がせておられるからにすぎません。神は人間に、あらゆる試みからも解放されているような超人的人間を望んでおられません。
イエス・キリストが、人間的弱さをも引き受け、ただ神の前に許されて自由を持つ人間として戦われたように、私達もイエスと等しく戦うことを神は望んでおられるのです。
イエスが守られた自由の中においてのみ、私達は、神に従い、サタンを退けられるのです。
あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。アーメン。
(これは今年の四国集会で語られた内容の要約です。)
広島県 T.O |
ヨハネ一章「初めに言があった。」
人類の歴史は創世記の罪より始まり、一人の人によって罪が始まり、一人の人イエス・キリストによって救いがもたらされた。
イエス・キリストは今ナザレのイエスではなく神の座にあり、光の霊として闇を照らしておられる。
人は祈りによって神の応答を求める。
エレミヤは北風が吹き鍋の火を見て、北より戦いの始まる事を、神の言葉として知った。
聖霊は人によろこびの日、悲しみの日を与えて応答してくださる。
春の暖かさは、池の水を凍らすことはできない。神の恵みは生きる者へよろこびの日を与えてくださる。
春を迎え4人の孫が遊ぶ。私は生きる喜びを味わっている。
思い出せば耐えられない悲しみの日、不幸な時、神の応答を知る。そこにはそれなりの順序がありそれなりのことがもたらされている。
今世界は闇に向かっている。イスラエル、パレスチナ、アメリカ、イラク、次々と混乱は広がっていく。
聖書にはこういう箇所もある。他方で神の裁きの火は燃え上がっている。それは、罪の姿があらわれているのである。それほど人の罪は深い。
ヨブ記を読んで人類の罪の深さ、裁きの恐ろしさを知る。
一七章「わが霊は破れわが日は尽き墓は私を待っている。」
二二章では光が闇に包まれ大空を悪しき者が渡ると彼らは神に言った。「われわれを離れてください。」
また「全能者は我々に何をなしえようか」
ヨブ記には世の終わりと人の罪とが書かれている。
しかし最後にはヨブの悲しみは、神の恵みと愛とによって救いの道が示され、人類の罪よりの救いが顕れる。
救いのご計画が書かれている聖書に聞きこの時代を進みたい。
聖霊の応答、キリスト・イエスの祈り、闇は光に勝たなかった。
M.S |
私の家で家庭集会ができるようになってこの六月で二十回になりました。
第一水曜日の午後に集まり、マタイによる福音書を学んでいます。
私が今の場所に家を建てたのは十四年前です。
私は目がまったく見えないので一人暮しをすることを両親は大反対していましたが、ハリの治療所を開くのは今の場所が便利なのと、いつかは自立したいと思って一人で生活するようになりました。
私が住んでいる所と実家は歩いて十分くらいの近い距離ですが、一人で歩く事ができないことと、仕事が忙しいのでほとんど家に帰ることがないので、家族に信仰の話ができないのが私の悩みでした。いつか自分の信仰を伝えたいと祈っていました。
この私の祈りを神様は不思議な方法で叶えてくださいました。
私の家で集会の貝出姉と三カ月くらい毎日夕方に二人で祈り合う時がありました。お互いの家族のこと、まわりのひとのこと、それぞれの信仰のこと、いろいろなことを静かに祈りました。 祈り合うことで私は励まされ神様から計り知れない恵みと力をいただきました。
家族には信仰の話を言う勇気がなかったのですが、私は突然、ここに妹や母に来てもらって家庭集会をしたいと思い、それをすらすらと言葉に出して話すことができました。私の心の準備ができて、よく祈ってから吉村さんにお願いしようと思っていたのですが、もう翌日には吉村さんに話してしまいました。言いながらちょっと後悔しましたが「思いが起こされたのであれば早く始めましょう」と言ってくださり、すぐに家庭集会が実現しました。
主日礼拝でヨハネ福音を学んだときに、十章7節でイエス様が「わたしは羊の門である。」と言われて、良い羊飼いと羊のたとえを話されたところが心に残っていたので、集会の名前は「小羊集会」にしました。
私自身も迷ってばかりいる小さな羊にすぎないので良き羊飼いであるイエス様に導かれて歩んで行きたいと願って、また私の家族も同じ救いの囲いの中に入れていただきたいという思いで名づけました。
集会は私一人の気持ちだけでは続けることはできません。集会の方がいつも来てくださり、共に祈っていただいて多くの方の祈りに支えられています。
毎回小羊集会のポスタ-を忙しい時間をさいて貝出姉が書いてくださっています。
ポスターに目を留めてくださる患者さんが来られた時には、少しでもイエス様の話ができるので、ポスターはとても良い証しとなっています。
どうか一人でも多くの人がイエス様の門を通って救われますように。
イエスは良い羊飼い(ヨハネ福音書十章七節)
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。 わたしは羊の門である。わたしより前に来たものは皆盗人であり強盗である。しかし羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは盗んだり屠ったり滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
H.S |
神様を信じて歩む道は
私にとって最も良い道
ほかの道を行くより苦しみが多くても
それをやめることは自分の霊が死ぬこと
集会の中でみ言葉を受け
神様の道を歩むことは私にとって最も良い道
これはほかの道を行くより苦しみが多くても
それをやめることは自分の霊が死ぬと神様は自然の内の中に
讃美の中にいて私を力づけてくださる
私達は神の聖霊に取り囲まれている。
神様なしで
私は生きていけないから
神様の道を歩んでいる。
マタイ一三章四六節から
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って
持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
