アンクル・トムス・ケビン キリスト教著作家の文章から トップへ戻る。 |
アンクル・トムス・ケビン(アンクル・トムの小屋)から このアメリカのストー夫人(*)による小説は、世界で最も大きな影響を与えた小説の一つだろう。それはアメリカの奴隷解放に大きな影響を及ぼした。この小説は深いキリスト教信仰に基づいており、かつ著者自身が奴隷制の悲惨さをも見て、実際に逃亡奴隷を助けることにも関わったし、何とかしてこの悪の制度を変えねばという、信仰に基づく情熱的な心で書かれている。 それゆえ、この小説は決してたんなる子供向けの物語でなく、社会的な悪に対してキリスト者はいかに対処するべきなのか、国家そのものが悪をなしているときに、その悪い法律に盲従していいのか、というきわめて社会的な、そして困難な問題をも同時に含んでいるのである。ここには、聖書に記されているように「人間に従うよりも、神に従うべきだ」(使徒行伝五・29)という、悪との戦いの精神がにじんでいる。 しかし、残念なことに、日本では、子供向けに簡略にした物語としてしかほとんどの人は知らないし、大多数の人は、この物語の全体を(簡略版でなく)、大人になって読んだことがないと思われる。しかし、この小説には、単にアメリカの黒人奴隷の解放に関わる歴史的な重要性があっただけでなく、現代の私たちにとっても、キリスト者のあり方についても心に響く内容が多くみられる。 その中には、その時代においてどうしても必要であったから、神が書かせたのではないかと思われるような雰囲気が流れている。 これは、もともと奴隷制に反対する立場の新聞に連載されたもので、最初から現在のような形で書き始められたのでなく、彼女によると終わりの方の内容から浮かんできたという。 この小説を書くきっかけは、義妹によって、「奴隷制がいかにいまわしい制度であるかを、国中が感じるようなものを何か書いて欲しい」と、熱心に頼まれたことであった。大きな影響を持つようになった書物とか仕事は、しばしば自分からの発意でなく、他人からのうながしや暗示によると言われるが、この小説の場合もそうであった。それは、神が義妹を用いて、ストー夫人にこの小説を書くように導いたと言える。 この小説が出版されるとたちまち世界的に広がり、数多くの版が現れ、海外の訳も出た。出版されてから二十七年ほど経った一八七九年の時点で、イギリスの大英博物館には、アンクル・トムス・ケビンには、絵入り本なども含めて、四十三種類もの版が出版され、十九種類の翻訳が置かれてあったという。 以前に販売されていた、角川文庫とか新潮文庫本などの入手しやすい全訳本が現在ではなくなっていて、新訳もあるが、かなり高価な本(**)となっているので、一般的ではない。それでこの本の中から印象的な内容を短いコメントを付けて抜粋してみる。なお、英語の原書は現在でも数多くの版が出版されていて、インターネットで簡単に入手できる。日本語訳を持っている人は、比べながら重要箇所を参照することで、ストー夫人の直接の表現に触れることができる。(***) (*)ストー夫人 Harriet Elizabeth Beecher Stowe (1811―96) アメリカの女流小説家。牧師の家庭に生まれる。聖書に基づくキリスト者の立場から『アンクル・トムの小屋』(1852)を書き、奴隷制反対の感情を全米的に盛り上げ、南北戦争の気運を促進した。この小説は一八五二年刊。出版後一年で30万部以上を売り尽くし、十年たらずの間に三百万部が読まれるほどになって、世界的な名声を得た。ケンタッキーなどの農園を背景に、黒人奴隷トムがたどる悲惨な境涯が、トムの深いキリスト教信仰を軸にして語られている。一時はやさしい主人セント・クレアとその娘エバのもとで幸福に暮らすが、二人の死によりふたたび売られて悪魔のような奴隷商人レグリの手に落ち、鞭(むち)と責め苦で非業の死を遂げる。この小説に対してなされた、奴隷制を擁護する人たちの激しい攻撃に対し、作者は『アンクル・トムの小屋への手引』を著し、この物語の真実性を例証した。 (**)「新訳 アンクル・トムの小屋」明石書店刊 628ページ 六五〇〇円 (***)例えば、アメリカのSignet Classic シリーズの「Uncle Tom's Cabin」は1966年の初版以来、四十年近く経った現在も発行されていて、700円ほどで購入できる。 アメリカで、黒人奴隷を持っていた人が、会社の倒産によって奴隷を売らねばならなくなった。そのジョージという名の奴隷はやはり黒人奴隷のエリザと結婚していた。自分たちが売られていくことを知った、ジョージはひそかに命がけの脱走を計画する。 「何をなさるつもり?ジョージ、悪いことはなさらないでね。あなたが神様を信じ、正しいことをするように努めていれば、神様があなたを救って下さるわ。」 「俺は、おまえのようなクリスチャンじゃないんだよ。エリザ。俺の心は苦しみであふれている。