まえがき NH
今年も主のお守りと皆様のご協力により、「ともしび」が発行できます事を感謝です。
皆様から一つずつ原稿が届くたびに、本当に感謝して受け取ってまいりました。
皆様と「ともしび」を通して祈りつつ関われる恵みを感謝いたします。
今回は勝浦 良明さんより原稿を五編いただきました。手足の麻痺と人工呼吸器による呼吸、その上に先般肺癌にかかっているのではないかという事が腫瘍マーカーの検査で分かったそうです。このような事情がある為、KYさんの投稿五編全てを用いさせて頂くことにしました。
勝浦良明さんのこれからの一日一日が、主に守られて御心の内を生きる事ができますように。
「ともしび」に投稿して下さった方々、読んで下さる方々に主の平安と祝福が豊かにありますようにと感謝し祈りつつ発行致します。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 (ヨハネ 一五・1~7)
編集者:NH(徳島聖書キリスト集会所属)
「氷点」雑感 IE
ストロープ松、ドイツトーヒ、欧州赤松、バンクシャ松など、三浦綾子さんの小説「氷点」には最初から色々な木の名が出てくる。まだ見たことのない異国情緒漂う樹木の名には何故かこころひかれるものがある。しかしそれだけではなく、この物語りの背景となっている北海道の広々とした空、また営林局管轄のこれら外国針葉樹の見本林の他にも様々な植物が織り成す豊かな自然。それがかえって人間の「罪」とか「原罪」とか、一般にはとても厄介な、と思える問題と、不思議と調和して物語が進行していくのは何故だろう。登場人物の一人ひとりが、その内にひそませている罪の苦しみに重く沈みながら生きていく。そしてまた、あらたな罪を犯していく…。どうしようもないようなこの人間の姿を繊細に鋭く、メスで仕分けしているようにも思える。この仕分は、読者にとっても痛みを伴う。場合によっては、主の恵みによって非常な痛みを味わうかもしれない。そんなものもみな神のみ手の業によるにちがいない。
それはある意味、非常に快い痛みかもしれない。わたしは聖書を知るまでの長い間、キリスト教関係と言われる本を避けてきた。学生時代の旭川育ちの友人にその話をしたら、彼女はいまだに「読むのが恐ろしい」と率直に言う。だがわたしも恐ろしい。それは三浦さんが、罪というものの実体を目の前に見えるようにえぐり出しておられるからだろう。しかしえぐり出されることによって救われる部分がある。それが「浄め」となるように思える。ダンテの「神曲」煉獄篇は浄めの炎に焼かれながら行く、それはある種のよろこびであることを感じる。その炎は非常な高温であっても、この上なく透き通った、この上なく清い炎だ。三浦さんの小説の仕分けもそれに似ている。
高く澄みきった空や風や山や川、また空にそびえる木々、小さな植物もまた清々しい。そして夜には空いっぱいにまたたいているであろう星々。そういった大自然は、ひとりひとりの魂をゆたかなもので包み、慰め、また清め、正しい位置に引き戻そうと無言のままの祈りを送り続けているように思える。
誰にでも、この小説に似た「氷点」を、その内に宿すことがあるのかもしれない。心が凍ってしまうようなことに遭遇させられるのかもしれない。それはこの世につかわされた者たちへ、神様から与えられた課題かもしれない。溶かそうと思っても自分ではどうにも溶かすことのできないものが時に硬く氷のように結晶してしまうかもしれない。それは悪くすれば命を奪う。しばしばそういうことが現実に起る。しかし人間は、すべて神の手の内にある。神を知り、神を信じ、神の炎がこころに降れば、かならず溶かされる。力も与えられる。それは、神に不可能はないことを知るために与えられる課題かもしれない。
たしかにこの神の炎がある、という事を三浦さんは「続・氷点(下)」の最後の部分、この長編小説とも言える最後の最後にこう書いている。「先程まで容易に信じ得なかった神の実在が、突如として、何の抵抗もなく信じられた。このされざれとした流氷の原が、血のしたたりのように染まり、野火のように燃えるのを見た時、陽子の内部にも、突如、燃える流氷に呼応するような変化が起ったのだ。
この天地の実在を、偶然に帰することは、陽子には到底できなかった。人間を超えた大いなる者の意志を感ぜずにはいられなかった」…と続く。
どことなく「主は嵐のなかからヨブに答えて仰せになった」というところから始まる「ヨブ記」の結末のところを思い起こさせるような、この大自然を通しての神の介入。それに呼応してヨブは「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と答える。
神ご自身が介入され、万物を創造された神のみ手がそこに伸ばされると、あるとき大自然を通して思いがけないことを神様は起される。それがわたしたち人間の、狭く浅く短くはかない草のような命、正義にも愛にも乏しい人生をくつがえし、少しでも生き生きと、少しでも深く長く正しく力強く愛あるものと変えてくださるにちがいない。たとえ凍った雪原のような人間の心であったとしても、誰でもいつか神のみ手が伸ばされて、あるいは神の熱い炎がそのこころに降って、そのみ手が点火する炎が燃えはじめるに違いない。
だが雪原が燃えるとはどういうことだろう。三浦さんは本当にそれを見た、と言われたそうだ。それを聞いたとき、わたし自身もアッと思い当たるものがあった。ふとしたきっかけで知った、あるアマチュアの富良野に住む画家に、北海道の自然や、オホーツク沿岸の流氷の絵ばかり描いている人がいた。その流氷の絵は本当に赤く燃えているようであった。この世のものならぬ不思議な赤い色が眼に残った。今思うが、あれはまったくの誇張ではなかった。人間を一切描かないという、多分、孤独な画家が描こうとしたのは、大自然に映し出される神の姿ではなかったかと思う。
どんなものでも、どんなことでも神がその人に、霊の眼をもって見せようと思えばその人には見える。理解させようと思えば、その人は理解する。もし力を与えようと思えば与えられる。もし罪を赦そうと思えば赦される。神に不可能はない。
母への祈り MK
もうすぐ八九歳になる実母を介護施設に訪ね、お昼の食事の介助に出かける私の足取りは軽く、母に会える嬉しさで車を走らせます。
私がキリスト信仰を持つことを後押ししてくれたような気がする母は、もうベットから起きることもなくだんだんと言葉も失い、目を開けたり閉じたりとうつろな状態です。
最初そんな母を見るたび、涙することばかりでした。
神様を知らされた今は、感謝の気持ちにかわっていく自分に驚いています。
母の病室は水を入れた花瓶は置けなく、小さな花もかざれません。
ある時私は、母のベッドの枕元の壁に母の笑顔の写真をはり、母の写真を囲むように、ひ孫達の写真を、写真の上には「おばあちゃん、春がきたよー」と春には桜を、夏にはひまわり、秋にはもみじ、冬にはつばきやサンタクロースのペーパーフラワーを張りつけました。、季節の移り変わりもわからないであろう母に心の目で見てねと祈りつつ…。
ある日集会の方から、どんぐりや木の実を頂き、それをひとつずつ太い糸でまきつけ吊るしていきました。優しくゆれるどんぐりが、母にきっと安らぎを与えてくれた事、嬉しかったです。
あるとき、不思議なことがありました。カチューシャが大好きだった母の白髪をなでていると、私の目から涙が溢れでてきました。それを見て、母が辛そうな顔をしたのです。もう喜怒哀楽もない母が、私ははっとしました。まだ分かるのだ。「おばあちゃん、おばあちゃん」と何度も呼び続けました。すると「はい」と返事が返ってきたのです。
確かに「はい」と。私はその声が聞きたくて何度も呼び続けましたが、でもそれっきり母の声を聞くことはありませんでした。そして時々ふっと思うのです。あれは、イエス様の声だったのかしらと。
今は、母の手を握り、髪や顔をなでたり、足をさすったり、幼いとき母がしてくれたように、気持ちよさそうに目をつぶる穏やかな母の寝顔に安心して「また来るねまた来るね」と声をかけて部屋を出ます。
母親には、特別な思いがあります。顔が見える、それだけで幸せなのです。そして、今のとき、母との大切な時間は、神様が必要なときとして、与えてくださっていることを思わされます。幾多の荒波をのり切ってきた母の長い人生、たとえもう意思疎通がなくとも、子供や孫、ひ孫に見舞ってもらえる幸せに神様に手を合わせております。
どうか母に平安を、そして今があることにただただ感謝して先のことを思い煩うことなく生活していきたいと願う日々です。
主を仰ぐ 大阪 NY
「主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。」(詩編三篇)
主を仰ぐことは特別な時、特別な事情のある時だけでなく、日常にこそ大事なのだと思わされます。
自分の労力が誰かのために費されるとき、どうしてもその人のこと、自分のことばかりに目がいってしまいます。そうして心が騒がしくなります。「あなたもあのイエスと一緒にいたところを私は見た」という無力の女中にでさえ恐くなって嘘をついたペテロは、一匹の虫が同じことを言っても恐ろしくなって嘘をついたと思います。主を仰ぐことを忘れてしまうと、ほんの小さな存在、力に対してでも心が弱くなってしまいます。
また、「私たちと共にいてください」という祈りも、イエスを主としてではなく人間としてだけで思ってしまいやすい面もあると思います。イエスは心の汚れた私の所にまで降りてきて、重荷を背負ってあげようと言われました。そのイエスに対して私には重荷からの解放の感謝と喜びしかありません。
しかし、主はわたしの羊飼い、その主従関係を抜いてしまうと、私たちのただ中に来てくださったイエスを見ている内に周りの人を見て、そして人間だけを見てしまうようになる一面があると思います。羊は群れで動くので、他の羊に目を奪われてしまうのに似ていると思います。そうして、期待し、ねぎらいを求める相手を間違ってしまいます。親友や家族、親しい人に対してでなく、主に求めなければならないということを。
「汚れなき悪戯」
ーMARCELINO PAN Y VINO(パンとぶどう酒のマルセリーノ)ー YE
ある時、修道院の門の前に男の赤子が捨てられていました。手を尽くして親を捜しますが、見つからず、生活に追われる人々には貰って育てられる人もなく、十二人の僧(ブラザー)が修道院で育てることになりました。「マルセリーノ」と名づけられ、十二人に見守られながら育って行きます。五歳頃になるといたずら坊やに成長していました。十二人の一人ひとりにあだ名をつけたり、ミルクを飲ませてくれた山羊やねこにも名前をつけ、クモやハエ、トンボもチョウチョもコガネムシもバッタもサソリさえいたずらの相手でした。
ある日、村から村へと旅をする一家がやってきて修道院の近くでテントを張りました。その家の末っ子にマヌエルという子がいました。マルセリーノが初めて出会った同じくらいの年の男の子でした。「ぼく、どこから来たんだろう。おうちの人は、どこにいるのかな。お母さんはどこ。…」いつかマルセリーノは見たこともないお母さんを思うようになります。
修道院の二階には上がってはいけないと言われていましたが、好奇心の出てくる年頃、マルセリーノは見つからないように、足音を立てないように上がっていきます。そして、何回目かに部屋に辿りつき、十字架のキリストに会います。マルセリーノは、十字架の足もとに近づきました。いばらの冠をかぶせられた傷から、ひたいに流れ落ちる血のしずくや、丸太にくぎづけにされた手足や、わき腹の大きな傷あとを、じっとみつめているマルセリーノの目に、なみだが、いっぱい溢れてきました。それから、マルセリーノは料理係の「おかゆさん」(あだ名)に見つからないように、パンとぶどう酒をキリストのもとに運んで行きます。キリストは十字架から降りて、パンとぶどう酒を食します。マルセリーノはいばらの冠を外して、テーブルの上においてあげます。キリストはふかい愛に溢れた眼差しで、マルセリーノを見ていました。キリストに会う回数が増えるにつれて、マルセリーノの態度が変化していきます。外で遊ぶことはなくなり、自分から祈りの部屋で祈ったり、少し前には「おかゆさん」に隠れて運んでいたパンもぶどう酒も堂々と二階に運ぶようになりました。またある時「ぼくにはお母さんがいなくて…。」といいます。そして、キリストに「お母さん、いるの。」「どこにいるの?」と訊ねます。「おまえのお母さんと同じところに。」キリストは、いいました。「お母さんて、どんなの。ぼく、いつもお母さんのことかんがえてるの。ぼく、いちばんしたいことはね、お母さんに会うこと。ちょっとだけでもいいの。」
ある日、にっこりして、マルセリーノに、こう言われました。「きょうから、おまえの名は、『パンとぶどう酒のマルセリーノ』だ。」マルセリーノはこの名前がとても気に入りました。それから後もキリストの所に食べ物を運び続けました。が、マルセリーノはぼんやりと寂しそうに暮らすようになり、お祈り部屋に入るようになりました。みんなはとても心配します。…キリストは「では、マルセリーノ、おまえはいい子だったね。わたしは、おまえが一番ほしいものを、ほうびとしてあげようと思うが…。」「ぼく、お母さんに会いたい。それだけ。あなたのお母さんにも会いたい。」キリストは、マルセリーノをぐっとひきよせて、ごつごつしたひざの上に、じかにだきあげました。そして、マルセリーノのまぶたをそっとなでて、やさしく言いました。
「では、おやすみ、マルセリーノ。」そのとたん、修道士たちのさけび声が、いっせいにあがりました。「奇跡だ!」
マルセリーノは、天国にのぼったのです。
わたしがこの映画を観たのは今から四十五~六年前のことでした。あの時受けた感動を忘れる事はありません。最近、行方不明になっていた本が見つかり、改めて読み返しました。また映画の中でマルセリーノがキリストにパンを差し出す構図がミケランジェロの「アダムの創造」ととても似ていることに驚きました。
この本を書いたホセマリア・サンチェスシルバは「どうか、わすれないでくれたまえ。この世でいちばん大切なことは、いつもいつも『子ども』でいることだ。小さい子でも、おとなでもだ。」と、書いています。
この言葉は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ五・3)
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(マタイ一八・3)と言われたイエス様の言葉と同じことだと思います。
神の秘められた計画であるキリスト
東京 SY
最近こんなことがありました。
浦和キリスト集会では、礼拝の時、昨年の九月から創世記を通して導きを受けてもう一年近くになります。
第一章一節の、「初めに神は、天地を創造された」という、聖書の最も大事な宣言から始まるこの書に毎回引き込まれるようにして、教えられてきました。
今まで何度も読んでいるから分かっている、と思っていたことでも、またまったく新しいことに気づかされています。去る七月の最初の礼拝は、ヤコブがどうしてもヤボクの渡しを渡れず、たった独り後に残り、そこで彼は「何者か」と夜明けまで格闘した、というところでした。
いったい彼が格闘したという、この「何者か」とは誰なんだろう、神様ご自身? でも「夜が明けるから去らせてほしい」などというのは、神様らしくないな、とか、いろいろありましたが、それでも最終的には、エサウを恐れて、全く前に進めなくなってしまったヤコブに、神様が現れてくださり、彼のいのちがけの祈りを真正面から受け止めてくださった、その彼の祈りと、それをまともに受け止めてくださる神様との出会いが、ここで、彼が「格闘した」、と表現されていることを示されました。そして、彼のこの祈りを通して、神様は彼を新しく造り替えてくださった、と教えられ、とても深い感動を与えられました。祈るということがどういうことであるかを目の当たりに教えられた思いでした。エサウを怖がるヤコブの姿は、決して他人事ではないことはよくよくわかりますので。
そしてもう一つ。
わたしも毎朝、すこしづつ旧約と新約を読んでいるのですが、その時はコロサイの信徒への手紙の二章でした。読み始めたわたしの目に、「神の秘められた計画であるキリスト…。知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠れています。」(二章2・3)という言葉が飛び込んできました。聖書には、なかなか、その真意の理解が進まないことも多くありますが、この言葉を聞かせていただいて、わからなければ分からないままに、キリストのもとにもどればよいのだ、と思い、とても穏やかな気持ちで、その一日も始めることができました。キリストが「神の秘められたご計画」そのものであり、そのキリストに、「知恵と知識の宝がすべて隠されている」ですって!なんと驚くべき言葉でしょう。なんだか、ゾクゾクするような喜びが沸いてきます。パウロはなんという深い経験を語り残してくれたんだろう、とまさに目を丸くする思いです。そして思いました。ヤコブの苦悩をまともに引き受けて、彼を新しく造り替えてくださったのも、実は主なるキリストだったのかもしれない、とふと思い至り、またもう一つ感動を深めさせてもらいました。
列王記下四・38~41の学びより TK
野生のうりを見つけ、それを刻んで鍋で煮物にして食べようとした時に、それが死の毒だと解った。そこにいた者たちは、神の人(エリシャ)に告げると、エリシャは麦粉を投げいれて鍋の中の有害な物を消してしまう。
このような事は私たちの生活にはあまり関係のないように思っていましたが、「死の毒」はいたる所にどこにでもある。人間の悪意。心の内の闇等々。私たちは知らず知らずに毒を飲んだり、毒を出したりしている。
悪意を受けて本当に死んでしまう人もいる。
神の人エリシャは、麦粉を使って毒を消した。麦粉はどこにでもある。どこにでもある物であってもそこに神の力が働くと毒を消す事が出来る。
新約の時代の私たちは、キリストを信じるだけで有毒な物の害を受けないとある。(マルコ一六・18)
人から受ける悪意、中傷も多い。また心の闇もある。キリストを信じてもそれらが無くなるのではない。それらに打ち勝つ力が与えられるのだ。
若い時には若い時の悩みが、年老いては年老いての悩みがある。それらを解消して下さるのもイエス様だ。
またイエス様の力はどこにでも働いている。一人一人の心の中にも、自然の中にも神様の力を見る事が出来る。
また気がつかずに毒を出して人を傷つけてしまう事もある。それもイエス様を信じる事により、罪は赦される。私たちの深い罪を赦すためにイエス様は来られたのだ。
サムエル記を読んで 大阪 SY
大阪狭山聖書集会でもたれている水曜日の家庭集会で、サムエル記を学びました。サムエルの誕生から始まり、ダビデの生涯を通して多くのことを学びましたが、その中から少し思い返します。
最初の一章一〇節に「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」とあります。ハンナは、願っても願っても子どもが与えられず、すでに子どものいるもう一人の妻から蔑まれ、苦しめられてきました。しかし、ハンナはあきらめずに主に求め続け、心からの祈りをささげ、ついにその願いをかなえられてサムエルが与えられました。しかし、何にも代えがたい愛しい我が子を、ハンナは手元におかず「この子は生涯、主にゆだねられた者です。」(サム上一・28)と言って主にささげます。二章のハンナの祈りからは、ハンナがそのことを通して心から主を讃美し、喜びに満ちあふれている様子がよくわかります。しかもその喜びは自分だけでなく、主により頼む者すべてが受ける祝福にまで深められていきます。ハンナの神様への全き信頼による信仰の力強さを感じました。
また、ダビデの選びの場面では、人間の思いと神様の思いの大きな違いを教えられました。神様は目に映ることではなく心をごらんになるとあります。(サム上十六・7)神様にいつも問われているのは、私の心であると今さらのように示され、日ごろ目に映るものに心を奪われ、大切なものを軽んじていることを思わされました。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」(マタイ六・21)とイエス様は言われました。私の心が聖霊なるイエス様でいっぱいでありますように、と強く願います。
そのような主に喜ばれる者であったダビデですが、時に罪を犯す場面もあります。しかし、ダビデは罪が示された時にすぐに神様の前で悔い改めます。どんなに神様に祝福された歩みであっても、人は罪を犯してしまうことがある。そこで大切なのが、神様のもとに帰って悔い改めることだと教えられました。ダビデの深い悔い改めの後に、「主があなたの罪を取り除かれる。」(サム下十二・13)とあります。神様は、なんと憐み深いお方でしょうか。Ⅰヨハネ一・9に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」とあります。自分だけは大丈夫、などと高慢にならないで、悔い改めて御名を呼び求め、主を仰ぎ見る者でありたいと切に願います。
主にある交わりの中で共に聖書を読むことは、聖書の理解が深められ感謝です。主が長年にわたって導いてくださっているこの集会を、これからも祝福してくださいますように祈っています。
短歌― 苦難を負う友 NS
◎ 忍耐に光る苦難を負う友の
黙して言えぬ涙の重さ
◎ 絶え間なき友の痛みを知るほどに
祈る言葉もなきわが心
◎ 主のうめき御とりなしに縋るより
ほかにすべなき貧しき祈り
◎ 長年の介護を受けて逝く人の
労苦の妻に主の愛豊かに
◎ わが無力悔いつつ祈るひたすらに
御名を信じて御名をあがめて
◎ 二人して心を合わせて祈るなら
願いはかなうと御言葉迫る
◎ 共に祈る友を求めて明日を待つ
その日暮らしも御手の中にて
◎ 目の前に友はおらねど祈る人は
世界に満ちて主が備えらる
◎ 不満もつこの現実が最善の
神の恵みと喜び感謝を
◎ 神様を喜ぶことが唯一つ
わたしに出来るいのちへの道
吉村先生をお迎えして 山梨県 YA
八月四日Y先生が北海道からの帰途、わが家に立ち寄ってくださり特別礼拝集会がもたれた。連日の猛暑、先生の健康を守り導いていただき、予定通りに集会ができることを毎日祈った。二年前に徳島の全国集会に参加した時、徳島の方々が「参加者ひとり一人が無事に出席できるように、と日々祈っておりました。」と言って下さった言葉を思い出して、「先生を無事に迎えられますように」「集会にひとりでも多く方が参加できますように」と毎日お祈りをした。それにまた、病気の長男と高齢の母がいる私たちの生活にもアクシデントがないよう併せて祈った。その願いが叶えられて、八月四日、この日を待ちわびていた一五人の皆様と共に吉村先生をお迎えできた。
吉村先生は詩編五一編を通して講話された。詩編は「賛美と生きた祈り」で信仰の源流であるといい、神のみ言葉の含蓄であるということを話された。聖歌の「人生の海の嵐に」「如何に汚れたる」「われ聞けりかなたには」は、私どもにはみんな新鮮な賛美でもあった。そして、集会の間中、たんぼを渡って、南アルプスの嶺々から吹いてくる風を、「緑の清い風」「聖霊の風」と言って下さった。吉村先生が運んで来てくれた、引き寄せてくれた「聖霊の風」。まさに集会は聖霊の風に包まれ参加した皆さまを満たして下さった。それは集会に参加された方々の三分間の感話に溢れていた。この体験は私が徳島の全国集会で感じた、あの時に吹き渡っていた不思議な風、「聖霊の風」と同じものであった。
折しも庭のカサブランカは、Y先生を、集会を待っていたかのように、全開して、緑の中に白く揺れていた。最後に集合写真を撮っていただいたが、みんな「いのちの水」で繋がっている方々である。「嘉きことのおとずれ」、感謝の一日であった。そして先生は重い荷物を車に積んでまた、次の会場へ、長野に向かって発たれた。甲斐駒ケ岳の上に輝き始めたいちばん星を仰ぎながら、先生の健康をお祈りした。
ある患者さまから学んだこと 沖縄 TT
認知症病棟で働くこと早一年が経とうとしています。毎日泣いたり笑ったり怒ったり考えたり…色々なことを通して患者さまから学ぶ毎日です。
ある日のことですが、一緒に病棟の廊下を歩いていた患者さまがふと、壁にかけられていた掛け軸の前で立ち止まり動かなくなりました。その視線の先に目をやると、『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。(ヨハネの第一の手紙三・16』の御言葉がありました。キリスト教系の病院ということもあり、いたる所に御言葉の掛け軸が飾られているのです。そしてその方はクリスチャンでした。私がその御言葉を声に出して読み上げるとその方も一緒に声を出し、声を揃えて御言葉を読み上げました。すると、乏しかったその表情がみるみるほぐれてやわらかな笑顔になったので、つられて私も笑顔になり「いい言葉ですね」「そうだね、いい言葉だね」とお互いに笑顔で言いあいました。
この患者さまのやわらかな表情をみているうちに、この方とイエス様の間には二人だけの、長い年月をかけて築かれてきた「絆」のようなものがあるのだなと、不思議ですがそう感じました。喜びの時も苦しみの時も、沢山の時をイエスさまと共に歩まれてきたのだろうと思いました。イエスさまとの数え切れない思い出や、その中で培われてきた素晴らしい関係がこの笑顔を生み出しているような、そんな気がしてなりませんでした。
神さまってやっぱり凄いなと思うと同時に信仰は理屈じゃないんだと、この方に教えられているような気がしました。
私もイエスさまと確かな絆を築いていきたい、この患者様を通して思わされました。
「あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの
老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」
(イザヤ書四六・3~4)
父と母を偲んで TK
我が家の小さな庭にここ数年夏になると羽黒トンボがやってきます。最初は一匹、いつしか二匹になりました。胴が緑っぽいので雄でしょう。
昨年の夏は、母が入院、手術、退院、家での療養を続けていました。毎日庭のどこかで見かけるトンボは、亡くなった父が「お母ちゃん頑張れ。」と応援に来てくれているようでした。
母のいなくなった今年の夏もまた二匹の羽黒トンボが姿を見せています。
父と母の二人が私たちを見守ってくれているのでしょうか。
天からの小さな使い…
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ三・20)
「また、神ご自身が彼らと共におられて彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録 二一・3~4)
トンボさん今年も来てくれてありがとう。
妻はいつ洗礼を受けたか 広島 OT
妻、Hは日曜日は教会の礼拝に参加している。私も四~五回行ったが、教会の人は快く受け入れてくれた。牧師さんも同じクリスチャンとして信じ合う如く交わって下さった。しかし私の中では教会と無教会で戦っている。五五年間の戦いである。「主も一つ、天国も一つ」なぜ違うのか。信者さんも良く知っている町の人、昔からの友人なので会えば懐かしい。しかし違うのである。私には問題はないが、教会は困る事がある筈である。元教会員として扱わず、正教会員として私を受け入れている。その私は無教会員として五十数年外の者と思っている。よって聖餐式を受けない。キリスト者としてでなく教会員として自覚させる事を目的としている。神への信仰でない。「福音というべきものでなくある種の人々があなた方をかき乱し福音を曲げようとしている」(ガラテヤ一・7)教会は組織である。この組織は広島の本部がありまた、世界的に組織がある。それを維持しなくてはならない。私はキリスト以外は何も持たないと五十五年間やってきたのに、教会員としての責任を負わなくてはならない。妻はもう二年目であり、そろそろ洗礼を受け教会員になりたいらしい。妻は「教会の洗礼は点洗であり何か儀式的でいやだ」と言う。川の方が良いと決意を言う。私は「おまえは口でキリストが主であると言った時に天において洗礼は受けているんだよ」と言った。
結婚する前に教会の前に居た時である。そして結婚をした。結婚を主に許されたのだ。式は私の父が言う通りにしたが、私の心の中では酒の中の歌も人の声もなくひたすら祈りの中に妻を求め神の許しを乞うていた。分家からの嫁ぎなので、親同志は次の朝も酒を飲み交わしていた。私は母親の手伝いをしていた妻を呼び出そうとした。結婚はしたが、神への心の決意について語る機会もない。二人の時はないのだ。野良着に着替えて田んぼへ出てやっと二人になった。私は二人の神への誓いを捧げた。あの時に洗礼を受けたのだ。
あれから五十年。苦しい時もあった。悲しい事に長女が死産した。心から悔い改め自分の信仰を心から神に赦しを乞うた。二ヶ月間妻は立ち上がる事ができなかった。あの痛さは忘れる事はない。二人の心の痛手となって生涯を共にするきっかけとなった。本当の祈りはその時から始まった。次の子は三ヶ月この世の光を見て天に逝った。また、深い悲しみの日が続いた。しかし長男と次男が生まれ楽しい人生が訪れた。
子育ても終わり老年人生を送る幸いの時である。二人の生涯は神への赦しを願う戦いの日々であった。一昨年建てた墓に「天在我国籍」と書いた。中に骨も無き二人の子が入っている。私達の二人の墓である。どちらが先に死んでも天に在る子供と共に神の国に籍を持つている。
地上にあっても幸いの日々を感謝する日々である。これからも続く生涯を赦され喜びの中に光を受け日々新しく生きていきたい。
今、無教会の集まりに行っても、真実の戦いは私の中にあり、人類の罪は消える事もなく続く。キリスト者は生命のある限り十字架が必要である。しかし一方では地に責任を持たず自由な者として生きている。「今なお人の歓心を買おうとしているとすれば私達はキリストのものではないのです。」(ガラテヤ書1・10)
昨日より始めた聖句が壁に貼ったまま、私に問いかけてくる。聖句の中に永遠の生命が宿っている。キリスト・イエスが肉にあった二千年の昔、 この世は十字架につけた。つばきされ、嘲弄され人を救ったイエスが今十字架につけられ死刑にされようとしている。イエスは神を見上げ叫ばれた。「人類の罪の赦しを」。イエスの復活の後はイエスの代わりに助け人、聖霊を送って下さり十一人の弟子は聖なる復活のイエスの霊に助けられ働きその後パウロに現れ、多くの世界にイエスの弟子が生まれ私達に継がれた。「私達の国籍は天の国にあり」
私達は今、日々聖なる霊の息吹により幸いの日を新たに受け、聖徒の一人とされ、口でイエスを主と言い表し喜びの時をわかちあっている。感謝である。
勝浦良明さんの歩み NH
主は…疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に
大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れよ うが主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく歩いても疲れない。
(イザヤ四〇・29~31)
勝浦良明さんは、人工呼吸器で生命を維持し、手も足も全く動かない最重度の病者ですが、彼の作った賛美のデータは実に九四〇〇曲に及びます。手が動かないので額に取り付けたセンサーを首で動かし特殊な機械に息を吹きかけてパソコンを操作します。今までの何十年間の歩みは主が導き支えて来られたのがはっきり分かります。
病室にはたくさんの人が訪問していますが、ある時私がお訪ねすると、弟さんのお嫁さんが男の子(大学生と高校生)を連れて面会されているところでした。義妹さんは、帰る前に、「煮詰まったらまたお兄さんのところに相談に来るからね」とよきアドバイスを得て笑顔で帰っていかれました。集会員だけでなく、親族もまた彼に話しを聞いてもらいに県外から来るのだなあとつくづく思いました。
その彼が肺癌らしい(本文29頁)という事で また一つ十字架が増えました。勝浦さんは、検査も治療もしないという事で主にお委ねして今まで通りの生活を続け、延命治療をしないという事を決められています。
彼は今後いつまで今の状態が続くか判らないので書きたい事がある今が大切だと判断してこのたび寄せられたプロフィールと四篇を特集としてここに掲載致しました。
勝浦良明さんを知らない人も、賛美のデータの作成者として、また、重度の病気がありながら、主を信じたらそのような生き方ができる証しとして読んで欲しいと思います。
私の足跡(主に導かれて) KY
私が五五年生きて来た人生の中で、信仰に入る前と後とそれぞれの私個人の歴史がありました。
山もあり、谷もあった人生ですが、その節目、節目を想い出しながら、今キリスト者として自分の眼で見た、自分自身の人生を振り返ってみます。
一九五五年二月二四日 徳島市で出生。クリスチャンホームのクの字もありませんでした。
一九六一年四月 徳島市立新町小学校に入学。
消極的で、目立つことは大嫌いでした。
一九六七年四月 徳島市立富田中学校に入学。
ここでも目立つ事はしませんでした。吹奏楽部に入ったのを契機に、音楽に興味を持ち始めました。
一九七〇年四月 徳島県立城北高校に入学。
当時、世界的に流行していたフォーク・ソングに魅せられ、受験勉強はそっちのけで、フォーク三昧の生活を送りました。特にPP&Mと言うアメリカ合衆国の人気フォークバンドのテクニックに傾倒し、ギター、バンジョー、ベースなどを夢中になって演奏していました。ヤマハが主催していた軽音楽コンテストなどに出た事もあり、楽しい時を過ごしていたように思います。若い頃の中では高校時代が私のピークだったような気がします。
一九七三年四月 京都の私立龍谷大学法学部法律学科に入学 法曹関係の事に興味を持っていました。
一九七五年一〇月 この時二十歳でしたが、手足の動作に異変を感じ、徳島大学病院内科に入院して、精密検査を受けました。検査の結果、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、二~三年くらいの余命だと断定されましたが、この宣告は両親だけになされ、両親は絶望感で一杯だったようです。両親は私に気付かれないように隠していました。ある偶然から私が知ったのは四年後でした。
一九七五年一一月 歩くのが不便になり、大学を諦めて徳島に戻りました。
一九七六年~一九七九年 一切自宅から出ず、無為徒食の堕落した生活をしていました。今から考えると、一番勿体ない時間を過ごしました。命のタイム・リミットは過ぎていたし、いつ寿命が終わってもおかしくないと言う気持ちが私の精神的な全てを支配していました。
一九七九~一九八四年 日本テレビが放映していた「愛は地球を救う」に影響され、(外に出なければならない)と感じて、「車イス友の会』に入会して、障がい者活動を始めるようになりました。24~25歳ぐらいでした。その間も、肢体は緩慢に衰えていきました。それでも障害者やボランティアの親しい友人も出来、これは今ではあまり言わない事ですが、私は元々アルコールが好きだったので、車いすに乗って繁華街を闊歩?していたものでした。しかし頭からはいつも「死」の一文字が離れませんでした。
一九八四年五月 自宅療養中に褥瘡(床ずれ)が出来、肺に穴が空く自然気胸を起こし、体力がなくなった事もあって徳島市内の民間病院に入院して治療を受ける事となりました。入院中にその病院の医師に、「筋萎縮性側索硬化症ではないかも知れない。」と言われ、CTやその他の検査の結果、首の中に大きな脊髄腫瘍が見つかり、この時点で徳大の誤診であったことが判明しました。
一九八五年一月 急がなければならないので、急きょ徳島大学病院整形外科に移り、脊髄腫瘍の摘出手術を受けました。ところが手術の時期が遅かったために全身麻痺と人工呼吸器装着の後遺症が残ってしまいました。入院してからは何をするでもなく、病室の天井を眺めるか、テレビやラジオや新聞だけの生活をしていました。母には付きっきりで、何から何まで面倒を見て貰いました。それでも、人工 呼吸器から離脱出来ることに夢を託し、毎日、毎日努力して、呼吸訓練を続けました。しかし、その希望は見事に消え去り、全てのやる気は失せてしまいました。人工呼吸器を着けてから、七年間は声を失ったままでした。自分の意志を伝えることすら出来なくなりました。当然の事ながら、訪れる人がある筈もありません。
一九九一年一月 誤診の事で病院や医師とも話し合いましたが、解決は見込めないと判断して、徳島地裁に損害賠償請求訴訟を提起しました。そして長い裁判が始まりました。私のライフ・ワークのつもりでした。
