今日のみ言葉 210 2011.12.14 |
この主イエスのひと言は、私たちが抱える様々の問題の究極的な解決を指し示すものである。
2011年は日本にとって極めて大きな出来事が生じた。東北大震災、それに伴う原発の大事故である。現在も続いているさまざまの苦しみは、人の心に深く傷を与え、また癒えることのない悲しみを持っている方々も多い。
そして福島原発の事故においては、福島の緑豊かな大地にとりかえしのつかない放射能汚染という痛ましく深い傷を残したのである。外なる自然や大地―とくに原発の近くは放射能によって汚されて、何十年経っても元通りにはならない可能性が高い。
こうした今なお癒されることのない心身の傷を本当にいやすもの、それがこの聖書の言葉にある。そのような苦しい状況にあって人の心に本当の力を与え、立ち上がらせることができるものこそ、必要なことである。
現状がなかなか変わらなくとも、その苦しい状況に打ち倒されない力こそ必要であり、その力があれば目前にある困難な問題に対処していく道を求めていく気力が与えられるからである。。
これは東北や福島で被災を受けた人たちに限らず、重い病で日夜苦しみにある人、家庭や職業の問題、あるいは飢えや支配者の迫害などによるで耐えがたい状況にある数知れない人たちにすべてあてはまることである。
その力こそ、ここに言われている、死にたるものをも復活させる力であり、人間の力ではない天よりの力であり、それを内に宿す神の力である。
そのような力を受けるために何が必要なのか、それは単純である。
キリストが神の力を持っていて(神の子であるということ)、私たちの心の最も奥深い問題である心の罪を赦し、清めて下さるお方だと信じるだけで、力を与えられる。
その力によって私たちはあらゆる問題、最も強い力である死の力にもうち勝って、神の命―永遠の命を与えられると約束してくださっており、そのことは、また鷲の翼にもたとえられている。
「わたしはあなた方を鷲の翼に乗せて私のところに来させた…」(出エジプト19の4)
私たちも、ただ心からの信仰によってこのような鷲の翼に乗せていただき、困難を乗り越えて神のみもとへと導いていただき、新たな力を日々うけて歩みを続けていきたいと願うのである。
野草と樹木たち
ヨツバシオガマ 月山(がっさん 標高1984m)にて 2010.7.30 (ゴマノハグサ科。この科に属する野草には、美しい青色の花とそのすらりと伸びる花茎で知られるクガイソウやヤマルリトラノオなどがあります)
シオガマギクという高山に多い野草があります。手もとの高山植物図鑑にも20種類ほども記載されています。
(徳島県の剣山(1955m)にも、山頂付近の草原帯で、トモエシオガマがあります。 )
その中でも、このヨツバシオガマは、名前のように葉が茎のまわりに4枚、輪生しています。
高さは、10~40cmほど、花は赤紫色の美しいものですが、葉もあまりほかの野草ではみられない小さく羽状になって美しいものです。
そのため、代表的な高山植物として親しまれているものです。このヨツバシオガマは、本州の中部以北から北海道の高山帯の草原に自生しているものですが、その近縁種である
エゾノヨツバシオガマは、北海道から、樺太、千島列島、カムチャッカ、アリューシャンといった厳しい寒さの風土にて生育すると記されています。
この写真のヨツバシオガマは、山形県の北部の標高2000mほどの月山で撮影したものです。
右の写真にあるように、緑なす高山帯の草原でこのような可憐な花が咲いているのを見るのは、神の雄大なカンバスに描かれた芸術品のような感じがしたものです。
この野草のすぐ近くの山の斜面には、7月末というのに雪渓が残っていて冬季の厳しい寒さと大量の積雪のことを思いださせます。
一見弱々しく見えるこの植物は、長い冬に耐える強靱さを秘めているのです。 聖書にも、弱いところにこそ、神の力はあらわれるとあります。氷雪に覆われる何カ月を耐え、わずかの夏の間に生育し、美しい花を咲かせていく、これはいかなる厳しい状況にあっても、神の力が働くことによって、人間も、花を咲かせることができるという、私たちへの喜ばしいメッセージが込められていると感じられるのです。(写真、文ともT.YOSHIMURA)
見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、 |
主イエスは、言われた。求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれると。私たちが、さまざまの問題に直面して苦しむとき、そこからどうしてこのような問題が起こったのかと、神に対して門をたたく思いをもって求め続けていけば、いつかは必ずその意味は何らかのかたちで与えられる。そしてその困難を乗り越える道が開け、歩む力をも与えられる。
身近な周囲の自然に接してもたえずその自然のすがたの意味を問い続けるときには、たしかに新たな意味が示される。
今日の「戸口に立ってたたいている」という み言葉は、主イエスご自身が私たちの魂の扉をたたいているという上のこととは逆方向のことである。それは、私たちの心がほとんどいつも閉じられているからである。私たちの魂は、霊なる主に向って門をたたく心とともに、私たちに向ってたたいておられる主への霊的感受性を深め、鋭くしていくことが求められている。
聖書そのものが、神が私たちに対して心のとびらを開くようにとたたいている。 また、日常に生じるさまざまの出来事も、苦しいことも喜ばしいことも通して、みな神が私たちの心をたたいておられる姿でもある。
私たちが心の扉を開けるときには、主イエスが私たちの魂のうちに入って来てくださって食事を共にするという。それは、霊的な食物、御国の食物やいのちの水をともに与えられるということを示している。しかし、心のとびらを閉じているならば、さまざまの困難な出来事や悩みは、そのまま心に沈み、だんだんと活力を失っていく。 あるいは、この世の悪しきことが入り込んでくる。