俺は神様なんぞ信じることはできない。なぜ、神様は世の中をこんなふうにしているんだ」 「ジョージ、私たちは信仰を持たなければならないわ。私たちに悪いことが起こっても、神様はできるだけのことをしておられるのだと、信じなければならないって、奥様も言っておられたわ。」……… 「エリザ、俺のために祈っておくれ。おそらく、神様はお前の言うことは聞いてくださるだろう。」 「ジョージ、あなたも祈って。そして神様を信じていて下さい。そうすれば、悪いことはしたくならないはずよ。」 ○当時の黒人たちにはおよそ神などいないと思われるような理不尽なこと、暗黒の力に支配されているかのような悲惨なことがたくさんあった。しかし、不思議なことに、そうした苦しみと悲しみとそして重い労役のただなかにおいても、愛の神を信じる人がつぎつぎと生まれていった。 ここに現れるエリザという女も同様であった。どんなに苦しみが生じてもなおかつ神の愛と導きを信じ続けていくところに、悪に打ち倒されない力が生まれてくるのであった。 ○奴隷トムを所有していたのは、やさしい主人(シェルビー氏)であったが、商売の仕事がうまくいかなくなって、どうしても所有している奴隷を売らねばならなくなったのである。その時にその夫人がつぎのように述べている。 「こんなふうに、愛するエリザたちを売ってしまわねばならないとは、これは奴隷制度に対する神様ののろいだわ。むごい、あんまり、むごい、ひどいこと。…私たちの国の法律のもとに一人でも奴隷をおいておくことは、罪悪なのです。私はそれをいつも感じていました。子供のときからもそう感じていました。教会に行くようになってからは一層強く感じました。…奴隷制度が正しいものだと考えたことがないこと、奴隷を持つのは気がすすまなかったということはご存じのはずよ。…」(第五章より) ○この物語の主人公である、奴隷トムの特徴はつぎのように述べられている。 彼が特にすぐれていたのは、祈りであった。その祈りは、心を動かす率直さと幼な子のような熱心をもってなされ、聖書の言葉が豊かに息づいていた。 彼の生命の中には、聖書の言葉がすっかり消化され、彼自身の一部となり、ひとりでに彼の口から、無意識のうちにしずくのようになって出てきたのであって、そのような祈りはなにものも及ぶところではなかった。 彼の祈りは、聞く人の神へと向かう心に強く働きかけて、彼のまわりの至るところで、共感の祈りを呼び覚まし、トムの祈りの声がまったく消えてしまうほどであった。(第四章より) ○祈りは、人を現す。いつも実際に祈っている人と、ふだんあまり祈っていない人の祈りは自ずから違ってくる。隠れたものは現れるものであって、隠れた祈りを日々続けているときには、その祈りは人前で祈るときにもその霊的な雰囲気が自ずからにじみ出るものである。 祈りをたんに人間的な言葉をつらねて祈るのでなく、御心に従って祈るように聖書では記されている。 それゆえに、私たちの祈りのなかでもみ言葉に自然にうながされるように祈ること、み言葉をそのまま祈ることの重要性を知らされるのである。 主イエスも、すでに祈りを多くしていたはずの弟子たちに、どんな祈りが最も深く、またすべてを包むものであるかを「主の祈り」によって示している。 ○親しかった仲間の奴隷が売られることに対して、残された奴隷たちは怒った。そして奴隷を買うために来た商人が、その奴隷に逃げられていらいらしているのを見た。 「いい気味だ!」クローばあやは憤然として言った。あいつは心を改めないなら、いつかひどい目に会うだろう。神様があいつを呼びつけてお裁きになるよ。」 「あいつは、地獄に行くね、きっと」小さいジェークが言った。 「当たり前だよ。あいつはたくさんの、たくさんの、人の心を引き裂いた。…」クローばあやは厳しく言った。 「悪いことをしたやつらは永遠に焼かれるのだろう、きっと。」子供のアンディーが言った。 「それが見られたら嬉しいんだがなあ」と小さいジェークが言った。 その時、一つの声が響いた。 「子供たち!」みんなはぎくりとした。トムであった。彼はそこに来て戸口のところでそうした会話を聞いていたのであった。 「子供たち」と彼は言った。 「あんた方は自分が言っていることの意味がわからないのじゃないか心配だ。子供たち、恐ろしい言葉はいつまでも消えないものだよ。考えただけでも恐ろしいことを言っている。どんな人間に対してでも、幸いを願わなければらないよ。」 「あいつらのために祈ることなんかできるものか。あいつらはとても悪いんだから」 「草や木だってあいつらを非難するだろうよ。」とクローばあやが言った。… 「迫害するもののために祈れ、と聖書には書いてある」とトムは言った。 「あいつらのために祈れって?」クローばあやは言った。「ああ、それはあんまりひどいじゃないか。私にゃできない」 「そう思うのは当たり前だ。クロー、そしてそういう感情は強いもんだ。」トムは言った。 