今日のみ言葉
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2009年

内容・もくじ
号数 主題 参照箇所 植物名 日付
今日のみ言葉 186 「喜びを種まいて下さる主」 (詩篇 97の10〜11 エゾフウロ 2009.12.10
今日のみ言葉 185 「主は人の一歩一歩を定め…」 (詩編51の12-13) イワギキョウ (キキョウ科) 2009.11.1
今日のみ言葉 184 「私が顧みるのは苦しむ人…」 (イザヤ書66の2) ウコンウツギ 2009.10.10
今日のみ言葉 183 「互いの愛、すべての人への愛とで、豊かに満ちるように」 (Tテサロニケ3の12) カラマツソウ 2009.9.6
今日のみ言葉 182 「主において常に喜びなさい。重ねて言う。喜びなさい。」 (フィリピ書4の4) チシマノキンバイソウ 2009.8.11
今日のみ言葉 181 「悪を善に変える神」 (創世記50:20) ザクロ 2009.7.10
今日のみ言葉 180 「再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶ」 (ヨハネ16の22) エビネ 2009.6.10
今日のみ言葉 179 「いつも喜べ、絶えず祈れ」 (Tテサロニケ5:16〜18より ) シュンラン (春蘭) 2009.5.13
今日のみ言葉 178 「罪赦された者の幸い」 (詩編32:1 ) アセビ (馬酔木) 2009..3.23
今日のみ言葉 177 「狭き門から入れ」 (マタイ福音書七・13-14) ハマダイコンと大里海岸 2009..3.10
今日のみ言葉 176 「心励まし、強める神」 (Uテサロニケ信徒への手紙2の16〜17) クヌギとメジロ 2009..2.8
今日のみ言葉 175 「新しい霊を」 (詩編51の12-13) 吉野川 2009..1.12

今日のみ言葉 186  2009年12月10日

「喜びを種まいて下さる主」

(詩篇 97の10〜11)

主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り
神に逆らう者の手から助け出してくださる。
神に従う人のためには光を
心のまっすぐな人のためには喜びを
種蒔いてくださる。

 The LORD loves those who hate evil; he guards the lives of his faithful; he rescues them from the hand of the wicked.
 Light is sown for the righteous, and gladness for the upright in heart.


 主を愛するとは、真実や正しいこと、清いものを愛すること、それゆえに、そうした真実なものを破壊し、踏みにじるようにさせる悪(悪人でなく)を憎む。
 主イエスは、敵を憎む(目に目を、歯には歯を)、という従来からの考え方を根本から転換させて、敵(自分に悪をしかけてくる者)を愛し、敵のために祈れ、と言われた。
 それはそのような人を好きになれ、というのではない。好きとか嫌いといった感情は問題にされていない。主イエスが言われたのは、悪しきことをさせているのは、その人の内に宿る悪の霊であり、それゆえにその悪の力(霊)が追いだされるように祈れ、ということである。
 イエスが最初に弟子たちを派遣するとき、何を目的とされただろうか。それは、悪の霊を追いだすということであった。悪人のうちから、悪の霊(力)を除き去ることができれば、どんな人でも善き人になる。だから、そのように祈れ、と言われたのである。
 そこには、感情に動かされず冷静に真相を見つめるまなざしがある。その人の言動だけにとらわれていたら悪しき人を嫌い、憎むことになる。しかしさらにその目に見える言動の奥にある、目に見えない悪の力を見据えるときには、その悪を排除することこそ、肝心なことだと知らされる。そしてそのような奥深いところにある悪の根を、私たちの力で除きさることは到底できないゆえに、主イエスは、そのことを神に祈れ、と言われたのであった。主は、つねにこうした事柄の最も深いところにある問題を見つめておられた。
 神は、種まきをされるお方である。全世界の至るところにさまざまの動植物も、すべて神が種を蒔かれ、支え、生きていくに必要なさまざまの仕組みをも与え、はぐくんでおられるのである。
 さらに、神は私たちの心にも種まきをされる。私たちが神を仰ぎ、従おうとするとき、神は私たちの心に光と喜びを種蒔いて下さるという。
 人間は、何かをもらったり、ほめられたり、ものごとがうまくいったら喜びは自然に出てくるのであって、神などと関係はない、と思う人が大多数であろう。 
 しかし、ここで言われているのは、そのようなことが何もないような悲しみや苦しみのときであっても、私たちが真剣に祈り求めるなら、そこに神は最もよきもの、いのちの光を種蒔いて下さる。それに伴って喜びをも種蒔かれる。そうすると、そこから芽が出て、善きものが育つようにされるということである。この世の喜びや楽しみからはしばしば高ぶりとか罪への芽が伸びてくる。しかし、神から蒔かれた光と喜びは、永続的なよきものがそこから芽を出してきて、成長してよき実を結ぶようにと導いて下さる。
エゾフウロ
エゾフウロ (フウロソウ科)  北海道(積丹半島の南西約40キロの日本海岸)2009.7.15

この花は、北海道 積丹半島の南西40キロほどの日本海岸の崖上で咲いていたものです。毎年夏の北海道瀬棚地方の聖書集会に行く途中の海岸で今夏、初めて見出した花です。これは、フウロソウ科の花で、この仲間は、日本の野山でいろいろ見られ、白山(標高2702m)など高山にあるハクサンフウロ、伊吹山(1377m)にもみられるヒメフウロなどもその仲間です。 
 徳島県の剣山(1955m)では夏にシコクフウロという花が、だいたい1500メートル以上の高さで、サラシナショウマやメタカラコウなどとともに見られます。また、平地でも昔から薬草として有名なゲンノショウコもこのフウロソウの仲間です。
 ここにあげたエゾフウロは、千島、北海道や東北地方、本州の高山などにみられる紅色の美しい花です。
 この写真のものは、岩が露出する荒々しい海岸の崖の上でのその姿が印象的でした。このようなところは、いつも強い潮風にさらされるうえ、冬になれば大陸からの風雪の激しいところで、生育環境のとくに厳しいにおいて、このような可憐な花が咲くのは、驚かされます。このような花の美しさは、こうした厳しい環境のゆえにいっそう強く感じられるものです。
  こうした厳しさのなかの美というものは、さまざまの苦しみや悲しみを、信仰によって乗り越えてきた人の持つ,内的なそして霊的な美しさに通じるものがあります。それは、生まれつきのものでなく、神によって表情に刻まれていった美しさと言えます。
 神の創造物であるがゆえに、自然はこのような繊細さと、厳しさ、力強さとが深く溶け合って存在しています。神ご自身がそのようなお方だからです。そのことは、人間にも、そのような状態が可能であることを暗示しています。(文、写真とも T.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 185  2009年11月1日
「主は人の一歩一歩を定め…」

(詩篇 37の23〜24)

は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
 
 Our steps are made firm by the LORD, when he delights in our way;
though he stumble, he will not fall, for the LORD upholds him with his hand.