最初の 「見よ」、という言葉を英訳の代表的な一つは、通常の訳とちがって Listen! (聞け!)(*)と訳している。 霊の目で見ると、私たちの心の扉をたたく主のお姿が浮んでくるということであるが、それは他方では、霊の耳をすまさないとその呼びかけは聞こえてこないという意味を持っているゆえにこのようにも訳されている。
上記の聖句の直前に、「悔い改めよ」、という言葉がある。悔い改めとは、神に向って心の方向を転じること、そこに神からの呼びかけを聞き取ることができるようになる。
私たちも日々、神様の扉をたたき、また神様のほうも私たちの心の扉をたたいてくださっているということをいつも意識して歩みたいと思う。そこから新たな道が開かれ、私たちもさらなる主との霊的な交わりを与えられていくからである。
(*)原語のギリシャ語は、イドゥー idou!であり、eido 見る という 言葉からきている。
ヒヨドリバナとアサギマダラ
伊吹山(標高1377m)にて 2010.8.6
ヒヨドリバナは、 比較的高い山によく見られる花でそこに、このように折々にアサギマダラという美しいチョウがき来ているののをみかけることがあります。このチョウは数ある花々のうち、このヒヨドリバナやこの仲間の花に多く見られ、この花の蜜が好みなのだとわかります。このヒヨドリバナは写真のような白い花ですが、やや赤紫の色を持っているのもあり、秋の七草として知られるフジバカマや山地に見られるヨツバヒヨドリ、湿地に生えるサワヒヨドリなどがその仲間です。 この写真は、岐阜県と滋賀県の県境にある伊吹山の山頂近くで撮影したものです。
アサギマダラは、遠くまで飛来するチョウとして有名で、1,500 km以上も飛んだもの、さらに、1日に200 kmも飛んだという記録もあります。
以前、わが家のある山の頂上から羽に印を付けて放たれたアサギマダラが、九州南部の島で捕獲確認されたということが報道されていたのを思いだします。アサギマダラはひらひらと優雅な飛び方をし、人をあまり恐れず近くにいっても逃げないことが多いのです。この柔らかな羽でいかにして、山々を越え、風の吹きつのる海を越えて数百㎞も飛来できるのか、信じがたいようなことです。神の創造の不思議を思います。
わが家は海沿いの山を少し登ったところにありますが、そうした渡りの途中のアサギマダラが、毎年のように見られます。今年も、咲き始めたツワブキの花の蜜をすっていたのを見かけました。私たちも弱く力のないものであっても、神の力を受けるときには、霊のつばさが与えられ、困難をも乗り越え、死の陰の谷をも越えていくことができるのを思ったことです。人にはできないが、神にはなんでもできる―その驚くべき神の力が、困難に打ち倒されそうになっている方々のところにも注がれますようにと願っています。
(写真、文ともT.YOSHIMURA)
命の泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光にあって光を見る。 For with you is the fountain of life; in your light we see light. |
人間にとって最も必要なのは、いのちである。このことは、だれでも知っていることであるが、その命というとき実に大きな意味の違いがある。単にこの体をささえる命のことなら、それは実にはかない。数十年でなくなるし、それはまた、一般の動物と同じものでしかない。
また、光を見るというときも、目に入ってくる光ということなら、神を信じるなどは関係なく入ってくる。
しかし、ここで言われているのは、そうした常識的なことでなく、目に見えない命、すなわち朽ちることのない命であり、人間だけに与えられる霊的な命のことである。また、見るということも、神の光の内にあってはじめて見ると言われていることからわかるように、肉眼で見る光ではなく、やはり霊的な光のことである。
私たちがいくら身体に病気がなくとも、その心に大きな打撃を受けるとき生きていけなくなるのは、動物のような食物だけあれば十分に満足できる存在でないことを示している。
私たちに必要なのは、神の命、永遠に壊れることのない命なのである。そしてその命は神のいのちであるゆえに、泉のようにあふれでる。主イエスも、「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4の14)と言われた。
それに対して、この世は人間の心を枯らしていく傾向がある。幼いときには純真な心、すなおに身の回りのことに心を動かされる心があっても、それらは成長とともに枯れていくことが多い。毎日の新聞、あるいはいろいろなテレビドラマや小説などの類に触れて、それによって心がより真実さが与えられたり、だれでもに及ぶような真実な愛の心などが増えていくであろうか。多くの場合、そうではない。それらから発信される内容は、この世にあって枯れていった状況、罪深い姿を描くものが多いからである。
それは今に始まったことでなく、昔から、この世そのものがさまざまの人間関係、老齢、病気、生きる苦しみなどによって私たちの心を枯らしていく。
そうしたすべてを見抜いて、神はその枯れたところが泉のように変えられる力が存在するということを告げているのである。
「荒野よ喜べ、花を咲かせよ。…荒れ野に水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。」(イザヤ書35章)
また、神の光を受けてはじめて、本当の光が見えるようになる。それまではこの世の見えるものいかに探求しても永遠の光というべきものがわからない。この世の実態を知れば知るほど、一人の人間の内面から、周囲の社会、そして世界にはさまざまの暗いものが見えてくる。
けれども、私たちがこの世界の創造主である愛の神を信じ、心から仰ぐだけで、太陽のように、また降り注ぐ雨のように与えられる神の光を受け、それによって、この世の移りゆく現実とその闇のただ中に永遠の光を見ることができる。この詩の作者はそのことを証ししている。それによって、すべての人の前途にある、死という闇のかなたにも、真実な永遠の光を見ることが与えられる。