一九九一年一一月 Sさんが私のために介護に着いてくれるようになりました。それまでの介護者はなかなか居着いてくれる人はなく、親身になって介護してくれる人もあまりありませんでした。他人とは、そんなに暖かいものではない事を充分に知りました。それに比べて、家族の温もりを重々感じていました。声が出ない事イコール精神レベルが低いとして扱われるのです。一般の人は元より、医療者の中にもそんな人がいるのです。しかしそれを否定する事すら不可能なのです。私は普通だ、とも訴えられないのです。医師や看護師にしても、私の頭越しに介護者と話す人も結構多かったです。それはそれは屈辱でした。私はあまりものを考えるほうではない性格ですが、それでも私のような者は、人間ですらないのかと随分考えさせられたものでした。 面白いものですね。こんな私でも考える時間は十二分に与えられているのですから…Sさんは、そんな私でも家族のように接してくれました。そして外出や外泊でも車いすを押して、私の気晴らしに付き合ってくれています。
どうしても声が欲しいと思っている頃に、主治医が探してくれて、特殊な発声装置を手に入れる事が出来ました。この装置で声を出すためには、喉から血の出るほど努力が要るし、相性もあるのですが、嵯峨山さんの協力を得て、運良く失っていた声を取り戻せました。この時の喜びは、のちにイエス様に出会った時の喜びに匹敵するほどの幸福でした。人とコミニュケーションの取れる事の大事さをつくづく感じました。これで、誰とでも対等に会話が出来るようになったと思ったものです。ただ実際の声と違って人工的な声なので、今でも讃美歌は歌えません。
一九九四年頃 パソコンで聖書が読める事を知って、早速飛び付きました。まだ、この時には聖書を一つの読み物としか捉えていなかったので、なかなか面白い本やなと思う程度でした。この頃より、同時期に内科に入院していた重い病気の夫君を介護している女性(以後、実名を出します。)OSさんと知り合い、たまたま彼女がクリスチャンであると分かり、車いすで入れる教会を紹介して貰いました。殆どの教会が車いすでは入れなかったようです。一年に三~四回自宅に泊まり、教会の礼拝に出席する事にしました。聖書に触れた事と、嵯峨山さんの介護によって、荒れに荒れていた心が平穏に戻って来るのを感じ始めました。訪ねてくれる人も徐々に増えて来ました。
一九九六年六月 古い友人のIMさんがだいぶ前からクリスチャンだったと知って、徳島聖書キリスト集会を紹介してくれました。まず、YTさんが訪ねてくれました。最初は私がインターネット(当時は パソコン通信と言っていました。)をしたくても、病院が許可をくれなくて困っていたので石川光子さんが吉村さんにどうにかならないかと相談してくれた事から交流が始まりました。その時にはどうしても願いは叶わなかったのですが、一三年後に病院の方針で実現する事になりました。Yさんは教員を辞して、独立伝道者になっていました。そして集会員の人たちが頻回に訪ねてくれるようになって、キリスト教の事を教えてくれました。そうこうしている内に、聖書が神様の書いた書物だといつの間にか信じられるようになっていました。イエス様にすがっていれば、間違いなく私は生きて行けるとの確信が得られました。この事は不思議な出来事でしたが、神様は何につけても不思議な事をなさると知りました。
わりと早くから、私は楽譜を入力出来るパソコンソフトを使っていたので、Yさんとの会話の中で讃美歌の伴奏を作ったらどうかとの示唆を受けました。礼拝や家庭集会で使っていた讃美歌本は七冊ほどだったので、それだけは何年かかっても全部仕上げようと決心しました。当時まだパソコンを持っていた人は数えるほどだったのですが、もし讃美歌データを使う人がいなくても、完成させるつもりでした。その七冊分のデータは二〇〇二年に終了しました。その後も体力と意欲の余力が残っていたので、もっとデータ化しようと思いました。ノルマは作りたくなかったのですが、それがいつの間にか、今まで一四年間続いています。今振り返ってみると、五四冊分、九四〇〇曲を超えているのには、私が一番驚いています。何をしても長く続かない私のした事ではなく、私の背後で働いておられる神様がなされた事としか思えません。私は楽しい仕事を与えられて、神様のお手伝いをしただけの事です。良い思いをさせて頂きました。こうして神様は思いがけない事をなさる証明になっていると思います。そして私に気力を与えて、まだ続けようと思わせています。この讃美歌データの著作権は私にはないので、有料で配布は出来ませんから、口コミで必要とされた方には、一六五人ほどにCD―ROMにして配られています。欲しいと思われる方には、いつでも送る事が出来ます。
一九九八年三月 KKさんの提案によって、第四主日の午後に病室での集会(つゆくさ集会、徳島聖書キリスト集会の移動集会)を始めました。個室にしてはゆったりしているので、一五人くらい集まった事もあります。この集会は、キリスト教に触れた事のない人や、これからキリスト教を知りたい人でも、自由に出入りしています。礼拝や他の集会に出られない私にとっては、信仰の拠り所になっていますし、新しい友達と知り合う場にもなっています。自由に集会を開かせてくれている病院には大きな感謝の気持ちを持っています。この病室は多くの人が集まり、伝道や学びの場となっています。これは以前の事を思うと嬉しい形になりました。
一九九九年~二〇〇八年 四回連続で無教会四国集会(一回は全国集会)に参加出来ました。毎回証しをさせて貰いましたが参加する度にキリストが理解出来て、友も増えて信仰もしっかりしてきたように思います。毎回Sさんと母の介護のお陰で出席出来ていたのですが、いつも酸素ボンベ三本とエアコンプレッサーを会場に持ち込むのが大変でした。そして二〇〇八年を最後にしました。
二〇〇〇年一月 胆嚢の内視鏡手術の後に、一時心臓が止まって意識がなくなりました。その短い間に臨死体験をしました。オレンジ色の光に包まれました。それはキリストであったと信じています。そして天国が存在する事を知りました。私は臨死体験というものを信じていませんでしたが、本当にあるのです。
二〇〇一年一月 少しさかのぼりますが、一〇年かかった民事裁判が終わりました。徳島地裁、高松高裁、最高裁の三審とも同じ一部勝訴となりました。何故一部かと言うと次のような理由がありました。私が提訴した当時は、医療過誤を専門にしている弁護士が殆どいませんでした。医療過誤が一般にはまだ認知されていなかったからです。私の場合も、代理人になってくれる弁護士を探すのに手間取りました。徳大と利害関係があるという理由で徳島の弁護士に引き受けて貰えなかったので、広島の専門弁護士に依頼しました。結果的にその弁護士に頼んで良い結果になりました。提訴が遅くなったために、民法訴訟法の時効に引っ掛かって、一部勝訴となったのでした。勝訴敗訴も勿論大事なのですが、クリスチャンになっていたお陰で、あれだけ憎しみに満ちていた医師に対して恨みが消えていました。赦すとかの気持ちではなく、その医師の事が、どうでもよくなったのです。そんな気持ちになっていなかったら、今のような平安ではいられなかったと思います。でも家族の誰でもなく、私で良かったと本心そう思っています。私の両親はまだ憎しみから抜けられない様子ですが、私自身がそんな気持ちになれたのだから、それはそれで良いかな、と思っています。私の受けた被害は今更取り返しがつかない事ですから、これ以上書く必要はありません。
二〇〇九年一〇月 病院の再開発に伴って、私の居る東病棟の隣に西病棟が立ちました。それが東病棟にも良い影響を与えて、かつてから願っていたインターネット環境が格段に良くなりました。望んでいた以上のものが得られました。
二〇〇九年一一月 偶然の検査によって、腫瘍マーカーが異常に高いのが分かりました。それ以上の検査をしてないので私にもよく分かりませんが、腫瘍があるのは、肺、食道、喉頭、咽頭のどこかだそうです。今は目に見える症状は出ていませんが、体の中で何かが成長しているかも知れません。その事については、私自身あまり関心がありません。
二〇一〇年三月 Yさん、Kさん、Tさんの薦めがあって、スカイプ(インターネットを利用した無料テレビ電話)をパソコンに導入しました。二〇〇四年から始まったサービスで、世界中のたくさんの人が利用しています。それを使って、県内のあちこちで開かれている徳島聖書キリスト集会に属する場所に行かなくても、リアルタイムで参加出来ます。ベッドの上に居ながらにして聖書が学べます。スカイプによって、五月には四国集会の全ての日程に出られました。全国から集まった人たちとも挨拶をかわす事が出来ました。三月以降、四〇回を超えてスカイプ集会が開かれました。パソコンの前に居るだけなので、今後参加者も増える事でしょう。パソコンも有効に使えば、こんな事も出来る証拠になります。
現在のこと スカイプで多くの集会に参加してみて、自分の信仰が小さな花を咲かせ始めているのを実感しています。たまに体の小さな故障も起こりますが、普段の生活が続く事、つまり神様の与えて下さった仕事を進められるよう願っています。いつも平安で居たいと思います。訪ねてくれるクリスチャンの友を大事にして、付き合って貰おうと思っています。
今後のこと ガンの事は気にせずに、そんな中でも今ある時間を大切にしたいです。どんな出来事が起きても 動揺しない強さをイエス様から頂きたいと心より願っています。静かにまた子供の頃と同じく目立たぬよう、信仰によって生きて行けたら、この上ない幸せです・…。平安、平安。
最近、感じていること―新しい病いを得て KY
この頃、ずっと考えていることです。去年の終わりから、いろんな人に言っているので、もう聞き飽きたぞ、やめとけ、と言われる方もいるかも知れせん。でも、私は書きます。証しをしたくてしょうがないことなので、それを恐れず「ともしび」に載せられるのを期待して原稿とさせて頂きます。私のことを知っている人には今更なにを、と言われるかも分かりません。私を知らない人には自己紹介とします。
私は三五年くらい前(二〇歳の時)から、たくさんの病気を抱えて来ました。一番大きなものは、脊髄の腫瘍です。その後遺症で全身麻痺となり、人工呼吸器に頼る身となりました。入院生活も二五年を超えました。初めの頃は心も穏やかではありませんでした。呼吸も出来ない者が人間として生きて居てもいいのだろうか?将来の希望があるはずもなく、いつも荒れていました。しかし、長い歴史の後、現在ではキリスト教信仰を持つことができ比較的安定した生活を過ごしています。
ところが、昨年の一一月頃にもう一つ違った病気を持つこととなりました。どうやら肺ガンらしいです。
詳しい検査をして治療をしたらどうかと主治医から薦められました。しかし、私は精密検査も、その結果による治療も受けないことにしました。人間には自分の病気のことを詳しく知る権利があります。逆に知らされないという希望を通してもいいのではないかと思うようになりました。普段健康でいる人ならガンを宣告されると、性格によって違うでしょうが、中には絶望を感じるかも知れません。また、反対に病気と闘おうとして、治療に積極的になる人もいるかも分かりません。私はそのどちらでもありません。
私はその時思いました。天の御国に近づいたと…神様が招いて下さっていると…神様に近づけるチャンスだと思えました。イエス様にお任せすることが私にとっては一番良いのだと今思えます。嬉しくなりました。私の最も力づけられる御言葉に、「マタイによる福音書六章三四節」に「思い煩うな」とあります。イエス様の元に行くこと、すなわちそれが「喜んでいなさい」と言われるイエス様にお応えする道ではないかと確信に近い思いを得ました。全てを大いなるお方にお委ねするのが、私たちの最高の幸いなのではないでしょうか。そこから「喜び」が生まれるのだと思っています。私がこの証しで一番言うべきところです。
病気が一つ増えることによって、考えることも多くなります。そうして、「死」に対して準備と覚悟が生じて来ます。神が私に近くなり、また私も神に近く感じられるようになる、これが最近、私が得た結論であり、今伝えることの出来る証しです。
もし私のことを祈って頂けるなら、「癒して下さい」ではなく「なすがままに、なりますように」また「御心が成りますように」と、是非お祈り下さい。私は死に対して願望がある訳ではありません。ただ天の国に行きたいだけなのです。そして皆さん、一緒に御国を目指しませんか。
わたしの死後のことを考えてみました KY
少し重い内容のことを書きます。皆さんは自身が召された後のことを考えたことがおありでしょうか。死後と言っても死んだ後に自分がどこに行くか?とか、生まれ変わりがどうこうと言う話ではありません。私たちクリスチャンは天の御国に行って完全な形になるのは決められています。私が問いかけているのは、死の直後に自分がどうしたいか?またどうされたいか?のことです。つまり残された人たち(家族や友人)に何を伝えたいか、です。遺書とはちょっと違うものです。
私は今五五歳です。普通であれば、まだ死を考えるのは早いのかも知れません。でも年齢に関係なく死は誰にでも必ず訪れるものです。年齢順になるとは限りません。なおのこと私は重度の障害や幾つかの病気を持っています。そのために以前から私と関係を持つ人たちに何らか形で文章にして残しておく必要があると思っていました。家族に心の負担を与えないためです。とは言っても、自分の死を考えたり書いたりするのは気が重いし、なかなか死を実感出来ないものです。延ばし延ばしにしてきました。そんなことでは、いつまでたってもけじめが付かないので、決心して、この度文書にすることにしました。クリスチャンにとっては、死は希望だと思えるようになったこともあります。
具体的に何を書いたかと言うと、まず最初に私が死んだ時の葬儀のことです。本当は葬儀をしてもしなくても私自身はどちらでもいいのですが、家族がいる以上はそうもいかないでしょう。誰に式を取り仕切って貰うかです。その人とは、口頭では約束が出来ています。勿論キリスト教の様式に則ってします。私の場合、配偶者はいないし子孫もいないので、キリスト教式で行っても問題は起こらないと思います。そして讃美歌を選びました。その際の讃美伴奏は、願えるものなら私の作ったパソコンデータを使ってもらおうと思います。骨をどうするか(分骨や散骨は法律の許す範囲内でする)は家族の自由です。キリスト教霊園に入ることも決めてあります。後のこまごまとしたことは司式をする人に任せる、ということ等を簡潔にまとめました。出来るだけ簡素な式にしたいからです。
次に死の前後のことです。これは大事です。何らかの理由で脳死になったり、意識がなくなって自己判断が出来なくなった時には、人工呼吸器は必ず速やかに取り外します。これは私が希望する絶対条件です。胃瘻(いろう)や点滴や人工栄養などの延命措置は避けてもらうこととします。脳死の時の臓器提供の意志も大切なことです。私は今は脳死を人の死と認めませんから、臓器提供をするつもりはありません、しかし誰か生きることに困っている他人を救おうとして、私の家族の一人でも提供を望んだ場合はその意見に従って貰いたいです。これは最近、臓器移植法が改正になって、本人の意志が文書に残っていなければ、家族の意志で提供が出来るようになったのと関係します。私が自分自身の意志を表明していないと、家族が混乱すると思うからです。臓器提供については私の考えとして、どうしても拒否する強い気持ちはありません。これは私に限ってのことです。他の人には違う意見があってもそれは当たり前です。現在死亡する人の中で脳死になるのは、全体の一%くらいだそうなので恐らく私がそうなる可能性は少ないです。
こんな感じで私は書き残しておきました。これは単なる希望であって、必ずしもその通りにならなくても何の差し支えもありません。ただ文書にしておいたほうが、後に残される人が楽だろうと思っただけのことです。私の家族や私の近くにいるクリスチャンの友が、かつて私が存在したことを覚えていてくれればそれで充分です。
二〇一〇年八月
ISさんとの、くすしき出会い KY
先日、新しい出会いがありました。初対面でしたが、ISさんという、クリスチャンであり、病の友が出来たのです。きっかけは、海陽集会に参加しているKEさん(YTさんの教員時代の同僚)が私の事を紹介してくれたのです。Kさんは、以前讃美歌データCDのことで、一度病室まで来てくれたことがありました。するとIさんが嬉しいことに、私と会いたいと思ってくれたのです。
そして、Iさんが七月十日の土曜日の集会に部分参加して、その合間を縫ってYさんがIさんをここ(徳島大学病院整形外科病室)まで送ってくれました。そして一時間後に迎えに来ることになっていました。
私はIさんのことを何も聞いてなかったので、Yさんが自身の友達を連れて来てくれたのだと思っていました。
その日はYさんは祈祷会だったので集会所に戻りその後Iさんと二人で話すこととなりました。私は話し下手だし、相手が女性なので、会話が続くかどうか心配していました。ところが、そんな心配は吹き飛んでしまいました。話している内に、お互いにクリスチャンであり、病の中(Iさんは食道ガンで私は肺ガン)にあることを知って話しは盛り上がりました。クリスチャン同士の魂の触れ合いが現れました。こういう言い方をするとIさんに失礼かも知れませんが、初めて見た時に、弱々しく感じたのはその病気のためだったのだと納得しました。I藤さんは口から食べられなくなった時のために、胃瘻(いろうと読む・皮膚から胃に穴を開けて、そこからチューブで栄養食を与える)を造っているそうです。Yさんが「話している途中で調子が悪くなったら、私の携帯に掛けて呼び出して欲しい」と言っていたほどでした。私たち二人とも自分の信仰のことを話している内に段々と共通点も見えてきました。クリスチャンであることと病者同士であるので、理解し合えるのは当たり前です。Iさんは抗ガン剤はしないと決めているし、私も検査・治療もしないことにしています。驚いたのは、私のところに来るまで徳島聖書キリスト集会の集会所で横になっていたと言うのです。そこまで努力をして私に会いに来てくれたと聞いて有り難さが湧いてこない訳がありません。ましてや二日後に入院する予定があると聞きました。Iさんは自分では信仰がないと言われましたが、そうではなくてキリスト教信仰から来る謙遜さと優しさを備えている女性でした。何度も私が疲れていないかと気遣いを見せてくれました。病者が病者に対して励ましと慰めを与え合うことを感じました。
Yさんが戻って来るまでに出来ることを済ませておこうと思いました。「声を出すのは辛くないですか?」と訊ねたところ、「少し出しにくいけれど、大丈夫です。」とのことだったので、「讃美と祈りをしませんか?」と提案しました。同意をしてくれたので、まず私が新聖歌 二四八番
「人生の海の嵐に」を選びました。私の声は歌を歌うのに適さない声ですが、この時はわりと良く出たように思います。Iさんも大きな声が出ていました。次にIさんが、二八六番 「心くじけて」を選びました。この讃美は音域も広くて難しい曲ですが、とても励まされる讃美歌です。その後、もう二曲、合計四曲讃美しました。まだ歌う余裕はお互いにありそうでした。お祈りをしたのですが、やはり二人とも重い病気を持っているだけあって、祈りも似てくるものだと妙に感心しました。なぜか私もIさんに励まされているな、と思いました。わざわざ休みを取りながら、ここまで来てくれた意義が感じられました。
そうこうしている内に、Yさんが迎えに来てくれました。Iさんも私も、最初よりは確実に強められていました。まだまだ話すべきことはあったのですが、時間の制限があったので、最後に「どちらが先になるかは分かりませんが、お互いに御国を目指しましょう」と約束して別れました。
後から考えてみて、あの出会いは主が私たちに与えてくれた大きな大きなプレゼントだったように思えます。普通だったらあり得ないようなチャンスを神様が造ってくれた特別な出会いだったのです。神様が私たちのためを思って下さった事柄は、必然であり、ご計画の中にあったものだと信じます。この神様のご計らいを「ともしび」の読者の皆さまに紹介し、伝えない訳にはいきません。
神様の心であれば、今後とも交流は続くものと思います。
再会することがあるかどうかは、神様にしか分かりません。
それは神様の手の内にあります。でも今はEメールという便利なものがあります。
今回の嬉しい出来事を文章に残すことを促して下さった神様と、「ともしび」に投稿をさせて頂いた事に感謝すると共に、読んで下さった方々にも、この証しが用いられることを願っています。そして、文章にすることを許してくれたISさんにも有り難く思っています。 感謝、感謝。
彼にあなたの導きを
KY
主の御名を讃美し、主の御名が崇めれますように。
先日のISさんのことに続いて、嬉しくて面白い出来事がありました。
神様の大きな愛と深い憐れみを感じたことでした。
私には三〇年くらいの長い付き合いの友人がいます。私がまだ車いすに乗っている頃に『車イス友の会』というサークルに入っていて、彼がボランティアとして入会して来ました。
Kさんという人ですが、私と同じ歳です。大学を出てからずっと徳島市社会福祉協議会に勤めています。福祉関係の仕事をしているために、ボランティアになったんだと思います。私にはボランティアや障害者仲間と、プライベートな友達も結構いました。
しかし二六年前に脊髄の手術のため入院すると、ほとんどの友人たちは、離れていきました。入院して最初の七年間は、私が声が出せないために、訪ねてくれる人は年に一人か二人程度でした。私が発声出来ない生活を続けていたし、意志も伝達するすべもない、希望も持てない状況の中で流れに委せるしかなかったからです。天井を眺めているか、テレビを見るぐらいで、漫然とした毎日が過ぎて行きました。あの頃は正に拷問に近い状態でした。
七年後に喉に特殊な装置を着けて声を出す練習を始めました。
喉から血の出るような訓練をして、やっと声を取り戻しました。それにはSさんの協力が大きかったです。その時の喜びはこの世で味わったどんなことより大きく、後に経験するイエス様との出会いに匹敵するものでした。
でもKさんは、私が入院してからも見捨てることなく訪ね続けてくれていました。 それは奥さんも『車イス友の会』のボランティアだったこともあります。
Kさんと奥さんが交際している時から、私は見守っていました。
そんな私をKさんはCDを持参したりして再々来てくれました。私を慰めたり、励ましたり、という仰々しいことでもなかったです。
Kさんは、音楽やパソコンに関してはプロフェッショナル並みで、私の師匠でした。
特にクラシックは詳しく教えてくれました。
いつも沢山のCDを聴かせてくれました。クラシックが苦手だった私が、クラシックを好きになるきっかけでした。
私は、フォーク・ソングやカントリー系なので、そのジャンルは私がかなり影響を与えました。 声が出るようになってからは、来てくれる度に音楽の話しで持ちきりでした。
Kさんが訪ねてくれるのを、心待ちにするようになりました。
そして、昔私が弾いていたヴァイオリン、マンドリン、バンジョー、ベース、ギターなどを、定年後の楽しみにどうかと思って全部持って帰って貰いました。将来に至っても恐らく私が使うことはないだろうし、無駄になるだけと思ったからです。
病気になって大学をやめて徳島に戻り、家にこもりっきりになってしまって、私はクリスチャンになるずっと前から、何故か不思議なことにアメリカのゴスペルやマウンテン・ソングが好きで、LPレコードを五〇〇枚くらい集めていました。
でも今では聴くプレイヤーもないし勿体ないので、小賀さんが一枚ずつCD化してくれていました。 何枚か貯まるごとに届けてくれていました。それをMP3でパソコンに取り込んで、今でも折に触れて聴いています。小賀さんは今の友人の中で、唯一と言えるくらいの、非クリスチャンです。でも私がクリスチャンであることは良く知っていて、一番キリストに近い人ではあります。
最近冗談で、この病室はクリスチャン以外は出入り禁止だ、とか言っていますが、Kさんだけは例外です。話しが長くなりましたが、まだまだ続きます。その親しくしていた小賀さんが今年の二月に脳出血で倒れたのです。職場から自転車で帰り道、もうすぐ自宅にたどり着くところで、左半身が動きにくくなったのです。そのまま自転車ごと倒れて、道路に横になりました。自宅に携帯を掛けたけれども、誰も出なかったそうです。
次に自分で一一九番に通報したところ、その時には既に言語障害が出現していて、消防署の窓口の人はKさんが何を伝えたいのか解ってくれなかったらしい。泥酔者と間違われたんだろうと思ったということです。
Kさんは、この様子では脳がやられた、自分の人生は終わったな、死んで行くんだなと思ったらしいです。自分は死んで行くけど、家族はどうなるんだろう。
残業が続いていたそうで、疲れていたのだろう。 偶然そこを誰かが通り掛かって、異変に気づいてくれた。すぐに一一九番に掛けて救急車を呼んで、自宅にも連絡して、徳島大学病院に運んでくれて、集中治療室に入院することになった。数日間、集中治療室で治療を受けて、一般病棟に移ることが出来ました。手術をすることなく徳大には一二日間入院して、ずっと私に会いたいと思ってくれていたらしく、少し落ち着いた頃に部屋に来てくれました。まだ舌の痺れは残っていたものの、言葉は少し弱かったものの充分に聞き取れるくらいに回復していて、倒れてからのことを詳しく説明してくれました。
その時は、奥さんに押されて車いすに乗っていて、左半身はだらりと萎えていました。私は、これはかなりの後遺症が残って、車いすから離脱するのは難しい、と直感的に思いました。幸運なことに右手が使えたために携帯からメールが時々届きました。
右利きの人は、右半身が使えるのと逆になるのでは全然便利さが違います。
私は発病した時、右から麻痺が始まったので、随分不便な思いをしました。
右手の薬指から動かなくなったので、ギター類が弾けなくなりました。
小賀さんより重度な私が言うのもおかしなことですが、職場も失うだろうと思われる小賀さんに、メールで「早く回復しますように…」としか返信出来ませんでした。
それから間もなく、専門的なリハビリテーションを受けるために、板野郡の稲次整形外科病院に転院して行きました。そこはリハビリテーションに熱心な病院で、一日三時間も訓練に費やすそうです。
もしリハビリテーションを怠けたりすると退院させられるほどの厳しい病院らしいです。 後になって医師から、倒れた時はかなり危険な状態だったと言われたそうです。
五ヶ月経って退院の二日前にメールが来ました。
退院したら必ず私のところに来るとの、強い気持ちを込めたメールでした。
でも、どうやってここまで来るのか心配していました。
まだ続きます。
すると退院した次の日にやって来たのです。
私と同様に、この日を待ち望んでいたのだろうと思いました。 私はビックリしました。
右手で杖をついて、左手にCDの束を持って病室の入り口に立っているのです。私はてっきり車いすに乗って誰かに送って来て貰うとばかり思っていたからです。どうして来たのかと訊ねたら、自分で車を運転して来たと、そして障害者用の駐車場に置いて来たと。
私は驚きと嬉しさで飛び上がりました。
本当にベッドから三〇センチくらいは、飛んだような気がしました。
Kさん自身の努力の結果もさることながら、何かKさんという人間を超越した存在が私の願っていた奇蹟のようなことを起こしたとすぐに感じました。
私はクリスチャンですから、私の信じる神様がクリスチャンではない小賀さんをも、私の願いを通して憐れんで下さったことが解りました。
こういうことがあるのかは、私には想像もつきませんが、神様の愛はまだクリスチャンになっていない人にも及ぶのだと気付きました。 こんな体験は初めてであって、神様は何者かを通じてその働きと導きをされる、真実なお方だと強く信じることが出来ました。こうすることによって神様はご自身の偉大さを示し、私の信仰が成長することを助け、イエス様にすがろうとする心を強めて行くのだと思います。
もしKさんが神様に救われたことを知ることが出来たら私はもう望むことはありません。
Kさんがしきりに言っていたのは、この病気になって感謝する気持ちが強くなったと。
その感謝の対象は神のようなものであり、リハビリテーションのスタッフであり、家族であり、つまるところ全てのものだと切実に思うと言っていました。
そして私がもう一つ驚かされたのは、八月から職場に復帰すると聞いた時でした。 残業もすることなく、ゆっくりと仕事に戻ると言っていました。
Kさんは障がい者にはなったけれど、失ったものは最小限で済んだのです。
あの時もし命を無くしていたら、私はかけがえのない友を失うことになっていたと考えると、背筋がゾッとするし、命を復活させた神様の力を思わずにはいられません。
Kさんは神様を知ることもなく、知らず知らずの内に、Kさん自身の意志とは関係なく、大自然に身を委ねることに依って、今の結果を得たのだと思います。
たぶんKさんは、自分を神様に委ねるというような概念は持っていないでしょうが、つまりそれを知らずに実践したのです。
Kさんが意識しないところで、イエス様の腕の中にあったのだと、今私は心から信じられます。
次で終わりです。
最後にKさん自身が語っていた不思議なエピソードがあります。
去年の終わり頃から、何故かキリスト教音楽が聴きたくなって、CDを買い集めるようになったんだそうです。
受難曲、レクイエム、ミサ曲などです。
クリスチャンである私でもよく知らないような音楽を聴いていたそうです。
この間持ってきてくれたCDも、「マタイの受難曲」数枚でした。
そんな気持ちがどこから来たのか本人でも分からないと言います。
私は神様の啓示を信じる者ですから、それがKさんに与えられた神の啓示だと思います。Kさんに対して、大御神、イエス・キリスト、聖霊様からの示唆だったら良いのに、と思っています。
私たちは、自分自身の力で生きているのではなく、三位一体の神から命を頂いていて、そして生かされていることは、今の小賀さんであれば良く理解出来るのではないか、と思います。 先にも書いたように、私のクリスチャン以外の友人の中では一番キリストに近いところに居ます。
私は方向が分かりませんが、Kさんの住まいは吉野町ですから、田宮集会所にわりと近いのでは、と思います。まず、つゆくさ集会にでも参加してくれれば最高です。
そんなこんなで、今そんな夢を抱いています。 でもそれは、Kさんの考えもあるし、神様がどうなさるかに依るし、私の意見でどうなるものではありません。
信仰とは、人生を左右する重大事ですもんね。
イエス様がKさんの左の手足になって下さり、今後人生の友として一緒に歩んでくれればいいな、とね…。
理解されることよりも、理解することを 東京 KT
謙虚になりたいと思う。思うばかりで、高慢な自分に嫌気がさす毎日だが、是非、謙虚になりたい。稲穂は豊かに実るほど頭を垂れるという。神様の霊を受ければ受けるほど心は低くなるのだろう。石の心を打ち砕いてほしい。
気が付いたことがひとつある。高慢になるのは人を理解できないときだということ。人と話していて相手が何を考えているのかわからない時がある。事務的なことですら、意思の疎通ができないと相手が勘違いしていると思い込み、とりあえずこちらの話をわからせようとしてしまう。理解されることのみを要求する。
参ってしまうのは、伝道したいと思うときに、同じ過ちを犯すことだ。神様の素晴らしさ、美しいばかりの正しさ、愛、頼って裏切られる心配のない方だということを伝えたいと思う。しかし、私がこう思うとき、自分の信じているものを理解してほしいという思いがある。精一杯話した後、相手から「キリスト教の信仰であなたが心の安定を保てるなら、それはそれで悪くないと思う。」というような返事が返ってくると私は孤独感に襲われる。この感情は、理解されたいという欲求が満たされないから起きるのだろう。このとき私は、人を理解することよりも自分が理解されることのほうを望んでいるのだ。むしろ、相手のほうこそ私の自尊心を傷つけないように、宗教への批判を抑えて理解しようと努めてくれたのだ。
もっと人を理解する努力ができるようになりたい。自分の考えを伝えることより先に、相手の話に耳を傾けたい。人の悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、そしてまた喜びに、ぴったりと寄り添ってくださるのがイエス様なら、私もその後に従いたい。
神の思いと人の思いについて
松山 MK
このところ、自分の思いが罪だらけの気がして、神の思いは全く逆なのではないかと感じてならない。
人を赦し、隣人を愛することの難しさ。頭では相手を嫌ったり憎んだりしてはならないことを百も承知なのに、心のどこかに浮かんでくる罪の深さに、神様はあきれておられることだろう。
神様はそのような小さな私に、たくさんの愛と恵みを与えて下さっているのに、かたくなに人を赦せない私の心を見抜かれ試練をくださっている。神様の思いは、人間には計り知れないお考えがあり、一人一人にそれぞれの愛と恵みと試練を注いでくださっているのではないだろうか。
「いのちの水」誌を読ませていただく度に、敵だと思う人の為に祈る事の大切さを知ると同時にその難しさを知る。人を見るのではなく、神を見上げ、その人の背後にいる悪が滅びるように願って祈らねばならない。人知では計り知れない神の思いを、後になって知らされる時、「自分の罪を赦してください」と祈り、感謝するしかありません。
先日の日曜礼拝で、マタイによる福音書の「十人の乙女のたとえ」のお話しを聞かせていただき、信仰の厳しさを改めて感じると同時に、神と人との一対一の信仰であるから、世の終わりの時にいつも目を覚ましていなければ誰も助けてくれない、また、助けてあげることができない事を知った。その日、家族に話すと娘が「油を分けてあげられないのはどうしてなのか、ずっと疑問に思っていた。」と言ったので娘の信仰も神様から与えられていることを感じ、不思議な気がした。
信仰の弱い私は、これからも神の思いが理解できなくて、たくさんの罪を犯し、人の思いに惑わされ、回り道をしてしまうかもしれないが、神の思いを第一義とし、真実の信仰者に支えられ、いつも目を覚まして神の栄光の輝きを見させていただけるように、生かされたいと願っている。
信仰を抱いて御国へ 静岡 NM
「信仰によってアベルは‥‥、信仰によってアブラハムは…、信仰によってモーセは‥‥。」旧約聖書に登場する主要人物が、新約聖書のヘブライ人への手紙にこのような書き出しで紹介されている。これらの人物は、神の目からすれば、決して完全な人物ではありませんでしたが、皆、神様を仰ぎつつ生き抜いた人として称えられている。
私の目の前におられたIS様も、これら旧約聖書に登場する人々の中に名を連ねる人である、と私自身思っている。
I様は今年四月二四日、九三歳の生涯を終え御国へ旅立たれた。清水聖書集会を始められた人で、長年集会の代表であられた。近隣無教会集会との交わりのみならず、市内教会との交わりも積極的にされ、無教会、教会の方々から篤い人望を寄せられていた。
私にとってのI様をひと言で言えば、「謙虚な人」に尽きる。本当に心が低い方であられた。私との交わりは、三七年間であった。信仰の道を歩み始めて間もない当時の私は I様との交わりの中で理解できないことがありました。と言いますのも、「主にあって敬愛する‥」の手紙や「主がもし許されるなら‥」の言葉が、どことなくしっくりしなかった。奥ゆかしいというのか、どこか主体性が乏しく、無責任のように感じられた。しかし、これも「信仰による」キリスト者ならではの表明である、と理解できたのは、しばらくの時間が必要であった。本物のキリスト者とは、全てが神様によって生活が成り立つこと、また、人との交わりもその間に必ず神様が介在していることを教えられた。全て神様中心で、神様の御恵み、愛の中で生かされ、その囲いから一歩も踏み出すことなく歩まれました。神様から絶えず小さき者、弱き者であることを示され、どこまでも低い姿勢を貫かれた生涯でした。
「謙虚な人」と思われるI様のもう一つの表れは、平和に対する態度でありました。長年の戦争体験により戦争の悲惨さ、罪深さが体に滲みついた人であった故、神様から自身の罪を赦された者の神様への感謝、絶対的信頼、服従があられたように思う。人間の思う平和、人間の考える平和理論、戦略ではなく、理屈を超越した平和であり、神様からいただいた平和であります。ですから、私には、本当に心から平和の人として映りました。 平和熱心なキリスト者が、私の周囲にも多くいますが、平和を口にしながらも一方で自らの口から非平和的な言葉を発する人、怒りやすい人をかなり多く見受けます。最近、特にそのことを強く感じてなりません。何故でしょうか。自分と比較して、平和に熱心でない他者への苛立ちなのか、あるいは自身の熱心さを他者へ誇示したいのでしょうか?
