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今日のみ言葉 245 「あなたの前に門を開いておいた」 2014.12.10
見よ。わたしは、あなたの前に門を開いておいた。 だれもこれを閉じることはできない。
あなたにはほとんど力はなかったが、わたしのことばを守り、わたしの名を知らないとは言わなかったからである。 (黙示録3の8)
I
have placed before you an open door that no one can shut. I know that you
have little strength, yet you have kept my word and have not denied my name .
私たちの生きる道においては、さまざまのものが立ちはだかる。そして身近な家族、職場にも深刻な問題が生じることがあり、また時の政治や社会状況によって迫害などの厳しい事態となって生きることさえ困難な状況にも置かれることがある。そして歩む道が閉ざされ、進むことができなくなる。また病気や突然の事故によって、それまで生きてきた仕事や人間関係も大きく閉ざされてしまうこともある。さらに、老年となると、さまざまのことにおいて大きな制限が生まれ、次々と閉ざされていく。
それにもかかわらず、いかなる状況においてもなお、私たちの前途はそれらによっても閉ざされない祝福された世界への門が開かれているという。
黙示録とは、ローマ帝国によるきびしい迫害の時代に書かれたものであり、ただ神とキリストを信じるだけで、捕らわれ命の危険にさらされて殺されていく人たちも数多くいた。 そうした国家的な権力によっても閉ざすことができない門があるといわれている。
じっさい、そうした苦難のなかにあっても、啓示によって、その門に至る道が示され、神の国への門が開かれているのをはっきりと 見ることができた人たちが次々と起こされ、キリスト教は伝わって行った。
現代の私たちにおいても、さまざまの苦難があるが、いかなる状況になっても、究極的な良き世界―神の国への道はこわされることなくそこに入る門は、信じるものには常に開かれており、そこへ入るようにと招かれているのである。
また、神の言葉―福音による救いも、日本においてはとくに閉じられていて受けとる人はごく少ない状況が続いている。しかし、福音が広がっていくための門は、 2000年来、あらゆる国民につねに開かれており、神はその御計画にしたがって、み言葉を受けとる人たちを起こされてきたし、今後もそのようになるであろう。
そして、毎日の生活にあっても、青い空、白い雲、星空などの自然や、日常の小さなできごとの一つ一つから、そして聖書の多様な言葉から、清められた神の国への道が続いており、また開かれた門があるのを感じさせてくださる。
預言者イザヤも、そのような道を示されていた。「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。」(イザヤ書35の8)
そしてその目には見えない門をとおって、御国からの清められた風が吹いて来るのを受けとることができる。
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野草と樹木たち チシマツガザクラ(千島栂桜)北海道 大雪山(赤岳)標高2078m
2013.7.16 撮影
これは、高さ5cmほどの小さな植物ですが、草ではなく、ツツジ科の常緑小低木。ほかにもエゾツツジなども草のように見えて低木のものがあります。
これらは高山の厳しい寒さや風雪に耐えることができるように造られているのです。
ツガとは、針葉樹で高さ30mもの大木になりますが、その葉に似ていて、桜のように美しいこと、千島列島やアラスカ、日本では、東北の一部の高山と北海道の高山に見られることからこの名があります。
つぼみのときには赤く、開くと白い花びらと雄しべが目立つ花で、寒冷地の高山での短い夏の間に花茎を伸ばし精一杯の力でさいているように感じます。
下の写真は、この花が咲いていたところから、頂上付近を撮影したもので、雪もまだ多く残るところです。
チューリップなど園芸植物は大切に育てても翌年には小さくなったり、だんだん咲かなくなって消えてしまうことが多いのですが、このような高山植物は、過酷な自然条件にあっても、はるかな昔からこのようにいっさいの人間のケアを受けないで育ってきたのです。
神ご自身が不思議な方法で植え、守り育てたも のと言えます。
私たちも、神の守りと導きがあれば、困難な状況にあっても、よきものへと成長していき、花を咲かせ実を結ぶことができるのだと思わせて くれます。 (文・写真ともT.YOSHIMURA)
(大雪山・赤岳)
今日のみ言葉 244 「闇は去って」 2014.11.17
闇が去って、すでにまことの光が輝いている。(ヨハネ第一の手紙2の8)
The darkness is passing and the true light is already shining.
この短い言葉から、キリスト教信仰の本質が浮かびあがってくる。
闇は過ぎ去っていきつつある。闇の力の末路がはっきりと見えるというのである。このようなことは、学問や科学技術、あるいはさまざまの人間の考え、思想といったことでは決して分からない。このような確信は生まれない。この世の学問をいかにきわめても、悪の力が最終的にどうなるのか、といった問題はまったく分からない。私たちが、いくら本を読んでも学び考えても、むしろ漠然とした不安や悪の力への恐れが増大していくことになりかねない。それは人間が最終的にはだんだん衰えて死という闇の力に呑み込まれていく、ということともつながっている。
そのような中で、聖書は明確に悪の力、死の力の末路を示している。現在、私たちのまわりには、そしてはるかな昔から悪の力はいたるところで支配していると見える。そしてそれが弱まっているなどという気配も感じられない。
そのようなただ中にあって、神はその御心にかなった人を呼び出し、その真理を告げてこられた。悪はいかにはびこっているように見えても、すでにそれは滅びへと向っているということである。そしてとくに聖なる霊を深く受けた者にとっては、すでにその滅びは確実な真理として示されていた。
聖書の巻頭の書、創世記においてすでにこのことは最も重要な真理ゆえに、最初に記されている。
闇と混沌がたちこめるただなかに、神は「光あれ!」と言われた。するとただちに光が存在した。(創世記1の1-3参照) これはまさに神のひと言で、その光で、闇は退く―滅びるのだという宣言にほかならない。
主イエスが誕生したとき、そのイエスを殺そうとした闇の力があった。しかし、イエスという光はその闇に勝利して、この世に福音を伝え、闇にある人たちを救いだされた。そしてその生涯の終りにも闇の力がイエスを十字架にかけてしまった。しかし、そのような悪の力すべてに勝利して復活し、聖なる霊となって、弟子たちに新たな力を与え、キリスト教の伝道がはじまっていった。
そして、聖書の最後の書である黙示録にも、いかに悪の力が強く見えて地上を支配しているようであっても、最終的には神の力によって滅ぼされるということがメインテーマとして語られている。
私たちに本当に必要なのは、複雑な論文や研究、あるいはさまざまの知識でなく、上にあげたような単純にして明解な神の言葉なのであり、それを幼な子のような心で信じることである。
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野草と樹木たち
ミヤマリンドウ(深山竜胆) 北海道 大雪山(旭岳)標高 2291m 2014.7.22 撮影
その深い青紫色は多くの人の心にも射し込み、そこに余韻を残す色調だと思われるのです。
山中で思いがけず見いだしたときには、それは天の青を落としたような色、御国の雰囲気をあらわすような色調として感じたものです。これは私たちを、みもとへと呼ぶ天来のメッセージをたたえたものです。
私が大学2年の秋に、京都洛北の鞍馬山から登りはじめ、そこから広大な、京都北山、丹波高原の山々を北へ北へと地図と磁石を頼りに、一週間近くをかけてついに由良川源流地域に達し、そこから福井県の小浜市にまで行ったことがあります。それはすべてテントを使っての山中の野宿で、山岳地図ではすでに廃道とされている道もあり、ときには道に迷い、かなり困難な山歩きでした。 その源流地域の全くといってよいほど人が入らない地域で見たリンドウは、それまでの長い山行の後だけに今なお忘れられない印象を残しています。
このミヤマリンドウは、北海道の大雪山系の最高峰である旭岳を望む草原で咲いていたものです。 リンドウの種類は、20種類ほどもあり、春に咲くハルリンドウやフデリンドウもありますが、ほかの多くのリンドウは高山では夏、低山や平地に近いところでは秋に咲くものです。
左下に添えた写真はどのようなところで咲いていたかを示すためのものです。
(文・写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 243 「命を与えるもの」 2014.10.10
主よ、私たちは誰のところに行きましょうか。
永遠の命の言葉をもっているのは、あなたです。(ヨハネ福音書6の68より)
Lord, to whom shall we go?