ソバナ (岨菜・キキョウ科) 伊吹山 2010.8.6
ソバナは、夏の山地に時折見かける花で、その青紫のキキョウの仲間であることはすぐにわかります。名前のソバ (岨)とは、けわしい崖を意味する言葉で、この写真のソバナも崖で咲いていたものです。伊吹山は標高1377m、それほど高いとは言えない山ですが、高山植物といえるものが多くみられます。しかし、このソバナは伊吹山の頂上周辺にもほとんど見かけなくて、やや離れたところで見いだしたものです。ツリガネニンジンと似ていますが、ソバナは、葉が茎から互ちがいに出る(互生)に対して、ツリガネニンジンは輪生であること、ソバナの花びらは先端が反り返らないなどの違いがあります。この花は、秋らしいさわやかな色合いと雰囲気をたたえています。近くに見える赤い茎と細い花は、アカソ(赤麻)といい、伊吹山では群落をなしていて広くみられます。
一つ一つの花は、沈黙のなかに、声ならぬ声をもって語りかけていますし、山道に咲くさまざまの花たちは、全体として創造主をたたえ、私たちにも共に加わるようにと霊的なコーラスをしていると感じられます。(写真、文ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 207 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、 |
この短い文には、重要なことが簡潔な表現の中に込められている。父なる神は唯一である、このひと言を本当に信じるかどうかで私たちの人生は決定的な違いを生じることになる。どのようなことが生じようとも、その背後に唯一の愛の神がおられるのだ、私たちには不可解であってもすべてを超えたところで愛と真実な神がおられるのだ、と信じることによってこの世のさまざまの問題をのりこえていくことができる。
神はじっとしている神ではない。万物の上にあって支配し、新たな創造をし、また時至れば悔い改めようとしない悪の力を滅ぼされる。どんな人間の強大な権力であっても、それをさらに正義をもって支配しておられるのが神である。
また、すべてのものを通して働く、あるいは全てのものによって神が証しされているとも受け取ることができる。歴史を通しても、また自然のいろいろな風物を通して、さらに個々の人間との関わり、よき人だけでなく悪しき人との関わりを通しても神は働かれる。
そして、万物の内にある。私たち人間の内に住んで下さることは、主イエスのぶどうの木のたとえにおいても繰り返し言われている。「私の内にとどまれ、そうすれば私はあなた方の内にとどまる。」
この一つのことが成就すれば、私たちには何も不満もなく、長寿も短命もどちらでもよくなるだろう。あらゆるよきものの総体である神が私たちの内にいてくださるなら、当然私たちもあらゆるよきものが与えられているという実感を持つであろうから。
この聖句にある神に関する三つのこと(神は万物の上にあり、すべてを通して働き、万物の内にある)、それがあればこの世の問題のすべてを解決に導く道が前途に続いている。
だれでも、いろいろな悩みがある。そのときに、それらあらゆる問題の上に愛の神がおられて御支配されていると信じるようにと導かれる。
また、そうした悩みを引き起こす人間や病気、事故等々、そのことをも通して神が働いておられるのだ、と受け止めることによってそうした問題そのものからすらある種の力を与えられることにつながる。
ここにあげた聖書の言葉を深く受け止め、信じることによってはじめて私たちは、使徒パウロが繰り返しすすめているように、「常に喜び、すべてのことに感謝する」というようなめぐまれた状況へと導かれていく。
自然の中から 吉野川
徳島市にて 2011.8.27
これは、徳島県を流れる吉野川です。夕日に照らされて青空に浮かぶ雲は赤みがかって見えます。長さは194km。愛媛、高知、徳島を流れ、香川県には分水しているので、4つの県にその水は流れ、うるおしています。この写真の左側が上流で西の方角、正面は北です。
この写真の位置は、河口から5キロほど上流にありますが、川幅は 1キロほどあります。そして、水はこのように満々とたたえられています。
私は、今までに日本の九州から北海道まで各地のキリスト教集会に参加のため、多くの府県を車で移動することが多かったので、いろいろの川もみてきましたが、この吉野川ほど水量がなみなみとある川は記憶にありません。
青い空、そこに浮かぶ白い雲、そして写真には見えないけれども、その雲をあかく染める西方の夕日、そして水の満ちる流れ、これらは、繰り返し接している私にとってもいつも新たなひろがりを心に起こしてくれます。
これらの自然の光景は、それと対照的に、狭く、汚れがあり、いつも満たされずにいて、魂の渇きを覚えている人間の姿をも思い起こされ、人間がどのような状態へと進むべきなのかを指し示してくれるのです。
この光景は、私たちに、深く青い大空からはその無限の広やかさを、輝く雲から光を、そして乾いた心をうるおし、そこから周囲へと流れ出ていくほどに豊かな命の水の流れを見るものに語りかけています。
そして私たちが主に深く結びつくとき、たしかにそのようなよきものが部分的であれ、私たちの魂のうちに静かに伝わってくる思いがするのです。(写真、文ともT.YOSHIMURA)
今日のみ言葉 206 2011.8.11 栄光の源である御父(神)が、あなた方に、知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。 I pray also that the eyes of your heart may be enlightened. |
心の目の重要性、それはキリスト教信仰にかかわりなく一般的にも、よく言われることである。体の目と異なる、心の目がある。人間を見る場合でも、表面的なこと―容貌や、衣服や車、家などの持ち物、社会的地位等々で判断するのでなく、心の目で見なければわからないといったことは、だれでも耳にしてきたことだろう。 大切なものは心の目で見なければ見えない、本当に美しいものは、ふつうの目では見えない…ということは、サンテグジュペリの「星の王子さま」にも出てくる。