E.T |
Sさんに手紙を書いたのは、私にとって仕事関係では初めてのことです。
二十才の彼女が腰痛で治療に来たのは、ガンの再発でもうそう長くないお母様の介護の疲れからでした。寝返りもむつかしいので、着替えをするのはとてもたいへんだけど、ちょっとでも痛くないように一生懸命お世話をしていて、不自然な姿勢をして腰を痛めてしまったようです。
もう長くないことは、本人も家族もわかっていて、なんとか家庭での日々を長くいさせてあげたいと願っていました。
Sさんにもお母様にもキリスト教の永遠の命、死が終わりでないことを伝えたいと思いつつ治療を続けましたが、そんなに話せません。
そんなある日ちょうど治療しているとき、ヘイリーという天使の声と言われている、女の子の透き通るような清らかな声の「アメイジング・グレイス」の歌が流れてきて静かに耳を傾けていました。 とても心が安らかになる歌だと彼女はそっとつぶやきました。
「この歌は有名な讃美歌で、この歌を作ったジョン・ニュートンという人の背景にはとても心うたれたのよ」と説明してあげました。そしてパソコンで送ってもらったもっと詳しい史料を見せてあげるねと約束しましたが、印刷がすぐにうまくできない私は、彼女が治療に通っている間には渡せませんでした。
一ヶ月ほど過ぎて、彼女のお母様が亡くなられたことを耳にしました。早く送ってあげたかったなと自分の行動の遅さを悔やみました。
今、どんなにか悲しみのなかにいるだろう、立ち上がれないほど暗いなかに閉じこもっていくかもしれないと思うと、何とかして神様の愛に、命の光に触れてほしいと頭から離れませんでした。
思い切って手紙を書きました。
その一部を次に書きます。
お母様のことをうかがいました。
わかってはいましたが、とてもこころが痛みます。あの頸椎の痛みにずっと耐えていたお母様、そしてそれを見守りつつ看護をされていたSちゃんたちの思いは、どんなだったでしょうか。
できるかぎりのことをしてさしあげたと思うけど、もう目の前にいなくなってしまった悲しみをただひたすらこらえているのだろうなと思います。
私はキリスト教の神様を信じているので、死がすべての終わりではなく、その後に続く神様の新しいいのちの世界を信じています。
イエス様はとても苦しい苦しい十字架で死なれました。それは私たちの身代わりになって十字架で死んで下さり、愛してくださったからです。
お母様はとても苦しい病を持たれました。どうしてと思ってしまいますよね。 私の妹はもう一二年前に三六歳でガンのために天に召されました。そのとき六歳と九歳の幼い子供を残してです。一日でも長く子供のために生きていたいと願いつつ、苦しい治療に耐えました。
でもそれはかなわないことでした。両親の悲しみや残されたものの心の痛みはどこへ持っていけばいいのかわかりません。
私はイエス様を信じていたけど、でも神様にどうしてですかと何度も尋ねました。そしてそこから深い神様のあわれみを知らされました。
死がすべての終わりではないこと、イエス様を信じるならこの世の苦しみをこえたイエス様の愛にみちた世界に行くことができる、そのことを一人でも多くの人に伝えたい。私の生きていく意味はそこにある。それとともにもっといろんなことを神様はいつかわかるようにしてくださると信じることができるのです。
Sちゃんのこころにぽっかりあいてしまったその悲しみの穴は、誰にも埋めることはできないけど、イエス様だけはそこを埋めてくださり、涙をぬぐってくださる愛にみちた方ということを知ってほしいです。そして天に召されたお母様が、今は痛みも苦しみもない安らぎのなかにいて、Sちゃんたちを見守ってくれますようにと祈っています。
このように手紙を書いて、これにジョン・ニュートンの讃美歌の詳しい説明、音楽のCD、そのうたのオルゴール、そして近づいているイースターの案内のパンフレットも入れて送りました。
特に復活のメッセージを聞いてほしかったのです。
「折りがよくても悪くても、御言葉をのべ伝えなさい。」
このみ言葉に力をもらって手紙をだしましたが、それから祈りつつ、でもドキドキしながら彼女の返事を待ちました。何も返事は来ないかもしれないなと思いました。
イースターの数日前、彼女から電話がかかってきました。どんな返事であっても、話ができることはとてもうれしかったです。今どんなふうにいるのか気になっていろいろ話をしました。私からの手紙にとても驚いたようだけど、読んでとても心に残っていると言ってくれました。でも、イースターは残念だけど行けませんと言って、また誘って下さいねという答えでした。
そうなんだ、これが神様のなされることなのだ。私ができることは何だろうと考えて、自分のできることをしなさいと言っておられる。考えました。これで私のできることは終わりかなとも思いました。
でも、私は最近メールができるようになっている。これを使えたらこれから彼女の心のつらいとき、少しでもそこに関われるかもしれないという気がします。
また思い切って、メールのアドレスを教えてと頼んで、これからメールのお友達になってねと頼みました。
携帯電話のメールは音声が十分にでないので、見えない私にはちょっとむつかしいところがあるけど、でもそれでも距離をおいていても、私が役にたつことがあるかもしれない。
祈って関わっていけますように。イエス様が御手をのべて下さいますようにと祈っていける。それでいいですねイエス様と主を見上げました。
ジョン・ニュートンの記事を転載します。
「いつのまにか人づきあいがうまくなる心の習慣」の本から
著者・石黒マリーローズ
「アメージング・グレース」についての箇所だけ、抜粋。
歌詞にこめられた思い
日本でも、『アメージンググレース』という讃美歌はおなじみでしょう。TVコマーシャルなどにも使われて評判になりました。
最近では若い人たちの間でゴスペルがブームですし、歌い出しのメロディーはご存じの方も多いかもしれません。
とはいえ、歌詞の意味を知っておられる方は、かなり少ないのではないでしょうか。
ましてや、それがつづられた背景となると・・・・・。
