リストボタン247)聖句を暗唱することは、力を得ることである。詩編七三編の聖句を暗唱していると、急に力が心からわき上がって、私は力強く空を見上げた。…
…私はもうすっかり疲れ切り、空気のもれた風船玉のようになった。それで、心に力をつけようと思い、聖句を暗唱した。聖句はいつでもすばらしい霊の食物であった。
(「たとえそうでなくとも」安利淑著 102475頁)


・安利淑という女性は、韓国生れ。日本の統治中の韓国では、神社参拝が学校でも強制的に行なわれた。キリスト者であった安女史は学校の教師であったが、生徒や教職員全体の学校行事としての神社参拝のときに、天皇や天照大神に向かっての最敬礼をしなかったがゆえに、教師を続けることもできなくなり、いろいろな迫害を受けた。その時の詳しい記録が、「たとえそうでなくても」である。
その書物には困難な生活の中で、聖句や讃美の歌詞が力づけてくれたことを随所に記している。聖書の言葉はとくに主のために困難な歩みを始めた者にとって一層の力を与えてくれるのがよくわかる。