聖書のこの箇所が言おうとしているのは、こうした一般的にも知られていることとどこが違うのか。一般に言われていることは、人間の考え方を改めるといった努力とか教養や教育などによって心の目が見えるようになると思われているが、聖書において言われているのは、そうした人間的努力などによっては、本当の心の目が見えるようにはならないということなのである。
愛の神、万能の神がおられるということは、人間の努力とか学問、教養では全くわからない。たくさんの本を読み、人生経験をしたからといって、生きて働く神がおられる、ということがわかるようになる、というものでもない。それは、この聖書の言葉にあるように、神からの賜物であり、神が聖なる霊を与えることによって、心の目が開かれるのである。
私自身の経験としても、小中高校、そして大学と学びを続け、多くの本を読んでもまったく心の目は開けなかった。周囲を見ても、大学の教授たちも、学生たちも、日夜研究や勉学に励んでいるからといって、心の目が開けているというような人には21歳になるまで出会ったことがなかった。心の目で見なければ決して見えない愛の神のことを語る人は、ただの一人も私の周囲にはいなかった。
神の存在とその愛など、最も大切なものは、まさに心の目で見なければ分からない。そしてそのような目を開いてくれるのは、学校、大学などの教養や研究などではなかったのであり、むしろそうした学問や教養によって心の目が曇らされて愛の神がおられることがますます分からなくなっていく、という人たちも多い。
主イエスが、幼な子のような心にならなければ、あるいは新しく生まれなければ、神の国は見えない、そこに入れない、と言われたのもそのことである。(ヨハネ 3:3、ルカ 18:17)
そして、深い教養や学識がなかったら心の目が開けないというのなら、それはごく一部の人でか与えられないことである。しかし、学問があろうとなかろうと、苦しみのさなかにあっても、あるいは元気で働いている人にも、ただ幼な子のような心で神を信じ、仰ぐことによって、そしてただ心から求めるだけで、神からの聖なる霊を受けて心の目が開かれていくことが聖書では約束されている。それによって、この世界に流れている真実が見え、また死後、無になるのでなく、キリストのように清められたものとさせていただけることなどがわかる(心の目で見える)ようにしてくださる。 これこそは万人に開かれた道なのである。
駒ヶ岳と大沼(北海道) 2011.7.21
北海道の西南部の瀬棚での聖書集会に行く途中、国道近くにあった大沼国定公園に立ち寄りました。長距離にわたる車での移動では体調が不全となりがちなので、ときどき車をおりて 歩くようにしています。歩きながら次の目的地での聖書の内容などを考えることができ、また付近の植物などを調べることができます。
この駒ヶ岳は、列車で函館から北海道に入ったときに目に入ってくる山で、標高 1131m、山麓には、噴火によって川がせき止められてできた湖である大沼、小沼などの湖沼が、写真のように広がっています。
この駒ヶ岳には、今から46年前、私が大学生のときに、テントや食料などを持って、大雪山や知床半島の羅臼岳などほとんど山ばかりを目指した旅をしたことがあり、この山にも、大沼駅から何時間もかけて登ったのが強く印象に残っています。その頃は、この付近にほとんど観光客もおらず、駅から降りて、一人で遠くの駒ヶ岳目指して歩き始めたのでした。
現在では、大沼のいろいろな小さな島になっているところに橋が付けられてあり、植物を観察しつつ、湖、沼とときどき見え隠れするこの駒ヶ岳を見ながら歩くことができます。
湖では、この写真の右下には、スイレンの花、そして別のところには、コウホネが黄色い花を咲かせていました。
この駒ヶ岳は、かつては富士山のような山容で高さも1700mほどあったけれども、江戸時代初期の大噴火によって崩れ落ちて現在のようになったとのことで、大沼から見る山容は、優美ですが、別の地域からみると、同じ山とは思えない荒々しい男性的な山容を見せています。
この付近が訪れるものの心を惹くのは、こうした優美さと力強さ、そして湖にたたえられた水のうるおい、植物や水鳥たちが溶け合って自然のよさを感じさせてくれるからです。
湖に満ちる水は、主イエスの言われた いのちの水を思い起こさせ、優美さはキリストのこまやかな愛を、そして山の力強さと泰然たる姿に接して、それを創造された神の力強さが思いだされます。 そして青い空、白い雲も、神のかぎりなく大きい御手のわざへと心を誘ってくれます。
湖面のさざなみも、無音のメロディーを奏でているのです。 自然は私たちが心を静めて接するほどにさまざまの天の国の賜物を与えてくれるものです。 (写真、文: T.YOSHIMURA )
「求めよ、そうすれば与えられる。天の父は聖霊を与えて下さる」 求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。
Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the
door will be opened to you.… |
求めよ、さらば与えられん、このイエスの言葉は広く知られているが、この言葉が真実だ、と本当に思っている人は少ないであろう。人間は小さな子供のときから老年となり死が近づくに至るときまで、何かを常に求め続けている。しかし、多くの場合、それらが与えられないゆえに、さまざまの悩みを苦しみ、悲しみが生じていく。それゆえ、求めても与えられない、という気持ちがたいていの人にあると考えられる。
しかし、求めたら何が与えられるのか、主イエスが言われたのは、人間の欲望のとおりなんでも与えられるなどということではない。上記の「門をたたけ、そうすれば与えられる」という言葉のあと、普通の罪深い父でも、子供が魚を求めているのに蛇を与えたりしない。よいものを与えようとする。まして天の父(神)は愛ゆえに求める者に聖霊を与えてくださると、言われている。
