(189)苦難のとき
私はいっさいの人間的なものを見る冷静な目を、だが、その人間的なところから人間を高めるものを見る目をも、失わないでいたい。…しかし、いずれにせよ、私は恐れを和らげてくれる最後の力を知っている。
大きな彫像のように、聖書(詩編)の言葉が心に浮かんでくる。今、それがかつて思いもよらなかったほどに意義深いものとなって現れてくる。
「陰府(*)に身を横たえようとも、
見よ、あなたはそこにいます」(旧約聖書 詩編・一三九・8)
心静めている厳粛な時に、私は周囲の友にこの言葉を言い、さらにつぎの別の言葉を添えた。
「しかし、私はつねにあなたと共にある。」(詩編七三・23)
(「ドイツ戦没学生の手紙」108頁 一九五四年 高橋健二訳 新潮社発行)
(*)陰府とは、旧約聖書で、死者が行くとされていた所で、地下にあり、闇にあるとされていた。旧約聖書には後期に書かれたもの以外には、復活するという信仰はまだなかった。
○これは、第二次世界大戦において、ドイツとソ連との戦争のときにドイツ兵として戦場に向かい、捕虜となって衰弱していくなかで妻に宛てて書いた手紙である。この一年後に死亡。戦後になって帰還兵によって妻のもとに届けられた。
この兵士は従軍した医者であった。自分の最期が近づいてくる深い闇と絶望的な状況にあっても、どっしりとした彫像のように浮かび上がってくるもの、それが聖書の言葉であった。ほかの一切がもはや頼りにならないとき、そのような時にいっそう眼前に揺れ動くことなきものとして見えてくるのが神の言葉なのである。
死においても、どのような状況に置かれようとも、神は私たちと共にいて下さるという確信がそこから再び強められる。