今日のみ言葉 イロハカエデ |
今日のみ言葉 151 2006.12.25 |
この詩が作られた地方は、乾燥地帯であって日本のようにいたるところで川、谷川があるのとは全く異なる。私自身が、以前に実際にイスラエルに行ったときに、書物や写真集などで予想していたよりはるかに水がなく、ガリラヤ湖の南の地域では、まったくといってよいほど水の流れる川がないこと、至るところで砂漠のような地域が広がっている状況を目にした。エルサレムという首都ですら、もともと樹木がほとんど何も生えていていない地域にある山の頂上部にある都市なのであって、人工的に樹木を植えてある状態なのである。
鹿が、谷川の水を求めて必死に探し求める、これは、こうした自然のとりわけ厳しい状況を念頭に置かなければ分からない。水を見付けることができなけれは、そのまま死に至るのである。
この詩は、詩編のなかでもとくによく知られ、讃美にも多く用いられてきた。それは、神への強い、真剣な願いがあふれているからである。自分の力ではとうすることもできない困難なとき、苦しみや涙のみしかないような孤独のとき、私たちに何ができるであろう。本当に病気の苦しいときには、もう祈ることもできないほどになる。ただその痛みや苦しみに耐えながら、一種の頑張りのようなものしかない状況となる。そうした困難なとき、内なる戦いが生じる。そしてその戦いに破れるとき、私たちはますます落ちていくしかない。
この詩においては、そうした戦いを神に叫ぶことによって乗り切ることができていった内なる経験が刻まれている。この世の現実は、周囲にも次々に生じているように、元気で健康なときには想像もできないようなことが生じる。私たちの存在を呑み込んでしまいそうになる現実に直面して、いのちの水そのものである神を、心をのすべて、思いのすべてをもって求め続けるとき、そこには必ずこの詩の作者のように、神こそはわが救い主という確信に立ち返っていくことができる。
この詩と同様な心の奇跡は、数千年のあいだ、無数の人たちが経験してきたことなのである。 この詩が多くの讃美に用いられてきたのはそのしるしである。讃美歌21には、130、131、132番の3曲がこの詩編の歌として取り入れられ、そのうちの同じ曲が2曲、歌詞は異なるが、新聖歌にも2曲(304、306番)がある。 メンデルゾーンは熱心なキリスト教信徒であり、その妻も牧師の娘であってやはりキリスト者であったために彼は多くのキリスト教音楽を残している。詩編第42編の音楽もそのうちの一つであり、1838年の1月1日に彼自身の指揮で、ドイツのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で演奏された。(なお、これはオーケストラとしては現存する最古のオーケストラとして知られる。)この曲は彼自身の心に合ったものと言われ、妻に捧げられ、新しい年の最初に演奏されているのも彼がこの曲に特別な思いをこめていた現れだと考えられる。
イロハカエデ 小松島市日峰山
カエデの仲間には、いろいろあります。徳島周辺で一番よくみられるのは、このイロハカエデです。 カエデの仲間はその紅葉が色鮮やかでだれの心にも訴えるものがあり、古来有名です。わが家のある山で、この写真の光景に出会って、さまざまの色の交響楽が聞こえてくるように感じ、さらに天然の色の風景が心のフィルムに残りました。
自然のなかで、赤、黄色、褐色、そして常緑樹の緑と、それぞれがハーモニーを奏でているようです。自然の世界では、このように、一つ一つ大きさや色合い、また形もちがっていてそれが全体としてよきものを生み出しているのです。
人間の世界では、自分が上になろうとする競争がどこにでも、こどもの世界からすでにみられ、国家や民族の争いという大きな規模においてもみられます。
自然の世界は、そうした人間の世界を静かに見つめて、沈黙の中から、このように互いに異なるままで全体としてよきものを生み出すことができるのだと指し示しているのです。
なお、カエデとは、「カエルの手」のような葉からきていると言われています。イロハカエデは、タカオカエデ、イロハモミジなどとも言われます。タカオ(高尾)は京都のカエデの名所です。また、「もみじ」という言葉は、樹木にも草においても用いられ、紅葉(黄葉)するものを言います。ですから、野草の一部は晩秋になると、赤や褐色、黄色などになるものもあり、それらを「くさもみじ」ということもあります。 カエデの仲間は、オオモミジ、ヤマモミジ、ハウチワカエデ、イタヤメイゲツ、イタヤカエデ、ミネカエデなど日本では25種類ほどもあります。
カエデひとつをとっても、葉や樹木のすがた、そして秋の紅葉の実に多様な変化は、神の私たちへの贈り物であり、神の国への呼びかけを感じさせるものがあります。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 150 2006.10.24 |
このイザヤ書の部分が書かれたのは、今から2500年余りも昔である。もともとこの書は、遠い異国に捕囚となって苦しんできたイスラエルの民が驚くべき神の御手によって解放されることが間近い状況のなかで告げられたものである。
ここで言われている神は、力ある神である。私たちはこの世においていつも弱さを感じる。正しい道、真実な道があると感じていても、自分の弱さ、醜さのため、それを歩んでいくことができない。
そうした日々の生活の中だけでなく、さまざまの世の中の出来事をみても、一体自分に何ができるのか、そしてときに何らかの運動や募金にかかわっても何の変化も生じないように見える。そうして人は、次第に無気力になり、悪がはびこるのも当然のように感じて、目に見えない世界の重要性を感じなくなっていく。
老齢化と死という、だれもが確実に近づいている力の前にどうせ死んでしまうのだ、何をしても消えていくのだ、といった気持ちが強まっていく。
こうした人間の本性にひそむ弱さに対して、何が根本的に変える力をもっているのだろうか。
個人的な問題だけでなく、社会的、政治的な大きい問題も人間のそうした気力を失わさせるものがある。
ここに、「今日のみ言葉」であげた、約束が浮かび上がってくる。 どのような状況にあっても、なお力を与え、新たな心に変革して下さるお方がいる。それは、神から来る。神を待ち望む人には、そうした力が注がれるのである。