You have the words of eternal life.
この世にはじつにさまざまの言葉があふれている。新聞、雑誌、テレビ、インターネット…。今日の状況は、まさに言葉の洪水である。
しかし、そうした果てしない言葉のはんらんのなかで、私たちの傷ついた心、孤独な心、解決できそうもない難しい現実に打ち倒されているような心に新たな光を、そして力を与える言葉はあるだろうか。
かえって、大多数の言葉は、空しく消えていくか、あるいはむしろそのような心にさらなる闇を増すものにすぎないといえる。
そうしたなかで、過去数千年にわたって、闇と混乱のただなかで起き上がれないほどの苦しみや悩みのなかにあるひとたちに光を与え、立ち上がらせ、さらに前進させていったのが神の言葉である。
そしてその神の言葉を誰にも分るように、じっさいにこの世に来て、生きて、人間の罪をになって死なれたキリストの言葉こそは、誰もが接することのできる言葉であり、かつ命を与える言葉にほかならない。
私たちが本当に求めているのは、そうした力ある言葉―言い換えれば永遠の命を持っている言葉、時間の流れに空しく消え去っていくことのない神の言葉である。
そのような命の言葉を、完全に持ってこの世に生きたのが、主イエスであった。そして十字架で処刑された後も、復活して神とともにあり、神に等しき存在として現在も私たちに神の言葉を語りかけておられる。
私たちも、この無数の空しい言葉のはんらんする世にあって―そしてますますその傾向は大きくなっていきつつある―決して消えることなき不滅の言葉を求め続けていきたいと思う。
神は、また、そのような命の言葉を、私たちの身近な自然のすがたにも託しておられる。頭上に広がる秋の澄んだ青空 ―それも無言でありながら、神の命の言葉、メッセージを語り続けている。
あるいは、草むらから一心に歌い続ける虫たちの賛美、さわやかな風のながれ、小さな野草の花やその姿、さらに樹木の一つ一つさえも、じっとみつめるときには、そこからも神からのメッセージが届いてくるようにされているのである。
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野草と樹木たち キバナシャクナゲ(黄花石楠花)北海道 大雪山(旭岳)標高2291m 2014.7.22撮影
この写真で、大雪山系の主峰、残雪の残る旭岳を背景にしている キバナシャクナゲは、淡黄色の花を咲かせる高山植物です。
樹木であるけれど高さは大体10cm程度で、せいぜい30cmという低木です。
本州の中部以北の2500m以上の高山から北海道の高山に見られる植物で以前に紹介したハクサンシャクナゲよりもさらに、高山地域に分布しています。
寒さの厳しい地域、また雪で長く覆われた地域であるために、このような低木となっていると考えられています。
シャクナゲには、さまざまのものがあり、現在では花屋さんにはいろいろなものが見られます。それらは自然にあったシャクナゲを用いて、人間が人工的に色や花びらをより目立つようにしたものが多いのですが、このキバナシャクナゲは太古の昔から、いっさいの人間の意図の混入しないもの、神の御計画のままのすがたを見せています。 長期にわたる冬の耐えがたいような厳しい寒さ、風雪とその重みのただなかで生育して花を咲かせる、こうした環境も含めて、神が込められた深い意味、そのご意志がそこに感じられます。
車もロープウェイなどもなかった遥かな大昔から、近年100年ほど前までは、このような場所に来るには、平地からだと大変な時間と労力を要し、道なき道を登ってはじめて出逢う植物だったと考えられますから、その長い歴史のなかで、この環境でこの花に接することのできた人はほとんどいなかったと考えられます。 人間がこの北海道に現れてから長い長い歳月、こうした植物は人間と出逢うこともなく、ただ咲き続けてきたのです。 人間の神に関する関わりもそれと似ています。人間が現れるはるか昔―永遠の昔から神は存在し続けていたのですが、人はずっと気付くことなく時間は流れてきたのです。そしてその流れのなかのある時にその真理なる神と出逢うのです。 (文・写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 242
「神はすべての人が救われることを望んでいる」 2014.9.10
神はすべての人が救われ、真理を悟ることを望んでおられる。(Ⅰテモテ2の4)
God wants everyone to be saved and reach full knowledge of the truth.
