(246)いまだ道を知らざれば、夢見て覚めざるがごとし。
心を正しくする道は、まづ善を好み、悪を嫌ふこと、真実なるを本(もと)とすべし。(貝原益軒著「大和俗訓(やまとぞっくん)」岩波文庫 81P 、86P)
・これは、儒学者の言葉であるが、キリスト者にとっては、道とはキリストである。何が正しい考え方なのか、何が価値あるものなのか、その道の行き着く先は何であるのか、その道を歩むときに何が与えられるのか等々、すべてキリストが示し、与えて下さる。それを知らなかったときには、私自身、どんなに高校や大学で学んでも、魂に力を与えてくれないものであった。その時の状態はまさに夢の世界に生きているような空しさがあった。
心を正しくする道とは、まず善を好み…とある。 まず何かをする、ということでなく、まず善を好む、すなわち、善を愛するということ、それによっておのずから悪を(悪人でなく)憎むことになり、真実をもとにすることになる。主イエスが、まず神を愛せよ、と言われたことに通じるものがある。
ここに引用した大和俗訓は、「誰にでも分かるようにやさしく説いた教え」、という意味で「俗訓」という題名となっている。一七〇八年刊行。貝原は、江戸前期の学者。(1630~1714) 彼は、ここにあるような人間のあり方に関する著書だけでなく、植物、薬草などに関する学者でもあって、「大和本草(ほんぞう)」という著書では、一三六二種の植物を主とする薬物を記載した。
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