「しかし、神様の恵みはもっと強いんだ。それにあんなことをするような人間の哀れな魂はどんなに気の毒なものか、考えなくちゃならないよ。おまえは自分がそんな人間じゃないことを神様に感謝しなきゃならないよ。そういう気の毒な魂が、どんな目に会わされるかということを考えたら、私は本当に何万回でも売られたほうがましだ。」 ○このトムの言葉のように、キリスト教の迫害の時にはいつも敵対する者のためにどうするかが問われていった。そしてキリストの霊に導かれた少数の者たちは、最初の殉教者ステパノのように、いかなる迫害のときでも敵を憎むことなく、その敵のために祈り、幸いをすら祈ったのであった。そしてそうした祈りの心は、ただ生きたキリストだけが与えることのできるものであって、彼らの祈りの背後にあったキリストが、その福音を広げていくように導いたのである。 つぎにアメリカ上院議員のバード氏夫妻が現れ、夫人のメアリーが言う。 「この地方に逃げてくる哀れな黒人奴隷たちに飲食物を与えることを禁じる法律が通りそうだというのは本当でしょうか。そんな法律が討議されていると聞いたんですけれど、キリスト者の議員だったらそんな法律は通過させないと思いますわ。…そういう法律はあまりに残酷でキリスト教的じゃないと思いますわ。ねえ、あなた、そんな法律は通過しなかったのでしょうね。」 「ケンタッキー(アメリカ合衆国中央東部の州)から逃げてきた奴隷を助けることを禁じる法律は通過したのだよ。あの向こう見ずな奴隷廃止論者があまりやりすぎたものだから、ケンタッキー州の連中はひどく神経質になって、それをしずめるには何とかしなければならなくなったようなのだ。もうキリスト教的とか、親切とかいってはいられないのだ」 「それで、その法律ってどんな法律ですの? 逃げてきた哀れな奴隷の人たちに一夜の宿を与えることまで、禁じやしないでしょうね。温かい食物や、古い着る物を少しやったり、静かに仕事をやらせることまで禁じるというのじゃないでしょうね。」 「いや、そうなったんだよ。おまえ。…」 バード夫人は穏やかな青い眼と血色のよい顔色と、特別にやさしい声をもったはにかみやの小柄な女性であった。…しかし今、彼女は、顔を赤くしてすばやく立ち上がった。それはいつもの様子とは全く違っていた。そして断固とした態度で夫に歩み寄り、きっぱりと言った。 「ねえ、ジョーン。あなたがそういう法律はキリスト教的であると思っているのか知りたいの。」 「残念ながら、そう考えたのだ」 「ジョーン、あなたは恥ずべきですわ。かわいそうな、家庭も住むところもない人たち!恥ずべき汚らわしい法律ですわ。私は機会があり次第、そんな法律は一人で破ってしまいます。機会が与えられるとよいと思います。女として、そのような人たち、哀れな飢えている人たちに、かわいそうに一生の間、虐待され、圧迫されてきた奴隷であるという理由で、温かい服やベッドを与えてやることができないとしたら、世の中はどんなにか悪くなることでしょう。… ジョーン、私は政治については何もしりません。でも、私は、私の聖書を読みます。そうすると、飢えた人に食物を与え、着る物のない人には着せてやり、頼りのない人は慰めなければならないということがわかります。私はそういう聖書の教えに従いたいのです。」 「しかし、おまえが法律に反して奴隷にそんなことをしたら、大きな社会的な災いを引き起こすだろう。」 「神様に従うことは決して社会に災いを引き起こすものではありません。そんなことあり得ないということはわかっています。神様がお命じになることは、いつだって一番安全で間違いのないものなのです。」 … 「私、あなたがそういうことをなさるのを見たいわ、ジョーン。本当に。例えば、吹雪の中に、一人の黒人奴隷を追い出すようなことを。」 「残念だがそうする。非常につらい義務だろうが。」 「義務ですって。そんな言葉を使わないで。それは義務などでないことはわかっています。奴隷が逃げるのは、寒さや飢え、恐怖にあまりにも苦しめられ、しかも誰にも助けてもらえない時なんですよ。 法律があろうとなかろうと私はやります。そうすれば神様は私を助けて下さるでしょうよ。」 上院議員のジョーンとメアリ夫妻が、このような議論があった後で、逃げてきた黒人奴隷のエリザが子供とともに、寒さのために衰弱しきってジョーンの家にたどり着いた。追跡してくる奴隷商人たちの手から逃げるために、川を流れる氷の上を命がけで飛び歩いて逃げてきたのであった。 意識不明になっていたが、正気になったとき、バード夫人は言った。 「どこから来たの?」 「ケンタッキーからきました。」と女は答えた。 「いつ?」今度はバード氏が言った。 「今夜」 「どうやって来たのです?」 「氷の上を渡って」 「氷の上を渡って来たって!」 「そうです。神様がお助け下さったから私は氷の上を渡ってくることができました。私を追いかけてくる人たちがすぐ後ろに迫っていたからです。