ここには、「待ち望む共同体(The waiting community)」 の受ける祝福が記されている。 今から数千年もの昔から、ずっと唯一の神を信じ、その真実と万能と愛を信じてきた人たち、それはどんな苦難が生じても消えていかなかった。それはここにある神の新たな力と、翼を与えられ、絶えず立ち上がり、新たなところへと飛び立っていく人たちが起こされてきた。
そして現代は、さまざまの心を暗くするような情報があふれるように生じているゆえに、いっそう私たちの心は弱くなり、前途への力を失い、魂の翼を持てない状況となっている。そうした中に、かつて捕囚に苦しんで祖国は荒廃し、どうすることもできなかった人々に告げられた、上にあげたみ言葉が、2500年という歳月を越えて新たな輝きと力をもって私たちに迫ってくる。
センブリ 徳島県 中津峰山 2006.10
10月のある日、長い間行く機会のなかった近くの中津峰山(標高750m)の中腹まで短時間、車で行く機会がありました。かつては車など使わず、ふもとから歩いて登っていたこの山なみですが最近は時間がなくて訪れる機会もなかった所です。
途中の所々で車から下りて秋の山の澄んだ大気に触れ、植物のたたずまいに触れることができましたが、今まで一度も入ったことのない脇道へと歩いたところ、思いがけずこのセンブリと、アサマリンドウに出会ったのです。最近は山にほとんど行けなくなったために、センブリはもう20年近く出会ったことがなかったものです。
この植物は、有名な薬用植物。健胃薬として消化不良,食欲不振などの家庭薬の原料として用いられてきました。湯の中で1000回振り出してもまだ苦いほどなので、センブリ(千振)という名がついています。この細い葉をかむと強い苦みがあり、この名前が納得できます。
高さ10cm~40cm程度。白い花びらは5枚、紫色の筋が見えます。 山には至るところで植物が繁っていますが、このセンブリに出会うことはごく稀です。 ほとんどだれも通らない道であったゆえにこのように残されていたものです。
薬という漢字は、草かんむりの下に楽しむと書くので、草を楽しむ、野菜や植物を味わい楽しむことが薬になる、といわれることもあり、植物がそのまま薬になる、というようにも受けとられてきました。たしかに、肉食よりも大豆や野菜、果物などの植物性の食物がからだにはよいということはよく言われています。私たちにとっても、このセンブリのような野生の美しさに触れることは、魂の栄養となり薬となります。
植物は動物が生きていくには不可欠な酸素を作り、またその根や実、葉や茎が人間の食物や薬にもなり、さらにその緑の色で目にもよく、その花によって人間の心に対してのメッセージを注ぎだしています。
主イエスはいろいろの教えを、みんなたとえを用いて語りました。それは「天地創造の時から隠されていたことを告げる」ためであったといいます。(マタイ13:34-35)
センブリの、どこかひきしまった、そして透き通るような感じをたたえつつ、天に向かって咲いている花は、たしかに神の国のことをたとえで私たちに語りかけているように思われます。
(写真、文ともにT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 148 2006.8.31 「 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、 多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。 The evil you planned to do me has by God's design been turned to good, to bring about the present result: the survival of a numerous people. |
旧約聖書の最初の書、創世記の最後の部分に現れるのは、神の驚くべき導きである。創世記の後半に主たる人物として現れるヨセフは、兄弟たちから妬みを受け、命をも奪われそうになる。かろうじて通りがかりの隊商たちによって命は救われエジプトに連れて行かれた。そこで、精一杯働いたが、ひどい中傷を受けて牢獄に入れられ、さらにそこでも不運なことが続いた。しかし、そうしたさまざまの苦しい出来事を、神を信じて受け入れていった。そして神から与えられた特別な能力によって王の夢を説き明かし、その信頼を得て、エジプトの王に次ぐ支配の力を与えられた。 そこでのいろいろないきさつの末に、かつて自分を殺そうとし、父親に対してすら、ヨセフは死んだと偽った兄弟たちが、飢饉のゆえに、エジプトまで来て食糧を買いに来た。兄弟たちが本当に悔い改めるのをはっきりと知ってはじめて、ヨセフは自分が彼らのかつての殺そうとした弟だと、身を明かした。そして言ったのが、「今日のみ言葉」である。
人間の数々の悪意にもかかわらず、神が導かれるときには、そうしたあらゆる悪意をくぐり抜けるようにして歩んでいくことができる。
この世で純粋な善意にいつも出逢うということは期待できない。 それどころか、しばしば悪意ある攻撃にさらされる。 ときには人間でなく、病気や事故、自然災害など、目に見えない悪の力が私たちを激しく痛めつけていると感じることもある。 そうしたことに直面したとき、ただ運命だと怒りや悲しみ、あるいは絶望的な心を抱きつつあきらめていく道と、それと逆にそうした一切を、神が最善にしてくださる、と信じて歩む道を歩こうとするのか、二つに分かれる。
神は、万能であり、しかも愛であるゆえに、どんな激しい悪の力も苦しい出来事も、死ということすらも、みんな最終的には、良きに変えて頂ける、そう信じることができるなら、何と幸いなことだろう。
新約聖書に、次の言葉がある。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)
使徒パウロは、万事が益となることを「信じる」というのでなく、「知っている」と言った。ここには、様々のいのちをおびやかす苦難をも、神の愛と導きを信じる信仰によって、そこから救い出された経験によって、霊的な「知識」となっている人の言葉がある。 神は私たちをも、そのような「知識」へと導こうとされているのである。