キリスト者の平和は、「信仰によって」神様から与えられる賜物です。熱心さを他のキリスト者と比較するのではなく、あくまでも神様との関係が平和であることです。そのことがなければ、他者との平和はもちろんのこと、地域社会、国の平和はありえません。キリスト者が平和の人であるか否かは、神様とその人の関係が平和であるか否かを示すことに他なりません。
I様は、この世において平和への取り組みを熱心にされました。
韓国・台湾へ侵略戦争謝罪の訪問、軍事費分納税拒否裁判への取り組み、沖縄反戦一坪地主の働き等を行いました。忍耐を要し、目に見えるような具体的な成果は殆どなかったことでしょう。しかし、決して慌てず、苛立たず、近くで拝見していても、いつも穏やかな心で居られました。神様によって、信仰によって、独りでコツコツとこの世の平和の取り組みをされていました。ですからいつも心に余裕が、平安が、喜びが見受けられました。
御国へ帰られてしまったI様、この現実に向き合う今の私に示された御言葉があります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」です。神様によって直接自身に示された信仰の道、只一筋の道を脇目も振らず、イエスだけを見つめて御国まで歩むこと、このことを石原様は自身の信仰生活で実践されました。
信仰を抱いて御国へ帰られた人を拝見できたこと、これほど確かな事実はありません。私自身、今後I様により示された「信仰を抱いて御国へ」を目指したいと願っています。
理解と「導き」 香川 MD
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに たよるな。箴言三章五節
Trust the LORD with all your heart and lean not on your own understanding.
PROVERBS 3
以前、「自分の祈りは聞かれているのだろうか?」という少々ゴリヤクめいた疑問を持ったことがある。特に、主に「助けてください」と拠り頼む時にも、「こうしてほしい」とか「こうなったらいい」というような自分の欲が「影」として祈りの最中にも現れているのを感じていた。今もやっぱりそう祈ってしまう。ここで言う自分の「このほうがいい」という考え方は、主の御計画をまったく度外視した、自分の現状の理解においてなされる単なる判断にすぎなく、往々にして、自分の理想や計画であり、そして、その根幹には自分の理想、地位、やプライドを守ろうとする保身から来る場合が多いように感じられる。
つい最近、結婚し、教師という仕事を辞めた。仕事中は、学会に行って論文発表をしたり、生徒を教えたりと忙しくしていた。しかし、この「大学」という自己顕示欲を満足させることに重点を置いている世界に疑問を感じ始めた。そして、日本に導きを感じて妻と二人で帰ってきた。日本にいる兄弟姉妹に会えるという喜びが大きかった。
しかし、いざ日本に帰ったら、自分は日本人なのに日本人扱いされず、就職も無かった。「神様は必ず導いてくださるし、全て自分に必要なものは供えくださっているし与えてくださる」と信じて日々生活した。しかし、それでも自分の中に「これでいいのか?」とか、「失敗だったのでは?」とか、という声が聞こえてくる。自分の理想と今の自分の置かれている現状がかけ離れ、しまいには絶望して「来年になったら大学に帰ろう」とまで思うようになった。そうしたら、現実逃避がすぐに始まった。「日本にいるのはほんの僅かの間だから、主夫をしよう」とか「パートで今の生活を楽しもう」とか思い始めた。仕事探しにも力が湧かず適当にあしらうようになった。そうこうしているうちに、履歴書を出した次の日に、英会話の学校の仕事の面接の電話を受けた。現状からすでに逃避している自分には仕事をする気もなく、また、おっくうだったが一応話を聞くだけ聞いてみようと思って面接の日取りを決めた。面接日の当日、「日本人だから外国人のように給料は出してくれないのではないか」とか、「毎日気楽にやるはずだったのに、仕事が入ると面倒だ」などとぼやきながら準備をしていた。断るつもりで面接に出かけようとして、ふと壁にかけてある聖句に目が行った。冒頭の句である。
その瞬間、全てが吹っ飛んだ。暗闇と重々しい感覚が一掃され、なれあいの雰囲気もなくなり、不安も苦しみも憂鬱もなくなった。そして、自分の罪を知った。キリスト教の語る「罪」とは「的外れな」という意味であるそうだ。英語では、「deviation」に近いと思う。この単語は、統計学でよく使われたりする単語であるが、「基点からの誤差」または「はずれる」という意味がもっともふさわしいかもしれない。僕は初め「主のみこころのままに導いてください」と祈って生活していた 、しかし、やがて「自分の生活はこうでなくてはならない、だから自分のいる現状は意味がないし、またつまらない」というふうにもともと自分の心のあったところから外れてだんだん的外れなことに心囚われてしまっていた。 『みことばを受けて、みこころを信じ』、面接に行った。すると、面接先は自分の思ったものとは全く違って遥か以上に善いものでした。神様は自分の思い煩いを自分以上にご存知で、いつも自分が願った以上の素晴らしいものを与えてくださいます。「自分の祈りは聞かれているのだろうか?」という疑問を冒頭で話した。しかし、自分の「理解*」は常に正しいのだろうか?(*悟りと訳されているが、英語では「understanding:理解」と訳されている。)人間は全てを知っているかのように振る舞っている。自分もそうであったし、今もひょっとするとそうかもしれない。それくらい人間は「それやすい」性質を備えている。聖書はこう書いている。「初めに、神が天と地を創造した。(創世記一章一節)」と。そして、人間が創られてからもう幾世代になるだろうか?幾年月が過ぎ、いったい何人の人々が生まれそして死んでいったのだろうか?聖書は、有史以来、人間は神様に背き続けてきたといっている。始まりから現在に至るまで、無数の人々が、生きとし生ける全ての人々が神様に背いてきた。全ての世代が神様に背を向け続けてきた。しかし、それでも、なお、それでも、神様ははじめから全てのことをお知りになり、ひとり子、主なる神、イエス・キリスト様を我々に与えてくださり、暗闇にある我々の心に光をさんぜんと照らしてくださった。神様は、我々を創る前から全てをご存知であり、愛され、そして、我々を価値在るものとして今も信じておいでになられる。これ以上の愛は無い。これ以上の希望も、他の愛からは生まれない。これ以上の真理も、これ以外の愛からは生まれない。これを信じること以上の信仰も、また無いのである。主よ、どうか共にいて、われわれの右手をとって導いてください。そして、われわれにより一層はっきりと真理とみこころを示してください。
「日本キリスト者医科連盟総会」に参加して KK
大阪で開かれた「日本キリスト者医科連盟総会」という会に八月二十日から二十二日まで参加した。
どんな会かわからなかったし、不安だったけど、思い切って参加したら、思いを超えて、大きな恵みと主にある出会いが与えられた。この会の存在をわたしが知ったのは昨年だったが、この総会はことしで六十二回目ということだった。さまざまな分野で、医療従事者として信仰をもって戦いながら生きている人たちに出会った。それはわたしにとって、大きな恵み、励ましになった。そして、宿泊は四人部屋であり、そこで出会った人たちとは、いつのまにか、心の深いところでつながることができ、大切な友人たちとなった。この出会いもまた、わたしの心の中に、新しい生きた風を吹き込んでくれた。キリストの名前によって集まることはなんてすてきなんだろう。初めて会った人たちが、ともに静まり、祈り、讃美する。そして、それぞれの働きを聞き、痛み、苦しみをわかちあう。同じ医療者としての苦しみと喜びがよくわかる。わたしも自分の悩みを話すことができた。交わりの中にいてくださるキリストによって問題が解決されていくのだと感じた。
この「日本キリスト者医科連盟」を母体として「日本キリスト教海外医療協力会」(今年で発足五十年)が生まれた。貧しい国に行き、医療の支援のために働かれている。今回、その働き場から帰国した人たちの活動報告もなされた。また、実際にホスピスやホームレス支援の現場(釜ヶ崎)の現場に案内してくださるオプションもあり、わたしは炎天下の釜ヶ崎に連れて行ってもらった。焼け付くような路上で生活しながら日雇いの仕事を待っておられる方、同じく焼け付くような路上で支援されている方、実際にこの炎天下で共に厳しい日雇い労働をしながら、労働者の方々を支えているキリスト者の姿を見て、言葉だけではない実践の姿の尊さに感動した。
メッセージから受けた恵み。主の愛を実践する姿から受けた恵み。出会いから受けた恵み。いっぱい恵みを受けた。参加して良かった。
帰ってきた翌日、朝から勤務だった。わたしの置かれた働き場だ。総会で出会った姉妹たちも、きょうもまた、それぞれの病院や地域で働いているのだろう。そう思うとわたしも励まされ力を与えられる。
神様は、痛みと悲しみと、そして喜びと感謝と、いろいろなことを織り交ぜながら、きょうも生きてわたしたちを導いてくださる。必要な出会いを与えてくださる。だから、きょうを感謝しよう。明日に期待しよう。自分がだめでもかまわない。力も愛もないのだけれど、罪あるところに十字架があり、弱いところに働いてくださる主が、きょうも共にいてくださる。だから生かされ、働くことができるのだ。ハレルヤ。
あるキリスト者の定年後の一日 大阪 NY
彼は毎朝四時から五時頃に起きる。目覚し時計は必要ない。六時過ぎになることもあるが、それが彼の一日のスケジュールに支障をきたすわけではない。会社を定年退職して二年余になる。会社に通っている頃は目覚し時計をかけ、五時半に起き六時半に家を出て八時過ぎに会社の自分の席に着くという生活だった。往復に三時間以上という通勤に疲れを覚え、彼は会社を辞める決意をした。少なくとも、あと二年は定年後雇用延長制度で会社での勤めを継続することはできた。彼の先輩の中には、さらにアルバイトという形で週に二日ほど出勤している人もいた。彼は退職を決意するずっと前から退職後の生活を思い描いていた。
一番気になったことは、辞めて労働による収入がなくてもやっていけるかということだった。公的年金のみを主な収入源として、今ある貯金などを寿命の時までもたせることができるのだろうか。一度辞めたら何らかの職につくことは困難だろうと予想された。貯金の取り崩しは不安だった。あまり切り詰めた生活で、たまの小旅行とかもできないのでは辛いことだと思った。
次の問題は自分の一日のスケジュールだった。仕事と通勤のためにかけていた時間がまるまる自由になって、することがなくて時間を持てあましてしまうのではないだろうか。世間では定年後にやることがなくて奥さんの行く所にどこでもついて行って嫌がられるという話もある。彼は趣味の多い方ではなかったが、趣味に頼ることは飽きてしまう危険性があった。
ここまでは世間一般の思考パターンである。多くの人はここで心配になり、もう少し勤め続けて、相手に「辞めてください」「もうこれまでよ」と言われるまで勤める。勤めてもいいと言われている間に自分で辞めることは難しいのだ。でも彼にはイエス様がついていた。イエス様がアイデアをくれた。ボランティアをやればいいではないか。ボランティアにかける時間は自分でも調節できる。彼はイエス様が背中を押してくれたので、不安はあったが、退職後は仕事をしないでやってみることに決心した。
定年退職後二年余を経た今の彼の一日はほぼ一定してきている。朝起きてから彼はまず一人で聖書に向かう。朝一番には、神とイエス様からの語りかけが聞こえるような気がすることが多い。通読表に従って一日一章を読むと、新約は一年で一回、旧約はほぼ二年で一回読み終えることになる。まず新約聖書を黙読し、次いで音読する。そして、その章から感じたことを祈りの中で神とイエス様に告げる。次に旧約を黙読、音読して聖書を閉じる。二十分程度である。家族と犬はまだ眠っている。
その後、半年くらい前から彼は、朝、コーヒーを淹れることにしている。レギュラーコーヒーをろ紙によるドリップで淹れる。香りが広がり、ブラックで飲むと朝のゆったりした気分に浸ることができた。コーヒーを飲みながら彼は小さな音でラジオをかけ、パソコンのスイッチを入れる。インターネットでニュースを見た後、徳島の信仰の姉妹たちが開設しているブログに眼を通す。ブログには礼拝で学んだ内容の解説、日々の出来事あるいは主を讃える素晴らしい詩が書き込まれている。彼はいつの頃からか、そのブログの内容から受けた率直な気持ちをコメントとして記入するようになった。直接話をしなくても姉妹たちと心が通い合うひと時である。主にある信仰の兄弟姉妹は年齢を超えて交わりを持つことができ、昔からの知り合いのように会話ができる。主イエスを介しての心の交わりをもつ幸福を実感している。これからも種々の集会での交わりを通して、心が通う信仰の兄弟姉妹は増えていくものと思う。彼はブログの後、徳島と高槻の聖書キリスト集会のホームページ更新の内容を確認する。
六時半頃、ラジオ体操をして体調を整えた後、朝食にかかる。この頃に家族と犬が起きてくる。掃除、ごみ捨てなどの朝の雑用を済ませてから、彼はその日のスケジュール表を確認する。優先順位の高いものが重ならないように彼は必ず記入することにしている。
日曜日は主日礼拝が最優先だ。通常は午前十時半から始まる。二ヶ月に一度は午後に集会が開かれる。主日礼拝から帰るといつも元気になっているのを彼は感じる。その集会の時に「いのちの水」誌をいただいた時は礼拝から帰ってそれを読んで過ごす。通常は読み終えるまでに二、三日かかる。日曜日の夜は、動物病院を開いている息子夫婦が三匹の犬を連れて夕食に来て、狭い台所は人間と犬で溢れかえる。家族全員が揃う幸せなひと時だ。
ボランティアは、主日礼拝の集会が開かれるお家から近い、ある救護施設に週二回、各半日ほど行っている。一つは、通常三名の施設利用者の方に三名のボランティアが付き添って近くのスーパーまで行き、財布を預かっておいて、利用者の方の買物の費用をレジで清算するものだ。二、三百円のお菓子などの買物の後、全員でコーヒーなどを飲みながら話をする。もう一つは、施設内の食堂で喫茶コーナーを実施する時のお手伝いだ。利用者と職員とボランティアが協力して行う。お客は利用者の方で、五十円か百円で券を買ってもらいコーヒー・ジュースなどとお菓子を券と引き換えに出す。毎回八十名程度の利用があり、多くの利用者の方と顔見知りになる機会となる。彼は一年半程このボランティアをして、最近では利用者の方から声をかけられるようになり、うれしい思いをしている。彼はこの施設の実施するバス旅行に参加したり、かくし芸大会の審査員をしたりして、自分が昔とは変わった人間になったと感じることがある。彼はそれまで人付き合いが良いとは言えない方だった。自分の町内では三十年以上も近所に住みながらご近所同士でゆっくり話をしたこともない人間だった。
月に二回は市の施設で行われる「男の料理教室」に参加する。生徒は定年後の男性ばかりで、いつも定員待ちがあるほど盛況である。二十名くらいが毎回くじでグループに分かれ、レシピの講義を受けた後、分担して四品目くらいの料理を一時間半程度かけて作りそれを昼食としていただく。彼は料理は化学合成実験に似ていると思った。各化学物質(食品材料と調味料)を一定割合に混合し一定時間反応(加熱調理)する。ただし慣れてくると料理の方は勘で適当にできて舌が決め手だということも分かってきた。種々の形の野菜をどのように皮をむいていかに包丁で切るのかも、魚のさばき方等々、実際に料理をしてみてわかるということは多い。料理教室では先生と助手の方が材料を全部準備してくださるが、これらを材料の購入から調理と全部自分ひとりでやるとなると大変だろうなと彼は始めから半分あきらめている。自分たちが作った料理を雑談しながら食べる昼食はいつも楽しくておいしいと思う。それぞれ四十年くらいの間、異なる職業で勤めあげた同年代の名も無い男たちが同じ釜の飯を食っている。過去のことを話すわけではないが境遇が似ているからだろうか話はよくかみ合う。
彼は糖尿病などの持病を抱えていて、月に何回か病院に行く。血液検査により他の病気の兆候も検査してくれるので医者には感謝している。
市立の図書館が歩いて五分ほどの近くにあり、もう三十年以上も利用している。市立の図書館は市内に全部で5ヶ所あり、最近は、インターネットで蔵書のデータベースから検索して予約により取り寄せてもらって借りることも多い。小遣いの額もあり また、本を置くスペースも無くなっていることから、本を新しく購入することは止めてできるだけ図書館にある本を活用するようにしている。しかしキリスト教関係の本では、内村鑑三や矢内原忠雄の著作はかなりあるのだが、黒崎などとなるとまず置いていない。海外のものもほとんど無い。彼はどうしても読みたいときには、長らくためらった挙句にインターネットあるいはキリスト教書店などで購入する。榎本保郎の「旧・新約聖書一日一章」、矢内原忠雄全集などは購入してから何ヶ月もかかってまだ読み終えていない。
時間の余裕ができた時、彼は徳島集会代表の吉村兄の講話をパソコンで聞く。ヨハネ伝・ルカ伝や創世記はCDとなっており、また、夕拝などでの講話は高槻集会の那須兄がホームページに載せてくれたものをダウンロードして聞いている。インターネットではキリスト教放送FEBCが毎日更新されており、I牧師の話や詩編、マタイ伝、各地の牧師の証し等、楽しみに聞いている。これらは時間のある時にこちらのペースで聞けるという利点がある。
彼は徳島のY兄の紹介で、午後三時祈の友に加祷者として入会して二年余になる。会が発行した「祈の友」という冊子に都道府県別に会員の氏名が月曜から土曜日に別けて記載されており、その曜日に午後三時に祈ると全国で同じ人に対する祈りが同時に行われ祈りが強められるという趣旨なんだそうだ。彼は、週六日間、欠かさずその曜日の方々へ一人ずつ、病気が癒され主の平安が与えられるようにと祈っている。しかし、時刻については、自分のスケジュールが優先されて午後三時には一定できないでいる。
彼は本を読んだり話を聞いたりした時に自分が感じたこと、わかったことを忘れてしまわないようにメモにとっている。徳島の集会では年一回、「野の花」「ともしび」という文集を発行している。また、午後三時祈の友会でも冊子を年三回発行している。彼はそれらに書きため ておいた文を寄稿し、さらにもっと長文のものは一般の同人誌に投稿している。
彼は主に賜った自分の肉体を健康に保つため、そして、糖尿病の悪化を防ぐ意味もあって、一日五千歩を自分に課している。ちょっとした買物や用事を作って散歩を兼ねて町の中心部まで万歩計をつけて出かける。
毎日、彼は午後十時前には床につく。床に入り、イエス様と父なる神様に今日一日私たちを守ってくださり、多くの恵みを与えてくださったことを感謝する。その後、眠る前に矢内原全集などを読む。このペースだと彼が召される時までに矢内原全集を一通り読み終えることはできないだろうなと思っている。最近、彼は、神を知ることは限りなく、また 奥深く、飽きることがないと思うようになった。
定年退職後二年余を経過して、退職前に心配していたお金のこと、時間を持て余すことなどは、今のところ、まったく心配ないことが彼にはわかった。
彼はこのように恵まれた老後を送らせてくださる神とイエス様に感謝している。このように穏やかな平安に満ちた日々を送ることができない原因・理由としては、少し想像するだけでも、十指に余るほど思い浮かべることができる。それらのことをまったく経験することなく過ごさせていただいていることには、神の大きな恵みが働いているに違いないと彼は思っている。
短歌―みことばの真実
IM
○人の目と神様の目を意識して
振り子の如き揺れる弱き吾れ
○みことばの真実記す聖書在り
学びの時と平和与えられ
○イエスさま愛一筋に十字架の
苦しみ知りて産まれ給いし
○生涯をベッドで過ごす君のもと
主にある人の見舞いて止まず
○学びたるみことばしかと携えて
訪ねし友に熱く語りぬ
○この闇も主に叫ぶこと祈ること
信じることで光が見える
俳句― 若葉風
IM
○ 若葉風はねし仔牛の背を撫でる
○ やわらかき光吸い込み薮椿
○ 風吹きて新樹の光こぼれ落つ
○ 野苺を摘みつ偲べる古城あと
○ 山藤の静けき家の軒に垂れ
○ あじさいの雨に打たれて青深む
○ 夜明け待ち鷺の降り立つ青田中
○ 闇深く光る蛍を招き寄せ
○ 坂険し青葉の風に押され行く
「素朴な共感」 静岡 MK
私の好きな小説にイギリスの女性作家ウィーダの「フランダースの犬」があります。少年ネロは絵の天才に恵まれながら、貧困と差別という社会の冷酷な現実に踏みしだかれ、酷寒のクリスマスの夜、教会のルーベンスの名画(「キリスト昇架」「キリスト降架」)の下で愛犬パトラッシュと共に天に召されてゆくという物語である。
中学生の頃に初めて読み、涙を流して感動したことを覚えている。その時は少年ネロに感情移入し、ただただネロが可愛そうで涙を流した。
大学生の頃、再びこの小説を読み、ネロを極貧に追い込む社会、ネロの才能を認めているにもかかわらず彼の絵を落選させ金持ちの子の絵を当選させた大人のいやらしさ、彼の才能を認める純真な少女アロアに貧乏であるという理由だけで交際を禁止するお金持ちの父親など、社会や大人の世界に非常な義憤を感じた。それはある部分いまも変わらない。
そして信仰が与えられてから、また再びこの小説を読んで、それまでと違う感情と思索に導かれた。この少年と老犬の不条理な死の意味は何であったのだろうかという思いである。
私のたどり着いた結論は、贖罪の死ではなかったのかという思いである。
彼は、あの時代の人の罪、社会の罪の一部を担って死んでいったのではないかということである。
しかし、一部であるにしろ人間が人の罪、社会の罪を担って死んでゆく、つまり人間に贖罪の死があるとは聖書のどこにも書いてはいない。贖罪の死はイエス・キリストの十字架の死だけである。では、彼ネロの死は無意味な死だったのだろうか?