他に方法がなかったのです。やれるとは思いませんでした。ああしなければ、死ぬだけでした。 やってみなければ、神様がどんなに大きな力で助けて下さるか誰にもわからないのです。」 ○このエリザの言葉には、作者のストー夫人自身が、逃げてきた奴隷を助けることに関わったこと、そしてその際の困難や危険をも、神の助けを与えられて導かれたという経験が感じられる。実際、ここでエリザに言わせている言葉は、現在でも生じることなのである。 困難や苦しみのとき、どちらを選ぶかという難しい選択をせねばならない状況に置かれたととき、本気で神を信じて、決断したときにだれも予想しないことが生じた、例えば、助けとなる人が現れたり、必要な物や金が与えられたり、状況が変わって危険を逃れたり…ということである。 私自身もそのようなことをいくつか思い出す。こうしたことを経験すると、この不可解な、謎に満ちた世界、偶然と悪が満ちているだけの世界のようであっても、その背後に驚くべき真実な神の御手が働いていることを知らされるのである。 ○トムが奴隷として売られて行ったのは、セント・クレア家であった。その家では、愛する娘(エヴァ)が病気がちであった。彼女の病がだんだん重くなってきたある日のことがつぎのように記されている。死を前にして、恐怖とか不安でなく、逆に主の平安を与えられていた魂のすがたがつぎのように心に残る表現で記されている。 エヴァは心の中で天国が近づいたという静かな喜ばしい予感に確信を持っていた。 夕日のように静かな、しかも秋の明るい静けさのように美しい境地にあって、 彼女の小さな心は安らかであった。 it rested in the heart of Eva, a calm,sweet,prophetic certainty that heaven was near; calm as the light of sunset, sweet as the bright stillness of autumn, there her little heart reposed,…(アンクル・トムズ・ケビン第二十四章より) そしてさらに、このエヴァが自分の行くところは主イエスのもとであるということを言うが、それはつぎのように表現されている。 私たちの救い主キリストの家へ。 そこはそれは喜ばしく平和なところなのだわ。 そこでは、すべてがとても愛すべきところなの! To our Saviour's home; it's so sweet and peaceful there,… it is all so loving there! ○このような、深い信仰を持っていたエヴァは、この後まもなく、天のふるさとへと帰っていく。後に残されたのは、愛する娘を失って悲嘆にくれるその家の主人(セント・クレア)であった。しかし彼は娘が深い信仰を持っていたにもかかわらず、どうしても神を信じることができない。 「トム、私は信じない、信じられない。私はなんでも疑うくせがついてしまっているのだ。聖書を信じたい、しかしだめだ。」 「ご主人様、愛の深い主にお祈りなさいませ。 …主よ、信じます。私の不信を救って下さい …、と。」 「 ……私にとっては、エヴァも、天国も、キリストも、何もない。」 「ああ、旦那様、あります!私は知っているのです。本当です。」トムはひざまづいて言った。 「信じて下さい、旦那様、どうか信じて下さい!」 「どうしてキリストがいるっていうことがわかるんだ。トム? お前、見たことなんかないじゃないか。」「私の魂で感じるのです。旦那様、今だって感じています! ああ、旦那様、私は年取った女房や子供たちから引き離されて売られた時には、悲しみのあまりほんとにもう少しで死んでしまうところでした。何もかも奪われたように思ったからです。 そのとき、恵み深い主が私のそばに立って言われたのです。 …『恐れるな、トム!』 … 主は、哀れな者の魂に光と喜びを与えて下さいます。あらゆるものを平和にして下さいます。 … …私は哀れな人間ですから、自分からこんな考えがでてくるはずはないのです。主から出た考えなのです。」 トムは涙をぽろぽろ流しながら声を詰まらせて話した。 ……セント・クレアは頭をトムの肩にもたせかけ、その堅い、忠実な黒い手をしっかりと握った。「トム、お前は私を愛してくれるんだね」と彼は言った。「私はお前のように、心の善い正直な心をもった人間の愛などを受ける値打ちなどないのだよ。」 「旦那様、私よりもずっと旦那様を愛しているお方がいますよ。恵み深いイエス様は、旦那様を愛しておられます。」 「どうしてそれがわかるんだ、トム?」 「私の魂の中でそれを感じるのです。 …『キリストの愛は人知を超えるもの』なのです。」 (「アンクル・トムズ・ケビン」第二七章より) 奴隷トムの主人であった、セントクレアは「今も、キリストがいるということがどうしてわかるのか?見たことがないではないか。」とトムに問いかけた。