『アメージング・グレース』は、日本では讃美歌第二編一六七番として、『われをもすくいし』の題名で知られてきました。(ちなみに讃美歌二一・四五一番『くすしきみ恵み』も、聖歌二二九番『おどろくばかりの』も、同じく『アメージンググレース』の邦訳版です)
我をも救いし くしき恵み
迷いし身も今 立ち帰りぬ
おそれを信仰に 変え給いし
我が主の御恵み げに尊し
讃美歌二一・第四五一番
美しい旋律で讃美される、この「我をも救いし くしき恵み(アメージング・グレース)」とは、はたして何を意味するのでしょうか。
作詞者ニュートンの生涯
『アメージング・グレース』の作詞者は、ジョン・ニュートンです。
ニュートンは、一七二五年七月二四日、イギリスに生まれました。
母親は敬虔なクリスチャンでした。愛する一人息子に、聖書の教えをやさしく説いて聞かせました。
けれども、病弱のために、わが子が七歳を迎える前に亡くなっています。
翌年、商船の船長をしていた父親は再婚しました。父親のしつけは厳格で、亡き母のような豊かな愛情と信心には欠けていました。
ですからニュートンの胸に母が播いた尊い「種」は、新たな家庭で育まれることはなかったのです。
やがてニュートンは、寄宿学校へと入ります。ここでも教師には恵まれません。
せっかくの向学心もしぼむばかり。父親の船の仕事を手伝うために、結局、中途で退学することになりました。
一一歳の誕生日を迎えたとき、ニュートンは船員見習として、父親の船ではじめて荒海に出ました。
以後、血の気の多い船乗りたちに交じって、放縦な暮らしがはじまります。
母から学んだいくつもの教えは、一つまた一つと胸の奥底に閉じこめられていきました。
一八歳になると、英国海軍に徴兵されて、軍艦「ハリッジ」の一水兵となります。
しかし軍規を破ったり、脱走したり、またそのために激しい体罰を受けたりと、過酷で愛のない暮らしがつづきました。
ニュートンは、しだいに人間を蔑み(さげすみ)、神をもあざ笑うような生き方に染まり、身をもちくずしていくのです。
気がついたときには、みずから奴隷船を抱え、何人もの船乗りを使う船長にまで「出世」していました。
アフリカで黒人を捕らえ、船底に押しこめ、反抗せぬよう折檻(せっかん)し、西インド諸島やアフリカで売りはらう。
自分と同じ人間を鎖でつなぐという残酷な仕事にも、ニュートンの心は少しも痛みませんでした。
そんな暮らしの中で、やがて彼の人生を大きく変える出来事が起こるのです。
「愛の種」を育てる
一七四八年三月十日、二二歳になったニュートンは、大西洋上で大きな嵐に遭遇しました。船体はひどく破損し、いまにも沈没しそうです。
死に直面したそのとき、ニュートンは無心に祈りました。
「神よ、われらを憐れみたまえ!」
すると不思議なことに、嵐はしだいに収まり、船は奇跡的に救われたのです。
ニュートンは、目がさめるような思いで気づきました。祈りが神に届いたのだ、自分のように愚かでどうしようもない人間さえも、神は救ってくださったのだと。
その日を境に、ニュートンは回心しました。以後は、リバプールの港で潮流観測員の仕事などをしながら、母が残した聖書を懸命に学びはじめます。
いつしか胸の底に埋もれてしまった「種」を、みずから大切に育むために。
一七六四年、三九歳のニュートンはついに望みがかない、オルニーという小さな町の教会の牧師に任じられました。
この地で詩人のウイリアム・クーパーと知り合い、深い友情を結びます。
一五年にわたる奉仕の間に、二人で何百編もの讃美歌をつくり、『オルニー讃美歌集』として世に出しました。
ニュートンが若き回心の日をふりかえり、神の「驚くばかりの恵み」をつづった『アメージング・グレース』も、そこに収められた一編です。
その後、ニュートンはロンドンの中心部にある、多くの信徒を抱えた「セントメアリー・ウルノース教会」へと移ります。
ここでも人びとに大いに慕われながら、二八年間にわたって牧師を務めました。
一八〇七年一二月二一日、永眠。享年八二歳。
ジョン・ニュートンは、みずからの人生をもって、神の「くしき恵み(アメージング・グレース)」を人びとに伝えつづけたのでした。
かつて私は失われ、いま見いだされた。
さてここで英語の歌詞と訳を紹介しておきたいと思います。先に紹介した日本語の歌詞では、ニュートンが生まれ変わった喜びを伝える原歌の3行目と4行目が、語数の都合で短くまとめられています。
Amazing grace,how sweet the sound 驚くばかりの恵み なんとやさしいその響き
that saved a wretch like me. 私のようなならず者さえ 神は救われた
I once was lost, but now I'm found, かつて私は失われ いま見いだされた
was blind, but now I see. 閉ざされた目も いまでは見える
三行目の「かつて私は失われ いま見いだされた」に、ちょっと注目してください。
先に紹介した「放蕩息子のたとえ」の中で、父親が口にしたあの言葉です。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(『ルカによる福音書』一五章二四節)
ニュートンも荒れ狂う嵐のただ中で、この聖書のたとえ話を思い出したそうです。自分こそは荒海に漂う小舟、神のもとから迷い出た真の「放蕩息子」だと。
けれども、神はそんな彼さえも受け入れてくれました。それどころか、聖書に描かれた父親の姿と同じく、みずから「息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って」救ってくださったのです。
日本語の歌詞の「我をも救いし」の「も」にこそ、神の「くしき恵み」が感じられるでしょう。
奴隷貿易廃止法への道
四行目にもあるとおり、ニュートンは閉ざされていた心の目も開かれました。
ここもまた、聖書の中でイエスに目を癒された人が語った言葉の「目の見えなかったわたしが、今は見える」(『ヨハネによる福音書』九章二五節)をふまえたものです。
本語の歌詞は、原歌のこの三行目と四行目を、「迷いし身も今 立ち返りぬ」とまとめています。