マルチン・ルーサー・キング牧師もそのような思いに導かれた一人である。一九六三年、非暴力による公民権運動の先頭に立っていたキング牧師の教会が反対派の人物により爆破され、四人の無邪気な少女が亡くなった。このとき、告別の壇に立ったキング牧師はこう言う。
「彼女たちが死んだのは無駄ではない。神は今もなお悪から善を導き出す途を備えておられる。歴史は繰り返し繰り返し、不条理な苦難は贖罪の力を持つことを証明している。この少女たちによって流された血が、この暗闇に満ちた町に新しい光をもたらす贖いの力をもって働くことは確かである。」(*一)
彼マルチン・ルーサーキングは、聖書の根拠を示すことはしないが、彼の信仰によってこう語ったのである。
キング牧師は、この言葉に続けて、「この時がどんなに暗いからといって、私たちは絶望してはならない。また、怨念を抱いたり、暴力をもって報復したいという願いを抱いてはならない」と、黒人たちをなだめた。もしこの時彼が、この少女の死が無意味な死であったと言ったならば、黒人たちは報復へとなだれ込んでゆき、際限なき暴力の連鎖が始まったことであろう。
一方、内村鑑三も同じような信仰を持っていた。彼はこう言う。
「死は犠牲である。同時に贖罪である。何人といえどもおのれ一人のために生き、また、おのれ一人のために死する者はない。人は死して幾分か世の罪をあがない、その犠牲となりて神の祭壇の上に献げらるるのである。(中略)あるいは、家の罪を、あるいは社会の罪を、あるいは国の罪を、あるいは世界の罪を、人は彼の品位いかんによりて担いかつ贖うことが出来るのである」(*二)
内村鑑三も、聖書の根拠を示すことはしないが、彼の信仰によってこう語ったのである。
この二人の贖罪信仰は、神学者からは批判されるであろう。しかし、私はこの二人の信仰に素朴な共感を覚える。
私ごとで恐縮であるが、私の妻が召されるときのあの異常な苦しみ、そしてあの死の意味を考えるとき、妻は私の罪の一部を担って苦しみそして死んでいったのではないかと思え、私は悲しみの回想と共に感謝と安らぎを覚えるのである。
(*一)M・L・キング説教集「私には夢がある」新教出版社 p一一四「第十六番通りバプテスト教会爆破による幼い犠牲者たちへの告別の辞」)(*二)内村鑑三「聖書之研究」一四一号(一九一二年) 「祝すべき死」)
神の愛はすべての人に TR
最近のニュースで子どもの虐待についての事件をよく聞くたび、胸がしめつけられる。とくに、先日起きた大阪での幼児を放置死させた事件については、夜眠れないくらい考えさせられた。私にも二人の良く似た年頃の子どもがいるから余計にショックだった。放置死させてしまった母親の気持ちを理解できないと言う人がたくさんいると思うが、まわりの環境、本当に孤独な中の育児によるノイローゼなど人ごとでは決してないことだと思った。
私も0歳と3歳の育児生活の中で、ほとんど毎日霊肉共に落ち着きがなく、考えさせられることが多い。また、考える時間さえないときもある。育児ノイローゼと隣り合わせに生きている親がたくさんいると感じる。もちろんこの私もそうだ。放置死させるところまでいくとは…行くべき道が見えていなかったのだろう。
家庭集会で最近スカイプによる礼拝に参加させてもらい、そこの感話でK兄が言われたことが心に残った。それは、「私は以前行くべき道がわからなかったが、信仰を得て、しっかりと行くべき道を示されるようになった。」という言葉だった。私も共感できたし、まだまだ、信仰がぐらついているからか、時々、道に迷うこともある。
放置死にいたった幼児二人は、そしてその母親は…また、私の知人など、全く神様を知ることがなかったように見えて世を去る人々は…と長いことわからなかった。
平等に創られているはずなのに生まれたときから主をしらされているかのように見える人、また、その逆の人。
ある日、ふと、そのことを主人に話したら、とっさに「そこに大きな青空が見えてるよ、きれいな鳥の声が聞こえてるよ、誰かに優しくしてもらえるときがあるよね。どの人にも神様からの愛が、恵みが与えられているけど、気付くか、気付かないかはそれぞれなんだろうと。いま、心にこのことが浮かんできたよ。」という答えが返ってきた。
長い間考えていた一番心にかかっていた事に主が応えてくださった。それこそ、主の愛が私に注がれたと感じた瞬間だった。
近畿集会に参加して SY
八月七~八日の二日間、京都の桂坂で近畿集会が開かれました。聖霊をテーマに、近畿の主にある方々が祈りつつ準備してくださり、ふしぎな風が吹き、聖霊に満たされた集会となり感謝でした。
講話も証も聖霊に導かれて、心に残るものでした。参加者一人一人の自己紹介からも、それぞれが主に導かれていることを知ることができました。
特に心に残ったみ言葉は、「求めなさい、そうすれば与えられる。」 (ルカ十一・9)でした。誰でも聖霊は求めたら必ず与えられる。今どうなのか?聖霊に満たされているか?いつも今どうなのか?と問われている。絶えず忍耐を持って、求め続けて行くことを改めて教えられました。
主の名によって集まる所に主が共にいてくださる。そこに主の聖霊が働く時、そこにいるだけで共に聖霊の恵みをいただくことができる。
人は何か問題が起こった時、心にある罪が出てくるが、そのような弱い心を持ったままでも、聖霊の働きによって、新しい心に変えていただける、感謝でした。いつも目をさまして、求め続けていかなければと思います。
「祈り」 大阪 NY
暑さの中にあっても 今日も礼拝に兄弟姉妹の名を呼んで集めてくださる主イエス様に感謝の心が溢れてくる。ひとすじの聖霊の風が吹き注ぎ、あつまる者一人ひとりに大きな神様からの力と希望を今日もいただいた。
今年の近畿集会を終えて、今心の中にあることは、神様はさまざまな人間の煩いや心配を超えて働いてくださるということだった。そしてどんな集会も名前を呼んで主が集めてくださったお一人おひとりに聖霊の風が吹き、集会を満たしてくださるということであった。
「聖霊」というテーマを与えてくださり、そのことに思いを馳せている頃、水野源三さんの本「美しい世界に」を読む機会があった。水野さんの詩と信仰からあらためて、深い秋の青空の下で凛として咲く一本のりんどうの花のように清冽な信仰の印象を受けた。
重い障害をもって体の自由が利かなくなってしまった源三さんは、「生きる」ために水を求めていた。いのちの水が源三さんに注がれた。
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
憎しみも恨みも
霧のように消えさりました
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
悲しみも不安も
雲のように 消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
喜びと希望の
朝の光がさして来ました。
「弱さの中で 力ははたらく。」というパウロの言葉。この世の弱い人の中に神様は栄光を現される。キリストの栄光の証人とされる。このことの意味を源三さんからも痛烈に感じることができた。
源三さんにとって信仰は生きるか死ぬかの問題だった。大切なものを取り上げられてそこから得た救いであり、これしかないという聖なる信仰だった。
私たちの信仰はどうか。これしかないという厳しい信仰、言い換えればこれさえあれば他には何もいらないと切実に求めているのか、身が引き締まる思いがする。
ヘブライ書の最後に学んだ「御国が来ますように、御心が地にもなされますように。」との主の祈り。私たちの小さな祈り、願いは自分の思いからくることが多い。心を貧しくされて低くなりきって祈ることがむずかしい。どこまでも「自分」が姿をみせる。神のご意志に任せることができたらどのように思い通りにならなくても悲しみが来ようともすべてが成就されるという主への信頼をもつことができる。そのような祈りをささげたいとしみじみと思う。
み神のうちに生かされているのに み神に深く愛されているのに
自分ひとりで生きていると ともに生きる人を真実に
思いつづける心を 愛し得ない心を
砕いて砕いて砕きたまえ 砕いて砕いて砕きたまえ
私の通ってきた道 SM
森永ヒ素中毒により全く目が見えなくなりましたが、イエス様によって、どのように導かれたかをお話しさせていただきます。今から五〇数年前に徳島にある森永の会社で作られた粉ミルクの中に誤ってヒ素が混入していてそのミルクを飲んだ赤ちゃんが当時たくさん亡くなりました。 私もそのミルクをずっと飲んでいて一歳くらいの時にはいろいろと内臓が悪くなり毛髪は全部抜け落ちて両親はもうこの子は死んでしまうのではないかと、とても心配したそうですが 幸い命はとりとめ視力にだけ障害が残りました。小さい時は少し目が見えていたので、普通の子供と同じように 幼稚園や小学校に行きました。
でも視力が弱い為に特に小学校の時はからかわれたり、いじめられたりと随分辛い子供時代を送りました。そして中学校から盲学校に移り盲学校の高等部理療専攻科というところに進んで将来は鍼治療をして人の病気を治したいとその道を選びました。その頃、私の母が甲状腺の病気でバセドウ病という病気になりました。 かなり重い症状でいろいろ苦しんでいましたが 私が習ったばかりの鍼治療を母にしてあげようとするのですが、技術が未熟な為に私の鍼が痛いと言って母が受け付けてくれません。 将来私は家族も治せないような 鍼をして人からお金をいただく事はとてもできないと 悩んで盲学校の先生に相談したら「卒業したら、東京にある信愛ホームという所に行って、さらにそこで習ったら、お母さんの病気は治して上げられるよ」と先生が言いました。そこから出版されている本を貸して下さいました。
そのホームは、平方龍男という明治の半ばに生まれた人が設立したホームで、この方は若い頃に内村鑑三の影響を強く受けて、無教会の集会を開いていて自分も信仰をずっと保ち続けている人でした。 そのホームは、自分が長年かかって築き上げた平方流という鍼と 福音を盲人に伝えるという二つの目的で設立されていました。
私は信仰の事よりも母の病気を治してあげたいという一心でそこに行きました。入所式の日に聖句が配られましたが、「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」と書いてありました。先生のお話が始まって 「あなた方はこの世から神様に選び出された恵みを大切にしなさい。ここで信仰を持って信仰を人に伝えられるような人になりなさい」と言われました。
ここでは、鍼の技術や生活の事を訓練しますが、一番大事なのは信仰です。神様第一です」と言われました。ここでやって行けるのかなと思ってとても不安になりました。 一年目はギリシャ語の授業があったり 礼拝や祈祷会で難しい旧約聖書の話しがありました。全寮制のその学校は就寝時に聖書のお話しがあり信仰の話しが多くありました。十ヶ月くらい経ったとき、次の入学生の為に神様の祝福を受けて救われますようにと 皆が真剣に祈っているのを見て、去年もこんなに祈って準備して迎えて下さったのを思うとその祈りに動かされてそれからは真剣に聖書を読むようになりました。
そこは先生も学生も全盲の人が多かったのでヨハネ九章の自分が盲人になったのは神様のわざが自分の上に現れる為であると沢山の方が信じていました。私もそこで三年半養われている間に 段々その事も受け入れられるようになって私は母の病気を治すためにここに来たが神様は私のような者を選んでくださって失明した時に困らないように心の準備をさせてくださったのだという恵みがわかるように 心を変えて頂きました。
キリスト教で一番初めに驚いた事はある先生が 私に向かって、「君はヒ素中毒になって良かったね。だからここに来てイエス様と出会う事ができたんだよ」と私に言われました。 それまでの私の周りの大人たちは「この子がヒ素中毒にさえなっていなければ普通の子供と一緒に生きていくことができて良かったのに」と 言われ続けていたのですが、キリスト教は何て物の見方が違うのだろうと 驚きました。
三年半経って徳島に帰る頃には、私は目が見えなくなっても大丈夫、私には信仰があるからと思って徳島に帰って開業しました。数年経ってやはり目が見えなくなった時には自分の信仰がどこかに行ってしまって 「神様、私が大事にしている少しばかりの視力が奪われてしまって何故私がこんなつらい目に遭わなければいけないのですか。何故なのですか。」とつぶやくようになり、ついには祈る事も聖書を読む事もできなくなりました。毎日人の幸せを妬んだり、自分はどこかで大きな事故にでも遭って死んだらいいのにとそんな事ばかり思っていました。ある時に 見えないという不自由さよりも自分の心の状態がとってもイヤになりました。心だけはどうにかしたい、救われたいと必死になって思うのですが、同じことの繰り返しでした。私を必要としてくれている患者さんが来てくれるのでその仕事を支えにして生きていこうと思っても長続きせずまた暗い気持ちになってしまうのでした。
信愛ホームの六年先輩の人に誘われて、日本キリスト教団の教会に行き始めましたが洗礼の事などで不満があり先輩に話しました。その度に先輩は 「あなたは、吉村さんの所に行きなさい。無教会の信仰があなたには合っているから」と言ってくれました。綱野さんが発行しているアシュレーというテープから「はこ舟」を知り「はこ舟」には本当の真理があるなと心を惹かれていました。八年近く教会に行っていましたが遂にその教会を去り、不思議な導きで徳島聖書キリスト集会の日曜日の礼拝に参加するようになりました。 その集会は神様の霊が満ちあふれているなとすぐ分かりました。 ここに来ていたらいつか救われると思って行き始めましたが、なかなかその集会に馴染むことができずに自分の居場所がないような気持ちで暗い顔をして礼拝に参加していました。行くのを辞めようかなと思った時もあります。でも集会に導かれて 一年くらい経ったときに、吉村さんが私を礼拝の帰りに車で送って下さる事になって「今日はお天気が良いから眉山にちょっと行きましょう」という事になって 三時間くらい植物の事を一つ一つ手にとって教えて下さいました。まっすぐに天に伸びている大きな木やわずか数センチの草、いろんな花が咲いていました。 また日陰には日陰の植物が生き生きと生きていました。岩の上にはびっしりと苔が生えていて私は途中から名前を覚える事より植物が種が落ちた場所で一生懸命黙々と 使命を果たして生きていると健気な姿に感動しました。私の心に較べたらこの植物たちがずっと偉いと思いました。家に帰ってヨハネ福音書の 一五章のぶどうの木のたとえの箇所を読みたくなりました。 今日は植物を教えて頂いたので「ぶどうの木」が頭に浮かんだのだなあと思って 読み始めましたがそれはそうではなくて はっきり神様から示された言葉である事がわかりました。一五章の四節と五節の箇所に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶ事ができないようにあなた方もわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である。わたしを離れては何もできない。」と書かれてありその時の私は命の源である神様の事を忘れてイエス様に深くつながろうとせずに 自分でどうにかしようと思ったり、人に頼ったりしていたところに罪があったと分かりました。もう一度そこを読むと三節に「わたしの話した言葉によってあなた方はすでに清くなっている」という言葉まで用意されていました。私はこれで助かった、イエス様にさえつながっていれば 次々と湧いてくれる悪い思いをイエス様が取り除いてくださり清めてくださるという十字架の贖いが初めて分かりました。後から後から涙が溢れましたが、心の中は明るくなっていきました。五月の爽やかな風が吹いていましたが、それとは違う風が私の心の中に吹いてきて、体も心も軽くなったあの時の瞬間を忘れる事ができません。
霊的な目が開かれるとはこんな事なのかなと思うほど、それからは自分でも信じられないくらい生き方が変わりました。聖書の一つ一つの言葉が味わい深くて自分に迫ってくるようになり、自然や植物の事を聞いても造られた神様の事を思い、悩んだり苦しんだりした時も、イエス様が共にいてくださる事も心から実感できます。
この救われた喜びを自分と関わる人すべてに知って貰いたいと思うようになり、それから何年か後に私の家でも家庭集会を開くようになり月一度Yさんに来て頂いて私の家族や患者さんや集会の方々も参加しています。
私自身が良き羊飼いのイエス様に導いていただかなければすぐに滅びてしまう弱い弱い羊だという事で「小羊集会」という名前があたえられました。
それから三年後に家庭集会をしていて良かったという出来事がありました。妹が天に召された事ですが。私がたった一つ妹にしてあげられる事は病気は治らなくても魂が救われるようにと祈る事と集会の方々にも共に祈っていただきました。皆の祈りが私の大きな支えでした。その祈りを神様が聞いて下さり、最後の最後に妹はイエス様を信じて召されました。一昨年の秋、八歳になったばかりの娘を遺して天に召されました。その娘が、お母さんは直行便で天国に行ったと信じ、自分がイエス様を信じていたらいつかお母さんに会えるという希望を持ち続けています。お葬式もキリスト教でしていただきお葬式の朝にも幼い娘が「お母さんは神様がお呼びになったの」と笑みを浮かべながら言いました。幼子のようにまっすぐに信じるとはこのような事なのかと思いました。どんな事でもイエス様を信じているかぎり良い事に結びつけて下さると思え家庭集会をしていて良かったと思います。これからも試練があったり苦しい事があってもみ言葉を道しるべに歩んでいきたいと願っています。
(編集者注・これは今年の近畿地区無教会キリスト教集会で語られた内容です。)
「破れ口に立つ者」
愛媛 TT
「兄弟たちよ、彼ら(イスラエル人)が救われること、これがわたしの切なる望み、また彼らのための神への願いである。彼らは神に対してほんとうに熱心だからである。そのことを彼らのために証明する。ただ残念なことに、その熱心が正しい認識を欠いている。すなわち、彼らはキリストを信ずることによって義とされる神の義の道が開けているのがわからず、自分の力で律法を守って自分の義を立てようとしたため、神の義に服従しなかったのである。」
(ローマ一〇・113 塚本虎二訳)
「律法」とは道徳と解すると、戦前の「修身」教育等により培われた日本人は、まさにモーセ律法を遵守したユダヤ人に似て道徳の民であった。一八〇〇年代から一九〇〇年代初めにかけて渡来した西洋人の宣教師や教師達は、非キリスト教国日本の民衆が礼節を尊び秩序を重んじる日常の風習に接し、非常に驚いたと伝えられている。しかしこの世界に誇るべき日本人の精神的伝統は、あたかもユダヤ人の律法に対する態度のように、「躓きの石」となった。
「内村鑑三所感集」所載の「日本人の救済」(一九〇七年)に言う、「吾人の実見するところによれば、日本人の『神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔を穿(とお)るはかえって安し』、その虚栄心、その貴族根性、その人物崇拝、その武士道、その儒教道徳はかれの進路を遮りて、かれをして嬰児(えいじ)[あかご]の如くなりて神の国に入らざらしむ。吾人この事を思うて時に絶望の声を揚げていう、「さらば誰か救いを得べきや」と。そのとき、主は吾人に答えていい給う、『これ人にはあたわざるところなり、されど神にはあたわざるところなし』と。(マタイ一九・24~26」
今や、私たちの戦後六十五年を経た現代の日本社会に於ける日々のニュース報道は、目をおおいい、耳をふさぎたくなるような救い難い道徳崩壊の惨状にあり、かつて西洋人たちが羨んだ「孝養、礼節、徳義を重んじる民の良き風習」は地に落ちて、探しても見出すことが出来ない。「一国の衰亡は外敵の侵入によらず、人心の腐敗、堕落により、国の内部から崩壊することは世界の歴史が証明する」という。はたして神は日本人を見捨てられたのであろうか。
私は秘かに思う、現在の日本がこれほどに非道、不道徳な惨状に落ちぶれたのは、すべて神の遠大な御摂理によるのではないだろうか。即ち、亡びへと転落しつつある日本人の心の目を覚まし、真の神様へと救いを求めさせんがために、滅びの淵まで追いやり給うのではないだろうか。「彼ら(日本人)が神を知ることを役に立たぬものと考えたので、神の方でも、彼らの心が役に立たなくなるに任せられた。その結果彼らは人としてなすべからざることをするようになったのである。」(ローマ一・28)
「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」(エゼキエル書二二・30)
しかし私は百年前の、内村鑑三の「日本人の救済」の予言が、いま実現しつつあることを信じるものである。
「『わたしは異教の神バアルに膝をかがめなかった男子七千人を自分のために残しておいた。』だから、同じように今の世にも、恩恵の選びによる残りの者がある」(ローマ一一・6~7)。
神は亡びつつある日本のため、その「破れ口」に立つ者を尋ね求め、私たち少数の真のキリスト者一人ひとりに、この世の持ち場に立って果たすべき使命を与えておられる。「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ書六・8)
「神様、御心が成りますように、天と同じに地の上でも、アーメン」
「日本の心」
北海道 OH
大いなる もののわけゆく 野分かな
虚子
この高浜虚子の俳句を読んで、自然に対する日本人の感性の鋭さと共通性を思う今、旧約の預言書を読んでいるが、預言者が、自然をよく観察していること、そしてその中に「おおいなるもの」を観ているのである。私たち日本人の感性に共通するものを発見して喜ぶ。
厳しいカナンの地の理不尽とも思われる自然の営みの中に神の声を聴き、民族の心を直(ただ)した。
内村鑑三の「学ぶべきは自然」は分析的に自然を観察するだけでなく本質的に備わっている民族の心(感性)こそ大切にするべきであることを教えられた。そして「読むべきは聖書」から、静まって神の声を聴くことが重要であることを強く思うのでした。
恩恵を回顧して 福井県 NK
今年は、一月から個人的に大きな問題に直面し、悩み、苦しみ、迷い、闇の中を光を求めて懸命に祈る毎日でした。そんな中で、「いのちの水」誌や吉村さんからのメールで励まされ、示唆を受け、不思議なことに、具体的に、あるきっかけで道が開けました。今、当時を振り返って、危うきところから救いだされたという感慨を禁じ得ません。主の深い憐れみであったと思います。この背後で家内や吉村さんの篤い祈りがあったことを憶え、感謝に耐えません。
四月からの新しい歩みにも、思いがけない恵みが与えられ、主のご祝福を憶えています。六月にNさんからメールで「ともしび」の原稿募集がとどいてから、原稿を準備しようと、以前の「ともしび」「野の花」を読みかえし感銘を新たにしています。一人一人の歩みの上に御聖霊の働きがあったことを感じさせられます。まるで、使徒言行録を読んでいるような感じさえ受け、現代にも聖霊行伝が続いているとの思いさえ抱きます。
八月には、今年五月の四国集会のDVDが六枚送られてきまして、家内と二人で拝聴拝見いたしました。讃美、手話讃美、講話、どれもこころにせまり感動、感動の連続の中にあります。四国集会の会場には、まさに聖霊の風が吹き渡っていると感じました。
スカイプを用いての夕拝にも参加させていただいて、家内ともども恵みを頂いております。
一方、Yさんが言われている通り、自然の中にも、主の御臨在をしめされます。毎月、メールで送られてくる「今日のみ言葉」に添えられた美しい野草、野花には、み言葉の解説と共に、こころが癒され、なごまされています。夕べの空に輝く宵の明星や満天の星や月には宇宙の神秘と共に希望のありかを示唆される心地がしています。
たくさんの恵みを頂いている徳島の皆様への感謝を込めて感話とさせていただきました。
スカイプ集会の恵み
NY
去年の十二月、我が家で初めてスカイプを使って移動夕拝の中継を行いました。
スカイプとは、インターネットを使った無料のテレビ電話で、県外の数人の方々とでも同時に会話をすることができます。複数の人で会議(会話)を行うときはカメラは作動せず、音声だけの通話となります。
その中継の前には、Yさんを中心に、徳島集会の人達と何度もテストを重ねて練習し、当日は午後から仕事を切り上げて、パソコン等のセッティングを行いました。
当日は、入院中のKさん、北海道のKさん、Oさんご夫妻、福井県のNさんなど、遠方の方々にも呼びかけ、期待と緊張の中夕拝が始まりました。
ところが、最初のそのスカイプ中継は失敗に終わりました。テストの時はうまく行っていたのですが、中継では、こちらの声が小さく途切れ途切れで、相手の方々には、何を言っているかほとんど聞き取れなかったのです。会議のホストをするには、それに耐えるだけの性能のよいパソコンが必要でした。また、スカイプのバージョンが会議通話に適さないものだったり、お店の勧めで買ったマイクも、問題があったことが後で分かりました。
参加者の方より「聞こえませんので失礼します」とのメッセージが次々と届きました。
私はどうしていいのか分からず、とても落ち込んで、集会中も気もそぞろといった状態でした。司会者として我が家に集まって下さった会場の方々へも申し訳なさでいっぱいでした。
けれど、Yさんも会場にいた皆さんも、力強く励まして下さいました。特にYさんは、「何でもパイオニアというものは、初めからうまくいくものではありません。そんな、最初からうまくいかなかったからと言ってがっかりしてはいけません。伝道というのは、そんなに簡単なものではないのです。色々と苦労してやっと実るものなのですよ。」と力強く励まして下さいました。
その言葉が本当に勉強になりました。私はちょっと何か試して駄目だと、すぐに「道は閉ざされた」と思ってしまいがちでしたが、本当に苦労して伝道してこられたYさんのお言葉には、目が開かれる思いでした。
最初は全く形にならないかと思われたスカイプ集会でしたが、数々の試行錯誤や情報交換を行い、参加者の皆さんから励ましの声やご意見をいただき、今では多い時で十五台のパソコンと繋いでほぼ安定した礼拝を持つことができるようになりました。
スカイプ集会は、自宅にいながらにして、遠くにいてなかなかお会いできない方々、また勝浦さんのように病室から出られない方と、場所や世代、背景を超えて共に礼拝することができます。自宅で礼拝できると、とても安心して、落ち着いて御言葉を聞くことができます。身体などに弱さを持った方にも参加しやすい礼拝だと思いました。私も司会の役には緊張しつつも、講話や感話の時にはとてもリラックスして聞いていることができます。また、パソコンやインターネットという機械を介しながら、不思議と、人と人が直接繋がっている暖かさを強く感じます。
スカイプ礼拝は、月に一回月末の夜に行われています。(日時は月によって違います。その他に家庭集会の中継も随時行われています。)時間は約一時間強です。
スカイプ礼拝に興味のある方は、是非メールでお知らせください。インターネットのできるパソコンと簡単なマイクがあれば参加できます。日本中、世界中(したことないけど、大丈夫かな?)からのご参加をお待ちしています。
まだまだ不備や失敗もあり、発展途上ですが、みんなで一緒にスカイプ集会を育てていくことができますようにと願っています。
E-mail myrtus7@khc.biglobe.ne.jp
内村鑑三所感集を読んで
大分 IH
「夏の夕」
「神、アブラハムを外にたずさえ出だして言いたまいけるは天を望みて星を数えうるか見よ」と。しかり、一等星二十一、二等星七十三、三等星二百三十、四等星七百三十六、五等星二千四百七十六、六等星七千六百四十七。以上は肉眼に映ずるものなり。第九等星に至るまでのすべての星を数うれば六十三万余、第十等星を合すれば総数二百三十一万一千に達すべし。しかしていまだ全宇宙の一隅を窺いしにすぎず。小事に齷齪(あくせく)して常に頭を低るる者よ、時にアブラハムのごとく神に携えられて郊外に出で、天を望みて星を数えうるか見よ。創世記十五章五節。(内村鑑三所感集一九〇七年七月より)
内村鑑三所感集を時々読んでいます。ある日、この文章に接したときに宇宙の広大さを思い、全宇宙を創造された主に思いを馳せました。
宇宙に関する図鑑を開いてみると、宇宙の始まりはある時、ビックバンと言われる大爆発のような状態から始まった、と書かれていました。散りじりになったものが次第に冷えてゆき、それらがまた集まって一〇〇億年以上の歳月をかけて星星が誕生していった。宇宙は今、どんどん広がっている。と書かれていました。そのような大宇宙の中で太陽系が誕生し、ちっぽけな星、地球は誕生して四〇億年、人類が誕生して、四〇〇万年とのことです。そのように考えていくと、キリストが誕生して二〇一〇年という歳月は本当にわずかな時間に思えてきます。そのキリストを信じることによって、私たちは救いと平安を与えられていることを思います。
矢内原先生が話されたこと 福岡 HG
私が中学生の頃福岡の私の家に矢内原忠雄先生をお迎えしたことがあります。当時の私は矢内原先生がどんなお方かも知らず、ただ両親が大変な緊張の中にお迎えしたことを覚えています。お出しする料理、お風呂などなどそれは大変な準備をして、ご一泊いただいたのでした。
翌朝、先生からお話しを伺ったのですが、最近になって母がそのメモを残しているのが見つかりました。一九五六年十一月のことです。
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*
ヨセフの生涯を通し、考えることは、イエスの生涯のシンボルであることだ。個人、国家の歴史も、小さい人間の目で見れば一向進展しないようでも、大きな半径をもつ神の水車はゆっくり回っていて、その軌道に乗っている者は、すなわち神を信じている者は、境遇の善悪を気にすることなく信仰を保って、最後は良きようになることを信じて待て。
また、悪しきことも神のみ心を信じていれば善となることを信じていよ。
ヨセフは神偕(とも)にいます信仰に生き抜いたので、いかなる境遇にあっても平安であった。
人を救うということは、ヨセフが兄から奴隷に売られたことにより、後で兄弟を救ったように、苦しみに会うこと、棄てられることにより、出来るのである。棄てられることは人を救う門となる。イエスの十字架を見よ。故にイエスを信じていることが自分を救い、また人を救う原動力となる。
柏木哲夫・道子の本を読んで 岡山 KT
先日一冊の本を偶然「キリスト教書店」で見つけ購入した。
「いのちの豊かさ 人として生まれ、人として生きる」、その本によると。哲夫は淀川キリスト教病院のホスピスの医師で二五〇〇人くらいの癌の患者を看取り、妻道子は短期大学で発達心理学、教育心理学、女性学の講座をもった。
第一部 は 哲夫が(死を背負って生きる) 道子が(生かされて生きる)の講演である。
第二部は(人生の秋から冬へ)という夫婦対談である。
第一部の中から 私が興味を持ったところを
引用する。
………………………………
第一部 哲夫はホスピスの医師として堀秀彦という人が82歳の時に残した文章を引用している。それは次のようなものである。「70代までは年毎に私は死に近づいていきつつあると思っていた。だから死ぬのも生きつづけるのも私自身の選択できる事柄のように思われた。ところが82歳の今死は私の向こう側から一歩一歩、有無を言わせず私に迫って来つつあるように思われる。私が毎年毎日死に近づいていくのではない死が私に近づいて来るのだ。
死を背負っている。ちょっと言い換えますと「生」を一枚の紙としてそれが風の具合によってフッとひっくり返る。そうすると反対側には「死」というものが裏打ちされている
そんな感じですね。一枚の紙の表を「生」とすると裏には「死」がある、というのが本当の実感しているところなんです、生と死は一体化しているのですが、通常は表側を見ながら生きているというわけです。
安易な励ましから理解的態度へ
励ます必要があるときにはしっかり励まさないといけないのですが 患者さんが弱音を吐きたいという気持ちになっておられたら、弱音を徹底的に聞いてあげないといけない。それにもかかわらず、励ましてしまうと患者さんは「はあ」というだけで コミユニケーションは終わってしまう。長年の経験からまた多くの方々の研究から本当に弱っている方が求めているのは理解的な態度です。理解的な態度というのは私は患者と医師と云いますけれど末期の状態の人とそのご家族の間でも共通することなのです。相手の言葉に対して「あなたが言いたいことを私はこのように理解しますが私の理解で正しいでしょうか」と相手に返すような態度のことを理解的態度と言います。具体的には患者さんの言葉を自分の言葉に置き換えて患者さんに返すということこれが理解的な態度です。
末期の患者が「このころだんだん弱ってきたような気がする」と心弱そうに言われる。私はやっと「次第に衰弱する、そんな感じですね」と言いました。すると患者さんは、すべての感情をこの言葉に込めるような感じで「先生 私、このごろ死ぬのが怖くて」と言われました。これに対して私は「ああそうですか」としか言えなかったのですね。
しかし私が「ああそうですか」と言ったとたんに、今まで患者さんと私の間にあった何とも言えない緊張感がスーッと落ちた。びっくりしました。そして患者さんはたこ焼き の話をはじめた。
理解的態度によって二つのことが起こったのです。一つ目は会話が持続することです。そして二つ目は会話をリードするのが患者さんであるということ、私ではありませんね。三つ目は患者さんが弱音を吐ききることができるということ、弱音を吐ききるということがすごく大事なんです。
道子 生かされて生きる
夫が今月中に古希をむかえます。私は一年だけ遅れて古希を迎えます。私が信仰に入りましたのが二十歳の時でしたので、この五十年の間私たちのようなものが神様の憐れみの中で今日まで生かされてきたということをしみじみと感じます。そして苦しみも悲しみもある中で,かつては全く福音を知らないものでしたのに、この五十年の間信仰をもって歩ませていただいた、その感謝の気持ちをこれからの人生で表すことができれば、と願っています。このような本の出版と講演の機会が与えられ、とてもありがたく思っております。
私たちはそれぞれの専門分野がありますが、短期大学で担当していたわたしの専門分野は人が生まれて成長し、やがて死に至る前のことです。ですから,本のタイトル「育てる命、看取る命」の「育てる命」のほうに私の関心はあると思っています。現在私自身は乳幼児、小学生の孫を眺め、また中年になりました息子や娘たちを見、そして私たち夫婦は中高年に達し、三年ほど前に私の母を九十七歳で天に送りましたが、今も九十六歳の夫の母と同居しています。九十六歳の母の世話を毎日しながら、〇歳から九十六歳、九十七歳の家族を目の前にして、人が生まれて百年生きるということは、どういうことなのかと考えることが多くあります。そして人生百年生きるということは、とても祝福であると同時に周りの人たちにはかなりの世話をかけながら生きていくんだな、というふうにも思っています。
育てる命 看取る命の最初のみことばは
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは、知っています」(ロマ八・28)
このみ言葉を見つめ、また私が一番好きなみ言葉の詩編二七編の四節「私は一つのことを主に願った、私はそれを求めている。私の命の日の限り主の家に住むことを。」主の麗しさを仰ぎ見、その宮でおもいにふける、そのためにみ言葉を心に留め、あと残されている二十年、三十年の日々を過ごしていきたいと思うのであります。
…………………………………
以上の事から私は哲夫が末期の患者に対して相手の気持ちを理解する事が大切であると言われている事が心に残った。
道子は癌で末期を迎える時でも神の元に行けるという希望を持つことを忘れないと言われ、これは大切な事だと思った。
いのちの豊かさ 「人として生まれ 人として生 きる」柏木哲夫 柏木道子著(いのちのことば社)
背負って下さる神様 東京
NN
あなたたちは生まれた時から負われ、
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの
老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ書四六・3~4
よく浮かんでくる聖句です。これまでどんなに挫けそうな時でも、生き抜いて来れたのは、自分の力ではない、常にひ弱な私を背負ってくださった方がいらしたのでした。その方は、見えないけれどもこの先、年老いても背負って下さるのです。神様に委ねて、心の平安を保ち続けて生きて行きたいです。
ねたみや、怒りは寿命を縮め、
思い煩いは人を老けさせる。
シラ書(集会の書)三〇・22
シラ書には具体的な指針がたくさん書かれています。昔から人間は変わらないのだなあと、思わされるような内容で埋まっています。年老いてはますます目を天に向け、この世のことでねたみや怒り、思い煩いの心に支配されないで、生きたいです。
この世の最上の業はなに?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、、己の十字架をになう―。
若者が元気いっぱいで神の道を
あゆむのを見ても、ねたまず
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること―。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後の磨きをかける。
まことのふるさとへ行くために―。
おのれをこの世につなぐ鎖を
少しずつ外していくのは
真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば
それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番良い仕事を残してくださる。 それは祈りだ―。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、
神の恵みを求めるために―。
すべてを成し終えたら
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、
われ汝を見捨てじ」と―。
ヘルマン・ホイヴェルス 『人生の秋』より
若い時からこの詩を心に留めてきました。「この世につなぐ鎖を外して」なにも出来なくなっていくことを想像する時「最後に一番良い仕事」があることを教えてくれるのです。
あとがき NY
今年の暑さは格別で、各地の猛暑の様子がテレビで報道されましたが、皆様が守られて毎日を過ごされていますこと主に感謝です。
徳島聖書キリスト集会では、この夏もNTさんが北海道、東北、関東など伝道の旅で予定通りの行程を終えられました。各地の集会の様子を「祝福と主のお守りがあった」と報告してくださり、写真も私達集会員に見せて下さいました。今回の「ともしび」誌にも、その訪問先の方より、恵みを受けたとの記事が寄せられ感謝です。
「 天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ一一・12)と福音書に書かれているように、私達も熱心に神の国と神の義を求めて、霊的に必要なものすべてが与えられることを願います。そして「イエス・キリストがこんな素晴らしい事を私にしてくださった」と、お互いに手を取りあって喜び合っていきたいと思います。信仰の恵みは、分かち合いをすればするほど増えていきます。神様があの人にしてくださった事は私にもしてくださると信じられるからだと思います。講話の中でも、聖書の登場人物の霊的な出来事は、現代の私達にも通じるとお聞きし、神の国の絶大な富は、今信じる私達にも常に用意されているのだと希望が与えられています。
この「ともしび」誌も「主が私にして下さった事」を互いに持ち寄って希望を与え合い、まだ信仰を持っていない方々にも、その喜びが伝わって行きますように願っています。「この世の事」では心が満たされない方が、主を知る事で、生き生きと喜びを持った人生に換えられていきますように。それを願って発行いたします。主よ、投稿してくださったお一人お一人の記事を祝福して用いてください。
シャローム。
まえがき NH
今年も主のお守りと皆様のご協力により、「ともしび」が発行できます事を感謝です。
皆様から一つずつ原稿が届くたびに、本当に感謝して受け取ってまいりました。
皆様と「ともしび」を通して祈りつつ関われる恵みを感謝いたします。
今回は勝浦 良明さんより原稿を五編いただきました。手足の麻痺と人工呼吸器による呼吸、その上に先般肺癌にかかっているのではないかという事が腫瘍マーカーの検査で分かったそうです。このような事情がある為、KYさんの投稿五編全てを用いさせて頂くことにしました。
勝浦良明さんのこれからの一日一日が、主に守られて御心の内を生きる事ができますように。
「ともしび」に投稿して下さった方々、読んで下さる方々に主の平安と祝福が豊かにありますようにと感謝し祈りつつ発行致します。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 (ヨハネ 一五・1~7)
編集者:NH(徳島聖書キリスト集会所属)
「氷点」雑感 IE
ストロープ松、ドイツトーヒ、欧州赤松、バンクシャ松など、三浦綾子さんの小説「氷点」には最初から色々な木の名が出てくる。まだ見たことのない異国情緒漂う樹木の名には何故かこころひかれるものがある。しかしそれだけではなく、この物語りの背景となっている北海道の広々とした空、また営林局管轄のこれら外国針葉樹の見本林の他にも様々な植物が織り成す豊かな自然。それがかえって人間の「罪」とか「原罪」とか、一般にはとても厄介な、と思える問題と、不思議と調和して物語が進行していくのは何故だろう。登場人物の一人ひとりが、その内にひそませている罪の苦しみに重く沈みながら生きていく。そしてまた、あらたな罪を犯していく…。どうしようもないようなこの人間の姿を繊細に鋭く、メスで仕分けしているようにも思える。この仕分は、読者にとっても痛みを伴う。場合によっては、主の恵みによって非常な痛みを味わうかもしれない。そんなものもみな神のみ手の業によるにちがいない。
それはある意味、非常に快い痛みかもしれない。わたしは聖書を知るまでの長い間、キリスト教関係と言われる本を避けてきた。学生時代の旭川育ちの友人にその話をしたら、彼女はいまだに「読むのが恐ろしい」と率直に言う。だがわたしも恐ろしい。それは三浦さんが、罪というものの実体を目の前に見えるようにえぐり出しておられるからだろう。しかしえぐり出されることによって救われる部分がある。それが「浄め」となるように思える。ダンテの「神曲」煉獄篇は浄めの炎に焼かれながら行く、それはある種のよろこびであることを感じる。その炎は非常な高温であっても、この上なく透き通った、この上なく清い炎だ。三浦さんの小説の仕分けもそれに似ている。
高く澄みきった空や風や山や川、また空にそびえる木々、小さな植物もまた清々しい。そして夜には空いっぱいにまたたいているであろう星々。そういった大自然は、ひとりひとりの魂をゆたかなもので包み、慰め、また清め、正しい位置に引き戻そうと無言のままの祈りを送り続けているように思える。
誰にでも、この小説に似た「氷点」を、その内に宿すことがあるのかもしれない。心が凍ってしまうようなことに遭遇させられるのかもしれない。それはこの世につかわされた者たちへ、神様から与えられた課題かもしれない。溶かそうと思っても自分ではどうにも溶かすことのできないものが時に硬く氷のように結晶してしまうかもしれない。それは悪くすれば命を奪う。しばしばそういうことが現実に起る。しかし人間は、すべて神の手の内にある。神を知り、神を信じ、神の炎がこころに降れば、かならず溶かされる。力も与えられる。それは、神に不可能はないことを知るために与えられる課題かもしれない。
たしかにこの神の炎がある、という事を三浦さんは「続・氷点(下)」の最後の部分、この長編小説とも言える最後の最後にこう書いている。「先程まで容易に信じ得なかった神の実在が、突如として、何の抵抗もなく信じられた。このされざれとした流氷の原が、血のしたたりのように染まり、野火のように燃えるのを見た時、陽子の内部にも、突如、燃える流氷に呼応するような変化が起ったのだ。
この天地の実在を、偶然に帰することは、陽子には到底できなかった。人間を超えた大いなる者の意志を感ぜずにはいられなかった」…と続く。
どことなく「主は嵐のなかからヨブに答えて仰せになった」というところから始まる「ヨブ記」の結末のところを思い起こさせるような、この大自然を通しての神の介入。それに呼応してヨブは「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と答える。
神ご自身が介入され、万物を創造された神のみ手がそこに伸ばされると、あるとき大自然を通して思いがけないことを神様は起される。それがわたしたち人間の、狭く浅く短くはかない草のような命、正義にも愛にも乏しい人生をくつがえし、少しでも生き生きと、少しでも深く長く正しく力強く愛あるものと変えてくださるにちがいない。たとえ凍った雪原のような人間の心であったとしても、誰でもいつか神のみ手が伸ばされて、あるいは神の熱い炎がそのこころに降って、そのみ手が点火する炎が燃えはじめるに違いない。
だが雪原が燃えるとはどういうことだろう。三浦さんは本当にそれを見た、と言われたそうだ。それを聞いたとき、わたし自身もアッと思い当たるものがあった。ふとしたきっかけで知った、あるアマチュアの富良野に住む画家に、北海道の自然や、オホーツク沿岸の流氷の絵ばかり描いている人がいた。その流氷の絵は本当に赤く燃えているようであった。この世のものならぬ不思議な赤い色が眼に残った。今思うが、あれはまったくの誇張ではなかった。人間を一切描かないという、多分、孤独な画家が描こうとしたのは、大自然に映し出される神の姿ではなかったかと思う。
どんなものでも、どんなことでも神がその人に、霊の眼をもって見せようと思えばその人には見える。理解させようと思えば、その人は理解する。もし力を与えようと思えば与えられる。もし罪を赦そうと思えば赦される。神に不可能はない。
母への祈り MK
もうすぐ八九歳になる実母を介護施設に訪ね、お昼の食事の介助に出かける私の足取りは軽く、母に会える嬉しさで車を走らせます。
私がキリスト信仰を持つことを後押ししてくれたような気がする母は、もうベットから起きることもなくだんだんと言葉も失い、目を開けたり閉じたりとうつろな状態です。
最初そんな母を見るたび、涙することばかりでした。
神様を知らされた今は、感謝の気持ちにかわっていく自分に驚いています。
母の病室は水を入れた花瓶は置けなく、小さな花もかざれません。
ある時私は、母のベッドの枕元の壁に母の笑顔の写真をはり、母の写真を囲むように、ひ孫達の写真を、写真の上には「おばあちゃん、春がきたよー」と春には桜を、夏にはひまわり、秋にはもみじ、冬にはつばきやサンタクロースのペーパーフラワーを張りつけました。、季節の移り変わりもわからないであろう母に心の目で見てねと祈りつつ…。
ある日集会の方から、どんぐりや木の実を頂き、それをひとつずつ太い糸でまきつけ吊るしていきました。優しくゆれるどんぐりが、母にきっと安らぎを与えてくれた事、嬉しかったです。
あるとき、不思議なことがありました。カチューシャが大好きだった母の白髪をなでていると、私の目から涙が溢れでてきました。それを見て、母が辛そうな顔をしたのです。もう喜怒哀楽もない母が、私ははっとしました。まだ分かるのだ。「おばあちゃん、おばあちゃん」と何度も呼び続けました。すると「はい」と返事が返ってきたのです。
確かに「はい」と。私はその声が聞きたくて何度も呼び続けましたが、でもそれっきり母の声を聞くことはありませんでした。そして時々ふっと思うのです。あれは、イエス様の声だったのかしらと。
今は、母の手を握り、髪や顔をなでたり、足をさすったり、幼いとき母がしてくれたように、気持ちよさそうに目をつぶる穏やかな母の寝顔に安心して「また来るねまた来るね」と声をかけて部屋を出ます。
母親には、特別な思いがあります。顔が見える、それだけで幸せなのです。そして、今のとき、母との大切な時間は、神様が必要なときとして、与えてくださっていることを思わされます。幾多の荒波をのり切ってきた母の長い人生、たとえもう意思疎通がなくとも、子供や孫、ひ孫に見舞ってもらえる幸せに神様に手を合わせております。
どうか母に平安を、そして今があることにただただ感謝して先のことを思い煩うことなく生活していきたいと願う日々です。
主を仰ぐ 大阪 NY
「主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださいます。」(詩編三篇)
主を仰ぐことは特別な時、特別な事情のある時だけでなく、日常にこそ大事なのだと思わされます。
自分の労力が誰かのために費されるとき、どうしてもその人のこと、自分のことばかりに目がいってしまいます。そうして心が騒がしくなります。「あなたもあのイエスと一緒にいたところを私は見た」という無力の女中にでさえ恐くなって嘘をついたペテロは、一匹の虫が同じことを言っても恐ろしくなって嘘をついたと思います。主を仰ぐことを忘れてしまうと、ほんの小さな存在、力に対してでも心が弱くなってしまいます。
また、「私たちと共にいてください」という祈りも、イエスを主としてではなく人間としてだけで思ってしまいやすい面もあると思います。イエスは心の汚れた私の所にまで降りてきて、重荷を背負ってあげようと言われました。そのイエスに対して私には重荷からの解放の感謝と喜びしかありません。
しかし、主はわたしの羊飼い、その主従関係を抜いてしまうと、私たちのただ中に来てくださったイエスを見ている内に周りの人を見て、そして人間だけを見てしまうようになる一面があると思います。羊は群れで動くので、他の羊に目を奪われてしまうのに似ていると思います。そうして、期待し、ねぎらいを求める相手を間違ってしまいます。親友や家族、親しい人に対してでなく、主に求めなければならないということを。
「汚れなき悪戯」
ーMARCELINO PAN Y VINO(パンとぶどう酒のマルセリーノ)ー YE
ある時、修道院の門の前に男の赤子が捨てられていました。手を尽くして親を捜しますが、見つからず、生活に追われる人々には貰って育てられる人もなく、十二人の僧(ブラザー)が修道院で育てることになりました。「マルセリーノ」と名づけられ、十二人に見守られながら育って行きます。五歳頃になるといたずら坊やに成長していました。十二人の一人ひとりにあだ名をつけたり、ミルクを飲ませてくれた山羊やねこにも名前をつけ、クモやハエ、トンボもチョウチョもコガネムシもバッタもサソリさえいたずらの相手でした。
ある日、村から村へと旅をする一家がやってきて修道院の近くでテントを張りました。その家の末っ子にマヌエルという子がいました。マルセリーノが初めて出会った同じくらいの年の男の子でした。「ぼく、どこから来たんだろう。おうちの人は、どこにいるのかな。お母さんはどこ。…」いつかマルセリーノは見たこともないお母さんを思うようになります。
修道院の二階には上がってはいけないと言われていましたが、好奇心の出てくる年頃、マルセリーノは見つからないように、足音を立てないように上がっていきます。そして、何回目かに部屋に辿りつき、十字架のキリストに会います。マルセリーノは、十字架の足もとに近づきました。いばらの冠をかぶせられた傷から、ひたいに流れ落ちる血のしずくや、丸太にくぎづけにされた手足や、わき腹の大きな傷あとを、じっとみつめているマルセリーノの目に、なみだが、いっぱい溢れてきました。それから、マルセリーノは料理係の「おかゆさん」(あだ名)に見つからないように、パンとぶどう酒をキリストのもとに運んで行きます。キリストは十字架から降りて、パンとぶどう酒を食します。マルセリーノはいばらの冠を外して、テーブルの上においてあげます。キリストはふかい愛に溢れた眼差しで、マルセリーノを見ていました。キリストに会う回数が増えるにつれて、マルセリーノの態度が変化していきます。外で遊ぶことはなくなり、自分から祈りの部屋で祈ったり、少し前には「おかゆさん」に隠れて運んでいたパンもぶどう酒も堂々と二階に運ぶようになりました。またある時「ぼくにはお母さんがいなくて…。」といいます。そして、キリストに「お母さん、いるの。」「どこにいるの?」と訊ねます。「おまえのお母さんと同じところに。」キリストは、いいました。「お母さんて、どんなの。ぼく、いつもお母さんのことかんがえてるの。ぼく、いちばんしたいことはね、お母さんに会うこと。ちょっとだけでもいいの。」
ある日、にっこりして、マルセリーノに、こう言われました。「きょうから、おまえの名は、『パンとぶどう酒のマルセリーノ』だ。」マルセリーノはこの名前がとても気に入りました。それから後もキリストの所に食べ物を運び続けました。が、マルセリーノはぼんやりと寂しそうに暮らすようになり、お祈り部屋に入るようになりました。みんなはとても心配します。…キリストは「では、マルセリーノ、おまえはいい子だったね。わたしは、おまえが一番ほしいものを、ほうびとしてあげようと思うが…。」「ぼく、お母さんに会いたい。それだけ。あなたのお母さんにも会いたい。」キリストは、マルセリーノをぐっとひきよせて、ごつごつしたひざの上に、じかにだきあげました。そして、マルセリーノのまぶたをそっとなでて、やさしく言いました。
「では、おやすみ、マルセリーノ。」そのとたん、修道士たちのさけび声が、いっせいにあがりました。「奇跡だ!」
マルセリーノは、天国にのぼったのです。
わたしがこの映画を観たのは今から四十五~六年前のことでした。あの時受けた感動を忘れる事はありません。最近、行方不明になっていた本が見つかり、改めて読み返しました。また映画の中でマルセリーノがキリストにパンを差し出す構図がミケランジェロの「アダムの創造」ととても似ていることに驚きました。
この本を書いたホセマリア・サンチェスシルバは「どうか、わすれないでくれたまえ。この世でいちばん大切なことは、いつもいつも『子ども』でいることだ。小さい子でも、おとなでもだ。」と、書いています。
この言葉は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ五・3)
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(マタイ一八・3)と言われたイエス様の言葉と同じことだと思います。
神の秘められた計画であるキリスト
東京 SY
最近こんなことがありました。
浦和キリスト集会では、礼拝の時、昨年の九月から創世記を通して導きを受けてもう一年近くになります。
第一章一節の、「初めに神は、天地を創造された」という、聖書の最も大事な宣言から始まるこの書に毎回引き込まれるようにして、教えられてきました。
今まで何度も読んでいるから分かっている、と思っていたことでも、またまったく新しいことに気づかされています。去る七月の最初の礼拝は、ヤコブがどうしてもヤボクの渡しを渡れず、たった独り後に残り、そこで彼は「何者か」と夜明けまで格闘した、というところでした。
いったい彼が格闘したという、この「何者か」とは誰なんだろう、神様ご自身? でも「夜が明けるから去らせてほしい」などというのは、神様らしくないな、とか、いろいろありましたが、それでも最終的には、エサウを恐れて、全く前に進めなくなってしまったヤコブに、神様が現れてくださり、彼のいのちがけの祈りを真正面から受け止めてくださった、その彼の祈りと、それをまともに受け止めてくださる神様との出会いが、ここで、彼が「格闘した」、と表現されていることを示されました。そして、彼のこの祈りを通して、神様は彼を新しく造り替えてくださった、と教えられ、とても深い感動を与えられました。祈るということがどういうことであるかを目の当たりに教えられた思いでした。エサウを怖がるヤコブの姿は、決して他人事ではないことはよくよくわかりますので。
そしてもう一つ。
わたしも毎朝、すこしづつ旧約と新約を読んでいるのですが、その時はコロサイの信徒への手紙の二章でした。読み始めたわたしの目に、「神の秘められた計画であるキリスト…。知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠れています。」(二章2・3)という言葉が飛び込んできました。聖書には、なかなか、その真意の理解が進まないことも多くありますが、この言葉を聞かせていただいて、わからなければ分からないままに、キリストのもとにもどればよいのだ、と思い、とても穏やかな気持ちで、その一日も始めることができました。キリストが「神の秘められたご計画」そのものであり、そのキリストに、「知恵と知識の宝がすべて隠されている」ですって!なんと驚くべき言葉でしょう。なんだか、ゾクゾクするような喜びが沸いてきます。パウロはなんという深い経験を語り残してくれたんだろう、とまさに目を丸くする思いです。そして思いました。ヤコブの苦悩をまともに引き受けて、彼を新しく造り替えてくださったのも、実は主なるキリストだったのかもしれない、とふと思い至り、またもう一つ感動を深めさせてもらいました。
列王記下四・38~41の学びより TK
野生のうりを見つけ、それを刻んで鍋で煮物にして食べようとした時に、それが死の毒だと解った。そこにいた者たちは、神の人(エリシャ)に告げると、エリシャは麦粉を投げいれて鍋の中の有害な物を消してしまう。
このような事は私たちの生活にはあまり関係のないように思っていましたが、「死の毒」はいたる所にどこにでもある。人間の悪意。心の内の闇等々。私たちは知らず知らずに毒を飲んだり、毒を出したりしている。
悪意を受けて本当に死んでしまう人もいる。
神の人エリシャは、麦粉を使って毒を消した。麦粉はどこにでもある。どこにでもある物であってもそこに神の力が働くと毒を消す事が出来る。
新約の時代の私たちは、キリストを信じるだけで有毒な物の害を受けないとある。(マルコ一六・18)
人から受ける悪意、中傷も多い。また心の闇もある。キリストを信じてもそれらが無くなるのではない。それらに打ち勝つ力が与えられるのだ。
若い時には若い時の悩みが、年老いては年老いての悩みがある。それらを解消して下さるのもイエス様だ。
またイエス様の力はどこにでも働いている。一人一人の心の中にも、自然の中にも神様の力を見る事が出来る。
また気がつかずに毒を出して人を傷つけてしまう事もある。それもイエス様を信じる事により、罪は赦される。私たちの深い罪を赦すためにイエス様は来られたのだ。
サムエル記を読んで 大阪 SY
大阪狭山聖書集会でもたれている水曜日の家庭集会で、サムエル記を学びました。サムエルの誕生から始まり、ダビデの生涯を通して多くのことを学びましたが、その中から少し思い返します。
最初の一章一〇節に「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」とあります。ハンナは、願っても願っても子どもが与えられず、すでに子どものいるもう一人の妻から蔑まれ、苦しめられてきました。しかし、ハンナはあきらめずに主に求め続け、心からの祈りをささげ、ついにその願いをかなえられてサムエルが与えられました。しかし、何にも代えがたい愛しい我が子を、ハンナは手元におかず「この子は生涯、主にゆだねられた者です。」(サム上一・28)と言って主にささげます。二章のハンナの祈りからは、ハンナがそのことを通して心から主を讃美し、喜びに満ちあふれている様子がよくわかります。しかもその喜びは自分だけでなく、主により頼む者すべてが受ける祝福にまで深められていきます。ハンナの神様への全き信頼による信仰の力強さを感じました。
また、ダビデの選びの場面では、人間の思いと神様の思いの大きな違いを教えられました。神様は目に映ることではなく心をごらんになるとあります。(サム上十六・7)神様にいつも問われているのは、私の心であると今さらのように示され、日ごろ目に映るものに心を奪われ、大切なものを軽んじていることを思わされました。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」(マタイ六・21)とイエス様は言われました。私の心が聖霊なるイエス様でいっぱいでありますように、と強く願います。
そのような主に喜ばれる者であったダビデですが、時に罪を犯す場面もあります。しかし、ダビデは罪が示された時にすぐに神様の前で悔い改めます。どんなに神様に祝福された歩みであっても、人は罪を犯してしまうことがある。そこで大切なのが、神様のもとに帰って悔い改めることだと教えられました。ダビデの深い悔い改めの後に、「主があなたの罪を取り除かれる。」(サム下十二・13)とあります。神様は、なんと憐み深いお方でしょうか。Ⅰヨハネ一・9に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」とあります。自分だけは大丈夫、などと高慢にならないで、悔い改めて御名を呼び求め、主を仰ぎ見る者でありたいと切に願います。
主にある交わりの中で共に聖書を読むことは、聖書の理解が深められ感謝です。主が長年にわたって導いてくださっているこの集会を、これからも祝福してくださいますように祈っています。
短歌― 苦難を負う友 NS
◎ 忍耐に光る苦難を負う友の
黙して言えぬ涙の重さ
◎ 絶え間なき友の痛みを知るほどに
祈る言葉もなきわが心
◎ 主のうめき御とりなしに縋るより
ほかにすべなき貧しき祈り
◎ 長年の介護を受けて逝く人の
労苦の妻に主の愛豊かに
◎ わが無力悔いつつ祈るひたすらに
御名を信じて御名をあがめて
◎ 二人して心を合わせて祈るなら
願いはかなうと御言葉迫る
◎ 共に祈る友を求めて明日を待つ
その日暮らしも御手の中にて
◎ 目の前に友はおらねど祈る人は
世界に満ちて主が備えらる
◎ 不満もつこの現実が最善の
神の恵みと喜び感謝を
◎ 神様を喜ぶことが唯一つ
わたしに出来るいのちへの道
吉村先生をお迎えして 山梨県 YA
八月四日Y先生が北海道からの帰途、わが家に立ち寄ってくださり特別礼拝集会がもたれた。連日の猛暑、先生の健康を守り導いていただき、予定通りに集会ができることを毎日祈った。二年前に徳島の全国集会に参加した時、徳島の方々が「参加者ひとり一人が無事に出席できるように、と日々祈っておりました。」と言って下さった言葉を思い出して、「先生を無事に迎えられますように」「集会にひとりでも多く方が参加できますように」と毎日お祈りをした。それにまた、病気の長男と高齢の母がいる私たちの生活にもアクシデントがないよう併せて祈った。その願いが叶えられて、八月四日、この日を待ちわびていた一五人の皆様と共に吉村先生をお迎えできた。
吉村先生は詩編五一編を通して講話された。詩編は「賛美と生きた祈り」で信仰の源流であるといい、神のみ言葉の含蓄であるということを話された。聖歌の「人生の海の嵐に」「如何に汚れたる」「われ聞けりかなたには」は、私どもにはみんな新鮮な賛美でもあった。そして、集会の間中、たんぼを渡って、南アルプスの嶺々から吹いてくる風を、「緑の清い風」「聖霊の風」と言って下さった。吉村先生が運んで来てくれた、引き寄せてくれた「聖霊の風」。まさに集会は聖霊の風に包まれ参加した皆さまを満たして下さった。それは集会に参加された方々の三分間の感話に溢れていた。この体験は私が徳島の全国集会で感じた、あの時に吹き渡っていた不思議な風、「聖霊の風」と同じものであった。
折しも庭のカサブランカは、Y先生を、集会を待っていたかのように、全開して、緑の中に白く揺れていた。最後に集合写真を撮っていただいたが、みんな「いのちの水」で繋がっている方々である。「嘉きことのおとずれ」、感謝の一日であった。そして先生は重い荷物を車に積んでまた、次の会場へ、長野に向かって発たれた。甲斐駒ケ岳の上に輝き始めたいちばん星を仰ぎながら、先生の健康をお祈りした。
ある患者さまから学んだこと 沖縄 TT
認知症病棟で働くこと早一年が経とうとしています。毎日泣いたり笑ったり怒ったり考えたり…色々なことを通して患者さまから学ぶ毎日です。
ある日のことですが、一緒に病棟の廊下を歩いていた患者さまがふと、壁にかけられていた掛け軸の前で立ち止まり動かなくなりました。その視線の先に目をやると、『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。(ヨハネの第一の手紙三・16』の御言葉がありました。キリスト教系の病院ということもあり、いたる所に御言葉の掛け軸が飾られているのです。そしてその方はクリスチャンでした。私がその御言葉を声に出して読み上げるとその方も一緒に声を出し、声を揃えて御言葉を読み上げました。すると、乏しかったその表情がみるみるほぐれてやわらかな笑顔になったので、つられて私も笑顔になり「いい言葉ですね」「そうだね、いい言葉だね」とお互いに笑顔で言いあいました。
この患者さまのやわらかな表情をみているうちに、この方とイエス様の間には二人だけの、長い年月をかけて築かれてきた「絆」のようなものがあるのだなと、不思議ですがそう感じました。喜びの時も苦しみの時も、沢山の時をイエスさまと共に歩まれてきたのだろうと思いました。イエスさまとの数え切れない思い出や、その中で培われてきた素晴らしい関係がこの笑顔を生み出しているような、そんな気がしてなりませんでした。
神さまってやっぱり凄いなと思うと同時に信仰は理屈じゃないんだと、この方に教えられているような気がしました。
私もイエスさまと確かな絆を築いていきたい、この患者様を通して思わされました。
「あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの
老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」
(イザヤ書四六・3~4)
父と母を偲んで TK
我が家の小さな庭にここ数年夏になると羽黒トンボがやってきます。最初は一匹、いつしか二匹になりました。胴が緑っぽいので雄でしょう。
昨年の夏は、母が入院、手術、退院、家での療養を続けていました。毎日庭のどこかで見かけるトンボは、亡くなった父が「お母ちゃん頑張れ。」と応援に来てくれているようでした。
母のいなくなった今年の夏もまた二匹の羽黒トンボが姿を見せています。
父と母の二人が私たちを見守ってくれているのでしょうか。
天からの小さな使い…
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ三・20)
「また、神ご自身が彼らと共におられて彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録 二一・3~4)
トンボさん今年も来てくれてありがとう。
妻はいつ洗礼を受けたか 広島 OT
妻、Hは日曜日は教会の礼拝に参加している。私も四~五回行ったが、教会の人は快く受け入れてくれた。牧師さんも同じクリスチャンとして信じ合う如く交わって下さった。しかし私の中では教会と無教会で戦っている。五五年間の戦いである。「主も一つ、天国も一つ」なぜ違うのか。信者さんも良く知っている町の人、昔からの友人なので会えば懐かしい。しかし違うのである。私には問題はないが、教会は困る事がある筈である。元教会員として扱わず、正教会員として私を受け入れている。その私は無教会員として五十数年外の者と思っている。よって聖餐式を受けない。キリスト者としてでなく教会員として自覚させる事を目的としている。神への信仰でない。「福音というべきものでなくある種の人々があなた方をかき乱し福音を曲げようとしている」(ガラテヤ一・7)教会は組織である。この組織は広島の本部がありまた、世界的に組織がある。それを維持しなくてはならない。私はキリスト以外は何も持たないと五十五年間やってきたのに、教会員としての責任を負わなくてはならない。妻はもう二年目であり、そろそろ洗礼を受け教会員になりたいらしい。妻は「教会の洗礼は点洗であり何か儀式的でいやだ」と言う。川の方が良いと決意を言う。私は「おまえは口でキリストが主であると言った時に天において洗礼は受けているんだよ」と言った。
結婚する前に教会の前に居た時である。そして結婚をした。結婚を主に許されたのだ。式は私の父が言う通りにしたが、私の心の中では酒の中の歌も人の声もなくひたすら祈りの中に妻を求め神の許しを乞うていた。分家からの嫁ぎなので、親同志は次の朝も酒を飲み交わしていた。私は母親の手伝いをしていた妻を呼び出そうとした。結婚はしたが、神への心の決意について語る機会もない。二人の時はないのだ。野良着に着替えて田んぼへ出てやっと二人になった。私は二人の神への誓いを捧げた。あの時に洗礼を受けたのだ。
あれから五十年。苦しい時もあった。悲しい事に長女が死産した。心から悔い改め自分の信仰を心から神に赦しを乞うた。二ヶ月間妻は立ち上がる事ができなかった。あの痛さは忘れる事はない。二人の心の痛手となって生涯を共にするきっかけとなった。本当の祈りはその時から始まった。次の子は三ヶ月この世の光を見て天に逝った。また、深い悲しみの日が続いた。しかし長男と次男が生まれ楽しい人生が訪れた。
子育ても終わり老年人生を送る幸いの時である。二人の生涯は神への赦しを願う戦いの日々であった。一昨年建てた墓に「天在我国籍」と書いた。中に骨も無き二人の子が入っている。私達の二人の墓である。どちらが先に死んでも天に在る子供と共に神の国に籍を持つている。
地上にあっても幸いの日々を感謝する日々である。これからも続く生涯を赦され喜びの中に光を受け日々新しく生きていきたい。
今、無教会の集まりに行っても、真実の戦いは私の中にあり、人類の罪は消える事もなく続く。キリスト者は生命のある限り十字架が必要である。しかし一方では地に責任を持たず自由な者として生きている。「今なお人の歓心を買おうとしているとすれば私達はキリストのものではないのです。」(ガラテヤ書1・10)
昨日より始めた聖句が壁に貼ったまま、私に問いかけてくる。聖句の中に永遠の生命が宿っている。キリスト・イエスが肉にあった二千年の昔、 この世は十字架につけた。つばきされ、嘲弄され人を救ったイエスが今十字架につけられ死刑にされようとしている。イエスは神を見上げ叫ばれた。「人類の罪の赦しを」。イエスの復活の後はイエスの代わりに助け人、聖霊を送って下さり十一人の弟子は聖なる復活のイエスの霊に助けられ働きその後パウロに現れ、多くの世界にイエスの弟子が生まれ私達に継がれた。「私達の国籍は天の国にあり」
私達は今、日々聖なる霊の息吹により幸いの日を新たに受け、聖徒の一人とされ、口でイエスを主と言い表し喜びの時をわかちあっている。感謝である。
勝浦良明さんの歩み NH
主は…疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に
大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れよ うが主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく歩いても疲れない。
(イザヤ四〇・29~31)
勝浦良明さんは、人工呼吸器で生命を維持し、手も足も全く動かない最重度の病者ですが、彼の作った賛美のデータは実に九四〇〇曲に及びます。手が動かないので額に取り付けたセンサーを首で動かし特殊な機械に息を吹きかけてパソコンを操作します。今までの何十年間の歩みは主が導き支えて来られたのがはっきり分かります。
病室にはたくさんの人が訪問していますが、ある時私がお訪ねすると、弟さんのお嫁さんが男の子(大学生と高校生)を連れて面会されているところでした。義妹さんは、帰る前に、「煮詰まったらまたお兄さんのところに相談に来るからね」とよきアドバイスを得て笑顔で帰っていかれました。集会員だけでなく、親族もまた彼に話しを聞いてもらいに県外から来るのだなあとつくづく思いました。
その彼が肺癌らしい(本文29頁)という事で また一つ十字架が増えました。勝浦さんは、検査も治療もしないという事で主にお委ねして今まで通りの生活を続け、延命治療をしないという事を決められています。
彼は今後いつまで今の状態が続くか判らないので書きたい事がある今が大切だと判断してこのたび寄せられたプロフィールと四篇を特集としてここに掲載致しました。
勝浦良明さんを知らない人も、賛美のデータの作成者として、また、重度の病気がありながら、主を信じたらそのような生き方ができる証しとして読んで欲しいと思います。
私の足跡(主に導かれて) KY
私が五五年生きて来た人生の中で、信仰に入る前と後とそれぞれの私個人の歴史がありました。
山もあり、谷もあった人生ですが、その節目、節目を想い出しながら、今キリスト者として自分の眼で見た、自分自身の人生を振り返ってみます。
一九五五年二月二四日 徳島市で出生。クリスチャンホームのクの字もありませんでした。
一九六一年四月 徳島市立新町小学校に入学。
消極的で、目立つことは大嫌いでした。
一九六七年四月 徳島市立富田中学校に入学。
ここでも目立つ事はしませんでした。吹奏楽部に入ったのを契機に、音楽に興味を持ち始めました。
一九七〇年四月 徳島県立城北高校に入学。
当時、世界的に流行していたフォーク・ソングに魅せられ、受験勉強はそっちのけで、フォーク三昧の生活を送りました。特にPP&Mと言うアメリカ合衆国の人気フォークバンドのテクニックに傾倒し、ギター、バンジョー、ベースなどを夢中になって演奏していました。ヤマハが主催していた軽音楽コンテストなどに出た事もあり、楽しい時を過ごしていたように思います。若い頃の中では高校時代が私のピークだったような気がします。
一九七三年四月 京都の私立龍谷大学法学部法律学科に入学 法曹関係の事に興味を持っていました。
一九七五年一〇月 この時二十歳でしたが、手足の動作に異変を感じ、徳島大学病院内科に入院して、精密検査を受けました。検査の結果、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、二~三年くらいの余命だと断定されましたが、この宣告は両親だけになされ、両親は絶望感で一杯だったようです。両親は私に気付かれないように隠していました。ある偶然から私が知ったのは四年後でした。
一九七五年一一月 歩くのが不便になり、大学を諦めて徳島に戻りました。
一九七六年~一九七九年 一切自宅から出ず、無為徒食の堕落した生活をしていました。今から考えると、一番勿体ない時間を過ごしました。命のタイム・リミットは過ぎていたし、いつ寿命が終わってもおかしくないと言う気持ちが私の精神的な全てを支配していました。
一九七九~一九八四年 日本テレビが放映していた「愛は地球を救う」に影響され、(外に出なければならない)と感じて、「車イス友の会』に入会して、障がい者活動を始めるようになりました。24~25歳ぐらいでした。その間も、肢体は緩慢に衰えていきました。それでも障害者やボランティアの親しい友人も出来、これは今ではあまり言わない事ですが、私は元々アルコールが好きだったので、車いすに乗って繁華街を闊歩?していたものでした。しかし頭からはいつも「死」の一文字が離れませんでした。
一九八四年五月 自宅療養中に褥瘡(床ずれ)が出来、肺に穴が空く自然気胸を起こし、体力がなくなった事もあって徳島市内の民間病院に入院して治療を受ける事となりました。入院中にその病院の医師に、「筋萎縮性側索硬化症ではないかも知れない。」と言われ、CTやその他の検査の結果、首の中に大きな脊髄腫瘍が見つかり、この時点で徳大の誤診であったことが判明しました。