(写真、文ともに、吉村 孝雄)
ナツズイセン 徳島県海部郡海陽町 2006.8
海陽町とは、徳島市から80キロほど南、高知県に近いところです。市街地から遠いために、自然が豊かに残された地方です。田園地帯の道のかたわらに、このナツズイセンが咲いていました。この花は、外見からも分かりますが、ヒガンバナの仲間です。なお、冬に咲くスイセンもヒガンバナ科です。
最近では、この花の仲間の美しさに注目して、いろいろな園芸品種が作られていますが、素朴な美しさは、やはり野生のものには及びません。
夏の暑いときは、草花や樹木も多くは花がなく、緑一色ですが、そうした中に、ただ一つこのように、淡い赤紫色の花をつけているのは、目立つものです。
ヒガンバナは、花が終わったあとに、葉を出しますが、このナツズイセンは、逆に春に出た葉が枯れたあとに、このような 50~70cmの長い花茎(かけい)を出して花をつけます。
大里(おおさと)海岸 徳島県海部郡海陽町
この海岸は、「日本 の 白砂 青松(はくしゃ せいしょう) 百選」 の 一 つ に 選ばれて いる と の こと ですが、ゴミもなく、美しい海岸が、3キロほども続いているという貴重なものです。遠浅でないために、水泳は禁止となっているので、それが自然のままに保存され、汚されることなく、長大でかつ、美しい海岸となっているのだと思われます。
自然の光景は、人間が造り出すことができないし、人間が存在するはるか以前からあったもので、そのゆえにそれは神の直接の創造であり、神のお心を表したものと言えます。
草花は沈黙を保ち、動くこともしないのですが、そこに清さと美しさをたたえています。それと対照的なのが、この海岸に打ち寄せる大波で、そこには力強さと重々しい音楽があり、絶えず変化してやまない躍動性があります。
このように、野草も、海も、その現れ方は大きく異なるのですが、それらはいずれも 自然の世界に現れた神の栄光を豊かに感じさせてくれるものとなっています。この海岸での波音は、無数の砂や小石と水との一大交響楽であり、重々しさと、清い響きが同時に心の奥まで伝わってきました。それは神の国からの絶えることなき、メッセージとして感じられたのです。 (写真、文ともに .YOSHIMURA)
今日のみ言葉 147 2006.8.10 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。 Devote yourselves to prayer, being watchful and thankful. |
「魂の目を覚ましているように」、これは、主イエスも強調されたことである。福音書の終りに近いところで、たとえを用いて、目を覚ましているように、と繰り返し教えられた。(マタイ福音書24~26章)
そして最期が近づいたときも、とくにゲツセマネという祈りの場に弟子たちを伴い、目を覚ましているようにと、特別に注意された。しかし、弟子たちは全員が眠ってしまった。ここに、いかに人間は眠りやすいか、がよく表されている。
生きた信仰であるかどうか、それは心の目を覚ましているかどうかということであろう。
普通の意味で目を覚ましているときには、何かが生じてもすぐにそれがわかる。同様に心の目を覚ましているときには、目に見えない神からの語りかけ、メッセージのようなものを受け取りやすくなっている。
しかし、魂の目が眠っているときには、神が何かを私たちのためにして下さっていても気付くことがない。
歴史からも、周囲の社会情勢からも、また聖書やそれに近い内容の本を読むときでも、そして身の周りの自然のたたずまいについても、神は万能であり、どこにでもいますゆえに、どのようなものを通じても神は私たちに働きかけておられる。
目を覚ましているとき、私たちはそのような天からの語りかけやその力、あるいは現実の世の中に神がなさっていることに気付くであろう。 自分中心に考えて行動するということは、魂が眠っているしるしである。
最も重要な神の愛ということについても、私たちの魂が目覚めているとは、太陽のように注がれている神の愛を感じるし、他者を真に愛することができるのは、やはり心が目覚めているときである。
心の目を覚ましているとき、私たちが当然と思っていること、空気や太陽、水、そして身近な人間たち、仕事があること、生活に使うさまざまの物資が備えられていることなど、数かぎりなく私たちに与えられているものに気付く。
そこから感謝も生れる。目を覚ましていなければ、自分に与えられているものがわからず、逆に与えられていないものばかりが目について不満や批判が生じる。
このような感謝ができる状態を持続するために、祈りが必要となる。目を覚ましていることはすなわち、祈りをもって生きていることであり、そのような祈りがつねにあるなら、私たちはいつも目を覚ましていることができる。
それゆえに、目を覚まし、感謝をもって、絶えず祈れ、という言葉は、私たちの日々の生活への簡潔な指針となっている。
徳島県小松島市 2006.8.1
このカワラナデシコの花のつくりや色調、そのたたずまいは特別です。夏の山を歩いていて、最も美しい花の一つはこのカワラナデシコです。ピンクの花びらの中程から先が装飾のためのように、切れ込み、しかもその先端は上に少しカールしているようになっています。
もう三五年ほども昔、徳島に帰ってきて時間を見付けてはあちこちの山々を歩いていたとき、標高600メートルほどのほとんど人も歩いていない山道にて、予期してはいなかったこの花を見出したときの印象が今もなお残っています。緑一色、そして夏ともなれば四国の山では草木は山道の両側に繁茂してきます。そうしたなかで、すらりと伸びた茎の上に風に揺られながらしずかに咲いていたのです。この花を初めて見出したのは、一般的なルートでなく、山をよく歩いている人でないとたどれないようなコースであり、しかも夏の草深い山は暑くて歩く人はごく少なく、それだけに抜き取られたりすることもなく、自然そのままのすがたを保っていたわけです。
これが日本では古代から野生で見られるので、ヤマトナデシコと言われます。中国からのナデシコをカラナデシコ(または石竹)、アメリカからのは、アメリカナデシコと言われます。ナデシコの仲間はいろいろありますが、やはり山の自然のなかで咲いているこのカワラナデシコが最も美しいものです。