ニュートンの死後、セントメアリー・ウルノース教会にある彼の墓には、本人の望みどおりこんな言葉が刻まれました。
「ジョン・ニュートン___不信心にして放埓(ほうらつ)なりし者、アフリカの奴隷売買に仕えし者、救い主イエス・キリストの深き慈悲により守られ、導かれ、赦され、若き日にかたくなに背きしその教えを、世に宣べ伝える者として任ぜられる」
ニュートンは、奴隷売買の非人道性についても世に訴えつづけました。
その声はやがて国王のジョージ三世の耳にまで届いたとか。
一八〇七年に成立した奴隷貿易廃止法は、その結実にほかなりません。
「くしき恵み」(アメージング・グレース)、すべては、そこから生まれたのです。
神と出会い、新たな生き方を見つけた一人のはぐれ者。
美しい讃美歌の背後にある、そんな人生のドラマを胸に、この曲にあらためて耳を傾けてみませんか
H.N |
今年の四国集会は六月一二日~一三日の二日間、高知の桂浜で行われました。
今年で三一回目ということで、主のお恵みによって、今まで長い間続いてきたのを思います。
実質的に始まった、第二回の徳島県小松島市日の峰山の野外活動センターでの四国集会からの参加者も居り、その時参加していた小さい子供が、今回は証しのご用に立つなど四国集会の歴史を感じました。
そして回を重ねる毎に、県意識が薄れ、主にある兄弟姉妹として、一つにされている実感がありました。主は一つ、信仰は一つ、霊も思いも、主イエス様にあって一つとされた時でした。
伝道というテーマにそって、四国各県の講師から講話がなされ、伝道についてみ言葉を通して考えたり、具体的な取り組みの報告など、様々な角度から学ぶことができました。
土曜日は「伝道の小さな試み」と題して高知県のK.K兄と「黙示録と伝道」と題して愛媛県の三好信夫兄が、また主日礼拝では「荒野の誘惑」と題して香川県の山崎和明兄が「伝道を支えるもの」と題して徳島県の吉村孝雄兄が講話をしてくださいました。
吉村兄の講話については、吉村兄の出されている、「はこ舟」誌6月号の「伝道について」がほぼその内容となっています。」聖書は先に救われた私達一人一人に、述べ伝える使命をさずけていますが、祈りの内にこの使命を受け取り、御心に沿った働きが出来るようにとの思いを持てました。
また、証しはその方の個人的な主の導きや出来事を通して、聞いている人も共に主を讃美することができ、生きた主の働きを見る機会でした。
証しをされた方の中から原稿をいただけましたので、掲載します。
四国集会には、台風の思い出もありますが、今回も前日に台風が四国を過ぎ去った後であったので大気が澄みきっており印象に残る素晴らしい空の色、海の色で神様の御臨在を感じる集まりでした。この祝福も感謝でした。
来年は徳島で開催しますが、どうか主の栄光があらわされる会となりますように一年間祈って備えたいと思います。
四国集会が今後も主に導かれ、救いにあずかる人が起こされますように。
E.Y |
三年前にこの桂浜での、無教会キリスト教全国集会が終わって、診察を受けていた病名が「悪性リンパ腫」とわかり入院しました。
そして今元気になってここに集まっています。
今回証しの話があったとき、少しだけ迷って断りましたが、受けるのが御心にそうことだったのでは・・・と迷っていました。翌朝四時頃、このことを夢に見て目覚めましたので、証しをさせて欲しいと言いました。
入院,加療が決まりました時、神様が下さったこの時間をどのように過ごそうかと嬉しく思ったものです。
重くもない病気なのに、こんなに検査があるのかと思ったことでした。検査のある間は時間も元気もあり、明るい内は主人が持ってきてくれた高山右近やフランシスコ・ザビエルなどの本を読み、暗くなると音楽を聴いたりいろんなことを思ったり、考えたりしてとても充実していました。
でもいろいろな検査が終わっていよいよ放射線治療が始まりましたが五回目頃から食事が摂れなくなり二、三日すると、水も飲めなくなりました。二二日間一滴の水も飲めなくなりました。
さすがに苦しい時でしたが、みんなの祈りが波のように押し寄せてくるのがわかりました。
以前主人と夕拝に行く途中、勝浦川に架かった、潜水橋を渡っていっていました。 川原には、オギ(ススキによく似たもっと背丈の低いもの)が群生していました。川面に風が吹くと、オギが一斉になびくのです。この光景はとても美しく心に残っていましたが、オギが揺れるように、みんなの祈りが伝わってきたのです。とても慰めと励ましをいただきました。
水が飲めなくなってからは、寝ても覚めても浮かんでくるのは水、水、水でした。 若いころ度々登った阿蘇山が浮かんできました。阿蘇高岳に登る途中に仙酔峡という場所がありました。名前のように静かな谷間に清く、澄み切った冷たい水をいっぱいに湛えた水場に着くと、生き返るような気がしたものでした。飯ごう炊飯をしたものでした。
また、やはり、熊本にある菊池水源のほとばしる水しぶき。それは空色をした水しぶきでした。映像で見たことのある木々の間を縫って流れる清流などが浮かんできたものでした。ヨハネ福音書にイエス様とサマリアの女の話があります。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(四章14節)とイエス様は言われましたが、私は水を求めていたのですが、このサマリアの女は渇くほどに命の水を求めていたのでした。み言葉の意味を深く知らされた思いがします。
ある聖日、「今頃集会場ではみんなが紅茶とパンの愛餐をしている頃かな」と思いを馳せていました。
すると、このささやかな紅茶とパンの愛餐の大切さが目を開かれるように示されました。愛餐は礼拝の付け足しではなくて、大切な礼拝の一部なのだと。小さな飲み物とパンで(通して)霊のイエス様と結ばれるのですから、愛餐を大事にしたいと思いました。
入院が決まった時、記憶がたどれる限り、小さい頃からの自分の姿を見つめなおしたいと思いました。
以前にも短い時間で試みたことがありましたが、人生の折り返し点をとっくに過ぎ、人生の秋も終わりに近づいたこの機会に、同時に「死」についても神様から心の深いところにある確信をいただきたいと願っていました。