一九八五年一月 急がなければならないので、急きょ徳島大学病院整形外科に移り、脊髄腫瘍の摘出手術を受けました。ところが手術の時期が遅かったために全身麻痺と人工呼吸器装着の後遺症が残ってしまいました。入院してからは何をするでもなく、病室の天井を眺めるか、テレビやラジオや新聞だけの生活をしていました。母には付きっきりで、何から何まで面倒を見て貰いました。それでも、人工 呼吸器から離脱出来ることに夢を託し、毎日、毎日努力して、呼吸訓練を続けました。しかし、その希望は見事に消え去り、全てのやる気は失せてしまいました。人工呼吸器を着けてから、七年間は声を失ったままでした。自分の意志を伝えることすら出来なくなりました。当然の事ながら、訪れる人がある筈もありません。
一九九一年一月 誤診の事で病院や医師とも話し合いましたが、解決は見込めないと判断して、徳島地裁に損害賠償請求訴訟を提起しました。そして長い裁判が始まりました。私のライフ・ワークのつもりでした。
一九九一年一一月 Sさんが私のために介護に着いてくれるようになりました。それまでの介護者はなかなか居着いてくれる人はなく、親身になって介護してくれる人もあまりありませんでした。他人とは、そんなに暖かいものではない事を充分に知りました。それに比べて、家族の温もりを重々感じていました。声が出ない事イコール精神レベルが低いとして扱われるのです。一般の人は元より、医療者の中にもそんな人がいるのです。しかしそれを否定する事すら不可能なのです。私は普通だ、とも訴えられないのです。医師や看護師にしても、私の頭越しに介護者と話す人も結構多かったです。それはそれは屈辱でした。私はあまりものを考えるほうではない性格ですが、それでも私のような者は、人間ですらないのかと随分考えさせられたものでした。 面白いものですね。こんな私でも考える時間は十二分に与えられているのですから…Sさんは、そんな私でも家族のように接してくれました。そして外出や外泊でも車いすを押して、私の気晴らしに付き合ってくれています。
どうしても声が欲しいと思っている頃に、主治医が探してくれて、特殊な発声装置を手に入れる事が出来ました。この装置で声を出すためには、喉から血の出るほど努力が要るし、相性もあるのですが、嵯峨山さんの協力を得て、運良く失っていた声を取り戻せました。この時の喜びは、のちにイエス様に出会った時の喜びに匹敵するほどの幸福でした。人とコミニュケーションの取れる事の大事さをつくづく感じました。これで、誰とでも対等に会話が出来るようになったと思ったものです。ただ実際の声と違って人工的な声なので、今でも讃美歌は歌えません。
一九九四年頃 パソコンで聖書が読める事を知って、早速飛び付きました。まだ、この時には聖書を一つの読み物としか捉えていなかったので、なかなか面白い本やなと思う程度でした。この頃より、同時期に内科に入院していた重い病気の夫君を介護している女性(以後、実名を出します。)OSさんと知り合い、たまたま彼女がクリスチャンであると分かり、車いすで入れる教会を紹介して貰いました。殆どの教会が車いすでは入れなかったようです。一年に三~四回自宅に泊まり、教会の礼拝に出席する事にしました。聖書に触れた事と、嵯峨山さんの介護によって、荒れに荒れていた心が平穏に戻って来るのを感じ始めました。訪ねてくれる人も徐々に増えて来ました。
一九九六年六月 古い友人のIMさんがだいぶ前からクリスチャンだったと知って、徳島聖書キリスト集会を紹介してくれました。まず、YTさんが訪ねてくれました。最初は私がインターネット(当時は パソコン通信と言っていました。)をしたくても、病院が許可をくれなくて困っていたので石川光子さんが吉村さんにどうにかならないかと相談してくれた事から交流が始まりました。その時にはどうしても願いは叶わなかったのですが、一三年後に病院の方針で実現する事になりました。Yさんは教員を辞して、独立伝道者になっていました。そして集会員の人たちが頻回に訪ねてくれるようになって、キリスト教の事を教えてくれました。そうこうしている内に、聖書が神様の書いた書物だといつの間にか信じられるようになっていました。イエス様にすがっていれば、間違いなく私は生きて行けるとの確信が得られました。この事は不思議な出来事でしたが、神様は何につけても不思議な事をなさると知りました。
わりと早くから、私は楽譜を入力出来るパソコンソフトを使っていたので、Yさんとの会話の中で讃美歌の伴奏を作ったらどうかとの示唆を受けました。礼拝や家庭集会で使っていた讃美歌本は七冊ほどだったので、それだけは何年かかっても全部仕上げようと決心しました。当時まだパソコンを持っていた人は数えるほどだったのですが、もし讃美歌データを使う人がいなくても、完成させるつもりでした。その七冊分のデータは二〇〇二年に終了しました。その後も体力と意欲の余力が残っていたので、もっとデータ化しようと思いました。ノルマは作りたくなかったのですが、それがいつの間にか、今まで一四年間続いています。今振り返ってみると、五四冊分、九四〇〇曲を超えているのには、私が一番驚いています。何をしても長く続かない私のした事ではなく、私の背後で働いておられる神様がなされた事としか思えません。私は楽しい仕事を与えられて、神様のお手伝いをしただけの事です。良い思いをさせて頂きました。こうして神様は思いがけない事をなさる証明になっていると思います。そして私に気力を与えて、まだ続けようと思わせています。この讃美歌データの著作権は私にはないので、有料で配布は出来ませんから、口コミで必要とされた方には、一六五人ほどにCD―ROMにして配られています。欲しいと思われる方には、いつでも送る事が出来ます。
一九九八年三月 KKさんの提案によって、第四主日の午後に病室での集会(つゆくさ集会、徳島聖書キリスト集会の移動集会)を始めました。個室にしてはゆったりしているので、一五人くらい集まった事もあります。この集会は、キリスト教に触れた事のない人や、これからキリスト教を知りたい人でも、自由に出入りしています。礼拝や他の集会に出られない私にとっては、信仰の拠り所になっていますし、新しい友達と知り合う場にもなっています。自由に集会を開かせてくれている病院には大きな感謝の気持ちを持っています。この病室は多くの人が集まり、伝道や学びの場となっています。これは以前の事を思うと嬉しい形になりました。
一九九九年~二〇〇八年 四回連続で無教会四国集会(一回は全国集会)に参加出来ました。毎回証しをさせて貰いましたが参加する度にキリストが理解出来て、友も増えて信仰もしっかりしてきたように思います。毎回Sさんと母の介護のお陰で出席出来ていたのですが、いつも酸素ボンベ三本とエアコンプレッサーを会場に持ち込むのが大変でした。そして二〇〇八年を最後にしました。
二〇〇〇年一月 胆嚢の内視鏡手術の後に、一時心臓が止まって意識がなくなりました。その短い間に臨死体験をしました。オレンジ色の光に包まれました。それはキリストであったと信じています。そして天国が存在する事を知りました。私は臨死体験というものを信じていませんでしたが、本当にあるのです。
二〇〇一年一月 少しさかのぼりますが、一〇年かかった民事裁判が終わりました。徳島地裁、高松高裁、最高裁の三審とも同じ一部勝訴となりました。何故一部かと言うと次のような理由がありました。私が提訴した当時は、医療過誤を専門にしている弁護士が殆どいませんでした。医療過誤が一般にはまだ認知されていなかったからです。私の場合も、代理人になってくれる弁護士を探すのに手間取りました。徳大と利害関係があるという理由で徳島の弁護士に引き受けて貰えなかったので、広島の専門弁護士に依頼しました。結果的にその弁護士に頼んで良い結果になりました。提訴が遅くなったために、民法訴訟法の時効に引っ掛かって、一部勝訴となったのでした。勝訴敗訴も勿論大事なのですが、クリスチャンになっていたお陰で、あれだけ憎しみに満ちていた医師に対して恨みが消えていました。赦すとかの気持ちではなく、その医師の事が、どうでもよくなったのです。そんな気持ちになっていなかったら、今のような平安ではいられなかったと思います。でも家族の誰でもなく、私で良かったと本心そう思っています。私の両親はまだ憎しみから抜けられない様子ですが、私自身がそんな気持ちになれたのだから、それはそれで良いかな、と思っています。私の受けた被害は今更取り返しがつかない事ですから、これ以上書く必要はありません。
二〇〇九年一〇月 病院の再開発に伴って、私の居る東病棟の隣に西病棟が立ちました。それが東病棟にも良い影響を与えて、かつてから願っていたインターネット環境が格段に良くなりました。望んでいた以上のものが得られました。
二〇〇九年一一月 偶然の検査によって、腫瘍マーカーが異常に高いのが分かりました。それ以上の検査をしてないので私にもよく分かりませんが、腫瘍があるのは、肺、食道、喉頭、咽頭のどこかだそうです。今は目に見える症状は出ていませんが、体の中で何かが成長しているかも知れません。その事については、私自身あまり関心がありません。
二〇一〇年三月 Yさん、Kさん、Tさんの薦めがあって、スカイプ(インターネットを利用した無料テレビ電話)をパソコンに導入しました。二〇〇四年から始まったサービスで、世界中のたくさんの人が利用しています。それを使って、県内のあちこちで開かれている徳島聖書キリスト集会に属する場所に行かなくても、リアルタイムで参加出来ます。ベッドの上に居ながらにして聖書が学べます。スカイプによって、五月には四国集会の全ての日程に出られました。全国から集まった人たちとも挨拶をかわす事が出来ました。三月以降、四〇回を超えてスカイプ集会が開かれました。パソコンの前に居るだけなので、今後参加者も増える事でしょう。パソコンも有効に使えば、こんな事も出来る証拠になります。
現在のこと スカイプで多くの集会に参加してみて、自分の信仰が小さな花を咲かせ始めているのを実感しています。たまに体の小さな故障も起こりますが、普段の生活が続く事、つまり神様の与えて下さった仕事を進められるよう願っています。いつも平安で居たいと思います。訪ねてくれるクリスチャンの友を大事にして、付き合って貰おうと思っています。
今後のこと ガンの事は気にせずに、そんな中でも今ある時間を大切にしたいです。どんな出来事が起きても 動揺しない強さをイエス様から頂きたいと心より願っています。静かにまた子供の頃と同じく目立たぬよう、信仰によって生きて行けたら、この上ない幸せです・…。平安、平安。
最近、感じていること―新しい病いを得て KY
この頃、ずっと考えていることです。去年の終わりから、いろんな人に言っているので、もう聞き飽きたぞ、やめとけ、と言われる方もいるかも知れせん。でも、私は書きます。証しをしたくてしょうがないことなので、それを恐れず「ともしび」に載せられるのを期待して原稿とさせて頂きます。私のことを知っている人には今更なにを、と言われるかも分かりません。私を知らない人には自己紹介とします。
私は三五年くらい前(二〇歳の時)から、たくさんの病気を抱えて来ました。一番大きなものは、脊髄の腫瘍です。その後遺症で全身麻痺となり、人工呼吸器に頼る身となりました。入院生活も二五年を超えました。初めの頃は心も穏やかではありませんでした。呼吸も出来ない者が人間として生きて居てもいいのだろうか?将来の希望があるはずもなく、いつも荒れていました。しかし、長い歴史の後、現在ではキリスト教信仰を持つことができ比較的安定した生活を過ごしています。
ところが、昨年の一一月頃にもう一つ違った病気を持つこととなりました。どうやら肺ガンらしいです。
詳しい検査をして治療をしたらどうかと主治医から薦められました。しかし、私は精密検査も、その結果による治療も受けないことにしました。人間には自分の病気のことを詳しく知る権利があります。逆に知らされないという希望を通してもいいのではないかと思うようになりました。普段健康でいる人ならガンを宣告されると、性格によって違うでしょうが、中には絶望を感じるかも知れません。また、反対に病気と闘おうとして、治療に積極的になる人もいるかも分かりません。私はそのどちらでもありません。
私はその時思いました。天の御国に近づいたと…神様が招いて下さっていると…神様に近づけるチャンスだと思えました。イエス様にお任せすることが私にとっては一番良いのだと今思えます。嬉しくなりました。私の最も力づけられる御言葉に、「マタイによる福音書六章三四節」に「思い煩うな」とあります。イエス様の元に行くこと、すなわちそれが「喜んでいなさい」と言われるイエス様にお応えする道ではないかと確信に近い思いを得ました。全てを大いなるお方にお委ねするのが、私たちの最高の幸いなのではないでしょうか。そこから「喜び」が生まれるのだと思っています。私がこの証しで一番言うべきところです。
病気が一つ増えることによって、考えることも多くなります。そうして、「死」に対して準備と覚悟が生じて来ます。神が私に近くなり、また私も神に近く感じられるようになる、これが最近、私が得た結論であり、今伝えることの出来る証しです。
もし私のことを祈って頂けるなら、「癒して下さい」ではなく「なすがままに、なりますように」また「御心が成りますように」と、是非お祈り下さい。私は死に対して願望がある訳ではありません。ただ天の国に行きたいだけなのです。そして皆さん、一緒に御国を目指しませんか。
わたしの死後のことを考えてみました KY
少し重い内容のことを書きます。皆さんは自身が召された後のことを考えたことがおありでしょうか。死後と言っても死んだ後に自分がどこに行くか?とか、生まれ変わりがどうこうと言う話ではありません。私たちクリスチャンは天の御国に行って完全な形になるのは決められています。私が問いかけているのは、死の直後に自分がどうしたいか?またどうされたいか?のことです。つまり残された人たち(家族や友人)に何を伝えたいか、です。遺書とはちょっと違うものです。
私は今五五歳です。普通であれば、まだ死を考えるのは早いのかも知れません。でも年齢に関係なく死は誰にでも必ず訪れるものです。年齢順になるとは限りません。なおのこと私は重度の障害や幾つかの病気を持っています。そのために以前から私と関係を持つ人たちに何らか形で文章にして残しておく必要があると思っていました。家族に心の負担を与えないためです。とは言っても、自分の死を考えたり書いたりするのは気が重いし、なかなか死を実感出来ないものです。延ばし延ばしにしてきました。そんなことでは、いつまでたってもけじめが付かないので、決心して、この度文書にすることにしました。クリスチャンにとっては、死は希望だと思えるようになったこともあります。
具体的に何を書いたかと言うと、まず最初に私が死んだ時の葬儀のことです。本当は葬儀をしてもしなくても私自身はどちらでもいいのですが、家族がいる以上はそうもいかないでしょう。誰に式を取り仕切って貰うかです。その人とは、口頭では約束が出来ています。勿論キリスト教の様式に則ってします。私の場合、配偶者はいないし子孫もいないので、キリスト教式で行っても問題は起こらないと思います。そして讃美歌を選びました。その際の讃美伴奏は、願えるものなら私の作ったパソコンデータを使ってもらおうと思います。骨をどうするか(分骨や散骨は法律の許す範囲内でする)は家族の自由です。キリスト教霊園に入ることも決めてあります。後のこまごまとしたことは司式をする人に任せる、ということ等を簡潔にまとめました。出来るだけ簡素な式にしたいからです。
次に死の前後のことです。これは大事です。何らかの理由で脳死になったり、意識がなくなって自己判断が出来なくなった時には、人工呼吸器は必ず速やかに取り外します。これは私が希望する絶対条件です。胃瘻(いろう)や点滴や人工栄養などの延命措置は避けてもらうこととします。脳死の時の臓器提供の意志も大切なことです。私は今は脳死を人の死と認めませんから、臓器提供をするつもりはありません、しかし誰か生きることに困っている他人を救おうとして、私の家族の一人でも提供を望んだ場合はその意見に従って貰いたいです。これは最近、臓器移植法が改正になって、本人の意志が文書に残っていなければ、家族の意志で提供が出来るようになったのと関係します。私が自分自身の意志を表明していないと、家族が混乱すると思うからです。臓器提供については私の考えとして、どうしても拒否する強い気持ちはありません。これは私に限ってのことです。他の人には違う意見があってもそれは当たり前です。現在死亡する人の中で脳死になるのは、全体の一%くらいだそうなので恐らく私がそうなる可能性は少ないです。
こんな感じで私は書き残しておきました。これは単なる希望であって、必ずしもその通りにならなくても何の差し支えもありません。ただ文書にしておいたほうが、後に残される人が楽だろうと思っただけのことです。私の家族や私の近くにいるクリスチャンの友が、かつて私が存在したことを覚えていてくれればそれで充分です。
二〇一〇年八月
ISさんとの、くすしき出会い KY
先日、新しい出会いがありました。初対面でしたが、ISさんという、クリスチャンであり、病の友が出来たのです。きっかけは、海陽集会に参加しているKEさん(YTさんの教員時代の同僚)が私の事を紹介してくれたのです。Kさんは、以前讃美歌データCDのことで、一度病室まで来てくれたことがありました。するとIさんが嬉しいことに、私と会いたいと思ってくれたのです。
そして、Iさんが七月十日の土曜日の集会に部分参加して、その合間を縫ってYさんがIさんをここ(徳島大学病院整形外科病室)まで送ってくれました。そして一時間後に迎えに来ることになっていました。
私はIさんのことを何も聞いてなかったので、Yさんが自身の友達を連れて来てくれたのだと思っていました。
その日はYさんは祈祷会だったので集会所に戻りその後Iさんと二人で話すこととなりました。私は話し下手だし、相手が女性なので、会話が続くかどうか心配していました。ところが、そんな心配は吹き飛んでしまいました。話している内に、お互いにクリスチャンであり、病の中(Iさんは食道ガンで私は肺ガン)にあることを知って話しは盛り上がりました。クリスチャン同士の魂の触れ合いが現れました。こういう言い方をするとIさんに失礼かも知れませんが、初めて見た時に、弱々しく感じたのはその病気のためだったのだと納得しました。I藤さんは口から食べられなくなった時のために、胃瘻(いろうと読む・皮膚から胃に穴を開けて、そこからチューブで栄養食を与える)を造っているそうです。Yさんが「話している途中で調子が悪くなったら、私の携帯に掛けて呼び出して欲しい」と言っていたほどでした。私たち二人とも自分の信仰のことを話している内に段々と共通点も見えてきました。クリスチャンであることと病者同士であるので、理解し合えるのは当たり前です。Iさんは抗ガン剤はしないと決めているし、私も検査・治療もしないことにしています。驚いたのは、私のところに来るまで徳島聖書キリスト集会の集会所で横になっていたと言うのです。そこまで努力をして私に会いに来てくれたと聞いて有り難さが湧いてこない訳がありません。ましてや二日後に入院する予定があると聞きました。Iさんは自分では信仰がないと言われましたが、そうではなくてキリスト教信仰から来る謙遜さと優しさを備えている女性でした。何度も私が疲れていないかと気遣いを見せてくれました。病者が病者に対して励ましと慰めを与え合うことを感じました。
Yさんが戻って来るまでに出来ることを済ませておこうと思いました。「声を出すのは辛くないですか?」と訊ねたところ、「少し出しにくいけれど、大丈夫です。」とのことだったので、「讃美と祈りをしませんか?」と提案しました。同意をしてくれたので、まず私が新聖歌 二四八番
「人生の海の嵐に」を選びました。私の声は歌を歌うのに適さない声ですが、この時はわりと良く出たように思います。Iさんも大きな声が出ていました。次にIさんが、二八六番 「心くじけて」を選びました。この讃美は音域も広くて難しい曲ですが、とても励まされる讃美歌です。その後、もう二曲、合計四曲讃美しました。まだ歌う余裕はお互いにありそうでした。お祈りをしたのですが、やはり二人とも重い病気を持っているだけあって、祈りも似てくるものだと妙に感心しました。なぜか私もIさんに励まされているな、と思いました。わざわざ休みを取りながら、ここまで来てくれた意義が感じられました。
そうこうしている内に、Yさんが迎えに来てくれました。Iさんも私も、最初よりは確実に強められていました。まだまだ話すべきことはあったのですが、時間の制限があったので、最後に「どちらが先になるかは分かりませんが、お互いに御国を目指しましょう」と約束して別れました。
後から考えてみて、あの出会いは主が私たちに与えてくれた大きな大きなプレゼントだったように思えます。普通だったらあり得ないようなチャンスを神様が造ってくれた特別な出会いだったのです。神様が私たちのためを思って下さった事柄は、必然であり、ご計画の中にあったものだと信じます。この神様のご計らいを「ともしび」の読者の皆さまに紹介し、伝えない訳にはいきません。
神様の心であれば、今後とも交流は続くものと思います。
再会することがあるかどうかは、神様にしか分かりません。
それは神様の手の内にあります。でも今はEメールという便利なものがあります。
今回の嬉しい出来事を文章に残すことを促して下さった神様と、「ともしび」に投稿をさせて頂いた事に感謝すると共に、読んで下さった方々にも、この証しが用いられることを願っています。そして、文章にすることを許してくれたISさんにも有り難く思っています。 感謝、感謝。
彼にあなたの導きを
KY
主の御名を讃美し、主の御名が崇めれますように。
先日のISさんのことに続いて、嬉しくて面白い出来事がありました。
神様の大きな愛と深い憐れみを感じたことでした。
私には三〇年くらいの長い付き合いの友人がいます。私がまだ車いすに乗っている頃に『車イス友の会』というサークルに入っていて、彼がボランティアとして入会して来ました。
Kさんという人ですが、私と同じ歳です。大学を出てからずっと徳島市社会福祉協議会に勤めています。福祉関係の仕事をしているために、ボランティアになったんだと思います。私にはボランティアや障害者仲間と、プライベートな友達も結構いました。
しかし二六年前に脊髄の手術のため入院すると、ほとんどの友人たちは、離れていきました。入院して最初の七年間は、私が声が出せないために、訪ねてくれる人は年に一人か二人程度でした。私が発声出来ない生活を続けていたし、意志も伝達するすべもない、希望も持てない状況の中で流れに委せるしかなかったからです。天井を眺めているか、テレビを見るぐらいで、漫然とした毎日が過ぎて行きました。あの頃は正に拷問に近い状態でした。
七年後に喉に特殊な装置を着けて声を出す練習を始めました。
喉から血の出るような訓練をして、やっと声を取り戻しました。それにはSさんの協力が大きかったです。その時の喜びはこの世で味わったどんなことより大きく、後に経験するイエス様との出会いに匹敵するものでした。
でもKさんは、私が入院してからも見捨てることなく訪ね続けてくれていました。 それは奥さんも『車イス友の会』のボランティアだったこともあります。
Kさんと奥さんが交際している時から、私は見守っていました。
そんな私をKさんはCDを持参したりして再々来てくれました。私を慰めたり、励ましたり、という仰々しいことでもなかったです。
Kさんは、音楽やパソコンに関してはプロフェッショナル並みで、私の師匠でした。
特にクラシックは詳しく教えてくれました。
いつも沢山のCDを聴かせてくれました。クラシックが苦手だった私が、クラシックを好きになるきっかけでした。
私は、フォーク・ソングやカントリー系なので、そのジャンルは私がかなり影響を与えました。 声が出るようになってからは、来てくれる度に音楽の話しで持ちきりでした。
Kさんが訪ねてくれるのを、心待ちにするようになりました。
そして、昔私が弾いていたヴァイオリン、マンドリン、バンジョー、ベース、ギターなどを、定年後の楽しみにどうかと思って全部持って帰って貰いました。将来に至っても恐らく私が使うことはないだろうし、無駄になるだけと思ったからです。
病気になって大学をやめて徳島に戻り、家にこもりっきりになってしまって、私はクリスチャンになるずっと前から、何故か不思議なことにアメリカのゴスペルやマウンテン・ソングが好きで、LPレコードを五〇〇枚くらい集めていました。
でも今では聴くプレイヤーもないし勿体ないので、小賀さんが一枚ずつCD化してくれていました。 何枚か貯まるごとに届けてくれていました。それをMP3でパソコンに取り込んで、今でも折に触れて聴いています。小賀さんは今の友人の中で、唯一と言えるくらいの、非クリスチャンです。でも私がクリスチャンであることは良く知っていて、一番キリストに近い人ではあります。
最近冗談で、この病室はクリスチャン以外は出入り禁止だ、とか言っていますが、Kさんだけは例外です。話しが長くなりましたが、まだまだ続きます。その親しくしていた小賀さんが今年の二月に脳出血で倒れたのです。職場から自転車で帰り道、もうすぐ自宅にたどり着くところで、左半身が動きにくくなったのです。そのまま自転車ごと倒れて、道路に横になりました。自宅に携帯を掛けたけれども、誰も出なかったそうです。
次に自分で一一九番に通報したところ、その時には既に言語障害が出現していて、消防署の窓口の人はKさんが何を伝えたいのか解ってくれなかったらしい。泥酔者と間違われたんだろうと思ったということです。
Kさんは、この様子では脳がやられた、自分の人生は終わったな、死んで行くんだなと思ったらしいです。自分は死んで行くけど、家族はどうなるんだろう。
残業が続いていたそうで、疲れていたのだろう。 偶然そこを誰かが通り掛かって、異変に気づいてくれた。すぐに一一九番に掛けて救急車を呼んで、自宅にも連絡して、徳島大学病院に運んでくれて、集中治療室に入院することになった。数日間、集中治療室で治療を受けて、一般病棟に移ることが出来ました。手術をすることなく徳大には一二日間入院して、ずっと私に会いたいと思ってくれていたらしく、少し落ち着いた頃に部屋に来てくれました。まだ舌の痺れは残っていたものの、言葉は少し弱かったものの充分に聞き取れるくらいに回復していて、倒れてからのことを詳しく説明してくれました。
その時は、奥さんに押されて車いすに乗っていて、左半身はだらりと萎えていました。私は、これはかなりの後遺症が残って、車いすから離脱するのは難しい、と直感的に思いました。幸運なことに右手が使えたために携帯からメールが時々届きました。
右利きの人は、右半身が使えるのと逆になるのでは全然便利さが違います。
私は発病した時、右から麻痺が始まったので、随分不便な思いをしました。
右手の薬指から動かなくなったので、ギター類が弾けなくなりました。
小賀さんより重度な私が言うのもおかしなことですが、職場も失うだろうと思われる小賀さんに、メールで「早く回復しますように…」としか返信出来ませんでした。
それから間もなく、専門的なリハビリテーションを受けるために、板野郡の稲次整形外科病院に転院して行きました。そこはリハビリテーションに熱心な病院で、一日三時間も訓練に費やすそうです。
もしリハビリテーションを怠けたりすると退院させられるほどの厳しい病院らしいです。 後になって医師から、倒れた時はかなり危険な状態だったと言われたそうです。
五ヶ月経って退院の二日前にメールが来ました。
退院したら必ず私のところに来るとの、強い気持ちを込めたメールでした。
でも、どうやってここまで来るのか心配していました。
まだ続きます。
すると退院した次の日にやって来たのです。
私と同様に、この日を待ち望んでいたのだろうと思いました。 私はビックリしました。
右手で杖をついて、左手にCDの束を持って病室の入り口に立っているのです。私はてっきり車いすに乗って誰かに送って来て貰うとばかり思っていたからです。どうして来たのかと訊ねたら、自分で車を運転して来たと、そして障害者用の駐車場に置いて来たと。
私は驚きと嬉しさで飛び上がりました。
本当にベッドから三〇センチくらいは、飛んだような気がしました。
Kさん自身の努力の結果もさることながら、何かKさんという人間を超越した存在が私の願っていた奇蹟のようなことを起こしたとすぐに感じました。
私はクリスチャンですから、私の信じる神様がクリスチャンではない小賀さんをも、私の願いを通して憐れんで下さったことが解りました。
こういうことがあるのかは、私には想像もつきませんが、神様の愛はまだクリスチャンになっていない人にも及ぶのだと気付きました。 こんな体験は初めてであって、神様は何者かを通じてその働きと導きをされる、真実なお方だと強く信じることが出来ました。こうすることによって神様はご自身の偉大さを示し、私の信仰が成長することを助け、イエス様にすがろうとする心を強めて行くのだと思います。
もしKさんが神様に救われたことを知ることが出来たら私はもう望むことはありません。
Kさんがしきりに言っていたのは、この病気になって感謝する気持ちが強くなったと。
その感謝の対象は神のようなものであり、リハビリテーションのスタッフであり、家族であり、つまるところ全てのものだと切実に思うと言っていました。
そして私がもう一つ驚かされたのは、八月から職場に復帰すると聞いた時でした。 残業もすることなく、ゆっくりと仕事に戻ると言っていました。
Kさんは障がい者にはなったけれど、失ったものは最小限で済んだのです。
あの時もし命を無くしていたら、私はかけがえのない友を失うことになっていたと考えると、背筋がゾッとするし、命を復活させた神様の力を思わずにはいられません。
Kさんは神様を知ることもなく、知らず知らずの内に、Kさん自身の意志とは関係なく、大自然に身を委ねることに依って、今の結果を得たのだと思います。
たぶんKさんは、自分を神様に委ねるというような概念は持っていないでしょうが、つまりそれを知らずに実践したのです。
Kさんが意識しないところで、イエス様の腕の中にあったのだと、今私は心から信じられます。
次で終わりです。
最後にKさん自身が語っていた不思議なエピソードがあります。
去年の終わり頃から、何故かキリスト教音楽が聴きたくなって、CDを買い集めるようになったんだそうです。
受難曲、レクイエム、ミサ曲などです。
クリスチャンである私でもよく知らないような音楽を聴いていたそうです。
この間持ってきてくれたCDも、「マタイの受難曲」数枚でした。
そんな気持ちがどこから来たのか本人でも分からないと言います。
私は神様の啓示を信じる者ですから、それがKさんに与えられた神の啓示だと思います。Kさんに対して、大御神、イエス・キリスト、聖霊様からの示唆だったら良いのに、と思っています。
私たちは、自分自身の力で生きているのではなく、三位一体の神から命を頂いていて、そして生かされていることは、今の小賀さんであれば良く理解出来るのではないか、と思います。 先にも書いたように、私のクリスチャン以外の友人の中では一番キリストに近いところに居ます。
私は方向が分かりませんが、Kさんの住まいは吉野町ですから、田宮集会所にわりと近いのでは、と思います。まず、つゆくさ集会にでも参加してくれれば最高です。
そんなこんなで、今そんな夢を抱いています。 でもそれは、Kさんの考えもあるし、神様がどうなさるかに依るし、私の意見でどうなるものではありません。
信仰とは、人生を左右する重大事ですもんね。
イエス様がKさんの左の手足になって下さり、今後人生の友として一緒に歩んでくれればいいな、とね…。
理解されることよりも、理解することを 東京 KT
謙虚になりたいと思う。思うばかりで、高慢な自分に嫌気がさす毎日だが、是非、謙虚になりたい。稲穂は豊かに実るほど頭を垂れるという。神様の霊を受ければ受けるほど心は低くなるのだろう。石の心を打ち砕いてほしい。
気が付いたことがひとつある。高慢になるのは人を理解できないときだということ。人と話していて相手が何を考えているのかわからない時がある。事務的なことですら、意思の疎通ができないと相手が勘違いしていると思い込み、とりあえずこちらの話をわからせようとしてしまう。理解されることのみを要求する。
参ってしまうのは、伝道したいと思うときに、同じ過ちを犯すことだ。神様の素晴らしさ、美しいばかりの正しさ、愛、頼って裏切られる心配のない方だということを伝えたいと思う。しかし、私がこう思うとき、自分の信じているものを理解してほしいという思いがある。精一杯話した後、相手から「キリスト教の信仰であなたが心の安定を保てるなら、それはそれで悪くないと思う。」というような返事が返ってくると私は孤独感に襲われる。この感情は、理解されたいという欲求が満たされないから起きるのだろう。このとき私は、人を理解することよりも自分が理解されることのほうを望んでいるのだ。むしろ、相手のほうこそ私の自尊心を傷つけないように、宗教への批判を抑えて理解しようと努めてくれたのだ。
もっと人を理解する努力ができるようになりたい。自分の考えを伝えることより先に、相手の話に耳を傾けたい。人の悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、そしてまた喜びに、ぴったりと寄り添ってくださるのがイエス様なら、私もその後に従いたい。
神の思いと人の思いについて
松山 MK
このところ、自分の思いが罪だらけの気がして、神の思いは全く逆なのではないかと感じてならない。
人を赦し、隣人を愛することの難しさ。頭では相手を嫌ったり憎んだりしてはならないことを百も承知なのに、心のどこかに浮かんでくる罪の深さに、神様はあきれておられることだろう。
神様はそのような小さな私に、たくさんの愛と恵みを与えて下さっているのに、かたくなに人を赦せない私の心を見抜かれ試練をくださっている。神様の思いは、人間には計り知れないお考えがあり、一人一人にそれぞれの愛と恵みと試練を注いでくださっているのではないだろうか。
「いのちの水」誌を読ませていただく度に、敵だと思う人の為に祈る事の大切さを知ると同時にその難しさを知る。人を見るのではなく、神を見上げ、その人の背後にいる悪が滅びるように願って祈らねばならない。人知では計り知れない神の思いを、後になって知らされる時、「自分の罪を赦してください」と祈り、感謝するしかありません。
先日の日曜礼拝で、マタイによる福音書の「十人の乙女のたとえ」のお話しを聞かせていただき、信仰の厳しさを改めて感じると同時に、神と人との一対一の信仰であるから、世の終わりの時にいつも目を覚ましていなければ誰も助けてくれない、また、助けてあげることができない事を知った。その日、家族に話すと娘が「油を分けてあげられないのはどうしてなのか、ずっと疑問に思っていた。」と言ったので娘の信仰も神様から与えられていることを感じ、不思議な気がした。
信仰の弱い私は、これからも神の思いが理解できなくて、たくさんの罪を犯し、人の思いに惑わされ、回り道をしてしまうかもしれないが、神の思いを第一義とし、真実の信仰者に支えられ、いつも目を覚まして神の栄光の輝きを見させていただけるように、生かされたいと願っている。
信仰を抱いて御国へ 静岡 NM
「信仰によってアベルは‥‥、信仰によってアブラハムは…、信仰によってモーセは‥‥。」旧約聖書に登場する主要人物が、新約聖書のヘブライ人への手紙にこのような書き出しで紹介されている。これらの人物は、神の目からすれば、決して完全な人物ではありませんでしたが、皆、神様を仰ぎつつ生き抜いた人として称えられている。
私の目の前におられたIS様も、これら旧約聖書に登場する人々の中に名を連ねる人である、と私自身思っている。
I様は今年四月二四日、九三歳の生涯を終え御国へ旅立たれた。清水聖書集会を始められた人で、長年集会の代表であられた。近隣無教会集会との交わりのみならず、市内教会との交わりも積極的にされ、無教会、教会の方々から篤い人望を寄せられていた。
私にとってのI様をひと言で言えば、「謙虚な人」に尽きる。本当に心が低い方であられた。私との交わりは、三七年間であった。信仰の道を歩み始めて間もない当時の私は I様との交わりの中で理解できないことがありました。と言いますのも、「主にあって敬愛する‥」の手紙や「主がもし許されるなら‥」の言葉が、どことなくしっくりしなかった。奥ゆかしいというのか、どこか主体性が乏しく、無責任のように感じられた。しかし、これも「信仰による」キリスト者ならではの表明である、と理解できたのは、しばらくの時間が必要であった。本物のキリスト者とは、全てが神様によって生活が成り立つこと、また、人との交わりもその間に必ず神様が介在していることを教えられた。全て神様中心で、神様の御恵み、愛の中で生かされ、その囲いから一歩も踏み出すことなく歩まれました。神様から絶えず小さき者、弱き者であることを示され、どこまでも低い姿勢を貫かれた生涯でした。
「謙虚な人」と思われるI様のもう一つの表れは、平和に対する態度でありました。長年の戦争体験により戦争の悲惨さ、罪深さが体に滲みついた人であった故、神様から自身の罪を赦された者の神様への感謝、絶対的信頼、服従があられたように思う。人間の思う平和、人間の考える平和理論、戦略ではなく、理屈を超越した平和であり、神様からいただいた平和であります。ですから、私には、本当に心から平和の人として映りました。 平和熱心なキリスト者が、私の周囲にも多くいますが、平和を口にしながらも一方で自らの口から非平和的な言葉を発する人、怒りやすい人をかなり多く見受けます。最近、特にそのことを強く感じてなりません。何故でしょうか。自分と比較して、平和に熱心でない他者への苛立ちなのか、あるいは自身の熱心さを他者へ誇示したいのでしょうか?