私たちの日々の歩みは、自分が思いつき、考え、そして決断し、実行していくと、たいていの人が思っているだろう。
 しかし、この聖書の言葉では、自分で考えて道を選びとって歩んでいるように見えても、その背後で神が私たちのその一歩一歩を、最善のことになるようにと堅くして下さっているというのである。
 私たちが真実に反するようなことをしていたら、それをもすべて見抜いておられる神は、そのような間違った歩みを正すために、私たちを何らかの苦しみに合わせたり警告となるようなことを示される。そうすることによって人が正しい道の新たな一歩へと修正するようになされる。
 私たちが幼な子のような心をもって信頼するときには、いっそう主は喜んで下さり、私たちの手をしっかりと取って下さるであろう。
 人生の歩みのなかで、誰も手を取って導いてくれない、孤独で捨てられたのでないかと思われるほどに神の愛などが感じられなくなることがある。すでに旧約聖書のヨブ記においてもそのようなことがあるのは、痛切な経験として書かれている。「なぜ、私は生まれ出てきたのか、生まれない方がよかったのだ!」といって激しくうめいた。(旧約聖書・ヨブ記3章)
 主イエスも十字架の激しい苦しみのときに、「主よ、主よどうして私を捨てられたのか!」という叫びをあげられたことも、こうした人間の深い実感を示すものとなっている。
 しかし、そのようなときでも、確かにこの詩にあるように、ヨブにしても主イエスの場合も、神はその道を堅くし、しっかりととらえて下さっていたのであった。 ヨブは長い苦しみの末に自分をとらえてくださっている神の御手をはっきりと示されたし、主イエスも復活して神のもとに帰られたのであった。
 私たちにおいても、その御手が見えないと思われるときでも、このみ言葉を堅く信じて歩むときに、時至れば、私たちの魂を導き、とらえて下さっている愛の御手をはっきりと知るように導かれるのである。
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イワギキョウ (キキョウ科)  北海道 大雪山(黒岳頂上)2009.7.21

 この写真だけを見ると、どこかの家の花壇のように見えるかもしれません。しかし、これは厳しい寒さや風雪にさらされる北海道の高山の山頂部に見られた小さな天然の花畑なのです。
 この花は、まだ雪の残る頂上の砂礫地(下の写真の頂上標識のすぐ右側10数mほどの所)に、10センチほどの低い花茎を出して他の植物とともに咲いていたのです。雨が少し降ったので、このように水を受けています。キキョウ科の花は美しい青色や青紫をしているのが多いのですが、このも、コバルトブルーの青色が美しい花です。
 これは、北海道や本州の中部以北の高山に見られるものです。日本以外にも北アメリカ、北太平洋のアリューシャン列島など寒地の岩の割れ目や砂礫地に見られると記されています。
 この写真のものは、大雪山系・黒岳頂上(標高1984m)に咲いていたのですが、何のさえぎるものもない頂上で、風雪が激しく、かつ土地も小石状でありどこから見ても、植物の生育には十分でないと思われるようなところに美しく咲いていました。
 植物の生育というと、暖かく、日がよくあたり、肥料もあり、土も柔らかなところがよいと思われますが、この植物のように、緯度の高い地方である上、さらに高山の厳しい寒さと風の吹く岩の間や砂礫を好んで咲くものもあり、創造の不思議を思います。
 人間においても、よい家庭で健康で能力も恵まれていれば、それはとくに感謝すべきことで、神はそうした人ももちろん用いられますが、貧しく、暗い家庭、混乱した状況のただ中にあっても、神は恵みを注ぎ、その歩みを祝福されて、神に用いられる人となっていった例も無数にあります。
 主イエスは、「ああ、幸いだ、心の貧しきもの、悲しむものは! 」と言われました。貧しさや悲しみ深いところにこそ、かえって神の祝福の花が咲くのだというのです。(文、二つの写真とも T.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 184  2009.10.10
「私が顧みるのは苦しむ人…」
(イザヤ書66の2)

わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。

 This is the one whom I approve: the lowly and afflicted man who trembles at my word.

 多くの人々が見つめようとするのは、マスコミによく現れる政治家や芸能人、スポーツ選手といった有名人である。それに応えてマスコミも繰り返しそのような人物を人々に提供する。とくに毎日のように特定のプロ野球の選手など新聞やテレビなどに現れる。ほかの人間のさまざまの活動に比してあまりにも偏重した扱い方だと言えよう。
 しかし、神はまったく異なる。神が見つめるのは、いま苦しんでいる人、圧迫されている人、そして心が壊れたようになって悲しんでいる人なのである。また、それまでの自分のたかぶりや罪を知って打ちのめされている人、そしてそこから神のすべてを御支配されている力を知って、神の言葉をおそれをもって受け取る人である。
 私たちのこの世界には、至る所で紛争など悪の力や災害などで苦しむ人たちがいる。それは今に始まったことでなく、はるかな遠い昔からずっと続いている。 なぜ特定の人が著しい苦しみや悲しみに出会うのか、その苦しみがいやされることはないのだろうか…。
 もしこのようなことに関して全く光がないのなら、この世は全く深い謎であり、生きていくことに希望がなくなっていくであろう。今、元気で働いて、また仕事や家庭も健康も恵まれているといった人がいても、その人もいつ難しい病気や事故が襲うかもしれない。そして老年になるとたいてい孤独や病気、あるいは人生目的を失って心が空虚になっていくことが多い。
 そのような闇のなかで、もし人がこの世界を創造された神を知るとき、そしてその神が、ここに言われているようなまなざしで人間を見つめておられるのを知るときには、この謎に満ちた苦しい世界に、光が射しているのを感じることができる。
 苦しむとき本当にわかってくれる人を持つことはなかなかできない。しかし、目には見えないけれど、神はその苦しみを見て下さっている。そして、神の言葉の真実性を信じつつ、そのような神に求めるときには必ず何らかの励ましや希望を与えて下さる。求めよ、そうすれば与えられる、という約束の言葉のとおりに。
ウコンウツギ (スイカズラ科)
  北海道 大雪山(黒岳)2009.7

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ウコンウツギの群生
(手前の白い花はカラマツソウ)