日本女性のことを、ヤマトナデシコと言ったりするのは、この花のようであって欲しいという願いが込められています。
標準和名のカワラナデシコという名は、河原にも見られるということからですが、私は河原にて見たことはなく、ある地域の大きい川の土手に見られるくらいです。山地でも見かけることは次第に稀になってきています。
なお、この花の学名は、Dianthus superbus …(ディアントゥス スペルブス)ですが、学名の最初の部分である属名には、(dianthus) という言葉が含まれています。これは、ギリシャ語の ディーオス(dios)と アントス(anthos)という言葉に由来するもので、dios とは、「神のごとき(divine)、卓越した(excellent)、高貴な(noble)」といった意味を持つ言葉です。また、アントスとは、ギリシャ語の「花」の意ですから、ディアントスとは、「神のごとき花、高貴な花」という意味なのです。 さらに、学名には、superbus という言葉を含んでいます。この語は、日本語にもなっている、スーパーマンとか、スーパースターといった言葉でわかるように、「卓越した」という意味を持つのです。
こうした学名に含まれる意味からしても、この学名を付けた植物学者も、この花をとくに神聖な花、卓越した花として受けとっていたのが分かりますし、ヨーロッパでは実際に重んじられてきたのです。
この花は、神の国の美と清さとを指し示しているようです。(写真、文ともにT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 146 2006.7.1 God is faithful, and he will not let you be tested beyond your strength, but with the testing he will also provide the way out so that you may be able to endure it. |
神を信じる者に対して、神は真実であられる。真実とは、偽りがないことであり、助けるといいながら本当に困ったときに助けないような人は真実がないと言える。 ここで神が真実であると、特に強調している。真実であるがゆえに、どんな苦境に陥っても必ず助けられる。例外なしである。
しかし、現実には著しく苦境に陥ることも見られる。苦しい病気、家族の困難な問題、職業上での戦い、災害や事故での苦しみ等々、そうしたときに必死に祈っても、何ら助けはないように見えることもしばしばある。最悪の場合には、迫害のゆえに命まで奪われるというほどの事態になることも歴史のなかでは多く見られた。
けれども、そのような場合でも、たしかに助けはあったのである。それは私たちの究極的な模範であるイエスをみるとよくわかる。 主イエスは十字架で処刑されるとき、「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」という激しい叫びをあげられた。
しかし、このような叫びがあるからといって神の真実がなかったのではない。イエスに対して神は徹底して真実であられた。それゆえ、息を引き取った後には、神のみもとへと引き上げられ、以後は聖霊として私たちに臨むようになった。
このように、神の真実といっても、それは弱い人間であるゆえ、またその苦しみが大きいときには、どこに真実があるのか分からないこともあるが、全体としてみるとき、たしかに神の真実がイエスの生涯のすべて、その死や復活において表されていたように、私たちのうえにもその真実な御手がつねに置かれている。
私たちが現在直面している、あるいは今後出会うであろう困難、それはどんな内容かは全く分からない。しかし、どのような困難であっても、この聖書の言葉にあるように、神に叫ぶ者には、必ず逃れの道が備えられている、ということは本当に感謝すべきことである。
どんなに才能があって、また話しも上手な人であっても、真実とは限らない。かえって、その多才のゆえに傲慢となり、見下したりすることも起きる。 私たちが結局最も心惹かれるのは、その人間の真実さであろう。
私たちが山野の野生の草花を見てだれしも心惹かれるのは、それらがまさに、私心をもっていないからであろう。 それらはたしかに真実そのものを象徴しているようである。
逃れる道、それは必ずある。
重い病、家族の離反、財産の喪失、子どもの病気等々のために希望を失っていく人も多い。
そうしたいかなる困難であっても、道は必ず与えられる。神は岩からでも水をあふれさせると記されている。それは、無から有を生み出す神であるからこそ、困難と八方塞がりのただなかに、逃れの道を造り出すことができるのである。
ネジキ 徳島県小松島市 日峰山 2006.6.10
この、白い鈴が10個ほども横に並んで咲く花は、ネジキという木の花です。下に向きに咲くすがたは、地味ですが、清い美しさのある花です。私は子どもの頃から山にあるこの白い花が初夏に咲きますが、印象的で、この木の名前は何というのだろう、と思っていました。
それが、ネジキという名前であるとわかったのは、かなり後になります。 それは、この木は自然に少しねじれたようになるからです。
樹木としてはあまり大きくならず、せいぜい3~5m程度です。
これはツツジのなかまです。 ツツジというと、ほとんどの人が思い浮かべると思われるのは、サツキや道路際に多く植栽されているヒラドツツジのように大きいはなびらで、朱色(赤)や、赤紫、白などなどいろいろのものがあるタイプだと思われます。しかし、ツツジには写真のような、釣り鐘状のものも多くあります。アセビやドウダンツツジもこれに似たかたちを持っています。
この真っ白な花を咲かせるネジキですが、冬になると、枝先のほうの枝が光沢のある鮮やかな赤色となって美しく、ほかの樹木には見られないもので、これも私が子どものときから注目していたものでした。
植物にはこのように、花や葉、また幹、枝のつき方、木の全体としての姿(樹形)など実にさまざまの多様性が見られます。それらが、人間にたえず語りかけていると感じられてきます。人間の世界のこまごました問題ばかりを見つめていると心が狭くなってきますが、植物の世界のさまざまの多様性を見つめ、その他の自然の限りなく変化に富んだゆたかな姿を見ていると、万物を創造された神ご自身の無限の能力がそこに映し出されているのが感じられ、心を広くしてくれます。
