(166)楽(音楽)は、万物に通じる。…楽をさかんにするのは、人間の風や俗(態度や習わし)を変えるためであって、楽器の音を極めるためではない。
…楽は上下を一つにさせる。
…天地の気は流れてやまず、楽は万物を和同させる。
…仁は楽に近く、義は礼に近い…(司馬遷「史記」楽書第二より。世界文学体系 筑摩書房刊130~131頁)
○今から二千年あまり昔の中国の歴史家であった、司馬遷は音楽の深い意味についても語っている。楽とは単に一時の楽しみでなく、宇宙に流れているある霊的な本質を持っていることを言おうとしている。旧約聖書の詩編には、つぎのような詩があるが、それと共通したところがある。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編十九編より)
旧約聖書のこの詩を書いた著者は、いわば、霊の耳、魂の耳で聞き取る響き(音楽)がこの世界に流れているのを感じ取っていたのがうかがえる。
司馬遷も、楽は万物につうじるといって、霊的なものであると言う。
それゆえ、どのような音楽であるかによってそれがよいものであれば、人間を変える力を持っている。それは霊的なものであるから、さまざまの表面的な差別をおのずから感じなくさせる力をも持っている。それがここでいう、万物を和同させるということである。
「仁は楽に近し」、仁とは、現代の我々の言葉ではキリスト教でいう「愛」に近い意味を持っているが、それがどうして「楽」に近いのか、それは、音楽は霊的なものであり、万物を流れ、一つにするはたらきを持っているからである。怒りや憎しみは分裂させ、滅ぼそうと働くが、愛は敵対するものもその荒れた心をも一つにしようとする働きを持っており、こうした面で共通していると言える。
キリスト教では、音楽は不可欠なものとなっている。世界中でおびただしい音楽がキリスト教礼拝や信仰の助けのために生み出されてきた。今も世界の至るところで神をたたえ、祈りを運ぶ音楽が響いている。私たちの心を神へと運び、神の国の賜物を私たちの心に注ぎ入れる働きをしつつある。そして本当に音楽がその適切な働きをするときは、単にその人の一時の気分転換となるのでなく、司馬遷が言っているように、その人の精神を清め、その行動のあり方をも変えていく力を持っていると言えよう。
(167)もし、我々が人間の手中のなかにおちいり、人間の暴力によって苦難と死がふりかかってこようとも、「すべては神から来る」と我々は確信している。
神の意志と判断なしには、一羽のすずめでさえも地に落ちることはないからである。
この神こそは、この神に属する人々のために、また彼らが立ち向かおうとしている事柄のために、「最良のこと」あるいは、「役に立つこと」以外のことをすることはない。
我々はこの神の御手のなかにいる。だからこそ、「恐れてはならない」のである。
(ボンヘッファー (*)一日一章221頁 新教出版社刊)
どのような悪や困難が私たちにふりかかってきても、それらはすべて神の支配のなかにある。いかに私たちとしては理解できないようなことであっても、だからこそ、すべては神の御手のうちにあると信じる信仰が必要とされている。最終的には神がそうした悪そのものを滅ぼされるのだ、と信じてさまざまの出来事を見ることの必要性をこの言葉は語りかけている。
(*)ドイツのプロテスタントの牧師、神学者。精神病理学教授の子として生まれる。チュービンゲン、ベルリン両大学で学び、ニューヨークのユニオン神学校に留学、帰国後、ベルリン大学私講師、学生牧師、世界教会協議会役員などを歴任した。第二次世界大戦中はヒトラーのナチスに対する抵抗運動に加わった。一九四三年四月に逮捕され、二年程の投獄生活ののち、終戦直前の一九四五年四月九日に処刑された。獄中で多くの書簡や遺稿を残した
。(「日本大百科全書」による)