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この花は、大雪山(黒岳)の標高1500メートルあたりから、咲いています。私は、44年前の夏、この写真の撮影時期とほぼ同じときに大雪山系を縦走したのですが、そのときには今のように植物についての知識もなく、さらに、ロープウェイやリフトもなく、ふもとから重いリュックを背負って長距離を登っていかねばならなかったため、ゆっくり草花を味わうゆとりが持てなかったのです。
 しかし、今回は、リフトを降りたところにすぐ咲いていて、私の目に最初に強く入ってきた花でした。そこからだいぶ登っていくと、下の写真のように山の斜面に大群落を見せていて、北の高山の厳しい環境を喜んで咲き、創造主たる神への賛美を繰り広げているように感じたのです。
 この植物の名前にある ウコン(鬱金)とは、インドなどの熱帯アジア原産の多年草で、ショウガの仲間です。その根茎を薬用、また香辛料や染料として古くから利用されてきました。このウコンで染めた色は深みのある黄色です。そこから、このウツギの名前も作られています。なお、桜の仲間にも、ウコンといって黄色の花を咲かせるものがあります。「ウコン色の花を咲かせるウツギ」 といった意味です。
 
 今回掲載したウコンウツギは、高さは1〜2m程度で、分布は、岩手や青森の山岳地帯、そして北海道やシベリアに至る北方にみられる樹木。本州に住む大多数の人にとって、この花を実際に見ることはできないわけで、ここ大雪山にては豊かに咲いているのを見ることができたのは恵みでした。このウツギの仲間は、四国でもヤブウツギ、ハコネウツギなどありますが、下の写真にあるような一面に咲いている群生などは見たことのないものでした。 寒さ厳しいなかを好んで咲くこのような樹木の花、ここにも神の創造の豊かさを知らされるのです。 (文、写真とも T.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 183   2009.9.6
「互いの愛、すべての人への愛とで、豊かに満ちるように」

(Tテサロニケ312

どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、

豊かに満ちあふれさせてくださいますように。

May the Lord increase and enrich your love for each other and for all.

 キリストの弟子、パウロがとくに各地の信徒たちに対して願っていたことは、この聖句にあるように、愛であった。これは人間的な、生まれつきの好き嫌いの感情とは全くことなる愛であった。それゆえ、パウロは、主のはたらきがなかったら、そのような愛は有り得ないことを知っていた。それゆえに、「主がしてくださるように」との祈りをここで述べているのである。

 だれでも、感情として好感を持つ人がいるだろう。そうした相手には自然に心が惹かれる。それをふつうは愛といっている。ほとんどの人は、親子、友人など子供から老人まで人生のなかで、そうした愛を感じてきたことだろう。

 しかし、それはここで言われている愛とは大きくことなっている。ここでの愛は、無差別的なのである。すべての人とは、自分と出会う人はだれでも、ということで、よくない行動をする人、敵対する人、自分を侮辱するような人にまでその範囲は及んでいる。

 このような愛に生きることは、キリスト者であってもそれはとても困難なことである。ここでいう愛とは生きたものであって、つねに相手がよりよくなることを思い続ける生きた心のはたらきを言うからであり、主イエスが言われたように、イエスに深く結びついていなかったら、(表面的にキリストを信じているだけでは)私たちは何もできない、そのような愛はとうていできないからである。

 キリスト者の集会に集まる人がどんな人であっても、例えば、信仰を持ったすぐで異教の習慣から離れていない人、何らかの利得を目的としてキリストの集まりに入っているような人、自分が高ぶって上に立とうとする人、古い自分が消えていないために自分がしたことを吹聴するような人…さまざまの人たちが、最初のキリスト教の集まりには混入していた。そんなさまざまの人たちに対しても、愛をもって対することが言われている。

 そうして、その愛をもって、キリスト者でない人たち全般に対してもかかわることが勧められている。 どんな嫌悪を感じるような人に対しても、だれでもに同じように愛をもって対すること、それこそは神からの愛を豊かに受けているしるしと言えるだろう。

 よい学校や会社に入るとか、知識を増やす、経済的に向上する、病気がなおるとか、家庭の問題が解決される、仕事でよく評価される、…等々、人間にはさまざまの願いがある。しかし、パウロが、そうしたことを越えて、最も重要なこととしてまたあらゆる状況にある人たちに最善のこととして願っていたのは愛であり、神の愛が人々の間に行き渡ること、それで満たされることなのであった。

 その愛こそは、どんな状況にあっても、真実な人と人との結びつきを生み出し、弱っている人を励まし、また希望を与え、主の平安をもたらす力を持っているからである。


カラマツソウ

カラマツソウ   北海道 大雪山(黒岳)2009.7.21

 このカラマツソウは、大雪山(黒岳)の頂上に近いところに、純白の花びらが高山の清々しい大気と溶け合うように咲いていました。本州の高山帯と北海道の山々に咲いているもので、四国では見られない花です。かつて北アルプスに登ったときに、少しだけ見た記憶があります。しかし、この大雪山ではあちこちに、前回の「今日のみ言葉」に出したチシマノキンバイソウ(千島の金梅草)などとともに見られて、純白のアクセントを感じさせてくれたものです。

 それは、神の国の一瞥をさせてもらったような感じで、地上であのような清い花畑は人の少ない北海道の山々が最もよく味わうことができるように思います。希望といのちのシンボルである緑の葉、そこから咲いた真っ白い花、それはいかなる汚れも感じさせない雰囲気があります。

 人間はどんなに努力してもなお、罪のけがれから逃れることができず、それゆえにこそ私たちは、キリストが十字架によってそのけがれを清めてくださったことを信じて、清めを受けるしか道がありません。

 しかし、こうした高山に太古の昔から咲き続ける植物は、はじめから神の国の清さといのちを持ち続け、それを訪れる私たちに静かに示しているのです。山そのものが神の力と永遠を語り続ける存在ですが、そこに厳しい寒さや積雪に耐えて咲く花は、揺るぎない山々の力のなかに、繊細さをたたえた存在で、神の大いなる奇跡というほかはありません。(文、写真とも T.YOSHIMURA

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今日のみ言葉 182  2009.8.11

「主において常に喜びなさい。重ねて言う。喜びなさい。」

フィリピ書4の4) 
 
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
 
 
Rejoice in the Lord always! Again I will say, “Rejoice!”