これは現在もほとんど誰もが問いかけることであり、これと同様に語るキリスト者に対して不思議に思うことであろう。 キリストは確かにおられる、それはなぜか。トムは「魂で感じる」と言っている。これも現代のキリスト者も共感する言葉であるだろう。 信じるとは全くいるかどうかわからないのを、いるとすることである。しかし、キリスト者は単にどちらかわからないのを信じるのでなく、キリストがおられるのを、魂において実感するのであって、そこから本当の力も励ましも感じるようになる。 「アンクル・トムズ・ケビン」という書物は、小さい字で書かれた文庫本で上下2冊、七四〇ページにもなる分量であるが、あちこちにこのようなキリストの心と聖書の精神が見られる。 いかなる書物も、アメリカの歴史において「アンクル・トムズ・ケビン」ほどに直接的で、しかも力ある影響を及ぼしたものはない言われている。奴隷たちの受けた苦しみや弾圧を、生き生きと描いて、この本は特に北部アメリカの人々の奴隷制への反対の感情に火を付け、奴隷解放へと導く大きな力となったと言われる。 作者のストー夫人と同時代のトルストイやヒルティなどもこの作品を高く評価したのであった。 このストー夫人の名作は、ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範として、シラーの「群盗」、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ディッケンズの「二都物語」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章) また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。 あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … … わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 そのあとに、ゲーテ、シラー、カーライルなどの幾冊かの本がつづき、ずっとあとに、たとえばカントやスベンサーがやって来る。(「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」) 書店で販売されている、世に文学作品といわれるものの中で、小説、物語などのたぐいは無数にある。しかしそれらのうちのきわめて多くのものが、たんに罪を描くのが内容となっていると言えるだろう。すぐれた人間を描く伝記文学にしても、その人間の良い点ばかりを書いて英雄視したりして、現実の人間の罪をもったすがたを正しく描かれていないことが多い。人間を偶像化して描くことはそれ自体が罪なのであって、真理にかなった書物とは言い難い。 どうしてこのようになるのか、それは当然である。真の光、いのちの光というべきキリストを信じず、生きているキリストを実際に感じていないならば、光を指し示す内容を書くことはできないからである。 そのようななかで、このストー夫人の作品は、この世の闇のただなかにおける、神の愛が主題となっている貴重な作品である上に、当時の社会的な大問題に正面から取り組むという広い視野をも同時に持っている内容となった。 ヒルティがどんな作品を書いて欲しいかとの問に、この「アンクル・トムス・ケビン」を第一に上げているのも、この世で最も大切な神の愛についてこの小説が強い印象を与える内容となっているからであり、それはまさに永遠の神の言葉たる聖書そのものの主題にほかならない。 アンクル・トムス・ケビン(その二) 「アンクル・トムス・ケビン」の中から (その2) 前回にごく一部を紹介したが、何人かの方々から感想などを頂いた。そして私の周囲の人たちも子供向けのものしか読んでいないし、そのためにこの本は子供のための物語だというように思っていたというのが多かった。またずっと以前に読んだが、もう一度読んでみたいという方々もおられた。 それで、今回もこの本の内容の紹介を続けたい。 これは小説である。しかし、すぐれた文学作品は単なる作り話ではない。それは人間の深いところをじっさいに流れる共通の感情を明らかにし、私たちが気付かなかった清らかさや美しさ、あるいは神の愛などをあざやかに浮かび上がらせてくれる特質がある。本来なら眠ったまま、あるいは耕されずにいたであろう、私たちの魂のある部分が耕され、深められ、そして清められるのである。そして固まりかけていた心がよみがえるような思いを与えてくれるものである。 つぎにあげるのは、奴隷のトムが慣れ親しんだ主人のもとから、売られていくときの状況である。 トムの小屋の窓越しにその二月の朝は、灰色で、ぬか雨が降っていた。打ちしおれた人々の顔には、悲しみに閉ざされた心の影が映っていた。…クローばあやはもう一枚のシャツをテーブルの自分の前にひろげていた。