リストボタン(403)真理と間違い
真理と間違いが同一の源泉から出ていることは不思議であるが、確かである。
それゆえ、間違いをひどく取り扱うことは往々つつしむべきである。それは同時に真理を傷つけるからである。
(ゲーテ全集第16巻534頁 全国書房版)
・これは意外な言葉である。真理と間違い(誤謬)はまったく異なると私たちは思うからである。
しかし、他方では、人間はすべて間違いだらけ、罪に満ちた存在である。もし間違い、罪を厳しく罰して排除していくなら、私たち自身もみなその誤りゆえに排除されていく。
人間の本質的な弱さ、それは真理に達するにもその間違いを犯し、経験して痛みや苦しみをとおらなければ達することができないのである。
キリストも毒麦のたとえで、似たようなことを言われている。

…人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は、それは敵の仕業だと言った。
僕たちが、行って抜き集めておきましょうか、と言うと、主人は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。
収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてれ、と言いつけよう』」。 (マタイ13の24~30より)
主イエスは間違いや罪はもちろんそれを指摘され、ときには厳しい態度で臨まれる。
けれども、常に立ち返るものには赦しを与えてくださる。
そうすることによって、間違いから真理を芽生えさせようとしてくださっている。


リストボタン(342)独創性
…独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう! われわれが、生まれ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。
いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲のほかにあるだろうか! 私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙(こうむ)っているものの名をひとつひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい。(「エッカーマンとの対話」岩波文庫より。ゲーテの言葉(*))

(*)ゲーテ(1749~1832年)は、ドイツの代表的詩人、作家として有名であるが、自然科学の研究も手がけ、政治家、法律家でもあった。

・ゲーテは天才として知られているが、その彼であっても、その思想やさまざまの作品の内容は、先人の大きな恩恵によっているのだという。より聖書的に言えば、私たちが何かよき働きや考えを持ったり、それを著した本や研究をだしたとしても、それは彼自身が生み出したものでなく、過去の無数の人たちの持っていたものを取り入れたゆえなのである。
さらにそのことをさかのぼると、そうしたよきものを与えたのは人間でなく、神であり、キリストであるというところに達する。歴史上のあらゆるよき大きな働きはみなその源をたどるとキリストに、神に到達する。私たちの独創性を生み出す源は神であり、主イエスが聖霊がすべてを教えるといった言葉が思いだされてくる。
他人の物真似でなく、真にその人独自の歩みをしようと欲するならば、神とキリストに結びつくことが不可欠となる。
神と結びついた自然の姿―野草や樹木、花々の姿、色彩、そして山河や空のさまざまの姿―それはいかに独創的であることだろう!

リストボタン(343)より高き力
私はより高い力が私を守ってくださらなければ、どの人間の胸にもいかに恐るべき考えが生まれ育つかもしれないということをはっきりと知っています。
(「美しき魂の告白」の最後の部分―「ウィルヘルムマイスターの修業時代 第6巻」筑摩書房版 世界文学体系「ゲーテ」 223頁)

Ich so deutlich erkannt habe,welche Ungeheuer in jedem menschlichen Busen,wenn eine höhere Kraft uns nicht bewahrt,sich erzeugen und nähren können.

・この文を含む「ウィルヘルムマイスターの修業時代・遍歴時代」という作品は、日本語訳では、三段組みの小さな文字で大型本 六百頁に及ぶ大作であり、そのなかにさまざまの英知に富む言葉が含まれている。
ここにあげた人間の本質的な弱さを知っているゆえに、「自分の力、能力などを誇るという気持には決してならない」―と述べている。これは、人間の罪そのものを深く知った人の言葉である。
私たちもみな、「より高き力」を待ち望む。それがなければ人間は救われない存在であるから。 使徒パウロが、「あなた方は、以前は自分の罪のために死んでいたのだ」(エペソ書2の1)と述べているのもこうした人間の本質を知っていたからである。

リストボタン(215)(神の)摂理は倒れた者を起こし、くずおれた者を立ち上がらせるために、千もの手段を持っている。ともすれば我々の運命は冬の果樹のようにも見える。その憐れな様子を見るとき、このこわばった大きい枝やぎざぎざした小枝が次の春にはふたたび芽を出し、花咲き、それから実をつけることができようと、だれに考えられるだろう。しかし、我々はそれを期待している。我々はそれを知っているのである。(「ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代」第一巻12章より ゲーテ著 筑摩書房 世界文学体系 411頁)
例えば、ギリシャ哲学のプラトンの書物に記された真理
憲法第九条の精神は変えることはできない    2007/5

憲法を変えようという人たちが増えている。しかし、その多くは、古いものは変えたらいい、といった単純な発想である。これは例えば、家でも、車や衣服など生活用品でも、古くなったら変えるのは当然だといったごく普通の常識的な思いと共通している。
このような考えが成り立たないのは、文学や哲学、宗教、音楽あるいは美術などの分野である。例えば、ギリシャ哲学のプラトンの書物に記された真理、ダンテやゲーテ、シェークスピア、トルストイなどの文学にこめられた内容、バッハやモーツァルトなどの芸術が持っている真理は古くなったから変えよう、などという人はいない。真理であればこそ、時代やその状況にかかわらず永遠的な内容を持っているのである。