神は愛なり、と聖書に記されている。この無限に広がっている宇宙全体を創造した神がおられるということ、しかもそのような無限の力をもった神が、一人一人の悩みや苦しみを顧みてくださるという実にこまやかな愛のお方でもあるなどというようなことは、一般的な学問、知識、技術あるいは芸術やスポーツ、あるいはこの世の経験をいくら重ねても、だからといってわかるものではない。 机の上を無限回動きまわっても、1センチ上にも届かないことと似ている。
その神は愛なるお方であるゆえに、すべての人が救われて真理を悟ることを願っておられる。それゆえに、私たちはただ救いを心から求め、キリストを信じるだけで救われるという誰にでも開かれた道が備えられた。
人間は昔からつねに自分の罪や、その罪に由来する人間同士の争い、分裂、あるいは病気や事故、自然災害…さまざまの問題で悩まされてきた。そうしたあらゆる種類の困難、苦しみから救いだすものなどあるのか、という問は、だれもが心の深いところで持っている問であり、最大の問題である。
それらへの究極的な解決の道を示すものこそ、「真理」である。
神はそうした私たちの深い魂の闇と迷いを知っておられ、すべての人を神のもとへと招いておられる。そして救いを受けて、神によって真理を悟るならば、人の本質、死とは何か、生きるとはどういうことか、心の中に生じるさまざまの悪しき思い―罪というのは除くことができるのか、この世界、宇宙の最終的な行き着く先はあるのかないのか、どういうところが究極的な到達点なのか…等々、身近な個人的な悩みや問題から、世界全体、宇宙全体にわたる広大な世界にかかわる問題の解決の道が明らかにされる。
人はその深いところまで見るなら、常に正義とか愛とかを誰にでもいつでも持てるなどという人はどこにもおらず、みな真理に従えない者でしかない。悪しき者とはだれか特定の人のことでなく、真理そのものである神から見れば、みな人間は悪しき者にすぎない。それゆえ、人間の心から悪の力が滅ぼされて救われるよう、この世の雑多な知識や人間の考えを超えた神のお心、永遠的な真理を知るようにというのが神のお心なのである。
自然の世界―とくに夜空の星、青空、真っ白い雲、また谷川の水の流れや小鳥のさえずり等々は、そうした神の招きの象徴でもある。
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野草と樹木たち チングルマとエゾノツガザクラ 北海道 大雪山(旭岳)標高2291m 2014.7.22
背景には、大雪山系の主峰、旭岳が見えていますが、この付近から山頂への道はなく、ここは登山道からかなり離れた道のないところをだいぶ登った地点であるため、通常は人が入ることもなく、だれも気づかないところです。植物の分布を調べるために行ったところでこの群落が現れたのです。
この写真の白い花は、チングルマ、赤い花はエゾノツガザクラです。チングルマは、このようにたくさん群生して白い花のじゅうたんのようになることがあります。 中部地方から北海道にかけて、高山の雪渓周辺などに見られ、高さは10センチ程度の小低木。とても樹木のなかまとは思えないような小さな植物です。 花の終わったあとの実の姿が、子供の風車に似ているので、チゴグルマ(稚児車)→チングルマとなったと言われています。
赤い花は、ツガという針葉樹(高さ30mもの大木になる)の葉に似ているのと、花が桜のように赤く美しいというところから、ツガザクラという名前があります。これは、高さは 10~30cmという小さいものですが、これは、ドウダンツツジやアセビのような壺形の花をもったツツジの仲間です。エゾ(蝦夷)という言葉が名前に入っていることからもわかりますが、この植物は、北海道のほかには、本州の一部の高山にしか見られないものです。
だれも見ることもない場所で、白色と赤い花が天然の花畑となって広がるさまは、いかなる汚れも感じさせるものなく、聖なる光景というべきもので、まさに神ご自身がはるかな昔に種まかれ、育てられたといえます。ここにたたずみ、それらを見つめていると、清い音楽、御国からのメッセージが響いている感じを与えられました。 (写真・文
T.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 241 「だれでも重荷を負う者は私のもとに来なさい」 2014.8.20
疲れた者(*)、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ福音書11の28)
Come
to me, all you that are weary and are carrying heavy burdens, and I will give
you rest.
(*)疲れた者の原語は、コピアオーで、これは、「労苦する、(夜通し)働く、疲れる」のように訳されている言葉である。
ここには、万人に対する招きの言葉がある。この世に生きるということは、さまざまの苦労や心身の疲れ、また苦しみが伴う。人によっては病気も苦労もなく、家族も平和だといった状態にあって、労苦や疲れ、あるいは重荷といったことを感じていない人もいるかもしれない。しかし、そのような人でも、生きていく過程で必ずさまざまの労苦があり、重荷に直面する。
病気であり、家族の不和、友人や職場の人間関係による苦しみ、そして自分の罪からくる重荷、災害や事故による悲しみや重荷、そして老年になれば孤独や、病気、周囲から軽視されあるいは邪魔者扱いさえされるようになる苦しみ、そして世界の国々には食物さえまともにない飢餓や水のない苦しみ、戦争による殺傷、…等々、昔から現在に至るまで、人間は、どのようなところにあっても、さまざまの労苦や心身の虚脱感、もうどうにもならないという絶望感という重荷が襲ってくる。
これはどんなに重荷などない、といっている人でも、突然にして襲ってくることもあれば、徐々にそのような苦しみや重荷が迫ってくるということもある。
そして、キリスト者となってもなお、病気や家族の問題などで、苦しみと重荷が終わることがないとき、祈ってもどうにもならない、という心の深いところでの疲れ、重荷が生じることもある。そうした自分自身の体や家族の問題は、日々念頭から去ることがないからである。
このような苦しみや重荷は、キリスト者となってからも続くことがある。私たちは、そうした重荷が重大なものであるほど、自分の力、努力などでどうにもならない弱い者にすぎないからである。
祈っても祈っても聞いてもらえないと感じる苦しみがある―そのゆえに信仰から離れていく場合もある。しかし、無数の世界の人たちに数千年という長い間、力と慰めを与えつづけてきた神とキリスト以外にどこに苦しみや心身の深い疲れをいやす存在があるだろうか。
ここにあげた主イエスの言葉は、そのようなすべての疲れ、労苦し、重荷を負って歩んでいるものに対しての言葉である。
聖書にはこのような招きの言葉が多く見られる。聖書全体が、神の方向へと魂を方向転換させるようにとの招きの書だからである。
…さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ書55の1)
ぶどう酒とか乳という言葉によって、神の愛や力、励まし、あるいはその真実といったよきものを意味している。
聖書の最初に記されていることもそこに深い招きの言葉が込められている。
闇と混沌―それは魂の絶望的といえる状態であり、癒されがたい疲れ、労苦、重荷を負った状況をも意味する。しかし、そこに神は、「光あれ」と言われた。すると光が生じた。 それは、そのような力を持つ、光のもとに来れ、という呼びかけを内に含んでいるのである。太陽の光同様、神の光は同時に熱を持っている。冷えきった魂、固くなった心をも溶かす愛の光だからだ。
表面的には、どうにもならない困難な状況、重荷をかかえた者であっても、この神とキリストの招きにこたえて主のもとに行くとき、ほかでは与えられない魂の休み、主の平和が与えられることは、キリスト者であればだれでも感じてきたことであろう。
そしてそのような平安がまだ神を知らない方々にも与えられるように、それが神の招きのお心なのである。
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野草と樹木たち エゾコザクラ 北海道 大雪山(旭岳)2014.7.22
緑なす草原の背後には、大雪山系の最高峰、旭岳をのぞむところにこのエゾコザクラがありました。まだ緑のなかに、白く残雪が見られ、気温の低さを感じさせています。
旭岳は、50年近く昔に、まだロープウェイなどなかったときに、重いリュックを背負い、層雲峡から登り、黒岳から旭岳そして天人峡へと縦走して以来のことです。
今回は、北海道瀬棚地区での瀬棚聖書集会のあと、札幌交流会、さらに教友のいる岩尾別や旭川を訪ねたおりに登る機会が与えられました。
そうした集会や訪問は、もとはと言えば、「神の言葉」によって生まれたものでしたが、この大雪山の自然もまた、「神の言葉」と言えるものです。
この花は、登山道から離れたほとんど人が行かないと思われたところで見いだしたもので、予期していなかったところにこのような光景が現れたのでとても心に深く残ったものです。
草丈は、10cm程度、日本では北海道にのみ見られるが、千島やオホーツクといった寒冷な地域に分布するということです。こうした地域は夏はごく短いのですが、その短期間のうちに、芽を出し、このような美しい赤紫色の花を咲かせます。
サクラソウのなかまはいずれも美しいものですが、誰一人いない広大な自然のなかで静かに咲いている姿はとりわけその清い美しさが印象的です。
人間が造り出した美というのもそれなりによいものですが、こうしたいっさいの人間の手がかかっていない野生植物の美は、比類がないものです。それは人間の曇りやすい心や考えが混入することがまったくないもので、神ご自身の持たれている完全な美のあらわれだからです。
周囲の緑の草はらもまた、生き生きとした希望といのちの力を感じさせてくれますし、背景の山は神の力をそのままに表しています。
…私は山に向って目を上げる。わが助けはどこから来るか、天地を創造された神からくる。(詩篇121)
山を歩き、その自然のただなかにいるとき、この3000年ほども昔の聖書の詩人の言葉が思いだされます。山々とそこに広がる大自然は、私たちの心を神に向けてくれる純粋なものを豊かにたたえたものです。 このような広大なひろがりをもった自然、そしてそこに咲くこの花の姿は全体として、人間世界とは分かたれた聖なる世界を指し示してくれるものとなっています。
主イエスは、野の花を見よ、と言われました。たしかに、こうした野の花を見つめるとき、そこに見えざる神の御手がはたらき、このように神の栄光を表しているのを感じるのです。
(文・写真ともにT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 240 「闇の中にも光が昇る」2014.7.09
まっすぐな人たちには、闇の中にも光が昇る。 主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。 (詩篇 112:4)
Light
rises in the darkness for the upright; the LORD is gracious, merciful, and
righteous.