今日のみ言葉 145 2006.6.1 Your word is a lamp to my feet and a light to my path. |
だれもが、各自の道を歩んでいる。しかし、そこには大きな違いがある。その道を照らす光を持っているか、それとも持っていないで歩いているかである。健康なときであってもさまざまの職業上の問題や生活上の悩みが生じる。自分の地位の安定のために考えるか、それともより正しい基準に従って考えるかで、会社や仕事上で大きな分かれ目になる。
また、時間やお金を使うとき、自分の楽しみを満たすことか、それとももっと別の人のため、世のためになることをすべきか、結婚や家庭生活でどのような考えで決めていくべきか、病気や老年になって、健康が損なわれ、さまざまの困難な問題に直面したときには、さらにそのような困難をどう考えたらいいのか、なぜ自分にこんな苦しみや悲しみが生じるか、将来どうなるのか、現在の生活のこの孤独をどうやって乗り越えられるのか、…といった問題に心を悩まされることが多くなる。
このようなとき、何が私たちの心を導き、その日々の困難と前途に漂う暗雲を感じつつも、力強く歩んで行けるのだろうか。
それが神の言葉であり、闇の中に輝く光なのである。書かれた神の言葉は聖書となって私たちの前にいつでも求めるならば読むことができる。その言葉が私たちへの光となって、この世の人間の言葉、意見と全く異なる方向を示され、力を与えられる。それは過去数千年にわたって無数の人たちを導いてきたという事実がある。
他のどんな言葉がそのような長期にわたって、しかもあらゆる境遇にある人たちを導き、力を与えてきただろうか。
それでも、なおキリスト者であっても、聖書の書かれた言葉が訴えてこないことがある。私たちの心があまりに重く、苦しいとき、何も入ってこないことすらある。聖書の言葉がただの言葉のように感じることもある。
そのような薄暗がりに置かれるとき、生きた神からのみ言葉こそは、再び力を与えて下さるものとなる。昔のキリスト者たち、神を信じて生きた人たちは、大多数が現代の人のように書かれた神の言葉を持ってはいなかった。文字すらよめない、書物がない、書く紙もペンもない、といった状況がふつうであったからである。しかし、そうした状況にあっても、生きた神から直接に語りかけられる言葉があった。その言葉こそは、そうした無数の人たちに語りかけ、その道を示し、激しい迫害をすら耐える力を与え、神の国への道を歩む力を与えてきたのである。
現代に生きる私たちは、書かれた神の言葉である聖書を持っている。しかし、それが本当に力となり、道の光となるためには、それが生きた神ご自身からの語りかけとなってくる必要がある。
そうなるとき、人は、「昼も夜もみ言葉を喜び、愛する」(詩編第1編)ようになるであろう。
聖書のなかに、ヨブ記という書物がある。それは、耐えがたいような打ち続く苦難、そして病気の苦しみに友人からの信仰的な慰めや説得をいくら受けても平安がなかった、ヨブという人が、最終的に神からの直接の語りかけによって立ち上がることができたという内容である。それは私たちにもそのままあてはまる。
主よ、私たちにあなたご自身が語りかけて下さい。それこそが、私たちの日々の力となり、光となるゆえに。
アケビ 徳島県小松島市日峰山 2006.5.3
この花は樹木の花としてはとくに美しい部類に入ると思われます。手前の大きい花が雌花、その下方にたくさんひとかたまりにになって咲いているのが雄花です。アケビの実を食べたことのある人は、少ないと思われますが、その花を見たことがある人はさらに少ないと思われます。雄花は白く、雌花はほんのりと赤紫の雌花のがく片(花びらに見える)、そして濃い赤紫の雄しべと雌しべ、さらに手のひらのように5枚になって広がってついている樹木としては珍しい葉の姿など、この花は全体に見るものの心を引きつけるような美しさがあります。さらに実も熟すると美しい赤紫となり、その味わいもほんのりとした甘さを持っています。
また、若葉も食用となり、果肉だけでなく、実の皮の部分もまた油炒めにして食用とされるし、そのつるは、アケビ細工に使われ、鑑賞用として鉢植えや盆栽などに使われるなど、昔からいろいろに用いられてきたようです。
アケビという名前は、実が開くので、「開(あ)け実」、あるいは、実があかいので、「朱美(あけみ)」などと推測されています。
ほとんどの木々はこのような目をひく花もなく、実や種も食べられないのですが、このアケビは特に森や林のなかでのアクセントとなり、食用となる上に、人間の心の栄養にもなる印象的な植物です。
この植物の美しさを見つめていると、これを創造した神が私たちにその愛をもったまなざしを向けておられるように感じます。(文、写真ともに、T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 144 2006.5.11 私は世の光である。 |
この言葉は、聖書の真理を凝縮した内容を持っている。この世は闇である。それは、日毎の新聞やテレビなどのニュースを見ればだれでもが感じるところであろう。この世のことについては、知れば知るほど喜びや平安が増すのでなく、かえって全体を覆う闇のようなものを感じるようにならざるを得ない。環境汚染、エネルギーはどうなるのか、原発に依存していくと何が生じるか、得体の知れないような難しい感性病の流行の恐れ、戦争や地震等々、そして自分自身も一日一日と老化し、不自由になっていく。
こうした状況を聖書の巻頭にある、「地は混沌であって、闇が深淵の表にあり…」(創世記1章2節)という言葉が象徴的に現している。
こうした現実の世界の闇を知るとき、そうした暗さを忘れるために、遊びや飲食にふける、ということがしばしば行なわれる。
しかし、 いかに世の闇が深くとも、そしてその本質が分かっても、その背後に光が輝いていることを知るならば、私たちの魂に一点の光がともされたことになる。そしてこの世が与えることができない平安を与えられる。その光は、人間の計画や、情熱で作られるものでなく、また人間の悪意や時間の流れとともに消え去るものでもない。万物を創造し、今も支え支配なさっている神の光であるゆえに、永遠であり、私たちへの愛のまなざしをもたたえた光なのである。 それが、この聖句で言われている、「命の光」ということである。