キリスト者の平和は、「信仰によって」神様から与えられる賜物です。熱心さを他のキリスト者と比較するのではなく、あくまでも神様との関係が平和であることです。そのことがなければ、他者との平和はもちろんのこと、地域社会、国の平和はありえません。キリスト者が平和の人であるか否かは、神様とその人の関係が平和であるか否かを示すことに他なりません。
I様は、この世において平和への取り組みを熱心にされました。
韓国・台湾へ侵略戦争謝罪の訪問、軍事費分納税拒否裁判への取り組み、沖縄反戦一坪地主の働き等を行いました。忍耐を要し、目に見えるような具体的な成果は殆どなかったことでしょう。しかし、決して慌てず、苛立たず、近くで拝見していても、いつも穏やかな心で居られました。神様によって、信仰によって、独りでコツコツとこの世の平和の取り組みをされていました。ですからいつも心に余裕が、平安が、喜びが見受けられました。
御国へ帰られてしまったI様、この現実に向き合う今の私に示された御言葉があります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」です。神様によって直接自身に示された信仰の道、只一筋の道を脇目も振らず、イエスだけを見つめて御国まで歩むこと、このことを石原様は自身の信仰生活で実践されました。
信仰を抱いて御国へ帰られた人を拝見できたこと、これほど確かな事実はありません。私自身、今後I様により示された「信仰を抱いて御国へ」を目指したいと願っています。
理解と「導き」 香川 MD
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに たよるな。箴言三章五節
Trust the LORD with all your heart and lean not on your own understanding.
PROVERBS 3
以前、「自分の祈りは聞かれているのだろうか?」という少々ゴリヤクめいた疑問を持ったことがある。特に、主に「助けてください」と拠り頼む時にも、「こうしてほしい」とか「こうなったらいい」というような自分の欲が「影」として祈りの最中にも現れているのを感じていた。今もやっぱりそう祈ってしまう。ここで言う自分の「このほうがいい」という考え方は、主の御計画をまったく度外視した、自分の現状の理解においてなされる単なる判断にすぎなく、往々にして、自分の理想や計画であり、そして、その根幹には自分の理想、地位、やプライドを守ろうとする保身から来る場合が多いように感じられる。
つい最近、結婚し、教師という仕事を辞めた。仕事中は、学会に行って論文発表をしたり、生徒を教えたりと忙しくしていた。しかし、この「大学」という自己顕示欲を満足させることに重点を置いている世界に疑問を感じ始めた。そして、日本に導きを感じて妻と二人で帰ってきた。日本にいる兄弟姉妹に会えるという喜びが大きかった。
しかし、いざ日本に帰ったら、自分は日本人なのに日本人扱いされず、就職も無かった。「神様は必ず導いてくださるし、全て自分に必要なものは供えくださっているし与えてくださる」と信じて日々生活した。しかし、それでも自分の中に「これでいいのか?」とか、「失敗だったのでは?」とか、という声が聞こえてくる。自分の理想と今の自分の置かれている現状がかけ離れ、しまいには絶望して「来年になったら大学に帰ろう」とまで思うようになった。そうしたら、現実逃避がすぐに始まった。「日本にいるのはほんの僅かの間だから、主夫をしよう」とか「パートで今の生活を楽しもう」とか思い始めた。仕事探しにも力が湧かず適当にあしらうようになった。そうこうしているうちに、履歴書を出した次の日に、英会話の学校の仕事の面接の電話を受けた。現状からすでに逃避している自分には仕事をする気もなく、また、おっくうだったが一応話を聞くだけ聞いてみようと思って面接の日取りを決めた。面接日の当日、「日本人だから外国人のように給料は出してくれないのではないか」とか、「毎日気楽にやるはずだったのに、仕事が入ると面倒だ」などとぼやきながら準備をしていた。断るつもりで面接に出かけようとして、ふと壁にかけてある聖句に目が行った。冒頭の句である。
その瞬間、全てが吹っ飛んだ。暗闇と重々しい感覚が一掃され、なれあいの雰囲気もなくなり、不安も苦しみも憂鬱もなくなった。そして、自分の罪を知った。キリスト教の語る「罪」とは「的外れな」という意味であるそうだ。英語では、「deviation」に近いと思う。この単語は、統計学でよく使われたりする単語であるが、「基点からの誤差」または「はずれる」という意味がもっともふさわしいかもしれない。僕は初め「主のみこころのままに導いてください」と祈って生活していた 、しかし、やがて「自分の生活はこうでなくてはならない、だから自分のいる現状は意味がないし、またつまらない」というふうにもともと自分の心のあったところから外れてだんだん的外れなことに心囚われてしまっていた。 『みことばを受けて、みこころを信じ』、面接に行った。すると、面接先は自分の思ったものとは全く違って遥か以上に善いものでした。神様は自分の思い煩いを自分以上にご存知で、いつも自分が願った以上の素晴らしいものを与えてくださいます。「自分の祈りは聞かれているのだろうか?」という疑問を冒頭で話した。しかし、自分の「理解*」は常に正しいのだろうか?(*悟りと訳されているが、英語では「understanding:理解」と訳されている。)人間は全てを知っているかのように振る舞っている。自分もそうであったし、今もひょっとするとそうかもしれない。それくらい人間は「それやすい」性質を備えている。聖書はこう書いている。「初めに、神が天と地を創造した。(創世記一章一節)」と。そして、人間が創られてからもう幾世代になるだろうか?幾年月が過ぎ、いったい何人の人々が生まれそして死んでいったのだろうか?聖書は、有史以来、人間は神様に背き続けてきたといっている。始まりから現在に至るまで、無数の人々が、生きとし生ける全ての人々が神様に背いてきた。全ての世代が神様に背を向け続けてきた。しかし、それでも、なお、それでも、神様ははじめから全てのことをお知りになり、ひとり子、主なる神、イエス・キリスト様を我々に与えてくださり、暗闇にある我々の心に光をさんぜんと照らしてくださった。神様は、我々を創る前から全てをご存知であり、愛され、そして、我々を価値在るものとして今も信じておいでになられる。これ以上の愛は無い。これ以上の希望も、他の愛からは生まれない。これ以上の真理も、これ以外の愛からは生まれない。これを信じること以上の信仰も、また無いのである。主よ、どうか共にいて、われわれの右手をとって導いてください。そして、われわれにより一層はっきりと真理とみこころを示してください。
「日本キリスト者医科連盟総会」に参加して KK
大阪で開かれた「日本キリスト者医科連盟総会」という会に八月二十日から二十二日まで参加した。
どんな会かわからなかったし、不安だったけど、思い切って参加したら、思いを超えて、大きな恵みと主にある出会いが与えられた。この会の存在をわたしが知ったのは昨年だったが、この総会はことしで六十二回目ということだった。さまざまな分野で、医療従事者として信仰をもって戦いながら生きている人たちに出会った。それはわたしにとって、大きな恵み、励ましになった。そして、宿泊は四人部屋であり、そこで出会った人たちとは、いつのまにか、心の深いところでつながることができ、大切な友人たちとなった。この出会いもまた、わたしの心の中に、新しい生きた風を吹き込んでくれた。キリストの名前によって集まることはなんてすてきなんだろう。初めて会った人たちが、ともに静まり、祈り、讃美する。そして、それぞれの働きを聞き、痛み、苦しみをわかちあう。同じ医療者としての苦しみと喜びがよくわかる。わたしも自分の悩みを話すことができた。交わりの中にいてくださるキリストによって問題が解決されていくのだと感じた。
この「日本キリスト者医科連盟」を母体として「日本キリスト教海外医療協力会」(今年で発足五十年)が生まれた。貧しい国に行き、医療の支援のために働かれている。今回、その働き場から帰国した人たちの活動報告もなされた。また、実際にホスピスやホームレス支援の現場(釜ヶ崎)の現場に案内してくださるオプションもあり、わたしは炎天下の釜ヶ崎に連れて行ってもらった。焼け付くような路上で生活しながら日雇いの仕事を待っておられる方、同じく焼け付くような路上で支援されている方、実際にこの炎天下で共に厳しい日雇い労働をしながら、労働者の方々を支えているキリスト者の姿を見て、言葉だけではない実践の姿の尊さに感動した。
メッセージから受けた恵み。主の愛を実践する姿から受けた恵み。出会いから受けた恵み。いっぱい恵みを受けた。参加して良かった。
帰ってきた翌日、朝から勤務だった。わたしの置かれた働き場だ。総会で出会った姉妹たちも、きょうもまた、それぞれの病院や地域で働いているのだろう。そう思うとわたしも励まされ力を与えられる。
神様は、痛みと悲しみと、そして喜びと感謝と、いろいろなことを織り交ぜながら、きょうも生きてわたしたちを導いてくださる。必要な出会いを与えてくださる。だから、きょうを感謝しよう。明日に期待しよう。自分がだめでもかまわない。力も愛もないのだけれど、罪あるところに十字架があり、弱いところに働いてくださる主が、きょうも共にいてくださる。だから生かされ、働くことができるのだ。ハレルヤ。
あるキリスト者の定年後の一日 大阪 NY
彼は毎朝四時から五時頃に起きる。目覚し時計は必要ない。六時過ぎになることもあるが、それが彼の一日のスケジュールに支障をきたすわけではない。会社を定年退職して二年余になる。会社に通っている頃は目覚し時計をかけ、五時半に起き六時半に家を出て八時過ぎに会社の自分の席に着くという生活だった。往復に三時間以上という通勤に疲れを覚え、彼は会社を辞める決意をした。少なくとも、あと二年は定年後雇用延長制度で会社での勤めを継続することはできた。彼の先輩の中には、さらにアルバイトという形で週に二日ほど出勤している人もいた。彼は退職を決意するずっと前から退職後の生活を思い描いていた。
一番気になったことは、辞めて労働による収入がなくてもやっていけるかということだった。公的年金のみを主な収入源として、今ある貯金などを寿命の時までもたせることができるのだろうか。一度辞めたら何らかの職につくことは困難だろうと予想された。貯金の取り崩しは不安だった。あまり切り詰めた生活で、たまの小旅行とかもできないのでは辛いことだと思った。
次の問題は自分の一日のスケジュールだった。仕事と通勤のためにかけていた時間がまるまる自由になって、することがなくて時間を持てあましてしまうのではないだろうか。世間では定年後にやることがなくて奥さんの行く所にどこでもついて行って嫌がられるという話もある。彼は趣味の多い方ではなかったが、趣味に頼ることは飽きてしまう危険性があった。
ここまでは世間一般の思考パターンである。多くの人はここで心配になり、もう少し勤め続けて、相手に「辞めてください」「もうこれまでよ」と言われるまで勤める。勤めてもいいと言われている間に自分で辞めることは難しいのだ。でも彼にはイエス様がついていた。イエス様がアイデアをくれた。ボランティアをやればいいではないか。ボランティアにかける時間は自分でも調節できる。彼はイエス様が背中を押してくれたので、不安はあったが、退職後は仕事をしないでやってみることに決心した。
定年退職後二年余を経た今の彼の一日はほぼ一定してきている。朝起きてから彼はまず一人で聖書に向かう。朝一番には、神とイエス様からの語りかけが聞こえるような気がすることが多い。通読表に従って一日一章を読むと、新約は一年で一回、旧約はほぼ二年で一回読み終えることになる。まず新約聖書を黙読し、次いで音読する。そして、その章から感じたことを祈りの中で神とイエス様に告げる。次に旧約を黙読、音読して聖書を閉じる。二十分程度である。家族と犬はまだ眠っている。
その後、半年くらい前から彼は、朝、コーヒーを淹れることにしている。レギュラーコーヒーをろ紙によるドリップで淹れる。香りが広がり、ブラックで飲むと朝のゆったりした気分に浸ることができた。コーヒーを飲みながら彼は小さな音でラジオをかけ、パソコンのスイッチを入れる。インターネットでニュースを見た後、徳島の信仰の姉妹たちが開設しているブログに眼を通す。ブログには礼拝で学んだ内容の解説、日々の出来事あるいは主を讃える素晴らしい詩が書き込まれている。彼はいつの頃からか、そのブログの内容から受けた率直な気持ちをコメントとして記入するようになった。直接話をしなくても姉妹たちと心が通い合うひと時である。主にある信仰の兄弟姉妹は年齢を超えて交わりを持つことができ、昔からの知り合いのように会話ができる。主イエスを介しての心の交わりをもつ幸福を実感している。これからも種々の集会での交わりを通して、心が通う信仰の兄弟姉妹は増えていくものと思う。彼はブログの後、徳島と高槻の聖書キリスト集会のホームページ更新の内容を確認する。
六時半頃、ラジオ体操をして体調を整えた後、朝食にかかる。この頃に家族と犬が起きてくる。掃除、ごみ捨てなどの朝の雑用を済ませてから、彼はその日のスケジュール表を確認する。優先順位の高いものが重ならないように彼は必ず記入することにしている。
日曜日は主日礼拝が最優先だ。通常は午前十時半から始まる。二ヶ月に一度は午後に集会が開かれる。主日礼拝から帰るといつも元気になっているのを彼は感じる。その集会の時に「いのちの水」誌をいただいた時は礼拝から帰ってそれを読んで過ごす。通常は読み終えるまでに二、三日かかる。日曜日の夜は、動物病院を開いている息子夫婦が三匹の犬を連れて夕食に来て、狭い台所は人間と犬で溢れかえる。家族全員が揃う幸せなひと時だ。
ボランティアは、主日礼拝の集会が開かれるお家から近い、ある救護施設に週二回、各半日ほど行っている。一つは、通常三名の施設利用者の方に三名のボランティアが付き添って近くのスーパーまで行き、財布を預かっておいて、利用者の方の買物の費用をレジで清算するものだ。二、三百円のお菓子などの買物の後、全員でコーヒーなどを飲みながら話をする。もう一つは、施設内の食堂で喫茶コーナーを実施する時のお手伝いだ。利用者と職員とボランティアが協力して行う。お客は利用者の方で、五十円か百円で券を買ってもらいコーヒー・ジュースなどとお菓子を券と引き換えに出す。毎回八十名程度の利用があり、多くの利用者の方と顔見知りになる機会となる。彼は一年半程このボランティアをして、最近では利用者の方から声をかけられるようになり、うれしい思いをしている。彼はこの施設の実施するバス旅行に参加したり、かくし芸大会の審査員をしたりして、自分が昔とは変わった人間になったと感じることがある。彼はそれまで人付き合いが良いとは言えない方だった。自分の町内では三十年以上も近所に住みながらご近所同士でゆっくり話をしたこともない人間だった。
月に二回は市の施設で行われる「男の料理教室」に参加する。生徒は定年後の男性ばかりで、いつも定員待ちがあるほど盛況である。二十名くらいが毎回くじでグループに分かれ、レシピの講義を受けた後、分担して四品目くらいの料理を一時間半程度かけて作りそれを昼食としていただく。彼は料理は化学合成実験に似ていると思った。各化学物質(食品材料と調味料)を一定割合に混合し一定時間反応(加熱調理)する。ただし慣れてくると料理の方は勘で適当にできて舌が決め手だということも分かってきた。種々の形の野菜をどのように皮をむいていかに包丁で切るのかも、魚のさばき方等々、実際に料理をしてみてわかるということは多い。料理教室では先生と助手の方が材料を全部準備してくださるが、これらを材料の購入から調理と全部自分ひとりでやるとなると大変だろうなと彼は始めから半分あきらめている。自分たちが作った料理を雑談しながら食べる昼食はいつも楽しくておいしいと思う。それぞれ四十年くらいの間、異なる職業で勤めあげた同年代の名も無い男たちが同じ釜の飯を食っている。過去のことを話すわけではないが境遇が似ているからだろうか話はよくかみ合う。
彼は糖尿病などの持病を抱えていて、月に何回か病院に行く。血液検査により他の病気の兆候も検査してくれるので医者には感謝している。
市立の図書館が歩いて五分ほどの近くにあり、もう三十年以上も利用している。市立の図書館は市内に全部で5ヶ所あり、最近は、インターネットで蔵書のデータベースから検索して予約により取り寄せてもらって借りることも多い。小遣いの額もあり また、本を置くスペースも無くなっていることから、本を新しく購入することは止めてできるだけ図書館にある本を活用するようにしている。しかしキリスト教関係の本では、内村鑑三や矢内原忠雄の著作はかなりあるのだが、黒崎などとなるとまず置いていない。海外のものもほとんど無い。彼はどうしても読みたいときには、長らくためらった挙句にインターネットあるいはキリスト教書店などで購入する。榎本保郎の「旧・新約聖書一日一章」、矢内原忠雄全集などは購入してから何ヶ月もかかってまだ読み終えていない。
時間の余裕ができた時、彼は徳島集会代表の吉村兄の講話をパソコンで聞く。ヨハネ伝・ルカ伝や創世記はCDとなっており、また、夕拝などでの講話は高槻集会の那須兄がホームページに載せてくれたものをダウンロードして聞いている。インターネットではキリスト教放送FEBCが毎日更新されており、I牧師の話や詩編、マタイ伝、各地の牧師の証し等、楽しみに聞いている。これらは時間のある時にこちらのペースで聞けるという利点がある。
彼は徳島のY兄の紹介で、午後三時祈の友に加祷者として入会して二年余になる。会が発行した「祈の友」という冊子に都道府県別に会員の氏名が月曜から土曜日に別けて記載されており、その曜日に午後三時に祈ると全国で同じ人に対する祈りが同時に行われ祈りが強められるという趣旨なんだそうだ。彼は、週六日間、欠かさずその曜日の方々へ一人ずつ、病気が癒され主の平安が与えられるようにと祈っている。しかし、時刻については、自分のスケジュールが優先されて午後三時には一定できないでいる。
彼は本を読んだり話を聞いたりした時に自分が感じたこと、わかったことを忘れてしまわないようにメモにとっている。徳島の集会では年一回、「野の花」「ともしび」という文集を発行している。また、午後三時祈の友会でも冊子を年三回発行している。彼はそれらに書きため ておいた文を寄稿し、さらにもっと長文のものは一般の同人誌に投稿している。
彼は主に賜った自分の肉体を健康に保つため、そして、糖尿病の悪化を防ぐ意味もあって、一日五千歩を自分に課している。ちょっとした買物や用事を作って散歩を兼ねて町の中心部まで万歩計をつけて出かける。
毎日、彼は午後十時前には床につく。床に入り、イエス様と父なる神様に今日一日私たちを守ってくださり、多くの恵みを与えてくださったことを感謝する。その後、眠る前に矢内原全集などを読む。このペースだと彼が召される時までに矢内原全集を一通り読み終えることはできないだろうなと思っている。最近、彼は、神を知ることは限りなく、また 奥深く、飽きることがないと思うようになった。
定年退職後二年余を経過して、退職前に心配していたお金のこと、時間を持て余すことなどは、今のところ、まったく心配ないことが彼にはわかった。
彼はこのように恵まれた老後を送らせてくださる神とイエス様に感謝している。このように穏やかな平安に満ちた日々を送ることができない原因・理由としては、少し想像するだけでも、十指に余るほど思い浮かべることができる。それらのことをまったく経験することなく過ごさせていただいていることには、神の大きな恵みが働いているに違いないと彼は思っている。
短歌―みことばの真実
IM
○人の目と神様の目を意識して
振り子の如き揺れる弱き吾れ
○みことばの真実記す聖書在り
学びの時と平和与えられ
○イエスさま愛一筋に十字架の
苦しみ知りて産まれ給いし
○生涯をベッドで過ごす君のもと
主にある人の見舞いて止まず
○学びたるみことばしかと携えて
訪ねし友に熱く語りぬ
○この闇も主に叫ぶこと祈ること
信じることで光が見える
俳句― 若葉風
IM
○ 若葉風はねし仔牛の背を撫でる
○ やわらかき光吸い込み薮椿
○ 風吹きて新樹の光こぼれ落つ
○ 野苺を摘みつ偲べる古城あと
○ 山藤の静けき家の軒に垂れ
○ あじさいの雨に打たれて青深む
○ 夜明け待ち鷺の降り立つ青田中
○ 闇深く光る蛍を招き寄せ
○ 坂険し青葉の風に押され行く
「素朴な共感」 静岡 MK
私の好きな小説にイギリスの女性作家ウィーダの「フランダースの犬」があります。少年ネロは絵の天才に恵まれながら、貧困と差別という社会の冷酷な現実に踏みしだかれ、酷寒のクリスマスの夜、教会のルーベンスの名画(「キリスト昇架」「キリスト降架」)の下で愛犬パトラッシュと共に天に召されてゆくという物語である。
中学生の頃に初めて読み、涙を流して感動したことを覚えている。その時は少年ネロに感情移入し、ただただネロが可愛そうで涙を流した。
大学生の頃、再びこの小説を読み、ネロを極貧に追い込む社会、ネロの才能を認めているにもかかわらず彼の絵を落選させ金持ちの子の絵を当選させた大人のいやらしさ、彼の才能を認める純真な少女アロアに貧乏であるという理由だけで交際を禁止するお金持ちの父親など、社会や大人の世界に非常な義憤を感じた。それはある部分いまも変わらない。
そして信仰が与えられてから、また再びこの小説を読んで、それまでと違う感情と思索に導かれた。この少年と老犬の不条理な死の意味は何であったのだろうかという思いである。
私のたどり着いた結論は、贖罪の死ではなかったのかという思いである。
彼は、あの時代の人の罪、社会の罪の一部を担って死んでいったのではないかということである。
しかし、一部であるにしろ人間が人の罪、社会の罪を担って死んでゆく、つまり人間に贖罪の死があるとは聖書のどこにも書いてはいない。贖罪の死はイエス・キリストの十字架の死だけである。では、彼ネロの死は無意味な死だったのだろうか?