 この聖書の言葉は、よく知られているが、多くの人が、いつも喜ぶなど、とてもできない、と感じる聖句でもある。
 真実を語りなさい、といった言葉は守れなくともそのような命令形はごく普通に見聞きする。
しかし、聖書以外の本、また一般の家庭や学校などで、どこで、こんな命令を見聞きするであろうか。
 これは、命令というより勧めというニュアンスも持っているが、はじめに置かれている「主にあって」(in the Lord)ということが重要である。
 主にあって、とは、霊的な主イエス、復活しておられて、聖霊でもある主イエスの内にあって、ということである。
主イエスの内にあるということは、まだキリストのことや聖書のことをまったく知らないという人には不可解なことであるが、神と同様なお方であるキリストの霊の内にしっかりとどまっているほど、私たちはその主イエスの力を受け、導かれて歩むことができる。
 
 そしてそのときには、つねに喜べ、というみ言葉に少しなりとも従うことができるようになり、神やキリストを知らなかったときにはなかったことだが、生活のなかの小さなこと一つ一つに対しても喜ぶことができるようになる。また身の回りの自然の美しさ、繊細さなども、主にあるならば、一つ一つが意味をもっているのがわかってくる。
 
 しかし、事故や病気になったときの悲しみのとき、あるいは他人から、悪く言われ見下されるなど、人間関係に苦しむとき、それでも常に喜ぶことができるだろうか。
 このようなときでも、私たちが主のうちにとどまり、主イエスにつながっているときには、そのような苦難に打ち倒されずに支えられるのを実感し、主が魂の近くにいてくださるゆえの主にある平安を与えられる。それは主イエスが約束して下さっていることである。「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は世に勝利しているのだから。」(ヨハネ16の33)
 そして主の平和を実感するとき、それは感謝となり、静かな喜びが伴う。
「悲しむ者は幸いだ、なぜなら、その人は(神によって)慰められるから。」と主イエスが言われたように、苦難や悲しみの中にも、神からの慰めが与えられることも約束されており、ここに感謝と喜びも生まれるのがわかる。
 また、すぐには感謝などできなくとも、時が経つとそのような苦しいことにも深い意味があったことを知らされ、深い感謝の心が生まれ、そこに喜びも生じてくることは多くの人たちが経験してきたことである。
 私たちの最も深い喜びは、神の愛に触れるときである。それゆえに、常に喜べ、というみ言葉は、喜ばしいことや苦しいことも含め、またまわりの自然などのできごとも含め、すべてのことの背後に神の愛の御手があるということを思い起こしなさい、という呼びかけなのである。
野草と樹木たち
チシマキンバイソウ
チシマノキンバイソウ    北海道 大雪山(黒岳)2009.7.21
 
今年の夏、大雪山の黒岳(1984m)に登って、高山植物に親しむ機会が与えられました。今から44年前、大学生のときには、テントや燃料、食料など重い荷物を背負って大雪山系を一人で縦走したのでしたが、現在ではロープウェイとリフトがあるから、簡単に7合目の標高1500mの高さまで登ることができます。  ある場所から別の場所へと、長距離を車で走行し続け、着くと聖書の集会をする、このようなことだけを続けているとだんだん睡眠が十分とれなくなって体調も不調となり、徳島に帰ってからなかなか元に戻らないので、今年は集会や訪問の予定も少なくし、かつ、休養日を設けて神の創造の御手による自然の中を歩き、自然という「聖書」をひもとくことを考えたのです。
 このチシマノキンバイソウ(千島の金梅草)とは、その名のように、北海道の大雪山や千島列島などに分布している植物で、黒岳の斜面などに群生していて、美しい鮮やかな黄色の花を咲かせています。花の直径は4p前後。
 9月中旬にはこの山系には早くも雪が降るという厳しい寒さのなかで、このように短い期間に芽を出し、美しい花を咲かせるのは、驚くべき神のわざと感じます。
 人間においても、人生の短さを深く自覚し、厳しい困難に耐えて神に希望をかけて歩んだ人ほど、魂の美しい花を咲かせるのを思わされます。
 いつ、どのようにしてこのような花がこの厳しい気候の山岳地帯に咲くようになったのか、それは神秘に満ちています。
人類の現れるはるか昔から、この山々に咲き続けてきたであろうこの花、この緑のなかに浮かびあがる黄色の花たち、それは永遠の神への賛美であり、人間よりもずっと以前からその賛美を続けてきたし、今後もかぎりなくこの美しく咲く花は神への賛美をたたえて咲き続けるでありましょう。
文、写真とも T.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 181  (創世記50:20)     2009.7.10
「悪を善に変える神」

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
(創世記50:20)

You  meant evil against me, but God meant it for good, to bring to pass, as it is this day, to save many people alive. 
 
    (meant は、mean 「意図する」の過去形)

 この言葉は、創世記の最後の章に出てくる言葉である。創世記は聖書の最初の書であり、この言葉を語ったヨセフは兄弟たちのために殺されそうになったが、エジプトに売られて行ってかろうじて命をたすかった。そこでよく与えられた場所で働いたために厚い信頼を得たが、まもなくその家の妻によって陥れられ、牢獄に入ることになった。そのような時でも、神による特別な能力をあらわした。そしてだいぶあとになって王の不思議な夢の意味を適切に説き明かして厳しい飢饉が生じることを予告した。それによってエジプトはその後、地中海東岸の広大な地域に生じた飢饉を乗り越えて力を維持していくことができた。そのため、囚人であったヨセフは、国王に次ぐ高い地位を与えられ、そこにかつての兄弟たちが穀物を求めてやってきた。彼らが本当に過去の罪を悔い改めているのかどうかを知ろうとして、ヨセフは彼らを試みた。その結果、彼らはかつての大きな罪をはっきりと知り、悔い改めているのがわかった。そこでヨセフが語ったのが、ここにあげた言葉である。
 創世記は73頁にわたる書であり、そこで最後の部分に現れるのがこの言葉である。それは、ヨセフの兄弟たちが、重い罪を犯してきた、ということを認めて悔い改めたということ、そしてどんな悪意であっても、それに打ち勝って善きものへと変えて下さるお方(神)がおられる、ということである。長い創世記の記述の最後のメッセージとしてこのことが記されているが、 これは、現代の私たちにとってもとくに重要なことである。大きな災いや苦しみがふりかかってきても、私たちが自分たちの罪を知り、そこから、罪を赦して下さる愛の神を信じるかぎり、必ず神は善きことへと変えて下さるようになる。
使徒パウロも同様なことを述べている。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマの信徒への手紙8:28)
 いかに悪しきことがあろうとも、万事を善きにして下さるということは、何という大きな希望であろう。信仰と希望と、神の愛ということをこの創世記の記述から知らされるのである。
野草と樹木たち
ザクロ
   ザクロ     徳島県小松島市 日峰山(わが家の植栽)             2009.6.28
 
 ザクロは、花を鑑賞するために、そして紀元前から、果樹としても栽培されてきたもので、この鮮やかな緋色の花と、濃い緑の葉の対照が印象的です。つぼみもはち切れそうな豊かさをたたえています。もともと、この植物の原産地は、地中海東岸からトルコ、イランやアフガニスタン地方です。今日では長く続く混乱や戦争で人々が苦しんでいるところが多いのですが、この花は、そうした人間世界の混乱と闇にしずかに語りかけるように、今もその地方で咲いていると思われます。
 ザクロは、乾燥に強く、聖書の地方でも重要な植物として栽培されていたために、旧約聖書でも20回ほど出てきます。下のはその一例です。
 
