(209)祈りは力である。また、祈りは働くことである。私たちは生きて働く神に向かい、行動へと送り出される。…祈りは、ことばを最高に用いることである。(フォーサイス著 「祈りの精神」26頁 )
○祈りは、神からの力を与えられ、その力によって働くことへとうながされる。神はむだには力を与えられないからである。そしてそれが小さな行動であっても、そのことを通じて新たな力を与えられる。 人間の言葉の最もよき使い方は、祈りだと言われている。神に向かう言葉、人への愛のこもった祈りこそは、言葉が最高に用いられていると言える。
(180)(キリスト者の)最悪の罪は祈らないことである。キリスト者のなかにも、だれの目にも明らかな罪、言動が一致していない状態を見ることはまことに意外なことであるが、これは祈らない結果であって、祈らないことへの罰である。…
祈りは食物と同様に、新鮮な力と健康の感覚をもたらす。人は飢え渇きを覚えて祈りへと駆り立てられ、祈りによって、戦いのために新たにされ、力が与えられる。精神もからだも常に活ける神を求め叫び続けている。(フォーサイス著(*)「祈りの精神」13、15頁より)
○キリスト者は神を知った者、そしてその神はいっさいのよいことを持っておられるお方。とすればその神に祈り、求めることはごく自然で当然のことになる。
自分のうちなる汚れや罪を清める力もまた神が持っておられるし、神もそのことを願っておられるのだとしたら、その神に求めようともせず、自然のままの悪に心をゆだねていることはたしかに、キリスト者がなおも犯していく罪、悪の源だと言えよう。そこから不和や愛の欠如、正しい感覚がなくなること、この世の快楽や娯楽に負けることにもつながっていくといえよう。
祈りによって私たちはたしかに心が清められ、それによってからだも力づけられることをしばしば経験する。祈りがなければ心もよどんだままであり、人間的なものに惹かれやすくなる。
人間とは心身ともにその深いところで神に向かい、神からの力を受けようとしている存在と言える。
(*)一八四八年イギリス生まれ。牧師、神学者。ここに引用した書は、一九一六年にイギリスで発行され、一九三三年に日本でも翻訳が出版されている。彼の記念碑には、彼の十字架信仰を記念して、「十字架によって光へ」(Per
Crucem Ad Lucem)と記されているという。