自分史をたどることは、自分の罪(醜さ、浅薄さなど)を再認識することでした。
このような罪人を赦すためにイエス様はこの世に来られ、十字架で死んでくださいました。そしてイエス様にこの十字架の道を歩ませられたのは神様です。神様が人類を救うために差し出された苦い杯をイエス様は飲み干し、私たちを贖ってくださいました。
私にとって、イザヤ書五三章は、旧約の中でも心臓のような一章です。このように苦しまれて私たちを贖ってくださったイエス様と結ばれるために、何をしたらよいのでしょう。
詩篇五一章の19節に
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、打ち砕かれた悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
とダビデはうたっています。神様はこのダビデのことばを示してくださいました。罪を犯しても心から悔い改めて神様に立ち返るものとされたいと祈ります。
高校時代の三年間三六人のクラスメートと一緒でした。三人が50歳になるかならないかの若さで亡くなりました。私を含めて人はいつ召されるかわかりません。私も十年間は再発の可能性は五十%と言われています。
いつ、どういう風に最期を迎えるのか、自分で決めることはできません。神様が決められます。
死が近づいた時、来し方を振り返って信仰が揺るがないとも言えません。サタンは最後のチャンスと思って私の弱い心に誘いの言葉をささやいてくるかもしれません。それでも、たとえ揺るぎ迷ったとしても、神様は迷いの奥にある真実な悔い改める心を探り当ててくださると信じさせてくださいました。
わずか二カ月ほどの入院生活でしたが、神様は多くのことを優しく悟らせてくださいました。
病を得て本当に幸いでした。
神戸 Y.N |
Y.Nと申します。徳島出身で、現在は神戸で看護師をしています。
わたしは、熱心なクリスチャンの母親の、祈りを受けて生まれるという幸いを与えられました。キリスト教徒の少ないこの日本で、生まれる前から祈られることがどれほど感謝すべきことか、最近になって特に思わされています。
それでは祈って生まれた子は、清らかなよい子であるかというと、そんなことは決してありません。クリスチャン2世であっても、人は誰でも自分の足で歩いて、神様に出会わなければならないのです。
子供のころからイエス様の存在を知り、神様を信じてはいましたが、わたしは十字架の福音を知りませんでしたので、幼いときからキリスト教とは、わたしにとって律法でした。小学校の日記にこう書いたのを覚えています。
「人間は、天国に行くためにこの世でテストを受けています。よい人間になれば合格して天国にいけるのです。そのためにがんばろうと思います。」
そして、わたしは今でもどこかでその考えが抜けず、そのためにがんばっているのかもしれません。そして何度も落ち込んでは十字架の許へ帰ってくるのです。
十字架の福音は本当に不思議なことに、何度か目の前にあったのに、神様が良しとされるときまでは目が開かれません。
わたしは、子供のころ学校の帰りに伝道者に声をかけられ、無教会とは違うカトリックの教会学校に通っていました。 それが楽しくて、本当に素直な気持ちで通って学んでいました。あのころの熱心な自分が羨ましくなるほどです。先生がしてくださったお話も少し覚えています。また、御言葉を覚えていくと綺麗なカードを下さるので、2~3節はある長いみ言葉を意味も分からずに一生懸命覚えました。そして一番印象深かったのは賛美歌です。ある賛美歌が大好きになっていつも歌っていました。「わたしの変わりに、十字架にかかりて、血潮流しませり、救い主、主イエス様」という歌詞です。その歌詞がまさに十字架の福音なのでしたが、まだ幼かったわたしには分かりませんでした。
キリスト教は律法という思い込みによって、わたしは神様を信じていても、キリスト教徒になるのは無理だと思っていました。
そんなわたしが大きくなり、二十歳のときのことです。1冊の本によって、ついに十字架の意味を知り、イエス様を信じることで無償で罪が赦されるということを知りました。そして、イエス様の存在をはっきり信じ、十字架のお力を信じ始めました。
長い間キリスト教に接していながら、聖書も部分的に読んでいたのに、この一番大切な福音ということを知っているのと知らないのでは天と地ほどの差があります。
やっとここから本当の、神様との関わりが始まりました。
けれども、わたしの変化は劇的とはいきませんでした。わたしは十字架の福音を知ったとき、確かにイエス様を信じ、そこから神様との関わりが大きく動き始めました。けれども、そのときから突然信仰深くなるとか、熱心に集会に通いたいという気持ちにはなれませんでした。無償で救われたという喜びで行動が大きく変わったということにもなりませんでした。そういう風に変われればどんなにいいかと思いましたが、そういう風にはなれなかったのです。そしてすぐ就職して神戸へ行き、信仰を持ってからの8年間くらい、わたしは信仰的な混乱の中にいて集会にもほとんど参加していませんでした。教会にも何度か足を運びましたが、自分の不信仰や洗礼の問題などで悩み、長くは通えませんでした。
その時期は本当に孤独で、自分がいるべき場所を見出せず、自分がクリスチャンなのかどうかさえ分からなくなっていきました。神様を信じる信仰は持ち続けて、一人で賛美歌を歌ったり、祈ったり、本を読んだりしていましたが、ほかのクリスチャンと交わりたいと思って近づくと必ずといっていいほど混乱するようなことが起こるので次第に交わりを求めなくなりました。
徳島に帰って集会に参加しても、話が難しいと感じたり、体調が悪くなったり、集会の人たちにどう思われるのかといった余計な心配で落ち着かず、集会に来るのが苦痛に感じていました。 また、何かを求めて一人で聖書を読んでも正しく理解できず、混乱は深まるばかりでした。
神様を信じていましたので、時折救われるような信仰上の良い出来事もありましたが、その後も状況は変わらず、対人めたりしました。