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。(申命記8:6-8)
 
 このように、神のみ言葉に従うときに与えられる祝福の満ちた地に育つ穀物、果樹の一つとしてあげられています。そのほかソロモンの神殿の柱頭に浮き彫りにされたり、祭司の服にも飾りとなり、「ベールを透かして輝いているあなたのこめかみは、ざくろの実」(雅歌4:3)などのように、多様な意味に用いられています。それほど注目された果樹であったということなのです。
 現代の日本では、ザクロの特徴ある実を直接に食べたことのある人は少ないと思います。果実の仕組みも独特で、入り組んだ部屋のようなところに小さな実(種)がいっぱいに詰まっていて、私はこどもの時から、興味深く食べたものです。
 このザクロは、小さな赤いみずみずしい実(種)がたくさん入っていることから、古代より豊かさと命の象徴として用いられてきました。そして、画家のボッティチェリなどは、マリアに抱かれた幼児イエスが、大きなザクロの実を手に持っている絵(「ザクロの聖母」と言われる)を描いています。 これは、ザクロの赤い実はキリストが流した血によって輝くエクレシア(キリスト者の集まり)を象徴するものであり、さらに、たくさんの実(種)がなかに入っているように、豊かな命、キリストによる永遠の命をもあらわしていると言われています。(「聖書象徴事典」174p 人文書院刊他)
 現代の私たちは、多くの実、真理に向かってザクロのような赤く燃える心の実をつけるため、また永遠の命を受けるために、「私に留まっていなさい。そうすれば豊かに実を結ぶ」と言われた主イエスの言葉に従うようにと、求められています。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA )

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今日のみ言葉 180  ヨハネ16の22   2009.6.10

「再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶ」
 
今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。
その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

(ヨハネ16の22)
 
You have sorrow now, but I will see you again and your hearts will rejoice, and no one will take your joy from you.

 この言葉は、イエスが捕らえられ十字架につけられる前夜に語った言葉であり、いわば遺言のように残されたものである。 3年間ずっとともにいて自分たちを導き、さまざまの大いなるわざを直接に見せてもらい、イエスの力を受けるときには、だれかに宿る悪の霊すら追いだされて、新しくされるというかつて経験したことのないことも知らされた。そのような絶大な存在であったイエスがこの世からいなくなる。それは大きな悲しみである。しかし、イエスは再び来られる。そのときに与えられる喜びとは、誰も奪うことのできない本質を持っている。再び来るとは、聖なる霊という目には見えないかたちで、いわば風のように来られるということなのである。
 私たちが味わう喜びはさまざまである。最初に経験するのは、泣いていた乳児が、母親からミルクを与えらるときに、喜ぶことでわかるように、不可欠な食べ物による喜びである。そして人間同士の関わりや遊び、学ぶこと、勉強やスポーツ、あるいは仕事において、人から認められ、称賛されること、などに広がっていく。しかし、そうした喜びはすべて簡単に取り去られ、壊れていく。心ないひと言で友達関係の喜びは消え失せ、一瞬の事故や病気によってたいていのそうした喜びはなくなってしまう。そして悲しみが残る。
 この人生そのものが全体として、はじめは若々しく活気があって楽しみや喜びがいろいろあるが、次第に老年になるとそれらは大抵失われて、ばくぜんとした憂うつや悲しみが蓄積されていくことが多い。
 こうした現状は、ただ一つの道によって変えられる。それが、イエスが私たちのところに来てくださること、悲しみや暗い心のただなかで、主イエスと出会うことなのである。 そしてそのことによって与えられる喜びは、病気や事故、あるいは老年や死が近づいてもなお、奪い去られないような力を持っている。それは永遠の神ご自身からきているからである。
 私たちの日曜日ごとの礼拝集会も、主イエスに出会うことが目的であり、その出会いとともにみ言葉を受け、それによってキリスト者同士の交わりがなされ、日々の仕事もなされていくことが求められている。私たちの生活のすべての中に、主イエスが来てくださることによって、私たちはこの世のさまざまの悲しみや暗いできごとにもかかわらず、魂のある一点で光を感じ、奪い去られることのない喜びが与えられると約束されている。
野草と樹木たち
エビネ

エビネ     徳島県小松島市 日峰山(植栽)              2009.4.28

 エビネは、前回に出したシュンランとともに、春に咲く蘭の仲間で、これは、花の美しさのゆえに、多くの人に愛好されてきた花です。シュンランが地味な色合いなのに対して、このエビネはさまざまの色のものがあり、形も美しいものが多いのです。この写真のエビネは、キリスト者の友人からずっと以前に分けてもらったものをわが家の山の自然の土地に植えたもので、毎年咲き続けています。
 野生のエビネには、大分以前に私は二度しか出会ったことがありません。それだけにこうした自然のたたずまいのなかで春になると大地からこのような美しい花を咲かせ、神の国の美しさの一端を語りかけてくれるのはとてもありがたいことです。 エビネは、森林の下に咲く花で、1日に1〜2時間程度日光があたり、あとは木漏れ日程度の状態でこのようによい花を咲かせます。植物もさまざまで、日当たりがよくなければ花も咲かないものもあれば、このようにわずかの日の光でも立派な花を咲かせるのもあります。
 人間の世界にあっても、このエビネのように、わずかの光しか当たっていない木陰のようなところにあってもなお、立派な心の花を咲かせることのできる人もいます。それは、神のいのちの言葉を受けて生きている人だと言えます。聖書にあるように、み言葉に従う道を歩むときには、その人は水のほとりに植えた木のように、葉が茂り、豊かな実を結ぶ(詩篇第一篇)と記されているとおりです。私たちも人生の暗い谷間にあっても、主の光を受けて魂が照らされ、実を結ぶようにと導かれたいと思います。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 179 2009.5.13

「いつも喜べ、絶えず祈れ」

(Tテサロニケ5:16〜18より )