この箇所と関連して次の言葉がある。
「ただ、神の国を求めよ、…小さな群よ、恐れるな、あなた方の父は喜んで神の国を下さる。」(ルカ12:31-32)ここでは、神の国を求めよ、と言われている。神の国とは聖なる霊に満ちたものであり、ほぼ同じような意味をもっている。 困難なときに、目に見えるものそれ自体は求めても与えられないことが多い。例えば、事故や病気で失明した人がいくら求めても、目は元通りにはならない。しかし、聖なる霊を求め、神の国を求めるときには、それが与えられ、その失明という困難を乗り越えていく力を与えられる。
聖なる霊が豊かに与えられるほど、苦難に耐える力もいっそう与えられるだろう。しかも、聖霊の実は、愛、喜び、平和…と言われているように、人間が本来最も欲している目に見えない賜物をも与えられる。
求めても与えられないように見えるときも、あきらめることなく、私たちも神の国を求め、聖なる霊を求め続けていきたいと思う。
野草と樹木たち
キヌガサソウ (衣笠草) ユリ科 月山 2010.7.30
このキヌガサソウは、山形県の月山(標高1984m)の頂上に近いところに咲いていたものです。(右の赤い花は
、ベニバナイチゴです。)登山道から少し離れた付近の植物を調べていて、草木の陰で咲いていたのを見つけた
のです。おそらくほとんどの人に気付かれずに咲いてきたと思われます。高さは、50㎝内外、葉は大きく放射状
に茎から10枚前後がひろがり、その中央に白い花が咲いています。その花びらの数も10枚前後です。
この花は、日本特産で、世界に誇れる貴重な植物だとされますが、ほかに類のないような花です。よく特異な動物に関しては、そのような形態が生き残るのに都合がよかったのだ、などと説明されることがありますが、植物に関しては多くの場合、そのような説明はあてはまらないのです。この花にしても、この衣笠のような形が生き残るのに都合がよかったなどということはなく、この花の形はまさに神がその御計画のもとで創造されたとしか言いようがないのです。
人間が存在するはるか昔から、咲き続けていただろうと思われますが、こうした高山の野草の花々は、神の美術館に収められた神の作品ともいうべきもので、私たちも人間の力をはるかに超えた神の力の繊細、美しさ、無限の多様性に驚かされるのです。 (写真、文: T.YOSHIMURA )
今日のみ言葉 204 2011.6.7 |
現在の日本は、かつてないほど「揺り動かされる」状況になっている。 物理的にも、頻繁に地震というかたちで揺り動かされている。 1980年からの20年の間、マグニチュード5.5以上の地震が発生した回数は、原発を全面的に停止すると決めたドイツと比べると、およそ23倍となっている。それが、最近では、先ごろの東北大地震関連の余震もあり、さらに多くの地震が発生している。
主イエスが、世の終わりにどんなことがおきるかと問われて、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」(マタイ24の7)と言われた。
そうでなくとも、この世は絶えず誰も予想できないことが生じるから、いつもそうした出来事で私たちは揺り動かされる。個人的にも病気や事故、あるいは仕事や人間関係での問題が生じて、それは私たちの心を大きく揺り動かすものとなる。
だからこそ、この聖句にあるように、私たちはいかなることが生じようとも決して動かされないものを見つめ、しっかりと頼っていく必要がある。それは、神であり、また神が私たちのために遣わされたキリストであり、神の国である。
そのような不動の岩のごとき神の国はどこにあるのか。主イエスは、「神の国は、あなた方のただなかにある。」(ルカ17の21)と言われた。私たちのこの現実の生活のただなかに、また一人一人の心の中に、キリストを信じる人たちの集まりのなかにある、ということである。世の終わり、キリストの再臨のときにこそ、完全な神の国となるのは予告されている。 しかし、この混沌とした地上においても、信じる者にはこのようにすぐ近くにあると、主イエスは言われた。
その揺るぐことのない神の国がそのように近くにあるからこそ、主イエスは、「求めよ、そうすれば与えられる」と約束されたのである。
「あなた方は御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っている。」(コロサイ書3の24)
しかし、ときどきキリスト者にも、こうした神の国のことを忘れ、この世の揺れ動く力に巻き込まれることがある。それゆえにこそ、私たちは毎週の主の名による集会により、祈りにより、また賛美によって常にこの御国のこと、その約束のことを共に思い起こし、そこから新たな力を日々受けていきたいと願う。
このニリンソウは、伊吹山(標高1377m)の頂上に近い一帯でたくさん咲いています。 このように、茎を取り巻く葉から一つ、または二つの花が咲きます。草丈は20cm前後、花の大きさは2cmほどで、多くは白色ですが、このようにうっすらと赤くなるものもあります。
樹林の下草のように、群生しています。まだ、ほかの多くの野草たちは、新芽をどんどん伸ばし、夏に花を咲かせるための成長期にあり、花を咲かせているのはこのニリンソウやイチリンソウ、あるいはユキザサ、イブキガラシなど少ない時期です。
この花は、 春の花らしい繊細さ、静けさをたたえた花で、山麓では、3月から咲き始め、春の到来を告げる花として愛されています。頂上に近いところでは、平地より8度ほど気温が低く、まだ平地の春のような状態なので、この花も多く咲いています。
こうした野草の姿は、その清い美しさによって私たちに神の国を指し示す花として感じられます。 (写真、文: T.YOSHIMURA )
今日のみ言葉 203 2011.5.12 わが救は神から来る。 He alone is my rock and my salvation , I will never be shaken. |
誰でも、生きているかぎり、予想できなかった苦難や困難な問題に直面する。