彼女は、…ときどき顔に手をやって、頬に流れる涙を拭いた。 トムはそのそばに聖書を膝の上にひろげて、頬杖をついて、すわっていた。しかし何も口をきかなかった。まだ早かったから、トムの子供たちは小さな粗末なベッドで一緒に寝ていた。 優しい誠実な心を持ったトムは立ち上がって、静かに近寄って子供たちを見た。「これが見納めだ」と彼は言った。 クローばあやは声をあげて泣き出した。 「あきらめなきゃならないなんて、おお、神様、どうしてそんなことができるでしょう?あんたがこれから行くところについて何かわかっていたら。どんなふうに扱われるかわかってたら。奥様は一、二年のうちに買い戻せるようにやってみるとおっしゃる。だけど、ああ、河下へ行って帰って来たものなんかありゃしない。あんたは殺されちゃうだろう。栽培地じゃひどくこき使うって話を聞いたことがあるよ」 「クロー、どこにだって、ここと同じ神様がいらっしゃるよ」 「そうかね」とクローばあやは言った。 「いるとしておこうよ。しかし神様もときどき恐ろしいことをなさるものだ。私にゃ安心できないよ」 「わしは神様の御手の中にいるのだ」とトムは言った。 「何ものも神様がなさる以上のことはできないよ。それが、わしが神様に感謝するただ一つのことなんだよ。それに、売られてミシシッピ川の下流へ行くのはこのわしで、おまえや子供たちではない。おまえたちはここにいれば無事だ。何か起るとしてもわしにだけ起るんだ。 神様がわしをお助け下さるだろう。わしにはわかってる」。 ○「神はどこにでもおられる、そうしてどんなに悪がひどいことをしようとも、神はそれらすべての上におられて、最終的には救って下さる」、これが、家族と引き離され、激しい強制労働が待ち受けている南部へと売られていく絶望的な状況にある奴隷トムの唯一の希望であった。これは、使徒パウロが、つぎのように述べていることを思い出させるものがある。 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いだった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(Uコリント一・8〜10) そして、こうした困難にあっても、「神は必ず助けて下さるということを知っている」と確信している。この確信もパウロの持っていたものであった。それは本当に助けてくださるかどうかわからないが一応信じるというようなものでない。「知っている」のである。信仰は単なる根拠のない希望でなく、一種の知識となる。よく知られた著作家のつぎの文もそのことを述べている。 だれでも信仰の一時的な動揺を完全に免れるわけにはいかない。さもなければ、「信ずる」とはいえないであろう。しかし、信仰上の経験を重ねるうちに、信仰がしだいに一種の「知識」となる。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために・上 四月四日の項より) 自分自身の悲しみに耐えて、自分が愛している者を慰めようとする健気(けなげ)な男らしい心! トムは、こみ上げてくるものをこらえていた。しかし彼は勇気を出して強く語った。 「神様のお恵みのことを考えようよ!」トムは…体を震わせて、そうつけ加えた。 「お恵みだって!」とクローばあやは言った。 「そんなもの私にゃ見えないよ。これは間違ってる!こんなことになるなんて間違っているよ!だんな様は借金のためにあんたを売っちまうようなことをしてはならなかったんだ。だんな様はあんたのおかげで二回以上も助かったんだ。あんたを自由にしなければならないのだ。何年も前にそうすべきだった。今だんな様は困っていなさるのは確かだ。でもそれは違うと思うよ。なんと言われても私の考えを変えることはできないよ。あんたは忠実だった。あんたは自分のことをする前にだんな様のことをして、自分の女房や子供のことよりも、だんな様のことの方を考えた。 それなのにあの人たちは自分の苦しみから逃れるために、心にある愛や心の血を売り飛ばすあの人たちはいまに神様のお裁きを受けるんだ!」 「クロー、もしおまえがわしを愛していてくれるなら、おそらくわしたちが一緒に過す最後の時に、そんなふうに言わないものだ。なあ、クロー、だんな様の悪口は一言だって聞くのはわしは辛いよ。… 天におられる主を仰がなければいけない。主はすべての上におられるんだ。雀一羽も御心なくば、落ちないんだ。」 ○神からの恵みのことを考える、そのことは、キリスト者に与えられた特権でもある。聖歌のなかにも、つぎのような歌詞のものがある。 望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん 数えよ主の恵み 数えよ主の恵み 数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(聖歌六〇四番、新聖歌一七二番) 苦難のときには災いや苦しみのみが心に浮かんでくる。