いつも喜べ。
絶えず祈れ。
すべてのことにおいて感謝せよ。
これこそ、神があなたがたに望んでおられることである。


Rejoice always. Pray without ceasing. In everything give thanks, for this is the will of God .
喜び、祈り、感謝、この三つは、キリスト者の心のあるべき状態を示している。
もちろん、神を信じていなくとも、さまざまの喜びもあり、感謝もするだろう。しかし、その喜びや感謝は一時的であり、自分になにかよいことがあったときだけ喜び、感謝したりする傾向が強い。
現代の若い世代のように、小さいころから過保護に育ち、有り余る食べ物やゲームや遊具などにあふれて育ってきた者たちは、深い感謝の心は大きく欠落してきていると言えよう。感謝とは、よきものを受けたと、という実感がなかったら湧いてこない。食事や衣服、住居その他の持ち物すべて、あるいは人間関係で親や学校の先生、友人たちが何かをしてくれていても、当然と思っている場合には感謝はない。
身の回りの自然にしても、初々しい若葉や草花、青空や夜空の星などを見ても、それらが自然にあるとしか思えない場合には、その美しさや新鮮さに感動はすることはあっても、感謝という気持はない。
しかし、私たちを創造され、またすべての自然や出来事も、深いところで全能の神がなさっている、しかも愛の神が真実をこめてなされていることなのだ、と信じる心があるときには、そうした身近な若葉や野草、青空といった身近なものひとつひとつが、神の私たちへの愛の現れなのだと感じ、受け取ることができるから、そこにも感動だけでなく、感謝が生じる。
感謝の心は喜びと直接に結びついている。不満や怒り、悩みは喜びと反対であるが、それは当然感謝などとてもできない心の状態である。
そうした、喜びと感謝という重要なことを生み出し、支えているのが、祈りである。祈りとは絶えざる神との結びつきであり、霊的な交流である。それがあるときには、たしかに周囲のさまざまのものが自分に与えられたのだ、と感じる。祈りのない心は、それらが当たり前として感謝は生じない。
使徒パウロがここに引用した文のすぐあとに、「(聖なる)霊の火を消さないように」と記しているのは、絶えざる祈りの心とは、その人の魂のうちに神からの見えざる霊の火がいつも燃えていることにほかならないからである。
私たちも絶えず神と結びつき、祈りによって内に与えられている聖なる霊が消えないようにしていきたいと思う。

    野草と樹木たち
シュンラン (春蘭)
シュンラン (春蘭) 徳島県小松島市 日峰山 2009.3.27

春に咲く蘭の仲間で、昔から親しまれているのがこのシュンランです。ラン科の花は、現在では、野生のものはなかなか身近にはありませんが、万葉集にもよまれている野草のネジバナは、今日でも折々に草むら、芝生のようなところに自生して、それが多くのひとにとっておそらく最も身近なラン科の花だと言えます。
私が小さいころ、シュンランはわが家のある山にはあちこちにたくさん見られたのですが、次第になくなってしまい、現在ではめったに見つからないものです。
それが、今年わが家の近くの山の斜面に今までは咲いたことがなかったのに、このような花を咲かせているのが見つかったのです。花茎の高さは10〜20p程度で、淡黄緑色の花をひとつつけています。黄緑色の花というのは一般的には少なく、葉の色と似ているので、地味な自然の味わいがあり、花の咲き方や暗緑色の細い葉など全体として見るものに語りかけ、心を安らかにするような親しみを感じさせる山の花です。
この花の素朴なおもむきも、神の創造によるのであり、神のお心の一端を映していると感じます。 なお、この花びらや、花の茎も食べられるものですし、鉢植えなどにして昔から愛好されてきました。 こうした素朴なよさを持つ野草の花が今後も生き延びて、見るものの心に静かなるメッセージを送り続けますようにと願っています。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 178  2009..3.23 

「罪赦された者の幸い」

(詩編32:1 )

いかに幸いなことか、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は!

How blessed are those whose offence is forgiven, whose sin blotted out.(NJB)
(Oh, what joy for those whose disobedience is forgiven, whose sin is put out of sight!)(NLT)
 この短いひと言は、実に深い意味を持っている。それはこの罪の赦しということこそ、キリスト教の中心であり、またそのためにイエスは十字架にかかって死なれた。イエスが地上に来られたのは、そのためであった。神の愛、正義、真実といったことはすべてこの十字架の死にこめられている。
 聖書ははやくからこの人間にとっての根本問題を一貫して示し続けてきた。そしてその赦しがなかったら、人間の魂は安らぎを得ることができず、幸いを感じることもできないこと、からだの健康も言うまでもなく重要なことであり、経済的な安定も必要なことであるが、それらがどんなにあっても、魂の深い平安は得ることができない。
 しかし、罪赦され、それによって神とともにあることができれば、貧しくとも、病気であってもなお、魂の平安を感じてきた人は数知れずいる。
 この人間にとっての根本問題をこの詩編で扱っている。併記した英語訳に見られるように、これは何という喜びなのか!という感嘆符の付けられる内容である。
 心のなかの不安や不満、そして怒りや憎しみ、憂うつといったさまざまの感情は、しばしば私たちの病気や周囲の人間関係などの状況によって引き起こされるけれども、実は私たちの心が深く神と結びついていないことに根本的な原因があると言える。
 罪が赦され、神との深い交わりが与えられ、聖なる霊が注がれるときには、さまざまの外側の状況をも乗り越える力が与えられるし、私たちの心に天よりの光が注がれ、天の国のさまざまの祝福が注がれるであろう。
 中風で動けない人を、その友人たちがイエスのいやしを信じてイエスのもとに運んできた。あらゆる妨げがあっても主イエスのもとに運べばなおしていただけると信じた人たちのその信仰をみて、中風の人に対して「あなたの罪は赦された」と言われた。からだの病気以上に罪からの赦しこそが人間にとって最大の問題であるからであった。
 しかし、すでに神を信じ、キリストを救い主として受けいれている者であっても、ときには私たちの心に影が射してくることがある。そのようなときでも、罪赦されたものは、主とのつながりの基となるものを与えられているのであるから、忍耐しつつ主に祈り、求めていくときには、主の約束の通り、時至れば必ず主が私たちの心に新たな力を注いでくださると信じて歩みを続けることができる。

アセビ
アセビ (馬酔木)     徳島県海部郡海陽町   2009.3.10

 この樹木の花は、日本人に最も古くから、愛し続けられている花の一つだといわれています。これは園芸用として花壇や鉢植えとして広く用いられているのでよく知られています。しかし、野生の花に出会った人はそれほど多くないと思われます。この写真は徳島市から50kmほど南の山中に自生していたものです。海陽町での聖書の学びから帰途、車中からいろいろな木々に混じって咲いているのが見えたのでそこまで登って撮影したものです。
 アセビはツツジの仲間ですが、道路によく植えられているヒラドツツジやヤマツツジ、ミツバツツジなどのように大きな花を開くのでなく、釣り鐘状の花を咲かせます。このような花は、ドウダンツツジ、ネジキなども同様です。
 この花は、古くから愛好され、万葉集にも10首ほどあります。そのうちの一つをあげておきます。
 
礒影(いそかげ)の、見ゆる池水、照るまでに、咲ける馬酔木の、散らまく惜しも(第20巻 4513)
( 岩影が映っている池の水が照り輝くほどに咲いている馬酔木が散ってしまうのは惜しいことだ。) *「礒」とは、岩のこと。
 