・これは第一巻の最後の言葉であり、著者がこの言葉に特別な重要性を与えているのがうかがえる。人間は突然、事故や災害、病気に会い、または人間関係が壊れたりして、もう将来は絶望的だ、幸いは永久に去ってしまったと思われるような事態に直面することがある。
しかし、冬の枯れたように見える樹木はまた芽を出し、花咲き、実をつけることができる。
人間の世界も同様で、いかに人間の考えでは苦しく悲惨なように見えても、万能の神は我々の到底想像もつかないような手段を持っておられ、私たちを導かれる。 それを、あるかどうか分からないが単に信じるというのでなく、「知っている」という。知っているからこそ、確固とした希望がある。そのような希望こそ、聖書に言われている、いつまでも続く希望、決して壊れることのない希望なのである。

ゲーテは、学びについてこう言った。

「人はただ自分の愛する者からだけ学ぶ。」

この言葉には、共感を持ちつつも、疑問を感じる人が多いだろう。例えば車の運転技術を自動車学校で学んだが、その際に教えた人を愛しているなどは全くなかったというのが大多数であろう。また、たいていの人は、数学、国語、英語等々の教科で別に教師を愛していなかったが、それなりに学んできたという人は多いからである。
しかし、教師が差別することなく、できないものにもエネルギーを注ぎ、一人一人を大切にするような人であれば、当然生徒もその教師を愛するようになり、一層その習得はすみやかになることは確実である。
そうした知識とか技術とかでなく、人間の本質にかかわること、真理とは何か、永遠に変わらないものとは、心の真実さ、何が価値あるものか等、目には見えない真理にかかわることについては、愛し敬っている者からでなければ学ぶことはないだろう。相手が愛のない人であれば、他の点では能力のある人であっても、彼から愛を学んだりすることはないからである。
それゆえ愛と敬意を持つことができる人を持たない場合、真理にかかわることを十分に学ぶことができないことになる。たしかに、家庭や学校で愛を受けなかったために、愛する人を全く持たない子供は、真実や正しさにかかわることを学ぶことができないゆえにいじけていく。
また、老齢化して家族も周囲にいなくなり、愛する対象がいなくなるという状況が、多くの老齢化とともにやってくる。愛を働かせる相手を持たなくなったとき、人は学ぶこともなくなってしまい、魂は前進をやめて枯れていく。愛と学びの心は不可分に結びついているからである。
そうした家庭や学校、あるいは働きの場、さらには老齢化での恵まれない状況にある人たちが昔から無数にいるからこそ、 神はどのような場にあっても、愛を受けることができるようにして下さったのである。そのためにはただ、愛と創造の神を信じさえすればよい。私たちが幼な子のような心、真っ直ぐな目をもってその神を仰ぐときには、神はその愛を私たちに注いで下さるようになる。
もし人がそのような神の愛を実感するなら、周囲のさまざまの人間や自然、出来事はその愛する神が深い目的をもって創造され、今も背後にて動かしておられると信じるのであるから、それらすべてが学びとなってくる。ある人間がよくない人であっても、その背後に愛する神がおられると思うときには、その人間に対する忍耐を学びとることができる。敵対してくる人からでも学ぶことができるようになる。
本当の魂の学びは、小中高校、大学や家庭、あるいは職場などがあるからでも能力があるからでもなく、神の愛を受けるところでなされる。
それゆえに、主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」、そしてその愛を受けて、「人を愛すること」と言われたのであった。


リストボタン(252)涙をもって食物をとったことのない者、
苦しみ多い夜を
ベッドにて涙を流しつつ過ごしたことのない者、
そのような人は、天の力を知らない。
(「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」ゲーテ著(*) 第二巻13章より。筑摩書房刊 世界文学体系 72頁)

Wer nie sein Brot mit Tranen as,
Wer nie die kummervollen Nachte
Auf seinem Bette weinend sas,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Machte.

(*)ゲーテ(一七四九年~一八三二年)はドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家。このような多方面に多くの業績を残した。ゲーテは特に語学に長けており少年時代には、すでに英仏伊の国語を習得し、さらに、古典や聖書の研究に不可欠なラテン語・ギリシア語・ヘブライ語をも習得していた。詩作も幼少時からで、最初のものは彼が八歳ものだという。
リストボタン(253)もし、ある人が「偶然」を、何等の原因とも結びつかない、でたらめな運動から生じた出来事、と定義するなら、私はこのような偶然は決して存在しないことを確言する。
すべてを秩序の中に保っている神のもとにあって、でたらめが存在するどんな余地があり得ようか。
(「哲学の慰め」ボエティウス著 第五部の一、 一九五〇年版、二〇三頁)ボエティウスは、四八〇年~五二四年頃の人で、古代ローマの哲学者、政治家。右の書は、獄中にあったときに書いたもの。キリスト教の三位一体論やキリスト論についての神学的著作もある。
・万物を御支配なさっている神を信じるとき、偶然というのはなくなる。偶然というのは、どうしてそうなったのかその理由が分からないことである。
しかし、万能であり、すべてを愛によって導かれる神を信じるときには、偶然ということは、あり得ないものになる。