そのような時、何によってその困難を乗り越えようとするだろうか。東日本大震災のように、家も畑も流され、仕事の場をも失ったというような場合、助けは、主として行政の力によってなされる。それによって一応の衣食住など生活に関することは保障される。
けれども、愛する家族や友人、あるいは農業など何十年もその仕事にかけてきた場合は、そうした保障を受けても心のなかの深い傷や空虚感は行政などではどうすることもできない。
そのような深い魂の空虚を満たすものは、この詩にあるように、ただ神だけである。そうした苦しみや悲しみをいやし、さらに新たな力を与えて立ち上がらせることのできるのは、目に見えるもの、人間などを超えたお方による他はない。
この詩の作者にとってそのようなお方、神がおられるということは、確かな実感であり、現実の力となった。そして、聖書はこの詩の作者だけでなく、その巻頭の創世記から終わりの黙示録まで、そうした現実の力があることを至るところで証言している。
その力を与えられるためには、ただ神を信じ、神が地上に送られたキリストを信じるだけで足りる。この世の力は、まず政治や裁判にしても多数が言わねば聞かれないことが多いし、金の力や、ある程度の健康―組織などに訴えたり働きかけるために―、資格等々がなかったら助けも与えられないとかいうことも多い。
しかし、神の力を受けるには、ただ、信じて求めるだけでよい。これは何という大きな恵みであろう。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる。」というキリストの有名な言葉は、こうした神からの力を受けることに関して最もよく成り立つ。
この詩の作者も、その力を与えられるためにしたことは、何も特別なことではなかった。ただ助けを与えられる神を信じ、黙して真剣に求めた。
沈黙、それは時として大いなる霊的な武器となる。軍事力、人間の多数の力などとは根本的に異なる神からの力を受けるからである。
主イエスがしばしば弟子たちや人々からも離れ、夜を徹して祈られたのも、沈黙のなかから不動の岩なる神につよく結びつき、そこから力を与えられるためであり、その力をまた周囲の人々に分かつためであった。
私たちもまた、揺れ動いてやまないこの世界のただ中にあって、主の前に黙し、岩のごとき存在たる神からの力を与えられたいと願うものである。
ルリトラノオ(瑠璃虎の尾)
ゴマノハグサ科 伊吹山 2010.8.6
このルリトラノオは、青い花が下から順に穂のようになって咲いていき、伊吹山特産とされています。(左に見える赤い花はアカソという野草です。)高さは0.5~1m程度。トラノオの仲間はいくつもあり、白い花が垂れ下がって咲くオカトラノオが低い山にも時折みかけることがあります。これに似たものは、クガイソウ(九蓋草、九階草)、ヤマルリトラノオなどがありますが、クガイソウは、葉が輪生する(*)のですぐに区別がつきます。ヤマルリトラノオは、日本海側の近畿以北の標高2000m前後の亜高山帯に分布とのことですが、私は、北海道で海岸の崖上に咲いているのを見たことがあります。北海道では本州の高山植物がしばしば低山や平地に見られます。
(*)植物の葉が茎を囲むように輪状になっていること。
いずれにしてもオカトラノオ以外は、概してやや高い山でないと見られないため、一般の人にとっては親しく目にすることができないものです。
高い山にはこのような美しい色合いをもった花が咲くこと、このことは、吹きわたる風の清々しさ、渓谷の美しさなどとに加えて、山地の雰囲気をいっそう聖なるものにしています。寒さや風雪などの厳しさの中に咲くものは、やはり平地のものと異なる雰囲気をたたえたものが多いと感じます。 これは、人間世界にも言えることだと思われたことです。
(写真、文: T.YOSHIMURA )
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり それゆえに 人はあなたを畏れ敬うのです。 私は主に望みをおき み言葉を待ち望みます。 Out of the depths I cry to you, O LORD; If you, O LORD, kept a record of sins, O Lord, who could stand? I wait for the LORD, and in his word I put my hope. |
人は、さまざまの意味での深き淵にある。今回のような大災害、あるいはいつの時代にもある病気、家庭や仕事のなかでの苦しみ、そして自らの内にある罪のゆえに生じる悲しみ等々。
しかし、自分はそのようなところにいない。別に神を信じなくとも、明るく、幸いだと思っている人もいるだろう。しかし、それは、自分がいかに本当に正しいあり方からはずれているか―罪を持っているか―ということを知らないからである。なぜなら、聖書に記されているような純粋な愛や真実、あるいは正しさの究極的基準であるのが神であり、そのような基準を知らなければ、自分がどこまで離れているかも分からないからである。
人間の最も深い苦しみや悲しみは、愛するものとの別離でも、地位や物が失われることでものない。人間は精神的な存在であり、心の動きが根源にある。その心が正しいあり方でなければいかに健康であり、家族がいて職業があっても、なお魂の深みにおいては本当の幸いを実感できず、そのような幸いは突然の事故などで簡単に崩れていく。
聖書が一貫して述べているのは、人間の根本問題は心にあり、その心での数々の過ちがぬぐわれることこそ、真の幸いであり、それが罪の赦しということである。さまざまな苦しみや悲しみの深い意味は、私たちが罪を知らされるために生じると言えるだろう。
罪赦され、そこから神に立ち返るところにこそ、人間の最も深い幸いがあり、そこからすべてがはじまるからである。
罪赦されて始めてこの宇宙を創造し、愛をもって支えておられる神との生きたつながりが与えられるようになる。そしてそこから神の持っておられる力や支え、導き、そして消えることのない希望が与えられ、天の国にある清い賜物が与えられるようになる。