闇の中にも光が昇るならば、私たちはその闇に呑み込まれないで進んでいくことができる。この世には、周囲の至るところで闇がある。
私たちの心の内にも、その闇は入り込んでくる。その闇は、人の心を不正なことをなさしめたり、他人を悪く思ったり、ねたみ、憎しみ、あるいは自分中心の考えや快楽に負けてしまう心となって表れる表れる。
そのような闇の状態のままに置いておくと、いっそうその闇は私たちの中でひろがり、さらに周囲にもその闇が伝わっていく。
その闇の力は強く、私たちはしばしばその力に負けてしまう。
それゆえに、光である神は私たちに語りかけ、そうした闇の力にうち勝つようにとさまざまの方法で近づいて来られる。
しかし、もしそうしたこの世の闇のただ中に、上よりの光が与えられるならば、そうした闇の力にうち勝っていくことができる。
主イエスが、「私はすでに世に勝利している。」(ヨハネ16の33) と言われたのは、イエスご自身が光そのものだったからである。
この世という闇に勝利しているから、そのイエスを信じて従う者もまた、この世の闇にうち勝ちつつ歩むことができるということである。
そのような光はどのような人が受けるのか、まっすぐな人たちだという。
それはどんな人のことだろうか。聖書で言われている真っ直ぐなというのは、一般的に言われている素直というのとは異なる。
神が今も生きてはたらいておられるのであり、その神にまっすぐに心を向ける人を意味している。聖書の世界ではそのような神がおられるというのがすべての前提となっている。
神に向って真っ直ぐに心を向ける―そのような心を主イエスは、幼な子のような心と言われた。
幼な子―とくに乳児は母親を真っ直ぐに見つめる。そのようなまなざしで神を見つめようとする人こそが、ここで言われている「まっすぐな人たち」である。
これは、地位やお金、あるいは善き行い、経験、特別な能力等々なにも必要でなく、ただそれぞれの人がその場で心を愛と真実の神に向けるだけでよいのだから、万人に開かれた道なのであある。
「疲れた者は私のもとに来れ、休みを与えよう」と主イエスは言われたが、それは「闇に苦しむ者は私を見つめよ、そうすれば光が与えられる」ということとほぼ同じような内容をもっている。
すでに、イエスよりも500年以上も昔に、預言者イザヤは、神から受けたメッセージとして、次のように語りかけている。
「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」(イザヤ書55の1)
ここでも表現は異なるが、光に渇いている者への呼びかけでもあり、何ももっていなくとも神のもとに行くだけで、ぶどう酒と乳で象徴される神の賜物、光が与えられることが示されている。
「求めよ、そうすれば与えられる」―このイエスの言葉は、このイザヤ書の言葉とともに、私たちに常に語りかけているメッセージとなっている。
野草と樹木たち コバイケイソウ 福島県吾妻連峰(酸ケ平―すがだいら―湿原)標高約1700m 2013.7.22
コバイケイソウは、以前にも取り上げたことがありますが、この写真は、周辺の初々しい緑と水がその白い花と溶けあうようにして私たちの心に入ってくるものです。
高山に咲く植物は、夏の間のごく短い期間にしか生育できず、また厳しい寒さや氷雪に埋もれてしまう環境にあります。
平地に咲くものとはちがって気品のあるもの、また色が鮮やかであったり、その彩りもまた印象的なものが多くあります。
それと対照的に、平地の草原や道端にみられるオオバコ、エノコログサ、メヒシバ、ヨモギ、スズメノカタビラ等々は、花は目立たず、ほとんと注目されないのですが、それらの花は暖地では春から秋にかけての長い期間、咲き続け、多くの種子を散らしていくため強く、どこででもみられるものとなっています。
そしてそのような 目立たない植物たちが生育することで、昆虫や地中生物も豊かになり、樹木も育ち、全体として緑の環境を造り出しているのです。
そうした地味な植物たちとちがって、高山の美しい花々は、人の心に直接に訴えかけてくる力をもっています。
しかし、それらの美しい花たちもさまざまのほかの植物や土中の微生物たちによって支えられています。
そうした大きな自然の営み、それは人間が存在するはるか以前から、創造主たる神によって備えられたものです。
このコバイケイソウの白い花の周辺や、水の向こうの山々を緑に染めている目立たない植物たちもまた自然のオーケストラの一因として、コバイケイソウとともに私たちに語りかけています。
緑と白、そして水のある風景…それらはいずれも私たちの心の本質にかかわるものを象徴しています。
緑、それは希望のシンボルであり、私たちの誰もが日々必要としている生きる力を指し示しています。
白、それは汚れない心の姿であり、人はどうしてもさまざまの汚れに染まってしまうゆえに、こうした白色の花に心惹かれます。
聖書にも、「私を洗ってください、雪よりも白く…」(詩篇51の7)とあります。
そして
水―これは渇いた私たちの魂をうるおし、いのちを与え、そして清める力を指し示しています。
それゆえに、こうした三つのものが溶け合っているこうした風景に心惹かれるのです。
自然のすがた、それはそこに人間の営利とか経済活動といった考えがまったく入っていないゆえに、私たちの心にまっすぐ入ってきます。
そしてそれによって私たちは、それらを創造した神のお心の一端に触れることができるのです。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 239 「英知と力は神のもの」 2014.6.11
神の御名をたたえよ。世々とこしえに。 英知と力は神のもの。(ダニエル書2の20)
Praise be to the name of God for ever and ever; wisdom and power are his . |
「英知と力」―私たちは、この二つを求めている。なぜ、この世にはさまざまの苦しみや悲しみがあるのか、なぜある人々には途方もない苦難が襲って、ある人々には平和な日々が続くのか。あるいは、人柄もよく、仕事もできるかけがえのないような人が突然の事故、病気で短命で召されていく。他方、不信実な人間、悪をなしているように見える人が元気で長生きしている…。
すべてが謎のようなこの世界にあって、その不可解な現実に深く打ちのめされる場合もある。そして、病気や事故による体の重い障がいが長く続くときには、神などいるのか、と信仰を持っていた人でもその現実に直面して苦しむ。しかし、そこに神からの英知が与えられ、そうした不可解な現実の背後の神の御計画を示されるとき、私たちの魂はようやく安らぎを得る。
それととにもその厳しい、ときには耐えがたい現実に耐えていく力をも与えられる。
さまざまの苦難、悲しみ、敵意や憎しみによって苦しめられても、なおも神を信じて歩み続けることができた人たちも歴史上では無数に存在してきた。そのような人達は、神からの英知と力を与えられたからであった。
そうした英知は、人間の救いに直接的につながっているゆえ、そして求めるものは誰にでも与えられるゆえに、この世の学問や経験的知識等々より以上に価値あるものである。
そのような英知は、何が与えるのか。神から来る聖なる霊である。
ゆえに、主イエスはその死の前夜の最後の夕食のときの教えにおいて、次のように語られた。(ヨハネ福音書14の27、16の13)
…聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が命じたことをことごとく思い起こさせてくださる。
…真理の霊(聖霊)が来ると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる。
使徒たちは聖霊によって力を得て、キリストの復活を証言することができるようになった。そして、イエスの十字架の死は、単なる処刑でなく、万人の罪を担って身代わりに死なれたこと、それを信じるだけで、私たちの罪が赦されるということも、イエスの死後、聖霊によって教えられ、悟ったのである。
そして、私たちの心や社会のあらゆる問題の根源にある悪そものものは、時至れば必ず滅びることも、やはり聖霊によって教えられ、悟るようになる。
聖書は、単に、人間の意見や思想、あるいは経験を書いたものでなく、万物を創造し、永遠に存在しておられる正義と真実な神のご意志が記されているのだ、ということもまた、学問や経験では分からない。このこと自体も聖霊によって教えられて初めて徐々に分かってくることである。
英知とは、単なる知識でなく、愛の神がおられ、死にうち勝つ力が存在すること、ただキリストを仰ぐだけで罪赦されること、万物の背後に神がおられ、支えておられること…等々、こうした目には見えないものこそ本当に大切なものだということを洞察する力である。そしてそのような英知と力は、生まれつき持っている人はおらず、神のものであるゆえ、だれでも心から神を信じて求めることによって与えられる。ここに、この不平等極まりないような世界にあって、驚くべき平等性があるのがわかる。私たちも神の英知そのものであるキリスト(Ⅰコリント1の24)を信じて歩みを続けていきたいと願うものである。
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野草と樹木たち ハクサンシャクナゲ 秋田駒ヶ岳 2013.7.19
シャクナゲの仲間は、いろいろとあり、日本の各地でみられるものでツツジの仲間です。私の住む徳島県でも、山地でシャクナゲの自生に出逢うこともありますが、その自生地として知られている1000mを越える山に登っても個体数はごくわずかです。
それに対して、このハクサンシャクナゲ(*)は、本州中部地方から北や北海道などで生育し、秋田駒ヶ岳や大雪山、福島県の吾妻連峰などにはよく見られ、秋田駒ヶ岳の一つの登山ルートは、とくに多く、シャクナゲコースと言われているほどです。高さは、1mに満たないものから、3mほどになります。花びらの内側に淡緑色の斑点があるのが特徴です。
ハクサンシャクナゲは写真のように、つぼみのときには、淡紅色ですが、花が開くとともに白い花びらとなっていくのが多いのですが、淡紅色の色の強いのと白色のものまでいろいろと見られます。
(*)この名前にある白山とは、石川県と岐阜県にまたがる山。標高2,702m。白山は有名な山で多くの人が登り接することも多かったので、ハクサンという名のついた植物は、ハクサンチドリ、ハクサンシャジンなど10種ほどもある。
半年も雪に覆われ、風雪の厳しい北国の高山は植物の生育には困難と思われるにもかわらず、そのようなところにかえってこのような美しい花々が、多く見られるのは暗示的です。
精神的な世界においても、さまざまの厳しい試練をくぐり抜け、それに耐えてなお道を踏みまちがうことなく、真実なものを目指して歩んでいった人たちは、彼等の心の世界にこのような清くて美しい世界が開けていったものと思われます。
魂の目というべきもので見ることのできるものがこの世には確かに存在しているからです。
最初のキリスト教徒の殉教者として知られるステファノは、彼が真理を語ったゆえに憎まれ、多くの人から石を投げつけられて絶命しましたが、そのような危険な状態にあるとき、天が開けてイエスが神の右に立っておられるのが見えたと記されています。
神の国とは最も清く美しい国、そこに咲いている完全な花こそ復活のキリストですが、そのようなものが、苦難のただなかで心の内に示されたのです。
私たちも自分中心に生きていくだけなら、平地には雑草といわれるものが多く美しい花にはなかなか接することができないように、そうした清い世界が心に開けるのは難しいと思われます。他方、高い目標―キリストや神の国を見つめ、日々の汚れを主によって赦され、清められつつ歩みを続けるときには、神は必要なときにこうした美しい花々に相当するものを見させてくださると信じることができます。
「求めよ、そうすれば与えられる」と主イエスが約束されているからです。
(写真ともT.YOSHIMURA)
み言葉が開かれると、光が射し出で 口を大きく開き、あなたのみ言葉を慕い求める。(詩篇119の130~131より) I opened my mouth, waiting with great desire for your teachings. |
現代は、長い人類の歩んだ幾千年のなかで、かつては予想もできなかったほどに、通信機器や印刷、各種映像が普及し、そこでは、到る所で人間の言葉が生み出され、洪水のようにこの世界にあふれ、そして次々と消えていっては、また新たな言葉が押し寄せて来る時代である。
そのような中にあって、人間を本当に変える力を持っている言葉、永遠の真理の言葉を私たちは求め、渇望する。そしてその願いに応えるものが、神の言葉としてつたえられてきた聖書である。
神の言葉とは何であるのか、かつて私はまったく考えたこともなく、誰からもそのようなものの存在を告げられたこともなかった。
しかし、21歳のときに当然その神の言葉に触れて大きく変えられた。それはそれまで全くとじられた 世界が開かれていった。
まさに、神の言葉が開かれたのであり、そこから、それまでの大学での学びや、日本の文学作品などをいろいろ読んでもまったく与えられなかった光をはっきりと感じたのであった。
まさに、「 神の言葉は、私の道の光、私の歩みを照らすともしび。」(105節) となった。
人間の根本問題は、正しいことや悪との区別、他者への愛、真実と不信実など、はっきりと直感的にわかっているにもかかわらず、どうしても正しいこと、愛にかなったことが行なえない、ということであり(人間の罪)、そこからあらゆるこの世の問題が生じて来る。
そのような人間の根本問題に関しても光を与え、そこから脱却する道について知らされた。
それが、キリストが十字架にかかって、求めるもの誰でもに罪の赦しを与えてくださったということだった。
そして、そこから歴史の意味、最終的にこの世界はどうなるのか、また自然の持つ深い意味、目に見えないが確たる存在を持っている聖なる霊、苦しみの意味…等々、一人一人に光を与えてわからせてくださる。
こうした神の言葉によって開かれる世界、そこで知らされることは、学校や大学での一般の教育からはまったく得られないことである。
そしてどんなに過去にひどい罪を犯したものであっても、また世の中から見捨てられた状態にあろうとも、真実に求めるものには与えられる。
それゆえこの詩の作者は、そのような大いなる力を持つ神の言葉を強く願い、慕い求める。
口を開くとは、心を大きく開くことであり、み言葉がそのまま豊かに流れいるようにほかのものを押し退けて心を広くしておこうという気持ちが表れている。