アセビの花がなぜ、古来から日本人に愛されたのか、いろいろ理由はあると思われますが、まだ寒い3月ころに咲き始めるために、寒さの中での心を慰める花となったこと、緑や冬枯れのような木々のなかで、命に満ちた美しい花をたくさん咲かせることで、見る者に新たな励ましを与えるところがあったと思われます。
 現代の私たちにとっても、このような野生の花を山にて見出すとき心惹かれるものがあります。上の写真で大写しになった一つ一つの花を見るとき、それらの一つ一つの花が心を込めて創造されたのを感じ、このような花を創造された神の御手とそのお心に引き寄せられる思いがします。  (写真、文ともにT.YOSHIMURA)

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 狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広く、これより入る者 多し。
命にいたる門は狭く、その道は細く、これを見出す者 少なし。

Enter through the narrow gate. For wide is the gate and broad is the road that leads to destruction, and many enter through it.
But small is the gate and narrow the road that leads to life, and only a few find it.
「狭き門」、この言葉は、大学入試や就職のときにも、○倍の狭き門、などとよく言われる。
しかし、この聖書の言葉は、そのようなこととは全くことなることが言われている。  狭き門から入り、細き道を歩む、それは神との交わりのうちに示された道を歩む道であり、一言にして言えば祈りの道である。
 ここで言われている命とは永遠の命であり、生物としての命でなく、神の持っておられるような命である。それは壊れることなく、聖なるもの、また真実や愛に満ちたものである。
 そのような命が私たちの究極的に与えられるものだと聖書は約束している。そのためには、求めなければならない。狭い門から入り、細い道を歩むことが必要となってくる。自分の名誉、快楽、自分中心の考え方など、だれでも持っている。そうしたものを中心に生きることは、命へと続いていない。
 日々の生活のなかで、生きて働いておられる神、愛と真実な神への祈りを持って生きることこそ、この狭き門を入ろうとすることであり、また細い道を歩むことになる。それは目には見えないお方を心に見つめ、そこから力や導きを得ようとして歩むことである。
 祈りなく、神を仰ぐ心がなかったら、私たちは自分中心、見えるものばかりを見つめて生きていくことになる。祈りとは自分と神を同時に深く知ることができるようにしてくれる。神を見つめるとき、私たちは自分の弱さを知らされる。また弱さや苦しみの中から神を仰ぐときには、そのような小さき自分であるにもかかわらず、愛をもって見つめてくださる神を実感することができる。
 門は、狭く、その道は細くとも、その道を歩み続けていくときには、折々に聖なる風が吹いてくるし、どこまでも広がる霊的な世界へと導かれていく。また、途中で与えられる、見えざる世界の風景―神の導きは経験したものだけがわかることである。狭い道であるにもかかわらず、その道では、何にも代えることくのできない自由がある。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:31-32)


ハマダイコンと大里海岸
ハマダイコンと大里海岸     徳島県海部郡海陽町     2009.3.10

  この植物は、徳島県南部の高知県境に近いところにある、2キロ余りも続く広大な海岸にて見出したものです。遠景の海は、太平洋です。月に一度の小集会のために訪問した帰りでの撮影です。この日は、久しぶりの青空のもと、誰一人いない美しい砂浜の広がるところに、今年初めて咲き始めたハマダイコンがあったのです。まだ春先なので20センチほどの高さで、花びらは淡い紅紫色の美しいものです。この植物は、海岸に力強く打ち寄せる波を見つめ、その波音に聞き入りながら花を咲かせている感じがしました。
 海からの強い風を受けつつ、肥料もなく、夏には40度を越える高温の砂地であるにもかかわらず、たくましく育つこの野草は、花もまた美しいものです。野性の強さのなかに、繊細な花びらが印象的です。ほかのほとんどの野草たちはこうした厳しい環境では、育つどころか、芽生えることもできないのですが、このハマダイコンはそうした環境にも耐えて芽生え、育って花をつける力を与えられています。
 人間においても、どのような困難な状況に置かれてもなお、たくましくその魂のなかに繊細なよきものが芽生え、育って花を咲かせることが見られます。無から有を生じさせる神にとっては、不可能なことはないからです。
 現代の精神の荒野にあっても、私たちも神からの力を受け、たえず新たなよきものの芽生えと成長を与えられたいと願います。 (写真、文ともにT.YOSHIMURA)

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 わたしたちの主イエス・キリスト御自身と、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

  Now our Lord Lord Jesus Christ himself, and God our Father, who loved us and gave us eternal comfort and good hope through grace,  comfort your hearts and establish you in every good work and word.

神は私たちを愛して下さっている。それは、壊れることのない希望と永遠的な慰めを与えて下さることでわかる。
 神は、心から願う者に最も必要なものを与えて下さる。すなわち、私たちのそれぞれの心が励まされ、強められることである。私たちが意気消沈したり、他人の言葉によって打撃を受けたり、また自分の現状に悲観的になって生きていたくなくなること、それはすべて私たちの心から自分を支える力が失なわれたゆえである。
 この世のすべての問題は、魂を励まし、支えて間違った道へといかないようにする支えの力がないからである。私たちの魂をしっかりと支え、いかなる中傷や苦しみにも動かされないというのは、特別な力が与えられていることであり、個人的に神から励ましを受けていなければならない。
 神からの励ましは力あるものである。人間同士でも、神によりてさまざまの苦しい経験を通ってきた人間の言葉には力がある。そのような人から励ましを受けることは確かに力を受けて、弱くなって立ち上がれなくなっている魂も新たな力が注がれて再び立ち上がることができるようになる。
 私たちがよき働きができないということ、言葉においてもよき言葉が出せないのは、私たちを間違った言葉を言わないようにする力がないからである。よき働きは常にそれを動かすエンジンのようなものが魂に必要である。私たちの魂にも、エンジンがなかったらよき働きへと動き出せないのである。そのエンジンの働きをするのが、神の言葉、神からの励ましの言葉なのである。
 弱っている者は、限りなく多い。強そうにみえているものも実は内面ではとても心細く、心を支えるものが切れそうになっていることが多いのである。
 この世は私たちの心を弱め、気力を失わせるものが満ちている。毎日の新聞やテレビのニュースを見て、あらたな力を得ているという人はどれほどいるであろう。むしろそうしたものを見聞きすればするほど力が失せていくのを感じるであろう。
 そうしたこの世のただなかで、絶えず私たちに力を与えようとされている存在、それが聖書に記されている神であり、その神からいっさいの本質をそのまま受け取られたキリストである。神はつねに私たちに呼びかけておられる。求めよ、祈れよそうすれば与えられると。
クヌギとメジロ
クヌギとメジロ        徳島県小松島市日峰山              2009.1.28