このような天からの賜物こそ、いかなる状況にあっても―死の迫る最期のとき、またあらゆるものを失ったような悲しみや混乱の時でもなお、私たちを支え、この世のものでない神の平和を与えられることを期待できる。
ヒトリシズカ (一人静)
徳島県小松島市 日峰山 2011.4.7
このヒトリシズカは、わが家のある山にかなり以前から毎年この可憐な花を咲かせています。春の野草らしい、素朴な美しさ、つつましさを感じさせる花です。茎は直立し、花は4枚の葉が出てくるのと同時に白い穂のようになって一つだけ現れ、それがこの花の名前になっています。葉はこのようにはじめはこげ茶色ですが、後には緑色になります。 春の喜びを、まっすぐに出てくる白い花が表していて、この花を見るとほっとするような雰囲気をたたえています。寒い冬をおえて、待ちかねたようにまっすぐに茎を立てて咲く純白の花、土のなかからこのような純粋さをたたえた花を創造する神のみわざに驚かされます。
(写真、文: T.YOSHIMURA )
あなた方は、悪しき者に勝利した。 |
悪の力、闇の力に勝利したい、そして、よき力を自分のうちに取り入れたい、これは誰もが願うところである。だれもだまされたり、憎しみや攻撃を受けて精神的に追いつめられたり苦しんだりしたいと思わない。それは言い換えると、悪によって打ち負かされたくないということである。
そのために、ここでは簡潔な言葉でその勝利への道が書かれている。それは私たちの内に、神の言葉をとどまらせることである。
神とは、永遠の存在であり、目に見える天地のすべてを創造し、かつ現在もそれを支えておられ、目に見えない心の世界、霊的な世界も創造し、かつそれらすべてを愛と正義、そして真実をもって今も御支配なさっているお方である。
そのようなお方の言葉には、人間とは本質的に異なる力がある。力そのものが神とその言葉には宿っている。それゆえに私たちがその神の言葉をかたく持ち続けるときには、その力によってこの世の闇の力に勝利できる。
主が最後の夕食のときに、長い教えを話されたがその最後に、「あなた方はこの世では苦しみがある。しかし、勇気を出せ。私は世に勝利している。」と言われた。
神の言葉とは、聖書に記されている言葉、さらに信じる者に個人的に語りかけて下さる生けるキリストの言葉、さらにはキリストご自身をもいう。そうした意味での神の言葉を心のうちに保持しつづける限り私たちは必ず勝利する。
主イエスは、闇の力が襲い、悪しき人々に捕らわれて処刑までされたが、そのようなことになっても、たしかに勝利されたゆえに、その存在は不滅のものとなり、以後2000年にわたって無数の人を滅びの淵から救ってきたのである。 すでに旧約聖書の詩集のなかにも、「神の言葉を昼も夜も心の内にとどめ、深く思いをいたすなら、その人は流れのほとりに植えられた木だ。 絶えず実を結んでいく。」(詩篇第1篇)と言われているとおりである。
雪の中の梅 2011.2.14撮影(徳島県小松島市)
今年、2月14日に当地としては最近ながく見られなかった大雪となった日の撮影です。わが家は、高さ200メートルほどの山を少し登ったところですが、この山の頂では15センチほどの積雪となっていました。この写真のように、雪のなかの梅は、聖書にも記されているように、雪の白さが 、私たちの罪清められた心の世界を指し示すゆえに、いっそう私たちの心に残るものです。
梅は、このように一年で最も寒さ厳しいときにも次々と花を咲かせるゆえに、私たちにその花のやさしさとともに、厳しさのなかに咲くことの力を感じさせてくれます。また、その香りは多くの人にとってはなじみがないことと思いますが、花に近づくとよき香りがあり、厳しさのなかにうるおいをたたえている花です。
また、ほかに花もほとんどなく、木の実のないころなので、小鳥、とくにメジロがしばしばやってきて花の蜜をすっています。
適切な剪定があれば、樹木としての姿も古木となるほど風格も生まれます。また、その実はとくに梅干しとしておにぎりなどにはなくてはならないものですが、その実にはほかのいかなる果実類ものにも増して、クエン酸の含有量が多く、それは体内に取り入れられるとすぐにエネルギー源となるゆえ、疲れたとき、病気のときなどにも愛好されるものとなっています。
このように、梅は、花の美しさ、樹木のすがた、香りなどが好ましく、さらに果実も食用や薬用などとして一般の日本人にも愛好されるという幅広い役目をになっています。こうした多様性は、創造主たる神が与えたものであるゆえ、そのもとになった神ご自身が、こうしたあらゆるよきものをたたえた存在であることを思わせてくれるのです。 (写真、文: T.YOSHIMURA )
わたしの魂よ、主をたたえよ。 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
慈しみと憐れみの冠を授け 鷲のような若さを新たにしてくださる。… 天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
Praise the LORD, O my soul, and forget not all his benefits-- who forgives all your sins who crowns you with steadfast love and mercy, who satisfies your desires with good things so that your youth is renewed
like the eagle's. |
ここには、私たちの現実のさまざまの弱さや みにくさ-罪にもかかわらず、私たちを見捨てないでかえって深く顧みてくださる神の愛への深い実感がある。人間の愛も心を動かすことがあるだろう。しかし、そのような愛を受けられない人たちもたくさんいるし、すぐに壊れ、あるいは変質する。それに比べて神の愛は、天が地を超えて高いように、限りがない。