私たちも、日々、心の扉を開いて、み言葉を豊かに受け取り、この世に生じるさまざまの難しい問題に関しての光を与えられ、さらに、み言葉の持つ命と力を与えられたいと願うものである。
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野草と樹木たち シラネアオイ(白根葵) 秋田駒ヶ岳 (標高1637m) 2013.7.19
このような大きく美しい花が咲いているということに新鮮な驚きを感じたものです。
これは、日光白根山(標高2578m)に多かったこと、花がタチアオイに似ているということから、この名があります。
日本の中部以北の山岳地帯に自生するもので7センチほどの薄紫の、大きく美しい花です。
これは、秋田駒ヶ岳の急な下りを降りていくときに見いだしたものです。その柔らかな色調と、ゆったりした花の姿は、見るものの心を清め、あたためてくれるものがあります。
本州中部以南の暖かい地方では見られないために、私は高山植物図鑑だけでしか見たことのない花でしたが、じっさいに、東北の山中で見たときにはとくに印象に残ったものです。
ねがわくば、このような良き自然の芸術作品が、今後とも保護され、長く訪れる人の目と心に、神の国のたたずまいを告げて欲しいものだと思います。
ほかのことでは神の愛なと感じられないと思われる人たちにも、どことなくこの花の背後から、私たちに語りかける愛の神を感じるのではないかと思うのです。
この花は、東北の高山に咲いていたものであり、長い冬の氷雪や激しい風雨などにも耐えて生き残ってきた植物です。
そのような厳しい自然のなかにこのような柔らかな雰囲気を漂わせた花が咲くことの不思議を感じます。
神の創造のわざは、つねに人間が生み出すものをはるかに超えたものです。
このように、この世の汚れにまったく染むことなく生きている植物たち、その花やその存在に接するときには、私たちの心のなかにも、そうした花がとどまってくれるように思われます。
(写真ともT.YOSHIMURA)
神は、困難にある民、祖国から遠く離れて生きてきた人々に、今や新しい時が到来したことを告げる。それまでは全く神から見放されていたように見えた、いつまでこのみじめな異国での生活が続くのかと。神はいないようにすら見えたその長い時はようやく終わって新たな時代が到来した。圧迫され、捕らわれている状態から、神が解放してくださるときが来たという知らせである。
この旧約聖書のメッセージは、キリストの時代より、500年以上も昔のイスラエルの民に対して言われたものであった。 しかし、旧約聖書の言葉全体がそうであるように、このメッセージは、キリストを指し示している。そしてキリストによってこの言葉は、新たな生きたメッセージとなった。
長い、自らの罪による苦しみ、病気や人間関係のもつれ、またさまざまの災害や戦争、飢饉等々、人間を襲ってくるさまざまのものが至るところで見られる。そうしたものは私たちを縛り、苦しみのなか、闇のなかに閉じ込めてしまう。
しかし、今や、そうした一切のものから解放されるときが来たのだ、という意味が込められている。それは、そうしたあらゆる問題において常に、根本にあるのが、私たちが正しいあり方に反して、自分中心あるいは目に見えるものばかりを念頭においてしまうということ―それが罪であり、それが気付かない場合も多いが、それが根本問題となっている。 そうした罪から脱却できるならば、長いトンネルから出て明るい光の世界に接するように、また山の頂上から私たちは眼前に広がる光景を見るように、新しい世界を見ることができる。
この聖句で言われていること―今や新しい時となった。神があなたを創造した、造ったのだ、ということが二種類の言葉によって強調されている。ここで「創造」と訳された原語 バーラー は、イザヤ書の後半に無から天地を創造というときなどに用いられ、とくにイザヤ書40章以降に多く用いられている。(*)天地を創造された無限の力を持つ神だからこそ、いかなる困難からでも解放することができる。そのことを迫ってくるような情熱的な響きをもって語っている。そのメッセージはそのまま、現代のさまざまの問題に悩み苦しむ私たちへのメッセージである。
(*)旧約聖書全体でバーラーは54回用いられているが、そのうちイザヤ書で21回、そのうち20回までがイザヤ書の40章以降で用いられている。40章以降は、遠い異国での捕囚からの解放ということが主題となっていて、その時に、新しい創造ということが特に啓示されたのがうかがえる。次に多く使われているのが創世記の11回、詩篇6回と続く。
闇と束縛の世界から解放される(あがなわれる)だろう、といった推量でなく、「あがなった」という完了形が意味深い。あがなうとは、代価を払って買い戻すという意味であり、私たちの努力や政治、社会的な変化で解放されたのでなく、それらによっては不可能であるゆえ、神ご自身が私たちをあがなってくださったのである。「あなたの名を呼んだ」 神が一人一人の魂に向って強く呼びかけてくださっている。この呼びかけを聞き取るとき、聞き取れないようなときでも、そのことを信じて受け取るとき、私たちの心は安らぐ。この宇宙を創造したような絶大な力を持っているお方がこの弱く倒れそうな自分に呼びかけて下さっている―そして私たちを取り巻くさまざまの問題に対しても「恐れるな」と励ましてくださる。私たちのこの取るに足らないものが、その大いなる神様のものとしてしっかり持っていてくださる、守り、支えていてくださる―というのである。 今から2500年以上も昔に語られたこの神の言葉は、その長い歳月を通して今も語りかけられている。
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野草と樹木たち ツマトリソウ(端取草) 福島県 吾妻山(あづまやま) 2013.7.22
このツマトリソウは、本州、北海道、そして四国の高山にも分布すると記されていますが、四国の山々では私は見たことがなく、この吾妻山で初めて見る機会を得ました。この山は、吾妻連峰とも言われ、山形県と福島県の県境にある火山の山々の総称で、最高峰は西吾妻山(2,035メートル)。
この花のあった地点は、標高1700mほどの高さで、近くに湿原や小さな湖と言えるような鎌沼も広がっています。この花はサクラソウ科で、ほかの多くのサクラソウは、赤紫色の美しいものが多いのですが、これは純白の花です。
花びらの先端が赤く縁取られるものがあるので、端取草の名があるといいますが、この写真のものには見られません。 高さは、15㎝内外で小さなものですが、草むらや山道のかたわらに純白の花の姿は、高山の山道を歩くものに天来の滋養となります。
この花は、じっと見るものを見つめ、語りかけてくるような雰囲気をたたえています。その語りかける言葉は、この植物を創造された神に由来するものゆえに、かぎりなく清いものがあり、それゆえにこうした高山の野草にとくに心惹かれます。
聖書のなかに、「わたしの罪をぬぐい去って清めてください。雪よりも白くなるように。」(詩篇51の7)とあるように、はるか数千年の昔からこうした純白のものは私たちの罪の汚れからの清めへと心を引き寄せるものがあります。 (文、写真ともT.YOSHIMURA)