今では何が間違っていたかはっきり分かるのですが、そのころのわたしには、それが精一杯の生き方でした。
5年ほど前、徳島で行われた四国集会が、わたしの大きな転機になりました。
母に強く誘われて参加しましたが、行きの車の中で「ほかの人は信仰深いかもしれないけど、わたしはそうじゃないから、わたしが悪魔に取り付かれて大声出しても知らんよ。」などと言って母を困らせました。そのときは、半分本気でそのようなことを心配していました。そのくらい荒れて暗い心で出かけたのです。
けれども、その集会から、わたしは喜びに満たされて帰ることになりました。
それは、そこに集まった兄弟姉妹の中に聖霊を感じることができたからです。一人一人が持つ、素朴な力強さに圧倒されました。誰もがこの世の権威とは何の関係もない、本物の力と喜びを内に持っていることを感じました。それが、神様から与えられる力だと気付きました。そこには本当に素朴な喜びが満ちていました。誰もが神様にまっすぐ向いていて、お互いのことを見ていないのを心地よく感じました。そのため緊張もだんだん薄れてきました。窓から吹く風が爽やかだったこと、沖縄から参加した人が歌ってくれた沖縄民謡、どれもが心にしみていきました。
そして、わたしはその日、やっと暗闇の出口を見つけました。耳にしたことのある「聖霊の親しき交わり」とは、こういうことなのだろうかと考えたりしました。
それから変化したことは、わたしが集会に参加し始めたことです。そして、集会に参加することによって、大きく方向転換することになりました。
まず神様の御言葉を正しく理解することができ、神様について考えるときは今までより、良いほうに考えられるようになりました。
そして聖書を学ぶことで、価値観がすこしずつ変わっていきました。
以前は罪深くて無価値だと思っていた自分のことを、だんだん好きになっていきました。神様が「あなたは高価で貴い」ともったいない御言葉をくださったからです。
そして以前は一番嫌だった、自分の弱いところが、一番大切な部分のように思えてきました。わたしは弱くてよく泣きますが、神様はその弱いところに来てくださるので、泣いた分、立ち上がったときには何かを得ているのです。また、自分が心貧しいことも悩みでしたが、それも幸いとイエス様は言ってくださいます。
あるとき、仕事をしていて自分の心貧しさが嫌になり、キリストに倣っていない自分を思うとますます落ち込んでいきました。
そこで手のひらに「心の貧しいものは幸いです」とボールペンで書きました。
そして落ち込みそうになったらそれを読みました。すると喜びが沸いてきて自然に優しくなることができました。自分の罪に苦しみ、劣等感で押しつぶされそうなときも、今度は「神は愛なり」と手のひらに書いてみました。それも神様の愛を信じる力を与えてくれました。
また、わたしはあるときから神様に手紙を書くようにしています。
ある晩、強い孤独感に襲われて、泣いて神様を求めましたが、部屋はシーンとして神様からお答えがあろうはずもありません。手を伸ばしてみても、その手をがっちりとつかんでくださるわけでもありませんでした。けれども、神様は嘆きを聞いてくださる方だと信じることができました。それでわたしのこの気持ちをなんとか神様に伝えたくて、パソコンに向かい、申し上げたいことを手紙に書き始めました。最後にアーメンと書いたら、神様に届くのです。それは紙に書いた祈りです。
そしてしばらくすると、返事がきちんとあることに驚かされました。自分が数日前に書いた祈りに対して、日々の出来事を通して答えを与えられているのに気付いたのです。また、悩みを書くと意外なところから本が出てきて、読むとそこに悩みの答えそのものが書かれてあったり、日めくりカレンダーの御言葉で励まされたりと、神様からも返事が来るのです。わたしは、自分が祈ったことを覚えていませんでしたが、神様は祈ったことを覚えてくださって聴かれていたのに気付かされました。
悲しみの手紙を書いていたのに途中から力を与えられて賛美の手紙に変わったりすることもあります。そういうときは、心からの喜びがあふれてきます。また、反対に喜んだと思った次の日に、悲しい、苦しいと訴えているときもあります。
詩篇が螺旋階段のように苦しみの祈りと賛美の歌でつづられていくように、わたしも、悩んだり賛美したりしながらすこしずつ神様が導いてくださるのを思います。
この証しのお話をいただいたときも、実はかなり落ち込んでいました。仕事のことや体調のことでストレスがあり、そこから信仰によって這い上がれない自分が嫌でしょうがなかったのです。なぜ神様のお力を信じないのか、なぜ忍耐力がまったくないのか、なぜ待ち望むことができないのか、お前は本当に信仰の薄いものだと苦しい苦しい気持ちがわいてくるのです。そんな中で証しをお受けしたものの、主の栄光をあらわしたいと願うほどに自分の罪深さを思い知らされ、このわたしに何の証しができるのかと暗いものが言ってくるのです。
そしてこの証しをまとめるにあたって、祈り、もがいてわたしは知りました。祈りに答えて、神様が「あなたはこれでよい。わたしがしたことだ。」とおっしゃっていると感じたのです。今までのことも神様が成してくださいました。そしていくら背伸びをしても、神様が良しとされる方向にしか伸びないし、神様が良しとされるペースでしか伸びることができません。「わたしが望む」高さに伸びていないということを嘆くなど、傲慢なことでした。野の花の形が整えられるように、わたしも日々、目の前の出来事を通して御心のままに成長させていただきます。また、このようになりたいと願うこともできます。そこには自分の想像を超えた導き、という希望があります。このことを知らせていただけたので、証しをお受けしてよかったなぁと思いまし
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M.I |
・幾重にも障害のあるかの人は
いつも信もち前見て歩く
・桜散りつつじが咲いて緑さす
神の約束とわに続きぬ
・吾が思い吾れを捕らえて尚更に
闇は深く光も見えず
・概要の説明ききて触れてみて
花を愛でたる盲目の人
