リストボタン(367)神へのおそれ

  ある人が、極度に恐れないといって、そのため神々をも恐れない、と言うならば、彼は、勇敢なのではなく、狂気なのである。(「大道徳学」アリストテレス全集第14巻19頁岩波書店) 

 アリストテレスやプラトンなど、世界の哲学、思想の歴史に多大の影響を与えた人たちであっても、唯一の神が存在するということは啓示されていなかった。しかし、それでも、このように、この世界や人間の背後に目には見えないある存在がいること、そして大いなる力をもって人間に影響を及ぼしていることははっきり認識していた。

 そして、人間と動物の根本的相違とは、そうした目には見えない偉大な存在を直感する能力があるかどうかということであり、それゆえに、そうした見えざる存在より自分が大きいのだ、などと言う人は、気が狂っているとまで言っている。そのような者は、人間としての正しい精神の働きが失われた者だと言っているのである。

 かつてビスマルクは、神以外の何者をも恐れないと演説した。それを聞いたある日本人が、我々は、神をも恐れないぞ、と得意げに言った。それを聞いた新渡戸稲造は、その精神の貧困に驚き悲しんだことを記していたのを思いだした。

 今日の日本の最大の問題は、真に畏れるべきものを恐れず、恐れるべきでないものや国々を恐れて、まちがった方向へ行こうとしていることである。

 巨大津波による災害、そしてさらに、4基もの原発の大事故という世界の歴史はじまって以来の大きな出来事、それゆえにそこから生じた苦難は3年経っても消えることなく、今後もその廃棄物などの放射能の悪影響まで考えると、原発事故にかかわる問題は、10万年という果てしない歳月を越えていつまで続くか分からない状況である。

 それほどのことが生じてもなお、この世界の背後の存在を畏れず、欲望を第一としようとするこんな状況が続くのであれば、その姿勢そのものがさらに厳しく罰せられるときが来るのではないか。

 私たちは、神を畏れねばならないのである。


リストボタン229)英知への愛(哲学)は、それを実行する際に、他のすべてのものにはるかにまさっている。というのは、英知を愛するということを実行するためには、どのような道具も、また、どのような特定の場所も必要とせず、世界のどの場所であれ、人が自分の思考を働かせさえすれば、その人は、いわばいずこにでも、同じように存在している真理に触れることができるからである。
このようにして、英知への愛(哲学)は可能であるということ、それがいろいろな善きものの中で最大のものであり、それを獲得するのは容易であるということが証明された。
そしてそれゆえに、あらゆる点から見て、英知への愛(哲学)のためには、熱心な努力を傾けるに価するものである。(「哲学の勧め」アリストテレス全集 第十七巻 五五三頁 岩波書店刊)

・哲学というと、難しいもの、ごく一部の人のもの、と思われがちであるが、これは本来は、「学」ではなく、原語のフィロソフィア( philosophia )という言葉は、「英知(ソフィア)を愛する(philew)」という意味なのである。
そして、ここで言う英知とは真理にかかわる判断能力であるから、フィロソフィアとは、「真理愛」というような意味を持っている。
それゆえ、アリストテレスが、哲学について言っていること、真理を愛することは、どこであってもできること、道具も要らない、場所も選ばない、自分で考えること、そして直感的判断を鋭くさせることだけでできることだから、この世で最もよきことだと述べている。
これは、キリスト教で言えば、神を愛することは、いつ、どこででもできるし、何の道具も要らない、資格も不要、そして祈りの心をもってすれば、いつどこででも存在する神の愛に触れることができる、と言い換えることができる。そして神への愛は、いろいろな善きもののなかで、最大のものであって、そのような点を考えると、さらにそれを身につけるのは、容易なことである、ということになる。