今日のみことば 2014年今日のみ言葉 236 「主は愛する者を鍛え、鞭打たれる 2014.3.12 主は愛する者を鍛え、子として受けいれる者を皆、鞭打たれる。… 霊の父(神)は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、私たちを鍛えられる。 (ヘブル書 12:6、10 より) The Lord disciplines those he loves,and he punishes everyone he accepts as a son. God disciplines us for our good, that we may share in his holiness. |
この世でのさまざまの苦しみ、病気や思いがけない出来事、事故、災害…決して起こってほしくないことに直面する。
現在そのような困難など何もなく、幸せだ、というような人もいるであろうが、長い人生の間には、必ずだれにとってもそのようなことが生じる。その困難が大きいほど、また思いがけないほど、そして周囲の人たちにあまりみられないと思われることほど、私たちは大きな打撃を受ける。
しかし、じっさいは、表面では分からなくとも、人それぞれにどのような難しい問題をかかえているかは、分からない。
そして、そうした重荷を担いつつ、ときにはそれに耐えきれなくなって生きていたくない―と思うような場合もある。
このような、それぞれの人に、思ってもいなかった苦しみや悲しみは、年を重ねても経験で耐えやすくなるというわけにはいかない。
それぞれの年齢に応じて、経験したことのない事態が私たちを圧迫してくるからである。
そのようなとき、神は、ここにあげた聖句を私たちに語りかけていると信じる道が与えられている。信じられないようなときでもそのことを信じて歩むことが求められている。もしそれを信じなかったら、何か得体の知れない運命が自分を苦しめているのだ、という絶望的な気持ちになってしまうだろう。そして魂は、だれにも分かってもらえない重い心を抱えてさまよう。
しかし、ここの聖句を信じて、いかなる困難の中にあっても、それでもなお、神はその愛ゆえに鍛練として、このような苦しみを自分に与えているのだ、と信じていくときには、道が開けてくる。
これは、生まれつきの盲人に、それは誰かの罰とかではなく、その人に神のわざが現れるためと言われた主イエスの言葉と響きあうものがある。大きな困難は私たちを鍛練し、その人がそれを主からのものとして受け止め、さらに主の力を受け、立ち上がるため―そこに主のわざが現れる。
余りの苦しみにおいては考えることも心も混乱してたましいはさすらう。その揺れ動く状態をとどめ、そこから前方に続くまっすぐな道を見いだすようにと主は私たちに語りかけておられる。
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野草と樹木たち コマクサ(駒草) 大雪山(赤岳) 2013.7.16
コマクサは、高山に咲く花のうちでもとくに広く知られています。私が初めて目にしたのは、20歳代のころ、北アルプス(後立山連峰)の縦走路においてでした。わずか数株でしたが、ああこれが有名なコマクサだ、と今もそのときの情景が浮んできます。この写真は、大雪山系のうちの赤岳(標高2078m)のものです。 (なお大雪山というのは、黒岳、旭岳、赤岳等々の山々を総称した名称です。)
花の写真に添えた山が赤岳で、このコマクサが咲いていた場所から頂上付近を見たものです。この花を撮影した場所は、コマクサの群生地でこの写真では、別の緑色の植物もともに育っていますが、他の植物がほとんど育たないような砂礫地にそれだけが育っているところも多いのです。
夏は乾燥し、芽を出しても砂礫が強風で吹き飛ばされ、雨がふっても砂礫とともに流され、そして冬には、氷雪で埋まるような、厳しい環境で育ち、しかもこのような淡紅色の美しい花を咲かせます。草の高さは5cmほど、花茎は10数㎝ で小さな花ですが、他の植物が育たないようなところなので、その根は砂礫まじりの土を1mほどにも伸びるということです。 そして、このような花が咲かせるまでには、何年もの期間を要するといいます。
この花の咲いている場所は、どこから見ても、およそ可憐な花など育ちそうにない厳しい自然環境ですが、それに耐える強靱な生命力を与えられているのがわかります。
聖書にある、「私が弱い時にこそ、わたしは強い」(Ⅱコリント12の10)という言葉を思いだします。神は、弱く見えるものにも、それぞれ不思議な力を与えているのがわかります。
車のなかった昔の時代、ふもとからは6時間、7時間もかかるような遠くて高い山々、ほとんど人が登らなかったような北国の高山の山頂に近いような場所―それゆえにほとんどの人には気付かれないような所このような美しい花が咲く―その意味を考えさせられます。
人間が美しいものを作るのは人に見せるためだけれど、神は人が見ることのないようなところにこのような美を備えられたのです。
「希望は失望に終わらず」2014.2.1 神の愛が私たちの心に注がれているからである。(ローマ5の5) |
希望は失望に終わる。これは政治的、社会的な問題において特にそうである。また人間に関してもしばしばである。民主党が長年の自民党独裁を打ち破って新たな時代が到来するという希望は、わずか数年で打ち破られて大いなる失望に終わった。原発は、未来の明るいエネルギー、絶対安全という希望、確信は無惨にも打ち砕かれた。そして沖縄問題においても普天間基地の県外移設をという政治家の約束によって生じた希望は失われ、さらに県知事や政治家も基地の県外移設を主張し続けると、県民に希望を持たせたが、それらも権力や莫大なお金を提供するという約束によって簡単に消え失せた。
この不信と混乱の世にあって、失望に終わらない希望など存在するのか、それは希望の根源である神を信じるのでなければあり得ない。
地球や太陽そのものが最終的には消え失せるという科学的な未来像だけを見ても、そのどこに希望が存在できるであろうか。
いかなるこうした現実の問題や科学の提示することを越えて、希望を持つことができるのは、その科学の法則それ自体を創造された神を信じること以外にはない。
この聖書の言葉では、そうした揺るがない希望は、思索や経験、学識などによるのでなく、神の愛によって確信に導かれるという。そしてその愛は、聖霊によって注がれるのだと言われている。別のところでも、「聖霊の実は、愛、喜び、平和…」(ガラテヤ書5の22)と言われている通りである。神の愛は、すべてに勝つ。 不信と疑いという暗闇に勝利して、失望に終わることのない希望を与えるのは、神の愛なのである。
そしてそのような神の愛は、表面だけを見る場合には、どこにもないように見える。だからこそ、大多数の日本人は神を信じないし、神の愛などをまったく求めようともしない。
しかし、信じて求め続けていく者には、必ず聖霊が与えられ、その実として神の愛も与えられると約束されていて、過去2千年の歴史を通じて無数の人々がその愛によって実際に生きる力を与えられ、導かれてきたのである。
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野草と樹木たち イワタバコ 岐阜県恵那市の山中にて 2013.7.28