・沿道に植えられし花咲き誇る
排気ガス浴びる日々の中にて
・この痛み通り抜けたる向こうには
思いやりという恵みのありて
M.I |
・雨逃げて夕虹の中神の声
・田ゴロ押す窪みにあさる白鷺や
・朝草とともに刈り込む光かな
・露晴れ間ときの恵みに竿を拭く
高知県 T.H
高知集会の原と申します。
これから私がどのようなきっかけで、主イエスを信じるようになったのか,ということを証しをさせていただきます。
こういたしますと、今年の四国集会のテーマの伝道ということにそったお話になるかと思っています。それと同時に、私は皆さんとはあまりなじみがない者ですから、私の自己紹介にもなるのではないかと思っています。
私が大学三年生になった時のことです。三年生になりますと、クラスが専門コースにわかれました。その時私はある一人のクラスメートに出会いました。私は彼が普通の人とは違うと感じました。私が持っていないものを彼は持っていました。
その中で、私と一番違うところは、彼が自由に生きているということでした。
私は自分の得になることは一生懸命やりますが、そうでないことはしないという生き方をしていました。最初に、それが自分にとって損になるか、得になるかということを考えました。そして得になることだけを選ぶという生き方でした。私は見えない柵や塀で囲まれておりました。そして、私の得になるものは中に入れますが、そうでないものは寄せつけないようにしていました。しかしそれまでは、私の周りにそのような柵があることなど、私自身には気付いていませんでした。しかしその友人の何にも囚われない自由な生き方に接したとき、自分の不自由さに気付いたのでした。
彼はそのような目で見ている私に気付いたのでしょう。彼はいろいろな話をしてくれました。そして彼がクリスチャンであることが分かりました。その後、彼に誘われるままに行ったところが、北仙台の無教会の集会でした。
私は私なりに宗教とはこのようなものだというイメージをもっていました。それはこの私自身で作り上げたイメージでした。それを基にしますと、キリスト教は私にとって得にはならないし、価値のないものでした。しかし集会に続けて通ううちに、自分で造り上げたキリスト教のイメージは、次第に崩されていきました。これがどのようにして集会に導かれたかというおおまかな話です。
今、当時のことを振り返ってみます。
私が次のような説明を受けたとします。
キリスト教とはこういう素晴らしい信仰ですよ。
だから、君も聖書を読んだ方が良いですよ。信じた方がいいですよ。もしそのような言い方をされたら私はあまのじゃくですから、キリスト教や聖書の中にある矛盾していることなどを探して、説得されまいと一生懸命戦ったのではないかと思います。幸い私はそういう勧められ方はしませんでした。私は誘われるままに、集会に通い始めました。しかし信仰のお話はよく分かりませんでした。つかみどころがないと思いました。それでも出席したことが無益であったとは思いませんでした。それでもなぜかは分かりませんでしたが、心に温かいものを感じて、帰ってくることができました。ですから「またお出でなさい」と言われるままに、通い続けたことを覚えています。
キリスト教では言葉はとても大切です。しかし初めてキリスト教に接した者にとっては、聖書の言葉を理解することはとても難しいと思います。しかし、キリストの香りはキリストを知らない人にもよく分かるものです。私はこの香りに誘われて、主イエスを知るきっかけが与えられました。その後幸い信仰にまで導かれました。導かれたというより、押しやられました。
当時科学的な真理こそ最も大事であると考えていました。そして真理探求を目指して天文学に関係する職業を選びました。しかし就職した先で出会ったいろいろな出来事はあまりにも人間くさいものでした。そこにあったのはおよそ真理探求とはかけ離れた雰囲気でした。私はがっかりしました。そのような悲しいできごとが私を聖書のみ言葉へとおいやったのでした。やがて聖霊によって神の愛が示され、喜びに満たされました。そして私を取り囲んでいた柵が取り払われ、私は自由な者となりました。
そしてその喜びを伝えることをしました。その方法は自分の経験を基にしました。説教的な話はせず、ただ聖書のみ言葉を伝えました。しかし考えてみますと、主イエスを信じるということをはっきりと言い表すことを勧めるべきであったと思います。「人は心に信じて義とされ口で告白して救われる」(ロマ一〇:10)と聖書にかいてあることは大切だと思います。そうすることによって信仰が公のものになりますし、その人の信仰が定着すると思います。
主イエスを紹介するきっかけとしては言葉はあまりなくてもよいかもしれません。しかし本格的に学ぶときにはやはりみ言葉が必要になります。そして、主イエスを信じた時には、口で言い表すことが大事だと思っております。
H.N
この世には様々な問題がある
毎日の生活の中にも問題が入り込んで来る。
平和に暮らしたいなあと思うが
続かない。
問題が起こったとき
それまで気がつかなかった事に
目が開かれる
神様の強制が始まり
神様の取り扱いを受ける。
この世においては
段々弱くされていく。
神様の道はこの世と
全然違う
主に頼るのでなければ、
一歩も半歩も進めないと感じる。
主が私のすべてになろうとしてくださっている。
私の価値に関係なく神様が共にいてくださる。
神様はいつも私の友になってくださる。
もし神様がいない世界なら
人間対人間でどこまでもやっていかなければならない。
どこにも勝ち目のないこの世で絶望してしまうだろう。
罪を赦してくださり、
この世にはない喜びをくださる神様と
共に歩む幸い
問題が多くても
困って混乱しても
このことの中にこそ
神様の隠れた導きを見る。
愛媛県 A.O |
一九五三年、矢内原先生が編集した「小出一家信仰記録」という本を紹介します。
小出一家の人々の御生涯をみますとこの世的には、真に悲惨な御生涯を送った人々でありました。父、小平治さんと、母かずさんとの間に長男義彦さん、長女泉さん、次女静枝さん、三女知恵子さん、四人の子供さんに恵まれたのでありますが、父小平治さんが三五才のとき急性肺炎で倒れたのであります。寡婦として、小出かずさんは幼子一男三女をかかえて苦難の生活が始まります。