この詩は今から二千五百年を超えるようなはるかな昔に作られたが、目には見えない神のわざを日々限りなく実感していたのがうかがわれる。そこから、神が私たちにしてくださっている御計らいに気付いていない人たちに呼びかけている。私たちの若さの秘訣、それは単なる身体の健康や飲食物の問題ではない。それは、魂の最も深いところに天来の心を受けること、言い換えると聖なる霊を受けることなのである。心の世界をそのように清め、一新された者は、周囲の状況がさまざまの問題を持っているにもかかわらず、数々の神の愛の計らいで満ちているように実感するようになる。この詩の作者はそうした魂の世界に導き入れられた体験を書き記したのであり、私たちもまた真実な心で祈り願うとき、このような新たな世界へと導き入れていただけるのだと信じることができる。
2010.7.30撮影(山形県 月山)
去年の夏、山形県鶴岡市の聖書集会から山形市の集会に移動するとき、時間がとれたので、月山の植物を初めて調べる機会を与えられました。月山は、 日本百名山 のひとつ、標高 1,984mの 火山ということで、その名前は昔からよく知っていたものです。私の住む徳島県の剣山とほぼ似た高さの山ですが、そこに見られる植物群落は、頂上に近い一帯では、四国の山々のものとは全く異なるものでした。
その日は雨が降るとの予報もあり、午後であったためか、ほとんど頂上に向かう人はおらず、リフトをおりてから頂上へは 神の御手の直接のわざである雄大な山々のひろがりと美しい高山植物に触れて、深く心に残ったのです。
この写真のチングルマは、中部地方から北海道、さらにアリューシャン列島やカムチャッカ半島という寒さの厳しい地域に育つ野草です。高さは10cm程度。花が終わると、その実が子供の風車(かざぐるま)に似ているとのことで、稚児車(ちごくるま)→チングルマとなったと言われています。
真っ白い可憐な花を咲かせ、群生するその姿は高山の清められた雰囲気にふさわしいものでした。 冬には、多くの積雪があり、凍結する厳しい環境で、この野草があった付近は、7月末でしたが一部にかなりの雪渓が残っていました。
植物たちは、短い夏の生育期間を最大限に使って花を咲かせているのです。それは人間でも、あとわずかしか命がないと思えばいっそう真剣な生き方をすることに通じると思ったことです。厳しい寒さや大量の凍結する雪の重さにも耐えて、はるかな昔から生き続けてきたこれらの植物、それゆえにこそ見る者に特別な印象を与えるのだと思われます。
(写真、文: T.YOSHIMURA )
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いつの世にもさまざまの誘惑がある。安楽や快楽への誘惑、そして地位や名声への誘惑、人間に頼り、自分を第一とする誘惑などいろいろある。
かつて主イエスが十字架にかけられる前夜、全身全霊をあげて夜通し祈った。 それは十字架での処刑という筆舌に尽くしがたい苦しみを受けて、神の御計画に従おうとする気持ちと、人間としての弱さからそれをできることなら逃れたいという気持ちとの、祈りのなかの戦いであった。その時、12弟子たちは、イエスから、「目覚めていなさい」と繰り返し命じられてたにもかかわらず、その都度、眠ってしまっていたのが見出された。
このことは、いかに私たちが眠り込んでいる存在であるか、すなわち、いろいろな意味で弱く、神以外のものにひかれてしまう者であるかを象徴的に示している。
こうした弱さのただなかから、私たちがそれでもなお神に立ち返り、キリストを仰ぐときには、そうした誘惑に勝利していくことになる。私たちは日々、敗北していくか、それとも勝利していくかのいずれかなのである。
私たちに与えられているものは、信仰、罪の赦しの福音、また復活と聖なる霊である。罪を犯し、ときに神に背を向けることもあっても、なお神へと立ち返り、与えられているものに帰っていくこと、それが勝利である。
そうした耐えざる神への方向転換こそ、勝利の歩みであり、そのときには 「明けの明星が与えられる」と記されている。明けの明星とは、キリストを象徴的に表す。(黙示録22の16)
年末から現在も、朝の5時半ころから6時過ぎころまで、その明けの明星が美しい輝きを見せている。みんなが寝静まっているまだ夜明け前の闇のなかに、静かに、しかし力強く闇のなかに光のメッセージを送り続けているその輝きは、絶えず神に立ち返っていく魂に与えられるものを象徴しているのである。
この世の現実はいつの世にも暗く、また混沌としている。しかしそこにそうした闇に勝利する光が存在すること、しかもその光は人間にはない永遠の愛や真実が込められていること、そしてそのような光が私たちの日常生活のなかにも与えられ、かつ、神のさだめたときには、再び、その光なるキリストがこの世に来てくださるということ、それらこそは、いつまでも続く希望である。
自然の中から(富士山) 2011.1.3
この富士山は、今年1月2日(日)~4日(火)まで、静岡県伊豆における新年聖書集会の早朝に見たものです。山の全体が雪に覆われ、朝日を浴びてほんのりと赤みがかった その姿は、静まり返った早朝に、魂の中までしみ通るような美しさでした。
いままで、山中湖にいった時とか、新幹線の車窓からまた各地からいろいろな富士を見てきましたし、富士の写真などはたくさん目に入るし、有名すぎてとくに山としては私は関心を持てなかったのですが、今回の富士はなにか生きた力をもって迫ってきた思いです。 このような静かでかつ霊的な富士は始めてのことでした。
しかもその朝は、新年二日目、聖書の学び、礼拝のための集会のために伊豆まで来たときでしたから、いっそう神が私たちの集会を祝福をもって見つめてくださっている実感を与えられたのです。
神の御手のうちにある厳粛さ、清さ、美の一端がこうした山の姿に表されている。「天は神の栄光を表し、大空は神の御手を示す」(詩篇19の2)とありますが、こうした山のすがたも確かに神の栄光とその御手を示すものだと言えます。
(文: T.YOSHIMURA、 今回の写真は、私がカメラを持参していなかったために、新年集会に参加しておられた赤塚牧さんに依頼して撮影していただいたものです。 )