この言葉には、共感を持ちつつも、疑問を感じる人が多いだろう。例えば車の運転技術を自動車学校で学んだが、その際に教えた人を愛しているなどは全くなかったというのが大多数であろう。また、たいていの人は、数学、国語、英語等々の教科で別に教師を愛していなかったが、それなりに学んできたという人は多いからである。
しかし、教師が差別することなく、できないものにもエネルギーを注ぎ、一人一人を大切にするような人であれば、当然生徒もその教師を愛するようになり、一層その習得はすみやかになることは確実である。
そうした知識とか技術とかでなく、人間の本質にかかわること、真理とは何か、永遠に変わらないものとは、心の真実さ、何が価値あるものか等、目には見えない真理にかかわることについては、愛し敬っている者からでなければ学ぶことはないだろう。相手が愛のない人であれば、他の点では能力のある人であっても、彼から愛を学んだりすることはないからである。
それゆえ愛と敬意を持つことができる人を持たない場合、真理にかかわることを十分に学ぶことができないことになる。たしかに、家庭や学校で愛を受けなかったために、愛する人を全く持たない子供は、真実や正しさにかかわることを学ぶことができないゆえにいじけていく。
また、老齢化して家族も周囲にいなくなり、愛する対象がいなくなるという状況が、多くの老齢化とともにやってくる。愛を働かせる相手を持たなくなったとき、人は学ぶこともなくなってしまい、魂は前進をやめて枯れていく。愛と学びの心は不可分に結びついているからである。
そうした家庭や学校、あるいは働きの場、さらには老齢化での恵まれない状況にある人たちが昔から無数にいるからこそ、 神はどのような場にあっても、愛を受けることができるようにして下さったのである。そのためにはただ、愛と創造の神を信じさえすればよい。私たちが幼な子のような心、真っ直ぐな目をもってその神を仰ぐときには、神はその愛を私たちに注いで下さるようになる。
もし人がそのような神の愛を実感するなら、周囲のさまざまの人間や自然、出来事はその愛する神が深い目的をもって創造され、今も背後にて動かしておられると信じるのであるから、それらすべてが学びとなってくる。ある人間がよくない人であっても、その背後に愛する神がおられると思うときには、その人間に対する忍耐を学びとることができる。敵対してくる人からでも学ぶことができるようになる。
本当の魂の学びは、小中高校、大学や家庭、あるいは職場などがあるからでも能力があるからでもなく、神の愛を受けるところでなされる。
それゆえに、主イエスは、最も重要なことは、「神を愛すること」、そしてその愛を受けて、「人を愛すること」と言われたのであった。 (252)涙をもって食物をとったことのない者、
苦しみ多い夜を
ベッドにて涙を流しつつ過ごしたことのない者、
そのような人は、天の力を知らない。
(「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」ゲーテ著(*) 第二巻13章より。筑摩書房刊 世界文学体系 72頁)
Wer nie sein Brot mit Tranen as,
Wer nie die kummervollen Nachte
Auf seinem Bette weinend sas,
Der kennt euch nicht, ihr himmlischen Machte.
(*)ゲーテ(一七四九年~一八三二年)はドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家。このような多方面に多くの業績を残した。ゲーテは特に語学に長けており少年時代には、すでに英仏伊の国語を習得し、さらに、古典や聖書の研究に不可欠なラテン語・ギリシア語・ヘブライ語をも習得していた。詩作も幼少時からで、最初のものは彼が八歳ものだという。
(253)もし、ある人が「偶然」を、何等の原因とも結びつかない、でたらめな運動から生じた出来事、と定義するなら、私はこのような偶然は決して存在しないことを確言する。
すべてを秩序の中に保っている神のもとにあって、でたらめが存在するどんな余地があり得ようか。
(「哲学の慰め」ボエティウス著 第五部の一、 一九五〇年版、二〇三頁)ボエティウスは、四八〇年~五二四年頃の人で、古代ローマの哲学者、政治家。右の書は、獄中にあったときに書いたもの。キリスト教の三位一体論やキリスト論についての神学的著作もある。
・万物を御支配なさっている神を信じるとき、偶然というのはなくなる。偶然というのは、どうしてそうなったのかその理由が分からないことである。
しかし、万能であり、すべてを愛によって導かれる神を信じるときには、偶然ということは、あり得ないものになる。