時代は一九〇五年頃、現代のような社会保障制度はありませんし、女性の社会進出もままらぬ時代がありましたから、小出かずさんの苦難は想像を越えるものだったと思われます。
その後不幸は次々と起こって参ります。長男義彦さんは、学業半ばにして、病の床に伏す身となり、二六才の若さをもって、召されてゆきました。
長女泉さんは、在学中発病し病院生活を一生送る身となりました。不幸は更に続きます。次女静枝さんは、一九三二年三二才をもって召され、更に、三女知恵子さんは、一九三七年三五才をもって天に召されたのであります。こうして、小出かずさんはただ一人残されたのであります。
この世から見れば、小出一家は真に不幸な一家でありました。しかし、しかしですね、一人残された小出のおばあさんは、ご自身の生涯を感謝と喜びにあふるる生涯であると告白しているのであります。その心情は歌われた歌からも伺い知ることができます。
○何一つ有たぬ身なれど凡てなる
エスにすがる我ぞ幸なる
○何事も神の聖旨と感謝すれば
心にかかるむら雲もなし
この感謝と喜びにあふるるもとは、イエス・キリストを信じる信仰にあったのであります。
小出おばあさんを慰めるために訪れた人々は、かえって信仰の喜びにあふるるおばあさんに、励まされ、慰められたといいます。
若くして、召されていった子供たちもそれぞれ信仰の喜びにあふれ感謝しつつ天に凱旋していったのであります。
世の不幸を、喜びと感謝にした信仰の種は父小平治さんの臨終の場において、撒かれたと言っております。教育を天職、生命と信じ、病をおして勤める中、肺炎となり、いよいよ死の迫った時でありました。妻、幼き子供たちを集めまして、苦しい中、ほほえみながら語ったと言います。
「実に愉快でたまらぬ。これが永眠というものであろうか。実に愉快でたまらぬ。余はかねて永眠は苦しきものと思っていたにかくまで愉快のものでありしか。これも神の愛である。」このようにあふるるばかりの喜びをもって召されていったのであります。
この時、愛読として読まれた聖書は、ヘブル人への手紙一二章でありました。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」
このみ言葉どおりに残された小出一家の人々は信仰をいただき、この地上での生涯を終えることになったのであります。長男義彦さんが学業半ばにして病の身となったとき歌った歌が
○聖名のため受けし傷痕持たずして
聖前にいづる恥じ知るや君
であります。伝道の志がかなわぬ中、病苦を私の仕事と呼び、頼るべき自己を有しない中、主にすべてを委ねまつり、ただ御心のままになさせ給えと祈る日々をおくったのであります。そして、この境遇を最大幸福なる境涯に置かれてあると感謝されております。「人の救はるるは行いによるにあらず、義人は信仰によりて生くべし。砕けたる魂、すべてを委ね奉るの心、これぞ救いの門に入る唯一の資格なれ。」と。絶対無力と絶対信頼の福音に対し、あふるる感謝をもって天に凱旋しておられます。
次女静枝さんも若くして、病に倒れました。が信仰と希望をもって天に凱旋されています。静枝さんの歌。
○苦しみのいやます毎にみ恵みも
いやまさりつつ今に至りぬ
三女知恵子さんも、一家の十字架を負いつつ、世のため、人のために仕えんと働く最中病に倒れ病の身となります。病床にありながら信仰ゆえに神に感謝し、人に感謝しつつ、真に幸福な日々を送らせていただいたと告白しております。こうして知恵子さんも、喜び感謝しつつ天に凱旋して行かれました。この知恵子さんの歌より。
○貧来れ病よ来れ死よ来れ
勝利の君は我とともなり
このようにして一人残された小出かずおばあさんは、「溢るる酒杯」の中で告白しております。
「召された子供は皆病苦に勝たせていただき、信仰と希望に輝いて雄々しく凱旋させてくださいました。主の聖名を崇め奉ります。・・・・・・人間は希望なくては一
日も生きることは不可能、私は世の物を皆取り去られて、ただイエス様だけにおすがりする以外に希望はございませぬ。この世のものをみな取り去りたまいましたお恵みに感謝しております。
また、いかなる試練にも必ずのがれみちをお恵みくださり、耐え忍ぶことのできぬ試みにあわせじとのお約束を幾十回も体験させていただきました。思えば何の功もないこの罪人をも、世の基のおかれぬ先から、神様の方から御あわれみ、御選びくださいました。人一倍の御苦心をもって今日までお鍛えくださいます御恵みに感涙いたしております。」と。
確かに小出一家の御生涯は、この世的には、真に悲惨、不幸な御生涯であったといえるでしょう。しかし、イエス・キリストを信じる信仰をいただいたものは、逆説。世の不幸が、喜びと、感謝と希望にあふるる幸福な生涯になるのであります。この真の幸福を小出一家の人々の御生涯が私達にあかししているのであります。
現に、私どもの敬愛する兄弟姉妹が、家庭で、また病院で、病を持っていても平安の内に喜びと、感謝と希望をもって、私たちにイエス・キリストの福音をあかししております。
H.N |
今回編集するにあたり、内村鑑三全集をひもといてみました。
どこを開いても、聖霊に満ちた純粋さを感じる文章に、心が元気になります。
あまりにも情報が過多になり、本来人間に備わっている、神様の摂理から離れ、迷っている現代人に、この内村鑑三が指し示す簡単明瞭な神様の世界に触れて欲しいと思います。
私の主人も神様を信じ、野菜などを育てることによって、その神秘な成長や仕組みに驚き、神様を讃える話をしてくれます。信仰を持ってから、目が開かれ、目の前の素朴なものに神様を見いだせるようになりました。
主を信じる人が起こされ、主を讃美する人が一人でも多く起こされますようにと願いつつこの「ともしび」を発行しています。
神様が用いてくださいますようにと祈りつつ、読んでくださる方の祝福をお祈りします。
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