それらをつぎつぎと数えてしまう。そのような時にこそ、過去に受けた主からの恵みに思いを注ぎ、そこからいまの苦しみや困難からもきっと助け出して下さると信じる心を強められる。 パウロのつぎのような言葉もこうした状況を知った上で言われた言葉だと考えられる。 そして、いつも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙五・20 ) いつも神に感謝せよ、と言われてもいま困難と苦しみのただなかにあるときにはどうして感謝できようか。それができるのは、ここで言われているようにかつての神からの恵みを冷静に思い起こすことによってのみ可能なのである。 奴隷をどうしても売らざるを得なかったシェルビー氏の夫人はそのような悲しむべきことになってしまうのを、どうすることもできなかった。彼女ができることはただ、心からの愛と祈りの心をもって、奴隷たちの前に出ること、そうして将来、買い戻すと約束することであった。つぎはそうした場面である。 その時男の子の一人が「奥様がいらっしゃるよ」と叫んだ。「奥様だって何もできやしない。何しにいらっしゃるんだか」とクローばあやは言った。シェルビー夫人がはいって来た。クローばあやは明らかに不機嫌な様子で椅子を勧めた。夫人はそういうことは気づかないようだった。彼女は青ざめて、憂わしげだった。 「トム」と彼女は言った。「私…」 そして急に口をつぐみ、黙りこくっている一家の者を見て、椅子に腰を下ろし、ハンカチーフを顔に当てて、涙を流し始めた。 「まあ、奥様、もう何も、何も」 今度はクローの泣く番だった。しばらくの間彼らは皆一緒に泣いていた。 そして身分の高い者も低い者も、みんな一緒になって流すこうした涙のなかに、虐げられた者の悲しみと怒りはすべて溶け去っていったのであった。 ああ、苦しみにあえぐ人たちを訪ねたことがある人たちよ、あなたは冷たい心で与えた、金で買うことができるどんなものも、真実な同情の心から流した一滴の涙ほどの価値もないことを知っているだろうか。 「トム!」とシェルビー夫人は言った。「私はおまえの役に立つようなものを何も上げることができない。お金を上げたら、取られてしまうだろう。 でも、本当に心から、神様の前で、私はおまえのことは忘れない、お金が自由にできるようになったら、お前の行き先をつきとめて、必ず、すぐにおまえを連れ戻しますからね。その時まで、どうか神様を信じていておくれ!」 ○売られていくトムはただ、神にのみ望みを託していた。そして今後の過酷な生活をもそれによって耐えていくことができると信じていた。神は信仰を持つからといって困難や苦しみに会わせないという保証はない。しかしそうしたあらゆる困難からも、必ず共にいて助け出してくださるということを確信していたのであった。 そして、自らの力ではどうすることもできない夫の事業の状況のゆえに、夫の手によって所有している奴隷が売られていくことに耐え難い思いをもっていたシェルビー夫人もまた、神に望みを託していた。この物語に現れるキリスト者たちは、奴隷を所有していた立場にいた者も、売られていく奴隷も、そして逃亡奴隷を危険を犯してかくまって、逃がしてやる人たちも、真剣なキリストへの心、信仰を持っていて、その信仰が生きて働いているのが感じられる。 トムの売られていく状況と並行して描かれているのは、やはり売られることに決まった若い女奴隷と子供のことである。この女奴隷はエリザという。彼女がシェルビー氏の家から売られる寸前に命がけで逃げ出して氷の流れる危険な川を渡り、迫り来る追っ手から逃れて、倒れたところを救い出されたことは前回に少し記した。つぎはその助けられた家での出来事である。 エリザは自分を介抱してくれる、その家の夫人をじっと見つめた。 「奥様」と彼女は突然言った。「奥様はお子さまを亡くしたことがおありでしょうか?」 この問は思いがけなかったし、まだ生々しい彼女の心の傷に深く触れた。それはこの家の一人の愛らしいヘンリーという子供が葬られてから、やっと一ヶ月がたったきりであったからである。 「では、私の気持ちをおわかり下さるでしょう。私は二人の子供をつぎつぎに亡くしました。この子だけが残りました。しかし、この子が売られようとしたのです。もしそんなことになれば私は生きていけないと思いました。それでこの子を連れて夜逃げたのです。追いかけてきた人たちにもう少しで捕まるところでした。私は冷たい水を流れる氷の上を跳んで川をかろうじて渡ったのです。最初に気がついたときに一人の人が私を助けて岸にひきあげてくれたことです。」… エリザを助けた人の家は、上院議員のバード氏の家であった。彼は逃亡奴隷をきびしく扱うようにという法案を通過させるのに力を入れた人物であるが、その夫人のメアリは奴隷の苦しみに深く感じる人であった。そうしたところにエリザが運ばれてきたのであった。 