からだが老化しても、また周囲の人間から理解されず、また捨てられることがあろうとも、その光を知った者は、その光が射して来る方向へと引き寄せられる。
この世にはその光を曇らそうとする数々のものが次々と生じる。事故や災害、戦争といったニュースによく出ることだけでなく、人間そのもの、またその人間の作った映画、小説、テレビ、等々もたえずそのような働きをする。
それにもかかわらず、キリストの命の光は決して曇らされることなく、輝いている。それは星の光が、どんなに地球の大気の汚れがあろうと、雲があつく垂れ込めようともそのかなたでは変ることなく、清い光を放ち続けているようなものである。まわりの人間や、マスコミ、あるいは評論家などの思想や時代の流れについていくのでなく、キリストを信じ、キリストに従っていこうとするだけで、私たちに命の光が与えられる。それは最大の賜物である。
傷ついた心、老年のわびしさをたたえた心、そして病の苦しみに疲れ果てた魂、人から中傷され見下されてつぶされそうになっている心、そうしたすべての心に、他のいかなる方法によっても与えられないいのちを与え、光を与えて、暗い心を生まれ変わらせるのはキリストの光である。
カラタチ (唐橘) わが家にて 2006.4.20
この植物の名前は広く知られていますが、実際の花を知っている人はとても少ないようです。この名前が有名なのは、次の北原白秋の詩が広く歌われたからです。私自身も父がカラタチを数十年も昔に植えていたので知っていますが、それよりずっと以前の子ども時代から、カラタチの名前は実物でなくこの歌によって心に残っていたのです。
からたちの花が咲いたよ
白い白い花が咲いたよ
からたちのとげはいたいよ
青い青い針のとげだよ
からたちは畑(はた)の垣根よ
いつもいつもとおる道だよ
この歌にあるように、カラタチは、鋭いとげを持っていますが、花は純白で、控え目な咲き方でそっと語りかけるような花です。カラタチという名前は、唐橘(からたちばな)の略で、これは、中国大陸中部の原産で日本には古代に朝鮮半島を経て渡来したということです。タチバナというのは、食用柑橘(かんきつ)類の総称で、万葉集にも出てきます。
大多数の人はカラタチの花を見たことがないと思われますが、この歌によって日本人の心にカラタチという名前が刻まれ、その白い花を心に咲かせるはたらきをしてきたのは歌の不思議な力によるものです。
そして作詞者の心に忘れられない印象を残したのは、この花の清い白さと、その花の素朴な姿だと思われます。その感動がこの詩となり、数知れない人たちの心にも波のように伝わっていったのでした。
白い花、そしてその咲いている姿も好ましいとき、私たちの汚れた心への天からの水のように感じます。そしてこの花自体が、創造主への讃美をしずかに歌っているように感じられるのです。
歌はこのように、単なる文だけではできない働きをすることがあります。キリスト教における讃美歌も同様で、聖書の言葉が讃美歌や聖歌となって歌われるとき、国を越え、時を越えて多くの人たちの心に刻まれていきます。
(文、写真 ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 143 2006.4.7 あなたたちの神、主が自らあなたたちのために戦ってくださる。 |
私たちの日々の生活のなかで、絶えず何かに恐れている。ほとんどの人は、他人を恐れていると言えよう。他人から見下されることや批判されることを恐れているのである。だからこそ、そのようなことにならないために、人からほめられ、認められたいと願うし、周りの人より上に立ちたいと願うのである。
しかし、そのような気持ちがあればあるほど、私たちの心から清い平安は遠ざかる。人間を恐れなくなったときに、初めて私たちは、主にあって独立していると言えるだろう。私たちはそうした独立へと招かれている。それゆえ、このみ言葉にあるように、聖書では数多くの箇所で、「恐れるな!」という呼びかけ、あるいは警告がなされている。
恐れるな、と言われても、真実なるものにしっかりと結びついていなかったら、恐れるのは自然なことになる。
この聖句がのべているように、私たちのそばに、生きて働いている神がおられ、私たちを見守り、私たちの代りに闘って下さるということを本当に信じ、実感できるとき、私たちは初めて恐れない人間になっていく。
私たちに代わって周囲の悪の力と闘うために、主イエスはこの地上に来られた。
それゆえ、私たちが弱いということは問題ではない。問題は、いかに私たちが主に信頼しているか、である。
主が私たちのために、悪の力と闘って下さる、そして勝利される。
原文は、「闘う」という動詞は、分詞形であるために、訳文も分詞形を使っているのがある。
Yahweh your God himself is fighting for you.(New Jerusalem Bible)
実際、神が闘われるということは、現在進行形なのである。神がご自身を信頼する者たちのために闘われる、というのは過去や未来のことではない。そのような直接に経験できないところでなく、今生きているこの世において、まさに進行中なのである。
ヤマシャクヤク わが家にて(植栽) 2006.4.4
これは、静かな雰囲気をたたえた花です。野生でこのような姿に接するのは、現在ではかなり難しくなっています。私はだいぶ以前に一度徳島県の深い山で見たことがありますが、今もその印象は残っています。木々が茂り、ほとんど人が入らないと思われるような山深いところでひっそりと気付かれずに咲いている有り様は、自然のふしぎを強く感じさせられたことです。
自然の花は、多くのものに、神の御手を思わせる清さがありますが、この花はことに気品ある野草であり、天から降りてきたような清い美しさを持っています。(写真
ともT.YOSHIMURA
(ヨハネ福音書20:27ー29より)
見ないのに信じる人は、幸いである。」 |
