(130)そこでは、私たちは安らぎ、見るであろう。私たちは見て、そして愛するであろう。私たちは愛し、そして讃美することになろう。これが、終わることのない終わりに私たちの目にすることである。(「神の国」第二七巻30章 アウグスチヌス著)
There we shall rest and see, we shall see and love, we shall love and we
shall praise. …(EVERYMAN'S LIBRARY 「THE CITY OF GOD」の英訳文)
・これはアウグスチヌス(*)の大作、「神の国」の最後の部分の一節である。私たちに与えられる最終的な恵みと祝福はこのように、主の平安のうちに憩い、主のみ顔をくもりなく見ることが与えられる。それは何らの妨げなく主との交わりに置かれるということであり、さらに神へのまったき愛のうちに生きることになり、神をかぎりなく讃美するような状態であろう。それは終わることのない終わり、つまりそのような状態は世の終わりに訪れるが、この終わりの祝福された状態はもはや終わることがなく、永遠に続くという意味である。これらのことは、聖書に記されてている。その一つをあげておく。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Iコリント一三・12 )
(*)古代の指導的なキリスト教著作家(教父)として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人。その理論は中世思想界に決定的な影響を与えた。著書「神の国」「告白録」「三位一体論」など。(AD三五四~四三〇)
(183)(悲しみからの脱却)
まことに人間の魂は、神に向かわないかぎり、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけだ。(「告白」四・10 アウグスチヌス著 (*))
○これはあまりにも悲観的な見方だというかもしれない。この世にはいくらでもよいもの、美しいものはあるではないか…と。たしかによい人もいれば、美しい自然もあります。しかし、よい人と見える人にも意外な弱点があり、思いがけない病気で弱々しくなってしまい、あるいは、老年となりやがては死にいたる。
そうした将来をも見つめるとき、悲しみが自然に生じる。美しい自然も、それらはいとも簡単に破壊されていくし、またそれを味わう自分もいつかは病気になり、それらをじっさいに味わうほどの健康も失われていく…そこに悲しさがある。それゆえ、ものごとをつきつめて考えるとき、神に向かわない限り、他のどこに向いても悲しみから離れることはできない。それゆえにこそ、私たちは神に向かおうとする心が生じる。
(*)アウグスチヌス(AD354~430)は、キリスト教会の初期(二~八世紀)を代表する著作家として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人。「告白」は、三四歳までの生きてきた自分を告白し、自らの回心を神に感謝する内容で、五世紀の作。
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