 このクヌギの木は、わが家の近くに自生しているものです。私がこどものときからある木ですが、現在ではかなりの大木となり、以前は、夏になるとところどころにしみ出ている樹液にカブトムシや蝶、カナブン、スズメバチなどの昆虫が集まり、夜になるとその付近にはカブトムシが飛ぶブーンという独特な音が聞こえたものです。 あの固い樹皮からどうして樹液がしみ出るのか不思議に思っていましたが、それはボクトウガという蛾の幼虫がそこにいて、穴を開けるからだということがわかっています。
 この木は、春になって新芽を出し、垂れ下がる房状の花を咲かせるとき、また夏の緑、秋の褐色の紅葉のときには、堂々とした姿を見せていつも何かを語りかけてくれる樹木です。
 葉を落としたクヌギ、それは冬の間だけの姿です。葉もなく、花もなく、実もない冬枯れの樹木。それでも緑に繁る夏のクヌギや秋の褐色に色づいたクヌギとはべつのよさがあります。青くすみきった大空にたくさんの枝を向けたすがた、それは春になったらたくさんの新たな芽を出すための準備であり、春を待ち望んでいる姿を表しています。枯れたようになっていても、そこには待ち望む強い力が秘められているのです。
 新約聖書に、使徒パウロは、非常な苦難が襲ってきて死を覚悟した。しかし、そこから復活させてくださる主を待ち望むようになったと記しています。十字架で処刑されたキリストは、復活のいのちを見つめつつこの世を去っていったのです。
 この写真のメジロは、このクヌギの先のほうの枝に来たときに撮影したものです。小鳥たちは、その純真な姿をもって、自由にこの空を飛び回り、美しいさえずりを歌うものもあります。そのすがたに私たちは心惹かれます。
 それに対して、人間はこの地上の世界にしばられ、家や仕事、あるいは病院、施設などにいわば閉じ込められている状態にあります。
 しかし、実は私たちの本当のすがたはあの小鳥のような自由さが与えられている状態なのです。真理は自由を与えるとあり、また私たちは、この地上の命の終わったあとでは、復活して天使のようになると主イエスは言われました。天使とはまさに、あらゆる束縛から自由になっていて、神の国を自由に飛び翔る存在なのです。(写真、文ともに T.YOSHIMURA)

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今日のみ言葉 175 2009..1.12

「新しい霊を」

(詩編51の12-13)

神よ、わたしのために清い心を創造し、わたしのうちに新しい、確かな霊を与えてください。
御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。

Create in me a pure heart, O God, and renew a steadfast spirit within me.
Do not cast me away from your presence, and do not take your holy spirit from me.

誰でも、憎しみや不正な心によって汚れた心よりも、清い心を好む。嘘をつかれて喜ぶ人などだれもいないのであって、このようなことからも、嘘のない真実な心を万人が無意識的に求めているということはすぐにわかることである。しかし、そのような清い心、真実な心は、努力して得られるだろうか。
学校とかその他至る所で、人間の努力が変えるのだ、というような主張がなされている。しかし、清い心、正義に満ちた心、不正に立ち向かう勇気ある心、誰にでも差別なく向かうような愛の心等々それらは努力によって身につくものだろうか。
どんなに努力してもなお、私たちのなかには清くない心がいくらでも残り、真実な愛にはそぐわない心の動きが残り続けることを痛感するだろう。使徒パウロは、彼の書いた手紙が聖書としてたくさん収められていることからもわかるが、歴史上で最も神の霊を受け、清められたといえるような人であるが、その彼は どんなによいことをしようと思っても、できない、自分は死のからだだ、という深い実感を書き記している。
そのような人間の努力の限界を聖書は一貫して述べてあり、そこから清い心、愛の心などは、神によってあらたに創造してもらわないと人は、持つことができないことを指し示している。
このことは、人間の本質の深い平等性を表すものとなっている。生まれつき健康であるとかいろいろな能力があるといったことに関係なく、清い真実な心は、みな神による新たな清い心を創造していただかねば持つことができないのである。
新しい年を迎えて、神を信じつつ、自分の決意ということでなく、神が清い心を創造し、私たちの魂の内に確かな霊を与えて下さるようにと祈りを深めたいと願う。
吉野川
御手のわざなる自然

吉野川     2008.12.14

これは私にとっては何度見ても見飽きることのない、吉野川の光景です。満ちみちた水量をたたえた川! 説明なしにこの写真を見る人は、川とは思えないのではないかとおもいます。確かに、私が今まで実際に見た、日本の北海道から九州のどの川よりも豊かな水量で、このような川幅1キロを越えるような川、海のようなゆたかさをたたえた川は見たことがありません。
何十年来、私は一週間に少なくとも一度は、この吉野川の堤防道路を通り、橋を渡っていますが、いつ通っても心を惹かれます。そして、河口近くであっても、水はきれいで、付近に大きな建物もなく、水と空と川岸の植物などが近づくものにかわらぬ賜物を与えてくれています。この川は、農業など産業にも重要なことはもちろんですが、周辺の人々の心にはかりしれない神様からの心のプレゼントを提供しつづけてきたのです。
吉野川は、西から東へと流れているため、朝は朝日が、この川の東のほうから上るのが見られるし、夕方には、夕日が、空を赤く染めつつ、川面にもその赤い夕日や空を映しつつ沈んでいくのは、心をひきつけてやまない光景であり、地上と大空にわたって描かれる神の雄大な絵画となります。
川の流れは、ほとんどだれの心にも何かほっとするものを与えるものです。水はうるおすもの、命に不可欠なものであり、その流れのすがたの美しさは心の栄養となります。 聖書においても、人間の究極的な魂のすがたは、そのいのちの水があふれだす状態だと書いています。
「私(イエス)を信じる者は、いのちの水が川となってあふれ出るようになる」(ヨハネ福音書7の38)

これは河口から5キロ近く上流での撮影です。右端のほうが上流で、ほぼまっすぐに西に80キロあまり上流にさかのぼると香川県と愛媛県に近い池田町に達します。
吉野川は、愛媛県と高知県境にそびえる瓶ケ森(かめがもり 標高1896m)付近から流れ出て、四国四県に本流、支流が流れている、四国最大の川で、194kmの長さを持っています。
左に一部見えるのは眉山で、その右、はるか後方にかすんで見えるのが、剣山へと連なる山なみで1000〜1400メートル余りの標高があり、剣山に向かって次第に高くなっていきます。中央右寄りにうっすらと見えるのが、高越山(こうつさん、1133メートル)で、いずれも私が若いときに、何度となく、縦走したり、登った山々です。
遠くの山々、そしてこの写真のような川、それらは見るだけでも、変ることなく御国からのおとずれを私たちに送りつづけるものです。(写真、文ともに T.YOSHIMURA)

今月から、植物だけでなく、私が撮影した自然の風物の写真も折々に入れることにしました。

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