ここで出てくるトマスという弟子は、イエスが復活したということが信じられず、復活したというイエスの十字架の釘跡を見たり触れるのでなかったら信じない、と言った。それに対して、イエスは実際に傷跡を見せて触れさせた。そして上のような言葉を語りかけたのであった。「信じない者でなく、信じる者になれ!」 このとき、トマスは、ただちにイエスの復活を確信し、「わが主、わが神!」と叫んだのである。
新約聖書のなかで、イエスのことを、このように明確に、「わが神!」と呼んだのはここだけである。 このトマスの記事は、単に疑い深い人のことを書いてあるのだと思われやすい。
しかしそうでなく、人が信仰に至る深い霊的な消息を暗示しているのである。人間はだれでももともと、復活など信じない。しかし、キリストが私たちの魂に触れたとき、キリストの一方的な恵みにより、そのような不信仰から、突然飛躍して、信仰へと導かれるということなのである。
このトマスの例においても、実際にイエスの傷跡に触れたが、それだけで信じたのでない。いくら奇跡を見ても、触れても、信じない人は信じないのである。それどころか、律法学者のように、かえってイエスを迫害するようになった人たちも多かった。
トマスが、「イエスこそは我が主、我が神!」と、突然にしてキリスト信仰の根本へと飛躍できたのは、イエスの「信じない者でなく、信じる者になれ!」という、トマスへの直接的な語りかけがあったからなのである。
最大の使徒パウロも、復活したイエスの直接の語りかけによって、激しい迫害者から突然にして、熱心なキリスト者となった。
私たちは、この世の悪を至るところで目にする。復活どころか、善きものが次々と滅ぼされるような感すらあるだろう。しかし、復活はある。死に打ち勝つ力とは最高の力であり、それこそが悪に勝利する力である。この世の中心にそうした悪と死に打ち勝つ力が存在し、それを信じる人たちが主ご自身の力によって起こされていく、という宣言でもある。
善の力が勝利する、そうした現実でなく、かえって悪の力が勝っているように見えるこの世において、私たちに求められているのは、「見ずして信じる」ということなのである。悪の現実が至るところで見えるそのただ中で、善の勝利や、復活の力を見ずして信じること、そこに大いなる祝福があり、永遠の命に至る道がある。
このトマスの記事が事実上のヨハネ福音書本文の最後の部分に置かれ、その直後に、ヨハネ福音書の目的という、総まとめのようなことが記されていることからも、この主イエスとトマスの言葉は、私たちへの重要なメッセージとして書かれていると言えよう。
トサミズキ (マンサク科)
徳島県小松島市日峰山(植栽) 2006.3.15
春先に咲く樹木の花として、トサミズキは、特に心に春を感じさせてくれる花です。 この自生は、高知県の一部の蛇紋岩や石灰岩地にあるとされ、これは、ミズキの仲間ではありませんが、葉がミズキの葉に似ていることから、トサミズキの名が付けられています。
これは大きな木にはならず、高さは2~3メートル程度で、写真のように多くの枝分かれをします。
(なお、ミズキ科には、広く知られているハナミズキがあり、これは北アメリカ東部原産で、1912年東京市長がアメリカに、サクラを贈った返礼に贈られたのが最初。さらに徳島市にある眉山(標高277m)にも見られるクマノミズキ、もっと高い山に時折見られるヤマボウシなどいろいろあります。)
トサミズキの仲間は、19世紀の後半にヨーロッパにも渡り、欧米でも,早春に開花する花木として珍重され、多く栽植されるということです。このうすい黄緑色の花が房状となって次々と咲いていくにつれて、春らしさは次第に実感されるものとなります。
この写真の後方には、白いウメの花も見られますが、ウメとトサミズキはいずれも、まだ緑の新芽はどの木々にも見られないとき、こうしてまず花を咲かせることによって、春を告げようとする神の御心を感じさせてくれます。
冷たい風のなかでもこのように、見つめるものに春だ、いのちの春だ、と多くの花たちがコーラスをしているように次々と咲いていくのです。
このような花の姿、色、たたずまいは、人間の考えたことでなく、まさに神ご自身のお心とご意志の表れで、それゆえに心の目を開いて見る者に、神の深いお心の一端に触れる思いにしてくれます。
(文・写真 ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 141 2006.2.25 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 |
イエスが言われたのは、重要な祭の最も盛大に祝われる終りの日であり、さらに、「立ち上がって、大声で言われた」と書かれているところに、ここで言われていることが、特に重要なことであるのがうかがえる。
それは、心の渇きを持つ人、仕事、趣味、娯楽、学問等々何をしても満たされない魂に対しての呼びかけである。仕事がいくら好きだという人であっても、毎日仕事ばかりでは、到底満たされないであろう。だからこそ町々にはさまざまの娯楽施設どがあり、テレビや映画にはそうした不満や満たされない心を一時的に忘れさせようとする番組で満ちているのである。
さらに、だれでも一日一日と老年に近づいている。老年とは次第に健康も失われ、友人などもいなくなり、仕事もなく、娯楽や飲食も楽しめなくなっていくことである。そして最後には死が近づいてくる。こうした状況は人を心から満たしたりするであろうか。 若いとき、元気なときの一時的な気晴らしのようなものは次々とできなくなっていくのである。
主イエスの言葉は、身体的には元気であってもさまざまの不満や満たされない心を持っている人たちの心の渇きを満たし、さらに、こうした老年の苦しみや不満からくる渇きをもよきもので満たし、死にも勝利する力を与えられるというのである。「生きた水」という表現は、それを飲むことによって、死というすべてを呑み込んでしまうものに対しても勝利する力が与えられるということである。
ここで、言われているのは、「生きた水」(living water )であり、言い換えると「いのちの水」であり、それは渇いている魂(満たされない魂)をうるおし、満たすものである。
そしてそのように満たされるためには、ただ神を信じ、神が地上に送られたキリストを信じるだけでよい。それによって私たちは主イエスのところで、「いのちの水」を飲むことができる。そして飲んだ者は、その人自身ひとつの新たな泉となる。 その生きた水は、私たちだけにとどまらず、私たちから外に向かって流れていくという。それは他者にもその流れが及んでいくということなのである。
