(379)沈黙


 一人になり、沈黙と静かな落ち着きのうちに過ごすことを勧めます。


 私たちの中であふれ続けるいのちの水によって新たにされるために。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著。14頁)


・主イエスは、しばしば夜通し祈られた。いのちの水で満たされつつ、無数の苦しめる人たちに分かつため。


 私たちもそのように導かれたいと思う。



 リストボタン(380)主が語ること


 私たちが何を語るかは問題でなく、神が私たちを通して何を人々の魂に語りかけるかが大切なのです。 


What we say does not matter,onlywhqt God says to souls thpough us.


(「Mother Teresa in my own words37頁)


・自然の星や雲や野草たち―それらを通して、神が語りかけてくるように、私たちの移ろいやすく、また一時の感情や他人の言葉の反復でしかない言葉でなく、私たちを通して、永遠の真理たる神が語られる―それが私たちが語ることの究極的な目標になる。



リストボタン(191)病気や高齢の人のなかには、「私は人の役に立つようなことは何もしていない」と言って心を痛める人がいる。しかし、彼らは忘れてしまったのであろうか、その祈りはいつも神に迎え入れられているということ、その祈りは彼らの思いをはるかに超えて何らかの事を満たしているということを。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著 149P)


○私自身、このような嘆きの言葉をよく耳にしてきた。しかし、弱き者を慈しまれる神、キリストに従う者だからといって差し出す水一杯にも豊かな祝福を約束された主は、病の人、老齢の人の小さき祈りをも決して無にされることなく、それを必ず何らかのことを満たすために用いられる。それはだれかの心の平安を満たすことであったり、社会のどこかにいのちの水を、平和をもたらすことであったり、病の人の苦しみを軽くすること、家族のなかに恐れを神への信頼に変えることであったりするであろう。
(192)あなたが神の導きに身を委ねるならば、いろいろと「計画」を立てることを差し控えなさい。あなたを前進させるすべてのものが、はっきりとした必要が生じたり、適切な機会が与えられたりして次々にしかも正しい順序で、あなたを訪れてくる。(「眠れぬ夜のために上 五月五日の項より」)


○これは生きた神の働きを実感した人の言葉である。私自身、必要なときに思いがけない人から必要なものが与えられたこと、重要な岐路にあるとき、予想もしなかった人が現れて助けてくれたこと、また予期していない助けが与えられたことも、みな自分の計画や予想してなかったことであった。偶然ばかりがあるようなこの世界において、私たちが委ねていく心があるとき、神はそれに応えて不思議を現して下さる。


リストボタン(194)…私は今度のマラッカ(*)への旅に、神が絶大な恵みを与えて下さることを希望している。どうしてかというと、私をあの国々に送るのは、神ご自身であることが私には示されたが、そのとき、私に深い平安とあふれるばかりの慰めを与えて下さったからである。
私は神が私の魂に示して下さったことを、必ず実行しようと固く決心している。…
万一今年中に船がマラッカに行かないようならば、敵対するような者の船に乗ってでも、あるいは不信の者の船に乗ってでも出発する。またもしここから今年中に出発する船が一つもなく、ただ漁師の小さい舟しかないとしても、神の愛のためにのみマラッカに行く私は、その小舟に乗ってでも行こうと考えている。
それほど私は神に絶大な信頼を置いている。なぜなら、私の希望はことごとく神にあるからである。(「フランシスコ・ザビエル書簡抄 」上巻210P 岩波文庫 」)


(*)マラッカとは、マライ半島南部の町。これは日本に初めてキリスト教を一五四九年に伝えたフランシスコ・ザビエルがインドから書いた手紙の一部。ザビエルがどのような気持ちではるかヨーロッパから、アフリカを周り、インドなど東洋にまでキリスト教を伝えようとしたかがうかがえる。使徒言行録におけるパウロのように、ザビエルは自分を遣わしたのは神であるとの確信を持っていたのが分かる。そしてそのゆえにインドから、三千キロ近くも離れた遠い地(マラッカ)へと、どんな危険が伴おうとも、その神の言に従おうと決心している。神への愛のために前進し、神にすべてを委ね信頼して進んでいくキリストの使徒としての姿が浮かび上がってくる。