マルチン・ルーサー・キング牧師もそのような思いに導かれた一人である。一九六三年、非暴力による公民権運動の先頭に立っていたキング牧師の教会が反対派の人物により爆破され、四人の無邪気な少女が亡くなった。このとき、告別の壇に立ったキング牧師はこう言う。
「彼女たちが死んだのは無駄ではない。神は今もなお悪から善を導き出す途を備えておられる。歴史は繰り返し繰り返し、不条理な苦難は贖罪の力を持つことを証明している。この少女たちによって流された血が、この暗闇に満ちた町に新しい光をもたらす贖いの力をもって働くことは確かである。」(*一)
彼マルチン・ルーサーキングは、聖書の根拠を示すことはしないが、彼の信仰によってこう語ったのである。
キング牧師は、この言葉に続けて、「この時がどんなに暗いからといって、私たちは絶望してはならない。また、怨念を抱いたり、暴力をもって報復したいという願いを抱いてはならない」と、黒人たちをなだめた。もしこの時彼が、この少女の死が無意味な死であったと言ったならば、黒人たちは報復へとなだれ込んでゆき、際限なき暴力の連鎖が始まったことであろう。
一方、内村鑑三も同じような信仰を持っていた。彼はこう言う。
「死は犠牲である。同時に贖罪である。何人といえどもおのれ一人のために生き、また、おのれ一人のために死する者はない。人は死して幾分か世の罪をあがない、その犠牲となりて神の祭壇の上に献げらるるのである。(中略)あるいは、家の罪を、あるいは社会の罪を、あるいは国の罪を、あるいは世界の罪を、人は彼の品位いかんによりて担いかつ贖うことが出来るのである」(*二)
内村鑑三も、聖書の根拠を示すことはしないが、彼の信仰によってこう語ったのである。
この二人の贖罪信仰は、神学者からは批判されるであろう。しかし、私はこの二人の信仰に素朴な共感を覚える。
私ごとで恐縮であるが、私の妻が召されるときのあの異常な苦しみ、そしてあの死の意味を考えるとき、妻は私の罪の一部を担って苦しみそして死んでいったのではないかと思え、私は悲しみの回想と共に感謝と安らぎを覚えるのである。
(*一)M・L・キング説教集「私には夢がある」新教出版社 p一一四「第十六番通りバプテスト教会爆破による幼い犠牲者たちへの告別の辞」)(*二)内村鑑三「聖書之研究」一四一号(一九一二年) 「祝すべき死」)
神の愛はすべての人に TR
最近のニュースで子どもの虐待についての事件をよく聞くたび、胸がしめつけられる。とくに、先日起きた大阪での幼児を放置死させた事件については、夜眠れないくらい考えさせられた。私にも二人の良く似た年頃の子どもがいるから余計にショックだった。放置死させてしまった母親の気持ちを理解できないと言う人がたくさんいると思うが、まわりの環境、本当に孤独な中の育児によるノイローゼなど人ごとでは決してないことだと思った。
私も0歳と3歳の育児生活の中で、ほとんど毎日霊肉共に落ち着きがなく、考えさせられることが多い。また、考える時間さえないときもある。育児ノイローゼと隣り合わせに生きている親がたくさんいると感じる。もちろんこの私もそうだ。放置死させるところまでいくとは…行くべき道が見えていなかったのだろう。
家庭集会で最近スカイプによる礼拝に参加させてもらい、そこの感話でK兄が言われたことが心に残った。それは、「私は以前行くべき道がわからなかったが、信仰を得て、しっかりと行くべき道を示されるようになった。」という言葉だった。私も共感できたし、まだまだ、信仰がぐらついているからか、時々、道に迷うこともある。
放置死にいたった幼児二人は、そしてその母親は…また、私の知人など、全く神様を知ることがなかったように見えて世を去る人々は…と長いことわからなかった。
平等に創られているはずなのに生まれたときから主をしらされているかのように見える人、また、その逆の人。
ある日、ふと、そのことを主人に話したら、とっさに「そこに大きな青空が見えてるよ、きれいな鳥の声が聞こえてるよ、誰かに優しくしてもらえるときがあるよね。どの人にも神様からの愛が、恵みが与えられているけど、気付くか、気付かないかはそれぞれなんだろうと。いま、心にこのことが浮かんできたよ。」という答えが返ってきた。
長い間考えていた一番心にかかっていた事に主が応えてくださった。それこそ、主の愛が私に注がれたと感じた瞬間だった。
近畿集会に参加して SY
八月七~八日の二日間、京都の桂坂で近畿集会が開かれました。聖霊をテーマに、近畿の主にある方々が祈りつつ準備してくださり、ふしぎな風が吹き、聖霊に満たされた集会となり感謝でした。
講話も証も聖霊に導かれて、心に残るものでした。参加者一人一人の自己紹介からも、それぞれが主に導かれていることを知ることができました。
特に心に残ったみ言葉は、「求めなさい、そうすれば与えられる。」 (ルカ十一・9)でした。誰でも聖霊は求めたら必ず与えられる。今どうなのか?聖霊に満たされているか?いつも今どうなのか?と問われている。絶えず忍耐を持って、求め続けて行くことを改めて教えられました。
主の名によって集まる所に主が共にいてくださる。そこに主の聖霊が働く時、そこにいるだけで共に聖霊の恵みをいただくことができる。
人は何か問題が起こった時、心にある罪が出てくるが、そのような弱い心を持ったままでも、聖霊の働きによって、新しい心に変えていただける、感謝でした。いつも目をさまして、求め続けていかなければと思います。
「祈り」 大阪 NY
暑さの中にあっても 今日も礼拝に兄弟姉妹の名を呼んで集めてくださる主イエス様に感謝の心が溢れてくる。ひとすじの聖霊の風が吹き注ぎ、あつまる者一人ひとりに大きな神様からの力と希望を今日もいただいた。
今年の近畿集会を終えて、今心の中にあることは、神様はさまざまな人間の煩いや心配を超えて働いてくださるということだった。そしてどんな集会も名前を呼んで主が集めてくださったお一人おひとりに聖霊の風が吹き、集会を満たしてくださるということであった。
「聖霊」というテーマを与えてくださり、そのことに思いを馳せている頃、水野源三さんの本「美しい世界に」を読む機会があった。水野さんの詩と信仰からあらためて、深い秋の青空の下で凛として咲く一本のりんどうの花のように清冽な信仰の印象を受けた。
重い障害をもって体の自由が利かなくなってしまった源三さんは、「生きる」ために水を求めていた。いのちの水が源三さんに注がれた。
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
憎しみも恨みも
霧のように消えさりました
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
悲しみも不安も
雲のように 消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました
喜びと希望の
朝の光がさして来ました。
「弱さの中で 力ははたらく。」というパウロの言葉。この世の弱い人の中に神様は栄光を現される。キリストの栄光の証人とされる。このことの意味を源三さんからも痛烈に感じることができた。
源三さんにとって信仰は生きるか死ぬかの問題だった。大切なものを取り上げられてそこから得た救いであり、これしかないという聖なる信仰だった。
私たちの信仰はどうか。これしかないという厳しい信仰、言い換えればこれさえあれば他には何もいらないと切実に求めているのか、身が引き締まる思いがする。
ヘブライ書の最後に学んだ「御国が来ますように、御心が地にもなされますように。」との主の祈り。私たちの小さな祈り、願いは自分の思いからくることが多い。心を貧しくされて低くなりきって祈ることがむずかしい。どこまでも「自分」が姿をみせる。神のご意志に任せることができたらどのように思い通りにならなくても悲しみが来ようともすべてが成就されるという主への信頼をもつことができる。そのような祈りをささげたいとしみじみと思う。
み神のうちに生かされているのに み神に深く愛されているのに
自分ひとりで生きていると ともに生きる人を真実に
思いつづける心を 愛し得ない心を
砕いて砕いて砕きたまえ 砕いて砕いて砕きたまえ
私の通ってきた道 SM
森永ヒ素中毒により全く目が見えなくなりましたが、イエス様によって、どのように導かれたかをお話しさせていただきます。今から五〇数年前に徳島にある森永の会社で作られた粉ミルクの中に誤ってヒ素が混入していてそのミルクを飲んだ赤ちゃんが当時たくさん亡くなりました。 私もそのミルクをずっと飲んでいて一歳くらいの時にはいろいろと内臓が悪くなり毛髪は全部抜け落ちて両親はもうこの子は死んでしまうのではないかと、とても心配したそうですが 幸い命はとりとめ視力にだけ障害が残りました。小さい時は少し目が見えていたので、普通の子供と同じように 幼稚園や小学校に行きました。
でも視力が弱い為に特に小学校の時はからかわれたり、いじめられたりと随分辛い子供時代を送りました。そして中学校から盲学校に移り盲学校の高等部理療専攻科というところに進んで将来は鍼治療をして人の病気を治したいとその道を選びました。その頃、私の母が甲状腺の病気でバセドウ病という病気になりました。 かなり重い症状でいろいろ苦しんでいましたが 私が習ったばかりの鍼治療を母にしてあげようとするのですが、技術が未熟な為に私の鍼が痛いと言って母が受け付けてくれません。 将来私は家族も治せないような 鍼をして人からお金をいただく事はとてもできないと 悩んで盲学校の先生に相談したら「卒業したら、東京にある信愛ホームという所に行って、さらにそこで習ったら、お母さんの病気は治して上げられるよ」と先生が言いました。そこから出版されている本を貸して下さいました。
そのホームは、平方龍男という明治の半ばに生まれた人が設立したホームで、この方は若い頃に内村鑑三の影響を強く受けて、無教会の集会を開いていて自分も信仰をずっと保ち続けている人でした。 そのホームは、自分が長年かかって築き上げた平方流という鍼と 福音を盲人に伝えるという二つの目的で設立されていました。
私は信仰の事よりも母の病気を治してあげたいという一心でそこに行きました。入所式の日に聖句が配られましたが、「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」と書いてありました。先生のお話が始まって 「あなた方はこの世から神様に選び出された恵みを大切にしなさい。ここで信仰を持って信仰を人に伝えられるような人になりなさい」と言われました。
ここでは、鍼の技術や生活の事を訓練しますが、一番大事なのは信仰です。神様第一です」と言われました。ここでやって行けるのかなと思ってとても不安になりました。 一年目はギリシャ語の授業があったり 礼拝や祈祷会で難しい旧約聖書の話しがありました。全寮制のその学校は就寝時に聖書のお話しがあり信仰の話しが多くありました。十ヶ月くらい経ったとき、次の入学生の為に神様の祝福を受けて救われますようにと 皆が真剣に祈っているのを見て、去年もこんなに祈って準備して迎えて下さったのを思うとその祈りに動かされてそれからは真剣に聖書を読むようになりました。
そこは先生も学生も全盲の人が多かったのでヨハネ九章の自分が盲人になったのは神様のわざが自分の上に現れる為であると沢山の方が信じていました。私もそこで三年半養われている間に 段々その事も受け入れられるようになって私は母の病気を治すためにここに来たが神様は私のような者を選んでくださって失明した時に困らないように心の準備をさせてくださったのだという恵みがわかるように 心を変えて頂きました。
キリスト教で一番初めに驚いた事はある先生が 私に向かって、「君はヒ素中毒になって良かったね。だからここに来てイエス様と出会う事ができたんだよ」と私に言われました。 それまでの私の周りの大人たちは「この子がヒ素中毒にさえなっていなければ普通の子供と一緒に生きていくことができて良かったのに」と 言われ続けていたのですが、キリスト教は何て物の見方が違うのだろうと 驚きました。
三年半経って徳島に帰る頃には、私は目が見えなくなっても大丈夫、私には信仰があるからと思って徳島に帰って開業しました。数年経ってやはり目が見えなくなった時には自分の信仰がどこかに行ってしまって 「神様、私が大事にしている少しばかりの視力が奪われてしまって何故私がこんなつらい目に遭わなければいけないのですか。何故なのですか。」とつぶやくようになり、ついには祈る事も聖書を読む事もできなくなりました。毎日人の幸せを妬んだり、自分はどこかで大きな事故にでも遭って死んだらいいのにとそんな事ばかり思っていました。ある時に 見えないという不自由さよりも自分の心の状態がとってもイヤになりました。心だけはどうにかしたい、救われたいと必死になって思うのですが、同じことの繰り返しでした。私を必要としてくれている患者さんが来てくれるのでその仕事を支えにして生きていこうと思っても長続きせずまた暗い気持ちになってしまうのでした。
信愛ホームの六年先輩の人に誘われて、日本キリスト教団の教会に行き始めましたが洗礼の事などで不満があり先輩に話しました。その度に先輩は 「あなたは、吉村さんの所に行きなさい。無教会の信仰があなたには合っているから」と言ってくれました。綱野さんが発行しているアシュレーというテープから「はこ舟」を知り「はこ舟」には本当の真理があるなと心を惹かれていました。八年近く教会に行っていましたが遂にその教会を去り、不思議な導きで徳島聖書キリスト集会の日曜日の礼拝に参加するようになりました。 その集会は神様の霊が満ちあふれているなとすぐ分かりました。 ここに来ていたらいつか救われると思って行き始めましたが、なかなかその集会に馴染むことができずに自分の居場所がないような気持ちで暗い顔をして礼拝に参加していました。行くのを辞めようかなと思った時もあります。でも集会に導かれて 一年くらい経ったときに、吉村さんが私を礼拝の帰りに車で送って下さる事になって「今日はお天気が良いから眉山にちょっと行きましょう」という事になって 三時間くらい植物の事を一つ一つ手にとって教えて下さいました。まっすぐに天に伸びている大きな木やわずか数センチの草、いろんな花が咲いていました。 また日陰には日陰の植物が生き生きと生きていました。岩の上にはびっしりと苔が生えていて私は途中から名前を覚える事より植物が種が落ちた場所で一生懸命黙々と 使命を果たして生きていると健気な姿に感動しました。私の心に較べたらこの植物たちがずっと偉いと思いました。家に帰ってヨハネ福音書の 一五章のぶどうの木のたとえの箇所を読みたくなりました。 今日は植物を教えて頂いたので「ぶどうの木」が頭に浮かんだのだなあと思って 読み始めましたがそれはそうではなくて はっきり神様から示された言葉である事がわかりました。一五章の四節と五節の箇所に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶ事ができないようにあなた方もわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木あなたがたはその枝である。わたしを離れては何もできない。」と書かれてありその時の私は命の源である神様の事を忘れてイエス様に深くつながろうとせずに 自分でどうにかしようと思ったり、人に頼ったりしていたところに罪があったと分かりました。もう一度そこを読むと三節に「わたしの話した言葉によってあなた方はすでに清くなっている」という言葉まで用意されていました。私はこれで助かった、イエス様にさえつながっていれば 次々と湧いてくれる悪い思いをイエス様が取り除いてくださり清めてくださるという十字架の贖いが初めて分かりました。後から後から涙が溢れましたが、心の中は明るくなっていきました。五月の爽やかな風が吹いていましたが、それとは違う風が私の心の中に吹いてきて、体も心も軽くなったあの時の瞬間を忘れる事ができません。
霊的な目が開かれるとはこんな事なのかなと思うほど、それからは自分でも信じられないくらい生き方が変わりました。聖書の一つ一つの言葉が味わい深くて自分に迫ってくるようになり、自然や植物の事を聞いても造られた神様の事を思い、悩んだり苦しんだりした時も、イエス様が共にいてくださる事も心から実感できます。
この救われた喜びを自分と関わる人すべてに知って貰いたいと思うようになり、それから何年か後に私の家でも家庭集会を開くようになり月一度Yさんに来て頂いて私の家族や患者さんや集会の方々も参加しています。
私自身が良き羊飼いのイエス様に導いていただかなければすぐに滅びてしまう弱い弱い羊だという事で「小羊集会」という名前があたえられました。
それから三年後に家庭集会をしていて良かったという出来事がありました。妹が天に召された事ですが。私がたった一つ妹にしてあげられる事は病気は治らなくても魂が救われるようにと祈る事と集会の方々にも共に祈っていただきました。皆の祈りが私の大きな支えでした。その祈りを神様が聞いて下さり、最後の最後に妹はイエス様を信じて召されました。一昨年の秋、八歳になったばかりの娘を遺して天に召されました。その娘が、お母さんは直行便で天国に行ったと信じ、自分がイエス様を信じていたらいつかお母さんに会えるという希望を持ち続けています。お葬式もキリスト教でしていただきお葬式の朝にも幼い娘が「お母さんは神様がお呼びになったの」と笑みを浮かべながら言いました。幼子のようにまっすぐに信じるとはこのような事なのかと思いました。どんな事でもイエス様を信じているかぎり良い事に結びつけて下さると思え家庭集会をしていて良かったと思います。これからも試練があったり苦しい事があってもみ言葉を道しるべに歩んでいきたいと願っています。
(編集者注・これは今年の近畿地区無教会キリスト教集会で語られた内容です。)
「破れ口に立つ者」
愛媛 TT
「兄弟たちよ、彼ら(イスラエル人)が救われること、これがわたしの切なる望み、また彼らのための神への願いである。彼らは神に対してほんとうに熱心だからである。そのことを彼らのために証明する。ただ残念なことに、その熱心が正しい認識を欠いている。すなわち、彼らはキリストを信ずることによって義とされる神の義の道が開けているのがわからず、自分の力で律法を守って自分の義を立てようとしたため、神の義に服従しなかったのである。」
(ローマ一〇・113 塚本虎二訳)
「律法」とは道徳と解すると、戦前の「修身」教育等により培われた日本人は、まさにモーセ律法を遵守したユダヤ人に似て道徳の民であった。一八〇〇年代から一九〇〇年代初めにかけて渡来した西洋人の宣教師や教師達は、非キリスト教国日本の民衆が礼節を尊び秩序を重んじる日常の風習に接し、非常に驚いたと伝えられている。しかしこの世界に誇るべき日本人の精神的伝統は、あたかもユダヤ人の律法に対する態度のように、「躓きの石」となった。
「内村鑑三所感集」所載の「日本人の救済」(一九〇七年)に言う、「吾人の実見するところによれば、日本人の『神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔を穿(とお)るはかえって安し』、その虚栄心、その貴族根性、その人物崇拝、その武士道、その儒教道徳はかれの進路を遮りて、かれをして嬰児(えいじ)[あかご]の如くなりて神の国に入らざらしむ。吾人この事を思うて時に絶望の声を揚げていう、「さらば誰か救いを得べきや」と。そのとき、主は吾人に答えていい給う、『これ人にはあたわざるところなり、されど神にはあたわざるところなし』と。(マタイ一九・24~26」
今や、私たちの戦後六十五年を経た現代の日本社会に於ける日々のニュース報道は、目をおおいい、耳をふさぎたくなるような救い難い道徳崩壊の惨状にあり、かつて西洋人たちが羨んだ「孝養、礼節、徳義を重んじる民の良き風習」は地に落ちて、探しても見出すことが出来ない。「一国の衰亡は外敵の侵入によらず、人心の腐敗、堕落により、国の内部から崩壊することは世界の歴史が証明する」という。はたして神は日本人を見捨てられたのであろうか。
私は秘かに思う、現在の日本がこれほどに非道、不道徳な惨状に落ちぶれたのは、すべて神の遠大な御摂理によるのではないだろうか。即ち、亡びへと転落しつつある日本人の心の目を覚まし、真の神様へと救いを求めさせんがために、滅びの淵まで追いやり給うのではないだろうか。「彼ら(日本人)が神を知ることを役に立たぬものと考えたので、神の方でも、彼らの心が役に立たなくなるに任せられた。その結果彼らは人としてなすべからざることをするようになったのである。」(ローマ一・28)
「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」(エゼキエル書二二・30)
しかし私は百年前の、内村鑑三の「日本人の救済」の予言が、いま実現しつつあることを信じるものである。
「『わたしは異教の神バアルに膝をかがめなかった男子七千人を自分のために残しておいた。』だから、同じように今の世にも、恩恵の選びによる残りの者がある」(ローマ一一・6~7)。
神は亡びつつある日本のため、その「破れ口」に立つ者を尋ね求め、私たち少数の真のキリスト者一人ひとりに、この世の持ち場に立って果たすべき使命を与えておられる。「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ書六・8)
「神様、御心が成りますように、天と同じに地の上でも、アーメン」
「日本の心」
北海道 OH
大いなる もののわけゆく 野分かな
虚子
この高浜虚子の俳句を読んで、自然に対する日本人の感性の鋭さと共通性を思う今、旧約の預言書を読んでいるが、預言者が、自然をよく観察していること、そしてその中に「おおいなるもの」を観ているのである。私たち日本人の感性に共通するものを発見して喜ぶ。
厳しいカナンの地の理不尽とも思われる自然の営みの中に神の声を聴き、民族の心を直(ただ)した。
内村鑑三の「学ぶべきは自然」は分析的に自然を観察するだけでなく本質的に備わっている民族の心(感性)こそ大切にするべきであることを教えられた。そして「読むべきは聖書」から、静まって神の声を聴くことが重要であることを強く思うのでした。
恩恵を回顧して 福井県 NK
今年は、一月から個人的に大きな問題に直面し、悩み、苦しみ、迷い、闇の中を光を求めて懸命に祈る毎日でした。そんな中で、「いのちの水」誌や吉村さんからのメールで励まされ、示唆を受け、不思議なことに、具体的に、あるきっかけで道が開けました。今、当時を振り返って、危うきところから救いだされたという感慨を禁じ得ません。主の深い憐れみであったと思います。この背後で家内や吉村さんの篤い祈りがあったことを憶え、感謝に耐えません。
四月からの新しい歩みにも、思いがけない恵みが与えられ、主のご祝福を憶えています。六月にNさんからメールで「ともしび」の原稿募集がとどいてから、原稿を準備しようと、以前の「ともしび」「野の花」を読みかえし感銘を新たにしています。一人一人の歩みの上に御聖霊の働きがあったことを感じさせられます。まるで、使徒言行録を読んでいるような感じさえ受け、現代にも聖霊行伝が続いているとの思いさえ抱きます。
八月には、今年五月の四国集会のDVDが六枚送られてきまして、家内と二人で拝聴拝見いたしました。讃美、手話讃美、講話、どれもこころにせまり感動、感動の連続の中にあります。四国集会の会場には、まさに聖霊の風が吹き渡っていると感じました。
スカイプを用いての夕拝にも参加させていただいて、家内ともども恵みを頂いております。
一方、Yさんが言われている通り、自然の中にも、主の御臨在をしめされます。毎月、メールで送られてくる「今日のみ言葉」に添えられた美しい野草、野花には、み言葉の解説と共に、こころが癒され、なごまされています。夕べの空に輝く宵の明星や満天の星や月には宇宙の神秘と共に希望のありかを示唆される心地がしています。
たくさんの恵みを頂いている徳島の皆様への感謝を込めて感話とさせていただきました。
スカイプ集会の恵み
NY
去年の十二月、我が家で初めてスカイプを使って移動夕拝の中継を行いました。
スカイプとは、インターネットを使った無料のテレビ電話で、県外の数人の方々とでも同時に会話をすることができます。複数の人で会議(会話)を行うときはカメラは作動せず、音声だけの通話となります。
その中継の前には、Yさんを中心に、徳島集会の人達と何度もテストを重ねて練習し、当日は午後から仕事を切り上げて、パソコン等のセッティングを行いました。
当日は、入院中のKさん、北海道のKさん、Oさんご夫妻、福井県のNさんなど、遠方の方々にも呼びかけ、期待と緊張の中夕拝が始まりました。
ところが、最初のそのスカイプ中継は失敗に終わりました。テストの時はうまく行っていたのですが、中継では、こちらの声が小さく途切れ途切れで、相手の方々には、何を言っているかほとんど聞き取れなかったのです。会議のホストをするには、それに耐えるだけの性能のよいパソコンが必要でした。また、スカイプのバージョンが会議通話に適さないものだったり、お店の勧めで買ったマイクも、問題があったことが後で分かりました。
参加者の方より「聞こえませんので失礼します」とのメッセージが次々と届きました。
私はどうしていいのか分からず、とても落ち込んで、集会中も気もそぞろといった状態でした。司会者として我が家に集まって下さった会場の方々へも申し訳なさでいっぱいでした。
けれど、Yさんも会場にいた皆さんも、力強く励まして下さいました。特にYさんは、「何でもパイオニアというものは、初めからうまくいくものではありません。そんな、最初からうまくいかなかったからと言ってがっかりしてはいけません。伝道というのは、そんなに簡単なものではないのです。色々と苦労してやっと実るものなのですよ。」と力強く励まして下さいました。
その言葉が本当に勉強になりました。私はちょっと何か試して駄目だと、すぐに「道は閉ざされた」と思ってしまいがちでしたが、本当に苦労して伝道してこられたYさんのお言葉には、目が開かれる思いでした。
最初は全く形にならないかと思われたスカイプ集会でしたが、数々の試行錯誤や情報交換を行い、参加者の皆さんから励ましの声やご意見をいただき、今では多い時で十五台のパソコンと繋いでほぼ安定した礼拝を持つことができるようになりました。
スカイプ集会は、自宅にいながらにして、遠くにいてなかなかお会いできない方々、また勝浦さんのように病室から出られない方と、場所や世代、背景を超えて共に礼拝することができます。自宅で礼拝できると、とても安心して、落ち着いて御言葉を聞くことができます。身体などに弱さを持った方にも参加しやすい礼拝だと思いました。私も司会の役には緊張しつつも、講話や感話の時にはとてもリラックスして聞いていることができます。また、パソコンやインターネットという機械を介しながら、不思議と、人と人が直接繋がっている暖かさを強く感じます。
スカイプ礼拝は、月に一回月末の夜に行われています。(日時は月によって違います。その他に家庭集会の中継も随時行われています。)時間は約一時間強です。
スカイプ礼拝に興味のある方は、是非メールでお知らせください。インターネットのできるパソコンと簡単なマイクがあれば参加できます。日本中、世界中(したことないけど、大丈夫かな?)からのご参加をお待ちしています。
まだまだ不備や失敗もあり、発展途上ですが、みんなで一緒にスカイプ集会を育てていくことができますようにと願っています。
E-mail myrtus7@khc.biglobe.ne.jp
内村鑑三所感集を読んで
大分 IH
「夏の夕」
「神、アブラハムを外にたずさえ出だして言いたまいけるは天を望みて星を数えうるか見よ」と。しかり、一等星二十一、二等星七十三、三等星二百三十、四等星七百三十六、五等星二千四百七十六、六等星七千六百四十七。以上は肉眼に映ずるものなり。第九等星に至るまでのすべての星を数うれば六十三万余、第十等星を合すれば総数二百三十一万一千に達すべし。しかしていまだ全宇宙の一隅を窺いしにすぎず。小事に齷齪(あくせく)して常に頭を低るる者よ、時にアブラハムのごとく神に携えられて郊外に出で、天を望みて星を数えうるか見よ。創世記十五章五節。(内村鑑三所感集一九〇七年七月より)
内村鑑三所感集を時々読んでいます。ある日、この文章に接したときに宇宙の広大さを思い、全宇宙を創造された主に思いを馳せました。
宇宙に関する図鑑を開いてみると、宇宙の始まりはある時、ビックバンと言われる大爆発のような状態から始まった、と書かれていました。散りじりになったものが次第に冷えてゆき、それらがまた集まって一〇〇億年以上の歳月をかけて星星が誕生していった。宇宙は今、どんどん広がっている。と書かれていました。そのような大宇宙の中で太陽系が誕生し、ちっぽけな星、地球は誕生して四〇億年、人類が誕生して、四〇〇万年とのことです。そのように考えていくと、キリストが誕生して二〇一〇年という歳月は本当にわずかな時間に思えてきます。そのキリストを信じることによって、私たちは救いと平安を与えられていることを思います。
矢内原先生が話されたこと 福岡 HG
私が中学生の頃福岡の私の家に矢内原忠雄先生をお迎えしたことがあります。当時の私は矢内原先生がどんなお方かも知らず、ただ両親が大変な緊張の中にお迎えしたことを覚えています。お出しする料理、お風呂などなどそれは大変な準備をして、ご一泊いただいたのでした。
翌朝、先生からお話しを伺ったのですが、最近になって母がそのメモを残しているのが見つかりました。一九五六年十一月のことです。
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*
ヨセフの生涯を通し、考えることは、イエスの生涯のシンボルであることだ。個人、国家の歴史も、小さい人間の目で見れば一向進展しないようでも、大きな半径をもつ神の水車はゆっくり回っていて、その軌道に乗っている者は、すなわち神を信じている者は、境遇の善悪を気にすることなく信仰を保って、最後は良きようになることを信じて待て。
また、悪しきことも神のみ心を信じていれば善となることを信じていよ。
ヨセフは神偕(とも)にいます信仰に生き抜いたので、いかなる境遇にあっても平安であった。
人を救うということは、ヨセフが兄から奴隷に売られたことにより、後で兄弟を救ったように、苦しみに会うこと、棄てられることにより、出来るのである。棄てられることは人を救う門となる。イエスの十字架を見よ。故にイエスを信じていることが自分を救い、また人を救う原動力となる。
柏木哲夫・道子の本を読んで 岡山 KT
先日一冊の本を偶然「キリスト教書店」で見つけ購入した。
「いのちの豊かさ 人として生まれ、人として生きる」、その本によると。哲夫は淀川キリスト教病院のホスピスの医師で二五〇〇人くらいの癌の患者を看取り、妻道子は短期大学で発達心理学、教育心理学、女性学の講座をもった。
第一部 は 哲夫が(死を背負って生きる) 道子が(生かされて生きる)の講演である。
第二部は(人生の秋から冬へ)という夫婦対談である。
第一部の中から 私が興味を持ったところを
引用する。
………………………………
第一部 哲夫はホスピスの医師として堀秀彦という人が82歳の時に残した文章を引用している。それは次のようなものである。「70代までは年毎に私は死に近づいていきつつあると思っていた。だから死ぬのも生きつづけるのも私自身の選択できる事柄のように思われた。ところが82歳の今死は私の向こう側から一歩一歩、有無を言わせず私に迫って来つつあるように思われる。私が毎年毎日死に近づいていくのではない死が私に近づいて来るのだ。
死を背負っている。ちょっと言い換えますと「生」を一枚の紙としてそれが風の具合によってフッとひっくり返る。そうすると反対側には「死」というものが裏打ちされている
そんな感じですね。一枚の紙の表を「生」とすると裏には「死」がある、というのが本当の実感しているところなんです、生と死は一体化しているのですが、通常は表側を見ながら生きているというわけです。
安易な励ましから理解的態度へ
励ます必要があるときにはしっかり励まさないといけないのですが 患者さんが弱音を吐きたいという気持ちになっておられたら、弱音を徹底的に聞いてあげないといけない。それにもかかわらず、励ましてしまうと患者さんは「はあ」というだけで コミユニケーションは終わってしまう。長年の経験からまた多くの方々の研究から本当に弱っている方が求めているのは理解的な態度です。理解的な態度というのは私は患者と医師と云いますけれど末期の状態の人とそのご家族の間でも共通することなのです。相手の言葉に対して「あなたが言いたいことを私はこのように理解しますが私の理解で正しいでしょうか」と相手に返すような態度のことを理解的態度と言います。具体的には患者さんの言葉を自分の言葉に置き換えて患者さんに返すということこれが理解的な態度です。
末期の患者が「このころだんだん弱ってきたような気がする」と心弱そうに言われる。私はやっと「次第に衰弱する、そんな感じですね」と言いました。すると患者さんは、すべての感情をこの言葉に込めるような感じで「先生 私、このごろ死ぬのが怖くて」と言われました。これに対して私は「ああそうですか」としか言えなかったのですね。
しかし私が「ああそうですか」と言ったとたんに、今まで患者さんと私の間にあった何とも言えない緊張感がスーッと落ちた。びっくりしました。そして患者さんはたこ焼き の話をはじめた。
理解的態度によって二つのことが起こったのです。一つ目は会話が持続することです。そして二つ目は会話をリードするのが患者さんであるということ、私ではありませんね。三つ目は患者さんが弱音を吐ききることができるということ、弱音を吐ききるということがすごく大事なんです。
道子 生かされて生きる
夫が今月中に古希をむかえます。私は一年だけ遅れて古希を迎えます。私が信仰に入りましたのが二十歳の時でしたので、この五十年の間私たちのようなものが神様の憐れみの中で今日まで生かされてきたということをしみじみと感じます。そして苦しみも悲しみもある中で,かつては全く福音を知らないものでしたのに、この五十年の間信仰をもって歩ませていただいた、その感謝の気持ちをこれからの人生で表すことができれば、と願っています。このような本の出版と講演の機会が与えられ、とてもありがたく思っております。
私たちはそれぞれの専門分野がありますが、短期大学で担当していたわたしの専門分野は人が生まれて成長し、やがて死に至る前のことです。ですから,本のタイトル「育てる命、看取る命」の「育てる命」のほうに私の関心はあると思っています。現在私自身は乳幼児、小学生の孫を眺め、また中年になりました息子や娘たちを見、そして私たち夫婦は中高年に達し、三年ほど前に私の母を九十七歳で天に送りましたが、今も九十六歳の夫の母と同居しています。九十六歳の母の世話を毎日しながら、〇歳から九十六歳、九十七歳の家族を目の前にして、人が生まれて百年生きるということは、どういうことなのかと考えることが多くあります。そして人生百年生きるということは、とても祝福であると同時に周りの人たちにはかなりの世話をかけながら生きていくんだな、というふうにも思っています。
育てる命 看取る命の最初のみことばは
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは、知っています」(ロマ八・28)
このみ言葉を見つめ、また私が一番好きなみ言葉の詩編二七編の四節「私は一つのことを主に願った、私はそれを求めている。私の命の日の限り主の家に住むことを。」主の麗しさを仰ぎ見、その宮でおもいにふける、そのためにみ言葉を心に留め、あと残されている二十年、三十年の日々を過ごしていきたいと思うのであります。
…………………………………
以上の事から私は哲夫が末期の患者に対して相手の気持ちを理解する事が大切であると言われている事が心に残った。
道子は癌で末期を迎える時でも神の元に行けるという希望を持つことを忘れないと言われ、これは大切な事だと思った。
いのちの豊かさ 「人として生まれ 人として生 きる」柏木哲夫 柏木道子著(いのちのことば社)
背負って下さる神様 東京
NN
あなたたちは生まれた時から負われ、
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの
老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ書四六・3~4
よく浮かんでくる聖句です。これまでどんなに挫けそうな時でも、生き抜いて来れたのは、自分の力ではない、常にひ弱な私を背負ってくださった方がいらしたのでした。その方は、見えないけれどもこの先、年老いても背負って下さるのです。神様に委ねて、心の平安を保ち続けて生きて行きたいです。
ねたみや、怒りは寿命を縮め、
思い煩いは人を老けさせる。
シラ書(集会の書)三〇・22
シラ書には具体的な指針がたくさん書かれています。昔から人間は変わらないのだなあと、思わされるような内容で埋まっています。年老いてはますます目を天に向け、この世のことでねたみや怒り、思い煩いの心に支配されないで、生きたいです。
この世の最上の業はなに?
楽しい心で年をとり
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうな時に希望し、
従順に、平静に、、己の十字架をになう―。
若者が元気いっぱいで神の道を
あゆむのを見ても、ねたまず
人のために働くよりも、
謙虚に人の世話になり
弱って、もはや人のために役立たずとも
親切で柔和であること―。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後の磨きをかける。
まことのふるさとへ行くために―。
おのれをこの世につなぐ鎖を
少しずつ外していくのは
真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば
それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後に一番良い仕事を残してくださる。 それは祈りだ―。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、
神の恵みを求めるために―。
すべてを成し終えたら
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、
われ汝を見捨てじ」と―。
ヘルマン・ホイヴェルス 『人生の秋』より
若い時からこの詩を心に留めてきました。「この世につなぐ鎖を外して」なにも出来なくなっていくことを想像する時「最後に一番良い仕事」があることを教えてくれるのです。
あとがき NY
今年の暑さは格別で、各地の猛暑の様子がテレビで報道されましたが、皆様が守られて毎日を過ごされていますこと主に感謝です。
徳島聖書キリスト集会では、この夏もNTさんが北海道、東北、関東など伝道の旅で予定通りの行程を終えられました。各地の集会の様子を「祝福と主のお守りがあった」と報告してくださり、写真も私達集会員に見せて下さいました。今回の「ともしび」誌にも、その訪問先の方より、恵みを受けたとの記事が寄せられ感謝です。
「 天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ一一・12)と福音書に書かれているように、私達も熱心に神の国と神の義を求めて、霊的に必要なものすべてが与えられることを願います。そして「イエス・キリストがこんな素晴らしい事を私にしてくださった」と、お互いに手を取りあって喜び合っていきたいと思います。信仰の恵みは、分かち合いをすればするほど増えていきます。神様があの人にしてくださった事は私にもしてくださると信じられるからだと思います。講話の中でも、聖書の登場人物の霊的な出来事は、現代の私達にも通じるとお聞きし、神の国の絶大な富は、今信じる私達にも常に用意されているのだと希望が与えられています。
この「ともしび」誌も「主が私にして下さった事」を互いに持ち寄って希望を与え合い、まだ信仰を持っていない方々にも、その喜びが伝わって行きますように願っています。「この世の事」では心が満たされない方が、主を知る事で、生き生きと喜びを持った人生に換えられていきますように。それを願って発行いたします。主よ、投稿してくださったお一人お一人の記事を祝福して用いてください。
シャローム。