そして確かに、イエスが永遠の泉となり、そこから溢れ出たいのちの水は、全世界をうるおして今日に至っている。
紅梅 わが家にて 2006.2.24
これは、紅い花のウメを大写しにしたものですが、ふだんはウメを見かけても、樹木であるためにこのように間近に見ることはできないのでこの写真にあるような多くの雄しべを見つめることもない人が大多数と思います。
ウメは、サクラやモモなどの広く親しまれている花などとともにバラ科で、それらに共通の多数の雄しべがありますが、それらを見ているとこの一つ一つが丹精込めて創造されていると感じます。芸術家が何らかの作品を作るとき、その一つ一つに情熱と愛を注いで造り出すと思われますが、まさにこのウメの花の創造主がそのような愛を込めているのが感じられます。
万葉集には、ウメをうたった歌が118首もあり、サクラは44首で、大きな差があります。また、花鳥図ではウメが最も多く取り上げられていると言われています。また、古今、新古今などの歌集にも梅を歌ったものは多く見られます。
このように、古い時代に中国から伝わった樹木ですが、古代から日本人に特別に愛されてきた樹木の花だといえます。
梅が枝に 鳴きてうつろふ鶯の はね白妙に淡雪ぞ降る (読み人しらず「新古今和歌集 春歌上より」)
(梅の枝をさえずりながら飛び移るウグイスの羽を白く見せるほどに早春の溶けやすい雪が降りかかっている)
この歌では、梅、ウグイス、雪、という三つのものが溶け合って私たちに早春の自然がやってくるようです。
このように多くの日本人の心を引きつけてきたのは、やはり寒さ厳しいただなかに次々と咲き続けるその姿、純白のウメにはとくに、世の中の汚れに染まない清い花として多くの人の心に訴えてきたものと思われますし、上の写真のような紅梅にはまた白梅と異なる温かみを持っています。
さらに、ウメには、ほのかな香りがあり、それは心に伝わる音楽のようなもので、目によく、心にもよいものと言えます。そしてウメの実がまた、薬用にもなり、日々の食事をも助けるものにもなるため、人々の生活にも深く関わっていると言えます。このように、芸術的にもまた精神的にも、さらに庶民の生活のなかにも溶け込んできたのがウメであったのです。
(文・写真とも T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 140 2006.1.24 わたしは主を愛する。 I love the LORD, for he heard my voice; he heard my cry for mercy. |
この詩の作者の単純率直な心は、二千数百年を経ても現代の私たちにもそのまま響くものがある。単に神を信じるというのでなく、神を愛する、と言う。神への愛は、神をまず信じるところから始まる。そしてそこからその神が単に人間世界を超えたところで存在しているというのでなく、人間に深い愛をもっておられる存在であることが分かってくる。人間が愛を感じるのは、自分の重い荷物、心の苦しみや悩みを軽くして下さったという体験によってである。この詩の作者も、そのような経験を持ったことがうかがえる。 だれにも聞いてもらえない、分かってもらえない自分の心の叫びを聞いて下さった、という実感はほかのどんなことにも増して感謝の気持ちを起こさせるものである。 信仰をもった生活といっても、このような心の奥深いところでの経験がなかったら、そのうちに消えてしまうことであろう。
私たちが苦しいほど、その痛みが深いほど他の人には分からなくなる。人間が個々に抱いているそのような心の問題においては、一人一人が実に異なる内容であり、表面的には何も悩みもなさそうに見える人であっても、驚くような深刻な問題を持っている場合もよくある。 主イエスが、当時は人々から見捨てられていた、らい病の人、生まれつき耳や目の働きが失われた人、寝たきりの人といった苦しみや悲しみの深い淵に置かれていた人の心をそのまま受け止めることができたが、そのような 御心はすでにこの詩の作者が実感していたのである。
主は私の叫びを聞いて下さった! という経験のゆえには、この詩の作者はかぎりなく主に心を注ぐようになる。 この世は人には分かってもらえない苦しみや重荷に満ちているものであって、それゆえにこそ、それを聞き取り、重荷を軽くして下さる神に向かって生涯心を注ぎ、叫び続けようという気持ちへと導かれたのである。
スイセン わが家の近くの山の斜面にて 2006.1.24
冬の花として水仙は、おそらくだれにとっても愛すべき花の代表的なものの一つだと思われます。その香りのゆえに、またその清楚な気品ある姿に、さらに真冬の寒さのただなかに咲くという精神的な目覚め
もしくは寒さに打ち勝つ力を象徴する姿のゆえです。
この写真の水仙は、数年前から、わが家の少し下のほうに次第に増えてきたもので、夏はいろいろな草が生い茂るし、土地も小石の多いところであり、およそ草花には不適だと思われるようなところですが、この水仙はたくましくそれらに負けないで、年々増えていくようです。周囲の雑草とか雑木の類はみんな枯れたようになっているのに、この水仙だけはこのように生き生きとした緑の葉を伸ばし、多くの香り高い花を次々と咲かせています。 このスイセンは、日本水仙とも言われ、房咲水仙(ふさざきすいせん)と言われる仲間に属します。
水仙はイベリア半島,地中海沿岸,北アフリカが原産地と言われ、房咲水仙の他、ラッパズイセンなど、約30種がありますが、日本水仙と言われるものは、もとはヨーロッパを経て、古い時代に中国にわたり、それから日本にも渡来してきて、野生化したと考えられています。アフリカ北西部にあるカナリー諸島が原産地と記してある植物事典もあります。(「植物の事典」1957年
東京堂刊)
このように、可憐な花を咲かせる水仙には、はるかな遠い古代に遠く地中海あるいはアフリカ北部地方から地球を大きく旅をして日本に伝わったという壮大な旅の歴史がその背後にあるのです。
わが家の近くの山の斜面に、生い茂る雑草に負けずにたくましく野生化している水仙、そこにはそのような旅を経てきたゆえの強靱さを示しているようです。