そしてエリザの苦しみと非常な命がけの逃亡の旅を聞いて、バード氏も心を動かされた。そしてエリザを自分の地位が危なくなるようなことをしてでも、逃がしてやろうとするのであった。 そしてこの死ぬかも知れないと覚悟しつつ、幼い子供とともに逃げていこうとするエリザへの思いやりが生まれてきた。 彼は扉の所で、ちょっと立ち止って、少しためらいながら言った。「メアリ、おまえがどう思うか知らないが、あのタンスには、亡くなったヘンリーのものが、いっぱいはいっていたはずだね」そして彼はそれだけ言うと、扉をしめて出て行った。 妻は彼女の部屋に続いた小さな寝室をあけて、ローソクを手に取り、タンスの上に置いた。それから鍵を取出してそっとタンスの鍵穴にあてて、突然手を止めた。…バード夫人はそうっとタンスをあけた。 そこにはいろいろな形の小さな服やエプロンや、靴下などがはいっていた。爪先がすり切れた一足の小さな靴さえ中からのぞいていた。おもちゃの馬やこまやまりもあった。 それはバード夫人が、愛児が亡くなったとき、涙をながしながら張り裂けるばかりの心で集めた形見の品であった。彼女はタンスのそばに腰を下ろし、頭を抱え、涙が指を伝ってタンスに流れるまで泣いた。 そして突然頭を上げると、急いでなるべくきれいで役に立ちそうな品を選んで、それを集めてひとまとめにした。 「お母さん」とそれを見ていた、彼女の子供が、やさしく彼女の腕に手を触れて言った。 「誰かにおやりになるの?」 「可愛い子供たち」彼女は優しくしかも真剣に言った。 「もしあの可愛いヘンリーが天国から見ているとしたら、私たちがこんなことをするのを喜んでくれますよ。普通の人にこれをあげようとは思いません。でもね、母さんは、私よりももっと苦しみ悲しんでいる一人のお母さんにあげるのですよ。神様がこの品物と一緒にお恵みを下さるように」 自分の悲しみをすべて他の人の喜びへと実らせていく清らかな魂がこの世にあるものである。そういう魂をもっている人のこの世の望み(子供)は、多くの涙とともに土に埋められても、それは種のようにやがて花を咲かせ、芳香を放って、よるべなき人々や悩める人々の心の傷をいやしてくれるものなのである。 今、明かりのそばにすわって、そっと涙を流しながら、頼るもののない放浪者(逃げている奴隷のエリザ)に与えるために自分の亡き子供の形見を揃えている、思いやり深い婦人はそうした人間の一人なのである。 …バード夫人は大急ぎで小さいきれいなトランクにいろいろなものを入れて、それを馬車に乗せるようにと夫に言ってから、エリザを呼びに行った。彼女は子供を抱いて現れた。急いで馬車に乗せると、エリザは馬車から手を差し出した。それにこたえて出されたバード夫人の手と同じように柔らかく、美しい手であった。 エリザは大きな黒い瞳に、はかりしれない真剣な意味をこめてバード夫人を見つめて、なにか言おうとした。彼女の唇が動いた、一、二度言おうと繰り返した、が、声にはならなかった。― そして決して忘れることのできない表情で天を指さして、崩れるように座席に腰をおろして顔を覆った。戸が閉められ、馬車は動き出した。 She fixed her large, dark eyes, full of eanest meaning, on 'Mrs. Bird's face, and seemed going to speak. Her lips moved,--she tried once or twice but there was no sound,--and pointing upward with a look never to be forgotten, she fell back in the seat, and covered her face. The door was shut, and the carriage drove on. ○エリザはバード夫妻からの特別な愛情を受け、逃げていくことができた。このような追いつめられた弱い女奴隷の心には万感胸に迫るものがあっただろう。そして彼女ができたことはただ、無量の思いをこめて恩人を見つめ、天にいます主を指し示して、神からの祝福を祈って別れることなのであった。 南北戦争という悲惨な戦争も引き起こすことになった奴隷差別問題、そのあとで、奴隷解放令が出されたが、このような歴史的な状況から生み出された小説はおそらく二度と書かれることはないであろう。それゆえに、少しでもこうした小説の内容に触れていただきたいと思った 前回述べたように、トルストイが特別にこの本を高く評価し、またスイスのキリスト教著作家のヒルティが、最も書いてもらいたかった書物としてあげているのは、この本の内容にある。この世の悪や罪などを描くことだけにおわっている通常の小説などと根本的に違うのは、この本が、そうした現実の悪のただなかにおけるキリストの愛と光が示されている点である。 |