あやまちを犯さぬように守ってやるのが、人間の教育者の本務ではなくて、あやまてる者を導いてやるのが、いや、そのあやまちをなみなみとついだ杯から飲みほさせるのが、師たる者の英知です。
(ゲーテ著「ウィルヘルム・マイステルの修業時代 第七巻九章 筑摩書房 世界文学体系」二〇・二六七頁)


リストボタン215)(神の)摂理は倒れた者を起こし、くずおれた者を立ち上がらせるために、千もの手段を持っている。ともすれば我々の運命は冬の果樹のようにも見える。その憐れな様子を見るとき、このこわばった大きい枝やぎざぎざした小枝が次の春にはふたたび芽を出し、花咲き、それから実をつけることができようと、だれに考えられるだろう。しかし、我々はそれを期待している。我々はそれを知っているのである。(「ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代」第一巻12章より ゲーテ著 筑摩書房 世界文学体系 411頁)

・これは第一巻の最後の言葉であり、著者がこの言葉に特別な重要性を与えているのがうかがえる。人間は突然、事故や災害、病気に会い、または人間関係が壊れたりして、もう将来は絶望的だ、幸いは永久に去ってしまったと思われるような事態に直面することがある。
しかし、冬の枯れたように見える樹木はまた芽を出し、花咲き、実をつけることができる。
人間の世界も同様で、いかに人間の考えでは苦しく悲惨なように見えても、万能の神は我々の到底想像もつかないような手段を持っておられ、私たちを導かれる。 それを、あるかどうか分からないが単に信じるというのでなく、「知っている」という。知っているからこそ、確固とした希望がある。そのような希望こそ、聖書に言われている、いつまでも続く希望、決して壊れることのない希望なのである。


リストボタン(342)独創性
…独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう! われわれが、生まれ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。
いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲のほかにあるだろうか! 私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙(こうむ)っているものの名をひとつひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい。(「エッカーマンとの対話」岩波文庫より。ゲーテの言葉(*))

(*)ゲーテ(1749~1832年)は、ドイツの代表的詩人、作家として有名であるが、自然科学の研究も手がけ、政治家、法律家でもあった。

・ゲーテは天才として知られているが、その彼であっても、その思想やさまざまの作品の内容は、先人の大きな恩恵によっているのだという。より聖書的に言えば、私たちが何かよき働きや考えを持ったり、それを著した本や研究をだしたとしても、それは彼自身が生み出したものでなく、過去の無数の人たちの持っていたものを取り入れたゆえなのである。
さらにそのことをさかのぼると、そうしたよきものを与えたのは人間でなく、神であり、キリストであるというところに達する。歴史上のあらゆるよき大きな働きはみなその源をたどるとキリストに、神に到達する。私たちの独創性を生み出す源は神であり、主イエスが聖霊がすべてを教えるといった言葉が思いだされてくる。
他人の物真似でなく、真にその人独自の歩みをしようと欲するならば、神とキリストに結びつくことが不可欠となる。
神と結びついた自然の姿―野草や樹木、花々の姿、色彩、そして山河や空のさまざまの姿―それはいかに独創的であることだろう!



リストボタン(343)より高き力
私はより高い力が私を守ってくださらなければ、どの人間の胸にもいかに恐るべき考えが生まれ育つかもしれないということをはっきりと知っています。
(「美しき魂の告白」の最後の部分―「ウィルヘルムマイスターの修業時代 第6巻」筑摩書房版 世界文学体系「ゲーテ」 223頁)

Ich so deutlich erkannt habe,welche Ungeheuer in jedem menschlichen Busen,wenn eine höhere Kraft uns nicht bewahrt,sich erzeugen und nähren können.

・この文を含む「ウィルヘルムマイスターの修業時代・遍歴時代」という作品は、日本語訳では、三段組みの小さな文字で大型本 六百頁に及ぶ大作であり、そのなかにさまざまの英知に富む言葉が含まれている。
ここにあげた人間の本質的な弱さを知っているゆえに、「自分の力、能力などを誇るという気持には決してならない」―と述べている。これは、人間の罪そのものを深く知った人の言葉である。
私たちもみな、「より高き力」を待ち望む。それがなければ人間は救われない存在であるから。 使徒パウロが、「あなた方は、以前は自分の罪のために死んでいたのだ」(エペソ書2の1)と述べているのもこうした人間の本質を知っていたからである。


リストボタン(215)(神の)摂理は倒れた者を起こし、くずおれた者を立ち上がらせるために、千もの手段を持っている。ともすれば我々の運命は冬の果樹のようにも見える。その憐れな様子を見るとき、このこわばった大きい枝やぎざぎざした小枝が次の春にはふたたび芽を出し、花咲き、それから実をつけることができようと、だれに考えられるだろう。しかし、我々はそれを期待している。我々はそれを知っているのである。(「ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代」第一巻12章より ゲーテ著 筑摩書房 世界文学体系 411頁)


・これは第一巻の最後の言葉であり、著者がこの言葉に特別な重要性を与えているのがうかがえる。人間は突然、事故や災害、病気に会い、または人間関係が壊れたりして、もう将来は絶望的だ、幸いは永久に去ってしまったと思われるような事態に直面することがある。
しかし、冬の枯れたように見える樹木はまた芽を出し、花咲き、実をつけることができる。
人間の世界も同様で、いかに人間の考えでは苦しく悲惨なように見えても、万能の神は我々の到底想像もつかないような手段を持っておられ、私たちを導かれる。 それを、あるかどうか分からないが単に信じるというのでなく、「知っている」という。知っているからこそ、確固とした希望がある。そのような希望こそ、聖書に言われている、いつまでも続く希望、決して壊れることのない希望なのである。


リストボタン(252)涙をもって食物をとったことのない者、
苦しみ多い夜を
ベッドにて涙を流しつつ過ごしたことのない者、
そのような人は、天の力を知らない。
(「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」ゲーテ著(*) 第二巻13章より。筑摩書房刊 世界文学体系 72頁)


Wer nie sein Brot mit Tranen as,
Wer nie die kummervollen Nachte
Auf seinem Bette weinend sas,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Machte.


(*)ゲーテ(一七四九年~一八三二年)はドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家。このような多方面に多くの業績を残した。ゲーテは特に語学に長けており少年時代には、すでに英仏伊の国語を習得し、さらに、古典や聖書の研究に不可欠なラテン語・ギリシア語・ヘブライ語をも習得していた。詩作も幼少時からで、最初のものは彼が八歳ものだという。


リストボタン(253)もし、ある人が「偶然」を、何等の原因とも結びつかない、でたらめな運動から生じた出来事、と定義するなら、私はこのような偶然は決して存在しないことを確言する。
すべてを秩序の中に保っている神のもとにあって、でたらめが存在するどんな余地があり得ようか。
(「哲学の慰め」ボエティウス著 第五部の一、 一九五〇年版、二〇三頁)ボエティウスは、四八〇年~五二四年頃の人で、古代ローマの哲学者、政治家。右の書は、獄中にあったときに書いたもの。キリスト教の三位一体論やキリスト論についての神学的著作もある。
・万物を御支配なさっている神を信じるとき、偶然というのはなくなる。偶然というのは、どうしてそうなったのかその理由が分からないことである。
しかし、万能であり、すべてを愛によって導かれる神を信じるときには、偶然ということは、あり得ないものになる。