このイワタバコは、下に添えてある滝の近くの岩肌に自生していたもの。恵那市串原という山中にあるハム工房ゴーバルでの聖書集会の帰途に、渓谷沿いの植物を調べていたら、一般には気付かれないようなところにあるのを見つけたのです。これは、その葉がタバコの葉に似ているからその名があります。赤紫色の美しい花を咲かせ、湿っ岸壁のようなところに育ちます。
あまり日が当たらなくともこのように、みずみずしい葉と花をもって私たちの目を引きつけるのです。
こうした渓谷沿いの植物は概して日があまり当たらないので、目立つような花は多くなく、ほかにはダイモンジソウ、ジンジソウといったユキノシタ科の白い地味な花をつけるものがあります。
アルプスや北海道の高山に咲く、コマクサは、ほかの植物が育たないような高山の砂礫の中という厳しい環境に生育して、美しい花を咲かせますが、このイワタバコは対照的に、水のしぶきがかかるような湿ったところです。まったく異なる環境において、このような美しい花が創造されている不思議に驚かされます。 (写真・文ともT.YOSHIMURA)
愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、 |
神はどういうお方であるか、それについては古い時代から神話のような形で伝えられている。(*)
(*)ギリシャやローマ、中国、あるいはインドや日本においても古代文書においてさまざまの神々が現れる。ギリシャやローマの神話で現れる神々は、怒りやねたみ、闘争心、異性間の人間的な感情などがそのままに現れており、日本の古事記、日本書紀、風土記などに現れる神々の姿も全く人間そのもので、スサノオノミコトのように、乱暴狼藉をはたらく神や、敵意や欺き、殺害などもする神々も記されている。 日本は、死者を神々としてあがめるというのが現代でもなお行なわれていて、世界的に見ても特異な状況である。 中国でも古代では、神々が現れるが、そのうちの神農は人の体で首から上は牛という姿の神とされ、農耕や医薬などの発明者とされる。 その後は、人間の5人の皇帝(5帝)が神のように敬われ神と人間の区別が定かでない。
この世に存在するさまざまの力に接して、人間を超えた存在として、神のようなものを感じて恐れるのは、世界にみられるが、そうした混沌とした神への観念が、確固としたものにしたが、キリストであった。旧約聖書に示された神は、とくに詩篇や預言書において深い愛と真実な神の姿を表しているが、他方、旧約の前半の文書では、他民族への攻撃を命じたり、一部には神の愛がわかりにくい部分もある。
そうした中で、神の本質を歴史上、比類のないかたちで明瞭に示したのがキリストであった。キリストは神と同じであると聖書は記しているが、それは愛という最も重要な面においてこそ神の本質をそのまま表している。
神は愛なり、というとき、私たちはキリストを見てその愛を実際に思い起こすことができる。
神は万能であり、この宇宙、世界を創造された。そしていまも支えている。神は愛ならば、その万物の創造も愛をもってなされ、その愛をもって現在も支えておられ、未来もまたその愛をもって導かれることを信じることができる。
「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられている。」(コロサイ 1:17 )
この世は矛盾や悪、汚れで満ちている―これは一般的な実感であろう。しかし、もし神は愛なり、ということを本当に信じ、受けいれるならば、その神の愛によって創造され導かれているこの世界には、その神の愛で満ちているということになる。
そんなことは到底信じられないという人々が多いが、これは信じることによって開かれていくことである。
真実な唯一の神なといないと信じるなら本当にそうした神はその人にとって存在しないままになる。
しかし、そのような神はおられると、信じて物事をみるときには、次第に神の働きがみえてくる。
同様に、さまざまの苦しいことや神の愛など感じられない状況にあってもなお神は愛なのだ、と信じ続けていくときには、たしかに神はその愛を示してくださるようになる。 そしてその神からうけた愛をもって他者の運命がよくなるようにとの祈りをもって対する。
それが、神の愛の内にとどまろうとすることであり、それによって私たちは愛の神の内にとどまり、また神も私たちの内にとどまってくださるという。この弱くて汚れたようなもののなかに、万物を創造した絶大な神が来て住んでくださる! それは頭で考えても到底分からない。このことも、私たちの魂の深いところで実感するように、主に導かれて初めてわかることである。
私たちの内に、自分中心の考え、あるいは他人の思いや批判等々でなく、愛と真実に満ちた神が住んでくださる―それ以上の幸いはない。
それさえあれば、私たちは死に面しても希望を失わず、死を超えた命を実感できるであろう。神は永遠であるから。
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野草と樹木たち チングルマ 秋田駒ヶ岳 2013.7.19
この花を撮影した秋田駒ヶ岳は、標高1,637m、全国に多い駒ヶ岳という名前の山のうちでは、最も花の多い山として知られています。北海道の聖書集会の帰途、青森から鶴岡市に向う途中、車で八合目まで登れるので、立ち寄った山です。
この高山に咲くチングルマは、中部地方から北の北海道やさらに、サハリン、カムチャッカ、アリューシャン列島など寒い北方にかけて咲くという厳しい寒さに絶えて咲くものです。関西から南部では見ることができないのですが、中部以北では高山に咲く花のうちでもとくによく知られているものの一つです。名前は、花の終わったあとの実を付けた姿(小さい写真)が、子どもの遊ぶ風車(カザグルマ)に似ているために、稚児車→ チングルマ となったといわれています。
この秋田駒ヶ岳は、活火山で、この写真の近くでは、1970年に噴火が生じています。この写真でも赤茶色の火山特有の土が写っていますがそこに残雪が少し見えます。
高さは10センチほど、白い花をたくさんつけ、群生し、大群落をつくることもあります。火山の溶岩が風化してできた荒々しい地であっても、このように可憐な花を咲かせる神のみわざに驚かされます。 荒れ野に花を咲かせる神(旧約聖書 イザヤ書35章)を思い起こさせるものがあります。
私たちの感覚では草花といえば、春の温かい季節を思いだすことが多いのですが、半年以上も雪が溶けないとか氷点下数十度にもなるような厳しい環境にある北国の高山やアリュウシャンなどでも咲くという強い生命力が、この小さな花々の中に宿っているのです。
これは人間にも言えることで、弱々しい病気がちな人、あるいはずっと寝たきりのような方々が、信仰を固く持つことによって、元気な人以上に強い精神力を持っていることもあります。神は、使徒パウロに次のように語りかけました。
「…(神の)力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ。」
そしてこの言葉を受けて使徒は、弱さや困難、迫害のなかにあっても満足していると言い、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」と述べています。(新約聖書コリント信徒への第二の手紙12の9-10)
神は、弱そうに見えるところに驚くべき力を与えることができる存在だからです。(写真・文ともT.YOSHIMURA)